Pokemon Story/Chapter 1/Subchapter 2: Nintendo

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2  任天堂

花札からの出発

田尻智がゲームソフトの企画を持ち込んだ任天堂の本社は、京都市高松町にあります。京都駅からタクシーで10分ほど。表通りから折れ、いくつか角を曲がると、控えめな造りの門がそっと開いています。門の内側には制服姿の守衛さんが立っています。守衛さんの背後には社屋が見えますが、とても控えめな建物で地味と言ってもいいほどです。ここが考古学研究所ですと教えられたらそう見えるでしょうし、これは外交資料館ですといわれても「なるほど」とうなずいてしまいそうな建物です。それが、1983年のファミリーコンピュータ、通称ファミコンの発売以来、家庭用及び携帯用ゲーム機で世界を制覇し、平成12年(2000年)三月期連結決算に売上高5307億円、経常利益1083億円、純利益560億円を計上した任天堂本社のたたずまいです。
守衛さんの会釈を受けて敷地内に入り、静かな前庭を社屋の車寄せまで歩いてみます。しかしそれでも、ポケモン・ビジネスの華やかな賑わいは聞こえません。ポケモ

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任天堂株式会社
左写真の旧本社ビルは京都市の私鉄・京阪電車鳥羽街道駅に隣接して建っています。2000年11月27日には車で5分ほど離れた上島羽口に新社屋へ移転。工場は宇治に3っあり、後述するポケモンカードゲー厶も生産しています。従業員は1134名(2000年4月3日現在)
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第1章  誕生

ンだけではありません。任天堂はこれまで、ゲームソフトなら『ドンキーコング』や『マリオブラザーズ』シリーズ、ハードならファミコンやゲームボーイで、数々の劇的な成功を収めてきました。
しかし、肩て風を切るという類のものがどこにもありません。拍子抜けするほどです。なぜ、世界中の子どもたちを熱狂させるゲーム機とゲームソフトを、この静かなたたずまいの会社が、次から次へと生み出すことができるのでしょうか。任天堂は、明治22年(1889年)に、工芸家山内房治郎が創業した会社です。創業時の社名は、任天堂骨牌でした。
骨牌は、辞書を引くと、①カルタ、②獣骨で作ったマージャン牌とありますが、任天堂の骨牌は①のカルタで、カードゲーム用カード、カルタのことです。しかしそのカードは、房治郎がトランプともカードとも呼ばなかったことからもわかるように、江戸時代前期にポルトガル人やオランダ人が日本にもたらした西洋式カードゲーム用カードのことではありません。平安時代の宮中に始まった典雅な遊び「貝合わせ」の流れを汲む花合わせのカードのことでした。
そう、花札です。花札は花ガルタとも呼ばれ、天正時代に始まった遊びとされています。房治郎は、独自の工夫とこだわりでこの花札を作りました。紙は、原料のミツ

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任天堂の花札
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マタに粘土を加えて漉いた高級和紙です。これを何枚も重ねて圧着してあるので重量感があり丈夫でした。花札の札を札に叩きつけたときのあの小気味よい音色は、房治郎の花札から始まったのです。絵柄の彩色には草木染めと同じ染料とステンシルの技法を使用したので、浮世絵のような風合いもありました。房治郎の花札は、彼の工芸家としての、また職人としての品質へのこだわりの結晶でした。房治郎はこうして作った自分の花札に、大統領のイラストをシンボルマークとして付けました。
当時の日本人は開国以来なぜかアメリカ合衆国大統領が大好きで、しかも、世界でもっとも偉い地位が大統領だと思っていたふしがあります。そのイメージを定着させたのは、明治12年に来日した第18代大統領グラント将軍でした。グラント将軍は、南北戦争の北軍総司令官を務めた英雄ですが、日本でも国民的スタ—になりました。その大気は、ヘボン式ローマ字のヘボン宣教師や、札幌農学校のクラーク博士、岡倉天心の師だったフェノロサらを抑え、明治期を通じてもっとも有名だったアメリカ大といっていいでしょう。
その大統領をシンボルマークに持ってきたのは、大気にあやかろうともしたのでしようが、自分の花札は最高級品であるという、房治郎の心意気の現れでした。大統領マークの効果もあってか、房治郎の花札は次第に信頼と大気を獲得していき

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任天堂のかるた
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第1章  誕生

ました。家庭の居間からプロの博奕打ちの鉄火場まで、花札といえば任天堂、任天堂といえば大統領印の花札と言われるようになるまでにそれほどの時間はかかりませんでした。さらに、明治末期の40年(1907年)には、西洋式のカード「トランプ」の製造販売にも手を広げています。トランプの本格的普及を見込んでのことでした。そんな任天堂にとって、大きな転機となったのは、同じ明治末期に実現した日本専売公社との提携でした。この提携で、房治郎は全国津々浦々まで浸透した流通経路と小売店網を手に入れました。任天堂の花札やトランプが、日本全国のタバコ屋で売られるようになったのです。
流通をおさえるというのは、きわめて近代的な経営手法です。房治郎は別に強力な営業部隊も育てていましたが、当時の日本最大の流通網に乗つたメリットは計り知れません。流通網と営業力を両輪として、任天堂は明治から大正期を通じて成長を続け、時代が昭和を迎える頃には日本最大のカードメーカーになっていました。

