Magic of Pokemon/History of the Video Game Industry

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テレビゲー厶産業発達史

矢本広

テレビゲームは日本で生み出された遊びではない。これの起源をたどると、ー九六〇年前後のアメリカの工学系の研究機関に行き着く。
当時、コンピュータを学んでいた学生たちの間で、『スペースウオー』と名づけられた、ごく初期のテレビゲームのひとつが流行していた。『スペースウォー』を製作したのは、マサチューセッツェ科大学の人工知能プロジェクトに関わっていたスティーブン・ラッセルである。ラッセルは、最新鋭の小型コンピュータであったPDP-1というマシンの機能を試すためのデモンストレーション用プログラムとして、『スペースウォー』という対戦用ゲームを開発した。
この『スペースウォー』は、当時PDP-1の置かれた研究機関の間に広まり、多くの学生に親しまれていつた。その学生たちのなかに、これをビジネスにできないかと考える若者が現われた。名をノーマン・ブッシュネルという。ブッシュネルは、商業用ゲーム機の製作と販売を企画し、ナツチング社に持ち込んだ。ー九七ー年、同社から業務用ゲーム機『コンピュータスペース』が発売される。二十年の後、巨大産業に膨れ上がるゲーム産業は、じつはここから始まったのである。
非商業用のテレビゲームである『スペースウォー』は、当時最新鋭のコンピュータの性能を確かめるための研究資材であり、研究生がめいめい改造したプログラムを仲間に作品として発表するものであり、みなで集まって遊び合うためのパーティーの道具でもあった。
この状況のなかに金銭が介在すれば、現在のテレビゲームをとりまく需要と供給のありようと相似する。それを現実のものとしたブッシュネルは、業界内においては「テレビゲームの父」と称されることが通例になっているが、正確にいえば「テレビゲーム産業の父」なのである。また、金銭の介在なくして、この目新しい遊びが大衆化することもなかったことを考えれば、同時に彼が「大衆娯楽としてのテレビゲームの父」である、ともいえる。
ー九七二年、ブッシュネルは友人とともに、五百ドルの出資によってアタリ社を設立し、独自にゲームビジネスを展開していくことになる。同社は一九七二年の『ポン』、ー九七五年の『ブレイクアウト』と、立て続けにヒットを飛ばし、一躍その名を世に知らしめることになる。
「インベーダー」ブー厶以前しばらく後、この新しい遊び道具は、日本にも輸入され、少しずつ世間に出回りはじめた。とくに

153   PART-3▶テレビとゲームの時代

『ブレイクアウト』は日本でも評判を呼び、俗にいう「ブロック崩しブーム」を巻き起こす。この「ブロツク崩しブーム」と前後する頃から、国内企業による独自のテレビゲーム開発が始まる。そのなかに、タイトー、セガ、ナムコ、任天堂レジャーシステムといつた、現在の大手ゲームメーカーがあった。もともとこれらのメーカーは、アミューズメン卜機器と呼ばれる商品、たとえばジュークボックスやピンボール、デパートの屋上施設などに設置される百円の乗り物などを輸入または製造していた業者である。一方で、エレクトロ二クス技術の急速な発展は、これまで余所で料金を支払って遊ぶのがもっぱらであったテレビゲームを、家庭に持ち込むことさえ可能にした。家庭用ゲーム機の登場である。日本で最初に製造、販売された家庭用ゲーム機は、ー九七五年のエポック社の『テレビテニス』である。これに続いて、タカラ、バンダイ、トミー、任天堂といった玩具メーカーが、次々と家庭用ゲーム機を発売していくことになる。
一九七七年頃になると、業務用と家庭用のゲーム機は、ともに生活の場で当たり前に見つけられるものになったのである。

