Magic of Pokemon/What have we done for our children?

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われわれは子どもたちに何をしてきたのか
大月隆寛

最初におことわりしておく。ポケモンそのものに思い入れはない。ゲームにしてもマンガにしてもアニメにしても音楽にしても、はっきり言って好きではない。当たり前だ。こちとらもう四十を目の前にした、いいオヤジなのだ。ポケモンにしても、要は自分の子どもが熱中する〃おもちや〃のひとつにすぎない。そしてガキのおもちやにいちいち本気になっていられるほど、オヤジというのは気楽でもヒマでもない。とはいえ、これでは話にならないから、もう少していねいに言おう。
たとえば、ピカチュウをかわいいと思う、その感覚などは、じつはまったくわからないわけでもないのだ。だが、そのような感覚に素直になるより先に、僕にはポケモンがらみの世界を作っていった側の「これって、こうやったらかわいいと思えるんでしよ」といった当て込みの気配が、とてもうざったい。
それは「商品」を作ろうとする時に必ずまつわってくる、市場の欲望を計測しようとするというのともまた少し違う。もっと自覚のない、そこまで意識的に当て込まれたものではないからこそ、どこか居心地が悪いのだ。
そう、僕がポケモンとその世界にいくら向かい合っていても、「よし、こういうキヤラクタ—をこういう具合に作って、こういう世界で動かしてやるぞ」という作り手の意思が、輪郭のはっきりした人格とともに感じられない。その世界を提示する側がどちらの方向からその意思を自分に向かつて提示しているのかよくわからない、そういう方向性のあいまいな「創作」に対する不信感なのだ。
なのに、そんな偏屈丸出しなオヤジの感覚にとってでさえも、ピカチュウやその他のキャラクタ—たちをうっかり好ましいものと思えてしまう部分が、どこかにある。間違いなくある。それは、たとえば「誰もがもっている子どもの心」てな、通りいっペんのもの言いでかたづけてしまっていいものではない。
こういう、ある意味で〃うかつな感覚〃

179   PART-4▶消費者としての子どもたち

は、どういう来歴で、四十目前のまがうかたないオヤジの心のなかに宿ってしまっているのだろうか。ポケモンをめぐる「事件」とその背景を考えてゆくうえでは、こういう「うっかりと心動かされてしまいかねない、自分の心のなかのある部分に対する自分自身の居心地の悪さ」が、ひとつ大きな糸口になるはずなのだ。

▶| アト厶からキャラクター化が始まった

古い写真が数枚、手元にある。時は昭和三十年代後半、場所は東京は西荻窪のアパー卜の一室。テレビをじっと見ているガキは、申し訳ない、この僕だ。
自分がテレビを見ている写真がこのように残っている。これを撮ったオヤジはどういうつもりで撮ったのか、亡くなった今となっては確かめようもないが、何か「撮るべきもの」と感じたのだろう。
そのなかの一枚には、オヤジの会社の若い部下と一緒に、テレビのアトムを阿呆づらして眺めている僕がいる。部下の人は確か、Sさんといった。会社帰りにオヤジが我が家に連れてきたのだろう。ものの記録を見ると、テレビアニメの『鉄腕アトム』は夕方六時十五分からの三十分番組だったというから、当時はまだ普通の会社勤めのオヤジたちでも、こういう早い時間に家に戻ることができたということだろう。
確かに、『鉄腕アトム』がマンガやアニメのキャラクター化のはじまりだった。その頃、明治製菓と手を組んで、お菓子にアトムのキャラクタ—が使われるようになった。いや、「キャラクタ—」などというもの言いはまだない。当初は単なる「意匠」である。
光文社から月に一冊出ていたB五判カツパコミックスの『鉄腕アトム』は、腰巻きの部分がシールになっていた。今でも、僕の実家にある古い本棚の扉には、当時僕が貼りつけたシールが残骸のようになって残っている。そうだ、当時は「ワッペン」というのも流行っていた。

