Pokemon Story/Chapter 1/Subchapter 5: Post Production

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5 ポストプロダクション

田尻は、企画から丸4年かけて、ようやくゲームをまとめてゆくべき方向を見つけることができました。面白いゲームの形というよりも、田尻自身が納得できるゲームの形が見えてきたのです。自分自身も納得できるゲームであるからには、田尻がそれまで胸に秘めてきた、ゲームとはこうあるべきだという思いのすべてが盛り込まれていなければなりません。
その思いとは、ここをこうすればもっと面白いのにとか、ここがこうなっていればプレーヤーはもっと楽しいのにというアイデアのことです。小さなアイデアから大きなアイデアまで、オープニングのビジュアルの見せ方、いつでもセーフできる便利な中断の仕方、キャラクターのバリエーション、主人公(つまりプレーヤー)の設定、ゲーム機の特性を生かしたゲームの性格付け等々。ゲームは、アイデアの集積です。そしてそのアイデアを一つずつつむいでいったものがゲームです。ゲームのこうした作り方は、映画の作り方によく似ています。考え抜かれたカット、シーンを一つずつ繫いで、1本の映画が出来上がります。カット、シーンが無数にあっても、おざなりにしていい個所は1カツト、1シーンたりともありません。無数に

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キャラクターはその作者を超えられない?
「ストーリーまんがの主人公は作家の生き写し」とまんが業界では定説のように言われます。
主人公が暴れん坊で破天荒な性格のまんがを創りたければ、作家も激しい性格の人でなければ無理だということです。言い換えると、作家は自分の性格を越えてキャラクターを創り動かすことはほとんど不可能なのです。作家は通常、まんがの主人公になりきった上でストーリーとセリフを考えます。それゆえに、どうしても作家自身の創造の限界を超えたキャラクターを創
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あるカツト、シーンごとに、カメラのフレームの隅々まで心配りがなされ、視覚的効果が計算されていなければ、張りのある映画にはなりません。

少年時代のすべてをゲームに

ゲームも同じです。作者が十分に考え、知恵を絞っていない場面があれば、プレーヤーはそれを敏感に感じ取ります。ゲーム全体の流れを導いてゆくアイデアと、その流れを構成する場面、レベルごとのアイデア。それはカットを積み重ねてシーンを描き、シーンを繫いで物語を作り上げるという、映画の構造と同じです。そこに積み上げられたアイデアの密度と質が、作者のゲームクリエータ—が、何にどれほど深くこだわっているのかを表示するインジケータ—になります。
「ぼくは、13歳でインベーダーゲームに初めて向き合って以来、ゲームをやりながら育ってきた人間なんです。なぜそういうことになったかと言うと、ゲームはどうして面白いんだろう?どうしてオレはゲームを面白いと思うんだろう?どうしてオレはゲームをこんなに、大晦日も正月もね、やってしまうんだろう?というようなことを考えてきて、そのうち面白いゲームっていうのはどういうものなのかと分析するようになったわけですね。その発見をみんなに知ってもらおうとゲームフリークを始

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ることができないのです。できたとしてもそのキャラクターは魅力の乏しい、作り物のにおいのする味気ない物になりがちなのです。
ではどうすれば……。自分の体験をキャラクタ—やストーリーに生かすということがヒット作への最短距離と言っても過言ではありません。なぜなら、主人公の言葉は体験に基づいているので嘘が無く説得力がありますし、ストーリーは細部のディテールまでいきいきと描かれるでしょう。自分史にフィクションをプラスしストーリーを構築するというのは有名作家なら必ず卜ライしたことのある手法なのです。ある意味、田尻さんのアプローチは知らぬまに王道をいっていたようです。
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めたわけですが、それでも言葉で伝えられないものはいっぱいあったわけです。そのもどかしさとか、怒りとかね、そういうものを糧にして、オレにとってのゲームというのはこういうものなんだということを示そうとして作ったのが『クインティ』でね。ポケモンはそこにさらに、ぼくの知識とかゲームというものの歴史とか、ぼくの人生のすべてを駆使して作っていったわけです。ゲーム文化の凝縮というかね。具体的には、ぼくの少年時代を全部、ゲームの中に表現したいと思ったわけです。ぼくがあの頃に受けた知的刺激ですね。それを全部、ゲームに封じ込めたかったわけですよ。だからあれは、子どもたちにっていうよりも、実はぼくと同じ世代の人たちに、こんなことがあったでしょって、伝えたいっていう気持ちですね。でもそれが子どもたちにも伝わったわけですよ。子どもの世界は変わらないっていうかね、時代が変わっても、子どもが面白いと思うことは同じなんですね」
田尻は、自分の少年時代の体験を、知性と感性を総動員してゲームとして表現してゆきました。その部分が、通信ケーブルによる「交換」というアイデアと対等の質量を持つゲームの骨組みになりました。ポケモンは、田尻のゲーム人生の集大成であると同時に、田尻自身の半生の集大成でもあるのです。つまり、ゲームを知った日を境界線として、田尻のゲームを知るまでの世界は永遠に失われたわけですが、その失われた世界を、ゲームを知った後の田尻はもう一度取り戻そうとして、ポケモンを作り

