Pokemon Story/Chapter 3/Subchapter 1: San Francisco

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1 サンフランシスコ

ポケモン講演ツアー

一行は2月3日木曜日午後4時50分発のANA008便サンフランシスコ行きに搭乗し、日付変更線を越えて同じ日の午前9時前にサンフランシスコに到着しました。空港ではすでにゲート出口で、在サンフランシスコ日本国総領事館領事で、同総領事館広報文化センタ—所長の中村温が待ち受けていました。中村の先導によって、一行は同機の乗客やクルーよりも早く入国審査を受け、入国しました。もちろんこれはー行がポケモンのVIPだったからではありません。到着後、過密なスケジュールを現地でこなさなければならないことを事前に察知していた領事館の配慮だったでしょう。空港の到着ロビーには、サンフランシスコに本社を置く小学館の子会社で、小学館の出版物のアメリカ向けローカライズと出版を行っている現地法人ビズコミュニケーションズ (VIZ) 社長堀淵清治と、先発していた小プロの取締役メディア事業部部長斉藤裕も出迎えに姿を見せていました。小プロの斉藤がサンフランシスコにいたのは、講演会のためではありません。VIZのプレゼンに立ち会うためでした。

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堀淵清治さん
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Viz Communications, Inc. 代表取締役社長。1952年徳島県生まれ。早稲田大学卒業後渡米、カリフォルニア州バークレイへ。77年にカリフォルニア州立大学ヘイワード校に入学後ドロップアウト。放浪生活をはじめる。1986年、小学館の現地法人としてビズコミュニケイションズを設立、副社長に就任。一年の準備期間を経て、翌年5月に日本コミックス翻訳版の刊行を開始。1997年、代表取締役社長に就任、現在に至る
]]

第3章  アメリカ

VIZには、小学館の出版物について全米の独占的翻訳出版権が与えられていますが、ポケモンのヒット以降、出版物はポケモン一色でした。それまでに翻訳出版したポケモンのコミック数十冊の総販売部数は1000万部を超え、VIZは空前の利益を上げていました。その出版物のひとつひとつについて、VIZはアプルーバル(ライセンス許諾)を受けるわけですが、日本側のポケモンの司令塔3人が揃ってサンフランシスコ入りするこの機に、VIZは2000年から2001年にかけての出版計画のプレゼンをしょうとしていたのです。斉藤はそのプレゼンに、小プロを代表して立ち会うのです。
アメリカでのポケモン関係の出版物のライセンスを持っているのは、後でお話するように任天堂のアメリカ現地法人NOA(米国任天堂)。ですからVIZのプレゼンの相手は本来NOAですが、そのNOAのアプルーバルを経たものも、さらに日本で版権会議のアプルーバルを経る仕組みになっています。だから、その日本の版権会議を主宰する石原がいて、そこに任天堂の川口と小プロの斉藤がいれば、版権会議がやってきたようなもので、これにNOAが加われば、その場で最終的なアプルーバルが得られます。実はそのためのプレゼンテーション会議が、翌日の講演前に設定されており、そこにはNOA本社から、2人の副社長も駆けつける予定でした。サンフランシスコ到着の一日目は、総領事館での打ち合わせ、講演会場の下見の後、

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斎藤裕さん
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小学館プロダクション取締役兼国際部部長。
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アメリカのポケモンコミック
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総領事館主催の歓迎夕食会で閉じました。

NOAの賭け

翌2月4日午前11時前、ダウンタウンにあるVIZ本社に姿を見せたのは、NOA上席副社長マイク福田と、商品開発担当副社長で、ポケモンプロジェクトのリーダーでもあるゲイル・ティルデンの2人でした。
ゲイル・ティルデンは、ブルネットとはしばみ色の瞳を持った、人間的魅力に溢れた女性です。シアトルの広告代理店に勤めていましたが、1983年にNOAに入社し、85年にNOAがファミリーコンピュータをアメリカに導入する際、宣伝キャンペーンとマスコミ対策を担当しました。その後、宣伝担当マネージャーからNOAのユーザー向けフリーマガジン『NINTENDO POWER』誌の編集長を務めたのち、97年に、NOAがポケモンをアメリカで展開することを正式に決めたとき、NOA社長荒川実から、ポケモンのプロジェクトリーダーに指名されました。ティルデンの起用について、荒川はこう話しています。
「ポケモンをやろうということになったとき、社長直属のプロジェクトチームを作ったんですよ。そこから、広告や製造など各部に必要な指示を出していくわけです。そ

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マイク福田さん
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1950年1月3日生まれ、大阪府・(茨木市)出身。名古屋工大卒、東京工大大学院(経営工学専攻)修了。73年、繊維に強い商社「蝶理」入社。86年、NES用ゲー厶ソフト開発資金のソフトハウスへの貸付を始める。1994年3月、NOA入社。1996年、副社長に就任、現在へ至る。
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第3章  アメリカ

