Game Freak/Part 2/Chapter 1: Boy Satoshi

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1 少年さとし

少年はテレビゲームと出会いテレビゲームのために生涯を賭ける決意をした

■誕生

一九六五年、八月二十八日。東京世田谷区、森本産婦人科の分娩室において、田尻義雄、佐知子夫婦の間に長男が産まれた。出産時の体重は三三〇〇グラム。ごく標準的な赤ん坊だった。夫婦は長いこと女の子が産まれるのを熱望しており、出産直後に、男の子が産まれたと聞かされたときには「そうか、男っていう可能性もあったのか」と、一瞬戸惑ったという。しかし、二人にとってはじめての子供でもあり、その戸惑いはやがて大きな喜びに変わっていった。
息子の名前には、母の名から文字をとって”佐知夫“などと考えてみたが、結局は”知“の文字だけを活かして、智——さとしと名、つけることにした。
当時、父である義雄は、世田谷区瀬田で自動車部品を販売する小さな会社に籍を置いていたが、子供ができたのを機に、日産系列の会社へと転職する。そこもまた規模としては小さな職場ではあったが、

第2部  ゲームフリーク  142

のちに合併を繰り返し、親会社の東京日産に吸収されてゆくことになる。一方、母の佐知子は、平和な家庭を守ることで、多忙な仕事に明け暮れる夫を支える、ごく当たり前の専業主婦であった。そんな二人の間に産まれた小さな命は、田尻家に大きな光を投げかけた。
当時の田尻家は、環状八号線--通称”環八“と国道246号線の交差点付近に建つ木造家屋の、二階部分を間借りして暮らしていた。階段をあがれば、狭い廊下と小さな台所、そして三畳と六畳の部屋があるだけの小さなものだった。それでも若い夫婦が二人で住むには十分な広さだったが、いざ子供が産まれてみると、その家も手狭に感じられるようになってきた。
やがて、さとしが一歳と五カ月になろうとする頃、一家は都営住宅入居の抽選に申し込むことにした。もしもこれに当選すれば、いまよりも広い家を格安の賃料で借りることができる。いくら父親が以前よりも大きな会社へ転職したとはいえ、そうすぐに収入が増えるわけでもない。ましてや、これから子供が大きくなってくれば、それだけ出費も多くなる。自分たちの生活はもちろん、子供の将来のためにも、なんとしても当選したい。そう願っての申し込みだった。
田尻家が受け取ったクジの番号は"9番“だった。この数字を見て夫婦は、
「これは9さい(クサイ)ぞ……」
などと笑い合った。
ところが冗談が現実になり、見事9番は当選。その結果、同じ東京都ではあるが、その郊外にあたる町田市の都営住宅に、田尻家は一年目の応募にして入居することができたのである。

143  第1章  少年さとし

町田市を含む三多摩地区は、明治二+六年に東京府に編入されるまでは、神奈川県の一部であった。市の大半は多摩丘陵であり、丘陵と谷の連なる地形は、町田市特有の景観を形作っている。昭和四+一年より多摩ニュータウン計画が開始され、田尻家がこの地に住まいを移した当時は、ちようど町田市が新興住宅地としての開発を本格的にはじめた時期でもある。このことは、昭和四+三年一月の『まちだ市広報』で、初代市長の青山藤吉郎氏が《人口三〇万都市の基礎づくりを》と題する文章を寄せていることからもうかがえる。その甲斐があってか、現在の町田市は小田急線町田駅の周辺に巨大なデパート、ショッピングモールなどが多数林立するようになり、人口も三五万人を突破し、市長の念願を果たすこととなった。
田尻家が町田市に移り住んだのは、そうしたニュータウン計画の真つ最中のことだ。町田市を別名”団地都市“と呼ばせるきっかけともなった鶴川団地ができ、都営住宅なども建てられていった。そして、続々と都心から町田市へ移り住みはじめた家族のうちのひとつが、田尻家だったというわけである。
さとしは、町田という新天地に移るとともに、私立こひつじ保育園に入園し、その後、同幼稚園に通うことになる。
当時の田尻家の経済状況は、ごく平均的な中流家庭であった。決して裕福ではないが、かといってことさら貧しいわけでもない。そんな状況であったからこそ、家賃一万二000円の借家暮らしから、家賃がわずか四九〇〇円の都営住宅へ転居できたことは、田尻家の経済にとって、大きな救いとなった。しかし、新しい住まいは確保したものの、それを境に経済状況が急に好転したわけではない。住宅費

第2部  ゲ一ムフリーク  144

への負担が減りはしたが、その代わりに、今度は子供の養育費が必要になってくるのだ。相変わらず、一家三人のつましい暮らしは続いていた。
「子供の頃は、なかなか欲しいものを買ってもらうことができませんでした。年に数回だけ、どうしても欲しいものや、勉強に関係のあるものだけは買ってもらえましたけど。だから、一度買ってもらったおもちやで、いつまでも、何度でも遊ぶんです」幼少時のさとしは、テレビのアニメーション番組や漫画雑誌をほとんど見ない子供だった。けれど、それは決して、テレビアニメのおもちやを欲しがらないようにと、親が子供の興味をおさえつけていたわけではない。また、さとし自身がテレビに興味を持っていなかったわけでもない。事実、彼はそれから数年後の小学生時代には、熱心なテレビつ子となる。本人のいうところによると、自分の喋った言葉でもっとも古い記憶にあるのは「赤影参上!」だったそうである。
それはともかくとして、テレビの娯楽よりもなによりも、さとし少年の心を強烈にとらえるものが、町田市にはあつた。
家の周囲に繁る草原。わずかながらも残っている田畑。水の流れる小川……。都心部ではすでに消えつつある自然の遊び場が、さとし少年の目の前にひろがっていたのだ。町田市は新興住宅地であったため、付近の住人たちも皆が同程度の経済状況であり、所得の格差による差別意識のようなものは皆無であった。そうした場所で、さとしは毎日のように原っぱを自由に駆けまわっていた。
父母の寵愛を受け、すくすくと育っていったさとしは、やがて町田市立第六小学校に入学する。しか

145  第1章  少年さとし

し、彼はこの小学校には二年間しか籍を置いていない。この時期の町田市は前述したように新興住宅地であったため、日を追うごとに住人の数が増え、新しい学校がいくつも増設されていった。そこで、さとしは三年生になった年から町田市立南大谷小学校に編入することになったのだ。この南大谷小学校で、さとしは自分の人生に多大な影響をおよぼす恩師と出会うことになる。彼のクラスを五年生から卒業までの二年間担任した、谷田川和夫先生である。現在は都留文科大学で講師を務めている先生は、当時の様子を次のように回想する。「あの頃は、ひとクラスが四〇人前後でしたか。わたしが教員をはじめた頃は、クラスに六〇人近くもいたことがあるので、四〇人のクラスというのは少なく感じたものです。それでも、少子化が進むいまからすれば、やはり四〇人は多いのでしょうね。そうしたなかでも、さとし君は非常に印象に残る子供でした。みんなが自分のことだけで精一杯なときにも、彼は本当に面倒見がよくて、率先していろいろなことに挑戦するタイプでした」当時の南大谷小学校では、毎週土曜日の午後に下級生たちを集め、上級生がスポーツや様々なゲー厶を教える”とんぼ少年団“という活動があった。けれど、その活動に積極的に参加する上級生はあまり多くなかった。
ところが、先生の「少年団をやってくれる子はいないか?」との問いかけに、さとしは真つ先に「ぼく、やりたいです!」と手を挙げたのだという。
また、さとし少年は授業においても、与えられたテーマを研究したり、それをまとめて発表するということに対して、常に積極的な取り組み方をみせる子供だったようだ。

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▶絵を描くのだけは苦手だったさとしが、自分の言いたいことを表現するために一生懸命イラストを描いているのが伝わってくる。また、次号予告が入っているあたりに、与えられた宿題を仕方なくこなすのではなく、積極的に勉強に取り組む姿勢がうかがえる。
]]

谷田川先生の授業では、教科書を読んで聞かせることよりも、生徒たちになにかしらの研究テーマを与え、その結果を生徒自身に発表させるスタイルのものが多かった。なかでも、さとしの研究発表は群を抜いて優れたものであったという。とある研究テーマについて、さとしが教室で発表をしたときのことだ。
自分でまとめた研究の結果——それは模造紙に書かれたものだった——を黒板に貼り、教壇に立つて発表をはじめるさとし。模造紙には、必要最小限のことがわかりやすい文章と図解でまとめられている。さとしはそれらを示しながら、クラスのみんなに向かって、理路整然と解説を加えていく。こうした授業のとき、いつもは騒がしくなる教室内も、このときばかりは静かだった。クラスメイ卜たちは吸い寄せられるように、さとしの説明に聞き入る。さとしの研究発表は次第に熱を帯び、結局、授業時間の大半を費やしてしまうことにな

