Game Freak/Part 2/Chapter 4: The Age of Professional Search

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4 プロとして模索の時代

経営者としての顔クリエイターとしての顔ゲー厶フリークはプロとなった

■クインティの完成

下北沢の十畳一間のアパー卜。その部屋の中央に置かれたテーブルの上には、完成したばかりのロ厶・カセットが乗っていた。
それは、中古のファミコン・カセットから取り出したプリント基板をベースに、配線が直接ハンダづけされ、自家製のロムライターで焼かれたICチップを差し込んだ、いびつな外見をしたものだった。しかし、外側のみすぼらしさとは対照的に、そこにはゲー厶フリークの三年分の情熱が注ぎ込まれていた。一九八八年も終わりに近づいたある日。
田尻は『クインティ』のロム・カセットを鞄のなかに忍ばせ、東京大田区・蒲田にあるナムコ本社へと向かった。訪ねる先はナムコット事業部。ここは、ナムコ作品のうちのコンシューマ、つまり家庭用テレビゲ—ム・ソフトの製造や販売を担当している部署である。

第2部  ゲームフリーク  248

この場所には、ライターとして新作ゲー厶を取材するために、これまで何度も来たことがあった。しかし、今日ばかりは違う。自分たちの商品を売り込みに来たのであり、いわばビジネスの取り引きだ。緊張の面もちで受付の前に立った田尻は、事前に担当者と電話でアポイントを取っておいたことを伝える。すぐに応接室に通され、担当者が現れるまでの間、彼は不安と期待の入り交じった複雑な心境で待ち続けた。
このとき田尻と面談し、『クインティ』が正式にナムコから発売されるまで担当することになったのが、ナムコット事業部の今成一雄課長(当時)だった。
今成氏の目から見た当時の田尻智の第一印象とは、いったいどのようなものだったのだろうか?「当時、知人から『熱心なナムコファンがいる』ということで、田尻さんの名前だけは聞いていました。後日、彼がライターとして書いたものを読んでみたら、人を見る洞察力があって、たいへんにおもしろい文章を書いていましたね。実際に会つてみた彼は、おとなしくて口数の少ない、でも眼だけは異様に光っている青年で、たとえばそれは、地方の高校球児がたまたま甲子園で一回勝って、報道陣に囲まれて、返す言葉も少ないけれど、ただ目と汗だけが輝いているというような、そういう印象がありました」
田尻が当時から口数少なく、でも眼だけが光っていたというのは、非常におもしろい指摘である。なぜなら、彼はいまでも他者との対話中、ふいに口をつぐんでしまう癖を持っているからだ。思わずこちらが「なにか気分を悪くさせるようなことをいってしまっただろうか?」と心配してしま一っほどだが、しかし、じつはそうではない。

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そうしたときの彼は、次に話すべき”言葉“を頭のなかで探しているのだ。それが仲間内の会議であっても、大切な取引先との商談であっても、まったく変わることはない。
プランナーやクリエイターという職業の人間にありがちな、いたずらにたくさんの言葉を駆使してうるさいほどの自己主張をするのではなく、常に言葉を選びながら、慎重に自分の考えを説明していく。田尻は、言葉の持つ力というものに対して自覚的だ。単語の選び方ひとつを間違えるだけで、言葉の意味が大きく変わってしまうことをよく知っている。
もっともらしい言葉で企画の趣旨を説明するよりも、できあがった結果を見てもらうのがいちばん早い。そう思ったからこそ、企画書ではなく”完成品“にして持ち込んできたのだ。くどくどとした説明はいらない。
田尻は鞄から『クインティ』のロム・カセットを取り出すと、応接室に用意されていたファミコンにセッ卜した。電源を入れる。しばらくの間は、田尻自身が説明を加えながら、ゲー厶をプレイして見せた。今成氏は、はじめて目にした『クインティ』の印象を「正直いって古臭いな」と感じたという。当時、ファミコンには、画面が横方向へスクロールして次々と地形の変化を楽しむことができる『スーパーマリオブラザース』や、世界地図を冒険の舞台にして豊かな物語世界が展開される『ドラゴンクエス卜』などの革新的な作品が登場していた。それらの影響が強かったためだろうか、ゲーム界全体が常に変化を追い求める方向へ進みはじめていた。
そんな状況下にあって、同じ画面構成が延々と繰り返されるステージ・クリア型の『クインティ』が、古臭い印象を与えてしまうのは無理もない。事実『クインティ』の制作中にもゲー厶フリーク内部で同様の

第2部  ゲームフリーク  250

意見は出ていたし、田尻自身もそのことは自覚していた。けれど、それはまた意図的に採り入れていたことでもあったのだ。
今成氏はいう。
「古臭い感じは拭えなかったけれども、やはりゲー厶として見れば、おもしろかったんです。すごいゲー厶だ、というほどの印象はなかったですが、昔ながらのゲー厶が持っていた古き良きゲー厶の匂いが感じられた。そのときに考えたのが、売り上げは悪いかもしれないけれど、ゲー厶の市場に必要なソフト、というものの存在です。たとえば『マッピー』なんかは、売り上げはあまりよくなかったけれども、何度も追加生産をした。これはどういうことかというと、お客が殺到するようなものではないが、少数ながらの固定ファンがっく。つまり『なくてもいいけど、あった方がいいゲー厶』だということなんです。他にも『ギャラガ』なんかは、二十数回も追加生産の申請書を書きましたが、それが一回あたり一〇〇本とかニ〇〇本とかいった感じですよ。でも、そうやって少しずつ売れていく。そういうものと同じ匂いが『クインティ』からは感じられたのです。それで、これはナムコ製品として扱ってもいいだろう、と思ったわけです」
いまにして思えば、ゲー厶フリークは危険な賭けをしていたことになる。
『クインティ』は誰が遊んでも「絶対におもしろい」と思うタイプのゲー厶ではなかった。ただ、それをゲー厶フリークは「古き良きゲー厶の時代よ、もう一度!」という想いだけで作りあげ、また、誰もがその結果に共感してくれると信じていたのだ。
もしも、はじめに見せた相手が、目先の利益にしか価値を感じない人物であったのなら、『クインティ』