うすると、既存の部署の受け持ち範囲を侵すことになって、どうしても軋轢が生まれるんですね。弱い人だとそこで負けてしまうんですが、彼女は、負けないんですよ。負けずに押し返して、仕事をやり遂げました。彼女はね、『ニンテンドーパワー』の編集長に任命したとき、出産した直後だったんですが、出産して3日目か4日目にはもう出社してきて、仕事を始めてしまった人なんですよ」ティルデンは、荒川からポケモン担当を叩じられたときのことを、いまも興奮して話しています。
「信じられなかったわ。だって、こんな素晴らしいプロジェクトが他にあると思う?」
確かにその通りでした。ポケモンプロジェクトは、ゲイルが担当者に命じられてから1年半後には、キャラクタ—ビジネスとしても、ゲームビジネスとしても、世界でもっとも成功したビジネスになったのです。NOAは、日本とアジア以外の世界のすベての地域に対するマスタ—ライセンス契約を小プロと交わしていますから、そのNOAのポケモンチームのリーダーということは、日本とアジア地域を除いて、ポケモンビジネスでもっとも大きなパワーを持った女性ということなのです。そしてティルデンのプロジェクトを後見する立場にいるのが、マイク福田です。小柄ですががっしりした体格の、レイモンド・チャンドラーのハードボイルドに出てきそうな男です。

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ゲイル・ティルデンさん
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ポケモン担当副社長。ポケモンをアメリカに持ち込んだ際、アメリカンマザーの立場から厳しく企画を推し進め成功に導いた。北米での展開は彼女抜きには語ることはできない。
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NINTENDO POWER
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「ゲイルの企画を予算的にバツクアップするというのが、ぼくの仕事です。彼女は、そう、小学生の頃の、言い訳のきかない学級委員みたいな人ですね」福田は、1950年に大阪で生まれました。名古屋工大から東京工大大学院に進み、経営工学を専攻した後、商社の蝶理に入社しました。蝶理では機械部門を担当し、83年に機械部部門担当者としてニューヨーク駐在員になりますが、アメリカでNES(ニンテンドーエンタ—テインメントシステム)と呼ばれるファミコンが100万台単位で売れ始める86年、NES用ゲームソフトを開発するソフトハウスへの融資を手掛けました。
「これが儲かったんですよ。ソフト開発の会社とNOAの間に蝶理アメリカが入って、NOAに前払いするカートリッジの代金を融資するわけです。売れたらそれを返してもらう。リスクもありましたが、儲けも大きかった。このとき、ゲームを評価するということをしたわけですが、難しかったですね」このとき、融資先のソフトメーカーの紹介で、福田は荒川と知り合いますが、荒川は福田の能力と大柄に惚れ込みました。
「92年に帰国命令が出て帰国しましたが、ときどき出張でアメリカにいくと、そのたびに荒川さんが会いに来て下さって、そのうちぼくの力バンまで持ってくれるようになったんです。なんか怪しいなと思っていたら、ある日寿司屋で、仕事がもう手に負

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荒川実さん
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米国任天堂CEO&CHAIRMAN。アメリカを代表する経営者にも選ばれたことのある日本を代表するビジネスマン。日本とは条件も環境も全く違うアメリカでゲー厶ビジネスを定着させ、いくつもの苦難を乗り越え米国任天堂を成功させた。
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第3章  アメリカ

えないから手伝って欲しいと言われました」
この頃までにNESの販売台数は3800万台に達し、NOAは莫大な収益をあげる会社に成長していました。荒川は極力社員数を抑えようとしていたので、これはと思う有能な人物を一本釣りすることが多かったのです。福田は蝶理を退社し、94年3月にNOAに入社しました。2年後に副社長に就任し、現在にいたっています。「普通、アメリカに持ってくるゲームは、日本で発売される頃には、もうUS版を用意しているんですよ。そして数カ月遅れで発売することが多いんです。でもポケモンは、日本で発売された1996年2月当時、まったく何もしていませんでした。それが、われわれの評価だったんです」
福田は、ポケモンについてそう話しています。もしポケモンが、NOAの眼鏡にかなっていたら、日本での展開はともかく、アメリカでの展開はまったく違ったものになっていたでしょう。ポケモンも他のゲームソフトと同じように、任天堂から直接すベての権利とともにNOAに渡されることになって、そこに小プロが介在したり、版権会議が関係したりする余地はなかっただろうからです。そして皮肉なことに、そこに小プロが介在することになったのは、福田も言っているように、NOAがまったくゲームソフトのポケモンを評価していなかったためだったのです。

