Magic of Pokemon/p179

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われわれは子どもたちに何をしてきたのか
大月隆寛

最初におことわりしておく。ポケモンそのものに思い入れはない。ゲームにしてもマンガにしてもアニメにしても音楽にしても、はっきり言って好きではない。当たり前だ。こちとらもう四十を目の前にした、いいオヤジなのだ。ポケモンにしても、要は自分の子どもが熱中する〃おもちや〃のひとつにすぎない。そしてガキのおもちやにいちいち本気になっていられるほど、オヤジというのは気楽でもヒマでもない。とはいえ、これでは話にならないから、もう少していねいに言おう。
たとえば、ピカチュウをかわいいと思う、その感覚などは、じつはまったくわからないわけでもないのだ。だが、そのような感覚に素直になるより先に、僕にはポケモンがらみの世界を作っていった側の「これって、こうやったらかわいいと思えるんでしよ」といった当て込みの気配が、とてもうざったい。
それは「商品」を作ろうとする時に必ずまつわってくる、市場の欲望を計測しようとするというのともまた少し違う。もっと自覚のない、そこまで意識的に当て込まれたものではないからこそ、どこか居心地が悪いのだ。
そう、僕がポケモンとその世界にいくら向かい合っていても、「よし、こういうキヤラクタ—をこういう具合に作って、こういう世界で動かしてやるぞ」という作り手の意思が、輪郭のはっきりした人格とともに感じられない。その世界を提示する側がどちらの方向からその意思を自分に向かつて提示しているのかよくわからない、そういう方向性のあいまいな「創作」に対する不信感なのだ。
なのに、そんな偏屈丸出しなオヤジの感覚にとってでさえも、ピカチュウやその他のキャラクタ—たちをうっかり好ましいものと思えてしまう部分が、どこかにある。間違いなくある。それは、たとえば「誰もがもっている子どもの心」てな、通りいっペんのもの言いでかたづけてしまっていいものではない。
こういう、ある意味で〃うかつな感覚〃

179   PART-4▶消費者としての子どもたち

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