第1章  誕生

出したのでした。

田尻はもちろん、ゲームの客観的な面白さにこだわっています。面白くなければゲームではありません。しかし、だからといってただ面白いゲームを作ろうとはしませんでした。田尻のアプローチは、ゲームとしての表現の形をどこまでも突き詰めるところから始まりました。
もちろん、単純に「交換」をテーマにゲームを作ることもできました。でも、田尻には、「なぜ交換するのか?」に始まる、禅問答のような葛藤がありました。そのとき田尻は、それが「ほんとうにおまえ、それで面白いと思ってんの?」という形かどうかはわかりませんが、自分にウソはつけなかったのです。自分自身が納得できる「交換」の面白さや、「交換」という行為がおこなわれる世界全体の面白さはなんであるのか、田尻は泥沼の中で捜し求めたのです。
ゲームの中での「交換」という行為の位置付けを見ると、田尻が何を悩み、悩んだ末にどこに行き着いたかということが、とてもよく分かります。たとえば野球選手やお相撲さんのカード、メンコ、あるいはビー玉やベーゴマでもいいのですが、これらの遊びには、「勝負」と「交換」という行為がつきものでした。勝負もしなければならないので、いつも和気アイアイに、というわけにはいきませんでしたが、自分の大

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事にしているカードやビー玉やベーゴマを、前から欲しかった誰かのものと交換してもらうのは、やるせなさと嬉しさの入り混じった、興奮する行為でした。自分のパッチンやメンコを根こそぎひっくり返して奪っていつためちゃめちゃ強い1枚のメンコを弱いメンコ百枚と交換して手に入れたときのほっとした記憶もあるかもしれません。しかし、です。どれほどメンコやビー玉に夢中になったとしても、1日中遊んでいたわけではありません。ほらほらこぼさないで、と言われながら朝ご飯を食べたり、子ども会ごとに並んで学校にいったり、友達とサイクリングに出かけたり、部屋の片付けをしたり、お盆には家族でお墓参りに出かけたりという、生活全体の中でのメンコ遊びやビー玉遊びだったのです。メンコやビー玉の遊びを取り巻く環境がなかったら、メンコもビー玉も、あんなに面白い遊びではなかったかもしれません。そして、ポケモンのゲームには、その部分が実に丁寧に描かれているのです。遊んでいる子どもを取り巻いている環境。田尻が言っている「少年時代を全部ゲームの中に表現した」というのは、そういう意味なのです。
その設定に、田尻の世代も、石原の世代も、本書の著者の世代も、少年時代の1日1日のシーンが、走馬灯のようにスクロールしてゆく思いにとらわれるのです。プレーヤーの大半を占める小学生の子どもたちにとっては、まったく新しい世界を駆け回って遊んでいるも同然なのですが、そこは実は、彼らの親の世代が子どもだった頃の

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RPGゲー厶の常識
ゲー厶は不特定多数に販売されるエンターティメントですから、いろんな人がゲー厶(RPG)を買ってプレーヤーとなります。プレーヤーの能力の幅は相当広いのです。RPGに慣れた小学生だと初めてプレイするゲー厶でも「ゲー厶の取扱説明書 (以下取説)」を読むことはまれです。いきなり電源を入れゲー厶をスター卜させ、さくさくと進めたがるのです。つきあたって先に進めず悩むことはありますが、だいたいは大きな問題にはなりません。それはRPGのを常識を体で覚えているからです。ほとんどのRPGは、主人公を画面の中で動かす場合、十字キーを右へ押すと主人公が右を向いて動き、上に押せばそれ
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第1章  誕生

世界にとてもよく似た世界なのです。その世界が、子どもたちにとっては、現代とは違う知的刺激に満ちた新鮮な世界になっているのでしょう。田尻の非凡さは、誰もが絶賛した「通信ケーブルによる交換」というアイデアを、交換に終わらせなかったところにあったと言ってもいいでしょう。
プロデューサーの石原は、形が出来上がった『ポケットモンスター』というゲームについて、こう話しています。少し長いのですが、ポケモンについての評論の決定版ですから、インタビューの一部をここに採録しておきましょう。
「丸々6年とはいいませんが、少なくともたっぷり2年間、田尻君や田尻君のチームの思いやアイデアを結集してまとまったものですから、それは中身が濃かったですね。遊んでも遊んでも新しいゲームの窓がたくさんあるという感じでした。遊びの位置づけが非常に直感的だったことも大きいんですけれども、バランスがとてもいいんですね。
ぼくたちはこれまで、主人公のA君は剣と盾を持って冒険の旅に出て、それで経験値とお金を得て、新しい剣と盾を買いましたっていうのをずっとやってきたわけです。主人公が成長してゆくんですね。けれどもポケモンでは、主人公自身は何の成長もなくて、もちろんバツジを得ることによってトレーナーとしての能力は高まるんですけれども、一番の成長の対象になるのは、ポケモンと呼ばれる生きものたちなんです。

