Magic of Pokemon/"Pokemon" has become a part of our daily lives

From Poké Sources
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「ポケモン」が、いっしか
暮らしのなかにあふれ出した
どえらい金鉱を掘り当てた「コロコロコミックシステム」とは

大月隆寛

『ポケモン』とその周辺を〈女・子ども〉でない「大人」に向かって説明しようとするとき、いちばん困るのは、『ポケモン』というのが子ども向けの〃おはなし〃であることはわかってもらえても、それがそもそもマンガなのかゲームなのか、はたまたテレビアニメなのか、そのあたりの区別が普通の人にはちよっとっきにくいということだ。
もとは任天堂のゲームボーイという携帯用ゲーム機のために設計されたゲームである。けれども、今回問題になったのはテレビアニメの『ポケモン』だし、現時点では多くの子どもたちにとっての『ポケモン』とはゲームだけではなく、むしろその他さまざまに展開されている「キャラクタ—」としてのポケモンの印象が強いだろう。そう、「キャラクタ—」と化したポケモンは、子どもたちを中心とした暮らしの広がりのなかのあちこちに散らばっていて、どのメディアがポケモンの〃本籍地〃なのか、はおそらくもうどうでもいいことになっている。
もとはゲームだったポケモンが、このように「キャラクタ—」となり、それこそ八犬伝の珠のように(古いなあ、オヤジ)暮らしのなかに散らばってゆくに際しては、『コロコロコミック』というメディアがひとつ、大きな役割を果たしていることは間違いない。

▶| マンガを〃商品〃にした『コロコロ』

『コロコロコミック』というのは、ひとまずマンガ雑誌である。もう少し詳しくいえば、小学館から出されている幼年向け月刊マンガ誌である。けれども、これをただ「マンガ雑誌」といってかたづけてしまうと、このポケモンをめぐる事態のとめどなさ、膨大さの背景がよくわからなくなる。マンガ雑誌というのは、ありていに言って、戦後の、もっと言えば高度経済成長期の産物である。
それまでのマンガとは、主としておもちやの流通経路で貸本屋経由で流通するものか、でなければ、さまざまな付録とともに

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売られる子ども向け月刊誌というかたちで、戦前からある少年誌のなかの一部として世に出回るものだった。
マンガだけをはっきり売り物にした週刊というサイクルで発行されるマンガ雑誌は、昭和三十年代前半からなかばにかけて、講談社や小学館といったそれまでも子ども向けの出版物を出していた版兀が、マンガを積極的に「商品」としてゆくために創刊していったものだ。そして、今回のポケモンの事件で倒れた子どもたちの親が生まれ育ったのが、まさにその時代、高度経済成長期である。
五十代から上の年輩の方々には言わずもがなのことだろうが、当時の「マンガ」というもの言いは、今からは考えられないような内実をもっていた。何かを否定するときに「まるでマンガだ」という形容のしかたがあったように、くだらないもの、子ども向けのもの、だから大人がまともに相手にするべきものではないもの、「マンガ」とはそういう意味のもの言いだった。そういう「マンガ」が子ども向けの商品としておおっぴらなものになってゆく。子どもの身のまわりに浸透してゆき、そしてその子どもが成長してゆくにつれて、大人の領分にまで入り込んでゆく。
大学生が「マンガを読むこと」が新聞で大問題としてとりあげられた時期もあった。自身当時すでに立派な大大になっていながら、「大大はマンガを読まないで」と大見栄を切った女性作家もいた。そのようにさまざまな軋櫟を生みながらも、子どもの領分から姿を現わしたメディアとしてのマンガは、それとともに育つた、もっとも熱烈な支持者の世代が大大になってゆくに連れて、そのように居場所を獲得していった。
しかし、マンガがおおっぴらに大大のものにもなり、新聞や雑誌でそのような大大たちがマンガへの愛や嗜好を屈託なく語れるようにまでなった結果、その背後の、もともと子どもの領分だったところにぽっかり隙間が生まれた。少なくとも、それらマンガを平然と読み、社会に向かって能書きさえ言えるようになった新たな大大の側からは見えにくいところに、いわば公認されない日陰ものジャンルのマンガが生息するようになった。
似たような事態は、「児童マンガ」というもの言いが出てきた昭和三十年代にもあった。子どもにとってよいマンガ、読ませても大丈夫なマンガとは何か、といった議論が大大の間で盛んになされ、その結果、〃お墨付き〃のマンガが出てきた。『鉄腕アトム』はその典型だった。そして、手塚治虫はそのような「子どものためのよいマンガ」のご本尊になっていった。その結果、「俗悪マンガ」「よくないマンガ」という日陰ものも生じた。
大きなお世話と言えばまったくそうだが、しかし、この「子どものために」という議論を大真面目にやっていた、自らはマンガを読まず、よく理解もできなかった大大たちのありようは、今みたいな状況だからこそ〈いま・ここ〉からもう一度振り返