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写真はいずれも大月本人です。
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キャラメルやチョコレート——、そこらの駄菓子でない、「ちやんとした」会社の作った菓子に「おまけ」がついてくるようになった。僕自身はそれほど欲しがったという記憶はないのだが、でも、「あのワツペンが欲しい」という友だちは当時まわりにいっぱいいた。「ワッペン遊びをやめましょう」てなことが、幼稚園などでも言われていた記憶がおぼろげにある。運動靴や、筆箱や、下敷きや、そういう〃もの〃にやたらと、アニメやマンガの主人公たちが描かれるようになっていた。「キャラクター商品」と後に呼ばれるようになる〃もの〃たちが、身のまわりにたくさん出現するようになっていった。そういう時代に僕たちは「子ども」の時期を過ごしてきた。そういう世代なのだ。
そして、そのなれの果てが家庭をもち、子どもをつくり、人の世の慣いに従って、オヤジになりおふくろになった。その子どもたちが今、ポケモンに心奪われてテレビの前で卒倒した。今回のポケモンの事件の背後に横たわっている問いとは、そういう「世代」と、そこにまつわる「時代」のありょうの関係に対するものであり、その果てに平然と居座ってしまっている、「〈いま・ここ〉とは何か」という問題なのだ。

▶|「おもちや」がまわりにあふれだした

ここに、ちょうどその頃、高度経済成長のまつ只中に今はなき『暮しの手帖』の編集長だった花森安治の書いた文章がある。これは以前から僕がずっと気になっていた文章で、何度か引用したり参照したこともある。一ハ六ページに再録してみたのでぜひ読んでみてほしい。
彼は、まさにこの「キャラクタ—商品が身のまわりにあふれるようになり始めたことに対する違和感」を敏感に示している。「なにもかも漫画だらけ」というこの嘆息は、マンガのキャラクタ—が本来のその〃もの〃の使い道とは直接関係のないところに、無遠慮にベタベタとくっつけられるようになったことに対するものだ。
では、このようにキャラクター商品が蔓延するようになって、何が変わったのか。何より、暮らしというものがその具体性から遠ざけられるようになった。無用な「かわいい」が過剰にくっついてきて、その〃もの〃本来に要求されていたはずの具体的な「用」が見えにくくなった。そのような〃もの〃を、かっての日本人は「おもちや」と呼び、あるいは「子どもだまし」と名づけた。「おもちや」であり「子どもだまし」であるような、具体的な「用」の見えにくい〃もの〃たちが、身のまわりに当たり前のようにあふれるようになった。
かって、おもちやはおもちや箱に納められるものだった。子どもの時間、子どもの領分を超えてはみだした〃もの〃たちは、いつか必ず持ち場に戻されるものであり、のべつまくなしにその存在を誇示するものではなかった。いや、子どもの〃もの〃だけではない。大人の〃もの〃にしたところで、人形は人形箱に納められていたし、小

181 PART-4▶消費者としての子どもたち

物などもやたらと目に立つように転がっていたわけではない。そういう「用」から遠い〃もの〃たちは、一定の場所に置かれているのが暮らしのあるべき姿だった。それが、キャラクター商品が増えてゆくことによってどんどん変わっていった。難しく言えば、これは生活とデザインの関係の問題ということになるのだろう。〃もの〃たちの色や形、広く言えば「デザイン」のなかに「キャラクタ—」が平然と居座るようになってきて、それまでの暮らしのありようが明らかに変わらざるをえなくなってきた。それにはおそらく、後に「ブランドもの」と呼ばれるようになっていった〃もの〃のありようなどとも根深くからんでいる。
高度経済成長期の「豊かさ」を前提にして、〃もの〃と人間との関係が大きく変わってゆく。誰もが経験していながらいまだきちんと言葉にされ、省みられていない、そのとめどもない意識の変貌の過程。それは、子どもの使う〃もの〃たちから始まつた。その〃はじまりの風風景〃とそのなかに生きていた当時の意識の当惑を、この花森の文章はくっきりと描き出している。〃もの〃は人の心を変える。美意識を変える。何が望ましいものか、何が美しいものか、何がその〃もの〃のあるべきありようか。その判断のものさしを、静かに、しかし情け容赦なく変えてゆく。それは単に〃もの〃が大量に暮らしに入り込んできたから、というだけではない。問題は量だけではないのだ。具体的な「用」のはっきりしないデザインやありようの〃もの〃たちが、大量に入り込んできたからこそ、問題は根深いものになっていった。

▶|〈女・子ども〉の「かわいい」感覚

あれだけの事件が起こったにもかかわらず、ゲームも含めたポケモンそのものに対する糾弾がびっくりするほど少ないことは、今回、さまざまな報道記事を眺めてみて改めて痛感したことだった。そして、ポケモンをもっとも熱烈に支持しているのは子どもたちだけではなく、その親たち、はっきり言って、お母さんたちであることが明確に浮かび上がってきた。そう、「ピカチュウがかわいい」という感覚は、子どもたちの間だけではなく、その親たちともほぼ完璧に地続きになってしまっているのだ。
かつて僕が小さい頃、オヤジは、夏休みなどに必ず公開された「東映マンガまっり」を観に、映画館に連れて行ってくれた。しかし、そこで上映されるアニメ(当時は「マンガ映画」と言っていた)を、オヤジが楽しんでいたわけではけっしてなかった。そのことを子どもであるこちら側も重々わかっていた。けれども、これは夏休みだから特別なのだ、というかたちで、おそらく居心地の悪い思いをしているであろうオヤジに対する言い訳を自分のなかでしていた。そういう楽しみは「連れて行ってもらう」ものであり、「特別なイベント」だったのだ。
たとえば、『鉄腕アトム』や『鉄大28号』

