Magic of Pokemon/The Birth of Pokemon

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七〇年代のゲー厶センターから始まる
「ポケモン」誕生物語
『ポケモン』制作者・田尻智とその時代

佐藤哲服

「彼のコントローラーを持つ手がきれいだと思った。ゲームが終わってコントローラーを置くときにも、彼はけっして放りなげたりしない。慈しむように置く」現在、〃ゲームアナリスト〃として知られる平林久和は、田尻智の印象をこう語る。当時平林は、雨後の筍のごとく乱立したファミコン専門雑誌の辣腕編集者であり、田尻は彼の雑誌の看板ライタ—であった。それから十年余、八〇年代教養人特有の、もったいつけた語り口を残す平林が、ある畏敬の念をもって田尻の掌を見つめていたのは、当時のJICC出版局(現・宝島社)にあった黎明期の『ファミコン必勝本』編集部であったり、〃男の部屋にしてはやけに整えられた〃田尻のアパートだったかもしれない。当時、田尻の部屋や後に旗揚げするゲームフリークのオフィスの片隅には、古いアーケードゲームの基盤や頑丈な箧体(テーブル)が、うずたかく積み上げられていた。

▶| 「ファーブル先生にあこがれた」少年の小宇宙

一九六五年(昭和四十年)、田尻智は東京都町田市に生まれた。町田市は、東西に長い東京都の中心あたり、南側に向かって楔のように穿たれた街だ。市の南寄りの台地には小田急線とJR横浜線が乗り入れ、市街の中心部を占める。東京寄りの北部には里山地帯が拡がり、新興住宅地、大学の郊外キャンパス、ゴルフ場が散在している。町田駅の北口を出て、市役所から東側へなだらかな坂をーキロほど下ったところに、田尻智が少年時代を過ごした南大谷地区がある。盆地の中央には護岸工事に肩をすぼめた恩田川が流れ、北東のなだらかな丘には正保二年建立の天神社が鎮座する。境内に、維新まで別当をつとめた普化宗の虚無僧寺跡があるのは珍しい。
田尻は両親と三歳下の妹とともに、都営住宅に暮らしていた。
「家の近くには畑とかあって、ザリガニとか、虫とか、死ぬほどいた。だから僕はゲ—ムに出会わなかったら、ファーブル先生に憧れて、昆虫博士になっちゃうようなタ

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イプだったんですよ」
昨年筆者が下北沢のゲームフリークを訪れた際、彼はこう回想した。緩慢な宅地の浸食を受けつつ、いまだに長閑さを保つ南大谷。眺めみれば、このポッカリとした小宇宙で、かつての田尻少年がつかみ取りの自然を享受していた様は容易に想像できる。後に触れるが、田尻智にとって、『ポケットモンスタ—』の制作は、その少年時代に立ち返るための旅路でもあった。恩田川の流れをしばらく東に従うと、田尻の通った南大谷小学校と、中学校が並んで立つ。現在は都留文科大学で教職課程を教える谷田川和夫は、五、六年の担任をうけもった。
「印象の強い子でしたねえ。私の意図にいち早く反応してきたのが彼でしたから。あの年以降、私は常に田尻君を超える子、あるいは田尻君のいたクラスを超えるクラスをつくりたいと思いながら子供と接してきたほどです」(『アントレ』ー九九七年七月号)
すでに神童伝説じみて聞こえるが、谷田川は今も、大学の教材に、小学時代の田尻が書いたレポートを使っている。〃教科書を使わず、生徒に進行させる〃授業を試みた谷田川は、その進行役を率先してかってでた少年、田尻智の創造性を存分に引き出した。リベラルな教育実践が「生徒の自主性尊重」といったお題目に成り下がる前の時代の、幸福な関係があった。
小学生にもかかわらず、夜中まで原稿を書いたりするほど、「発表すること」に熱中していた田尻に、隣接する中学への進学はひとつの喪失感をもたらした。性急な言い方をすれば、その喪失感を埋めたのが、テレビゲームだった。

▶| インベーダーハウスの暗闇がTVゲー厶の原体験

折しも一九七八年、タイトーが開発した『スペースインベーダー』が空前のブームを巻き起こした。例に漏れず町田駅前にも、ある日釣り堀を潰して〃インベーダーハウス〃が建った。薄暗い掘つ立て小屋であった。「百円あったら駄菓子を買っていた」中学二年の田尻は、友大に誘われるままゲームセンターの暗闇に足を踏み入れた。スペースインベーダーを迎え撃つ最初の一機を操作したとき、田尻の手は、平林が「きれい」と呼んだそれへと成長をはじめた。
田尻はいつしか、「月三千円の小遣いのなかからなけなしの百円玉をひとつ持つて、愛車のサイクリング車で五キロ離れた、他よりビーム砲の数が二台多いゲーセンへ毎日」(『電視遊戯大全』UPU刊)通うようになっていた。金がなくなると参考書を買うとウソをつき、しまいには親の財布に手を伸ばして。
真夜中、両親の就寝を確かめると、田尻は自転車を飛ばして駅刖に向かった。当時まだ深夜営業が可能だったゲームセンタ—は、後のコンビニエンスストアのごとく過剰な光に守られた空間ではなく、「出入りするには度胸がいる、アンダーグラウンドゾーン」だった。母親の叱責と親父の拳骨