[[BOTTOM TEXT|
NOA
米国任天堂(Nintendo of America)の略称。「ノア」ではなく「エヌオーエー」と呼びます。それに対応して日本の任天堂は「NCL(Nintendo Company Limited)」と呼びます。ちなみにヨーロッパは欧州任天堂「NOE」(エヌオーイー)です。
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NOAの社長荒川実が、初めてポケモンを手にしたのは、1996年の秋、任天堂スペースワールドの折りに来日したときでした。
NOAは任天堂のゲーム機やゲームソフトを、アメリカ向けにローカライズ(現地向けに改良すること)して販売している会社です。しかし任天堂のゲームをすべてアメリカで売っているわけではなく、専門の調達担当者が、アメリカでヒットしそうな商品を選んでいます。ポケモンはそのリストの中に入っていなかったのです。しかし、荒川がポケモンを手にしたときには、リストに入れざるを得ない状況になりつつありました。だからこそ、荒川も手にとらざるをえなかったのです。それは、ポケモンが日本でブレイクし始めていたからでした。ゲームソフトはすでに200万本の大ヒットになっていましたが、売り上げペースはまだ落ちておらず、それに併せてハードのゲームボーイも月間数十万台という単位で販売台数が伸びていました。さらに10月に発士冗されたカードゲームは、カードゲームそのものもヒットしていましたが、ゲームソフトとの相乗効果が期待されていました。そのうえ翌年の4月からアニメーションの番組も始まるというのですから、荒川には、ポケモンの日本でのヒツトはまちがいないことのように思われました。もしポケモンが大きな規模でブレイクすると、当然日本ではポケモンの生産がメインになります。そうなれば当然、生産ラインの多くをポケモンが占めるようになりま

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第3章  アメリカ

すが、それは、NOAがアメリカ用に選ぶゲームの選択の余地も狭まるということを意味します。ですから、日本でのヒット商品は、早晩アメリカでも扱うしかなくなることが多いのです。
「それで、さっそくアメリカに持ち帰って、社員でテストして見たんですけど、これがものすごく評判が悪いんです」
荒川はこう打ちあけます。
評判の悪さは、まずゲームの面白さがわかるまでに時間がかかることにありました。「そもそもRPGはアメリカでは流行らないと信じられていましたが、一番早い人でも面白いって思うまでに10時間もかかるんですよ。そんなにユーザーはガマンしてくれませんからね」(荒川)
この点は、福田も同意見でした。
「まず、100%失敗すると思っていました」
それだけではありません。ポケモンたちのデザインもアメリカでは受け入れがたいという烙印が押されました。
「キュート過ぎてかわいすぎると言っていましたね。アメリカは、キュートは受けないんです。クールでないと」
ここで荒川が紹介しているクールという言葉の意味は、かっこいいというような意

[[BOTTOM TEXT|
「Cool(クール)」
アメリカ人のいつ「Cool!」という価値判断は、ものすごく広義なのです。かっこよくてもかわいくても実はクールと呼びます。日本の女の子が何を見ても「かわいい!」というように、流行りそうだったりデザインが素敵だったり生キ万が尊敬できても「Cool」なのです。
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味ですが、見栄えのかつこよさだけでなく、内容を伴ったかっこよさのことです。たとえば、努力と才能で成功し、財を成した人を形容するときにも、クールという言葉は使われます。ですから、ポケモンたちはクールではないというのは、かなりひどい言われ方だったのです。日本語で言えば、ダサいに近かったでしょう。「そういう意見が、キャラクターのエキスパートからも出てきたんですよ。後になつて、全然エキスパートじやないじやないかって言ったんですけどね」(荒川)
そこで出てきた意見が、ゲームの構造は受け入れるとしても、ポケモンたちをアメリカ側で描き直してみてはどうか、というものでした。NOAにも開発部があって、やろうと思えば大きな修整も可能でした。荒川は述懐します。
「そこで、ビルの壁なんかに落書きする人がいますね、ああいう絵を描く画家を雇って、いくつか描かせてみたんですよ。でもだめなんですよ。田尻さんと杉森さんのような、ポケモンに対するクリエイティブがないんですね。やるなら、日本のポケモンでいくしかないっていうことになったんです」
その頃には、日本ではアニメが始まり、ポケモンのヒットは加速度を増していました。NOAは、ますますやらざるを得ないという状況になってゆきました。
「でも、やって成功すれば、かなり大きな商売になるんですよ。その頃日本では、ソフトが毎月40万本くらいでしたかね。でもそれだけではなくて、ハードも同じ40万台

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NOAで作成したアメリカ産リザードンのスケッチ
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©SOLO, CASPER, DISROK : ©AEROSOUL ARTS 1997.
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第3章  アメリカ

くらい、黙って売れていってたんです。ですから、次第に本気でやりたい、アメリカでも成功させたいって思うようになっていったんです」
福田はこう話しています。
「日本でのあれだけのヒットを見ていると、もう京都から来る商品の主力がポケモンになっていくのは間違いない。その場合、ポケモンで失敗すると他に売る商品がないという可能性もありますからポケモンは成功させるほかなかったんです」そして、成功させるために必要なあらゆる方法がとられることになりました。「かなりの額の予算を組みました。ちょうどそれまでの数年間、うちは業績がよくて、余裕があったんですよ」(荒川)
その額は明らかにされていませんが、5000万ドルともそれ以上ともいわれています。その額は、アメリカの家庭用ビデオゲーム機市場が崩壊した後の1985年、NES(ファミコン)を市場投入した際に、任天堂がNOAに提供したプロモーション費用の額と同じです。さらに、NOAからライセンスを受けた全米第2位の玩具メーカー・ハズブロその他のライセンシーも総額4000〜5000万ドルのプロモーション費用を投じたといわれています。
「ええ、本当にバクチの気持ちでした。でも、もし日本と同じようにヒツトするものやったら1の投資が100になる。それは賭けとしても面白いですからねえ」(荒川)