147  第1章  少年さとし

った。
その様子を教壇の横で見ていた谷田川先生は、心底驚いたという。教師が苦労して作った教材で授業をするよりも、さとし少年が研究発表をしているときの方が、それを見つめる生徒たちの顔が輝いていたからだ。
「やはり子供というのは、子供が教育をするんですね……」
と、谷田川先生はいう。
前頁に掲載したのは、当時のさとしが室町時代の交易についてまとめたものだ。本文と図解、挿し絵などがバランスよく配置されており、小学六年生とは思えないその完成度の高さに、あらためて驚かされることだろう。本文の内容についても、大半の生徒は教科書や資料に書かれていることを丸写しにしていたが、さとしのレポー卜は複数の資料から得た事実を咀嚼して「きちんと自分の言葉で書かれていた」と、先生は評価している。
このように、さとしが勉強に対して熱心に取り組んでいたのには、母親の存在が大きく影響している。たいていの母親は子供に対して「勉強しなさい」というだけで、それ以外にはなにも手を貸すことはしない。しかし、さとしの母は常に子供と一緒になって勉強をしてきた。そのことを裏付けるひとつのエピソードが、谷田川先生の著書『学級通信活動のすすめかた』(ー九七八年あゆみ出版)のなかに記されていた。六年生の社会科の授業のときのことだった。以下に引用してみよう。

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「学級通信」偶然?幸運?
田尻君のお母さんが、パーマ屋さんで読んだ『週刊女性』の中に、猿人・ラマピテクスの化石発見という記事を見たこと先日、田尻君が左のページのようなニュースカード(模造紙大のカレンダーの裏に)を作ってきました。ちょうど、歴史で人類の祖先——ラマピテクスのことを勉強していたときです。こんなに学習にぴったり当てはまったニュースがどうして見つかったのか不思議に思いました。田尻君に聞いてみるとこうなのです。
——きのう、田尻君のお母さんがパーマ屋さんへ行って『週刊女性』を見ていたら、この記事があったのです。田尻君から、学校で、いま、人類の起源について勉強していることを思い出したお母さんは、お店の人にたのんで、この雑誌をいただいてきたとのこと。田尻君はこれをニュースカードにまとめてきたのです。お母さんがパーマ屋さんでこんな週刊誌に目をとめることができたということは、偶然とはいえ、幸運でした。学校で勉強していることをお母さんに話していた田尻君、学級通信や学年通信、田尻君との話など思い出して、(この記事は社会科の勉強にぴったりだ)と気がついてくださったお母さん。偶然以上の何かがあったのです。

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さとしの母は必ずしも教育ママとい一つタイプではなかったが、人並み程度には「勉強をしなさい」といい続けていた。さとし自身も、基本的には勉強を苦にせず、むしろ率先して勉強に取り組む子供であったが、それでも遊び盛りの子供であれば、宿題などよりも外へ遊びに行きたくなることがあるのは無理もない。やらなければならない宿題もしないで遊んでいる息子に向かって、母が叱りつけることも少なくなかったとい一つ。
あるとき、母はさとしにいった。
「ねえ、さとし。お前が自分からちやんと勉強をするのなら、お母さんはもう『勉強しろ勉強しろ』なんていわないんだよ」
すると、さとしは神妙な顔をして答えた。
「お母さん、ぼくは反抗したりもするけど……、それでも、ぼくに『勉強しろ』っていってください」親から頭ごなしに勉強しろといわれれば、当然、子供は反発したくなる。その気持ちは止めることができない。けれど、さとしは心の底で、自分が母に感謝していることを自覚していた。あまりにも不器用な感情表現ではあったが、さとしは精一杯の想いを込めて「勉強しろっていってください」と、そう言葉にしたのだ。

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■小さな昆虫博士

根は勤勉なはずのさとし少年が、勉強をおろそかにしてまで夢中になっていた遊びとはなにか。それが、昆虫採集である。
東京都でも、二十三区内と比較してみれば当時の町田市には、わずかながらも緑が残っていた。大人の目には、開発が進んで自然などはほとんど残されていないように見えても、子供の視点からすれば、まだまだ虫やザリガニが生息する場所はたくさんみつけられた。遠くの山まで出かけずとも、家の周囲には虫のたくさん棲む竹薮や畑があった。ザリガニが豊富に捕れる小川もあった。夏には、縁側にスイカを置いておけば虫が飛んでくる。学校行事には田植えや餅つき大会などのイベントがある。また、近所の墓場にも大量の虫が集まってくる。そんな環境に暮らす男の子ならば、虫が大好きになるのは当然のことだった。
当時、さとしは子供心に「こんなに虫が好きな自分は、将来きっと昆虫博士になるんだろうな」と考えていたという。
だからといって、虫捕りに興味を持ちはじめた最初から、簡単に虫を捕まえることができたわけではない。虫捕りのための技術と知恵を身につけていなかったということもあるが、それよりもどうせ捕まえるのならば、子供たちに人気があり、なおかつもっとも捕まえるのが困難な虫——ノコギリクワガタでなければ、虫捕り仲間の間ではヒーローになれないからだ。

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当時のさとしとその友達の間では、人気がある虫の順に、
一位「ノコギリクワガタのオス」
二位「ノコギリクワガタの変種(ツノが小さい)」
三位「コクワガタのオス」
四位「ノコギリクワガタのメス」
五位「コクワガタのメス」
というようなランキングがあった。これにしたがって、より人気の高い虫を捕まえようと思うなら、まず重要なのは単独で行動することだった。いくら秘密のスポットをみつけても、ライバルと一緒に行動したのでは、先を越されてしまうかもしれないからだ。
当時、彼らの地元周辺でもっとも虫がたくさんいると噂されていたのが、近所にある墓場だった。さとしはクワガタ欲しさのあまり、幽霊が出るかもしれないという恐怖心を抑え、朝の四時から早起きをして、独りで自転車にまたがり出かけていった。
しかし、目的となる大物は、なんの知識も持たず、ただ興味のままにおもむいた少年の手で簡単に捕まえられるものではなかった。せっかく出かけていったのに、一匹の虫にも出会えず、空っぽの虫カゴを下げて帰る日も多かった。
虫が好きな子供であれば、当然いっかは『ファーブル昆虫記』を手にすることになる。それはさとしも例外ではなかった。しかし、彼がはじめて読んだ昆虫のバイブルは、あまりおもしろいとは感じられな

第2部  ゲームフリーク  152

かった。その理由は「文字ばっかりで、ほとんど絵がなかったから」だという。当時、さとしが手にした『ファーブル昆虫記』が、いつの版のものなのかはわからない。しかし、有名な大杉栄訳のものでさえ欧文の直訳体であるため、プ口の昆虫学者の間でも「その文章からは虫の姿や生活ぶりが想像しづらい」といわれている。ならば小学校低学年のさとしが興味を惹かれなかったのも無理はないだろう。
それよりも彼の心を強烈にとらえたのは、普通に書店で売られている図鑑だった。母に買ってもらった『学研の図鑑昆虫』(学習研究社)を、さとしは母と一緒に何度も読んだ。そのなかから、虫の生態について多くのことを学んだ。テレビを見ているときでさえ、い

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▶さとし少年が愛用していた『学研の図鑑』。表紙はすり切れ、本文にはところどころさとしの字で書ぎ込みがされている。
]]

153  第1章  少年さとし

つもこの図鑑をそばに置き、一瞬でも画面に虫が映ると、その名前を図鑑で調べた。
小学三年生の頃。
昆虫採集のライバルたちは「虫を捕るならエサを仕掛ければいい」と考え、樹の幹にハチミツを塗ったり、キュウリのかけらを置いてみたりしたが、思うように虫はやってきてくれない。けれど、図鑑の記述から「クワガタは昼間は寝ていて、夜になると活動をはじめる」という習性を知ったさとしは、樹の根本にエサではなく、大きな石を置くことを思いついた。夜中の活動を終えたクワガタは、きっと朝になると樹から降りてきて、石の下に潜り込んで眠るに違いない、と考えたからだ。翌日の昼間。前夜のうちにこっそり仕掛けておいた石をどけてみると、さとしの予想通り、そこにはノコギリクワガタが眠っていた!それ以来、さとしは早起きをすることもなく、しかし誰よりも虫をたくさん捕まえることができるようになったのだ。
気が済むまで虫を捕れるようになったさとしだが、今度は、自分が捕まえてきた虫たちが、すぐに死んでしまうことに疑問を抱くようになった。それまでは、虫を捕まえてはおもちゃにし、寿命が尽きたらまた新しい虫を探しに行くという、無益な行為の繰り返しだったが、「どうすればクワガタ厶シを長生きさせられるのか?」という問題にぶっかったとき、虫は彼にとつて単なる遊びの対象ではなく、大きな興味をそそる研究対象となったのである。
ふたたび昆虫図鑑で調べてみると、虫は「秋の急激な気温の変化で死ぬ」ということがわかった。そこで、自宅のまわりでもっとも温度変化の少ない場所——それは自宅の便所脇にある水道の下だった——に、虫を飼育している水槽を置いてみた。