131  PART-3▶テレビとゲームの時代

をくらいながらも、少年は家を抜けだし、薄暗いゲーセンに通い詰めた。そして、インベーダーに八マった直後から、田尻にとって自分でTVゲームをつくることは「友達の家で当時二十万円もしたパソコン上で動く、ハートやスペード型のインベーダーゲームを見て以来の」(『電視遊戯大全』)夢となった。
中学三年生になった田尻は、ユニバーサル社が主催するゲームアイデアコンテストに応募した。何か変わったアイデアで勝負しようと、シューティングゲーム『闇夜のカラス』(暗闇でカラスが目を開けると眼球だけ画面に浮かぶ)や、雨を避けるアクションゲーム(田尻もすでに名前を忘れている)を書く。しばらくして、参加賞のキ—ホルダーが二つ、田尻の元に届いた。子どもの頃から「自分はできる子だ」と思っていた田尻にとって、それは生まれて初めての、大きな挫折でもあった。

▶| 攻略本の元祖『ゲー厶フリーク』創刊

中学卒業後、東京工業高等専門学校電気工学科に進学した田尻は、セガ・エンタ—プライゼスの「ゲームアイデア大賞」への応募を目指し、生意気にも新しいゲームの方法論を模索していた。そして、彼は英語の授業で学んだ「動詞の活用」にヒントを受け、「新しいゲームをつくることは新しい動詞を探すことと同じ」という発見に至った。
田尻は応募締め切りの前日深夜、〃跳ねる〃動詞を織り込んだゲーム『スプリングストレンジャー』を一気に書き上げた。コンテストの発表は遅れ、半年ほど経って本人さえ忘れかけていた頃、「一位入賞」という吉報が届いた。この入賞を足がかりに、田尻はセガにゲームアイデアを持ち込んでは、市場調査部や研究開発部の社員相手に評価を仰ぐようになった。
ハ二年になると、田尻は後にゲームマ二アのバイブルとなるミニコミ誌、『ゲームフリーク』の創刊を目指す。田尻は最初、「何かアンダーグラウンドなものを追求する雑誌」をつくりたかった。慶応の学生によるサブカルチャー誌『突然変異』の読者であった田尻は、自分でも変態や犯罪についての情報をまとめたいと思ったのだ。その一環として、ゲーム攻略法の記事を誌面の四分のー程度掲載する予定だったという。
アングラ臭が濃厚だった初期のゲームセンタ—に身を浸していた田尻にとって、「ゲームと変態」はじつは親和性の高いネタだった。しかし、本の制作は、わずか表紙をつくっただけで、早々と頓挫してしまう。「ま、それは高校生が考える変態のイメージは、質、量ともに限界があったということです」(『新ゲームデザイン』エニックス刊)
この微笑ましい「挫折」の後、田尻はTVゲームー本にテーマを絞って、ミニコミ誌の編集方針を練り直し、それまでに集めた業務用ゲームのカタログ類をマニア向け

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資料として提供することを思いついた。半年がかりの孤独な作業の後、八二年十ー月、田尻は『ゲームフリーク』創刊号を発行する。現在田尻が社長を務めるゲーム制作会社の名称でもある『ゲームフリーク』は、当時田尻が心酔していたカルト・ムービー『フリークス』からとられた。コピーをホッチキスで綴じただけの粗末な小冊子、新宿の同人誌専門店『フリースペース』にーー十部だけ置かれたそのミニコミ誌を〃えにし〃に、田尻はポケモンの成功までタッグを組むことになる良友を得た。グラフィックデザイナーの杉森健である。自身もゲームファンであった杉森は、『ゲームフリーク』誌上に描かれたゲームマップの精巧さに驚いて田尻に手紙を書いたのだ。
当時はTVゲームの攻略法を解説した雑誌など皆無だった。『ゲームフリーク』は全国のTVゲームファンに口コミで拡がり、定期購読者を増やしていった。読者からの攻略法のリクエストも殺到した。田尻はTVゲームの箧体(テーブル)を購入して自宅の部屋に備え付け、ゲームセンターでバイトする友人が持ち込むゲーム基盤をセツトしては攻略法に打ち込んだ。

133  PART-3▶テレビとゲームの時代

断続的に二十三号まで発行された『ゲームフリーク』は、多いときには二千部以上を刷り、なかでも「ゼビウスー千万点への解法」と題された冊子は通販でー万部以上を売って、「攻略本の元祖」とまで呼ばれた。田尻智とゲームフリークの名は、ゲーム業界や出版社界隈に広く知られるようになっていった。