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のシールを自分のライタ—に貼っている才ヤジや、『リボンの騎士』の似顔絵を描いて喜んでいるおふくろがいたら、当時の子どもである僕らは「大人なのにへンだよ」と糾弾していたはずだ。
けれども、今は違う。子どもたちは自分の母親も自分と同じようにポケモンを好きで、ピカチュウをかわいいと思っていることを間違いなく知っている。この感覚の共同体こそが、おそらく今、大きな消費の単位になっているし、同時にまた、漠然とした雰囲気としての「リベラル」「民主主義」モードである「市民サマ」気分の、もっとも強固な地盤になっている。
肥大した「大権」思想、薄甘い「エコロジー」の色彩、方向性なき「反権力」気分……このような「市民サマ」モードはアニメやゲームに限らず、「子ども向け」という規定がなされた商品には、必ずといっていいほどお約束として組み込まれるようになっている。
噓だと思うのならば、書店に並ぶ「童話」や「絵本」、あるいはテレビの「子ども向け」番組などを試しに確かめてみるといい。もっとも増幅された同時代の大文字のもの言いとしての「市民サマ」モードが、びっくりするくらいにノーマークで垂れ流されている。そのありさまはほとんど民間信仰だ。
宮崎駿のアニメがあれだけお母さんがた公認の「子どものためによいアニメ」となってしまっているのも、映画「もののけ姫」が邦画史上空前の観客動員数をもたらしたのも、そのようなキャラクタ—商品で商売してきたサンリオが何かまっとうな大企業として世間に認知されるようになったのも、個々の「商品」の善し悪し以上に、この〈女・子ども〉の「かわいい」感覚の共同体が消費行動に雪崩を打った結果であるという構造的な理由も無視できないはずだ。

▶|「かわいい」という呪文

「おもちや」という本来の領分をすでに失い、暮らしのなかに普遍化してしまったキヤラクター商品的な〃もの〃に対して、かっての大大たちがもっていたような違和感をもてなくなった、今の三十代以下のお母さんたちこそ、「なにもかも漫画だらけ」のなかで育ってきた世代だ。それは他でもない、〈いま・ここ〉を生きる僕たちのことであり、高度経済成長の「豊かさ」のなかで、その「豊かさ」を当たり前のものとして育ってきた世代のことだ。
だから、ことはポケモンだけの問題ではない。そのようなキャラクター商品の末裔たちに子どもは取り巻かれ、親たちもまたそのことにまったく疑いを抱かなくなっている。いや、それどころか、親の側もまたそのようなキャラクター商品の〃もの〃のありようを、当たり前のものとする感覚のなかに生きていて、子どもと地続きの消費世界を呼吸している。
そういう〃もの〃を子どもに買い与える理由として、花森も指摘するような「子どもが欲しがるから」という説明は今もよく

183   PART-4▶消費者としての子どもたち

耳にする。けれども、その説明の背後にある事情はかなり違ってきている。「子どもが欲しがるから」の段階ならばまだ、「でも、親のわたしが欲しいわけじやないけど」という留保が、その手前についていた。けれども、今は違う。「子どもが欲しがるから」の手前にあるべき「でも、親としては」という留保は限りなく薄いものになり、「子ども」をダシにして「わたしだってかわいいと思うから」という「わたしの感覚」が立場や役回りの自覚抜きに野放しになってゆく。「かわいい」というありがちなもの言いは、その意味で、消費者としての行動を野放しにし、考えなしにしてゆくための呪文にさえなっている。子どもには余計なキャラクタ—のついていないものを、とわざわざ選ぼうとする親というのは、今ではもう例外なのだろう。たとえいたとしても、たとえば「無印良品」に象徴される新たな「キャラクター」の消費者以上ではなかったりもする。「ブランドものーを云々するよりも先に、そのようなキャラクタ—商品が蔓延する消費社会の外側というのは、じつはもうずいぶん前から存在しなくなっているらしい。子どもどころではない、お年寄りに対する商品でも、そのようなキャラクタ—化は始まっている。保育園の保母さんや幼稚園の先生と、老人施設の職員やヘルパーたちとは、なぜか身振りやもの言いが似てくるけれども、それは社会の側がお年寄りにも一律に子どもと同じようなモードで接しょうとしていることの現われに他ならない。かって、「〃ヤンキー〃と〃サンリオ〃が日本でもつとも売れる商品の条件である」と言い放った具眼の士がいたが、まさにそのような〃もの〃のありよう、大衆消費社会の欲望の方向性が、子どもから発して社会の多くの領域を侵食している。