エンタテインメント企業へ

しかし、任天堂が桁違いの飛躍的な成長を遂げるのは戦後です。昭和24年(1949年)、創業者房治郎のひ孫の山内溥が任天堂三代目社長に就任しました。溥は当時

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「始末」という言葉
任天堂がある京都という歴史を持つ町は、東京の人間には解りづらい常識が幾つかあります。そのもっとも顕著なものが「始末の論理」かもしれません。
「始末する」には「よけいな仕事を作らない」という意味合いがあり、最大級の美徳です。ある意味「新しい仕事を開拓する」ということよりも評価が高いように思えます。ゆえに「始末の良い女房」という表現はこれ以上ない女房への褒め言葉?このあたりの細かいニュアンスは京都人しか解らないかも。
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まだ早稲田大学法学部の学生でしたが、房治郎の娘婿で二代目だった父、積良の遺言に従い、大学を中退して京都に帰りました。溥は昭和2年(1927年)生まれですから、まだ22歳の若さでした。溥はこのときから半世紀のながきに渡って任天堂の舵をとり、任天堂を世界有数の優良企業に育て上げることになります。社長に就任した山内溥は、いくつかの失敗の後、「任天堂は娯楽゠エンタティンメントに徹する」という社是を掲げました。商品開発にあたっては形式にこだわらず、娯楽性の高さという一点を最優先しました。時代が大きく変わる中で、品質の高さという伝統を守りつつ、常に時代をリードする商品開発を目指そうとしたのです。ただし、新商品の開発には時間がかかります。昭和26年 (1951年) に社名を任天堂カルタに変えた山内は、まずトランプの一層の普及と販売増を目指して、28年 (1953年)、日本で初めてプラスチックコーティングのトランプの製造を開始しました。さらに34年 (1959年) には、ウォルト・ディズニーとライセンス契約を結んで、ディズニー・キャラクターのトランプを作り始めました。任天堂が発売したミッキーマウスなどディズニー・キャラクターのトランプは大ヒツトし、トランプで遊ぶ日本人の年齢層を大きく広げました。老若男女を問わず日本の家庭の身近な娯楽の一つとして本当にトランプが定着したのは、この任天堂のディズニー・トランプがきっかけでした。任天堂はこの成功で、次のステップを目指すた

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山内溥さん
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代表取締役社長。1927年11月7日生まれ。1949年12月任天堂株式会社入社。同年12月より現職。日本が世界に誇る20世紀のゲー厶ビジネス界で最も影響力のある経営者。21世紀には後継者へ譲ることを明言し、2000年6月には大胆な役員人事をおこないました。しかし、任天堂の文化とも言うべき独特な経営観は、山内溥そのものとも言われており、外国人株主比率も高いことから、
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第1章  誕生

めの余力を蓄えることができました。
いま、任天堂のゲーム機から生まれたポケモン・キャラクターが、ディズニー・キャラクターを上回る影響力を持つようになったことを思うと、時代のうつろいを感じます。山内が、キャラクターの影響力というものに気づいたのもこのときですが、しかしもちろん、ただディズニー・キャラクタ—のカだけでヒット商品になったわけではありません。タバコ屋さんの販売網に加え、任天堂は新しい流通ルートの構築にも乗り出し、デパートや大手玩具店といった、当時台頭しつつあった大規模小売店にも積極的な営業を進めて成功を呼び込んだのです。
ディズニー・トランプの成功で体力をつけた後、山内は社名から「カルタ」という言葉を取り除いて、現在の社名である任天堂としました。さらに現代的な資金調達の手段を取り入れ、大阪と京都の証券取引所二部への上場も果たします。任天堂は、戦後の一流企業へのステツプを登り始めるとともに、京都の老舗玩具メーカーから、現代的なエンタテインメント・カンパニーへと脱皮し始めたのでした。エンタテインメント・カンパニーという山内の定義づけは、商品開発を担当するものにとっては、娯楽を提供する品質の高い商品という枠組みの中に入ってさえいれば、カードに限らずどんな商品でも自由に開発してよろしいというお墨付きでした。山内は、創業以来の伝統を残しながら、商品開発には自由な発想を求めたのです。

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その動向は海外からも注目されています。
任天堂は2000年11月現在、21世紀のエンタテインメント企業を目指し、次にあげるゲー厶事業をすでに発表しました。①2001年3月、ゲー厶ボーイアドバンスの開発・発売。②2001年末、松下電器との共同開発ゲー厶機「ニンテンドーゲー厶キューブ」の開発・発売。③ポケモンセンターの海外展開開始。世界拠点として11ヶ所をリストアップ。
いずれの企画もポケモンが核となることは間違いなく、会社の浮沈はポケモンにかかっていると言っても過言ではないでしょう。
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そのために新たに設置したのが、新商品の研究開発を担当するゲーム部でした。ゲーム部を本社のある高松町から離して自社倉庫があった宇治に置いたのも、担当者の自由な発想を重んじたからでした。
「なんかどえらいもん、作ってみなはれ」
ゲーム部で何を作ればいいのかと聞かれたとき、山内はこう答えました。自由に発想してエンターテインメント・カンパニーにふさわしいゲームの開発にあたらせる。これが山内の狙いでした。
ゲーム部初代部長は、総務部長兼任の今西紘史でした。今西は同志社大学法学部から任天堂に入りました。総務、経理、企画と所属部はさまざまに変わりましたが、常に山内のかたわらにあって、山内の事業計画の大半を推進するという重要な役割を担っていました。今回もまた、任天堂の将来を左右することになるであろう部門を任されたのです。
今西率いる任天堂ゲーム部は、社長直属の研究開発部門として努力を重ねます。そして昭和44年(1969年)、最初の成果である『ウルトラハンド』を発売しました。ウルトラハンドは、伸縮する木製の手の両端に操作するためのハンドルと物をつかむハサミを付けたマジックハンドの一種です。山内が800円の定価を付けて商品化すると、たちまち120万個も売れました。カード類以外でミリオンセラーを記録した、

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取締役広報室長。
1940年8月13日生まれ63年3月任天堂株式会社入社。75年5月総務部長。94年6月より現職。川口企画部長の相談相手として様々な任天堂広報マターをおこなっている。
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今西紘史さん
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第1章  誕生

任天堂最初の商品です。
ウルトラハンドは、新入社員だった横井軍平のアイデアでした。
横井は、少年時代からラジオやラジコンなど、電子機器や精密機械をいじるのが好きな工学少年でありまた発明少年でもありました。大学では電子工学を専攻しました。任天堂入社後、数カ月間は花札製造ラインの機械メンテナンスを任されていましたが、すぐにゲーム部に異動になりました。異動を命じる山内は、横井にやはり「なんかどえらいもん、作ってみなはれ」と言いましたが、その言葉こそ、横井が待ち望んでいた言葉でした。横井のゲーム部への配属は、横井にとっても任天堂にとっても大きな意味を持っていました。
ウルトラハンドを考案した新入社員横井軍平は、ゲーム部の中心的アイデアマンとして、次々にヒツト商品を開発しました。ウルトラハンドに続くウルトラシリーズとして、『ウルトラマシーン』と『ウルトラスコープ』が相次いで開発、発売されました。ウルトラマシーンは室内用の安全なピッチングマシーン、ウルトラスコープは小型の潜望鏡でした。どちらもヒットしましたが、特にウルトラマシーンは発売後の3年間に200万台以上売れました。
休む間もなく横井は、今度はオシロスコープを見て思いついた『ラブテスター』を考案します。これは男の子と女の子がマシーンの電極に片手で触れて、空いている手