▶| ゲー厶ライターの草分けとして

八九年七月十五日、任天堂が家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」を発売した。『スーパーマリオブラザーズ』(任天堂、八五年九月十三日発売)など優れたソフ卜にも恵まれた「ファミコン」は一大ブームを巻き起こし、八五年二月十三日に施行された「新風営法」がゲーセン野郎の夜を奪ったことも手伝って、本格的な家庭用ゲ—ム機の時代がやってきた。
同年七月には最初の家庭用ゲーム機専門誌『ファミリーコンピュータMagazine』が徳間書店から発売される。次いでアスキーから『ファミコン通信』が出され、三番手としてJICC出版局から『フアミコン必勝本』、角川書店からは『マル勝ファミコン』が相次いで創刊された。とにかく、ファミコンソフトの攻略法をテーマにすれば驚くほどに雑誌が売れた。当時をよく知る平林久和日く、「雑誌がいっぺんに出たので、とにかく人が足りない。極端な言い方をすれば、ゲームに詳しくて字さえ書ければ〃ゲームライタ—〃。そういうゲームライタ—が当時たくさんいた」。田尻智はそのころ、記名原稿を載せられる数少ない有名ライタ—だった。『ファミコン必勝本』が創刊された八六年、平林は田尻に出会う。「言葉に温かみがあるうえに、ゲームを語るボキャブラリーが他のゲームライタ—に比べて圧倒的に豊富だった。そのゲームの何がいいのか、どこがおもしろいのか、いろんな言葉を使つて勧めてくる人だった」。後に田尻のゲーム観に大きな影響を与えることになる糸井重里も、『ゲームフリーク』が同人誌タイトルだった時代から田尻を知る。
「僕がNHK教育テレビの司会をやっているとき、彼はゲーマーとして番組に出ていたはず。要するに、頭の回転が早いというより、指が早いタイプの人として。彼はゲームの〃好きさ〃がずば抜けていた。ゲームを媒介にして有名になりたいとか、稼ぎたいとかじやない場所にハッキリいたからね。かっこよかったですよ」
八七年十一月六日、田尻はフジテレビの深夜番組として放送された『糸井重里の電子遊戯大展覧会』に、おもに業務用ゲーム紹介のブレーンとして参加している。七八年から本格的に始まつたTVゲームの歴史も、すでに十年という一区切りを迎えようとしていた。『電子遊戯大展覧会』はその一大回顧を目指した番組だった。糸井といい、田尻といい、この時TVゲームの未来に問題提起をした当人たちが、後にそれぞれの答えを、自ら開発したソフ卜で示すことになる。

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▶| ゲーセン野郎からゲー厶作家に転身

八六年、商業ゲーム雑誌のライタ—として自活した田尻は、時を同じくしてゲームソフトの自主開発に着手した。セガのコンテストで一位になって以来、田尻は新しいアイデアを幾度となくセガに持ち込んだが、商品化の話が直前にキャンセルされることが繰り返された。
もうひとつ、ゲームライターとしてTVゲームのあり方にクリティカルな発言を繰り返すうちに、田尻のなかにはゲームの将来に対する危機感が芽生えはじめた。「当時、コンピュータの進化がゲームを変えるような風潮がすごく強まった……新しいゲームを見ても、ああ、これはあのゲームとあのゲームが組み合わせてあって、最後にこうなるんだなっていうのがわかつちやう。だからゲーセンにいる時間も減ってくる。……ゲームには面白いと感じさせる構造があって、コンピュータに依存しない新しいゲームの仕組みを考えろ、みんな目覚めろ、と僕は言い続けた」(『アントレ』一九九七年七月号)
しかし幼稚なゲーム・ジャーナリズムのなかで、田尻の警句に耳を傾けるものはいなかった。募る無力感と怒りを、田尻はゲーム制作の情熱へと変換していった。幸いに、彼のまわりには杉森はじめ、『ゲームフリーク』を通じて有能な仲間が集っていた。『ゲームフリーク』は、にわかにソフ卜制作集団に様変わりした。資金も開発機材もないところからのスタ—卜だ。まずはファミコン・ハードの構造を覗くことから始まった。
田尻はゲーム制作のため、香港でつくられたらしい海賊版の『アップルⅡ』を秋葉原で購入した。『アップルⅡ』のCPUは、ファミコンと同じだったからだ。
「田尻がゲーム雑誌に一生懸命原稿を書いて、その原稿料をつぎ込んでパン買って、プログラマーに食わして……」(糸井)という田尻らの苦闘は、その三年後、ようやく初の自主制作ファミコンソフト、『クインティ』として結実することになる。

▶| ナムコとB級カルトへのォマージュ

彼はできあがったソフトを迷わずナムコに持っていった。
「僕がゲーセン野郎だった頃、『パックマン』『ディグダク』『ゼビウス』『マッピー』とナムコのゲームばかりやってきた。ナムコがもっていた深い世界観やゲーム性に対する感謝の気持ちをオマージュにしたのが、『クインティ』でした」(田尻)『クインティ』へのナムコの評価は亠咼く、八九年六月二十七日、『クインティ』は正式に発売された。それに先がけて同年四月、『ゲームフリーク』は株式会社となった。
『クインティ』は、妙な動きをする〃敵キャラ〃を、正方形のパネルをめくって転ばせるアクションゲームだ。一つの面をクリアするたび、似たような画面が更新され、ミスをするまで繰り返される。
「八〇年代前半までのTVゲームは、こう

