Pokemon Story/Chapter 2/Subchapter 4: Presentation

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4  プレゼンテーション

企画書

ポケモンカードゲームが誕生の準備をしていた1996年夏、ポケモンにかかわるもうひとつの重要な企画が動き始めました。
ポケモンのアニメーションです。
企画したのは、久保を中心とした『コロコロコミック』編集部でした。編集部での方針決定を受けて、久保は「ポケットモンスタ—1996〜1998連動企画書」と題する企画書をまとめ上げます。企画書は、小学館コロコロコミック名で作成され、9月26日木曜日、任天堂に提出されました。提出先が任天堂だったのは、前にもお話したように、当時はポケモンに関する案件はすべて、任天堂が窓口の役割を果たしていたからです。
このとき提出された企画書の写しが、小学館キャラクタ—企画室に保存されています。それを見ると、まず目を引かれるのは内容よりもその形式です。型破りと言ってもいいでしょう。表紙をめくった企画書の1ページ目に、久保はこう書いています。

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ポケットモンスター
1996~1998
連動企画書
(表紙)
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第2章  ブレイク

「まずは、『ポケットモンスター』100万本突破おめでとうございます。ポケモン関係者の方々に、深い敬意の念を表したいと思います」まるで手紙のような書き出しです。それに続いて4項目で構成された企画内容が4ページにわたって提案されていますが、それぞれの項目タイトルも、書き出しと同じように一貫して問いかけるような口語体です。その項目タイトルを拾ってみましょう。
①ポケモンのこれからは……?
②『ポケモン64』は、どうすれば確実に成功するのか!?
③ミニ四駆と同じTVアニメのシステムを『ポケモンTVアニメ』に流用しては?
④仮にポケモンTVアニメが成立した場合、このような番組になります。

4項目いずれも原文のままです。これらの項目を読むだけで、この企画書がどのような目的で立案されたか、つまり久保が何を言いたいのかということが一目瞭然です。それはそれぞれの項目の本文も同様です。たとえば①ポケモンのこれからは……? という項目は、次のように始まっています。
「カスタマイズ・育てる・戦略がある・初級者にも勝つチャンスがある……と小学生にとってブームとなる要素の大部分を持って生まれたポケモンですが、これからいっ

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たいどうなっていくのでしょうか?」
なるほど、とうなずかされます。それが期待であるにしろ不安であるにしろ、ポケモンはこれからどうなっていくのか、という素朴な疑問は、すべてのプロモーション活動の原点です。しかしそれをこれほど率直に表明している企画書も珍しい。その当たりの柔らかな口調から、読むものはひとつの久保ワールドへと誘導されていきます。同時に、企画提案者の飾り気のない思考の流れを追えるということは、読む側の安心感や信頼感にもつながります。そして最終の4ページ目の末尾は、次のように締めくくられています。
「末筆ながら、貴社の益々のご発展をお祈り致しております。小学館コロコロコミック編集部久保雅一」
「末筆」という言葉からもおわかりのように、この企画書はまさしく手紙として書かれていたのです。手紙の形式で書かれた企画書。それはとても珍しい企画書のスタイルでしょうが、自分の気持ちを相手に伝えるという目的を達するには、なるほど手紙ほど適切な形式はないかもしれません。逆に、なにかを伝えたいと思えば思うほど、その文は手紙に似たものになっていくのかもしれません。
ただ現実には、それは一般的ではありません。なぜ一般的でないのか。その理由は定かではありません。もしかすると理由などないのかもしれません。ただ単に、企画