▶| 子どもとは魂が身からはがれやすい状態

だから、われわれは、ポケモンで卒倒した子どもたちの前に、素朴にたじろぐ必要がある。全国で少なくとも数百人単位で子どもたちが同時に、同じテレビアニメの前で卒倒した。その事件の〃できごと〃としての異様さに、というよりも、むしろその事件の背後に横たわっている、事件に至るまでの時代の来歴、言葉にされないまま生き続けられてきたわれわれの「豊かさ」のありようについて、立ち止まって問いかける必要がある。
そう、われわれ日本人は、「豊かさ」のをほどくことをしないまま、そして、その「豊かさ」のなかで育まれてきたはずの、自分の意識の来歴に言葉を与えることさえしないまま、その時代その時代に支配的な大文字のもの言い、身から遠い言葉でいそがしく心を鎧うことだけを続けた果てに、自分たちの子どもの内実が変わってしまつている気配さえ、きちんと察知することができなくなってしまっているらしい。その分、「カウンセリング」だの、「心のケア」だのというものばかりが肥大して、他人に解決を期待するようにもなる。「子どもたちの心に敏感になろう一とかけ声ば

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かりが大きくなり、「感性の教育」などというもの言いさえも文部省が言い出しかねない事態になっても、じつはそういう「こころ屋」稼業が繁盛するばかりで、それぞれの親が自前で目の前の子どもとどのような関係を保つのかについての手立ては深まらない。その代わり、キャラクタ—商品的な〃もの〃がその隙間を埋めてゆく。その事態がどれだけ深刻な意識の変化をもたらし、どれだけ暮らしのありようを変えてゆくのか、もうあまり考えなくなっている。何より、「子ども」というのが社会のなかでどのような存在だったのかについてさえ、われわれは知らなくても平気になってきている。
民俗学の教えるところでは、子どもというのはいわば魂が身からはがれやすい状態とされる。だから、ちよつとした刺激で、子どもは容易に「この世のもの」ではなくなる。「神かくし」や神秘体験なども、子どもにとってはなかば当たり前だったし、かつては大人もそのことを知っていた。
だが、子どもというのはそういう時期なのだ、という認識が、少なくともアニメやマンガはもとより、そのようなキャラクタ—商品的な〃もの〃を大量にばらまいてゆく「豊かさ」のなか、消費社会を生きるー個の消費者として子どもたちを早い時期から組織してゆこうとする動きの内側には、ほとんど宿らなくなつている。
それは心理学的にどうのとか、精神医学としてはどうかとか、そういう話だけでもない。もっと手前のところ、日常のなかでわれわれが子どもをどのように抱えこんでゆくかについてのノウハウが、少なくともこれまでわれわれ日本人の暮らしのなかでそれなりに伝承されてきた認識からさえも、今のわれわれ大人たちからひきはがされてしまっているということなのだ。魂が身にしっかりと根づかないような早い時期から子どもを消費社会のなかにむき出しにし、うっかりとさまざまな刺激を与えて意識の変容をもたらせる。そのことに大人の側から歯止めがかけられなくなっていった過程も含めて、われわれは静かに考えてみる必要がある。それは専門家に任せてしまっていいものではなく、むしろ逆に、誰もが自分の生まれ育ってきたこれまでの経緯をふりかえり、その間の暮らしの変化をつぶさに言葉にしてそれを取り出そうとする、そういう手元足元の作業のうえに成り立つもののはずだ。
われわれは子どもたちに何をしてきたのか——、という問いは、われわれはどのように〈いま・ここ〉のわれわれになってきたのか、という問いと重なってくる。また、そうならなければ意味はない。多くのお母さんたちが言うように、ピカチュウは悪くない、と僕も思う。だが、と同時に、そのようにわざわざ言い張りたがる「あなたたち今どきの母親って何」という問いかけもきちんとしておかないことには、魂と身とがはがれてしまいやすくなった今どきの子どもたちをめぐる事件は、これから先もまだいくらでも起こってくるに違いな

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