Magic of Pokemon/Everything is full of cartoons

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なにもかも漫画だらけ
花森安治
『暮しの手帳』六六年第83号より

漫画は見るものである、それでさえ、テレビから雑誌からすさまじい量がまきちらされているのに、このごろは、それでも足りないとみえて、漫画とは食べるものなり、着るものなり、はくものなり、かぶるものなり、さげるものなり、持つものなりとばかり、いやはや、こども向きの商品は、どれもこれも、べたべたと漫画だらけになっている。

おやまあとあきれてばかりではすまされない

ちよつと、目についたものを、書き出してみよう。
キャンデーに漫画、ガムに漫画、チョコレートに漫画、セーターに漫画、ズボンに漫画、靴に漫画、帽子に漫画、手袋に漫画、ハンカチに漫画、ランドセルに漫画、ぞうり袋に漫画、画板に漫画、ノートに漫画、筆箱に漫画、鉛筆に漫画、消しゴムに漫画、クレヨンに漫画、鉛筆けずりに漫画、べんとう箱に漫画、水筒に漫画、箸箱に漫画、茶わんに漫画、スプーンに漫画、お皿に漫画、コップに漫画、歯みがきに漫画、石けんに漫画、シャンプーに漫画、洗面器に漫画、枕に漫画、デパートの売り場を駈け足で歩いて、ざっと目についたものだけでも、これである。もっとくわしくしらべたら、まだまだあるにちがいない。そして、オモチャに漫画である。そして、テレビのこどもの時間は、どのチャンネルをひねっても、漫画がとび出してくる。そして、こどもの雑誌は、やたらに厚くて、紙もわるく、印刷もわるく、ほとんどどの頁をひらいても、漫画でびっしりうまっている。これでは、いまのこどもは、朝目をさましてから、ずっと夜ねるまで、ひよっとしたら夢の中まで、漫画また漫画の大洪水に投げこまれて暮らしているようなものである。
これは、漫画を見るのがいいとか悪いとか、といったこととは、もっとべっの、ずっと大きな問題ではないだろうか。

漫画だけでこビもは生きているのではない

なるほど、こどもは、漫画が好きである。
しかし、こどもの好きなのは、漫画だけではない。
こどもは、動物も好きだし、草花も好きだし自動車も好きだし、飛行機も好きだし、もっといろんなものが好きである。
ところが、いまみたいでは、漫画以外のものを好きになりたくても、なるスキマがない。まるで漫画の壁にとりかこまれて暮らしているのである。
これは、どう考えても、あたりまえ、とはいえない。
漫画のついた歯みがきで歯をみがき、漫画のついたコップでうがいをし、テレビで漫画をみながら、漫画のついた茶わんでご飯をたベ、漫画のついた服を着て、漫画のついた靴をはき、漫画のついたノートに……
これは、一つの異常な風俗とはい

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えないだろうか。世界中で、おそらく日本だけにしかみられない風景ではないだろうか。
大人でも、持ち物や、着るものや、使う道具によって、その人間が変わってくる。まして、これから育ってゆこうというこどもには、それが非常にひびいてくる。ことに、学校へ持ってゆく道具、勉強に使う道具には、親も世の中も、もっと神経を使っていいのではないか。
学校は、遊園地でもなければ、こども公園でもない。学校で勉強に使う道具には、漫画の飾りはいらない。本来は、どんな模様も飾りもいらない。
飾りがないと、すぐ灰色の、殺風景なものを聯想するひとがある。そうだろうか。
いろんな色がある。いろんな色のとり合わせがどんなに美しいか、飾りのゴタゴタついているものがどんなに醜いか、たとえば、色だけの積本と、漫画がベタベタついている積本をくらべたって、すぐわかることである。
こどもは、体も育ってゆくが感覚も育ってゆく。
おばけのQ太郎のついたノートに鉄人28号のついた鉛筆で書き、ス1パージェッターの消しゴムで消し、おそ松くんのスケッチブックに鉄腕アトムのクレヨンで描く、そんな日々を積みかさねてどんな感覚がみがかれ、どんな勉強ができるというのだろう。
漫画にも、いいのとわるいのがある。しかしそれをいうよりまえに、ものにはケジメが必要だという、ごくあたりまえの考え方がなくなってゆくことのほうが問題なのである。

売れさえしたらこどもはビうなってもよいか

どうして、こんなことになってしまったのだろうか。
こどもが欲しがるから、といってしまえば、それまでである。こどもに、欲しがらせるように、必死になって仕向けている大人たちが、いっぱいいることはたしかである。
なかには、どうかんちがいしたのか、漫画などまだわからない、だから欲しがりもしない赤ちゃんのものにまで、漫画をつけているメーカーかるあるデパートできいたら、漫画のついてないガラガラは一つもなかった。その売り場には、おしめかごにも漫画がついていた。こうなると、こどもが欲しがるから、というリクツにならないリクツでさえ、どこかへすっとんでしまう。
それと、この漫画についている商品には、もう一つ問題がある。メーカーは、漫画をつけるたびに、ーコについて、いくらかの使用料を払わなければならない。ものにより、個数により、多少のちがいはあるが、大体は、卸売りねだんの3%から5%というのが相場らしい。
メーカーとしては、それだけの使用料を払うほかに、商品によっては、本来無地でいいものを、何色かかけて、その漫画を印刷したり貼りこんだりしなければならないものだってある。
そうなると、いきおい小売値が、それだけ高くなる。もし高くならなければ、そのぶんだけ品質のほうにシワよせがきている。いずれにしても、漫画が一つついただけで、とにかく高いものを買わされていることになるのである。それでなくても、物価の高い昨今である、こんなわけのわからないことはないのである。そんなにイヤなら買わなければいい、とおつしやるかもしれない。ところが、たとえば漫画のついてない画板やセルロイドの下敷を買おうとすると、苦労する、ちよつとやそっとでは見当たらない。かりに見つけても、巧妙に〈教育〉されたこどもが、承知しない。いりもしないものを買わされるのも困る。石けんやシャンプーは大人ので間に合うのに、銭湯などでは、こどもは漫画のついたのを欲しがる。
売れるものなら、なにを売ってもいいのか。そのために、けっきよくは、自分の子までメチャメチャにしているのではないか。(H)

187   PART-4▶消費者としての子どもたち
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