した繰り返しで遊ぶパタ—ンが多く、そのなかにテクニックやスキルアップがあって、遊び方が徐々に変わっていくようになっていました。『クインティ』は、八〇年代最後の年に、八〇年代TVゲームの基本レトリックを包括した作品であったといえます」(『新ゲームデザイン』)平林久和は『クインティ』を高く評価しつつ、当時にしてすでに、そこに「懐古主義的な匂い」を感じていた。そして彼はむしろ、『クインティ』に登場するユニークなキャラクターに注目した。「たとえば〃スイマー〃っていうキャラク夕ーは、『泳ぐ人』というフランスのカルトムービー、ずっと泳ぎ続けるだけの人の映画があって、それがモチーフになっている。田尻の会社『ゲームフリーク』の名も、身体障害者を題材にした映画『フリークス』からとられているし。足を引きずっている人がいたら、見てはいけないと思っても、相手を強く意識してしまうからつい見てしまう。〃人と違う〃ということは、〃人に見られるカ〃をもっていることなんだ、という田尻のキャラクタ—論、映像論が、『クインティ』のキャラクタ—に反映されているんです」(平林)高専時代、田尻は数多くの映画を観たが、その多くはカルトやモンドといつたB級キワモノ映画だった。とりわけ彼を魅了したのは前述の『フリークス』であり、『ピンク・フラミンゴ』をはじめとするジョン・ウォータ—ズの作品だった。彼はゲーム雑誌の編集者に向かって「『フリークス』、観なきやダメですよ」と真顔で力説しつつ、「ディズニーの『ファンタジア』いいですよねえ」と嘆息する不思議な少年だった。
そんな田尻にとって、『クインティ』は「ナムコ黄金期へのオマージュ」であると同時に、「フリーキッシュな人間をとりあげたい、というカルト嗜好を強力に反映した作品」(『ゲーム批評』vol. 12 九六年十ー月三十日発売)でもあったのだ。TVゲームに捧げられた彼のストイックな求道心と、怪しげなカルト趣味とがさらに昇華されたかたちで開陳されるまでには、六年後の『ポケットモンスター』を待たなければならない。

▶| 「通信ケーブル」の先進性に着目

田尻が『ポケモン』に通じるゲームアイデアを得たのは、八八年に任天堂から携帯用ゲーム機「ゲームボーイ」(以下GB)が発売された直後だ。プロとしての環境が整い、初めてGBに触れた田尻は、そのオプションである「通信ケーブル」に注目した。
「平林さん、みんなはあのケーブルを対戦ケーブル、対戦ケーブルって呼んでるけど、あれ『通信ケーブル』ですよね。対戦だけに使わなくたつていいじゃないですか」
田尻は当時、平林によく話していたという。
「通信ケーブルによって、ゲームが拡張されるという言葉から、僕はさまざまな想像

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をした。ちつちやな装置なんだけどスケー ルの大きい意味をもっている気がして、こ んなモノだろう、あんなモノだろうと考え ていたんです」(田尻)
彼は文字や数字の情報が、Eメールのよ うにケーブルを通して他のGBに伝わると いう、ぼんやりした「ゲームの未来像」を 描いた。
「でも実際にGBで発売されたソフトは、 アーケードゲームの移植や、昔流行ったゲ ームのリメイクがほとんどで、自分が思い 描いていた『未来像』はなかなか手元に来 なかった。その頃、自分がゲーム制作のプ ロのスタ—トラインに立ったわけで、なら ば自分が未来に期待しているソフトを自分 でつくればいいと思った」
田尻はGB用に新しいゲームの企画を温 めはじめたとき、「これはナムコに持って いくものではない」と直感していた。

▶| 〃ゲー厶界の青年将校〃VS糸井重里

『クインティ』が世に出た八九年、もうひとり、ユニークなゲーム作家が生まれている。前述の糸井重里だ。彼もその年にロールプレイングゲーム(RPG)『MOTHER』(八九年七月二十七日、任天堂より発売)でゲーム作家としてデビューしていた。その後、糸井はゲーム制作会社『APE(エイプ)』を任天堂と半々の出資でたちあげる。
田尻は糸井がつくった『MOTHER』には批判的だった。同人誌時代から培ってきた田尻の一途な〃ゲームの理想形〃〃ゲ—ム制作のあるべき道〃に照らし合わせると、『MOTHER』にはいろいろな〃邪念〃を感じたのだという。
後に『ポケモン』のプロデュースを手がける石原恒和(現㈱クリーチャーズ代表取締役)は、「糸井さんは当時、『田尻君のゲームに対する考え方は青年将校みたいだ』と言っていました」と笑う。糸井もこのエピソードはよく覚えている。
「きっかけがあってね。宮本茂さんがつくった『スーパーマリオブラザーズ3』(八八年十月二十三日、任天堂より発売)には、第六ステージの『滑る氷の床』でマリオが氷で滑る場面がある。田尻は宮本さんのフアンではあるんですけど、彼の考え方からすると、それは『ゲームとして納得がいかない』と言ったんです。彼は『僕はマリオが〃できること〃を増やしていく流れのなかに、マリオが〃できないこと〃を新たに加えることには納得がいかない。論理矛盾じやないか』とね。
そのとき『いいなあ、こういうこと言うヤツがいて』という気持ちが半分あって聞いていたんだけど、僕が『それで田尻、第六ステージはつまらなかったの?』って聞いたら、しぶい声で『おもしろかったです』って言うんだ。僕は『ああ、おもしろいな』と思って。
つまり理念とか『こうあるべきだ』というイメージを先に立てて、それに合わせようとするのは若者の特徴で、田尻君はまるで『ゲーム界の二・二六事件の青年将校みたいだ』って、からかったんです。立派な