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が世に出ることはなかったかもしれない。
「もったいないな、と思いました。せっかくこの作品にはゲー厶としての遊び心があるのに、製品化する、買っていただくという点で見ると、作り手側の『どうだ、おもしろいだろう?』という情熱が強く出過ぎていたからです。それだけゲー厶フリークの皆さんはゲー厶のことが大好きだから、たくさんのゲー厶を遊んできているだろうし、研究もしてきている。でも、自分の好きなゲー厶がイコール商品になる、ということではないんですね。『クインティ』には、そういう商品としての完成度が欠けていました。ですから、正直なところナムコで『クインティ』を扱ったのは、単純に『売り上げのひとつに組み込む』という意味もありましたが、それよりも、あれを採りあげることで、他のアマチュアたちもナムコに作品を持ってきてくれるようになるのではないかという、わりと消極的な考えがあったんです。彼らには申し訳なかったかもしれませんがね」理由はどうあれ、正式発売の契約を交わしてもらうことができた。当時のゲームフリークにとっては、それだけでも満足だったに違いない。なにしろ、三年間の夢が現実になったのだから。ところが、発売契約は交わしたものの、それだけで終わりではなかった。先の今成氏の発言にもあるように、ゲームの骨格となるおもしろさは文句のないものだったが、全体的に商品としての完成度が低い。つまり、売るために必要な華やかさが足りなかったのだ。
ゲームが「完成する」というのは、すなわち「商品になる」ということだ。未完成のゲームを、市場に流通させられる商品に仕上げるためには、やらなければならないことは数多い。細部の手直しから、ス卜ーリー性の導入、オープニング、ステージセレクト、エンディングといった、ゲームの周辺を飾る部分を

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作っていかなければならないのだ。これらの要素が盛り込まれてこそ、『クインティ』は商品となる。とはいえ、こうした作業はゲー厶フリークには経験のないことだった。彼らは既成のゲー厶を改造したり、自主制作で『クインティ』を作るということはしてきたが、それを市場に出すために”完成“させたことはない。
そこで、今成氏はその仕上げ作業を円滑に進めるために、当時、ナムコの下請けの一社であったソフトハウスに業務を依頼した。ナムコがプロデュースの立場をとり、世界観設定やエンディングなどのアイデアをゲー厶フリークが考え、実作業をそのソフトハウスが進めていくというわけである。これならば、経験の浅いゲームフリークでも完成に向けた仕上げ作業に携わることができる。「下請けさんにお願いしたのは、ゲームの核になる部分を変えることはせずに、いい意味でも悪い意味でも『うまく完成させてください』ということです。あとは、そうやって他のクリエイターと一緒に仕事をすることで、田尻さん自身にも経験が蓄積されたり、人脈が増えたりというように、なんらかのメリットが生まれればいいな、という思いもありました」今成氏からのそうした提案を聞かされたとき、田尻は少なからず抵抗を覚えたという。自分たちとナムコとの間に、第三者が介在してくることにいい知れぬ不安を感じたのだ。もしも勝手に手を加えられてしまったら、『クインティ』は自分たちのゲームではなくなつてしまうかもしれない---。
それは、誰の力も借りずに、ここまでゲームを作りあげてきたことに大きな誇りを抱いていたからこその、当然の感情だったろう。

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しかし、その反面で今成氏のいうことも当然だという気持ちがあった。アイデアと、それをゲー厶という形に落とし込む技術には自信があっても、たしかに商品化のためのノウハウはない。散々迷った末、ゲー厶フリークではそのソフトハウスをパートナーとして迎え入れることにした。そしてその日から、ゲー厶フリークは本当の意味での完成に向けて、邁進していくことになったのだ。気心の知れた仲間以外との、はじめての共同作業に戸惑うことも多かった。幾度となく意見がぶっかることもあった。絶対に譲れない部分では意地を張ることもしたが、商品作りの先輩の意見はできるだけ尊重し、多くのことを学んだりもした。
自分たちの作品を”商品“として完成させるプロセスの過酷さにあえぎながらも、未完成だった我が子が、日増しにらしい形になっていくことに、ゲー厶フリークのメンバーは大きな喜びを感じていた。田尻がナムコに持ち込みをしてから、およそ四カ月ほどの時が過ぎ、ようやく『クインティ』のマスター・ロムは完成した。これが、本当の意味での”完成“だった。あとはパッケージや取り扱い説明書が印刷され、工場での量産体制に入り、発売されるのを待つだけだった。

■株式会社の設立

当時、ファミコンソフトは全盛期のように「発売すれば、いくらでも売れる」というような商品ではなくなりつつあったが、それでも『クインティ』は初期出荷数が二〇万本という、悪くないものだった。