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ゲームイラストの リザードン
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こんな話を聞くたびに思い出すのは、あの山内のリコーへのファミコンチップの発注です。
「2年間で300万個の発注を保証してやんなはれ」
任天堂を見ていると、ビジネスというものはこんなに面白いものなのかと、あらためて感じ入ってしまうのです。荒川は言います。
「でもね、一つ救いがありました。アニメのポケモンの評判がよかったんですよ」この点については、プロジェクトリーダーのティルデンも同意見でした。「日本から持ってきた日本語のままのアニメーションの第1話を、そのまま子どもに見せてみた。そうしたら!ちやんとわかってるのよ。だから、これは受けるかもしれないって思ったの」
こうした戦略上の基本方針を固めてから、荒川は1997年11月の任天堂スペースワールドに臨みました。
「ゲームにはかなり大きな不利な点があると思っていましたからね。これを成功させるためには、いまの日本にあるものを全部、そっくりアメリカに持っていくことが必要だと、石原さんと久保さんに話したんです。ゲームの他に、アニメも、カードゲームも、映画も、本も、グッズも、全部です。それがアメリカでポケモンをやる条件になると。そうすれば成功させることができるかもしれない。そこで、全部まとめて持

[[BOTTOM TEXT|
97年11月のスペースワールド
ポケモンが発売されてから一年9ヶ月後におこなわれた任天堂商品の見本市的イベント。テレビアニメが放送開始されてから7ヶ月後。放送事故の3週間前ぐらいのタイミングです。
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第3章  アメリカ

っていけるようにして欲しいと、お願いしたんです」
荒川のこの依頼は、石原にとっても久保にとっても意味深長でした。この時点では、すでに日本国内のライセンスについては、カードゲームはクリーチャーズからメディアファクトリーへ、その他のアニメやグッズなどは、原作者グループから小プロへとライセンスされていました。そのことをもちろん荒川は知っていました。ですから、荒川の発言の意味は、メディアファクトリーと小プロに分れているライセンスを小プロに一本化し、その上で小プロとNOAのマスターライセンス契約を締結したい、ということだったのです。そして、NOAにとっては親会社である任天堂のゲームのライセンスについて、それまで間にエージェントを介在させたことはありませんでしたから、その一本化ができないのであれば、すべてをガラガラポンにしてしまうぞ、というある種のプレツシャーをかけるという意味合いもあったかもしれません。なぜなら、仮にエージェントを使うにしても、NOAには、それが小プロである必然性はまったくなかったからです。
荒川の提案は、石原にとっても難問でした。なぜなら、クリーチャーズがメディアファクトリーに与えているライセンスは、地域に制限のない全世界向けになっていたからです。メディアファクトリーは、世界中どこででも、自由にカードゲームを売る権利を持っているのです。しかし荒川の希望を受け入れると、アジアを除く海外での

[[BOTTOM TEXT, pt 1|
アメリカで展開する意味
荒川さんからアメリカで展開したいと聞いたときは、正直不安でいっぱいでした。アメリカは広大で何をするにもお金がかかります。それだけの投資に見合う仕事が自分にできるのかということに全く自信がなかったからです。確かに学生時代に一年ちよっとロサンジェルスに住んだことがありますから、アメリカのことはなんとなく肌で分かります。普通の日本人よりは英語もジョ——クも話せます。でもそれだけに、この仕事が難易度が高いことは最初から分かっていました。ただ、以前より荒川さんとは仕事をしてみたかったので「どうしたもんだか……」というのが素直な感想でした。
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頒布権がNOAに移ってしまいます。それだけではありません。メディアファクトリーは、下位のライセンス希望者に自由にライセンスすることができ、世界戦略のマス夕ープランを自らの手で策定できますが、それも不可能になります。海外戦略については、手を縛られてしまうのです。それをメディアファクトリーが、二つ返事で受け入れるはずはありませんでした。
一方の久保にとっては、それが難問であることは変わりませんが、やりがいのある難問だったでしょう。ライセンス統合という意味では、荒川の希望が実現できれば大きなー歩になるからです。小学館としては、もちろん小プロにすべての権利が集約されることが理想ですが、久保としては、石原の判断に異を唱えるつもりはありませんでした。ただ、ポケモンビジネスのプランを立てていくとき、現状ではマスタープランが2カ所から出てくる形になっているのです。ポケモンビジネスを全体の連動によって進めようとするとき、そこに歩調をそろえるむずかしさが出てくる可能性があったのです。
ある意味では、荒川の依頼は、日本でのポケモンの権利関係の急所を衝くものでした。ポケモンの権利者は、ゲームソフトとアニメーションに関しては、任天堂、クリーチャーズ、ゲームフリークがそろっています(アニメではこれに小プロ、ジェイアール東日本企画テレビ東京が加わります)が、カードゲームに関しては、キャラクタ