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横井軍平さん(故人)
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1941年京都生まれ。田尻さんの生まれた年、65年に同志社大学工学部を卒業し任天堂へ入社。「ウルトラハンド」「ウルトラマシン」「光線銃SP「ゲー厶ボ——イ」「バーチャルボーイ」を開発。天ォヒットメー力ーとの評判が高かった人物です。製造本部開発第一部部長職にあった96年、任天堂を退社。企画開発の研究会社コトを設立し代表取締役に就任しました。「50歳になったら自分の好きなこ
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と手を握り合うと二人の愛情度が表示されるというマシーンでした。仕組みは微弱電流による人体の抵抗値測定機のようなものですが、男の子と女の子が公然と手を握り合えるところがミソでした。まだそんな時代だったのです。微弱電流を利用した任天堂初のエレクトロニクス玩具は大ヒットしました。山内もこれに気をよくして、「ラブテスタ—を超えるエレクトロニクス玩具を作れ!」と檄を飛ばしました。横井が考えた次の商品もエレクトロニクス玩具でした。シャープから移ってきた上村雅之という電子技術者との出会いから生まれた光線銃です。
上村はシャープで光学半導体とそれを製品化した太陽電池の開発に携わっていました。横井と上村が知り合ったのは、上村が太陽電池の売り込みに任天堂を訪れたときでした。横井はシャープの太陽電池を見て、たちまち一つアイデアを思いつきました。太陽電池は光を集めて電気に変換しますが、そのとき光を浴びているかいないか判断できる仕組みがあります。横井が注目したのは、この太陽電池の光センサーとしての働きでした。
光センサーを内蔵したタ—ゲツトを光線銃で撃つという遊びはどうだろう。光センサーをスイツチにつないでおけば、いろいろな面白い仕掛けができるのではないか。たとえば、光線銃の光線が当たるとタ—ゲットが砕け散るとか、サファリゲームなら的の動物に吼えさせたり倒れさせたり——。

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とをのんびりしたい」という希望を実現させました。97年不慮の交通事故で他界。
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ウルトラ・ハンド
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第1章  誕生

横井は上村とさまざまな試行錯誤を繰り返した末、1970年、吼えるライオンや 安全に壊れる仕掛けになったビール瓶などのタ—ゲツトつきの光線銃を商品化し、1 セット4000円あまりの値段をつけて発売しました。これがまたまた大ヒットとな り、100万セツト以上売れ、任天堂に莫大な利益をもたらしました。すでに大阪証 券取引所第一部に格上げされていた任天堂の株価も高騰しました。これを見て山内は、 任天堂の開発商品を本格的にエレクトロニクス玩具にシフトしようと決意しました。 しかし、ヒットメーカーの横井も挫折は経験しています。光線銃の次に手がけたレ ーザークレー射撃場です。
これは光線銃のシステムを応用したもので、タ—ゲツトのクレーピジョンを光線ラ イフル銃で撃つ遊びです。事業展開しやすい状況もあり、山内もすぐにゴーサインを 出しました。射撃場にはゲームセンタ—などより規模の大きな建物が必要でしたが、 ちょうどボーリング場が急速に衰退しつつあったので、全国のボーリング場を安い値 段で確保できたのです。
しかし、結果は無残なものに終わりました。ちょうどこの年は、日本が第一次石油 ショックに襲われた年でした。レーザークレー射撃場は、ボーリング場と同じように、 あっという間に大影もまばらな施設になってしまいました。任天堂はこの新しい遊び のシステムに多額の投資をしていましたから、大きな損失を受けました。もし、光線

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ラブテスター
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光線銃
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銃の成功がないままレーザークレー射撃場を始めていたら、任天堂はこのとき倒産していたかもしれないと指摘する人がいるほどです。
しかし逆に、任天堂の今日の成功は、このときの失敗があったからだとも言えるかもしれません。というのは、この失敗を機に、山内はアメリカからビデオゲームシステムを導入することを決断したからです。
山内は、レーザークレー射撃場の失敗という苦境から脱するため、開発チームを督励する一方、自身もさまざまな方向性を模索しました。そのとき山内がもっとも興味を引かれたのが、最新のエレクトロニクス技術でした。
アメリカでは、娯楽製品にエレクトロ二クスの最先端技術が惜しみなく使われていました。それがアタリやマグナボツクスといった会社が手がけていた家庭用ゲーム機です。アメリカでは日本より10年以上も早く、アーケードゲームから家庭用ゲームへのシフトが始まっていたのです。
アメリカでは1972年に、早くも家庭用ゲーム機が発売されていました。マグナボックス社製の『オデツセー』です。家庭にあるカラーテレビに接続してプレイするシステムで、現在のゲーム機とは異なり、あらかじめ一つのゲームのプログラムがセットされたゲーム機です。
ォデツセーにセットされていたのは、日本でテニスゲームと呼ばれたゲームでした。

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任天堂という会社
「はっきり言って奥が深い会社」ーー任天堂を一言で表現するとこの言葉がぴったリでしょう。
久保は、足掛け15年ほど雑誌編集者として任天堂と様々な仕事をおこなってきました。仕事は難易度の高い厳しいものばかりでしたが、以外にも今日まで大きなストレスを感じずに来ています。理由は明快です。「山内社長がOKすれば、企画は前に進む」という基本的なコンセンサスが社内でしっかり確立されているからです。もう少しわかりやすくお話ししましょう。任天堂は山内社長のワンマン経営が有名です。それ故大きな企画は必ず社長の決裁が必要となります。そうすると企画立案者は社内
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第1章  誕生

画面上を行き来する光のボールを、ラケットに見立てた長方形のパドルで打ち合うゲ—ムです。オデッセーではこれに工夫が加えられて、テレビのモニターに専用のフィルタ—をかけると、光のボールの見え方を変えられるようになっていました。ですからオデツセー1台で、テニスやサッカーやフツトボールのゲームを楽しめました。ォデツセーは発売後1年間で10万台が売れ、各社が家庭用ゲーム機に参入するきっかけになりました。
ォデツセーに続いて、1974年にはアタリ社から『ポン』というゲーム機も出ました。これもオデツセーと同じようなテニスゲームでしたが、実はこのテニスゲームは、もともとはアタリ社の業務用ビデオゲーム『ポン』だったものです。それをいち早く家庭用ゲーム機に移植したのがマグナボツクスで、本家のアタリが出遅れたというわけです。ポンもヒットしました。
ただ、アタリのゲームをマグナボツクスが堂々と商品化したことからもわかるように、まだゲームソフトの著作権は十分保護されていない時代でした。マグナボックスのオデツセーにしても、アタリとの間には提携関係もライセンス関係もありません。ですからアタリがポンを市場に投入したとき、すでに『ポン』タイプのゲームを移植した類似品がたくさん出回っていました。フォーチュン誌の調査によれば、実際に販売された『ポン』タイプの家庭用ゲーム機のうち、アタリ社製のものは1割ほどしか