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水槽の底には腐葉土をたくさん敷いた。エサにはキュウリや桃よりも、腐りにくいリンゴの方がよいということもわかった。クワガタは、冬の間はほとんど動かず土のなかに潜っているが、たまに水分補給のためにリンゴの汁を吸いに出てくるのだ。
さとしは、大切なクワガタのために、思いつく限りのあらゆる環境の整備をおこなった。
学校から帰ってくると、真つ先に水槽をのぞく習慣ができた。しかしガラスのなかの宝物は、その体の半分を土に埋もれさせ、死んだように動かない。それでもさとしは毎日エサを交換し、辛抱強く冬が過ぎ去るのを待った。
そして数カ月が経ち、ようやく風が暖かくなりはじめた頃。いつものように学校から帰ってきたさとしは、水槽のなかでゆっくりと動き出しているクワガタの姿を見たのだった。
こうして見事、クワガタを越冬させることに成功したさとしだったが、慎重な性格をしていた彼は、その事実をすぐに友達に話すことはしなかった。その代わり、彼は自分の実験結果を確認するため、ラジォの『全国子供相談室』に電話をかけてみた。しかし、そのときは回線が混雑していたためか、何度ダイヤルしても電話はつながらなかった。
それからしばらく経ったある日。
いつものようにラジオで『全国子供相談室』を聞いていると、自分が知りたかったこととまったく同じ内容の質問をしている子供がいた。そして、質問に対する回答者の答えは、まさに自分が図鑑で調べ、実験で検証した通りの内容だったのだ。さとし少年は、昆虫に対する自分のアプローチが正しかったことを確信したのである。

155  第1章  少年さとし

少年期のさとしは、幼いながらも真剣に虫を研究していた。しかし、探求心というものは、ときに残酷な興味へと向かうことがある。それが子供であればなおさらだ。
クワガタ厶シやカブトムシこそ大切にしていたが、他の多くの虫は、そのメカニズムを知るための恰好の実験台となつた。
たとえば、バッタのふかふかした腹にはなにが入っているのか?そんなことに興味を持ったさとしは、昆虫採集セットを手に入れて、防腐剤をバッタの腹に注射することを試みた。しかし、見た目の上ではなんの変化も見られない。それではおもしろくないので、今度は防腐剤に風呂場の入浴剤を混ぜ合わせて薄緑色の液を作り、それを注射してみることをした。そのカラフルな色に、なんとなく効き目がありそうな感じがしたからだ。もちろん、そこにはなんの意味もなく、無駄にバッタを殺してしまうだけの結果に終わった。
なぜか無性に蛾を憎んで、数多く殺したこともあった。当時、生糸を運送するために敷設された横浜線の沿線には桑畑がたくさんあり、そこには毛虫がたくさん生息していた。虫好きな少年の目から見ても気持ちの悪い外見と、それが害虫であることを知ってもいたので、徹底的に退治してやろうと思ったのだ。
冬になると、ミノムシに制裁を加えた。まるで歯磨きのチューブのように、お尻から押し出して、本体を剥き出しにして遊ぶのだ。しかし、枯れ葉や小枝で巣を作るというミノムシ特有の生体は、解剖という残酷な興味を満足させるとともに、生命の不思議さという点でも、さとし少年の好奇心をおおい

第2部  ゲームフリーク  156

に刺激した。
昆虫採集といえば、普通は”標本を作る“のがおもな目的となる。もちろん、さとしも標本作りに手を出したことはあるが、それはすぐにやめてしまった。いくら虫がたくさん生息する環境とはいえ、自宅周辺の限定された土壌では、入手できる虫の種類にも限界があるからだ。同じような虫ばかりで標本を作っても、あまりおもしろくはない。そしてなによりも「死んだ虫は動かなくてつまらない」という、いかにも好奇心に満ちた子供らしい理由が大きかったようだ。
さとしにとっての幸福は、周囲に虫があふれていたこと。生き物の知識が増える環境にいたこと。自宅から数十分の場所にある化学工場の敷地内へ、虫を捕るために忍び込んだこともある。このときは、周辺に設置してあった鉄条網を乗り越えようとして、ふくらはぎを針金に引っかけ、大きな傷を負った。大量に血を流しながらも、病院に運ばれたさとしは麻酔を打つことなく傷口を縫い合わせた。絵に描いたような腕白小僧である。
またあるときは、廃虚となったプール施設に忍び込んだこともある。このときは虫ではなく、ザリガ二を釣るためだった。
このプール施設は、クラスの誰も近づこうとはしない禁断の場所だった。なぜならそこには、さとし日く”こっちや来いおじさん“が出没するという噂があったからだ。独りで遊んでいる子供を見かけると「こっちや来〜い」と手招きし、悪戯をしようとする悪い大人である(昔はそういう人間がどこの町にも一人くらいはいたものだ)。
そんな、親が知ったら卒倒するような場所でも、少年の好奇心は止めることができない。さとしは

157  第1章  少年さとし

ザリガニを求めて、使われなくなったプールの横にある崩れかけた建物に入っていつた。
建物の地下一階部分にはプールの水が流れ込んで、ちよつとした澱みができていた。そこに数多くのザリガニが生息しているのだ。さとしはその澱みの上に、打ち捨てられていた段ボールを浮かべ、いくらでもザリガニを釣ることができた。最初はイ力をエサにして釣るのだが、イカでは食いっきが悪い。じつは、ザリガニを釣るためには、ザリガニそのものをエサにするのがいちばんなのだ。そこで、はじめだけは苦心してイ力で釣り、一匹•釣りあげることができたら、そのザリガニの殻をむく。取り出した身を手でちぎり、エサとして針につける。すると、いままでの苦労が嘘のように釣れはじめるのである。
沼では、ヒキガエルやトノサマガエル、オタマジャクシなどを捕った。オタマジャクシの腹は透けており、渦巻き状になった腸が見えるのが興味深か

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◀二ヨロモの腹に描かれた渦巻ぎには、さとしが昆虫やオタマジャクシを捕るのに熱中していた頃の体験が、如実にあらわれている。
]]
[[IMAGE CAPTION 2|
©1995,1996 Nintendo / Creatures inc. / GAME FREAK inc.
]]

第2部  ゲームフリーク  158

った。こうした水棲生物には虫とはまた違ったおもしろみがあり、クワガタの飼育と並行して、さとしはずいぶん長い間、ザリガニなどの飼育にも熱中していた。
これらの虫やザリガニなどの飼育は、さとしだけでなく、母も一緒になってやっていたという。勉強をおろそかにされては困るが、生来の研究熱心さは親譲りのものだったのだろう。母は息子が虫の飼育に熱中していても心配することなく、むしろ物事に真剣に取り組むのは良いことだと考え、積極的にカを貸したのである。
本書の取材のため、母親にも当時の話を聞かせてもらったが、先に田尻智へインタビューをおこなったときと同じように、クワガタの生態や飼育法についてかなり克明な情報が母の口からも出てくるのが、非常に興味深かった。
「最初は息子につき合わされていただけなのに、そのうち、わたしまで虫に詳しくなってしまって……」と、照れながらも生き生きと虫の話をしてくれる母親の姿を見て、筆者はいまの田尻智という人物が形成された秘密を見たような気がした。

159  第1章  少年さとし

■インベーダーの襲来

田尻には、中学一年まで”積極的な虫好き“としての時期が続いていたが、その後、急速に周囲の環境から虫たちが姿を消しはじめていく。自宅周辺の小川が、片つ端から護岸工事のためにコンクリー卜で固められていったのだ。
もちろん、それはその土地で生活する者にとって”洪水対策“という意味を持つ重要な事業だったのだろうが、日々の安全の代わりに、虫を愛した少年からは大切な夢を奪い取ることにもなった。
ところが——。
もはや虫を捕りに行くこともできない、と悲嘆にくれている田尻の前に、想像もしなかったまったく新しい夢が姿を現した。
『スペースインベーダー』である。
ある日突然、駅前の釣り堀がゲー厶センターに変わった。ゲー厶センターといっても、現在の”アミューズメント・スペース“と呼称されるような、若いカップル客でにぎわうような明るい場所ではなかった。急ごしらえされたベニヤ板の看板に大書きされた”インベーダーハウス“の文字。そのまわりを飾る電飾。場末のキャバレーと見紛うようなチープな華やかさとはうって変わって、一歩店内に足を踏み入れると、そこは薄暗い空間だ。塗り立てられたペンキの匂いも鼻をつく。そして暗い店内にはいくつものゲー厶機が並べられており、それぞれが妖しい光の点滅と、不規則な電子音を奏でている。