[[BOTTOM TEXT, pt 2|
荒川さんからお話を頂いてから3週間後、ぼくらは光点滅の放送事故に遭遇しました。その後すぐにテレビアニメは放送中止になったので、ポケモンのアメリカ進出はさらに難易度が上がりました。うがった見方をする人は、事故で海外の認知度が上がったと言いますが、現実には抵抗感を持つ人が増えたわけで、それはいきなり高飛びのバーが5mを越えた感じでした。事故直後、関係者は、次のように考えていました。①最悪のケースなら日本ではもう放送できないかもしれない。②放送再開のためにはイギリスのITCなど、何らか海外の基準との調整が必要。③ゆえに国内の動きだけでは再開到達は不可能。
アメリカ展開は、そのよう
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第3章  アメリカ

ー使用については3社の©になっていますが、原作者はクリーチャーズ1社で、そこからライセンスがメディアファクトリーに出ています。そこに将来問題が生じる可能性があると、荒川は考えていました。
「アニメはここ、カードゲームはあそこというふうに、権利を持つ会社が増えていくと、一つの大きなプロジェクトを動かしていくのが難しくなりますからね」荒川は、そうした問題が生じる可能性のない形でライセンスを取得しようと考えていたのです。
小プロにとっては、荒川の提案を待つまでもなく、アメリカへの進出はかねてからの念願でした。実は、任天堂との契約を終え、アニメが放送されるようになるとすぐに、小プロから久保のもとへ、アメリカ進出について、原作者グループに対して企画書を提出したいという打診があったのです。久保はこう話しています。「そのとき、ロが裂けても言うなと言ったんです。アメリカという国は広大です。そこで物を売るというのは、プロモーションに莫大な費用がかかるのです。仕事量も膨大です。それはとてもうちのような出版社一社でまかなえるようなものではないでしよう。でも、言い出したらしなければならなくなります。待つしかなかったですね」そして、それをNOAが言い出したわけです。小プロは、交渉を開始しました。困

[[BOTTOM TEXT, pt 3|
な状況下では、はるかに重要さを増してきます。
国内は放送できなくてもアメリカで放送できるようになれば、①放送休止中も製作していたアニメ作品が無駄にはならない。②アメリカで放送している事実は、放送事故はポケモンのせいという勘違いした意見と対抗できる。③アメリカで放送することで日本の世論が高まり、再開がより現実味をおびてくるのではなどと考えました。
幸いな事に放送事故対策は年末を迎える頃には落ち着いてきました。事故の原因究明が進むにつれて、これは放送のテクニカルな問題との認識が広まっていったからです。日本国内の放送再会のためにアメリカで放送する必要性は薄まりましたが、交渉は休む
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難な交渉でしたが、小プロにとっては本格的な海外進出を果たす絶好のチャンスでし た。
しかし、その交渉の最中に、ポケモンのテレビアニメによる事故が発生したのです。 しかしむしろ、アメリカ側の反応は冷静でした。荒川によれば、「すでにアメリカは、 ビデオゲームのプレー中に、癲癇の発作が起きるという事例を経験していたので、光 の刺激による発作があり得るという知識はあった」のです。
この事故は、アメリカでも大きなニュースとして取り上げられましたが、比較的正 確に事故の内容について報道されていたのです。また、その発生する確率にも触れ、 日本の700人を超える子どもたちが倒れたということから、いかに大勢の子どもた ちが、ポケモンのアニメを見ていたかが想像できるとし、そんなに大気があるポケモ ンとは、いったいどんなゲームなのか?という捉え方をするメディアもあったので す。
アメリカのメディアは「良いニュースも悪いニュースもニュースはニュース」とい う考え方が一般的です。皮肉な事実ですが、テレビアニメの放送を見ていた子どもた ち700大以上が倒れたという事実は、ポケモンとテレビ東京の名を、一気に世界中 に認知させるという、制作グループの気持ちとは裏腹の効果があったのです。 そして、交渉は妥結しました。年が明けて1998年になってからのことでした。

[[BOTTOM TEXT, pt 4|
事なく進みました。
僕と小プロのワーキングチ ー厶は日本がお正月休みにな るのを待って、ー月3日、緊 急渡米しました。アメリカは お正月休みがないので4日か らすぐに契約交渉が可能だっ たからでした。
荒川さん自ら出席する会議 で契約交渉は進みました。そ れはまるまる2日間に及ぶハ ードな交渉でしたが、長時間 膝をつき合わせたことで、NOAが何を求めているのか? どう展開したいのかがよく分 かりました。小プロとNOA は仕事をした経験がないので なるべく早い時期にお互いに 信頼感を形成する必要があり ました。
現在、世界中で放送されて いる事実は、信頼関係が成立 した証拠です。
]]

第3章  アメリカ

小プロは、カードゲームについてはメディアファクトリーのライセンシーとなる契約を交わしました。その上で、カードゲームを含むポケモンについてのすべての権利をライセンスするマスタ—ライセンス契約を、NOAとの間で交わしたのです。ポケモンのアメリカでの成功は、この契約によってNOAがポケモンに関する一切の権利を持ち、それらを自由に使用してプロモーション戦略を練ることができた結果といってもいいでしょう。