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であろうと社外であろうと山内社長のレスポンスを絶えず想像しながら仕事をする必要が出てきます。任天堂に出入りする人たちの中には、過去の社長の反応デ——タなどから傾向と対策を練り様々な策を弄する方もいますが、こういう方ほど策に溺れ外すことが多いように見受けます。そして彼らは予想を外した後必ず言うのです。
「う一ん、奥が深い!」
僕の言う「奥が深い一」はこのような意味ではありません。山内社長は冒頭の「ゲ——厶スタ——卜」の説明にあったように囲碁の最上段者です。囲碁は最高の戦略ゲ——厶です•その達人には小細工は通用しません。顔は見えていなくても、心は見透かされているような気がしてなりません。
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なかったのです。各社がライセンス管理を厳しくするのはこの頃からのことです。ところで、『ポン』というゲームは、今でこそもう珍しくもないテニスゲームですが、アメリカの一大ビデオゲーム・ブームの幕を開けた草分けのゲームとも立役者のゲームともいえる、単純にして偉大なゲームでした。
発明したのは、ノーラン・ブッシュネルという若者です。ブッシュネルは27歳のとき、世界初の商業的ビデオゲーム機『コンピュータ・スペース』を開発し、商品化しました。その功績から、ビデオゲームの父と呼ばれています。しかし、歴史的なゲーム機『コンピュータ・スペース』は、その操作の難しさからまったく売れませんでした。その反省から、ブッシュネルは今度はほとんど説明不要のゲームを作ります。それが『ポン』でした。
とはいっても、『コンピュータ・スペース』の失敗があったため、業務用ゲーム機メーカーはどこも二の足を踏みました。業を煮やしたブッシュネルは、自ら業務用ビデオゲーム機の製造販売に乗り出し、友人の1人と250ドルずつ出し合い500ドルで会社を始めます。それがアタリです。ブッシュネルは囲碁が大好きだったので、囲碁用語の「アタリ」という言葉をそのまま社名に使いました。彼は他にセンテ社という会社も作っていますが、これも囲碁でいう「先手」から取った名前です。ブッシュネルの思惑通り、業務用ビデオゲーム機に組み込んだアタリの『ポン』は

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結局僕は当たって砕けろ的な正攻法で提案することを心がけました。担当者へは、なるべく正直に企画のリスクも利益も話し、社長決裁を待つスタイルがベストな方法であると今も信じています。この方法で第三者には無理だと思われていた提案に対し、山内社長より思わぬ良い返事を頂いたことが何度かありました。それこそがぼくにとって「奥が深い!」という意味なのです。もちろん、社長へっないでいただいた社員の方々の努力があってこその「社長OK」です。彼らへの感謝はまた別の機会に述べさせてもらいます。
また「リスクを含めて正直に話す」以外にも企画提案する際、気をつけている点があります。それを列記しましよ
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第1章  誕生

大ヒットしました。ブッシュネルは続いて、1人でできる『ポン』を考えているとき、日本でフロツク崩しとして知られているゲームを思いつきます。ブッシュネルはこれに『ブレイクアウト』と名付けて、アタリの第2作目として発売しました。『ブレイクアウト』は『ポン』を上回る成功を収めました。
ブッシュネルは、シリコンバレーで最初に巨万の富を手にした若者になりました。自家用ジエツト機を2機所有し、気分次第で世界中どこにでも自ら操縦して出かけ、着陸した土地が気に入るとそこに邸宅を買うーー。それが最盛期のブッシュネルの生活でした。飛行機の操縦桿を握っていないときはヨットの舵りんを握っていたとも言われています。アップルの設立者スティーブ・ジョブズもマイクロソフトのビル・ゲイツも、まだ世に出ていない時代です。というより、彼らの目標こそが、ブッシュネルでありアタリでした。実際、アタリ社の草創期には、ジョブズを始め、後にマイクロソフトやエレクトロニック・アーツ、ルーカスフィルム、ルーカスアーツなど、シリコンバレーでアメリカンドリームを実現する主要企業の未来の幹部たちの多くが、ブッシュネルの下で働いていたのです。ジョブズがアップルを設立したのも、アタリで働いている間に、パーソナルコンピュータの巨大な潜在需要に気づいたからでした。ついでながら、ブッシュネルの『ブレイクアウト』の開発には、ジョブズと、ジョブズとともにアップルの創設者でもある天才プログラマーのスティーブ・ウォズニア

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う。この内容は仕事をする上での基本姿勢の問題です。ビジネスのイ口ハなのです。若い方はいろんなビジネスの局面で参考にしてください。
①「バー夕ー交渉は避ける」
これをしてあげるからこれをしてください的な交換交渉は決して良い結果を生みません。お互いのリスクを確認しあうことは大事ですが、お願いと奉仕は別々に考えるほうが正しいと思います。相手の足元を見るようなやり方は、その場はうまく通過できても必ずしつペ返しを受けるはずです。
②「フエアにこだわる」外国人と交渉すると彼らが必ず口にする言葉があります。それが「It's unfair!」
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クが大きく寄与しています。アタリはこの後、アメリカのゲーム業界だけでなくコンピュータ産業界の風雲児となってゆきます。
山内は、レーザークレー射撃場の損失を回復する方法を模索するなかで、このようなアメリカのゲーム界のダイナミックな動きを知ることになりました。その結果、任天堂が今後進むべき道として選んだのが、家庭用ビデオゲーム機だったのです。しかし、すぐに自前で開発するだけのノウハウも技術力もまだありません。そこで山内は、まずマグナボツクス社の家庭用ビデオゲーム・システムを日本に導入することにして、ォデツセーと同じゲーム機を日本で製造販売するライセンスを取得しました。1975年のことでした。マイクロプロセッサーを使った回路開発の技術がなかったため、三菱電機と提携してのプロジェクトでした。

ファミリーコンピュータ

任天堂が初の家庭用ビデオゲーム機『テレビゲーム9』と『テレビゲーム15』を大々的に発表したのは、ライセンス取得から2年後の1977年でした。それぞれ9通りと15通りのバリエーションで楽しめるテニスゲームです。
『テレビゲーム』2機種は、ぐんぐん販売台数を伸ばしました。累計では2機種とも

