Magic of Pokemon/Children's Incidents and Adult Logic in Subcultures

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サブ・カルチャーにまっわる子どもの事件と大人の論理

佐藤賢二

『ポケモン』の事件が起きた時、自分は即、「ああ、また、ようわからん大人が、ようわからんままゲームやアニメや漫画をたたき、それに対して『ファン』がヒステリックに怒り、で、両者はすれ違いのままなんの解決にもならず、って図式の繰り返しになるんだろうなあ」と感じた。
かって「ゲーム」や「漫画」や「アニメ」や「怪獣」といった子どものメディアは、正しく「所詮子どものおもちや」だつた。ゆえにこそ、つくり手や少数の「ファン」たちは、その質や地位の向上を目指し努力をしてきた。自分はそのこと自体には敬意を払っている。今回の事件で『ポケモン』そのものに擁護の声が多くあがったことでもわかるように、今日、それら子どものメディアは、一見市民権を獲得したかのようにもみえる。しかしその内実は、先人たちの意思が普及し理解されたというよりも、単に無自覚なままずるずると市場に流通することに成功しただけではないか、という印象もなくはない。『ポケモン』の事件が起こるずつと以前から、子どものまわりにはつねに新しいメディアが現れては消え、それにまつわる事件があり、大人たちはそれに対し、論議と困惑を繰り返してきた。
そこでひとつ、こうした「子どものメデイア」にまつわる環境と、そこで巻き起こされた事件・論議の歴史を振り返ってみようと思いたった。今回の事件は、作品内容についてではなく、その表現技法が問題視されたという点で従来の事件とは性質を異にするかもしれないが、調べてみると、「ああ、あの事件の背景にはそういうことがあったわけね」と、あらためて気づかされることも多かった。しかしその反面、この手の論議は本当に三十年一日なんだな、と思うところもある。
歴史的資料の収集には、雑誌記事については最大のデータベースである大宅壮一文庫を大いに活用させてもらった。自分はとりあえず、終戦後の資料から、念入りに目を通すことから始めた。

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▶| 〈ー九五〇年代〜六〇年代前半〉子どもメディア文化の草創期

大宅壮一文庫の総目録には、「漫画」「アニメ」そして「テレビと子ども」という項目がある。それらを調べると、まず「漫画」という項目はすでに昭和初期の一九三〇年代から存在するが、たいていは諷刺漫画、世相漫画の類いについての記事であった。こと「子どもの漫画」に関する記事が目立つようになるのは、戦後初の〃悪書追放運動〃が盛り上がったー九五五(昭和三十)年〜五六年頃だ。「貸本漫画」が普及した時期で、漫画文化が一般に定着しはじめた頃である。今日でこそ国民的漫画家との印象が強い手塚治虫でさえ、問題視されていた。
「アニメ」の項目も終戦直後からあるものの、そのほとんどは海外のディズニー作品についてなどで、本格的に日本の「アニメ」に関する記事が目立つようになるのは、日本最初のTVアニメーション番組『鉄腕アトム』が放送される六三(昭和三十八)年以降となる。いささか驚かされたのは、当時すでに、「キャラクタ—商品商法」への批判が現れていたことだ。『朝日ジャーナル』の六四年五月二十四日号には「〃児童もの〃の売られ方——ひとつのマスコミ批判」というタイトルで子どもが『鉄腕アトム』や『鉄人28号』のおまけシール付きお菓子を買い求める現象への問題意識を表明している。後年の「仮面ライダースナック」だの「ビックリマンチョコ」だのに連なるこの問題は、この時からすでに始まっていたのである。
この当時、TVアニメーションを毎週連続放送するというのは、手間の点でも予算の点でもかなり無理があった。TVアニメーション放送の実現に並々ならぬ情熱を傾けていた手塚治虫は、放送局から予算面で相当厳しく値切られながらもこれを実現したが、作品の商品化による副収入(これもかなり局や代理店に取られるが)でようやくアニメーション制作資金が回収できるという情況であった。
この体制は基本的に今日も変わっておらず、テレビアニメの場ムロ、スポンサー(おもに玩具会社)が作品に大きな影響を及ぼすというスタイルは、半ばこの時期に確立されたといえる。今日アニメ業界の大家となってしまった宮崎駿も、この点でいまだに経営者としての手塚のことはよく思つていないとさえ言われる。
日本初のテレビ放送は五三(昭和二十八)年のことだった。子どもの現象ではないが、この直後、プロレス中継で力道山の試合を観ていた老大がショック死するという事件が起きている。
「テレビと子ども」に関する最初の記事には『サンデー毎日』五七(昭和三十二)年八月二十四日号に掲載された、「テレビから子どもを守る」(日本子どもを守る会・常任理事・清水慶子)がある。
五八(昭和三十三)年にはテレビ普及率は一〇%を超えた。そうしたなかで『月光仮面』の放送が開始され、続いて『七色仮面』やら『ナショナルキツド』やら『少年