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そんな『クインティ』が発売されたことで、制作したゲー厶フリークの代表である田尻には、およそ五〇〇〇万円ほどのロイヤリティ(印税)が支払われることになつた。
ところが、この時点でのゲー厶フリークは、まだ会社法人にはなっていなかった。であるから、いきなり田尻個人の口座にそんな大金が振り込まれても、とても管理しきれるものではない。これだけの金額が個人の所得ということになってしまつては、相当な額が税金で徴収されもするだろう。ゲー厶フリークは、会社を作るためにゲー厶を作ってきたのではない。しかし、自分たちの”作品“が、ビジネスのための”商品“として動き出してしまった以上、ためらうことは許されない。田尻は、ナムコからの振り込みを待たず、秘かに蓄えていた自分の貯金を資本金に充て、ゲー厶フリ—クを株式会社として法人登記することにした。
会社の名前は、ゲー厶マニアの集団として名乗り続けてきた自分たちのグル——プ名を、そのまま使うことにした。資本金はわずか丨〇〇万円。社員はたったの二人。小さいながらも、ここに〈株式会社ゲー厶フリーク〉が誕生したのである。
中学二年生のときにインベーダーゲー厶と出会ってから、ちようど+年目。
田尻智、二十三歳の春だった--。
ゲー厶フリークでは、ゲー厶制作会社としての業務を本格的に開始するにあたり、これまで借りていたワンルー厶のアパートを離れ、同じく下北沢にあった2DKのマンションに引つ越しをした。そこは同じ下北沢といっても、駅からは二〇分ほど歩かなければならない場所だった。

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いくら、高額のロイヤリティが振り込まれたとしても、無尽蔵に蓄えができたわけではない。使えばお金はなくなっていく。それに、まだ最初の一作目を発表したばかりだ。
プロとしてスター卜した以上、これからもゲー厶を作り続けていかなければならないし、そのためには、より高価な機材が必要にもなる。本当ならば、もっと会社然としたオフィスビルでも借りたいところだったが、先々の見通しを考え、まずは堅実なやり方として、多少通勤が不便でも賃料の安いマンションを借りるに留めておいたのだ。
そのマンショ・ンは、二部屋とも和室だった。しかし、畳の床ではゲー厶制作のための作業場として利用するには、不都合が生じる。たくさんのパソコンや機材を設置すると、畳敷きでは床が沈んでしまうからだ。
そこで、安価なフローリング・カーペットを買ってきて、床に敷き詰めた。これならば多少の重量にも耐えられるし、キャスター付きの椅子で畳を痛めることもない。
室内に供給されている電力も、すぐに容量変更の手続きをおこなった。通常、一般住宅に引かれている電力は、二〇〜三〇アンペア程度のものだが、複数のパソコンを常に稼働させ、冷蔵庫やエアコンなどを使用していれば、すぐにブレーカーが落ちてしまう。それでは仕事にならないのだ。器は単なる住居用マンションであったが、あちこちを整備することで、どうにか会社の事業所として機能させられるようになった。この、つぎはぎだらけの狭苦しい社内で、ゲー厶フリークは『クインティ』の海外版を制作する作業をおこなった。
それから約一年ほど経ったー九九〇年の七月。

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ゲー厶フリークでは、少しずつながらもスタッフが増えてきたのを理由に、ふたたび事業所の移転を敢行した。
新しくみつけた物件もまた住み慣れた下北沢だったが、今度は繁華街にごく近い場所である。一階には中古レコード店、二階には飲食店が入った黄色い雑居ビルの三階部分を借りることにした。入居時の家賃はーカ月五〇万円。当時のゲー厶フリークにとっては、これでも決して安くはない額だったが、そのおかげで部屋数も多く、たくさんの机や機材を配置してもゆったりと作業スペースを確保することができた。
この物件は、それまではビルのオ—ナーが住居として使っていたものらしく、雑居ビルのワンフロアでありながらも、かなり味わいのある構造になっていた。
室内はすべて和室の畳敷きで、窓には障子、押入には襖が取りつけてあった。そうかと思えば、なぜか玄関先の壁には洋風の飾りタイルがはめ込まれ、十畳近くあるリビングは本格的なフローリングで、アメリカ風の豪華なシステムキッチンや、食事のためのカウンターまであった。システムキッチンには、数多くの食器棚が造りつけてあったが、数えるほどしか社員のいないゲームフリークに、それを埋めるほどの食器などあるわけもない。そこで、せっかくのスペースを有効に使うため、食器棚には未使用のフロッピーディスクやケーブル、コンピュータ機材などを収納した。そんな様子を見た来客は「ゲームフリークらしいですね」と一様に笑っていた。
室内の構造としてとくに驚かされたのは、玄関脇に小さな茶室がしつらえてあったことだ。引つ越し後しばらくの間は、おもしろがってその茶室に座卓と座布団を持ち込み、和風の会議室として利用し