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まで右を向いていた主人公が上を向き歩き出します。画面内で主人公が誰かに出会ったとき、Aボタンを押せばその人と会話をします。道に落ちている物を拾いたければ、その上を通るか、落ちている物の隣でAボタンを押せばよいのです。出した命令をキャンセルしたければBボタンを押せばいいし、スタートボタンを押せば画面が止まりポーズ状態になります。子供たちは知らぬ間にこれらのゲー厶をプレイする上での約束事を覚えています。一方、ゲー厶初心者の大人がプレイしようと,すると、この常識から覚えないといけません。
ゲー厶ボーイはユーザー年齢が低いためゲー厶初心者が多く、他の八ードに比べてゲー厶の常識が通じないユーザ
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彼らをどんな手段で捕まえ、どんな編成で連れて旅をするのかが本編なわけです。それを実現するために、野生のモンスターを弱らせて、ヒットポイント(HP=体力)を減らしていって、減ったところでモンスターボールを投げると、モンスターはあきらめて捕獲されてしまう。十分弱らせていないと、捕獲できないことも多いんです。この野生のポケモンは、いったん捕獲したら自分のモンスターとして名前をつけて成長させることができる。でもそれをすぐに戦いに出そうとすると、捕まえるためにかなり弱らせているので、回復させなくちゃならない。捕まえるためには弱らせておかないといけないんだけど、つかまえたあとですぐ戦いに出そうと思うと、弱っているのですぐやられてしまう。一方で、モンスタ—はやっつけないと経験値がもらえないので、捕まえるために戦ったモンスタ—は経験値が得られなくて成長の足しにはならないとかですね、そういう細かなやり取りがたくさんあるんです。あちらを立てればこちらが立たない、でもこちらが立たなければこういう利得があるといったところが、まさしくゲームバランスというものだと思うんですけれども、その遊びの仕組みのバランスが絶妙だなって思ったんです。
この遊びの仕組みのバランスが絶妙だなっていう感じは初めからあって、それをどこまで深められるかっていうのが、ポケモンの難しさだったと思うんです。それを、スタッフみんなのカだと思うんですけど、田尻君たちは実現してしまったわけです」

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ー比率が高いと言えます。その点でもポケモンは、ゲー厶ストーリーの序盤でポケモンの捕まえ方など実に丁寧に解説するシーンが多々あります。それゆえゲー厶初心者にとつて、プレイしやすいユーザーフレンドリーなゲー厶との評価も高いのです。
石原さんの言う「バランスの良いゲー厶」という言葉もそんなところを表現しているのかもしれません
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第1章  誕生

産みの苦しみ

ポケモン一色に染まったゲームフリークで、『ポケットモンスタ—』は日に日に成長してゆきました。ゲームの性格が固まってゆくのに合わせて、杉森のキャラクタ—デザインももう一度検討され、杉森を中心としたグラフィックデザイナーのスタッフが、それぞれポケモンになりそうなネタを持ち寄り、手分けして何百体も描きました。それを社内に貼り出して、当時15人ほどに増えた社員で人気投票をしては、ゲームに採用するポケモンを絞り込んでゆきました。ゲームに登場するポケモンは、最終的に150匹にまで絞り込まれました。杉森によれば、ゲームボーイ用のゲームであるポケモンのデザインには、他のゲーム機用ゲームにはない難しさがありました。「ポケモンは全部で150体もいるので、見ただけでそれがなんというポケモンかはっきりわかるようにしています。それはデザイナーとしてそうしたいと思ってしたということもありますが、それよりもゲームボーイというハードのせいで、そうせざるを得なかったんです。プレステなんかと違って、メモリーもモニタ—画面も小さいですからね、いろいろ書き込めないんですよ。ゲームボーイのモニタ—に表示できるのはドット絵ですからね。粒子の粗いドット絵でも一目でどのキャラクタ—かわかるよ

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うにするには、シルエットを際立たせるのがいちばんですから。はっきりシルエツトで差をつけてゆかないと、個性が出ないんです。角が1本か2本かというような違いだけではなく、全然違う形にする必要があったんですよ」学生時代から一緒にいる杉森は、田尻の言葉をよく理解していました。「キャラクターをデザインするときには、子どもの頃のことを必死に思い出して、それをデザインに全部取り入れました。小さい頃文鳥を飼っていたなあって思うと、その文鳥がとりポケモンになったり、覚えているネコの顔がそのまま二ヤースになったりという感じです」
ゲームのプログラムも、一つの収束点に向かって加速度的に進んでゆきました。それまでに少しずつRPGのノウハウを蓄積してきていました。増田も森本も、ゲーム音楽とシナリオやデザインという仕事だけでなく、プログラムにも参加しました。ライターだった森本にはプログラム経験はありませんでしたが、社内でプログラマー希望者を募ったとき、〃い〃の一番に手を上げました。やってみたかったのです。「できたプログラムはゲームカートリッジに落とし込み、社員やその他のいろんな人に実際に遊んでもらい、プレーヤーがどういう動きをするのかを調べます。戦闘でも、ここで倒されるんじや悔しいな、と思ってプログラムを書き直したり」(森本)
ソフトハウスの社員には、自社製ゲームは発売後には全然やらないという人が少な

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ヒットするキャラク夕ーの条件
今から説明するシーンを想像してみてください。新人漫画家希望者がまんが誌の編集部に原稿を持ち込んできました。彼は自分で描いたまんがの原稿を編集部のスタッフに見てもらおうと思ってきたのです。編集部のスタッフは彼の原稿を見て次のようにアドバイスをしました。「自分が描いたまんがのキャラクターを墨で塗りつぶしてみてください。それでもそのキャラクターだと解れば合格です」
実はヒットしているキャラクターはその輪郭内を黒く塗りつぶしても判別できることが多いのです。ミッキーマウスもしかりキティちゃんも同様です。まんが編集部のスタ
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第1章  誕生