161   PART-3▶テレビとゲームの時代

See here: https://poke-sources.info/misc/Magic_of_Pokemon_-_History_Table,_p162-163.html

And here: p162-163

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ジエツト』やらといったヒーロー物が多く 制作されていく。今日まで何度も論議され ることになる「暴力描写がらみの問題」や 「テレビのヒーローのまねをして子どもが 負傷したり死亡したりといった事件」もす でにこの当時から出ている。
その後、五九(昭和三十四)年の今上天 皇の成婚、六四(昭和三十九)年の東京オ リンピック開催を契機に一般家庭でのテレ ビ普及率は急上昇する。

▶| 〈ー九六〇年代後半〜七〇年代前半〉 高度経済成長期

六〇年代後半から七〇年代には、戦後二 十年を経て「衣食足りて安全に気を配る」 とでもいうかのように、子どもの玩具や食 品の安全性が問われるようになつた。 『ポケモン』を見ていた子どもの親たちの 小学生時代というのが、おおよそこの六〇 年代後半から七〇年代前半にあたる。 六〇年代後半以降、「漫画」にはいわゆ る「劇画ブーム」と呼ばれる情況が到来し ている。従来の「漫画」とは一線を画してリアル路線を目指し、白土三平に代表され る〃忍者物〃や、さいとうたかをに代表さ れる〃犯罪物〃の多かった「劇画」は暴力 描写も多く、論議の種になることも多かつ た。
七〇(昭和四十五)年には、永井豪の 『ハレンチ学園』が性描写で問題視される という事件が起きている。この時期は初め て「大学生が漫画を読むようになった」と 話題になった時代であり、『あしたのジョ ー』の登場人物力石徹の葬儀を執り行った 寺山修司や、『漫画の戦後批評』を著した 鶴見俊輔のような「漫画に理解を示す大人 の文化人」が現れだした時期でもある。 漫画がらみの主な論議の種は、ほぼ暴 カ、性、差別(おもに被差別部落出身者・ 在日朝鮮人・身体障害者問題)にまっわる ものであったり、あるいは自衛隊や戦争を 扱った作品が「軍国主義復活的」と抗議さ れるというようなパタ—ンであったが、こ のうち、九〇年代までもちこされるのは 「性がらみ」中心で、「暴力がらみ」は今さら何も言われなくなり、差別と戦争物は次 第に自主規制というかたちで姿を消してい った。
一方、テレビメディアでは、六〇年代後 半から七〇年代前半、アニメよりむしろ 『ウルトラマン』や『仮面ライダー』のよ うな怪獣物、変身ヒーロー物の全盛期だっ た。九七年十二月十八日、朝日新聞の「天 声人語が『ポケモン』の事件に触れて、 「このアニメは悪質か。判断はむずかしい。 登場する人間や動物、怪物の顔つきにはむ しろ親しみがもてるし、人が殺されるわけ でもない。……」などと評したが、ポケモ ンに愛着のあるファンのなかには「怪物」 という表記に激しく反発した者もあったと いう。子どもやファンにとっては親しみあ る対象であっても、まったく関心のない大 人には異形のものでしかないものやむをえ まいとも思うが、この手の論議がいちばん 盛んだったのがこの当時であった。 七三(昭和四十八)年には後にノーベル 文学賞を受賞する大江健二郎が「破壊者ウ