スヌーピーとポケモン

話をサンフランシスコへ戻しましょう。VIZの本社オフィスはロフトで、木材をふんだんに使用した内装が施されています。その一階にある木の香りのする会議室で、VIZのプレゼンテーションは始まりました。社長の堀淵はライセンスを受けた出版物の売上実績を報告した後、この日のプレゼンテーションの最大の目玉となる企画を提案しました。プレゼンテータ—は、VIZのアメリカ人スタッフでした。
「新聞のシンジケータ—から、新聞の連載コミックストリップ(4コマ漫画)にポケモンを、という希望がきています。ポスト・スヌーピーを狙えるチャンスです」
スヌーピーは、言うまでもなく、チャールズ・M・シュルツ描くアメリカの漫画「ピ

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VIZ (ビズ)
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サンフランシスコにある小学館の現地法人。ポケモンのビデオと関係書の出版で急成長した。
]]

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ーナツツ」シリーズから生まれた、ディズニーのミツキーマウスと並ぶ世界的キャラクターです。作者シュルツは77歳になっても新聞連載漫画を描き続けていましたが、病に倒れ、2000年1月3日付の新聞以降、連載がストップしていました。VIZスタッフの説明によれば、当面の連載は、全米2000紙のうち、スヌーピーの作者チャールズ・シュルツの病状悪化にともない4コマ漫画・ピーナツツが終了になる新聞がある。その数はおよそ200紙になる予定だというのです。連載からの収益は小さいが、その単行本化による印税収入が大きく、それはピーナッツと同じ手法だということでした。また、全米200紙の連載が実現した場合、その広告効果は約20億ドルに相当することもプレゼンには付け加えられました。
この時点でのVIZの構想では、まず初めに月曜から土曜のモノクロのコミックストリップからスタ—卜し、日曜版はカラー漫画となります。VIZが考えていた素材は、すでに小学館の『コロコロコミック』や学年別学習雑誌から出版されているポケモンの4コマ漫画でした。月に24日分24本の素材が必要になりますから1年分で288本ですが、すでにそれだけのストックはあるということでした。もしそれが実現すれば、新たな手間をほとんどかけずに、非常に有利なメディアを手に入れることができます。
しかし、そうはいきませんでした。プレゼンの討議の一部をご紹介してみましょう。

[[IMAGE CAPTION 1|
1964年3月3日、東京生まれ。前職は小学館の編集者。96年10月ビズコミュニケーション入社。編集部、ビジュアルエンタテインメント部、マーケティング部担当の副社長。
]]
[[IMAGE CAPTION 2|
成田兵衛さん
]]

第3章  アメリカ

石原「新聞の持つ力はどれくらいありますか?」
VIZ「毎日出ていることの効果は計り知れません」
石原「この小学館の単行本は、学年誌や子ども向けだからこれでもいいかということでアプルーバルしたもの。この程度のものが毎日出ることが、ポケモンにとって、それほどいいことだろうか?」
ティルデン「ただあるものを右から左へ使うというのではなく、マーケティングのエ夫を続けて欲しい」
石原「新聞には、ぜひトライしてみたいけれども、それだけにしっかりした中身にしていかないといけないと思う」
福田「正論ですね。まったく反論の余地なしです」
VIZ「きちんとしたものを出したいのは山々ですが、時間がありません。このタイミングは逃したくないのです。いまが絶好のタイミングです」
川口「タイミングというのはわかるが、内容の詰めは、やはり石原さんがおつしやる通りだと思う」
石原「アメリカの社会を反映しつつ、世界に通用するものが描けるレベルのクリエー夕ーでないと」

[[IMAGE CAPTION 1|
小林久美さん
]]
[[IMAGE CAPTION 2|
京都生まれ。広告代理店、ホテル勤務など経て、—994年11月ビズコミュニケーション入社。ライセンシング部、人事部担当のシニア•ディレクター
]]

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久保「原稿のストツクの話でいうと、大切なことは、1カ月に24本くらいの量は、漫 画家にはOKな仕事だということ」
石原「日本でこの話をすれば、山のように描きたいという手が挙がるでしょう」 VIZ「しかし、時間的には、本当にぎりぎりのところなんです」 石原「でも、本当に、このサンプルでいいの?」
VIZ「……」
久保「やれるよ。その制約がモチベーションにもなる。キャラは決まってる。ゲーム ストーリーはある。白紙から作れと言ってるわけじやないし。どうやったら最短でい いものを作れるかって考えないとダメだね。それができなければ、この話はなしでし よう。問題はアイデアだから、それをラフコンテに描いて、3月の東京トイショーで みんなに見せて、OKならゴーという形がいいんじやない。新聞でやることに誰もノ ーとは言っていないんだから」
石原「新聞は、ゲーム、アニメ、カードに並ぶ大きなもの。それだからこそ、流用で しのぐようなことはすべきではないと思います」 「ピーナッツ」の連載は、ついに再開されることはありませんでした。シュルツがこ のプレゼンの日から1週間後の2月12日に死去したのです。1950年に始まった
[[IMAGE CAPTION 1|
アメリカで新聞に掲 載されたポケモンの 4コマまんが
]]
[[IMAGE CAPTION 2|
原案・ジェラルド・ジョーンズ絵・伊藤あしゅら紅丸
]]
[[IMAGE CAPTION 3|
Original illustration and story by GAME FREAK
]]
[[IMAGE CAPTION 4|
©1995, 1996 and 1998 Nintendo, CREATURES, GAME FREAK TM & ® Nintendo
©2000 Gerard Jones/Ashra Benimaru/Viz Communications, Inc
]]
[[TEXT IN COMIC|
MAYBE I NEED TO PUT A LITTLE MORE AUTHORITY INTO MY VOICE...
]]