くありませんが、その理由は、開発中に未完のゲームをいやというほどやらされているからなのでした。
開発が進んでいるという話は、石原から川口へ、任天堂へと伝えられました。任天堂開発部には、横井軍平の後を継いだ宮本茂がいました。しかし宮本は、ゲームフリークが開発を一通り終えるまで、何も口出しはしませんでした。ゲームフリークは、開発後のバグテストが始まるまで、まったく自由に、田尻の思い描く世界を可能な限りゲーム上で表現する努力を続けることができました。

ゲームフリーク内でポケモンが一応の完成を見たのは、1995年、田尻智30歳の春でした。田尻がゲームボーイを見て着想を得てから丸6年の月日が流れていました。しかし、これでポケモンの開発が終わったわけではありません。結果的には、このときから発売までのポストプマダクション8カ月間の方が、仕事の密度は高く濃いものになったのです。

ゲームソフトのポストプロダクションは、デバッグというバグ直しから始まります。実際にゲームをプレイして、不都合がないかどうか確かめる作業です。任天堂には、マリオクラブという、ゲームソフトのデバッグとモニタ—を専門にする集団がありま

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ッフは自分の経験則からそんなアドバイスをしたのです。杉森さんの言うシルエットでキャラクタ—の差を出していくということは、実はヒツ卜するキャラクタ—の条件の中で最も重要なポイントと言えます。キャラクタ—イラス卜がゲー厶ボーイのドット絵表現ゆえに必要な手法だったわけですが、実はヒットするキャラクターの近道を歩いていたのです。
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す。時期にもよりますが、常時100人から200人のスタッフが所属しています。スタッフは全員、任天堂本社に通える京阪神地区内から採用されたアルバイトです。デバッグはゲームをプレイして不具合を見つける仕事で、モニタ—は発売前のゲームをプレイして、ゲームを評価する仕事です。
新しいゲームで遊べる上にお金ももらえるいい仕事に思えますが、時間の制限もありますし、プレイするゲームも選べないなど、想像するほど楽なアルバイトではないというのが現実です。中でもデバッグは厳しい仕事です。仕事に入るとゲーム内の担当エリアが決められ、そのエリア内だけを、隅々まで歩き回り、できるはずのことができるようになっているか、できないはずのことがちやんとできないようになつているかどうか、入れないところには入れず、行けるところには行けるようになっているかどうか、延々とそのエリア内をさ迷い歩かなければなりません。とにかくゲームがクリアできるかどうかを確かめるテスタ—もいます。クリアするために必要なアイテムだけをできる限り手早く集め、クリアするために必要な戦いに勝利して、スタッフロールの一番最後に、「エグゼクティブプロデューサーやまうちひろし」と書かれているのを読み、「THE END」の文字を見て、もう一度スタートボタンを押すと、ゲームの最初のシーンに戻れるかどうかをチェツクするのです。このマリオクラブの存在からもおわかりのように、ゲームソフトというのは、

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「マリオクラブ」
マリオクラブでアルバイ卜している人たちは、ゲー厶をプレイするプロといえます。彼らはゲー厶が間違いなく動くかどうかを調べると同時に点数をつけてそのゲー厶の評価も行います。
このマリオクラブの点数を基準に、任天堂の販売担当者は売り上げを予想していきます。ですので、任天堂製作のゲー厶の場合、この点数は初回出荷数をも影響下におくすごい点数なのです。
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第1章  誕生

とても人間臭い製品です。開発から完成まで、これほど人間の手がかけられるデジタル製品は、他にないでしょう。どれほど高度な技術がゲーム機に使われるようになっても、そのゲームソフトのデバッグと評価は、今のところ人間の感性に頼るしかないのです。
ポケモンの場合も、任天堂に届けられたその日から、100人以上の集団が一斉にプレイし、デバッグ作業に入りました。すると、作業に入った直後から、バグの報告が嵐のようにゲームフリークのスタッフを襲いました。「もうバグが多くて。バグを直すのに何カ月もかかったんですよ」杉森は、いまは笑ってそう話していますが、ゲームフリークのスタッフは、デバッグが始まってから、本格的な不眠不休の体制に入ったのです。「たとえば、通信である技を使うと、相手が止まってしまうとかというバグが出ると、止まりました! ってデバッグしている人が言ってくる。それを直すっていってもねえ、技が全部で150くらいありますしね。それに道具もありますから、そのひとつひとつの組み合わせを試して、止まらないようにしないといけないんですけど…… 何通りになるでしょう……。全部やったほうがいいに決まってるんですが、やれない部分もありましたね。幸い、そういうバグはその後聞いていませんけど」そう回想するのは増田です。杉森もバグの話なら限りなくあると言います。