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ルトラマン」という文章を書いていた。また六八(昭和四十三)年に放送された円谷プロダクションの『ウルトラセブン』の第十二話に登場した怪獣(宇宙人)が、番組中ではそう呼ばれなかったにもかかわらず、放送二年後の小学館発行の怪獣図鑑で「被爆星人」と記述されたために、原爆被爆者団体の抗議を受け、この回を欠番とし再放送もいっさいせず、ビデオにも収録されなくなった事件がある。
さらに、七二(昭和四十七)年には東映の『超人バロム1』に登場する敵方の首領と同名のドイツ人の子どもが学校でいじめられたため、放送が中途打ち切りとなる事件が起きているが、これは作品の物語内容と直接関係ない部分が問題になった異例のケースだった。
子どもたちがカルビーの「仮面ライダースナツク」のおまけのカードだけを取って中身を食べずに捨てているということが問題視されたのも七二年のこと。先述の通り、お菓子のおまけのキャラクタ—商品はすでに六〇年代中盤からあったが、そのコレクション性、カードの裏面に書かれたデ—タの情報量、「ラツキーカード」によつて入手できるカードアルバムの魅力など、八〇年代末の「ビックリマンチョコ」シールを経て九〇年代の「ポケモン」にまで踏襲される「カードダスシステム」系の商品展開の火付け役となったのは、この「仮面ライダースナック」カードだったようだ。TV番組のキャラクタ—商品が一気に普及したのも六〇年代後半から七〇年代のこと。七〇年代後半以降は住宅事情の関係もあってか「超合金」などの重厚長大型の玩具は徐々に姿を消し、次第に、物自体は小さめで、数を多く集めるコレクション型の玩具が増えていくことになる。

▶| 〈ー九七〇年代後半〜八〇年代前半〉コンピュ一夕ダームの出現とアニメブ一厶

七五(昭和五十)年には山上たつひこの『がきデカ』が問題になった。
雑誌記事のなかで「テレビと子ども」の項目の関連記事がいちばん多くなる時期が、この七七(昭和五十二)年〜七九(昭和五十四)年の時期である。
七八(昭和五十三)年八月には、第二十六回PTA全国大会で「ワースト番組」の調査結果が発表され、ドリフタ—ズの『8時だヨ!全員集合』などの「低俗なテレビ番組を野放しにすることは教育の荒廃につながる」と、放送局、スポンサー各社に対し、放送中止を要求するという出来事が起きている。
戦後、小学生児童の数がもっとも増える、いわゆる「団塊の世代」が小学生となった五七(昭和三十二)〜五九(昭和三十四)年頃、テレビの普及率は二〇%に満たなかったが、その直後から爆発的に増加し六〇年代を通してー〇〇%近くまで普及する。そして再び小学生の児童数が千二百万人を超えるピークが来るのが八〇(昭和五十五)年から八三(昭和五十八)年頃である。この頃に小学生の子どもをもった親たちは団塊よりやや上の世代であろうが、この時期が親が子どものころにはまだテレビ