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です。国も言葉も宗教も違う相手とビジネスする際、この「unfair(アンフェア・不公平の意)」という言葉は唯一の武器になる場合が多いのです。アメリカ人を含む西洋人は、極端にこの言葉を言われるのを嫌います。交渉ごとは国内外を問わずフェアに行うべきでしょう。ただこれは全ての国で通用するわけではありません。国によってはアンフェアと言った瞬間に殺されてしまうことだってあるのです。言い換えるとこの言葉を発することのできる交渉の場は、とてもフェアだと言えるかもしれません。ご注意のほどを!
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第1章  誕生

それぞれ100万台以上売れています。これに勢いを得た任天堂は、レーシングゲームやブロツク崩しなどのより複雑なゲームもアメリカから移入し、さらに50万台もの販売実績を積み上げました。
すでにアメリカからアタリの製品などもいくらか入っていたので、このゲーム機が日本で初めての家庭用ビデオゲーム機というわけではありません。しかし、一般に広く家庭用ビデオゲームを認知させたのは任天堂でした。テレビゲームという言葉もこれをきっかけに浸透しました。
この成功によって、任天堂は、単なるエレクトロニクス玩具のメーカーから、オーディオビジュアル家電メーカーへと大きく飛躍することになりました。娯楽リエンタティンメントに特化した家電メーカーです。そして山内は、『ラブテスター』『光線銃』とたどってきたエレクトロニクス玩具の道の先に、計り知れない大きさの、広大なマーケツト、家庭用ビデオゲーム機のマーケツトが隠れていることに気づきました。家庭用ビデオゲーム機の成功は、レーザークレー射撃場の損失を補ってお釣りがきました。しかし、それがあくまでもアメリカ企業から供与されたライセンスのもとでの成功だったことを、山内は忘れませんでした。
任天堂は、本格的な家庭用ビデオゲームの時代がくる前に、自前のビデオゲーム機を持たなければならない。しかもそれは、他社にはない独創性と先進性を備えていな

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テレビゲー厶9
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テレビゲー厶15
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ければならない一一。それが山内の結論でした。ただ、それが商品となったとき、どのようなものになるのか、それは誰にもわかりませんでした。山内が求めるものが何か、任天堂は全社を挙げて考え始めました。
任天堂の研究開発をリードしてきた横井軍平は、次のような言葉を残しています。「いたずらに超高級な技術を求めるのではなく、安価に大量生産ができるような成熟した技術を利用するというのが任天堂の技術政策だ」(『ゲーム・オーバー』角川書店刊デビッド・シエフ著篠原慎訳から引用)この言葉からもわかるように、山内が求めていたのは、革命的な技術ではなく、革命的なアイデアによる新製品でした。その試行錯誤の過程から生まれたのが、1980年発売の『ゲーム&ウォッチ』でした。これは、当時急速に広まっていた電卓にヒントを得て横井軍平が思いついた、時計とゲームを内蔵する世界最小のコンピュータゲームでした。任天堂はこの『ゲーム&ウォッチ』を日本国内だけでなく世界中へ輸出して莫大な利益を得ました。
任天堂が全社を挙げて前例のない画期的な家庭用ゲーム機を目指していたとき、山内はゲームソフトの重要性にも気づいていました。アメリカではすでにカートリッジ交換式のゲーム機が何種類も開発されていました。それは、面白いゲームのカートリッジを供給しつづける限り、ゲーム機は古臭くならないことを意味しています。

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ゲー厶&ウォッチ
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©Nintendo
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第1章  誕生

任天堂が目指していたゲーム機も、もちろんカートリッジ式のゲーム機でした。ですから、任天堂は、ゲームソフトの開発力も同時に身につけねばならないのです。しかし、ゲームソフトの開発カは、結局のところ天才的なひらめきを持った個人の力に負うところが大きいのでは一一。山内はそう思うようになっていました『ポン』もブッシュネルの発明です。アップルのOSもジョブズのイメージです。もちろん、ソフトの開発には組織的な体制が必要ですが、新しいゲームの着想は、会議を重ねれば生まれてくるというものではないはずです。
『ウルトラハンド』や光線銃を開発した横井軍平のように、ビデオゲームのジャンルで天才的なひらめきを持つ人間が必要なのではないだろうか。しかし、そういう者が、我が任天堂にいるだろうか?
その答えは、1981年に出ました。任天堂にはビデオゲームの天才クリエータ—がいたのです。業務用ビデオゲーム『ドンキーコング』の作者宮本茂です。宮本は金沢市立美術工芸大学卒業後、1977年に任天堂に入り、企画部に配属されていたデザイナーでした。入社の面接のとき、宮本は初め、山内から「絵描きはいらない」と言われましたが、宮本が出してきたおもちやのアイデアが面白かったので入社することになったというエピソードが伝えられています。山内が自社製ゲームの開発者に宮本を起用したのは偶然からでした。

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宮本茂さん
取締役情報開発本部長。
1952年11月16日生まれ。77年4月任天堂株式会社入社。96年2月情報開発部長。2000年6月より現職。「ドンキーコング」「スーパーマリオ」「ゼルダの伝説」などゲー厶史上に残る作品を次々生みだしているゲームクリエイ夕ーです。ポケモンでも貴重なアドバイスと支援をおこなっています。
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あまりぱっとしない業務用ゲーム機のてこ入れをしようと山内が思ったとき、たまたま開発部門のスタッフに手の空いた人間がおらず、そこで思い出したのが宮本だったのです。山内は宮本に、「好きなようにやっていい」と言いました。そして出来上がったのが、『ドンキーコング』でした。
『ドンキーコング』は、それまでの破壊と殲滅をテーマとするゲームとはまったくコンセプトの異なった、愉快で微笑ましいゲームでした。山内はこのゲームが気に入りました。海外では、特にアメリカではそのタイトルが初めは不評でしたが、山内はー切無視して売らせました。そして『ドンキーコング』は、任天堂初の世界的スーパーヒットとなったのです。任天堂は、スタ—社員を作らないという方針の会社ですから、山内が宮本を社外に向かって特に持ち上げて紹介することはありません。しかし、『ドンキーコング』の成功を見た山内が、任天堂のソフト開発力に関して、大きな自信を持ったことは間違いありません。
ソフト開発力に当面の心配がなくなった任天堂は、それまで以上に山内が求める革新的なゲーム機の開発に力を注ぎました。ようやく完成したのは1983年です。それがテレビゲーム機の代名詞となったファミコン『ファミリーコンピュータ』でした。ファミコンには、他社のゲーム機と比較して際立って優れていた点が二つありました。性能と値段です。