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「シナリオがらみのバグでは、話し掛けたら相手が全然違うことをしやべったとかつていうのもありますけど、それは単純な方ですね。あるアイテムをもらってからでないと次へ進めないはずなのに進めてしまったとか、ある人に話しかけないで進んでみたら後にもどれなくなって、にっちもさっちも行かなくなったとかという、ゲームが止まってしまう深刻なバグがとにかく多かったんです。その直し作業は実に長きにわたって続きましたね」
ポケモン完成のめどが立ったとき、任天堂は1995年の夏の発売というスケジュールで動き始めていました。しかしそれが12月になり、最終的には96年の2月末になります。この遅延の大きな原因の一つが、延々と続いたデバッグ作業でした。しかし遅延の最大の原因は、デバッグの作業と並行してポケモンに加えられた大きなニつの変更によるものでした。それはゲーム完成間際の土壇場に来てまでも、田尻があきらめようとしなかった、ゲームの形へのこだわりが生じさせた変更でした。それは、RAMとROMの問題でした。
一つ目は、カートリッジのSRAMと呼ばれる記憶媒体の容量の問題でした。まず、石原の話を聞きましょう。
「当時は、8キロバイトのSRAMを使っていましたが、それでは捕まえたポケモンを30匹しか格納できなかったんですよ。しかしポケモンは150匹いるわけです。そ

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RAM
「ランダム•アクセス・メモリー」のこと。プレイヤーによって書き換え自由なメモリーと言うこと。
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ROM
「リード・オンリー・メモリー」のこと。ゲー厶のプログラムは書き換えができないようにこのメモリーの中に記憶されています。
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第1章  誕生

れが30匹しか格納できないって言うのは、ちよつと少なすぎるんじゃないかとは思っていたんです。でも、ゲームをクリアする上では、30匹というのはプレーヤーが苦痛を感じる数字ではないんです。プレーヤーによって違うとは思いますが、大事に育てていくポケモンは、大体10数匹だろうと考えていたんですね。そのうち、連れて歩けるのは6匹です。それを考えると納得できない数字ではなかったんです。でも、もう格納庫いっぱいの30匹を捕まえていると、31匹目を捕まえたとき、あなたの格納ボックスはもういっぱいで、これ以上入りませんと言われてしまう。ゲームをクリアするという意味では、たしかに十分なんですが、でもプレイしていると、もっとたくさん集めたいって思うんです。田尻君もぼくも、作った側はみんなそういう思いですね。それで、もうちよつとたくさん捕まえて、いっぱい集めたいっていう話を任天堂にするわけです。そうすると、いやあ、もうこれ以上は無理、入らないんですわって言われる。その双方の話がしばらく行ったり来たりしていたんです」
ここで石原が30匹と言っているのは、捕まえて(ゲームの中では「ゲツトする」と言います)自分で名前を付けて保存しておけるポケモンの数が30匹という意味です。名無しのポケモンなら100匹程度まで保存しておくことはできました。プレーヤーが付けた名前を残さなくていいなら、その名前の分だけメモリーを使わずにすむからです。開発の途中までは、実際そうなっていたのです。捕まえたポケモンのうち、1
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SRAM
「スタティック・ランダ厶・アクセス•メモリー」のこと。絶えず大きな電流を流していなくても記憶データが消えてしまわないメモリーのこと。スタティックは静電気の意味。反対語はDRAM「ダイナミック・ランダム・アクセス•メモリー。
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8キロバイトという記憶容量
通常、ウィンドウズ用のフ口ッピイ・ディスクはー・44MB(メガバイト)の記憶容量があります。8キロバイトは0・008MBですから'そのSRAMの記憶容量の小ささは特筆物です。ゲー厶ボーイのソフトはフロッピーデイスクー枚の中に楽々入ってしまうのですから……。
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00匹くらいは、プレーしていれば持っていたくなるだろうと考えたからでした。そ のポケモンが名無しでも仕方がないと考えたのは、開発中はメモリーを節約したかっ たからでした。しかし、制作が進むにつれて田尻のテンションも上がり、捕獲したポ ケモンに名前が付けられるかどうかは、田尻にとって譲れない重要な問題になってき ました。
「名前が付いてなければ、自分のものだということにはならないわけですよ。たとえ ば、子どもの頃、先生に名前を間違えて呼ばれたら頭にくるじゃないですか。それは オレじゃないと思うわけです。それで、名前を付けると100匹から30匹に減ります けど、それでもいいですかって言われたんですよ。それでも、名前を付けられない 100匹より、名前を付けられる30匹の方がいいということに、ゲームフリークとして はまとまったんです。でも、狙いとしては、30匹じやなくて、150匹全部に名前を 付けて保存できるようにしたいということでした。それで、これはRAMが増えたり データをセーブできる場所が増えたりすれば解決できるんですけど、どうでしようっ て、資料を用意して石原さんに相談したんです。まあこれは、駆け引きですね」(田 尻)
相談を受けた石原は、無名の100匹より名前をつけた30匹の方がこのゲームの価 値を高めるんだということを任天堂に話してみて、それで任天堂を説得できたら、メ

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ビット
ビットはCPUが一か0で数字を表し計算するときの 単位。8桁の0か一の数字で 計算するコンピュータのこと を「8ビットマイコン」と呼 んでいた。ファミコンとゲー 厶ボーイのCPUは8ビツト。 スーパーファミコンは16ビッ 卜。プレイステーションは32 ビット。ニンテンドウ64は64 ビット。ビット数が多いと一 度に計算する桁数が多いこと になり、表現能力が著しく上 がります。ちなみに8ビット でーバイト。
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第1章  誕生