165   PART-3▶テレビとゲームの時代

がなく、子どもにとっては生まれた時からある、という世代差がかろうじて残っている最後であったと思われる。
高度経済成長期の終了と呼応するかのように、七〇年代後半に入ると子ども番組の主体は実写怪獣物から制作費の安いアニメ(実際は買い叩かれているのだが)へと移行する。七七(昭和五十二)年には『宇宙戦艦ヤマト』が映画化され、「アニメ・ブーム」と称される現象となる。
七〇年代後半から八〇年代前半という時期は、かつての学生運動が退潮し、一方で国民総背番号制が論議されたり、歴史の教科書で先の戦争での日本軍の行動が「進出」から「侵略」に書き改められたとの論議があったりと、マスコミの一部では「右傾化」ということが激しくいわれた時期でもあった。このためか、当時ヒツトした『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』も、SFの意匠を借りつつも露骨に軍隊と戦争を意識した設定ゆえに、「子どもに軍国主義を刷り込む」というような理由で非難されていた。
この時期、コンピュータゲームがらみの問題が初めてマスコミに現れている。七八(昭和五十三)年にタイトーより『スペースインベーダー』が登場。ゲーム喫茶に子どもが入り浸る、五円玉を改造して百円玉の代わりに使う通貨の偽造、ゲームに使う金欲しさの犯罪まがいの行為など、多くの問題が発生している。
七七(昭和五十二)年に小学館より創刊された小学生以下の幼年層を対象とした漫画誌『コロコロコミック』は、後の『ポケモン』のブームにも大きく寄与することになる。同誌に連載されていた『ゲームセン夕—あらし』(すがやみつる)は、当時のゲーム、フームと連動してヒットを博していたが、後にまとめられた単行本の著者の「あとがき」によれば、八〇(昭和五十五)年頃に、子どもがゲームセンターに入り浸っては問題だ、ということで、内容の題材をゲームセンタ—のゲームから家庭用ゲーム機のゲームへと変更したという。
八三(昭和五十八)年には任天堂より「ファミリーコンピュータ」が登場。これ以前にも家庭用コンピュータゲーム機は販売されていたが、たいていは一種類のゲームしかできないものであった。また、カセットを取り替えることにより複数の異なるゲームが遊べるシステムとしてはアメリカのアタリ社のものがすでに日本に入ってきていたが、ハード・ソフトともに日本製のものとして最初に本格的に普及したのはフアミコンであった。

▶| 〈ー九八〇年代後半〜九〇年代〉 子どもメディアの情報消費の融合・高度化

八〇年代後期から現在に至る子どもメデイアの商品展開の大きな特徴は、ジャンルの枠を超えたメディアミックスであるといえる。八〇年代中期は漫画については『週刊少年ジャンプ』のほぼ独走状態であったが、同時にTVアニメやゲーム、玩具など、他のメディアとの連携という点で、先の『コロコロコミック』や『コミックボンボン』(講談社)が、さまざまな商品展開

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を進化させていく。
八ハ(昭和六十三)年頃にはロッテの「ビックリマンチョコ」のおまけのシールが流行している。子どもの行動もその論議も、十五年前の「仮面ライダースナック」とまったく同様である。ただ、注目すべきなのは、当時、栗本慎一郎も指摘していたが、この「ビックリマンチョコ」のおまけシールに使われたキャラクタ—がテレビなどの既成のキャラクタ—ではなく、チョコレートのための完全なオリジナルだったということだ。そのシールの人気に乗じて、逆に後から『ビックリマン』のテレビアニメが制作されたほどである。
「ビックリマン」が小学生の間に普及するに至った背景の一端には『コロコロコミック』や『小学〇年生』といった幼年誌・学年誌メディアが大きく寄与している。当時、幼年誌各誌はおまけのシールに描かれたキャラクターのリストやデータ、相互の関係性などの図解を多く掲載し「ビックリマン」の物語世界観を膨らませ、子どもたちに多大な情報を与える役割を果たした。こうした「カードダスシステム」の魅力は、友だちとコレクションの収集情況を競い合ったり、カードを交換することによるコミュニケーションという側面が強いのだろうが、キャラクタ—の収集、整理、分類が擬似的な「世界観」の把握に繫がる快楽をもっている点が、この大気に大きく影響していることも考えられる。
この「軍大将棋的世界観」ともいうべき様式は、たとえば、ゲームのキャラクタ—が、戦士、魔法使い、僧侶、モンスタ—などに分かれ、またその使う技や魔法の呪文の体系までが細かく分類された設定を前提に進められるロールプレイングゲーム(RPG)の定着によって普及したと考えていいだろう。いわば、ゲームからほかの玩具のジャンルに波及した様式性なのである。八九苹成元)年の八月には連続幼女誘拐殺害事件で宮崎勤が逮捕されている。この事件では、逮捕された篇が、漫画やアニメやビデオのコレクターの「おたく」青年であったことにより、漫画やアニメやゲーム、またビデオなどの「子どものメディア」、あるいは映像文化、またそれに深く関わる大間それ自体を有害とみなす言説が大きく喧伝された。
九〇(平成二)年から翌年にかけての「『有害』コミック問題」は記憶に新しい。警視庁の調査によれば、九〇年一年間に三十ーの都道府県で延べ千三百十三点、翌九一年の一月から四月までには四十一の都道府県で延べ千四百十二点もの漫画が有害指定にされている。結局、指定された作品には「成年コミック」とのマークを付けるという制度が導入され、現在に至っている。九二年(平成四)十一月にはイギリスで、任天堂のコンピュータゲームをプレイしていた十四歳の子どもがてんかんの発作を起こし死亡する事故が発生、翌九三年一月には日本でも報道された。任天堂とセガはこの対応策として、国内用ゲームソフトに警告文を入れることを決めている。この事件は今回のポケモンの事件とよく

