Magic of Pokemon/p185

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かりが大きくなり、「感性の教育」などというもの言いさえも文部省が言い出しかねない事態になっても、じつはそういう「こころ屋」稼業が繁盛するばかりで、それぞれの親が自前で目の前の子どもとどのような関係を保つのかについての手立ては深まらない。その代わり、キャラクタ—商品的な〃もの〃がその隙間を埋めてゆく。その事態がどれだけ深刻な意識の変化をもたらし、どれだけ暮らしのありようを変えてゆくのか、もうあまり考えなくなっている。何より、「子ども」というのが社会のなかでどのような存在だったのかについてさえ、われわれは知らなくても平気になってきている。
民俗学の教えるところでは、子どもというのはいわば魂が身からはがれやすい状態とされる。だから、ちよつとした刺激で、子どもは容易に「この世のもの」ではなくなる。「神かくし」や神秘体験なども、子どもにとってはなかば当たり前だったし、かつては大人もそのことを知っていた。
だが、子どもというのはそういう時期なのだ、という認識が、少なくともアニメやマンガはもとより、そのようなキャラクタ—商品的な〃もの〃を大量にばらまいてゆく「豊かさ」のなか、消費社会を生きるー個の消費者として子どもたちを早い時期から組織してゆこうとする動きの内側には、ほとんど宿らなくなつている。
それは心理学的にどうのとか、精神医学としてはどうかとか、そういう話だけでもない。もっと手前のところ、日常のなかでわれわれが子どもをどのように抱えこんでゆくかについてのノウハウが、少なくともこれまでわれわれ日本人の暮らしのなかでそれなりに伝承されてきた認識からさえも、今のわれわれ大人たちからひきはがされてしまっているということなのだ。魂が身にしっかりと根づかないような早い時期から子どもを消費社会のなかにむき出しにし、うっかりとさまざまな刺激を与えて意識の変容をもたらせる。そのことに大人の側から歯止めがかけられなくなっていった過程も含めて、われわれは静かに考えてみる必要がある。それは専門家に任せてしまっていいものではなく、むしろ逆に、誰もが自分の生まれ育ってきたこれまでの経緯をふりかえり、その間の暮らしの変化をつぶさに言葉にしてそれを取り出そうとする、そういう手元足元の作業のうえに成り立つもののはずだ。
われわれは子どもたちに何をしてきたのか——、という問いは、われわれはどのように〈いま・ここ〉のわれわれになってきたのか、という問いと重なってくる。また、そうならなければ意味はない。多くのお母さんたちが言うように、ピカチュウは悪くない、と僕も思う。だが、と同時に、そのようにわざわざ言い張りたがる「あなたたち今どきの母親って何」という問いかけもきちんとしておかないことには、魂と身とがはがれてしまいやすくなった今どきの子どもたちをめぐる事件は、これから先もまだいくらでも起こってくるに違いな

185  PART-4▶消費者としての子どもたち

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