モリーを増やす努力もしてみようと、田尻に約束しました。
しかし、作り手側の要望を入れて30匹以上のポケモンを、できれば150匹のポケモンすべてを格納できるようにするとなると、当時最新鋭の32キロバイトのSRAMを使わなければなりませんでした。当時32キロバイトのSRAMは、その道では256Kビット (読み゠二ゴロケイビツト) と呼ばれる贅沢品でした。大量生産されて価格の安い8キロバイト (64Kビツト) と比べると、コストがぐんと上がるのです。「価格ですか? 詳しい数字はお話できませんけれど、どんどん変動するので何倍にもなりますね」(石原) ゲームボーイというプラットフォームを持っているのは任天堂ですし、そのゲームソフトのカートリッジの生産をするのも任天堂です。コストの問題はメーカープロパーの問題ですから、ゲームフリークやクリーチャーズにはまったく決定権のない事柄でした。しかしそれでも、石原と田尻は、ポケモンをもっとたくさん捕まえておくことができたら、そして捕まえたポケモンたちに名前をつけてセーブできるようになったら、ゲームがどんなに素晴らしいものになるかということを、ことあるごとに任天堂に伝えていました。そのためには、SRAMのメモリーを増やせばいいだけなんですよ、というニュアンスを交えて。
「そうしたら、最後の最後にね、宮本さんが、それで全然ゲームが変わってくるので

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あれば32キロバイトのSRAMにしょうよ、って言ってくれたんですよ。それで捕まえたポケモン用のデータエリアがガーンと増えて8倍になったんです」(石原) SRAMの容量が増えた倍率とポケモン格納エリアの容量の倍率が異なるのは、フアイルの圧縮の仕方やゲーム情報がセーブされているエリアの問題によるものです。とにかくこれで、捕まえておけるポケモンの数は、一気に8倍の240匹にまで膨らむことになりました。それまで一つだった定員30匹の格納ボツクスが八つに増えるのです。ゲームフリークのプログラマーたちは、デバッグしていた手をいったん下ろして、直ちに32キロバイトSRAMに合わせて仮のプログラムを書いてみました。「32キロバイトのSRAMにしたポケモンで、みんなで遊んでみたら、断然こっちの方が面白いっていうことになったんです。そうなると、それだけ格納できるようになったのなら、こんなこともしょうってアイデアも新たに出てきたりする」(石原)しかし、宮本の一言で32キロバイトのSRAMを使用することになりはしたのですが、今度はそのSRAMの供給量が問題になりました。256KビツトのSRAMは、95年当時の最大級のSRAMだったので、まだ製造量に限りがありました。その中でも5ボルト駆動のゲームボーイで使えるSRAMとなるとさらに数が少なかったので、必要なだけの個数を確保できるかどうか、はっきりしなかったのです。売れ行きが予測しにくいゲームソフトのカートリッジですから、発注、生産、供給

第1章  誕生

のタイミングがとても難しいのです。10万本は当たり前、ちよつとヒットすれば30万本や50万本は軽くクリア、メガヒットだって夢じやないというゲームソフトの世界ですから、必要な供給を受けられなければ、大きなビジネスチャンスを逃すことにもなりかねません。もちろん在庫の山になるかもしれないというリスクもありますが、しかしここでファミコン開発時に山内社長がリコーに出した、CPU300万個の発注保証を思い出してください。大金を投じてゲーム機を作ったりそのソフトを開発するということは、そもそも相当な楽天家でなければ始められない商売に違いありません。そこに自信と思い入れをたっぷり溜め込んだ田尻と石原が加わっているのですから、相当量のSRAMの確保を目指していたと思われます。しかしそうした発注側の思惑とは対照的に、受注側からは、ポケモンがすでに発売後6年経ったゲームボーイ用ソフトだったため、世代交代目前のゲーム機用のソフトがそんなに売れるわけがないと疑われていたことも、なかなか量を確保できなかった大きな理由の一つでした。
それでもゲームは、捕まえたポケモンを全部格納できた方が絶対に面白いという評——おくゆ価が変わらず、宮本が「別のゲームになったね」と石原に言ったほど奥行きが出てきました。それならば、必要なだけのSRAMは任天堂の力で何とかしようということになって、最終的に32キロバイトのSRAMを使うことが決まりました。

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「でもそうなればそうなったで、セーブする領域とかも変わってくるので、その調整もしなければなりませんでしたし、変更部分から新たなバグが発生してきたりもしました。それにも増して大変だったのは、SRAMの容量が4倍になったことで、ゲームの中身をだいぶいじったことです。珍しいポケモンとか伝説のポケモンとかのアイデアが、後から後から入ってきたんですよ。ポケモンの出現率ももちろんそれによつて変わってきますから、たとえばトキワの森にいるピカチュウを、3パーセントの出現率でしか出現しないポケモンにしようとかという、ポケモンの珍しさの度合いも、最後の最後に決まったんです。ですから、ぼくたちの間でも、あのポケモンって、どこにいるのっていう話題が、最後までかわされていたんです」(石原) 