167   PART-3▶テレビとゲームの時代

似た問題点を提示していたにもかかわらず、ゲーム業界の一部では話題になったもののすぐに忘れ去られてしまった印象がある。ゲームでてんかん症状を起こす症例などほんの少数であると目されたか、同時期の筒井康隆の断筆でも騒がれた「てんかん」という言葉自体を忌避するマスコミの姿勢もあったようだ。じつはゲームによるけいれん発作の症例はすでに八一(昭和五十六)年に発表されており、八九(平成元)年には日本の小児科医、精神科医からの症例報告も出はじめていたという。
こうした背景とはまた別の次元で、九〇年代後半に至っては、少児化と共に「子どもの漫画離れ」また「ゲーム離れ」という現象が発生してきている。八〇年代以来、コンピュータゲームは急速に子どものおもちやとして普及したが、その後、膨大な量の敵味方のキャラクタ—や魔法の技や呪文を覚えなければならないRPG型のゲームの普及などもあり、次第にゲーム内容は複雑高度化し、コンピュータゲームユーザーの高年齢化、逆に児童層ではゲーム離れ、手で触って遊ぶ玩具への回帰現象の進行という自体が発生していると聞く。現在のところ「ポケモン」とならぶ小学生の人気商品は「ミニ四駆」であるが、これも親子で熱中している層が多いという。

さて、考えてみると、そもそも「子どものメディア」なんてものは、いや、テレビなどの普及以前から子どものやる遊びなんてものはみな、本質的には危険な刺激物で、それは「有害」といえば確かに「有害」であり、しかしだからこそおもしろいのであり、そしてまた子どもは親の目を盗むために智恵をつけたり、危険なものと適正な距離をとることを自らの身体によって学習してきたのではないか、とも感じる。やや時代錯誤なことを承知で敢えていえば、やはり親公認の子ども文化など、なんだかかえって変で、「ゲームやアニメや漫画は親に隠れて楽しむもの」なんじやないか、という気がしないでもないのだが。

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▶ テレビ画面の大型化

日本では長らく、十四型テレビがシェアの大部分を占めていた。これはそもそも、テレビ放送開始当時に電波技術協会が、生産性の
問題や日本の住環境を鑑みて、十四型以下を普及型とすることを決めていたことによるが、意外にもテレビ放送開始翌年の一九五四(昭和二十九)年の型別販売数では十二型以下が約一七%、十四型が約四一%、十七型が三七%、二十型以上が三%であり、六〇年になってようやく、十四型九七%と、ほぼ十四型の独占市場となった。
六〇年代以降は技術の進歩もあり大型化が進行、七〇年前後からカラー化への移行が始まるが、初期はカラーの大画面機種は技術的・経済的に難しかったのか、七〇年代は十四型、十六型が主流を占めていた。八七年から二十二型以上が増加しはじめ、八九年には全体の三〇%以上になつている。こうした変化の背景には、ブラウン管製造技術の進歩による生産性の向上と解像度の鮮明化、海外で高品質製品が製造されるようになったことなどによる単価の低下が影響している。こうした事情も今回の「ポケモン事件」の一因を担っていることは否定できな
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