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岩田聡さん
取締役経営企画室長。
1959年12月6日生まれ8P年4月株式会社ハル研究所入社。クリーチャーズ取締役などを経験後、2000年6月任天堂株式会社入社。現職に至ります。
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第1章  誕生

当時日本で発売されていた家庭用ゲーム機は、アメリカ製のアタリ2600、コモドア・マックス・マシーン、日本製ではエポックのカセットビジョン、バンダイのインテリビジョン、タカラのゲーム・パーソナルコンピュータM5、トミーのぴゅ一太、数種類のMSX機でした。
これらの機種のほとんどは、オフィス・コンピュータのエンジニアやプログラマーがデザインして、複雑な計算をこなせる高機能をもっていました。ゲーム機として機能するほかに、コンピュータとしての機能も備えていたのです。しかし任天堂は、ゲームに特化したコンピュータを目指していました。ゲームに必要な機能は他社のゲーム機より高く、それ以外の機能は不要だと割り切ったのです。その結果、色彩表現においてもアニメーションの動きにおいても他社のゲーム機を上回るゲーム機が完成しました。オプションで通信機能さえ備えていました。当時、通信機能をすぐに使えるネツトワーク環境があったわけではもちろんありませんし、後に実現するファミコンによる株式売買といった通信機能の具体的な利用イメージにしても、当時は理解できた社員の方が少なかったでしょう。もちろん、通信機能が備わっていなくても、ファミコンが大ヒット商品になったことは間違いありません。けれども通信機能を持ったゲーム機という先進性にこそ、任天堂の力があったのです。

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ファミリー
コンピュータ
通称「ファミコン」。コントローラ—+本体というゲ—厶マシンの基本的構成を確立したマシン。上記の機能のほかにはパッドにはマイクも付属。
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そのファミコンを、任天堂は1万5000円で売り出しました。当時、他社の家庭用ゲーム機の価格は3万円から5万円の間でしたから、半値以下ということになります。ゲーム機としての性能の高さにもかかわらず、この値段です。他社にとっては驚異的かつ脅威的な値段でした。しかもそこに、大ヒットした『ドンキーコング』や宮本茂の新作『マリオブラザーズ』、さらに『ゼビウス』や『テトリス』という強力なソフトをぶつけてきました。買うなという方が無理というほどの商品だったのです。ファミコンの開発は、性能と価格という相反する二つの条件をどう折り合わせるかの闘いでした。性能は他社製品より優れているだけでなく、山内の言葉を借りれば、「真似をするのに一年間はかかるほど他社製品を引き離して」いなければなりませんでした。価格は、はじめは9800円にするよう、山内は言っていました。その値段では、どう考えても両方の条件を満たすゲーム機の開発は実現不可能です。しかし山内は、この二つの条件を満たせば、任天堂のファミコンが日本中の家庭に浸透するのだと言って、技術陣を励ましました。
どこまで確信があって進められたものか、わかりません。しかし、技術者たちは部品を一点ずつ吟味しながら工夫を重ねました。でき上がったファミコンに、山内は合格点を与えました。性能的には十分でしたし、価格も、一万円を切ることは出来ませんでしたが、それでも他社の半額以下に抑えることはできたのです。家庭用ゲーム機

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『マリオブラザーズ』
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©Nintendo
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第1章  誕生

のマーケツトを独占したい、という山内の戦略のための強力な武器ができたのです。1万5000円という価格を実現するために、ファミコンの部品は一点残らず性能と価格が徹底して吟味されていますが、中でも難問だったのは心臓部にあたる専用チップでした。
CPU (中央演算装置) とPPU (画像処理装置)のファミコン専用チップは、もっとも高価な部品です。しかも品質に信頼のおける技術力のあるメーカーの製品でなければなりません。ゲーム機の値段設定から任天堂がはじき出したチップの価格の上限は2000円でした。その価格は、当時のこうしたチップの価格帯の最下限をさらに大きく下回ったものでした。採算が取れないとして、話を持ちかけた大手電機メーカーは、ただ1社を除いて乗り気ではありませんでした。唯一乗り気だったのは、当時半導体事業が不振だったリコーだけでした。リコーは、事業建て直しのために大量注文が欲しかったのです。リコーは任天堂に言いました。「100万個の発注が保証されれば、その値段でも作れるかもしれない」それを聞いた山内は、担当者に言いました。「2年間で300万個を保証してやりなはれ」もちろんリコーは喜んで任天堂の発注を受けました。しかし、任天堂のファミコン担当者でさえも、300万個という数字には度肝を抜かれました。当時のゲーム機の

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CPU
Central Processing Unitの略。コンピュータの中で演算や処理を実行し制御していく中枢となる電子回路。通常その処理能力はクロツク表示 (500MZなど) されます。
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マーケツトは、大手メーカーでも年間数万台程度という規模でした。例外的な大ヒツ卜となった任天堂の「テレビゲーム9「と同「15」でもそれぞれ100万台です。いったいどこから300万台という数字が出てきたのか、誰にもわかりませんでした。たしかに、それまで任天堂の新製品の最良の判定者は山内でした。社員も山内の不思議な予見能力を信じていました。山内が売れるといったものは本当に売れたのです。ただこのときに限っては、任天堂が大量の転用のきかないチツプの在庫を抱えることになるのではないかと、不安に思った社員も少なくありませんでした。しかし、ファミコンの売れ行きはそうした不安を一掃してくれました。ファミコンは、それまで任天堂が経験したことのない勢いで日本中に広まりました。累計販売台数は80年代に1100万台、2000年3月末で1915万台 (いずれも国内のみ) です。人口を台数で割ると、いまでは実に6人に1人がファミコンを所有しているのです。
ファミコンの発売当時、まだ東京高専の学生だった田尻智は、それから4年後の1987年になって、次のように回想しています。
「(任天堂が) 1台50万円の業務用ハードウェアを、たかだか1万5000円のオモチャにまで凝縮した技術は、当時にして並たいていのモノではなかっただろう」。そ