二つ目の変更点は、ポストプロダクション最終盤になって加えられた最後にして最大の変更になりました。ポケモンのROMの種類が複数になったのです。これは実はゲームフリーク内では、早くから考えられていたことでした。田尻は、プレーヤー同士のコミュニケーションとして「交換」が促進されるようなゲーム作りを心がけていましたが、そのとき、そもそもなぜ交換するのかという、田尻が「泥沼のような罠」と呼んだ堂々巡りの悩みを経験しました。そのとき、優れたキャラクターデザインというような、相手が欲しくなるものを交換するという動機の

ほかに、もっと強力な動機づけができないものかと考えました。
そして出てきたのが、里親のように、自分のものを相手に預けることでお互いが得をするという仕組みのアイデアです。たとえば、ポケモンが相手のカートリッジに移動したときに、ちよつと早く育つようになるとか、ちよつと強くなるということになっていれば、交換の動機になるのではないか。そう考えたのです。しかし、そのためには自分のカートリッジと相手のカートリッジが違っていなければなりませんし、交換したポケモンがよそからきたポケモンだということをカートリツジが認識できる仕組みが必要です。その解決法として田尻が最初に考えたのは、乱数によってカートリッジ一っひとつにIDナンバーをつける方法でした。ポケモンのROM容量は4Mビツト (4メガビット)、つまり512キロバイトありますが、その中でIDナンバーのセツトに使えるエリアを見ると、乱数の範囲が6万5000程度までならその方法を取ることが可能でした。カセットを最初に立ち上げたとき、00001番から65000番までの間にある数字が、自分のポケモンのカートリッジのIDナンバーとして乱数で決まるのです。いったん決まれば、そのカートリッジから生まれ出てくるポケモンのIDナンバーもすべてカートリッジと同じ番号になります。
IDナンバーが6万5000あるということは、確率としては6万5000人以上

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ゲー厶ガーイ
ID画面
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と交換し続けない限り、同じIDナンバーのプレーヤと出会うことはないということです。つまり、現実にはほとんど起こり得ないことです。その結果、プレーヤー1人1人が別の世界を持てることになります。コストもかからないし、いいアイデアじやないか、ということになって、田尻は任天堂に、乱数によるカートリッジのIDナンバー制を提案しました。
ところが、それに対して任天堂の宮本は、「わかりにくい」と答えました。「宮本さんは、仕組みとしては面白いけど、ちよっとわかりにくいなと言うんです。でも、それはカートリッジの個別化を否定してそう言ったんじやあなかったんです。宮本さんはそれに続けて、やっぱり見てわからんといかんのやないかって言ったんですよ。色が違って見た目が違えばようわかるって。それでぼくは、へえ、そんなことしていいんですかって言ったんです。そうしてもらえれば、ぼくはすごく助かりますけどって。つまり、IDナンバーが違うんだよっていうことを言いたいがために、象徴的に色を変えるというアイデアが、宮本さんから出てきたわけですよ」このときのことは、杉森もよく覚えていました。
「交換を促進するためには自分のカセツトと相手のカセットが違っていなければ面白くないわけです。だから、相手と違うカセツトにするためにはどうするか、ということを考えて、田尻の提案になったわけですが、同じ内容のものを大量にコピーしてエ

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場で作るわけですから、そのやり方はなかなか難しい。だから、コストのかかるやり方は、任天堂が言い出さないと実現しにくい。色を変えるというのは、うちが言い出しても、なかなか通らないアイデアだったんじやないかと思いますね」田尻が、コストがかからないIDナンバーというアイデアを提案したところ、宮本の方から、少しコストはかかっても、もっとわかりやすくした方がいいのではないかと言い出してくれたのです。田尻にとっては、理想的な展開でした。「ぼくは、買うところからゲームは始まるっていうことを伝えたいと思っていたので、どちらの色を買うかを決めるところからゲームはもう始まってるんだっていうところに、ポジティブな返事がくれば、売れていくんじゃないかと思いました」(田尻) 
石原も、カートリッジの個別化については早くから考えていました。石原のアプロ—チは、当時石原が心を奪われて遊んでいた、ウィザード・オブ・ザ・コースト社のマジツク・ザ・ギャザリングというカードゲームからでした。「カードゲームの商品は、パツケージごとに中身が少しずつ違っているんですね。それで、ゲームのカートリッジでも1個1個の商品が微妙に違っているということはできないのかと考えていたんです。少年ジャンプだって、お正月の号だと、ナンバリングしてあったりしますよね。ああいうものでナンバリングできるのだったら、カートリッジでも何か変えられるものがあるんじゃないかという思いがあったんです」