「インベーダー」プー厶以後

一九七八年にタイトー社が発売した業務用ゲーム『スペースインベーダー』のブームは、単にメーカー一社の業績を一時的に上げたに留まらず、テレビゲーム産業総体が拡大するきっかけをつくることとなつた。
それまでピンボール台がひしめくゲームセンタ—の一角などにひっそりと設置されていた業務用テレビゲームが、このブームをきっかけに、喫茶店、コンビニエンスストア、その他の商業施設のロビーなど、様々な場所で見られるようになり、販路を広く確保する足がかりを得たからである。わけてもゲームの露出が目立つた場所として、デパートの存在は無視できない。当時からデパートといえば、おもちや売り場と屋上の遊園コーナーがつきものであった。ここにゲームが進出するに至り、業者にとってのデパートは、ゲームを半恒常的に展示、設営する場となったのである。またこれによって、テレビゲームという存在そのものに対する日本人の認知が、世代ごとの理解のあり方に違いが生じたり、あるいは誤解をはらみつつも、とりあえず確実なものとなつたともいえるだろう。
ゲームセンタ—が不良の巣窟である、といったイメージが現われたのもこの頃である。こうした流説はまったく根も葉もないことであったわけではない。当時、青少年が変造コインなどを使つた不正プレイや、プレイ料金を確保するための恐喝行為を行なうことがあったからだ。

第一世代携帯用ゲー厶機

インベーダーブームの後、沈滞したゲーム市場を再びにぎわせたのが、家庭用ゲーム機の一種である携帯用ゲーム機であった。
任天堂は、当時売れはじめていた蛍光表示管を用いた小型ゲーム機にヒントを得て、一九八〇年、ミニゲームを取り入れた成人用の携帯時計を発売した。『ゲームウオツチ』と名づけられたそれは、メーカーの企画意図とはうらはらに、また当時五千円以上もする高額商品であったにもかかわらず、実際には小・中学生を中心に、「時計機能もある携帯用ゲーム機」として人気を得るところとなった。任天堂はこの時に得た利益を、後に「ファミリーコンピュータ」の名で発売することになる次世代の家庭用ゲーム機の開発に投じたのである。

「ファミコン」ブー厶以前

一方、携帯用ゲーム機ブームの陰でとくに目立った動きの見られなかった業務用ゲーム機の世界では、ー九八一年頃から、「スーパ—マリオ」シリーズの始祖といえる任天堂レジャーシステムの『ドンキーコング』や、ナムコの『パツクマン』など、これまでに見られなかったような目新しいゲームが次々と現われてくるようになっ

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た。
フェアチャイルド社がー九七七年に発売した『チャンネルF』以来、家庭用ゲーム機は、着脱可能なソフト入りカセツトだけを取り替えて、マシン本体は交換せずにそのまま使い続ける、という方式を採用していた。このため、時代に応じて性能の向上を図るということが基本的にはできない、という短所がある。
これに対して、当時の業務用ゲーム機では、新しいソフトを作る際、かつての家庭用ゲーム機と同じく、マシン本体も専用のものを用意するのがいぜん通例であった。つまり、一作ごとに最新鋭の技術を用い、消費者に提供することができるわけである。結果として八〇年代の業務用ゲーム機には、家庭用では実現が不可能な、目新しいゲームデザインを供給するという役割が与えられるかたちになったのだ。
そうしたもののなかで、歴史的にもっとも評価を高く受け、商業的にもヒットしたのが、ー九八二年十二月にナムコ社が発売した『ゼビウス』であった。
『ゼビウス』がもたらした影響について、とくに注目しておきたいのは、このゲームで遊んだプレイヤーにおいて、ゲーム体験について語りあったり、ゲーム内容を論じたりするような行ないが、かつてないほど盛んになったことだ。とくに宗教学者の中沢新一の手によるゼビウス論『ゲームフリークはバグと戯れる』(『現代思想』ー九八四年六月号に掲載)は、ゲームが文化論の材料になりうることを示したものとして有名である。ともかく、このようなフレイヤーの動向が嵩じて、「ゲームマニア」と呼ぶべき人々が多く現われてくることになつた。
と同時に、まだゲーム情報を専門に扱った雑誌が存在していなかった当時、マニアたちは、ゲームの情報を効率よくやり取りするためのメディアを独自につくりはじめる。なかでも、有力サークルのひとつであったゲームフリークによる攻略書『ゼビウスー千万点の解法』は、ミニコミとしては破格の販売数を記録することになつた。
このサークル、ゲームフリークこそが、任天堂から発売された『ポケットモンスタ—』の製作を行なった株式会社ゲームフリークの前身である。
この例に限らず、現在のゲーム業界で活動している少なからぬ者たちが、こうしたマニアのサークルに関与したり、彼らのつくるミニコミなどを通じて遠方から情報収集にはげんだ経験をもつ。こうした当時のゲームマニアたちは、八〇年代後半にゲーム産業が拡大していったとき、その知識と経験を買われて、マスメディアに取り込まれていくことになる。ファミコンブームの加速に伴うゲーム産業の再編成を目前としたー九八五年三月、青少年の非行防止をも目的の視野に入れたと思われる「改正風俗営業法(新風営法)」が施行される。この改正法においては、「風俗営業」に指定されているサービス業は、夜十二時以降の営業を認められなくなっているのだが、この際ゲームセン夕—が新たに「風俗営業」の指定を受けることとなった。
ファミコンフームと「新風営法」の施行によって、業務用ゲーム機市場は、一時低迷を余儀なくされることになる。