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青年エリートという意味じやなく、すっかり体は楽しんでいるのに、理念が違うといって口をとがらせるところが青年将校だって」(糸井)
同じように、田尻は大きな瞳を見開いて糸井の『MOTHER』にも食ってかかった。
「糸井さんは、まずゲームの勉強をしてないなと思った。ゲームをつくるためのデザインですとか、手法ですとか。映画だったらカメラの構造はこうで、こう撮るのが普通だという、TVゲームの手法の基礎をやっていない気がして、僕は『MOTHER』について『こんなものは認められない』と言ったんです」(田尻)しかし糸井はそんな田尻の批判をまた軽くいなした。
「彼に『で、おもしろかったの?』って聞くと、『ぼ、僕はわかりましたけどね』って言うんだ。『おもしろきやいいじやない』っていうのが僕の立場だから、そこがオッサンと若者の会話だよね」(糸井)

▶| ゲー厶の外側の発明

その田尻が後の『ポケモン』の原型となる企画書を持ち込んだのは、糸井重里の『エイプ』だった。当時のエイプには、前述の石原恒和も参加していた。田尻は後に、自分が糸井の門を叩いたその無意識の動機を思い出していく。
「僕がその頃こだわっていた〃ゲームがゲームであるための勉強〃というのは、要するに知識でしかなかった。そういう観点に固執すれば『MOTHER』は認められなかったけど、誰かに何かを伝えたいというメッセージ、そのクリエイトする情熱は『MOTHER』にあふれていた。自分自身が無意識に抱いていたはずの情熱を、糸井さんにも感じたんです。だから僕は『糸井さんのゲームを認めたくない』と思っているのに、同時にいちばん惹かれ、魅力を感じたのが糸井さんだった。それで、当時考えたアイデアや発想を、まずエイプに持っていったんでしょう」(田尻)
田尻は最初の企画書を書く時点で、すでにGBの対戦ケーブルを通信の機能として使い、捕獲したモンスタ—を相手と取り替える仕組みまですべて見通していた。企画書にはまず、田尻がイメージした「仮定ストーリ一」が記されていた。「電車通学の途中、見知らぬ子がポケモンで遊んでいるのを見て、主人公は『そのドラゴン恐竜を欲しかったんだけど取り替えてくれないか』と声をかける。するとその子は『いいよ』と言って、隣に座ってモンスタ—を交換する。こういう情景が起こるようにゲームをつくりたいんだ、という書き方をした。僕は、ゲームの中身の発明と一緒に〃外側の発明〃も提案したかったんです。このゲームが世の中に出ることで、人々のゲームに対する接し方がこのように変わるんだって」(田尻)
糸井は、この企画書を読んだ際の感想をこう語る。
「やっぱり『かっこいい』と思ったよ。GB機とGB機を田尻は線で繫げてリンクさ

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せたわけだ。〃リンク〃という考え方は、じつは僕もその当時考えていたことだった。つまり『オレは間違ってなかった』っていう気持ちがあったの。田尻を誉めるってより『オレって偉い』という気持ちで田尻を誉めた」

▶| 窮地を救ったフラッシュアイデア

糸井と石原は「田尻君が考えたゲームを自由につくってみればいいよ」と、あっさりGOを出した。ゲームフリークでは通常の・RPGの制作期間にあたる一年のスケジユールでソフト制作に取りかかった。田尻たちは最初に、GB同士がモンスタ—のレベル、覚えている技といった複合的な情報を圧縮して交換できるか否かを実験した。その問題はーカ月くらいで難なくクリアされたので、残り十一カ月あればソフトは完成すると目算された。
ところが実際には一年経ってもほとんどそこから先に進まなかった。彼らにいったい何が起きていたのか。「最初にラフでいろんなモンスタ—をソフ卜に入れてみたが、ちつとも〃欲しく〃ならなかった。交換しておもしろいことは確かに実験でも証明された。だけど、自分が愛着をもって育てている生き物を、他人のものと取り替えたいとまで、そう簡単に思えるのだろうか。
『人が欲しくなるものって何なんだろう』と漠然と考え続けたまま、やっぱりー年経っと締め切りがきて、僕らはすごく慌てた。GBの市場自体は大きかったけど、定価が安いから開発費は多くない。締め切りを過ぎると会社経営に影響が出てしまう。だからゲームの〃未来の種〃は手に入れたのに、それを育てる前にいろいろなものが押し寄せてきて、自分たちの活動自体が危うくなってきた」(田尻)万策尽きてエイプを訪れた田尻に、石原は「任天堂が、マリオのキャラクタ—『ヨツシー』を使って、おもしろいゲームを半年でひとつつくりたがっている。これに乗らないか?」ともちかけた。田尻はふたつ返事で飛びつき、『ポケモン』で使うはずだったサウンドプログラムや開発技術の一部を転用し、『ヨッシーのたまご』を完成させた。
「『ポケモン』をつくり続けるためには、他のゲームで稼がないとチームが解散になってしまう。任天堂とのやりとりに、僕が入ったり石原さんが入ったりして、田尻が食ってける道を探しながら、『ポケモンは消えてない、あれは絶対に出すべきゲームですよ』とキープしている期間が長かつた。
当面のお金のためにやることをあまり田尻にやらせたくなかったけど、必ず売れるモノ、たとえば『マリオとワリオ』とか、『ヨッシーのたまご』とか、ああいうので繫いでいかなかったら、『ポケモン』は水子でした。田尻にはどこか、誰かに愛されるところがあって、みんなにそれをやらせたんでしょうね」(糸井)
GB版だけで世界マーケットで三百万本の大ヒットとなった『ヨッシーのたまご』