第2部  ゲームフリーク  160

昆虫少年だった田尻は、噂に聞いていたビデオゲー厶というものに、それほどの強い興味を感じてはいなかった。それが、なぜそのゲー厶センターへ遊びに行ってみる気になったのかといえば、単に親しかった友人から誘われたというだけに過ぎない。
店内に並んでいたのは、タイトー社がー九七七年に制作した『スペースインベーダー』というゲー厶だった。これはビデオゲー厶黎明期の名作『ブロック崩し』をもとにして考案された、シューティングゲー厶である。発表されるやいなや爆発的な人気を集め、日本中にゲー厶センターを建設させるきっかけにもなった、ゲー厶史に残る傑作だ。
また、この頃のビデオゲー厶はテーブル型をした筐体に収められていたため、喫茶店でもテーブル代わりに設置することができ、それがまた普及に拍車をかけることにもなった。
当時のゲー厶はマシン設計だけでなく、ゲー厶基板の構造も単純なものだった。そのため『スペースインベーダー』がヒットすると、まもなく市場には数多くの類似商品が出まわるようになつた。これらの多くは、オリジナル基板のデータを不法にコピーしたものが大半だったが、なかには、現在でも名の知られた大手ゲームメーカーが、『スペースインベーダー』のアレンジ商品として製造していたものもあった。企業のモラルに照らしてみればあまり褒められた話ではないが、当時はいまほどビデオゲー厶(コンピュータプログラム)の著作権というものが確立しておらず、ほとんどが野放しの状態だったのである(いや、むしろここでは、そうしたことでゲームがより広く世間に普及し、数多くのゲームメーカ—がゲーム作りのノウハウを蓄積していくことができ、それが現在のゲーム文化の発展につながったのだと、前向きに解釈しておこう)。

161  第1章  少年さとし

無数の『スペースインベーダー』もどきのゲー厶は、オリジナルも含め、一括して”インベーダーゲー厶“と呼ばれていた。いまとなっては、二十年も昔の町田のインベーダーハウスにあったゲー厶が、オリジナルの『スペースインベーダー』だったのか、あるいは違法なコピー品だったのかはわからない。けれど、ともかくこうして田尻はインベーダーたちがひしめく薄暗い空間に、最初の一歩を踏み入れたのだった。友人は、そそくさとインベーダーゲー厶のテーブル席に着くなり、躊躇なく百円玉を投入すると「最初の一機はきみにやるよ」といった。
現在はともかく、ー九七八年当時の中学生にとって、少ない小遣いのなかの丨〇〇円は、それなりに重みのある金額だ。ゲー厶が得意ならばいいが、そうでない場合、せっかく投入した丨〇〇円はものの数十秒で電子の泡と消える。
そこで、当時のゲー厶少年たちは、ひとつしかない百円玉をできるだけ有効に使うために、複数のキヤラクターを分け合って遊ぶ、という方法を考え出した。
『スペースインベーダー』で、プレイヤーが操作するキャラクターの”砲台“は三機ある。田尻の優しい友人は、そのうちの一機をゲー厶初心者の彼のために譲ってくれたのである。
「最初はゲー厶なんて興味なかったんです。ほんのいっとき遊ぶだけで終わり、あとにはなにも残らない。そんなゲー厶にお金を使うなんて、むなしいだけだと思っていました。でも、はじめてプレイしたインベーダーゲー厶で、僕は妙にいい得点を出したんですね。最初の面のインベーダーを一機の砲台で半分ほど倒して、だいたい四五〇点くらいだったかな。そのときは、とくに嬉しいわけでも、悔しいわけでもありませんでした。ああ、こんなものなのかと思っただけで、すぐ家に帰りました。

第2部  ゲームフリーク  162

でも、翌日からはもう、その駅前のゲー厶センターに通っていたんです」
その日から、田尻のゲー厶を中心とした生活がはじまった。きっかけは友人がくれた一機の砲台だった。その一機が彼の人生を変えた。家で遊んでいても、学校にいても、四六時中ビデオゲー厶のことを考えるようになった。
ビデオゲー厶の画面は、小さなドット(点)の集合で表現されている。数学の授業で使う方眼紙を見ていても、インベーダーのドット絵が頭に浮かぶ。意味もなく、方眼紙にドット絵を描きまくった。まだ、ゲー厶を作りたいなどという、明確な目的があったわけではない。ただ無性にゲー厶のことを考えていたかったのだ。
もちろん、実際にゲー厶センターへも足繁く通い、繰り返しゲームをプレイした。ゲー厶の代金は、毎月、母からもらっていた小遣いのほとんどを注ぎ込んだ。参考書を買うといってお金をもらい、肝心の参考書は同じものを古本屋で手に入れ、浮いた差額をゲー厶に費やしたこともある。小遣いを使い果たして一文無しになつても、ゲー厶センターにだけは足を運んだ。ゲー厶をしている知らない大人のうしろに立ち、そのプレイを観察しているだけでも楽しかったからだ(この観察という行為は、結果として冷静にゲー厶を見つめることにもなり、のちにゲー厶の制作者となってからは、ゲー厶の構造作りのために、大いに役立った)。
小遣いがなくても、そうやって我慢できるうちはいい。しかし、いっしかゲー厶をしたいという欲求が耐え難いものになってくると、ついには親の財布に手を伸ばすようなこともした。
——不良になったと思っているだろうな。

163  第1章  少年さとし

親の気持ちを想像して、激しい罪悪感にさいなまれもしたが、もはやゲー厶への欲望は止められなかった。昆虫採集から卒業した少年の前に現れたビデオゲー厶は、何物にも変えられない輝きを持っていた。いままでのどんな遊びにも似ていないおもしろさは、強烈に彼の心をとらえ、虜にした。「あの頃の僕は、とにかくゲー厶センターへ行くことが生活のなかでの最重要事でした。たぶん、あの頃だったら、親が死んでもゲー厶センターに行っていただろうと思います」
当時、ゲー厶センターという場所に対する社会的イメージは最悪のものだった。店内の薄暗さから漂う怪しい雰囲気。テーブル筐体に向かって背中を曲げ、無言でプレイする陰気な姿。料金ボックスに次々と吸い込まれていくお金。ゲー厶代欲しさの万引き、カツアゲ。果ては、ゲー厶センターが暴力団の資金源になっているという噂……。
日本で産声をあげたばかりのゲー厶センターには、そんなレッテルが貼られた。けれど、どんなに周囲がゲー厶センターを悪者に仕立てあげようとも、田尻自身にとって、ビデオゲー厶が放つ魅力は、決して色褪せることがなかった。

■孤独な研究者

一般的に見れば、それまでの田尻は優等生の部類に入っていただろう。しかし、この頃からそれは少しずつ変わりはじめた。極端に成績が落ちるようなことこそなかったものの、ゲー厶センターにばかり

第2部  ゲームフリーク  164

入り浸っている少年の姿は、世間一般の目から見ればあまり褒められたものではない。そんな息子の姿に、母親としてはさぞ不安な想いを抱いていただろうと思ったのだが、取材に答える母のロからは意外な言葉が返ってきた。
「それが……、心配というのは少しもなかったんです。親馬鹿といわれるかもしれませんが、あの子は小さい頃からなんにでも真剣に取り組む性格でした。学校の研究発表もそうでしたし、虫捕りをしていたときもそうです。ただむやみに虫を捕まえるのではなくて、それを飼育するためにたくさんの本を読んだりして、一生懸命になるんです。だからゲー厶に夢中になっているのを知ったときも、ただ無駄遣いをしているのではなく、きっとゲー厶というものに、あの子なりの魅力をみつけて取り組んでいるのだろうと思いましたから」こうして田尻の幸福なゲー厶センター通いは続いた。いつもは地元のゲー厶センターに足を運んでいたが、少ない小遣いをできるだけ有効に使うため、ときには遠くの店まで遠征しに行くこともあった。インベーダーゲー厶を一回プレイする料金は、基本的にどこの店でも同じ丨〇〇円だった。しかし、店によっては1回のプレイで使える砲台の数を三機から四機、あるいは五機というように、内部のディップスウィッチを操作してやることで、実質的なゲー厶料金のディスカウントをしているところもあったのだ。「たとえば、隣の町にできたインベーダーハウスでは最初の砲台が五機あるぞ、なんて情報を聞くと、さっそく行ってみるんです。そういう辺鄙なところでひたすら練習を続けて、着実に上達したら都会のゲー厶センターに行って、腕前を披露してみせるわけです」『スペースインベーダー』に限らず、ビデオゲー厶というものは、ただ漫然と遊んでいても上達するような

165  第1章  少年さとし

ものではない。しかし、田尻は幼少時から身につけていた持ち前の研究熱心さで、ゲー厶(゠ルール)の構造を読み解こうとした。

・一画面のなかにインベーダーは全部で何体いるのか?
・それぞれのインベーダーが画面の左右に移動する周期は?
・インベーダーの一群が下段に降りてくるときの条件は?
・砲台が発射するミサイルは同一画面内に最高で何発までなのか?
・飛来するUFOの得点はどのような法則で決定されているのか?