「ファミコン」ブー厶

ー九八三年七月に登場した「フアミリーコンピュータ」は、発売後わずか一年後の段階で、家庭用ゲーム機市場の九〇パーセントもの圧倒的シェアを獲得することになる。この商業的大成功については、他社の製品にくらべて、安価のわりに性能が高かったこと、ー九八五年の『スーパーマリオブラザーズ』、八六年の『ドラゴンクエスト』をはじめとした良質の専用ソフトが多く生み出されたこと、任天堂が流通において強いカをもっていたこと、などがおもな理由として挙げられる。

「ファミコン」

ブー厶の余波ファミコンブームがテレビゲーム産業にもたらしたもっとも大きな影響のひとつとして、産業の拡大と複合化が挙げられる。

155   PART-3▶テレビとゲームの時代

これまで娯楽機器業界と玩具業界、これに中小のパソコン系ソフトメーカーが挟まるかたちで営まれてきた市場に、新たなビジネスチャンスを求めて出版や広告などといった他業種が参入してきたのである。
紙幅に限りがあるので、とくに重要と思われる出版業界の動向についてのみ記す。これについて注目すべきなのは、ー九八五年以降の出版業界におけるゲーム専門雑誌の創刊ラッシュである。まず同年、徳間書店から『ファミリーコンピュータマガジン』、日本ソフトバンク(現ソフトバンク)から『BEEP!』が創刊される。ついで翌年にはアスキーから『ファミコン通信』、JICC出版局(現宝島社)から『ファミコン必勝本』、新星社から『ゲーメスト』が登場する。
また、単にゲーム情報を特集するのではなく、誌面で特定のゲームソフトの特集を連載し、ブームをあおり立てることによって、雑誌の発行部数をのばすというタイアップ戦略としてゲームソフトの宣伝を行なった『コロコロコミック』や『少年ジャンプ』のような例も現われた。後者の発行元である集英社は、この時に得たノウハウを生かした総合娯楽情報雑誌『V——JUMP』をー九九二年十一月に創刊している。

「ファミコン」ブー厶時の業務用ゲー厶機

ファミコンブームと「新風営法」の施行に押され、低迷していた業務用ゲーム機業界では、ー九八五年以降、家庭用ゲーム機では得られない刺激をこれまで以上に求めるべく、マシン本体技術において飛躍的な試みを図るようになる。
たとえば、大型の駆動筐体を利用したゲームの登場である。これの代表的なものとして、バイクのかたちをした筐体にまたがりながら横に倒すことでテレビ画面上に描かれたコースラインを移動する『ハングオン』が挙げられる。またこの頃には、ゲームにおける映像と音声の表現力の向上も、とくに目立った。このことが、今までほぼ技術畑一色であったゲーム開発の世界に、美術デザイン系の人材が多く進出してくるきっかけをもたらしている。

第二世代携帯用ゲー厶機

家庭用ゲーム機の一種である携帯用ゲーム機は、ファミコンブーム以後、国内ではすっかり姿を現わさなくなっていた。
ー九八九年、任天堂が「ゲームボーイ」を発売する。このゲーム機がかっての携帯用ゲーム機と決定的に異なっていたのが、ファミコンと同じくカセット着脱方式を採用し、マシン本体とソフトが二分化されたこと、さらに、複数の同機を別売りの通信ケーブルで接続することで情報交換が行なえたことである。
ほかに特徴的なことといえば、当時、より性能の高いゲーム機の設計が模索されていたなかで、地味なモノクロ画面を採用していたことであろう。まるで時代に逆行するかのような仕様である。これは、携帯ゲーム機としての利便性を保っため、容量の少ない乾電池でも長時間のプレイに耐えられるよう、消費電力を節約した結果なのである。
緻密な設計による高い携帯性(すなわち情報の携帯性である)、カセツト方式がもたらす情報の変化性、通信ケーブルによる情報の流動性、こうした『ゲームボーイ』の特性を最大限に生かしきったソフト『ポケットモンスタ—』が登場するには、この後七年の月日が費やされることになる。