139   PART-3▶テレビとゲームの時代

さえ、じつはポケモンをつくるための布石だったのだ。
「お陰で会社が機能し成長していった。同時に『ポケモン』のアイデアをゆっくり熟成して育てていくことができた」(田尻)

▶| 『ポケモン』は同世代の大人たちへのメッセージ

新しいゲームの技術的な問題はクリアされた。にもかかわらず田尻は、「相手のものが欲しくなる、交換したくなる」というモチベーションをつくり出すことに苦悩していた。〃ゲーム界の青年将校〃にとっても、いまだ未知の戦場。それはいわば、作家がゲームの外に世界をつくり出す、ゲームが「TVゲームの外に出る」ための闘いだった。
「やりたかった仕組みはっくったし、そこに魅力のあるオブジェクトがあればこのゲームは成功すると思った。その先は視界が霧の中に隠れてよく見えない状況になつて、まったく普通のゲーム制作のパタ—ンから外れてしまった。ゲーム云々より『おもしろい生き物をつくる』ことがテーマになって、えんえんポケモンの絵を描いていました」(田尻)
田尻らは三百体以上のポケモンを描き、人気投票を行ないながら何度も修正し、百五十体のポケモンを厳選した。ポケモンワールドで繰り広げられるゲーム•ストーリーも、ギリギリまで洗練が重ねられた。結局、『ポケットモンスター』「赤」「緑」は九六年二月になつてようやく発売された。田尻はその制作にじつに六年もの時間を費やしたことになる。
二月末に出荷が始まった当初は二十万本程度の売り上げだったが、小学生を中心に徐々に火がついた。気がつけば、『ポケモン』は「赤」「緑」、後に通販等で発売された「青」の三本あわせて八百万本以上という空前の大ヒットとなった。おもに小学生の圧倒的な支持にささえられた『ポケモン』人気だが、開発者の田尻自身は当初、このブームを意外に感じていた。
「じつは小学生に向けてつくったという意識はまったくないんです。僕と同じくらい、だから三十歳前後の大人に『僕ら、子どもの頃にこんなことして遊んだじゃないか、おもしろかったよなあ、あの頃は』というメッセージを伝えたかった。言葉のセンスも含めて、僕はあの頃こうだった、こんな連中と遊んでいたっていう記憶をたぐり寄せていった。ポケモンを通じて、同じ体験をくぐってきた大人に共感をもってもらいたかった。それが小学生に受けているということは、僕が子どもの頃過ごしてきたことと、今の子どもが楽しんでいることは同じで、『変わらないのだ』という証明になっている。
コマをドブの縁にわざとこすりつけて塗装を剝いで全部銀色にして、それだけで「かっこよくカスタマイズ化できた!」なんて喜んだり。ああいう欲求が今のミニ四駆とかにもつながっている。些細なことなんですよね。多少スタイルに違いがあっても、おもしろがっていることや動機は変わらない。だから小学生はオレのゲームやる

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んだなと。それは売れた後で気がついたことです」

▶| クリエイティブは輪廻する

田尻が少年時代を過ごした七〇年代は、ウルトラマンなどの〃怪獣もの〃が大流行、その世界で魅力的なキャラクタ—がたくさん存在した時代でもある。そして『ポケモン』も、いまや田尻ひとりの作為を超えて、子どもたちにとって世代の共有財産になっている。
「僕は幼稚園の頃から『ウルトラセブン』がすごく好きで、何度も見ていた。セブンには夜の場面が多くて、暗闇に宇宙人が忍び寄ってくる不思議な感覚が、かなりこなれたかたちで『ポケットモンスタ—』というゲームになったと思う。かってたくさんの空想の怪物をつくって、それぞれが魅力的だった円谷プロの作品を見て、こういう犬人が育って、こういうゲームをつくっている姿を、僕は円谷英二さんやーさんに見せたかった。ウルトラセブンの諸星ダンが使っていた五本のカプセルのなかで、ウィンダムとミクラスとアギラ、そしてセブンガー、あと一本余っている未使用のカプセルに何が入っているのか?自分にとっては、ポケモンがそれなんです」(田尻)「子供の記憶」が心身症とトラウマに満ちた忌まわしい思い出のように自己言及されることが多い時代に、田尻はためらいもなく自らの少年時代を彩った思い出たちをリスペクトする。
しかし、田尻はそのカプセルに子ども時代の「無垢なる思い出」だけしまい込んだわけではない。
「『ポケモン』は、僕が子供の頃に虫が好きだったという体験がベースになっているのですが、だからといって単純に〃昆虫ゲ—ム〃をつくったわけではないのです。そこには、僕のモンド趣味的な部分も入っている。物に対する執着とか、僕流の日本語の変てこなオーラが出ている、そういう自覚があります。……『ポケモン』のなかに隠され、発酵している変な部分。たとえば妙な言葉の言い回しや、『ゲームフリーク』という名前。『フリーク』ってどんな意味なんだろうみたいな疑問を、長い間覚えていた子どもが、やがて本当の意味を知った時どんなことを考えるのだろう。自分のTVゲームが、子どもたちに様々な体験と影響を与えて、それでまた新しいエネルギーに変換されると思うと、これからが楽しみです」(『ゲーム批評』VOL 12)