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3人は、時を同じくして、同じ目的に向かつて、それぞれ違う方向からアプローチ をかけていたのでした。
「宮本さんは、田尻君に色違いと言ったとき、7色のレインボーカラーを考えていた んです。7個くらいROM作って出せ へんの? ってね。彼は昔から、ちよつと違う ものをシリーズで出すということを考えている人だったんですよ。だからポケモンも、 ちよつとずつ違うものを、赤も緑も黄色もオレンジも作ったらと考えたんですね。そ れはカートリッジの色が違うっていうこともあるし、パッケージの色が違うっていう こともあるし、色違いのカートリッジがお互いに補完関係を持っているということも あるっていうことだったんです」
さすがに7色というのは現実的ではないのではないかということになり、結局、田 尻のIDナンバーによる個別化と、宮本の複数の種類のROMとそれを象徴する色の 違い、それに石原の1個1個の商品の微妙な差という3人の提案をすべて取り入れる ために必要にして十分な種類、つまり乱数によるIDナンバー化ができる2種類2色 のROMを出そうということになりました。色は、宮本が生み出したキラーソフト 『マリオシリーズ』のマリオの帽子とシャツの赤色、ルイージの帽子とシャツの緑色 にちなんで赤と緑になりました。余談ですが、マリオの成功以来、この2色に2人が 着ているツナギの青色を加えた3色は任天堂の暗黙のシンボルカラーになっています。

第1章  誕生

もちろんこの決定は、大変な作業を必要としました。しかもそれがSRAMの変更作業の只中での決定だったために、ゲームフリークはまさしく不夜城となつて、田尻以下スタッフ全員が不眠不休という日々が95年秋から暮れにかけて続きました。田尻には、これに加えて原作者として人に任せることのできない作業がもうひとつ、ありました。シナリオの書き換えです。デバッグ、SRAM変更にともなうゲーム細部の変更、ROMを赤と緑の2種類にすることで生じる赤と緑相互の補完関係の調整と、進行中の作業を言葉にすれば別の作業であるかのように見えますが、それらはすベて、最終的には1本のプログラムに織り込まれていきます。そしてそのためには、その部分のシナリオを順次変更し決定していかねばなりませんが、そのお伺いはすべて、原作者の田尻に集中しました。
それだけではありません。ゲームのモニタ—も始まっていて、任天堂からも石原からも、ゲームフリーク社内からも、ありとあらゆる意見が寄せられました。それは、誰それのセリフはおかしいとか、登場人物の立つ位置が変だとか、ここに木がもう1本生えていたらいいのにとか、あのポケモンのここはこう直した方が可愛いのではないかとか、誰それとのバトルは相手が弱すぎるのではないかとか、逆に強すぎるのではないかとか、ポケモンについての不平不満と呼びたくなるような意見でした。田尻

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の記憶では、「毎日100件くらい」の要望や批評や意見や不平不満が押し寄せてきたのです。田尻はそのすべてが矢のように突き刺さってくるように感じました。そしてそれらの意見をすべてゲームに取り入れていったのです。「ここがおかしいとか、あそこが変だという話は、いろいろ理屈をつけて放り出せば、それで終わりにできるんですよ。でも、そうしないで、全部受け入れようと思ったんです。全部を解決できるまで、逃げ出さないでシナリオを書き換えてみようと思ったんです。ポケモンは、そうしなければいけないと思ったんです」田尻がそう考えたのは、自分のこだわりと同じように、他人のポケモンに対するこだわりもすべて大切にしようとしたからかもしれません。
「そのすべてに対応するために、倒れるまでシナリオを書き直し続けて、倒れたら目が覚めるまで寝て、起きたらまた倒れるまで仕事を続けるっていうことを、半年くらい続けましたね。自分の限界を超えたっていうか、超えられたなら限界じやないということなんだけど、ぼくにできる限りのことはぎりぎりまでしたっていうかね。1日が24時間なのかどうかもわからないっていう生活でしたよ。でも、それでポケモンに命が吹き込めたっていうかね。思いの丈をこめることができたんだと思いますね」かくして『ポケットモンスタ—』は完成しました。1995年の暮れでした。

第1章  誕生

「はじめは95年の8月か9月か10月か、というあたりで発売日がさまよっていたんですよ。それでぼくはもう真剣に、その日を目指して毎日デバッグしていました。でも、9月になっても10月になってもまだバグがあって、変更もあって完成しないんです。田尻君も、かなりイライラしてるわけ。これはひよつとしたら年内に出ないんじやないかって思っていたら、ちやんと年内には出なくて、1月に工場に入って2月に出るわけです。その間、9月から12月までの4カ月というのは、ほとんど寝ていないんじやないかっていう状況が、みんな続いていたんですよ。それがある日終わってしまつた。終わったことが信じられないっていう感じでしたね。えつ、何で終わっちゃったのっていうような終わり方でしたよ」(石原) そして、石原は田尻にこう言いました。
「12月に出来上がったとき、いやあ、田尻君、すごいの作ったねって言いました。これは200万本いくよって言ったんです」
しかし田尻は、まだ自分の作品を評価できる状態にはありませんでした。「ホームスチールをしてね、全力で滑り込んだんだけど、滑り込みセーフだったのかアウトだったのか、土煙が上がっていてまだわからないという状況で、ばたばたしているという感じでしたね。でも、ホームスチールをした身としては、アウトって言ってる人のほうが多いというふうにも思っていたわけです」

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ホームスチールの土煙がおさまるのは、ポケモン発売からさらに2カ月余り後の、1996年5月のことでした。そしてそのとき、プレーヤー代表のチーファンパイアとして、「セーフ!」と声も高らかに叫んだのが、本書の下段解説を書いている人物、当時小学館の少年少女コミック誌『コロコロコミック』副編集長だった久保雅一でした。
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