そうしたゲー厶のなかに仕組まれた法則を解明していくことにより、おのずと対処法も見えてくる。理論で読み解いたものを技術で実践していく。
こうして田尻は、瞬く間に優秀なゲー厶プレイヤーとなり、新宿などの有名ゲー厶センターでも、常にハイスコア・ランキングの上位に名を連ねるようになっていった。ゲー厶マニアの間で”タジリサトシ“の名前が知れ渡っていくのに、そう長い時間はかからなかった。
田尻が『スペースインベーダー』を完全に極めた頃、それを待つていたかのように、インベーダ—・ブー厶も終焉を迎えていた。けれど、この社会現象をきっかけとして、ビデオゲー厶という新しい娯楽は、確実に世の中に芽を植えつけていた。

第2部  ゲームフリーク  166

町のゲームセンターには、『スペースインベーダー』に続けとばかりに、新しいゲーム機が続々と投入されはじめていた。なかには、まったく話題にならずに消えていったゲー厶も多い。しかし、いまでも名作として語り継がれる作品が登場してきたのも、この頃だった。
そして『スペースインベーダー』を極めてもなお、田尻のゲー厶に対する研究意欲は衰えるどころか、ますます加熱していった。相変わらず小遣いは少ないままで、貴重なプレイ時間だったからこそ、ただ漫然と遊ぶのではなく、そのゲー厶が持っている魅力の秘密を探ろうと、必死に思考を巡らせた。たとえば『パックマン』。これは主人公キャラクターのパックマンを操作して、迷路のなかをモンスターから逃げながら、点で描かれたエサを食べていくという”ドット・イート・タイプ“のゲー厶だ。パックマンに襲いかかるのは四種類のモンスターであり、追いかけ型、先まわり型など、それぞれが異なる法則にしたがってパックマンを追いつめる。これらのモンスターの移動アルゴリズムを分析することで、田尻は安全な攻略ルートを発見してみせた。同様に、モンスターはパックマンよりも迷路の角を曲がるときのスピードが遅いことを発見し、角をたくさん曲がりながら逃げれば、案外らくに引き離すことができるというテクニックも編み出した。
あるいは『ゼビウス』。これは、未来の戦闘機ソルバルウを操作して、空中・地上それぞれの敵兵器を撃破してゆくシューティングゲー厶だ。
ここでは、自分のソルバルウが画面の右側にいれば敵の戦闘機は左側から、自分が左側にいれば敵は右側から出現する、といったような法則を解明することで、確実な敵機の撃墜を実践してみせた。はじめのうちは、田尻もゲー厶の攻略法をみつけ出し、自分のプレイに役立てるだけで満足していた。

167  第1章  少年さとし

しかし、いつしか彼は、これらの情報を自分のためだけではなく、自分と同じような気持ちで、日夜ゲー厶に取り組んでいる仲間たちのために提供できないだろうかと、考えはじめるようになつた。当時は、現在のようなゲー厶情報が掲載された専門の雑誌はまだ存在していなかった。だからこそ、それを豆本なり小冊子なりにまとめてやれば、ゲー厶プレイヤーたちからの大きな需要があるだろう、と考えたのだ。
この時点ではまだ、ゲー厶そのものを作る、という考えには至っていなかったが、ゲー厶にまつわる何事かを他者に向けて発信するという意味で、ゲー厶の情報誌作りは、クリエイター田尻智の最初の一歩となったのである。

■作り手としての想いの芽生え

田尻がどれほどゲー厶を好きだったのか?
そのことを考えるとき、筆者には忘れることのできないエピソードがある。それは、ゲー厶フリークの仲間の一人が本業の都合で京都に住んでいたときのことだ。
久しぶりにその彼と会うついでに京都まで遊びに行こうと、田尻と筆者は車を飛ばして出かけていった。会社を作ったといっても、当時はまだそれほどの利益があるわけでもない。そこで、少しでも交通費を節約するために高速道路は使わず、一般道を走り続けて京都まで向かつていった。運転免許の

第2部  ゲームフリーク  168

ない筆者は、往きも帰りも田尻の運転する横に座ったままであった。
途中、いくつかのドライブインで休憩をとりながらの運転とはいえ、東京から京都までは片道八時間以上もかかる強行軍だ。その間、田尻は一言も文句もいわず、むしろ、カーステレオで『アウトラン』(丨九八五年セガ社のドライブゲー厶)のミュージックテープをかけて、いかにも楽しげに運転をしていたほどだった。
筆者はそんな田尻にすまない気持ちになりながらも、なぜそんなに元気なのか?長時間の運転は辛くないのか?そう訊ねてみた。すると、彼はこう答えたのだ。
「アウトランやってると思えば、ぜ一んぜん!」
田尻には、他の多くのゲー厶マニアたちと決定的に違っているところがひとつある。それは、ゲー厶への”接し方“だ。
たいていのゲー厶マニアたちは、ロでは「ゲー厶が好きだ」といいながらも、自分のプレイが思うようにいかないときには、操作レバーを殴りつけたり、コントローラを床に叩きつけるなどして、その怒りをゲ—厶機にぶつけることがある。自分のテクニックの未熟さを、ゲー厶側の責任に転嫁してしまつのだ。けれど、田尻は決してそういうことをしない。たとえそれがどんなに出来の悪いゲー厶であったとしても、電源を入れたからには真剣にプレイする。ゲー厶が終われば、ゲー厶機のコントローラを外し、ケ—ブルをくるくると巻き取って元の位置にしまう。
それは、少々くさい言葉になるが、まさにゲー厶への”愛“だろう。ほとんどのマニアにとってゲー厶とは、出現する敵を「いかに撃破するか」という勝ち負けの意識を強く持ったものであるのに対し、田尻は

169  第1章  少年さとし

ゲー厶と真正面から向きあう。
このことについて、石原は雑誌でのインタビューで次のように答えている。
「いわゆるゲー厶オタクたちからは、キャラクターを退治してやるという意識ばかりが感じられたんですね。ところが田尻君は同じタイジでもゲー厶と対峙して、その魅力を面白く人に伝えようとしていた。(中略)彼だけは外部との対話を求めているように感じたのです」
(前出『アントレ』ー九九七年八月号より)
どんなに出来の悪いゲー厶にも、よいところがひとっくらいはある。その反対に、名作と呼ばれているゲー厶にも、制作上の欠点はある。それは、ゲー厶に没頭し、自分のテクニックを見せつけることにしか興味がない人間には、見えてこないことだ。常に冷静にゲー厶と対峙して、注意深い観察眼を注いでやることによって、そのゲー厶の本質が見えてくる。これこそ”批評“の第一歩だといえるだろう。石原が田尻から感じとっていた”外部との対話への欲求“は、形の異なるふたつの行動となって、田尻を突き動かした。そのうちのひとつが、ゲー厶情報冊子を作ることであり、もうひとつが、新しいゲー厶のアイデアを考えることであった。

ゲー厶情報誌の制作を思いつくのと時期を前後して、田尻は何度か、メーカー主催のゲー厶アイデア・コンテストに応募している。まさか自分がゲー厶を作れるなどとは思っていなかったにせよ、メーカーにアイデアを提供することで、自分もゲー厶作りに関わることができるかもしれないというのは、熱心なゲー厶少年にとって非常にリアリティのある夢だったに違いない。また、それはごく普通の少年がゲー

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厶への想いを世の中に発信するための、数少ないチャンスでもあった。
ー九八〇年、『ミスタ—Do!』などのアクションゲー厶で人気を集めていたユニバーサル社(現・アルゼ株式会社)は、《ユニバーサル・ゲー厶アイデア・コンテスト》を開催した。一位入選の賞金は五〇万円である(当時の資料によれば、このコンテストには五〇〇〇以上ものアイデアが寄せられたという)。その募集の知らせを雑誌で見た田尻は、『闇夜のカラス』と題するゲームアイデアを応募した。画面は真つ暗闇。プレイヤーはハンターとなり、猟銃でカラスを狙っている。ときどき飛んでくるカラスは、体が黒いので暗闇のなかでは見えない。しかし、カラスの目玉は白く、ときたま目を開けたときにだけ、プレイヤーはカラスの位置を知ることができる、というものだった。中学三年生が考えたものにしては、なかなかひねりの効いたアイデアではあるが、ユニバーサル社から届いた通知には、田尻のアイデアが落選したことを知らせる手紙と共に、記念のキーホルダーが同封されていた。少なからず自分のアイデアに自信を持っていた彼は、そのキーホルダーを手にし、生まれてはじめての挫折を味わうことになった。
単に賞金目当てで応募したのなら、この時点でもうゲー厶のアイデアなど考えることはやめていただろう。けれど、田尻は入選作品のリストを見て、大きなショックを受けた。そこには、最優秀賞作品のタイトルとして『回転ドアROOM』と書かれていたからだ。
「しまった、やられたって思った。内容は分からなくても、名前を見ただけで(ゲー厶の)仕組みとして新しいっていうのが分かった」(『アントレ』ー九九七年七月号より)優れたゲー厶のアイデアは、タイトルを聞いただけでも、様々なことを想像させる。田尻は『回転ドア

171  第1章  少年さとし

ROOM』という言葉から、そのゲー厶が新しいおもしろさに満ちたものであることを連想できた。
「この新しさはなんだろう……」
田尻は何度もタイトルを口に出してつぶやき、ようやくひとつの結論にたどり着いた。ちょうど、英語の授業で動詞の活用を習っていたことがヒントとなった。
「新しいゲー厶というのは、新しい動詞を探すことではないのだろうか?」
以後しばらくの間、田尻は日常から様々な動詞を探すことで、新しいゲー厶のアイデアを模索するようになるのだった。
ユニバーサル社のコンテストが終了した翌年、今度は業界でも大手のセガ・エンタープライゼス社が、同様のコンテストを開催することになった。《セガ・ゲー厶アイデア大賞》と銘打たれたこのコンテストに、田尻は前年の反省を活かし、スプリングが”跳ね“ながら階段状の迷路を進んでいく『スプリング・ストレンジャー』というゲー厶のアイデアを応募した。
応募から半年ほどが経ち、田尻本人もそのことを忘れかけていたある冬の夕方、主催のセガ社から家に電話がかかってきた。それは『スプリング・ストレンジャー』が一等に入賞したという知らせだった。一等には一〇万円の賞金が贈られた。田尻は、その賞金から半分の五万円を母に差し出した。それは、自分がゲー厶に熱中するのを黙って見守ってくれていた母への、ささやかな恩返しだった。