123  PART-2▶「ポケモン」とは何か

ってみる必要があるだろう。
ともあれ、『コロコロ……』のマンガに代表されるような、同時代の子どもたちに広く読まれるマンガというのも、じつはマンガを読んで育った世代の大人たちが自らマンガを語る言葉の外側に、〃単なる商品〃としてだけ存在し、「子どもたちに楽しまれる」という意味では、また正しく日陰ものだった。『コロコロ……』が生まれた一九七〇年代末とは、マンガとマンガ雑誌をめぐる状況が、読者との関係のなかで、その程度にひとめぐりした時代だった。事実、いわゆる「マンガ評論」とよばれる分野で、『コロコロ:….』に連載されているようなマンガが正面から論じられたことはまずないと言っていい。どれだけ大きな市場を獲得していても、つぶさな言葉にして世間の「批評」の視線にさらされにくい、『コロコロ……』はそんなマンガ雑誌だったのだ。

▶| ミニ四駆のノウハウをポケモンに

もとはと言えば、『コロコロ……』は、故藤子•F•不二雄の人気作品『ドラえもん』を掲載するための雑誌だった。人気作家のために、出版社が独立した雑誌をわざわざっくったということになる。創刊は七七年四月。判型もいわゆるマンガ雑誌のB五判よりもひとまわり小さいA五判。そのかわり四百ページ以上と異様にボリュームがあるのは、二十代以下の『コロコロ……』で育った世代ならば先刻おなじみのはずだ。読者層として想定されているのは昔も今も小学校中学年から中学生まで。ただし、現実には中学生は少ないという。現在、『コロコロ……』が掲載するような「児童マンガ」というジャンルはコミック市場総体の三パーセント程度のシェアしかないという。事実、『コロコロ……』の連載マンガの単行本自体の売れ行きは人気のあるものでも数十万部と、一般的な人気マンガの単行本の常識的部数(数百万部)からすれば少ない。また同じ〃おはなし〃でも、ゲームからマンガに転換することはできても、マンガからゲームに移植するのは難しいという。
メディア間のコンバートの可能性やその幅という意味でも、マンガは新たな〃おはなし〃が立ち上がる一次的な表現メディアではなくなりはじめているのかもしれなそのような意味で、『コロコロ……』は現在四千億円と言われるポケモンがらみのメディアミツクス市場における主要なターミナルなのだ。単なるマンガ雑誌などではまったくない。
現に今、ポケモンとともに子どもたちを熱狂させている「ミニ四駆」のブームがある。四輪駆動のRVを模した小さな電池じかけのおもちやの自動車をサーキツトで走らせる。オ—ナーである子どもたちはさまざまな工夫を凝らしてより速く走るようにしてゆく。この人気も、おもちやメーカーの担当者などと編集部が定期的に会合をも

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つ、メディアとしての『コロコロ……』が媒介して、連載マンガなどで人気をあおった結果だ。
「ミニ四駆をゲームに置き換えたらポケモンになった」と言われるのも、『コロコロ……』がポケモン以前からこのようなシステムを作り出し、そのうえで商売のノウハウを蓄積していたということだ。

▶| 子どもは消費者として鍛えられたか

ポケモンの連載は九六年四月から始まつている。これはゲームの発売元である任天堂からもちかけられたという。これによつて『コロコロ……』の部数はそれまで百二十万部だったのが二百万部に増えた。しかし、それはマンガとしてのポケモンの読者が増えたわけではなく、むしろポケモンという「キャラクタ—」の潜在的消費者が増えたととるべきだろう。
マンガを読んでもらうことはそのキャラクターに慣れ親しんでもらうためのものであり、商売の眼目はその読者が消費者としてさまざまなキャラクタ—商品を買ってくれるところにある。
だから、『コロコロ……』とは、子ども向けの商品カタログであり、取り扱い説明書であり、情報誌である。事実、三浦卓嗣『コロコロコミック』編集長は雑誌などの取材に応えて、『コロコロ……』を「グッズ紹介誌とマンガ誌が一体になったもの」「エンタ—テインメントの発信源」と自ら規定している。と同時に、「以前のキャラクタービジネスと言えば、キャラを鉛筆とかノートにただ付けて売るやり方。でも、それをやっていては、キャラが消費される一方なんですね」と、これまでのキャラク夕—商売を批判する。
だから、マンガであれアニメであれゲームであれ、そのメディアの特性にあった形でキャラを豊かにしてゆくことが必要なのだ、という主張につながってゆく。やはり、キャラクタ—にはもはや、〃本籍地〃はないのだ。「僕はよくマンガ好きの人にありがちな〃マンガ至上〃的な感性は全然ない。(中略)マンガでもホビーでもかまわない。要は子どもが楽しめるという役割が果たせたらいいわけですからね」。これは実感だろうし、商売人の考え方としてひとまず健康だとも思う。しかし、ここは敢えて言わせてもらう。このもの言いには、その「子どものために」が「楽しませる」だけに切り縮められ短絡していることへの自覚はうかがえない。「子ども」をダシに消費社会の論理に迎合してゆくことは、親においてもすでに珍しいものではなくなっているが、子どもに「楽しみ」を提供することを自身の仕事の目的とするこの発言にも、何のための「楽しみ」という社会的脈絡での歯止めは、やはり薄いように思える。いやな言い方をすれば、大人を相手にする商売人と同じように、自分の商売とは「楽しみ」を売買することと考えているのでは、とさえ勘ぐれてしまうのだ。
もちろん、その「楽しみ」を買うのは必ずしも子ども自身というわけではない。子