ポスト「ファミコン」をめぐって

ファミコン人気がピークを迎えた八〇年代後期から、家庭用ゲーム機市場では、より性能の高い新機種を市場に投入する動きが目立ちだす。
ー九八八年、日本電気が「PCエンジン」を発売。次いでセガが八九年に「メガドライブ」を発売する。結果としては一九九〇年末に、任天堂自らファミコンの後継機として投入した「スーパーファミコン」がトップシェアをおさえることになり、再び任天堂の首位が引き続くことになつた。ポスト「スーパーファミコンー

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をめぐって展開されたビジネス競争は、俗に「次世代機戦争」と呼ばれた。「次世代」という言葉の使われ方から、従来の家庭用ゲームのデザインの方法論に対する限界の自覚と、この限界状況を一新しようとする意思をうかがうこともできるだろう。
ここでいう「限界」とはどういうものであるか。それは、これまで当たり前だった、平面上に組まれるゲームシステムで、新しくできることがなくなってきていた、ということである。
このことを比較的正しく認識したうえで、ー九九四年十一月に新マシンを発売した「サターン」のセガ、一月遅れでこれに続いたヲレイステーション」のソニー、九六年六月に『NINTENDO 64』を投じた任天堂は、いずれも限界状況の克服手段として、立体表現に着目していた。この三社は現在に至るまで、これらのハードによる三つ巴のポスト「スーファミ」競争を続けるにいたっている。かたや、この時期に市場に参入しながら、立体表現にあまり着目しなかった、パイオニア、松下電器産業、アタリ、日本電気、バンダイなどのメーカーは、じきにこのマシン市場から姿を消していくことになった。

対戦格闘ゲー厶ブー厶

ー九九一年、カプコンが発売した『ストリートファイタ—2』の発売を皮切りに、全国規模で対戦格闘ゲームブームが巻き起こった。このブーム以降、ゲームセン夕—のゲームの大半がこの種の対戦ゲームという状況が生じてくる。その背景には、ちょうど家庭用ゲーム機において平面表現によるゲームデザインが限界を迎えだしたのと同様の事情があった。この頃の業務用ゲーム機においては、今まで主流であった一人用ゲームのマンネリ化が続いていたのである。ここに二人用ゲームとして遊べるだけの高品質な対戦ゲームが登場した結果、ヒットにいたったわけである。
対戦格闘ゲームブームは、ー九九四年にセガが発売した『バーチヤファイター』シリーズによつて、より加速していくことになつたが、翌九五年に発売された『バーチャファイター2』のブームをピークとして、やがて収縮に向かう。

『ミニテトリン』と『たまごっち』

ー九九六年、どこからともなく『ミニテトリン』と名づけられたキーホルダー型のミニゲーム機が出回りだし、ほどなくブームとなった。これはゲーム内容こそ『テトリス』とそっくりだが、版権者に許諾を得て作られた純正品ではない。もともとは、今より三年前から中国の海賊業者が製造し出回らせていたものを、日本の輸入代理店が取り扱いはじめ、免税店などで売りに出されるようになったものである。
こうしたキーホルダー型ミニゲームは、テレビゲームとして目新しい要素がとくにあるわけではない。むしろその「目新しくなさ」ゆえの親しみやすさ、取り扱いやすさが、手頃なサイズとともに受けているフシすらうかがえる。『ミニテトリン』が売れたことは、すでにテレビゲームそのものが、特別に新奇でも有害でもない普通の生活娯楽として、多くの人々に広く浅く受け入れられるようになっている証といえるだろう。『ミニテトリン』の小ブームが終わりを迎えつつあった一九九六年十一月、バンダイから携帯ゲームならぬ「携帯ペット」『たまごっち』が発売される。『ミニテトリン』のブームが、わりと静かなものであったのに対し、こちらの場合はかなりの過熱状態が生じた。販売当初から翌年の春先にかけて極端な品薄状態が続いたことも原因のひとつであろう。一時はこの状況を逆手に取った露天商が、どこからともなく仕入れてきた純正品を時価で販売してしまう、などという珍事も見られたくらいである。

「ポケモン」ブー厶

本書を参照のこと。

157  PART-3▶テレビとゲームの時代
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