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■アイデア盗難事件

このような経過を経て、田尻はいくつかのゲームメーカーと、単なるファンの立場を越えた関係で、関わりを持っていくようになる。
ー九八二年には、サン電子社と〈TVゲー厶・モニター〉として契約を交わし、新製品のテストをしながら毎月二回のレポートを提出していたこともある。また、セガ社へはコンテストで入賞したことがきっかけとなり、頻繁に足を運ぶようになった。まだ学生の身分とはいえ、その才能を高く評価したセガが、社外のアイデア・スタッフのような扱いで、田尻に定期的なアイデアの提出を求めたのだ。田尻自身、この頃はまだプロ意識というほどのものは希薄だったが、せっかく得たチャンスを活かすために、アイデアを考えてはレポート用紙にまとめて提出した。提出したアイデアは、市場開発部のスタッフが評価し、その都度、いくらかの報酬をもらうことができた。このときの、繰り返し繰り返しアイデアを出すという作業と、それぞれのアイデアについて現場のプロから批評やアドバイスを受けるという行為が、のちのゲー厶クリエイター田尻にとって、重要な鍛錬になっていたのは間違いない。入賞した『スプリング・ストレンジャー』をはじめとして、その後も『TIKTAK』(これもまた、新しい仕組みが提案されているであろうことが容易に想像できる優れたタイトルではないか!)など、いくつものアイデアを提出した。
しかし、これらのアイデアは、ゲー厶として制作することが試みられもしたが、最終的にはどれ“も商

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品化されるまでには至らなかった。アイデアそのものの欠点もあっただろうし、セガ社内の事情もあったのだろう。けれど、アイデアを提供するだけでその後の制作には関われない、という中途半端な立場に何度も悔しい思いを味わった田尻は、そのときはつきりと「ゲー厶は自分の手で最後まで作らなければだめだ」と確信したのだった。
これより少しあとのことになるが、田尻が同様に「ゲー厶は自分の手で作らなければ」と痛感させられたエピソードがある。それは、田尻がミニコミ『ゲー厶フリーク』を続けながら、フリーライターとしてゲー厶雑誌の記事を書きはじめた頃のことだ。
田尻は仕事の合間を縫って書きためていたアイデアをひとつにまとめて、とあるビデオゲー厶の企画書として完成させていた。それはどこかのゲームメーカーに提出するためではなく、自分を中心に集まった仲間---ゲー厶フリークのメンバーで作ろうと考えてのものだった。その企画書を、田尻は自分の事務所の机の上へ無造作に置いておいた。
あるとき、田尻と交流のあった知人が、ふらりと事務所へ遊びにやって来た(ここでは仮にAと呼ぶこの人物は、学校を卒業後、某大手ゲームメーカーの開発部に就職していた〇久しぶりに顔を合わせた田尻とAは、お互いの近況やゲームの話に、長い時間花を咲かせた。そうやって話をしながらも、Aは何気なく机の上にある企画書を手に取り、パラパラとめくって見ていた。やがて日が暮れる頃になり、Aは別れの挨拶をして何事もなく帰っていった。
それから数カ月が過ぎたある日。Aから田尻のもとに電話がかかってきた。それは、自分の新作ゲー

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厶が完成したので、田尻にゲー厶雑誌の記者として取材に来てくれないか、というものだった。田尻はその申し出を快諾し、いつものようにメーカーの開発部までAを訪ねて行った。そこで田尻は見たのだ。いつかそれを作ろうと、企画書にしていた自分のゲ—厶アイデアが、微妙に形を変えて完成させられているのを---。
そのときのAの表情から、田尻は「あいつに悪気はなかったんです」という。A自身にアイデアを盗作したという意識があるのなら、間違ってもその完成品を田尻本人に直接見せるようなことはしなかっただろう。むしろ彼は、自分から田尻を呼び寄せたのだ。そのときのAは「どうだ」といわんばかりの態度だったという。
「おそらく彼としては、『きみたちアマチュアがこんなゲー厶で遊びたい、と考えていたアイデアを、僕のようなプロが実際に作ってあげましたよ』と、そういう気持ちだつたのでしょう」Aのような考え方を持つ人間がいるのも、理解できないことではない。ゲー厶デザイナー養成のための専門学校などなかったあの時代には、ゲー厶の作り手と遊び手の間には大きな隔たりがあった。だからこそAは、アマチュアの夢をプロである自分が代わりに叶えてあげましたよ、というつもりだったのだ。この事件は、なによりも強烈に田尻の心の底に「自分が作りたいゲー厶は自分の手で作るしかない」という決意を刻み込むことになつた。

175  第1章  少年さとし

■『ゲー厶フリーク』の創刊

発刊の辞
最近のアミューズメント界の発展は目覚ましく、特にTV-GAMEにおいては、ソフト、ハード両方の革新により、次々と新しい製品が発売されています。インベーダーゲー厶の大流行によって、今や定着したファン層へ、あらゆるTVゲー厶の情報を提供しようと言うのが、この「ゲー厶フリーク」です。
過去において発表された製品すべての情報を、BUGや必殺技、あるいは、ー早く新製品の紹介をしたいと考えています。どうかよろしく御愛読下さい。
右の文章は『ゲー厶フリーク』創刊号の巻頭に田尻が書いた「発刊の辞」である。いま読んでみても、当時にして弱冠十八歳でありながら、自己の雑誌に対する明確な定義がなされていることと、その迷いのない言葉の選び方に、あらためて驚かされることだろう。
確固たる意志のもとに出発した『ゲー厶フリーク』は、以後四年間にわたって三〇冊(本誌二三冊、別巻五冊、合本二冊)のミニコミを発行した。それ以外にも、完売した号は追加情報を加えた改訂版を発

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行するなどしており、多いところでは第四版まで数えるものもある。したがって単純計算では、四年の間ほとんど毎月一冊ずつ本を作っていたことになる。これほどのエネルギーに満ちた『ゲー厶フリーク』は、どのように作られ、どのように読まれていったのだろうか。
南大谷中学校を卒業した田尻は、国立東京工業高等専門学校(通称:工業高専)に進学した。彼は中学時代から成績がよく、教師からは「東大すら狙える」といわれるほどで、本人にもその気がないわけではなかった。しかし、中学時代の終わりにゲー厶・アイデアコンテストに入賞したのをきっかけにして、本気でゲー厶制作者になることを考えはじめた彼は、大学進学よりもっと直接的な道を選んだ。「とにかくゲー厶が好きだったから、大学に行くより高専だけの方が早くコンピュータの知識が学ベるし、ゲー厶関係の会社にも入りやすいと思ったんです。そういう風に、自分の進みたい方向が決まってしまうと、なんだかどうでもいいことに関して教えを請うのが馬鹿らしくなつたんですね」こうして田尻は、高専に通いながらコンピュータの基礎を学び、学校が終わればゲー厶センターに入り浸り、より一層ゲー厶への想いを強めていった。そしてー九八三年、『ゲー厶フリーク』を創刊することになるのである。
ちょうどこの頃は、サブ・カルチャーを扱ったミニコミ誌が注目を集めはじめた時期でもある。そうしたものに刺激を受けていた田尻は、自分が作るミニコミも、なんらかのサブ・カルチャーを追求するものにしようと考えていた。そして田尻の頭のなかでは、ビデオゲー厶もそれらのひとつとして、同列に考えられていたのだ。

177  第1章  少年さとし

結局、田尻が最初に構想していたミニコミ誌は、表紙を作っただけで頓挫することになる。高校生に考え得るサブ・カルチャーのイメージは、質や量の面において限界があったのだ。こうして、しばらくはミニコミ作りに行き詰まっていたが、相変わらずゲー厶センターに通いつめていた田尻は、あるとき、
「いっそのこと、ビデオゲー厶だけにテーマを絞ってみてはどうか?」
と思い立った。
自分の周辺に限っていえば、少なくともビデオゲー厶の知識では誰にも負けない自信があった。ゲー厶のことならばいくらでも書けそうだったし、また、自分が書くべきだとも思ったのだ。ようやく気力の出てきた田尻は、雑誌作りを再開させることにした。まず最初にはじめたのは、これまでに集めてきたビデオゲー厶のカタログを整理することだった。そうして、タイトー社が発表していたゲー厶を一覧表にまとめ、記事のひとつとして掲載した。「タイトーさんは『スペースインベーダー』が大ヒットしたこともあって、その頃すでにたくさんのゲー厶を発表していました。だから、それらのゲー厶を整理してそれぞれに解説を加えたら、僕のようなゲー厶・マニアにとって価値も高いし、きっとおもしろいだろうと考えたんです」こうした作業は、か細い道を独りで歩くような地道さだったという。当初考えていたよりもずいぶん長い時間がかかり、およそ半年の間、田尻は原稿の執筆と編集にかかりきりになっていた。しかし、それは地道な作業である反面、楽しく興奮に満ちた時間でもあった。小学生の頃からテーマを追求し、研