「ピーナッツ」の連載は、日刊紙は1月3日付が、日曜版は2月13日付が最後になりました。
ポケモン漫画はその後、原作ジェラルド・ジョーンズ、作画伊藤あしゅら紅丸に決定し、2000年9月10日、全米十数紙で連載が始まりました。VIZは、当初の計画通り全米200紙を目指しています。
伊藤は、自分がアメリカのメジャーな漫画家の仲間入りをしたことについて、次のように話しています。
「そんな意識はありません。ぼくがえらいわけじやないんですよ。ポケモンが評価されただけなんです」
新聞の漫画になったからといって、それがスヌーピーのような長寿キャラクターになることを意味しているわけではありませんが、その条件の一っとは言えるでしょう。アメリカでのポケモンのイメージのステップアップであることは間違いありません。ポケモンにとっては、大きな一歩でした。

ポケモン講演会

VIZではプレゼンテーション終了後、コンピューターとゲーム専門のテレビ局と、

[[TITLE OF COMIC|
Pokémon
]]
[[TEXT IN COMIC 1|
PIKACHU! GET IN YOUR POKÉ BALL!
]]
[[TEXT IN COMIC 2|
YOU'RE A POKÉMON AND I'M YOUR TRAINER AND VOU HAVE TO GO INTO THAT POKÉ BALL WHEN I TELL YOU TO! YOU'VE GOT 10 SECONDS!
ONE... TWO...
]]
[[TEXT UNDERNEATH COMIC|
CAN YOU FIND...PIDGEOTTO?
]]

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やはり同じ専門誌が、3人のインタビューを取りにやってきました。そのーーつの取材が終わったのは午後5時過ぎで、もう講演会場に向かう時間になっていました。オフィスを出てみると、玄関前にフォルクスワーゲンビートルをベースに装飾が施されたピカチュウカーが駐車していました。アメリカでアニメ放送が開始される直前のプロモーションで、カンザス州トピーカ市が1日だけ「トピーカチュウ市」と名称を変えたときに、全米10都市に向かって走っていったピカチュウカーの1台です。講演会場にディスプレーするために、NOA社員クリス・マッギルがロサンジェルスから回送してきたものでした。
日本からは、久保がポケモンの立体像を、講演のために持ってきていました。ピカチュウ、トゲピー、ヒトカゲの3体です。ぬいぐるみではなく、プロモーション用に製作された頑丈で大きなものです。ヒトカゲはそのままでは大きすぎて運べないため、分解して大型ダンボール箱に入れて持ってきました。ダンボールの数は全部で6個ありました。誰かがいい出したことではありません。久保が、アメリカの子どもたちに見せたいと言って持ってきたのです。ピカチュウカーとともにサンフランシスコの日本大街にある、会場のラジソン・ミヤコホテルに着いてみると、すでに持参したポケモンたちは組み立てられて、来場者を出迎えていました。

[[IMAGE CAPTION 1|
ピカチュウカー
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サンフランシスコの講演会のようす
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第3章  アメリカ

講演会は、この日午後6時過ぎに始まりました。350人分の椅子が用意された会場はほぼ満員でした。子ども連れの家族は10分の1ほどだったでしょうか。あとはほぼ同じくらいのハイティーンたち。そして過半数は、PTA世代のようでした。親たちがポケモンを理解したいと思っているのです。日本語の会話もあちこちから聞こえていましたから、日本人も相当数いたと思われます。
まず3人の講演者が1人ずつ紹介された後、川口が一番手として、京都弁特有の柔らかなイントネーションで、話し始めました。
「まず、みなさんにお礼を申し上げたいと思います。このアメリカで、日本のポケモンというキャラクタ—を、みなさんが暖かく迎え入れた下さったことに、本当に感謝しています」
川口のこの切り出しに、ゲイル・ティルデンはいくらか不満だったかもしれません。彼女は、プロモーション開始以来、ポケモンを「グローバルキャラクタ—」と位置づけているからです。
「子どもたちには、できるだけ日本からやってきたキャラクターだということを、感じさせないように気をつけました。ローカライズもそのためです。それは、日本製であることを隠すという意味ではなくて、ポケモンがグローバルキャラクターであるという印象を与えたかったから。だから、アメリカ製だと思わせようともしていないの。