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ていたが、これはあきらかに来客のウケを狙うためにおこなわれたことだったので、座卓はすぐに撤収され、最終的にはコンピュータやキーボード、大きなスピー力ーなどを持ち込んで増田のための作曲ルー厶として使われるようになった。
ところで、この頃すでにゲー厶フリーク内部では『ポケットモンスター』の企画がスター卜していた。ゲー厶フリークによるゲー厶ソフトの開発ナンバー1番は、会社設立のきっかけともなった『クインティ』であるが、じつは2番目として記録されているのが『ポケットモンスタ—』なのである。ただ、この段階では会社としても不安定な状態であったため、オリジナル企画のゲー厶に出資してくれるような取引先のあてはなかった。『ポケットモンスター』を具体的なプロジェクトとして動き出させるためには、より多くの信用と実績、そしていくらかの資金が必要だったのだ。そのためにも、ゲー厶フリークは多くの仕事を引き受けなければならなかった。この時期にこなしていたのが、EPICソニーでのゲー厶企画の提案や、知人の企画会社を通じて請け負ったゲー厶・プログラミングなどである。
つまり、各種ゲームメーカーでのゲー厶制作のうち、企画部分だけ、あるいはプログラミング部分だけを担当すれば、少人数のスタッフでも複数のプロジェクトに関わることができる。そうすることによって、できるだけ多くの収益を得ようとしていたのだ。
アマチュア時代のように、ひとつのゲー厶--それもファミコンソフトのように単純なもの--を作っているぶんには、機材も簡単なものだけで済む。

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ところが、このようにしていくつもの制作作業を並行してやらなければならないようになると、各種のコンピュータを統合して管理するためのシステムが必要になる。それをしてくれるのが〈ワークステーション〉と呼ばれる大型コンピュータである。
これらのワークステーションは、パソコン、つまり-般ユーザー向けに作られたコンピュータとは目的も内部構造も異なり、完全な業務用として設計されている。価格も当時のもので約三〇〇万円と、パソコンとは桁違いに高額なものだった。
資金力のある大手企業ならともかく、ゲー厶フリークのように小さなソフトハウスでは、税制上こうした機材を現金で購入するようなことはしない。たいていは専門の業者から、リース契約で借り受けるのだ。当然、ゲー厶フリークでもワークステーションを借りるために、とある業者にリースの申請をおこなった。
数日後、リース会社の審査官が書類を持ってやってきた。当時のゲー厶フリークには応接室などなかったので、企画会議用のテーブル席に審査官を通し、田尻自らが応対をした。この頃のゲー厶フリークでは、作曲ルー厶以外はすべての部屋を開け放し、スタッフ全員が雑然とした環境のなかで仕事をしていた。スーツを着ているスタッフなど一人もいない。Tシャツ一枚の者、アロハシャツに裸足の者、パンクファッションの者までいた。
銀行の融資担当者にも似た目つきの審査官は、無表情に社内の様子を見まわすと、淡々とリース条件の説明をし、相変わらず無表情のままで帰っていった。
それから数日後、リース会社から返ってきた返事は、

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「今回の一件は見送らせてほしい--」
というものだった。
たしかに、先方の立場になってみればその気持ちも理解はできる。審査官からすれば、ゲー厶フリークは会社でもなんでもなく、だらしのない若者たちが集まって、遊び半分に仕事らしきものをしているようにしか見えなかったのだろう。
けれど、ゲー厶フリークはいつだつて仕事に対して本気で取り組んできたし、それは昔もいまも変わることがない。
そのとき田尻は、大きな屈辱を感じた。
「別にお金が惜しかったわけじやない。会社として、経営者として、資金運用のことを考えるからこそ、リースしようと思ったんじゃないか。どうして外見だけじやなく、僕たちの中身を見てくれないんだ。貸してくれないのなら、それでもいいさ。金ならあるんだ。現金で買ってやろうじやないか」それから数日後、田尻は他の業者に連絡をとると、同型のワークステーションを即金で買い込んでしまった! 金、三〇〇万円ナリ。
冷静にものを見つめ、落ちつきのある言動を心がけている現在の田尻からは想像もつかないことだが、当時、彼はなかば冗談、なかば本気で、こんなことをいっていた。
「俺たちを馬鹿にしたあのリース会社の隣に、いつか、もっとでかい自社ビルを建てて、屋上から小便かけてやる!」
いまのゲー厶フリークの成功ぶりからすると、この冗談は必ずしも不可能事ではなくなりつつあるが、

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まさか、そんなことはしないであろう(と信じたい。

■社内の整理整頓

この時期、ゲー厶フリークにはひとつの大きな特徴があった。
似たような業務をおこなっている他社が、おしなべて社内の乱雑ぶりをある種の美徳として誇っていたのに対し、ゲー厶フリークだけは常に整理整頓に気を遣い、打ち合わせや取材に訪れた業界関係者を驚かせていたことだ。
仕事柄どうしても徹夜作業が多くなり、また、遊びの延長のような気分で仕事をしがちな業界であるため、社員たちのデスク周辺は資料や趣味の道具などで散らかってしまうものだ。パソコンの両側に積みあげられた資料の束。コンピュータ言語の文献に混ざって並べられたコミック誌。ディスプレイの上に飾られたアニメのフィギユア。べたべたと貼られたステッカー。雑誌などにときたま掲載されるゲー厶クリエイターのデスクというものは、例外なく乱雑を極めている。また、それこそが”クリエイターらしさ“だというような、固定化した印象すらあるほどだ。しかし田尻は、そうした乱雑さを創造的精神ではなく、単なる無秩序の表れとして嫌っていた。自分自身の机を整理整頓するのは当然のこととして、スタッフたちの作業環境に関しても、ことあるごとに整理と掃除の義務を要求した。