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[[IMAGE CAPTION|
▶まだ、ゲー厶の攻略本などない時代に、田尻は一人で編集、執筆、製本までこなし、『ゲー厶フリーク』の創刊号を作った。これをきっかけとして、ゲー厶攻略本という出版物は現在のような市場を形成することになる。
]]
究発表することに情熱を燃やしてきた田尻であるだけに、こうした行為を苦とも思わないような修練が積まれていたからだ。
すべての原稿が揃うと、版下の作成に入った。まだワープロなどない時代のことである。方眼紙のマス目に沿って手書きで原稿を清書し、レイアウ卜をする。苦手なイラストも一生懸命に描いて貼りつけた。表紙には、当時人気のあった『ディグダグ』(ナムコー九八二年)の主人公キャラクターを描いた。できあがった版下は近所の文具店でコピーをとり、それをページの順に揃えて折り、一枚ずつ重ねてホチキスで止めていく。これらの製本作業は母や妹にも手伝ってもらいながら、自宅ー一階の部屋で毎週日曜日ごとに繰り返した。こうして、自分だけのミニコミは完成した。誌名は、考え抜いた末に『ゲー厶フリーク』と命名した。
ゲー厶のファンでも、マニアでも、プレイヤーでも

179  第1章  少年さとし

ない。彼がゲー厶”フリーク“という言葉を選んだ背景には、単なるゲー厶のファンを超越した、自分自身のゲー厶に対する情熱が込められている。また、彼が自らを”ゲー厶フリーク“と名乗ることは、成長過程である多感な時期にコンピュータゲー厶と出会い、将来進むべき道をゲー厶によって異化(゠Freak out)された自分が、永遠にゲー厶とつき合い続けてゆくことの決意表明でもあった。田尻は完成した『ゲー厶フリーク創刊号』を抱え、当時、新宿三丁目にあった同人誌専門店〈フリースペース〉に持ち込みをした。この店では原則的に、ホチキス止めのコピー誌でも、オフセット印刷された立派な同人誌でも、すべて同等に扱っており、幸いにして『ゲー厶フリーク』も数冊を店頭に置いてもらうことができたのである。
本ができ、店にも並べることができた。しかし、売れてくれなければメディアを作った意味がない。田尻は『ゲー厶フリーク』の売れ行きが気になって仕方がなかった。
そこで、二、三日してからふたたび新宿まで出かけていき、フリースペースに顔を出してみた。ところが、店内のどこを見渡しても『ゲー厶フリーク』が置かれている様子はない。あまりに売れないので、すでに片付けられてしまったのだろうか。そう思うと悲しくなった。
不安な気持ちを抑えて店員に訊ねてみた。すると、驚いたことに『ゲー厶フリーク』はすべて完売していたのだった!
田尻が生まれてはじめて作った作品は大成功をおさめた。
それから一週間ほどが過ぎると、創刊号を購入してくれた読者たちから、反響の手紙が届くようになった。どの手紙にも「こういう本を待っていた!」という喜びの意見が書かれていた。田尻は、自分の

第2部  ゲームフリーク  180

考えが間違っていなかったことを知ったのである。

■杉森建との出会い

たった独り。孤独な研究者としてビデオゲー厶の魅力を追求していた田尻は、ミニコミという自前のメディアを持ったことで、多くの仲間を得た。
そうした人間のなかに、杉森建という名の少年がいた。現在はゲー厶フリークのチーフデザイナーであり、『ポケットモンスター』はもちろんのこと、社内のほとんどすべての作品においてキャラクター・デザインを手掛ける、ゲー厶フリークには欠かすことのできない人物である。そんな彼もまた、ミニコミ『ゲ—厶フリーク』の登場に胸を躍らすー人だった。
偶然『ゲー厶フリーク』創刊号を手に取った杉森は、一読してそのアイデアに驚かされるとともに、大きな感動を得た。
「あの頃は、自分が遊んでいるゲー厶がどこのメーカーのものかなんて、よくわからない時代でした。ゲー厶機の台をよく見ると、画面の両側には”インストラクション・カード“といって、ゲー厶のルール説明をした紙が貼つてあるんですが、普通はそこまで熱心に見たりしません。でも、僕らのようなマニアはそういうところまで見たり、場合によってはメモを取ったりもしていました。そうすると、そのカードの下には開発メーカーの名前が小さな字で書いてあったりして、それでやっと、このゲー厶はあのゲー厶と同じメーカーが作っていたのか!なんてことを知るわけです。ところが

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『ゲー厶フリーク』の創刊号を読んだら、たとえば〈タイト—社TVゲ—厶目録〉というような記事で、そうしたことがリスト化されていたんですね。ああ、僕と同じようなことを考えている人間がいたんだと思うと、ものすごく嬉しくなってしまったんです」自分と年の変わらない人間が、たった独りで行動を起こしている——。杉森は、なんとかして自分もこのミニコミに関わりたいと思った。ゲー厶フリークに参加して、田尻とー緒にゲー厶のことを考えたいと思った。けれど、自分は情報を集めて分析するようなことがあまり得意ではなかつた。学校でも、およそ優等生といえるような成績をとったことはなく、なかでも数学と地理は大の苦手だった。
「ならば、自分にできることはなんだろう……?」
それが、イラストを描くことだつた。
杉森は、ゲー厶と出会う以前にはなによりも漫画に夢中になり、将来は自分も漫画家になることを夢見ていた。そのため、子供の頃からノー卜の端に好きな漫画の似顔絵などを描いていた。人気漫画のキャラクターは、誰よりも上手に描くことができた。小学校三、四年の頃からは、新しいノートを丸ごと一冊使って漫画を描くこともした。
「イラストを描く仕事だったら自分も『ゲー厶フリーク』に参加できるのではないか?」そう考えた杉森は、すぐに田尻へ宛てて手紙を書いた。そこには、やはり「このような本が登場するのを待っていた」こと、そして「自分は絵が得意なので、ミニコミ作りに参加させて欲しい」ことなどを書き綴った。

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その手紙を受け取った田尻は大いに喜んだ。正直なところ、田尻は絵を描くのがあまり得意ではなかった。しかし、はじめてのミニコミを作るにあたり、いくら内容がおもしろくても、文字ばかりでは誰も読んではくれないだろうと考えた。そこで、無理をしてイラストを描いたりはしたものの、やはりその出来映えには自信が持てないでいたのだ。
杉森のもとには、すぐに田尻から「きみを歓迎する」といった旨の返事が届いた。そうして、幾度か手紙でのやりとりを経たのちに、日時を決めて会う約束をした。
二人がはじめて会ったのは、AM (アミューズメント・マシン) ショーの会場だった。当時、田尻はアイデアコンテストへの応募をきっかけにして築いたコネクションを利用して、セガなどのゲームメーカーへ頻繁に顔を出しており、その関係で業者向けの新製品展示会にもよく出掛けていた。そうして、ちょうどまたAMショーが開催される時期だったこともあり、どうせならその場で会おうじやないかと、杉森の分のチケットを郵送してくれたのだ。
当時のゲー厶の新製品展示会というものは、いまのように一般客への開放日などは設けられておらず、純粋に業者向けの展示会として開催されるものだった。そのため、待ち合わせの当日は平日であったため、杉森は学校をさぼって出掛けなければならなかった。
家を出るときに着ていつた学生服は、駅のコインロッカーに隠した。そうやって、ちよつとしたスリルを味わいながら入場の受付を済ませた。
杉森は、田尻とはじめて会ったときのことを回想する。
「たしか晴海の展示場だったと思いますが、約束の時間に行っても、べつに待ち合わせ場所を決

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めていたわけではなかったので、どこに田尻がいるのかわかりません。それで、心細いけれど一人で会場内に入っていきました。でも、お互いに顔を知らないから、会えるはずもないんですね。とりあえずゲー厶のカタログをもらうために、適当なゲームメーカーのブースに行き、来場者名簿に記帳をしました。そうしたら、僕が名前を書いた上の欄に〈田尻智〉って書いてあるんですよ。ということはすぐ近くにいるのか? と思って周囲を見渡したら、すぐ隣のブースに、いままさに〈田尻…〉と名前を書いているヒョロ長い男がいたんです(笑)」こうして、運命的な出会いを果たした二人は、すぐに意気投合した。会うたびに新宿まで一緒に出かけて、日が暮れるまでゲー厶センターのはしごをした。往復の電車のなかでも、あるいは腹ごしらえをするときにも、数え切れないほどゲー厶の話をした。
やがて、杉森が高校を卒業する日がやってきた。
田尻は五年制の工業高専に通っていたが、杉森は三年制の一般高校に通っていたために、一足先に社会に出なければならなかったのだ。
杉森は、田尻が生まれた翌年、ー九六六年の一月に福岡県・博多市で生まれた。彼は、NHKの職員だった父親の都合で長野県、長崎県、山梨県というように、幼い頃から日本各地への引つ越しを強いられてきた。そのため、転校ばかりを繰り返す杉森には、なかなか友達ができなかった。そんな彼にとって漫画を描くという特技は、新しい学校のクラスメイトたちと会話をするきっかけになる、コミュニケーションの道具でもあったのだ。
田尻と知り合った当時、杉森家は杉並区に住まいを構えていたが、またいつ引つ越しをすることにな