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世界中のどの国の子どもたちが見ても、違和感のない、グローバルなキャラクタ—に育って欲しいんです」
一般には、ポケモンが日本生まれのキャラクターだと知らない子どもはあまりいないかもしれません。ですが、キャラクターをみている限り、いわゆる伝統的な日本というものを感じることはないでしょう。というよりも、そうした日本的という考え方自体が、強い先入観の表われなのかもしれません。素晴らしいゲームソフトを見て「日本的だ」と感じる世代が、いま、世界中で育っているのかもしれないのですから。講演の二番手は、石原でした。司会者の紹介を待つまでもなく、聴衆は敏感に石原にクリエータ—の風貌を感じ取り、激しい拍手が沸き起こりました。クリエータ—は、アメリカではどこでもヒーローです。田尻が1月末に体調を崩して渡米がキャンセルされたため、石原はクリエータ—として2人分のプレツシャーを受けることになりました。
「ポケモンは、閉じていないゲームです……」
静かな口調で語る石原の話に、聴衆は聞き入りました。
「……それでぼくたちは、ピカチュウは世界共通の名前としておいて、日本語のポケモンの名前を、ただ訳すというだけでなく、その国ごとにふさわしい名前を選んで、1匹ずつ付けていったわけです。英語や、中国語やフランス語です。そのために、ぼ

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二ヤースのパーティーCDシングル
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二ヤースのパーティーCG映像
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第3章  アメリカ

くたちは500ものポケモンの名前を考えなければならなくなりました」開発にまつわる話に一区切りついたところで、石原はお土産を披露しました。持参したサブノートパソコンを会場のプロジェクタ—につないで、日本でもまだ未公開だった新曲『ニャースのパーティー』のCG映像と、日本で2000年夏公開予定のポケモン映画第3弾『ポケットモンスター結晶塔の帝王』の予告編を上映したのです。アメリカ公開は2001年夏の予定でした。スクリーンでは、ニャースがパーティー会場のステージでエレキギタ—を弾きながら歌っています。

♪ みかづきがたのとくべつチケットに
きんいろぎんいろクレヨンて
「二ヤースのパーティー」ってかいたなら
ききゅうにのってばらまくの二ヤ
(『二ヤ—スのパ—ティ—』より)
✱ 『ニャースのパーティー』歌…ニャース、ムサシ、コジロウ作詞…戸田昭吾作曲・編曲…たなかひろかず

聴衆は、憧れの表情を素直に表して、スクリーンの映像と音楽に目と耳を奪われて

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「劇場版ポケットモンスター結晶塔の帝王」予告編
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©Nintendo • CREATURES • GAMEFREAK • TV TOKYO • SHO-PRO • JR KIKAKU
©ピカチュウプロジェクト2000
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いました。
(ナレーション)
劇場版『ポケットモンスタ—結晶塔の帝王』、世界に先駆け、2000年夏、全国東宝洋画系にて、公開!

言葉のいらない映像の力を、まざまざと見る思いでした。聴衆は、このわずか数分 の映像を見ただけでも、来たかいがあったと思って帰るでしょう。 その余韻がまだ残るなか、久保が紹介されました。
「みなさ一ん、こんばんは。映画、見てくれましたか?もう見たっていう人は、右 手を挙げてください」
訳せばきっとこうなるでしょう。そんな口調で、久保は素朴な発音の英語で、ゆっ くりと聴衆に語りかけました。会場は、一気にコミック系の世界に入りました。 「ぼくは、人の体の仕組みや、世界経済や、歴史を、漫画で学んで育ってきました」 久保もお土産を用意してきていました。『ポケモン成功の秘密』と題した、正味10 分ほどのビデオ映像です。映画『ミュウツーの逆襲』とその英語版『ポケモンザファ ーストムービー』の違いなど、ポケモンがアメリカに上陸してから成功するまでの軌 跡を、アニメ映像を中心に描いたものでした。これも聴衆をぐっとつかみました。こ

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「ポケモン成功の秘密」
の1シーン
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第3章  アメリカ

れは久保が自分でカット割りを描き、それを小プロが保存フィルムから編集して出発の前日に完成したものですが、アメリカ講演で評判がよかったために、これ以後日本でも何度も使用されることになります。
三者三様の、持ち味を生かした講演会は終わりました。福田とティルデンは、講演会後の質疑応答が始まると最終便で本社に帰るため、会場を静かに去ってゆきました。その日の夜は、VIZ主催の夕食会でした。会場のレストランにつくと、参加者に「ポケモンギャング・スペシャルディナー」と書かれたメニューが配られました。参加者は、講演者3人、VIZのスタッフ、小プロの斉藤裕、それに任天堂広報課係長の皆川恭廣、クリーチャーズ社長秘書で経営企画室室長の川村久仁美らを含め、総勢16人の一行でした。講演した3人は初めてのアメリカ講演を無事務め上げた開放感からか、いつにもまして快活でした。それは、彼らにとって特別な1日だったに違いありません。誰が言い出すともなく、夕食会のメニューシートが席から席へと回り始めました。石原と川口は、平明にサインしました。久保は、数カ月前に手を離れた『コロコ口コミック』のロゴを書きました。ポケモンギャングの寄せ書きが出来上がり、堀淵が講演者3人に手渡しました。

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寄せ書き入りの「ポケモンギャングスペシャルディナー」のメニュー
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