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以前から、田尻自身はゲー厶業界の人間にしては珍しく身なりを清潔にし、プライベー卜の生活でも無理と無駄を極力省くような生き方をしてきていた。それが田尻の個性でもあった。ところが、この時期になると彼の整頓好きは会社内にも及ぶようになり、徹底して社内の浄化に励んでいったのである。その背景には、やはり例のリース事件が少なからず影響していたのは間違いないだろう。いくら「自分たちの才能を信じてモノを作っているのだ」といっても、結果が出なければ誰からも信じてはもらえない。いくら「クリエイターは外見ではなく才能で勝負するのだ」といっても、一般の大人社会は見た目でしか判断してくれない。
ゲー厶フリークは若い会社だ。若いからこそ「こんなに若くして会社を運営しているとは、なんと立派なことだろう」という見方もあれば、まったく反対に「どうせ若い連中のやっていることだから、遊び気分でロクなものではないだろう」という見方もある。
若いというだけで否定的に見られるのならば、望むように変わってやろう。より会社らしく、より企業らしく、大人のふりをしてやればいいのだ。自分たちの志だけは少しも変えることをせずに……。そのひとつが、まずは社内を整頓するということだった。
世間一般から見て、社内にクリーンなイメージのある会社は、仕事もよくできるように見える。そこで、日頃の整理整頓とともに、毎週一回の大掃除も実施することにした。また、玄関先にタイムカードを設置したのも、この頃だった。
さすがの田尻も、社員を管理するようなイメージのあるタイムカードを置くことには抵抗があったが、やむなく実施することにした。これは、経営者としては危険な賭けだった。なにしろ、ゲー厶フリーク

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は会社の成り立ちからして一般企業とは違うのだ。
いわゆる普通の企業のように、社長と社員が雇用者と従業員という明確な従属関係にあるのなら、タイムカードを置く程度のことで文句の出るはずもない。ところが、ゲー厶フリークという会社は学生時代からの友人関係を基盤にして成り立っている。そんな「仲間」に対して、出社や退社を分刻みで記録するタイムカードは、反発を受けること必至なのだ。
田尻は、当時の心境を次のように語る。
「とにかく、遊びだと思って押してくれ、と説得しました。本当は、タイムカードなんてなくてもよかったんです。僕たちが会社組織としての社会性を持ちつつ、そのうえでゲームフリークならではの自由な空気を維持できるのなら、その方がよかったんですから。でも、当時のスタッフはそうは思ってくれなかった。俺たちはアナーキーにいこうみたいな、極端な考えだったんです。理屈で説明してもわかってもらえないのなら、形から入るしかなかったんですね」さらに、この頃から田尻は意識的にダブルのスーツを着るようになった。これもまた、外見から会社らしくあろうとしたことの象徴的な行動だ。
さすがに社員たちに対して「みんなもスーツを着て出社しろ」とは強要できない。根を詰めて作業をすることが多く、徹夜も続きがちな仕事だからこそ、せめて服装ぐらいは自由にさせてやりたい。スーツにネクタイをするのは、取引先と会う機会の多い自分だけでいい。そんな気持ちがあったからこそ、田尻は代表の自分だけでもと、典型的な会社社長の姿を演じることにしたのだ。このように悩み苦しみ、ぎりぎり譲れる範囲での折衷案で少しずつ変貌を遂げようとした田尻だっ

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たが、それでも社員たちからは反発の声が寄せられた。
社長は最近やけに偉そうにしている。社内にルールが増えてきて窮屈だ。タイムカードなんか入れて俺たちを管理しようとするつもりなのか。まるで普通の会社みたいで居心地が悪い……。田尻も、社員たちも、年齢的にはたいした差はない。けれど、目先の仕事だけではなく、会社全体としてその将来まで見据えていたのは、結局のところ社長の田尻だけだった。あくまでも「気の合う仲間どうしの楽園」でありたいという想いと、きちんと「ビジネスのできる集団」にならなければいけないという想いのせめぎ合い。
これは、じつはゲー厶フリークだけに限ったことではない。友達関係から出発することが多く、また ”遊び“ という、一歩間違えれば即だらしなさにつながる恐れのあるテーマを生業にしている、ゲー厶業界全体にもいえることなのだ。

■実力主義への変貌

ゲー厶フリークは、会社としてスター卜した時点からすでに実力主義の集団だった。
田尻が社長であることに間違いはないが、それは一般企業における社長とは意味が異なる。単なる経営者として、従業員たちの上に君臨する社長ではなく、自らモノ作りの現場に立つ社長だ。会議の席では皆と一緒にアイデアを出し、指先を鉛筆の粉で真つ黒にしながら仕様書を書き、マウス

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を握ってグラフィックのドットを打つ。徹夜作業で会社に泊まり込みもする。
田尻が才能を発揮すればするほど、社員たちも必死でそれについていこうとする。実力がなければ、ゲー厶フリークでは必要とされない。それは社員だけでなく、社長といえども同じことだ。そうして全員が一丸となって実力を発揮した”結果“を、他の企業にソフトとして提供することで利益を得る。実力だけが勝負の世界だからこそ、ネクタイや背広で自分たちを飾る必要はなかった。Tシャツを着ていても、ひざの破れたジーンズを履いていても、いい仕事さえしていれば、周囲から評価される。そう信じてスター卜した。
ところが、現実には、それだけでは済まないことがわかってきた。相手を姿だけで判断してしまう社会がある。たとえ実力があっても、精神の成熟が追いついていなければ、自由は堕落の入り口になる。だから、田尻はスーツを着るようになった。
社員の誰ー人にもそれを強制することはしなかったが、自分だけは会社の顔として、社会性を身につける努力をした。「社長が社長になってしまった」といわれても、かまわず社長らしく振る舞った。そうすることで、ゲー厶フリークが会社として評価されると信じたからだ。
高校時代から”社長“のあだ名で呼ばれていた田尻は、やがて本当に自分の会社を興したが、今度は自分を名実ともに”社長“にするよう努めたのだった。
田尻がスーツを着るようになったのとほぼ同じ時期に、ゲー厶フリークでは ”フレックスタイム制“ を導入した。それまではスタッフたちの自由裁量にまかせて、厳密な出勤時間も退社時間も決められてはいなかった。しかし、社員たちの勤務態度がどんどん悪化していくのを見かねて、ゆるいものではある