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売れるものを
予見できる人
はやりの歌番組を見ながらこんなことを言う方はあなたの周りにはいませんか?「でしょ! 私がこの曲売れるって言ったら絶対売れるんだってば!私、才能あるのかしら? 天才!?」こんな人、結構いるんじやないでしょうか? でも安心してください。天才はそんなにいるものではありません。では検証してみましょう。彼らの良いと思った曲がいつもヒットするということは、言い換えるとその曲を良いと思った人が非常に沢山いるということに他なりません。っまり彼らの意見が最大公約数 (最も平均的な日本人の意見) に近いことを意味しているのです。「売れる予見が100
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して、「ファミコンは、今現在(87年)当時のままで商品として持続して」いるが、電子デバイスのテクノロジーが日進月歩で進歩しているいま、発売から4年たった今に至るまで、「いつまでも同じハードウエアで通用することは、商品として洗練されている証拠だと思っている」。
ファミコンの登場で、それまで家庭用ゲーム機市場に参入していた十数社は壊滅的な大打撃を受けました。競合他社のすべてが、撤退を余儀なくされたのです。セガとアタリが新機種を投入して抵抗を試みましたが、このマーケツトでのシェア獲得はもうできませんでした。
彼らの敗北は、彼ら自身のせいでした。彼らは、自分たちの目の前にあった巨大なマーケツトに気づかなかったのです。そこには、ファミコンによってベールをはがされた1000万台を超える家庭用ゲーム機の需要がありました。それを誰も掘り起こすことができなかったのです。彼らにできなかったことを、任天堂がやってしまったのです。しかもそのファミコンは、すぐに真似できない高性能ゲーム機です。山内がファミコンの開発者たちに求めた「少なくとも一年間のアドバンテージ」の意味は、ここにありました。後を追うことを彼らにあきらめさせるということです。実際にこのとき、彼らはファミコンと同じ土俵で戦うことを放棄してしまいました。いまさら遅いよ、というわけです。

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%に近いほど当たる人は、最も平均的な感覚の持ち主」ということになります。会社の経営者の場合でも、売れるものを予見するためにはこの感覚は重要です。しかし、予見するための難易度は飛躍的にアップします。経営の予見は、他社との競争など様々な要素が絡むため、多くて数カ月先を予想すればいいヒット曲とは時間レンジが異なります。数年先の最も平均的な日本人になりきることができなければ、一般大衆の動向を言い当ててヒット商品を作れないのです。
車は最低でも3年の開発期間が必要です。ゲ——厶だと8カ月から2年です。これがよくヒットするということは、ある種その才能は、天才の域に近いのかもしれません。
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無理もありません。任天堂は、もう後ろ姿さえ見えないほどはるか先を悠々と走つていました。これはもう家庭用ゲーム機業界を任天堂が制覇したというよりも、任天堂がファミコン・マーケツトという巨大市場を新たに産み出したと言うべきでしょう。それほどまでにファミコンは、それまでの他社製家庭用ゲーム機と比べて、はるかに高いオリジナリティと完成度を備えていたのです。彼らが再び同じ家庭用ゲーム機の分野で任天堂に互角の戦いを挑めたのは、10年後です。次世代ゲーム機と呼ばれる32ビットのCPUが開発されてからでした。土俵が変わるまで待つほかなかったのです。売れたのはファミコン本体だけではありませんでした。ファミコンを買った1000万人のユーザーは、ファミコン用ゲームソフトを渇望しました。その渇きを癒すために、任天堂はほどよい間合いをおいて、次々とゲームソフトを開発し、リリースしてゆきました。その中には、ドンキーコングやマリオのシリーズもあれば、そこから派生した作品もありましたが、どれも作った端から飛ぶように売れました。それは、ハードとソフトの関係を象徴的に示す現象でした。山内の予想したとおりのことが現実に起きたのです。山内はゲームはプレイしません。また、エレクトロ二クスの専門家でもありません。
その山内になぜ、ビデオゲームのマーケツトの核心をつかめたのでしょうかーー。いまも、誰にもわかりません。

第1章  誕生

任天堂方式

任天堂とポケモンとの出会いまであとわずかですが、その出会いの前に、任天堂は ゲームソフトを開発するにあたっての重要なあるルールを確立しています。田尻智に とって80年代が、やがてポケモンの原型『カプセルモンスタ—(仮)』を思いつくた めの準備期間だったように、任天堂にとっても、業界の覇者として頂点を極めたかに 思われた80年代も、ポケモンを迎えてからのことを思うと、次のステージへ移行する ための準備期間にすぎませんでした。
そのきっかけとなったのが、アメリカのビデオ業界の凋落でした。少し横道にそれ るようですが、任天堂にとってもポケモンにとっても重要な意味を持つできごとなの で、ここでご紹介しておきましょう。
日本の家庭がファミコン・ブームに沸いていた頃、ビデオゲームの本家アメリカで は、ビデオゲーム業界は衰退の一途をたどっていました。
原因は、ゲームソフトの粗製濫造でした。
アメリカのビデオゲーム産業の1回目のピークは、1980年代初頭でした。この ときのブームの火付け役は、言うまでもなくアタリ社です。アタリは1977年 そ

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NES
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Nintendo Entertainment Systemの略称とい ってもなんのことかおわかり にはならないでしょう。実は 北米版ファミリーコンピュー タの製品名なのです。実際は 「ネス」という略称で呼びま
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れまでの1台のマシンに一つのゲームというゲーム機の常識を打ち破って、カートリッジ式家庭用ゲーム機アタリ2600、通称アタリVCS (ビデオ・コンピュータ・システム) を発売しました。
アタリVCSは、発売直後から爆発的に売れ、販売台数の累計は2000万台に達したと言われています。ファミコンが登場するまでは、日本でも売られていました。もちろんゲームソフトも大量に売れました。ヒットしたゲームなら100万本を超え、数十万本売れるゲームは珍しくありませんでした。
このブームに乗って、全米で十数誌のビデオゲーム専門誌が創刊され、『ビルボード』誌がゲームソフトのヒットチャートを掲載するようになりました。テレビ、ラジォ、雑誌とあらゆるメディアを使ってゲームソフトが宣伝されました。ゲームのカートリッジはオモチャ屋さんだけでなく、セブンイレブンを初めコンビニエンスストアでも販売されました。当時のアタリVCSでプレーできるゲームソフトのタイトルは1500種にも及んでいました。
アメリカの家庭用ビデオゲームのマーケット規模は、1981年に10億ドル、翌82年には二十数億ドルになったとする統計もあります。アタリは78年にブツシュネルからワーナー・コミュニケーションズに売却されていましたが、ワーナーの82年の利益の60%はアタリ1社が稼ぎ出したものでした。

