Magic of Pokemon/p187

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えないだろうか。世界中で、おそらく日本だけにしかみられない風景ではないだろうか。
大人でも、持ち物や、着るものや、使う道具によって、その人間が変わってくる。まして、これから育ってゆこうというこどもには、それが非常にひびいてくる。ことに、学校へ持ってゆく道具、勉強に使う道具には、親も世の中も、もっと神経を使っていいのではないか。
学校は、遊園地でもなければ、こども公園でもない。学校で勉強に使う道具には、漫画の飾りはいらない。本来は、どんな模様も飾りもいらない。
飾りがないと、すぐ灰色の、殺風景なものを聯想するひとがある。そうだろうか。
いろんな色がある。いろんな色のとり合わせがどんなに美しいか、飾りのゴタゴタついているものがどんなに醜いか、たとえば、色だけの積本と、漫画がベタベタついている積本をくらべたって、すぐわかることである。
こどもは、体も育ってゆくが感覚も育ってゆく。
おばけのQ太郎のついたノートに鉄人28号のついた鉛筆で書き、ス1パージェッターの消しゴムで消し、おそ松くんのスケッチブックに鉄腕アトムのクレヨンで描く、そんな日々を積みかさねてどんな感覚がみがかれ、どんな勉強ができるというのだろう。
漫画にも、いいのとわるいのがある。しかしそれをいうよりまえに、ものにはケジメが必要だという、ごくあたりまえの考え方がなくなってゆくことのほうが問題なのである。

売れさえしたらこどもはビうなってもよいか

どうして、こんなことになってしまったのだろうか。
こどもが欲しがるから、といってしまえば、それまでである。こどもに、欲しがらせるように、必死になって仕向けている大人たちが、いっぱいいることはたしかである。
なかには、どうかんちがいしたのか、漫画などまだわからない、だから欲しがりもしない赤ちゃんのものにまで、漫画をつけているメーカーかるあるデパートできいたら、漫画のついてないガラガラは一つもなかった。その売り場には、おしめかごにも漫画がついていた。こうなると、こどもが欲しがるから、というリクツにならないリクツでさえ、どこかへすっとんでしまう。
それと、この漫画についている商品には、もう一つ問題がある。メーカーは、漫画をつけるたびに、ーコについて、いくらかの使用料を払わなければならない。ものにより、個数により、多少のちがいはあるが、大体は、卸売りねだんの3%から5%というのが相場らしい。
メーカーとしては、それだけの使用料を払うほかに、商品によっては、本来無地でいいものを、何色かかけて、その漫画を印刷したり貼りこんだりしなければならないものだってある。
そうなると、いきおい小売値が、それだけ高くなる。もし高くならなければ、そのぶんだけ品質のほうにシワよせがきている。いずれにしても、漫画が一つついただけで、とにかく高いものを買わされていることになるのである。それでなくても、物価の高い昨今である、こんなわけのわからないことはないのである。そんなにイヤなら買わなければいい、とおつしやるかもしれない。ところが、たとえば漫画のついてない画板やセルロイドの下敷を買おうとすると、苦労する、ちよつとやそっとでは見当たらない。かりに見つけても、巧妙に〈教育〉されたこどもが、承知しない。いりもしないものを買わされるのも困る。石けんやシャンプーは大人ので間に合うのに、銭湯などでは、こどもは漫画のついたのを欲しがる。
売れるものなら、なにを売ってもいいのか。そのために、けっきよくは、自分の子までメチャメチャにしているのではないか。(H)

187   PART-4▶消費者としての子どもたち

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