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が一定の勤務時間を決めることにしたのだ。
クリエイティブの現場というのは、実力主義である以上、様々なわがままが横行する。前日遅くまで作業をしたのだから、翌日は夕方まで寝ていようとする者。気分が乗らないので、勝手に休んでしまう者。そうした者たちの言い分は、日く「調子が出ないのに無理に仕事をしてもロクな結果は出せない。自分のペースで仕事をして、調子が出てくれば倍の結果を出せるのだから、それでいいじやないか」というものだ。
ある意味では正論かもしれないが、それでは会社組織は成り立たない。個人で創作に打ち込む芸術家ならばいざ知らず、複数の人間が集まってひとつのものを作っている以上、そんな自分勝手を認めるわけにはいかないのだ。
この時期のゲー厶フリークでは、定期的な企画会議をするために、午後一時から夕方六時までの五時間を”コアタイム“とし、それを含む八時間を各自がフレキシブルに決めてよいことにした。このシステ厶にどうしても馴染めない者は去っていったが、ほとんどのスタッフはそれを受け入れた。会社があげた利益の還元に関しても、ゲー厶フリークでは長い間迷走した。元々ゲー厶フリークは、自主制作で作った『クインティ』が利益を生み、それを元手にして株式会社となったわけだが、その五〇〇〇万円という印税報酬が入ってきたとき、仲間のなかには全額を「山分けしよう」といい出す者もいたという。彼らにとっては、『クインティ』を作って利益を生み出した段階で、そこが終点だったのだ。
ところが、田尻はそうは考えていなかった。たしかに仲間へ報酬を払うのは当然だが、すべてを山分

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けになどするわけにはいかない。印税のうちの半分程度を会社の設立資金と当面の維持費に充て、残りを制作にかかわった者たちへの報酬にしようと思っていたのだ。
結局、田尻は仲間を説得してゲー厶フリークを法人として登記した。
このような出来事が背景にあったので、会社経営をはじめてからの田尻は、利益の使い道についてとくに慎重になった。『ヨッシーのたまご』のようなヒット作が出て、それなりの利益が得られるようになってからも、それをそのまますぐに社員の給料に反映させることはしなかった。それをすれば社員たちは一時的に喜ぶだろうけれど、会社にとってはなんのプラスにもならないのだ。会社というのは生き物だ。ひとたび命を得たら、成長し続けなければならない。儲けが出るときもあれば、赤字になることもある。そうした苦境時にも社員たちに変わらぬ給料を払い続けるためには、ある程度の蓄えがいる。
急な設備投資が必要になることもあるだろう。そのときに安定した売り上げを維持していられればよいが、そうでない場合もある。だからこそ、田尻は会社の利益を社員たちへの”報酬“で還元するのではなく、会社の”環境“を整備するために使うよう努めた。誰か一個人が得をするのではなく、会社全体が得をするようにだ。ゲー厶フリークが何度も事業所の引つ越しを繰り返してきた背景には、こうした事情もあったのだ。
少しでも広く、少しでも清潔に。可能な限り社員たちが快適な環境で仕事ができるように、ゲー厶フリークはその住み処を移していった。
会社設立から三年目の夏には、ようやく社会保険制度が導入された。これによって、ゲー厶フリーク

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はまた一歩、会社としての成熟を果たすことになった。そんなこととは無関係に、これまで国民保険にも入らず、運転免許証もなく、なにも身分を証明するものを持っていなかった社員の一人は「これでようやくレンタルビデオ屋の会員になれる!」と無邪気に喜んだ。
同年の秋には、プログラマーの太田健程を発起人として、社内互助会が結成された。これは、会社から与えられた予算で食品を買い込み、社内での自炊を奨励するものだった。
太田は自炊生活が長かったためか料理を特技としており、会社の近所にあるスーパーで様々な食材を安く仕入れてきては、仲間たちのため頻繁に腕を振るった。彼の作る”豚肉スタミナ丼“などは、プロ顔負けのうまさだった。同じくプログラマーの森本茂樹もまた料理が好きで、二人が一緒にキッチンに立つことも多かった。こうした互助会の存在は、社員たちの経済的負担を大いに助けてくれた。スタッフのなかに誕生日を迎える者がいると、仕事を中断して会議室に集まり、誕生会をひらいて社員みんなで祝った。ケーキを切り分け、シャンパンを抜き、クラッカーを鳴らして子供のように騒いだ。他愛もないことではあるが、それでも、たったこれだけのことで仕事に疲れた心は癒された。田尻は、環境の整備や食費の援助など福利厚生面を充実させていくことで、ゲー厶フリークを”社員が安心して勤められる会社“にするよう努力した。しかし、それだけでは社員たちの不満は解消されない。決して多いとはいえない給料で激務を続けていれば、いずれは息が詰まってくる。そのために、当時のゲー厶フリークでは”極楽旅行“と銘打って、年に二回は社員旅行に出かけていた。たいていは日光や熱海、鴨川、箱根といった関東近県の観光地ばかりだったが、誰もが喜んで参加した。一般企業の場合、会社の慰安旅行などというものは若い社員には歓迎されないのが普通だ。”慰安“