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るかわからない。しかし、田尻という---その当時の杉森自身がどこまでそれを意識していたかはわからないが---永遠の友を得た彼にとって、少なくとも田尻のいる東京を離れることはどうしても避けたかったのだろう。
杉森には大学へ進学する考えはなかった。この時点ですでに漫画家になる決意を固めていた彼は、アルバイト生活をしながらでも漫画を描き続け、雑誌の新人賞へ投稿することを考えていたからだ。しかし、高校を卒業したあとも家でごろごろし、ときたま漫画を描いているだけの息子を見かねた両親は、彼を激しく叱責した。幾度もの衝突。その結果、杉森は家を飛び出し、どこかにアパートを借りなければならない状況に追い込まれた。
そこで杉森は、どうせなら田尻の自宅に近い町田に部屋を借りようと考えた。町田市ならば、二十三区内に比べて格段に家賃も安い。
杉森は手近の不動産屋へ行き、六畳と四畳半、それに台所、風呂、トイレまでついて家賃四万五〇〇〇円という格安の物件をみつけると、即座に契約し引つ越しを済ませた。杉森がアパートを借りたのは、田尻にとっても願ったり叶ったりだった。なぜなら、ただで『ゲー厶フリ—ク』編集部ができてしまうのだから!
田尻は、あっという間に杉森のアパートに入り浸るようになった。休日は一緒にゲー厶センターへ出かけることが多かったが、平日の放課後はほとんどの時間を杉森の部屋で過ごした。そうしながら、田尻は自宅から少しずつ雑誌やパソコンを持ち込んでいった。だんだんと誰の部屋だかわからなくなるほどだった。結局、杉森がはじめて持った自分だけの城は、いつのまにか『ゲー厶フリーク』編集部になってし

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まったのだった。
この時点での田尻は、親元で暮らしていることになっていたが、実際には杉森との共同生活をしているようなものだった。親からもらえる小遣いは少ない。杉森にしても、アルバイトでもらえる給料はたかが知れている。アパー卜の家賃を払った残りのお金のうち、大半はゲー厶代に費やしてしまう。そのため腹が減っても贅沢はできず、即席ラーメンを買い込んできては、二人で分け合って食べた。二人はそうやって奇妙な共同生活をしながら『ゲー厶フリーク』の編集発行を続けていった。それはまさに”ゲー厶版ときわ荘“とでもいえるものだった。
『ゲー厶フリーク』には、創刊号にこそ〈TV-GAME情報誌〉とのサブタイトルが付されていたが、やがて情報的な要素は新聞形式で発行していた兄弟誌『プチ・ゲー厶フリーク』で扱うようになり、『ゲー厶フリーク』本誌では、単一タイトルのゲー厶攻略を編集方針の主軸に置くようになつた。ゲー厶センタ—で話題になっているゲー厶を毎号ひとつ選び、それを徹底的に分析し、その攻略法を本にしていくのだ。
こうした、いわゆる”ゲー厶攻略本“は、いまでこそ書店に行けば大手出版社によって発行されたものが多数並んでいるが、この時代には、まだそのようなものはなかった。
「ないものは、自分の手で作る!」
という田尻の開拓者精神が、彼自身に世界初のゲー厶攻略本を作らせたのだ。実際、のちにゲー厶フリ—クが発行した『ゼビウス1000万点への解法』はミニコミ界のベストセラーとなり、メジャーの出版

第2部  ゲームフリーク  186

社にも大きな影響を与え、現在の攻略本というマーケットを確立させる先駆けとなった。初期のゲー厶フリークでは、おもに田尻自身がゲー厶の攻略を担当し、杉森は誌面を飾るイラストを描いていた。その過程のなかで、当時の『ゲー厶フリーク』のイメージ・キャラクターともいうべき女の子〈奈夢子ちゃん〉が誕生した。
杉森は、自作のこのキャラクターを非常に気に入り、同じキャラクターを主人公にした読み切り漫画を描き、小学館主催の《新人コミック大賞》に応募した。そのときの心理を、杉森は次のように語る。「ゲー厶フリークのキャラクターが、メジャーな漫画誌で賞を獲ったりしたら(ゲー厶フリークの)読者たちがびっくりするだろう、と思ったんですね。事実、受賞してその漫画が『増刊少年サンデー』に掲載されると、けっこう反響がありました」子供の頃から「将来は漫画家になる」といい続けてきた杉森。彼は、その信念を貫いてプロへの登竜門をくぐり抜けた。賞を獲ったことで、プロ・デビューの道は約束されたのだ。しかし、彼はそのまま漫画家生活に入ることはしなかった。
「結局、怠け者だったんですよ。漫画家になるのは夢だったけれど、同時に、プロの世界がどれほど厳しいかというのも知っていましたから、そこに入っていく勇気がなかったんですね……」杉森自身は謙遜してそういうが、それと同じか、あるいはそれ以上の理由が彼にはあったはずだ。それがゲー厶フリークである。
この頃の杉森にとって、もはや漫画を描くことよりも、ゲー厶フリークとして活動することの方が、より楽しく、より充実した時間が過ごせるようになっていたのだ。

187  第1章  少年さとし

杉森が参加してきたことは、ゲー厶フリークにとって大きな意味を持つ。ひとつには、彼の画カが『ゲ—厶フリーク』のビジュアル面を大幅に向上させたことだろう。けれど、それ以上に大きく影響したのが、杉森の”人柄“だった。
当時、日本各地では同時多発的に、ゲー厶好きな少年たちがゲー厶研究のためのサークルを作りはじめていた。どの集団もゲー厶を愛し、真面目にゲー厶について語るという意味では、ゲー厶フリークにも負けていなかっただろう。しかし、それはある意味では危険なことでもある。漫画でもアニメでもゲー厶でも、こうしたマニアックな集団は対象に真摯な情熱を向けすぎるがゆえに、その愛情がいびつなものになってしまいがちだ。そんな状態で作られたメディアは、自分たちの意見を主張するばかりの自己満足の塊で、およそ読者を楽しませるエンターテインメントにはなりにくい。ところが、田尻と杉森は違っていた。二人はなによりもゲー厶が好きで、それはゲー厶への愛とすらいえるほどではあったが、それと同時に、ゲー厶というものを一歩突き放した、客観的な視点も常に持ち続けていたのだ。
いま、ゲー厶業界で活躍しているクリエイターの多くが「ゲー厶は映画をも越える新しいメディアだ」という。「自分の伝えたいテーマをゲー厶というメディアで表現したい」という。そのこと自体はいい。しかし、そこにあるのは表現をする”自分“だけではないのか。ゲー厶で遊ぶ”ユーザー“のことは、どこかへ置き去りにされているのではないか?
田尻も、そして杉森も、テレビゲー厶は単なる”オモチャ“のひとつだという認識を持っている。けれ

第2部  ゲームフリーク  188

ど、あらゆるオモチャのなかで、もっともおもしろいのがテレビゲー厶なのだ。だから彼らは、最高のオモチャの作り手である自分に、誇りを感じている。
こうした考えは、彼らがミニコミ時代を過ごしていた頃から、ときにはゲー厶を愛し、ときにはゲー厶を笑い飛ばし、大好きなゲー厶に溺れることなく、一定の距離をおきながら接してきた二人--ゲー厶フリークならではの哲学なのだ。
田尻は、企画会議の席上でたびたび”ゲー厶フリークらしさ“という言葉を便つ。それは、登場人物の名称から仕掛けのアイデア、キャラクターの動き、ちよつとしたセリフの言い囘し、さらには仕事をするときの態度まで、すべてに対して関わってくる。
なにかのモノマネではないもの。引き出しの底が見え透いてしまわないもの。間に合わせで作ったのではないもの。自分たちにしか作れないもの。それが”ゲー厶フリークらしさ“だ。ならば”ゲー厶フリークらしさ“とは、具体的にはどういうものなのか?それは、田尻や杉森と十年来のつき合いになる筆者自身でも、うまく言葉にはできない。ただ、これだけははつきりということができる。
”ゲー厶フリークらしさ“とは、目に見えない匂いのようなものだ。その匂いは、田尻や杉森をはじめとする、ゲー厶フリークの歴史に関わってきた何人ものスタッフが、毎日のように交わした無数の会話のなかから生まれてきた。そして、いまもゲー厶フリークの社内を訪れてみれば、そこには、あの頃とまったく同じ匂いのする空気が流れているのだ。

189  第1章  少年さとし
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