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した。
北米では上記本文の説明通り、日本とは違いビデオゲー厶熱は冷めきっていました。それゆえファミコンのアメリカ進出のためには、日本とは全く違った戦略が必要となったのです。まず北米版のファミコン本体には、アタリ社の失敗のイメージを払拭するために、製品名にあえてコンピユ——タの文字を無くし、エン夕—ティンメントの名を付加しました。それがNES(ネス)というわけです。また、戦略イメージ商品としては、横井軍平が開発した小型ロボット (ブロックとジヤイロ) を用いました。日本ではファミコンでロボットを動かすというソフトとしてかなり異色な存在でしたが、北米では単なるビデオゲー厶で
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これを見て、それまでゲームとは無縁だった大資本までもが次々とゲームソフト産業に参入し大量のゲームソフトを投入し始めました。が、その多くは、ゲームとしての面白さに欠ける駄作ばかりで、その結果、ゲーム業界の信用は失墜し、あれほど夢中になっていたビデオゲームのファンたちのゲーム熱も、急速に冷めてしまいました。ブームは突如終わりました。1983年のビデオゲーム産業の総売上高は、前年の二十数億ドルから一気に1億ドルにまで縮小したのです。まさに崩壊でした。売れないゲームソフトの在庫を100万本単位で抱えた企業がいくつもあり、倒産する会社が続出しました。オモチャ屋さんの最大手マテルでさえ、電子事業部門を売却してしまいました。ワーナーもアタリを分割して売却し、ゲーム部門はナムコの子会社になりました。誰もがアメリカの家庭用ビデオゲーム産業は終わったと思いました。しかし、任天堂はそうは考えませんでした。アメリカの業務用ビデオゲーム産業は、依然として数十億ドルの売り上げを上げていたからです。では、アメリカの家庭用ビデオゲーム産業が消滅してしまったのはなぜか。任天堂は考えました。そして、野放図に大量生産された駄作ゲームの洪水が業界を飲み込んでしまったためだと分析し、ファミコンが同じ経過をたどらない保証はどこにもないことに気づきました。任天堂は、ファミコンがアタリVCSの二の舞にならないよう、手を打つことにしました。
山内は言っています。

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はない、次世代玩具的要素を謳う格好の材料となりました。このロボットは大ヒットし、NESは日本同様、北米市場に浸透していきました。プレイステーションの発売元・SCEは Sony Computer Entertainment が正式社名です。コンピュータもエンタ—テインメントもある社名というのはちよつと考えすぎでしょうか?
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「ソフトは、本当に面白いものが年に数本あればいい」
任天堂はこの山内の言葉に従って、まず、ファミコン用ゲームソフトの製作を許可制にしました。ファミコン本体に特殊な暗号の「カギ」をつけておき、任天堂が製作を許可したゲームソフトにだけ、そのカギを開ける暗号を与えることにしたのです。同時に、許可を与えるゲームソフトの本数も制限することにしました。開発カの高いソフトハウスでも、開発が許可されるのはせいぜい1年間に数本です。市販されるファミコン用ゲームソフトの総量をコントロールするとともに、ソフトハウスが1本1本のソフトの開発に全力で取り組み、品質の高いゲームをつくるように仕向けたのです。
こうしたコントロールは、業界では初めてでした。けれども、その結果、日本のフアミコンブームはアタリVCSに始まったアメリカのブームよりも長く続くことになったのです。

ゲームボーイ

横井軍平が考案してヒットした『ゲーム&ウォッチ』も、ファミコンの登場によつて大きな影響を受けました。

第1章  誕生

横井は、『ゲーム&ウォッチ』を、「マルチソフト化できないか」と考えました。具体的には、プレーできるソフトをファミコンと同じようにカートリッジ式にすることです。そうすれば、『ゲーム&ウォッチ』はさらに魅力的な携帯用ゲーム機になります。しかしそのためには、ゲームソフトのカートリッジをーから設計しなおさなければなりません。また、ゲーム機本体も、小さな液晶モニターでより複雑化したゲームを表現することになるため、さまざまな工夫が必要になります。さらに、せっかくの携帯用ゲーム機なので、電池でできるだけ長く遊べるように、消費電力は極力抑えなければなりません。
考えただけでも、その実現は無理ではないかと思われました。
しかし、『ゲーム&ウォッチ』とファミコンの双方の長所を取り入れることができれば、かつてないゲーム機になるのは間違いありません。山内も横井のこの企画が気に入り、通信機能も必ずつけておくようにと、追加の注文も出しました。そして開発されたのが、1989年春に発売された初代『ゲームボーイ』です。モノクロ液晶モニター付きのカートリッジ式携帯用ゲーム機。価格は1万2500円。液晶モニタ—をカラーではなくモノクロにしたのは、消費電力と価格を抑えるためでした。オプションで通信ケーブルも用意され、いつでもどこでも相手さえいれば対戦して遊べました。

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ゲー厶ガーイマルチッフト版ゲー厶&ウォッチとして開発されたゲー厶ボーイは、本体価格と液晶画面が最大のポイントだったと言われています。89年当時はすでにカラーでゲー厶が楽しめるファミコンが売られておりました。モノクロ画面のゲー厶ボーイの価格は市場的な感覚では当然ファミコンより安いものと思わるわけです。ところがゲー厶ボーイは、設計的には中身はファミコンとほぼ同等、それに液晶画面がついているのだからコスト的にはファミコンより高くても当たり前の商品なのです。ファミコンより安く発売するということがゲー厶ボーイの最大の課題だったのです。横井軍平さんは、シャープの液晶価格の大幅値下げと液晶の
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衝撃的なゲーム機でした。ファミコンと同じように、最先端の技術ではありませんが、小さなボディに時代を先取りしたアイデアが凝縮していました。この初代『ゲームボーイ』の後、1996年にはさらに小型化された『ゲームボーイ・ポケット』が開発され、98年の『ゲームボーイ・カラー』、さらに2001年3月には『ゲームボーイ・アドバンス』を発売予定です。
初代が発売されてから10年以上経ってもなお、どのゲームボーイでも使えるゲームソフトのカートリッジがあります。それほど長い間互換性を維持しているゲーム機は他にありません。
そして、発売されたばかりの『ゲームボーイ』のユーザーの中にいたのが、ゲームフリークの田尻智でした。
自主開発の『クインティ』を完成させたばかりの田尻は、『ゲームボーイ』が持つている通信機能を見て、新しいゲームの可能性を感じました。『ゲームボーイ』用ゲームソフトの企画書を持って、田尻が下北沢から小田急線に乗ったのはそれから1年後。
ようやく、ポケモンが任天堂に出会う日がやってきたのです。

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上に直接回路を焼き付ける技術を手に入れ、この価格問題をクリアにしました。
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ゲー厶ボーイカラー
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ゲー厶ボーイ・アドバンス
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