第2部  ゲームフリーク  268

といいながらも出席が義務づけられ、上司に気を遣いながらの旅行では、仕事の延長と変わりはない。しかし、ゲー厶フリークは世代を同じくする仲間ばかりが集まっているため、仕事を忘れて素直に楽しむことができた。
いくつもの遊戯施設に興じ、様々な催しを見物した。うまい蕎麦屋があると聞いて、みんなで一時間近くも山道を歩いて食べに行ったこともある。数え切れないほどの記念写真を撮った。現像されてきた写真は出版部が編集し、愉快なキャプションを添えて”旅のアルバム“として残された。
そして、ー九九四年三月。
ゲー厶フリークとしては初の海外--グアム島への社員旅行が敢行された。三月十三日から十七日までの五日間にわたって実施されたその旅行には、パスポート申請が間に合わなかった一名を除いて、十七名のスタッフが参加した。
振り返ってみれば、町田市の狭いアパートで即席ラーメンをすすりながら徹夜で企画会議をしたこともあった。小さなマンションの一室で、電力が足らずにブレー力ーが落ち、猛暑のなか冷房を止めてプログランミングしたこともあった。運転資金を得るために、納得のいかない仕事を請け負ったこともある。日々の小さな不満が爆発して、激しい口論に発展したことなど数え切れない。
けれど、そうした日々を耐え抜いて、ようやく社員みんなで海外旅行にまで行くことができるようになったのだ。
グアムには夜中のうちに到着した。田尻と同室になったある社員は、ホテルでの一夜が明け、常夏の陽光に照らされたタモン湾を見下ろしながら、田尻に向かってこういった。

269  第4章  プロとして模索の時代

「社長、僕たちもとうとうここまできましたね……」田尻は照れ臭そうに笑いながら、しかし、なにも答えなかつた。ゲー厶フリークは確実に成長を続け、ようやくここまできた。けれど、それで終わりじやない。むしろ、ここからが本当のはじまりだ。会社として成長を続ける限りは、それにともなう社会的責任も大きくなっていく。そのことを考えると、田尻はただ素直に喜んでばかりもいられなかったのだ--。それからしばらくして、田尻はふたたびスーツを脱いだ。もちろん、取引先を訪問したり、公式な場に出席するような場合にはスーツとネクタイを着用するが、普段、社内で作業をするだけのときには、ラフな服装でいるようになった。それは、田尻のなかでなにかが吹つ切れたことを意味するのだろうか。会社の黎明期からゲー厶フリークに参加し、現在では商品管理部長と社長秘書を兼任する川上直子によれば、その頃の田尻は「他人に対して”許す部分〃が増えた」ように感じられたという。かつての田尻は、自分のレベルを当たり前だと信じ、部下に対しても同じレベルで仕事をすることを強要した。命じたことができない社員に対しては、なぜできないのかを強い口調で問いただしていた。けれど、田尻は変わりはじめた。部下の一人ひとりが能力の限界まで頑張れるよう諭してやり、優れた面があれば積極的に褒めるようになった。
田尻はいう。
「僕は自分と違う考え方を見せられると、たとえそれが正反対の意見でも、その方が普通なのかと思うんです。でも仕事のうえで僕が決定権を持っている限りは、僕の意見に納得してもらわな

第2部  ゲームフリーク  270

ければならない。そのためには、相手を否定してるだけじやだめなんです。僕の考えに参加してもらうためには、上から押さえつけるのではなく、一緒になってリードしていかなければならないんです」
個人個人が、それぞれの実力を勝手気ままな方法で発揮させるのは、本当の意味での実力主義とはいえない。会社という、いくつもの才能が集まって大きな結果を残す場所においては、みんなが相手を思いやり、お互いの実力を競い合い、そのうえで強力なリーダーシップを持った人間が全体を引きあげていく。
田尻は、そしてゲー厶フリークは、そんな理想の環境に近づきつつあったのだ。

■記録的ヒットの先に待つもの

苦労の末に発売された『ポケットモンスタ—』は、記録的な売り上げを達成した。
無数の企業からキャラクターグッズも続々と商品化された。
現在その総数は三〇〇〇種近くにものぼり、その市場規模は四〇〇〇億円以上。海外市場まで視野に入れれば、一兆円を越えるともいわれている。
かって、十畳に満たないアパートの部屋で語り合った壮大な夢は、とうとう現実のものとなった。しかし、その現実の前に立ちはだかる壁もまた大きい。

271  第4章  プロとして模索の時代

田尻はいう。
「僕は今、一日の大部分のエネルギーを何に向けているかというと、ポケモンに関して何かをやりたいって言う人に、それをやらせないことに対してなんです」(『アントレ』ー九九七年八月号より)『ポケットモンスター』の成功によって、数多くの関連商品が作られ、それらもまた大きな成功を収めた。数え切れないほどのキャラクターグッズがあるのは事実だが、しかし、なんでもかんでも自由に作らせた結果としてそうなったのではない。
ポケモングッズにおける版権会議の場には、いくつかの判断基準がある。それはたとえば、政治政党の宣伝材料には使用しないことであったり、酒やタバコといった大人の嗜好品の広告には使わないことであったりだ。そのなかでも、とくにこだわっているのが「単に既成の商品にキャラクターを印刷しただけのものは、積極的には許可しない」ということである。
なんでもいい。もしも本書の読者がポケモングッズを持っていたなら、いま一度それをよく見て欲しい。それが正式な版権を得たものであるのなら、そこにはその商品がポケモングッズである必然性を感じさせる、なんらかの工夫がされていることを確認できるはずだ。
ポケモンの版権会議の場では、通常のキャラクターグッズのように、権利分配と採算分岐だけを確認して書類に判を捺すようなことはしない。玩具、文具、食品、ありとあらゆる企業から毎日膨大な数の商品企画が送られてくるのだから、右から左へ許可の判を捺しているだけでも、相当な利益が得られることはわかっている。しかし、それをしていたのでは、確実にポケモングッズの品質は荒れてゆく。ポケモングッズの販売と品質を管理するために設立された、ポケモンセンター株式会社ではもちろん