▶| ポケモンというメディア

田尻は当初から『ポケモン』を通じて「ゲームの外側の遊び」をデザインすることを狙っていた。しかし予想以上に膨張してしまったブームは、彼ひとりの意思だけでは制御しようもないものに変質しつつある。たとえば日本全国のGBのなかで大量発生している「ニセ・ミュウ」。「ミュウ」は通常のカートリッジには正式なデータとして入っておらず、人気マンガ誌『コロコ口コミツク』のプレゼントとして配付された百五十一体目の「幻の」ポケモンだ。し

141  PART-3▶テレビとゲームの時代

かしゲームマニアたちは、ROMのデータにバグとして残っていたミュウを裏技を使って出現させてしまった。限られたイベン卜会場などでしか手に入らない「ミュウ」の需要は高く、『ポケモン』のROMに悪影響を及ぼす可能性のある「ニセ・ミュウ」は大量に跳梁する。
さらには現在までに、ポケモン関連商品のライセンスを取った企業は三十五社、商品数は約七百にも上る。「関連商品が四千億市場だというのは大げさにしても、三千億円は確実に超えている」(石原)という現状は、商業主義がポケモンの世界観を崩壊させかねない危険をも孕む。田尻は昨年の夏、懸念を露にしてこう語っている。「(キャラクター商品は)必ずしもゲームを愛している大がっくっているとは限りません。実際、毎週何十個も『ポケモン』のキャラクター商品や、アニメのシナリオをチェツクしていると、この大は『ポケモン』を知らないでつくっているということがすぐわかります。たとえばキャラクター商品をひとつつくるのでも、ポケモンのっくり手としては、こうっくればポケモンの魅力がもっと伝わるのにといったアイディアがすぐ浮かんできます。でもそれが実現できないのは、正直言って非常に寂しいわけです」(『ゲーム批評』vol. 16一九九七年九月一日号)
たとえば非常に成功したポケモン関連商品の筆頭に挙げられる『ポケモンカード』は、ポケモンのGBソフトが発売される以前から、プロデューサーの石原が任天堂と企画を練り上げ、ポケモンの世界観を拡張する〃もうひとつのゲーム世界〃を丹念にっくり込んだ商品だった。それに引き比べて「キャラクタ—のイメージを膨らませるのではなく、ただ消費している」にすぎない関連商品の横行は、田尻にかなりのストレスを与えている。彼は「本当は、ゲーム制作だけでなく、こうしたキャラクター商品の部分まで自分でコントロールしていきたいんです。そうすることによって、逆に僕がゲーム制作を通して言いたいことが、より誤解のないかたちで大々に伝わるんじやないか」(『ゲーム批評』vol. 16)とまで語っている。しかし、田尻の憔悴は、一面では自らのゲーム思想、大切なポケモンワールドを守ろうという理念ばかり先走った、いかにも「青年将校」的な悩みにも思える。糸井重里は田尻の気負いを次のようにいなす。
「ポケモンはすでに、『ポケモンというメディア』になっているんです。たとえば、ピカチュウしか知らない。『ポケモンって、あれゲームだったの?』という大いますよね。いいじゃないですか。田尻だってもともと、その大たちに向けてつくったわけではないんだから。『ピカチュウかわいい!』って言われたらそれでOKですよ。『したいこと』は何もかも自分の思うようにならないからこそ、おもしろいんです。これはおもしろがらなきや。とにかく汚れたモノもきれいなモノもみんな取り入れたうえで、『この景色おもしろいなあ』って笑っちやって、『で、オレが好きなのはこれ!』

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て」
田尻がこの老獪でタフな言葉を聞いたとき、糸井との間でまた「オッサンと若者の会話」が始まることになるだろうか。かつて大きな眼を剝いて糸井にゲーム論争を挑んだ、愛すべき「青年将校」は、糸井にどんな言葉を返そうとするだろうか。

今この時点での、田尻のレスポンスを聞いてみたい。筆者は任天堂とゲームフリークを通じ、田尻本人への取材を申し込んだが、三月末に予定されている『ポケモン』「金」「銀」の制作が大詰めに入っているとの理由で、丁重な断りを受け、念願は果たせなかった。