125  PART-2▶「ポケモン」とは何か

どもを消費者として仕立ててゆくということは、その親の財布も狙ってのことだ。逆に言えば、子どもがそのような欲望をもつようになり、子どものその「楽しい」「欲しい」の前に親の財布の抑えがきかなくなったからこそ、子どもを消費者に仕立ててゆくこのような動きが加速されたということだろう。事実、「何を買うか」についての子どもの発言権はどんどん強くなっていて、財布は親だけれども、その選択に子どもの主体性ははっきり示される。ただ、それを子どもが消費者として鍛えられていると判断するのが妥当かどうか。僕はこのあたりは慎重に留保しておきたい。堅苦しいもの言いで恐縮だが、「消費」と釣り合う「生産」の局面への配慮がないまま、「消費」の、それも「情報」を「選ぶ」能力だけが取り出されて評価され、その「消費」を支えている背景がどのようなものかを抜きにしたこのような考え方には、現実というおもりのなくなった高度情報社会下の、まさに無重量状態のような「消費」のありようが反映されていないか。時代の現状がそうであり、われわれがそのような趨勢から逃れられないのだとしても、子どもにまでその論理を「平等」に適用していっていいかどうかはまた別のことだ。
思いっきり陳腐なことを言おう。「家庭」とはそのような市場原理の獰猛さから身を遠ざける障壁を形づくるものだったはずだ。家族が崩壊した、共同体がなくなった、などという認識と分析だけの高見からの議論の前に、このような市場原理の遍在からどのように自制を働かせ、身を守るか、その具体的な方策がおそらく今、もっとも必要なのだ。

▶| ポケモンはどえらい金鉱

小学館は、『ドラえもん』のキャラクターを管理する「小学館プロダクション」という会社を設立した。ポケモンに関するキャラクター商品の著作権管理も、おもにここが担当している。関連業界で「小学館はどえらい金鉱を堀り当てた」と言われる、その〃金鉱〃の管理業務の中核にあたる。著作権の管理だけで仕事になるという事態は、マンガがまさに「キャラクター」として、その二次利用、三次利用まで含めて十分に商売になる状況にともなって現われてきた。
大人の世界だって事情は変わらない。今や、〃もの〃の価値は〃もの〃自体よりも、そこにまつわる「キャラクタ—」によって生み出されたりもする。「ブランドもの」などはまさにそうだ。「キャラクタ—」や「ブランド」という意味が〃もの〃の具体性を覆い隠してしまつた、そういう〃もの〃ならざる〃もの〃たちが、うっかりとわれわれの身の回りに増えている。ポケモンのゲームデザイナー田尻智との対談で、ゲームも手がけるCMプランナー佐藤雅彦は、自身の仕事を振り返って、「広告業界で教育される、広告の理論と呼ばれるものはほとんど役に立たなくて、そ