第2部  ゲームフリーク  272

のこと、クリーチャーズでも、ゲー厶フリークでも、試作された商品をひとつひとつテストしている。
時計や文具などは自分たちで日常的に使ってみる。いい年をした大人たちが、二ヨロモの腕時計をはめている。社の重役が、ファイロファックスではなくピカチュウのシステム手帳を使っている。学年誌のための工作付録も、それが本当におもしろいものなのか、実際に組み立てて遊んでみる。彼らはなぜ、そうまでするのだろうか?
それはすべて、ポケモンが好きだからだ。
自分たちの作ったポケモンを、誰よりも愛しているからだ。
田尻はいう。
「ポケモン関連グッズを作ろうとする人のなかには、話を聞く前から、もうこの人はポケモンに愛情があって作りたいといってきているのではないな、とわかってしまう人がいて、そういうのが多いときは一日に丨〇〇件とかくるわけです」
モノ作りをしてきた自分が、なぜ、モノを作らせないというようなことにエネルギーを使わなければならないのか--。
現在、キャラクターグッズに関する品質管理の責任者は、プロデューサーの石原が担っており、膨大な数の商品のすべてに目を通しているという。その労力たるや、並大抵のものではないだろう。田尻をはじめ、ゲー厶フリークのスタッフはいう。
「僕らが『ポケットモンスター金・銀』の制作に集中できたのも、そうした作業をすべて石原さんが引き受けてくれたおかげです。石原さんの力がなければ、今頃はきっといい加減に作られたポケ

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モングッズが市場に溢れて、ファンの皆さんを失望させていたかもしれません」理想のゲー厶を作ろうとする自分の志に共鳴してくれる仲間を集め、皆が力を合わせて必死の思いで『ポケットモンスター』を作り続けてきた。そして、同じ志を持ったビジネスの先輩たちに支えられ、また、その志を受け入れてくれた多くのファンの力で、『ポケットモンスタ—』は記録的なヒットを達成した。しかし、そうまでしても、やはり自分たちの志を理解していないたくさんの人間が、目の前に立ちはだかる。
田尻は自分と、そしてゲー厶フリークの将来を見据えていう。
「いま、ぼくのイメージとしてあるのは、ひとつのゲー厶を完成させたら、関連商品などのようにそこから派生していく世界全体を、自分たちの手でプロデュースしたいということです。ゲー厶を核にして、そこから拡大していくすべてに対して神経を通わせたいんです。ゲー厶の外側にこぼれ出す様々な要素--たとえば商品企画なども守備範囲に入れた、懐の深い企業を目指したいんです」いま、ゲー厶業界の一部では”メディア・ミックス“ということが盛んにいわれている。言葉だけを拾えばそれらしく、さも格好いいことのように聞こえるが、その実体は、作り手の魂を商売の神に売り渡すための言い訳だ。
売れ線のキャラクターを用意し、流行りのスタイルを採り入れ、流行語になるのを想定してセリフを書く。肝心のソフトが発売される前からキャラクターグッズが山ほど発売され、いつの間にか作られたアニメビデオが店頭に並ぶ。
そこには、作り手の心を突き動かす”情熱“はない。あるのはマーケティングと売り上げ予想のグラ

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フに彩られた”企画書“だけだ。
『ポケットモンスター』がこれほどまでにヒットした背景にあるのも、ある意味ではメディア・ミツクスといえないこともない。けれど、その根底に流れる志には大きな違いがある。漫画を連載し、テレビアニメを作り、力ードゲームを企画したのは、商売のためだけではなかった。『ポケットモンスター』という作品の寿命--言い換えれば”ポケモン“という不思議な生き物が、一過性のブー厶ではなく、末永く子供たちの友として生き続けていってほしいという、生みの親だからこそ願わずにはいられない感情の表れだったのだ。
ここで具体的な実名を挙げることはしないが、原作となったゲー厶は素晴らしい出来映えで大ヒットもしていながら、それに付随して作られたアニメやコミック、キャラクターグッズの完成度がお粗末だったために、原作のゲー厶そのものの人気までも貶めてしまったという前例が過去にはあった。プロデューサーの石原は、『ポケットモンスタ—』だけは絶対にそういう悪しき前例の二の舞を踏ませたくなかったという。そして、田尻もまた石原とまったく同じ気持ちだった。田尻の「関連商品もプロデュースしたい」という発言は、悪意を持って読めば誤解も生みかねないだろう。ゲー厶だけでは飽き足らず、関連商品の利益まで独り占めする気か、と。
しかし、その解釈は間違っている。
田尻は「核となるゲー厶から拡散してゆくすべてのものに神経を通わせたい」だけなのだ。ゲー厶だけではなく、すべての関連商品に神経--それはつまり”ゲー厶フリークらしさ“--を息づかせたいだけなのだ。

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