▶| 〃青年将校"が背負った重い課題

ー九九七年十二月十六日夕刻、テレビ東京系列で放映されていたアニメ番組『ポケットモンスタ—』を見た子どもたちが、次々と倒れる事件が起きた。同年四月一日から放映されていた同番組の制作には、実は田尻自身も積極的に関わっていた。これまで、ゲームソフトのアニメ化は数多くなされてきたが、「ゲームの世界観や物語がそのままアニメ化された例」はポケモンが初めてだった。
「最初『ポケモン』のアニメ化の話がもち上がったときに、僕は何度もアニメの制作陣に向かって、『ゲームから離れていかないで欲しい』と念を押したんですね。またアニメ制作に取りかかる前に、スタッフ全員に『ポケモン』を遊んでもらったりもしました」(『ゲーム批評』vol. 16)田尻はアニメ版『ポケットモンスター』の細かな世界設定や毎週のシナリオチェックを行ない、「アニメーション制作がゲームデザインの一環として共有されている」環境を意識的につくり出していた。その徹底した努力は、妥協のない優れたアニメ作品となって結実し、視聴率の面でも大きな成功を収めた。小学生の視聴率は、じつに八割を超えていたともいわれる。「日本のゲーム業界はアニメ•放送業界に比べて、光感受性発作への対応が進んでいるといっていい。……報道によると、今回のアニメ番組では赤色と青色のフラッシュが何度も使われていたというし、問題の場面はズバリ、秒間二十コマのちらつきだったという。これを『確信犯』と呼ばずして何と呼ぼうか。そういった番組をつくる側、放送した側が咎を受けるべきであって、ポケモン、ひいてはテレビゲームが気分に流されて悪者にされるのは、どう考えてもおかしい」(『TV GAME PRESS』ー九九八年二月十四日発行)平林久和は「ポケモン事件」後に書いた論説でこう主張している。
しかし、アニメ『ポケモン』は、単にポケモン・キャラクターを消費するだけの便乗番組ではなかった。それは田尻のゲームデザインの一環として設計され、子どもたちの「ポケモンワールド」と直接リンクするメッセージを、TVを通じて送り続けていたのだということを忘れてはならない。子どもたちは、田尻がメッセージを託し

143  PART-3▶テレビとゲームの時代

た画面を食い入るように見つめ、ビデオフイルムに潜んでいた危険なバグによって倒れた。
昨年十二月の事件に、恐らくゲームクリエイタ—田尻智は「ー当事者」として強い衝撃を受けたのではないか。「ゲームの周辺を含めたゲームデザイン」に取り組みはじめた矢先、ゲーム界の青年将校は、その野心と理想に見合った、重い宿題を背負うこととなった。
もちろん悪いことばかりではない。「ポケモン事件」がアメリカ三大ネットなどを通じて海外でも報道されたことをきっかけに、アメリカでのアニメ放映、GBソフトとカードゲームの英語版発売が矢継ぎ早に決まった。
ポケモンは日本が世界に送り出す、今世紀最後にして最大の「メディア」になるかもしれない。しかし、それはただビジネスのスケールをめぐる話題であり、筆者はあまり興味を惹かれない。
日本国内ではすっかり膨張しきったかに見える「ポケモン」をめぐる物語——。すべては町田駅前の薄暗い掘つ建て小屋、急ごしらえのゲームセンタ—から始まつた。
あるいは六〇年代末から七〇年代にまだ残存していた穏やかな郊外の自然、自由な教育観をもった教師による薫陶、夏休み恒例のウルトラシリーズの再放送、思春期の屈折した精神をくすぐり騒がす怪しげなカルトムービー都市近郊に暮らす少年たちの、誰もがすれ違ったはずの、ありふれたクリエイティブたち。月日は流れたが、田尻智はその始まりの場所からさほど離れてはいない。東京生まれの東京育ち。ゲーセン野郎出身のゲーム作家で、社長もしている。三十歳の時、彼はひとまず世界一のゲームボーイソフトをつくった。
「彼のコントローラーを持つ手がきれいだと思った。ゲームが終わってコントローラーを置くときにも、彼はけっして放りなげたりしない……」
その時、平林の視線をよそに、田尻はひとり画面に向かい、大声を上げながらゲームを続けていた。

■引用記事・文献
・『新ゲームデザインTVゲーム製作のための発想法』田尻智著(エニックス・ー九九六年)
・『テレビゲーム電視遊戯大全』テレビゲーム・ミュージアムプロジェクト編(㈱ユー・ピー・ユー・一九八五年)•「ゲームはなぜ面白いのか? 電視遊戯考現学講座」田尻智(『季刊ゲーム批評』マイクロデザイン出版局vol. 4・ー九九五七月十日〜vol. 7九六年五月三十日、vol. 9九六年五月三十日〜vol. 14九七年四月十日、vol. 16九七年九月一日掲載分•「未完成の自叙伝㈱ゲームフリーク代表取締役田尻智」平塚晶人(『アントレ』リクルートー九九七年七月号)
■参考文献
•『パツクランドでつかまえてテレビゲームの青春物語』田尻智著(JICC出版

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