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れより自分が子どもだった頃、本当に面白いと感じた(中略)コマーシャル、あるいは歌や遊びを生き生きと思い出すことで、自分の広告を作っていった」と語っている。〈女・子ども〉の感覚がそのままで商売につながるシステムと市場とができあがったからこそ可能だった述懐だと思う。昨今、広告代理店とその周辺が直面しているはずの「キャラクタ—」とその「著作権」を媒介にした市場とは、このような〈女・子ども〉の感覚のままでこそ、うまく商売をしてゆける場らしい。確かに、ポケモンとその周辺で商売をする人々は、「とにかく儲かるんですよ」と口を揃える。「ドラえもんが百五十匹いたようなもんだ」「向こう百年これで食える」「将来は五兆円市場になります」といった、常軌を逸したもの言いまでが飛び交っている。
五兆円という市場規模がどれくらいとんでもないものか、これまで百年もの間安泰に売れ続けた商品がどれだけあったものか、ちよつと考えれば冷静でないことは明らかだが、しかし、このようなもの言いがうっかり飛び出るくらいに舞い上がれるような〃何か〃が今、ポケモンとその周辺にはあるということなのだろう。実際、ポケモンをめぐるカネの流れの気配をたどってゆくと、広告代理店やリクルー卜社なども含めた「情報」資本主義の勝者たちの周辺にどうしてもゆきついてしまう。その程度に、この世の商売はいまだ具体的なところで動いているという現実もある。そのような「子ども」の「楽しみ」を遠慮会釈なく商売のネタにしようとする動きのまつ只中にいるのが、その「子ども」の感覚のままの「大人」だったりする。そんな光景に、子ども同士の共食いのようなやりきれなさを感じてしまうのは、僕が〃絶滅品種〃のオヤジだからだろうか。

▶| 情報〃エリー卜は幸せか

今のこのニッポンの高度消費社会に生まれ育つなか、子どもであれ老人であれ、ひ
とまず情け容赦なく、一個の消費者として振る舞うことを求められる状況で、自ら身を守る知恵がどのように宿ってゆくのか、そのための方策を社会の側がどれだけ現実的に考えようとしているのか、といった問題にも関わってくる。
宗教やマルチ商法などの問題にしても、突き詰めれば、このような「平等」な消費とそのうえに立った「個人」「自由」の幻想から逃れられない情報環境とどううまくつきあってゆくか、そのための知恵を生活レベルでの常識にしてゆかないことには、本当の解決はない。
陳腐なもの言いで申し訳ないけれども、『コロコロコミック』システムから、子どもをある程度隔離させておく知恵と論理を確保することが、今、やはり必要だと僕は思う。古典的な情報遮断論に聞こえるだろうが、しかし、そのような古典的な議論が今の獰猛な情報環境で、改めてあるリアリティをもちはじめている部分もある。こういうことを言うと、「今の自分たち

127  PART-2▶「ポケモン」とは何か

にとってどんなに違和感のある環境でも、今後の子どもたちが生きてゆく現実はそのような〃情報〃消費の無重量状態らしいから、親として子どもの将来を思えば、それに今から慣れさせておきたい」という意見が出る。気持ちはよくわかる。だが、〃情報〃エリートとしての子どもたちが偏差値教育的世界観になじみやすいのは確かだとしても、すべての子どもたちがそのような現実で生きてゆけるわけでもない。さらに、そのような現実だけが日本のすべてになるわけではないし、もっと言えば、世界のすべてになるわけではなおのこと、絶対にない。
よい暮らし、安定した収入といった状態が当座、そのような〃情報〃エリートのためのものになってゆく、そのシステムがこの先さらに強化されてゆくことはひとまず間違いないだろうが、それでも、すべての国民が一律にそれをめざすことが幸せな未来につながるとは僕には思えない。そういう〃情報〃とつきあえないと友だちがいなくなる、というもっと素朴な懸念もある。ならば、そのような友だちしかいないなかで、なお自らを保ちながらつきあえる程度の知恵をつけることも必要だという考え方もある、と言おう。何より、言葉本来の意味での「個人」や「個性」とは、そのように自らを保つ知恵なしではあり得ないのではなかったか。
いずれ苦しい理屈であることは百も承知だ。だが、「子どものために」を、その子どもとは違う価値観、違う立場からはっきり考えようとしてみせる、そんな大人のいなくなった〈いま・ここ〉が、僕はやはり不安なのだ。
もちろん、自分でもまだよくわからない感覚や欲望を刺激されるままにシールやワッペンに血道をあげ、怪獣の名前やスペックを暗記して〃情報〃の量を競ったかっての「未来を担う世代」のなれの果てとしては、そのような子ども時代を過ごしたことが幸せだったかどうか、と尋ねられても、だからと言って不幸せではなかった、ああいう「豊かさ」のなかで育ったことは幸せだった、と言うしかない。
けれども今、自身が親の世代となったときにその位置から見えてしまう「未来」の光景には、やはり〈いま・ここ〉からいくばくかの責任をとろうとしなければならないだろうと、改めて思うのだ。

■参考文献 (文中のおもな引用関係のみ)
・和田泰治「ポケモン、ミニ四駆で『コロコロコミック』の大膨張」(『創』ー九九七年八月号)
・佐藤雅彦×田尻智「テレビゲーム進化論」(『広告批評』ー九九七年一月号)
・田尻智(インタビュー)「インベーダー少年だった僕が、二三歳で会社をつくった理由」(『日経アントレ』ー九九七年七月号)

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