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第2章  ブレイク

提案者個人の考え方や人柄などを感じさせる用語や言葉遣いを極力避けた文書を見慣れているために、書き手の個性を感じさせるビジネス文書を一般的ではないと感じるだけなのかもしれません。
では、その一般的な企画書とはどんなものなのか。ちょうどここに時期は少しずれますが、同じポケモンのプロモーション展開を提案した別の企画書があるのでご紹介しましょう。
この企画書を作ったのは、ある大手広告代理店です。ごくオーソドックスな企画書です。表紙には「99年度ポケモンムーブメントに伴う戦略企画」というタイトルがっけられています。久保の企画書と同じようにA4サイズで表紙と本文3ページというものですが、空白を多く取っているので、実際の文字量は久保のものと比べると半分にもならないでしょう。
表紙をめくって1ページ目を開くと、すぐに項目の列挙が始まります。あいさつ文の類はもちろんありません。企画書としてはこの方が普通でしょう。各ページには項目ごとにタイトルが付いています。その項目タイトルと内容を挙げてみましょう。

•99年度「ポケモンムーブメント」に伴う戦略の方向性
•1998年ポケモンに関する出来事

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•1999年ポケモンムーブメントに伴う戦略の方向性
•99年度展開スケジュール
•春〜ポケモンスプリングフェスティバル99
•夏〜第4回ポケモンリーグ全国大会
•ポケモンスプリングフェスティバル99展開スケジュール

これでおしまいです。最終ページに当たる3ページ目はスケジュール表になっています。結びのあいさつも、もちろんありません。
二つの企画書の違いは、こうした形式だけでなく本文の文章を比べてみると、もつとよくわかります。たとえば、久保の企画書から引いた一文と同じように、広告代理店の企画書からも、1ページ目の総論に当たる部分の一文を抜き出して見ましょう。「1999年のポケモンムーブメントに伴う戦略としては、発売予定ソフトを単体ではなく組み合わせてプロモーションを行い、相乗効果を得ることで、第2期ポケモンブームを作り上げていくべきである」
いかがでしょうか?その違いは感じていただけると思います。しかしここで二つの企画書を比較したのは、その間に優劣をつけるためではありません。久保の企画書からは、立案者の顔が見えてきます。本人と面識があれば、この企画

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第2章  ブレイク

書を読んでいるだけで久保の話し声さえきこえてきそうな気さえします。また、たとえ面識がなくても、企画書を読む中でその企画書の立案者がどこから発想し、何を考え、どうしたいと言っているのかという思考の流れを追うことができます。もちろんその評価は、企画書の提出先によって違うかもしれません。久保が書いた企画書のような人間臭さが漂う企画書を嫌うクライアントもあるでしょう。ですから、久保の場合は幸運だったと言えるでしょう。川口をはじめとする任天堂も、石原も、田尻も、こうした久保の流儀を受け入れたからです。
というより、受け入れやすい背景があったということになるのかもしれません。任天堂の社員は、しばしば「うちは〜という会社ですから」という言い方をします。そのルーツを探っていくと、山内が社長就任後間もなく打ち立てた「任天堂は家庭用娯楽メーカーに徹する」という社是に行き着くことになるのですが、会社としても、社員個人としても、他者の「らしさ」や「流儀」に寛容な一面を持っているのです。それは石原にしても田尻にしても同様です。彼らは自分のクリエイティブと同じように、久保の「らしさ」に敬意を払ったということになるでしょう。そして実際問題としても、久保が自分の考えを自分の言葉で書きつづった、したがってとても人間臭いこの企画書は、誰にとってもとてもわかりやすいものだったのです。ただ、たしかに久保の流儀で書かれたこの企画書はわかりやすいと好意的に原作者く評価されている企画書ですが、手紙のような文体を採用した目的はもう少し別の所にあります。書いた本人から言うと、相当考えて書いたことは事実です。ただ、相手を口説くための戦略的思考からあの文体を選んだわけではありません。

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アニメの企画書
上記の文章では人間くさこの企画は多分断られる。もしOKがでてもそれには時間がかかるとい一っことが最初から分かっていました。なぜなら任天堂は、自社キャラク夕ーを映像化して成功した経験をそれまで持っていなかつたからです。最初は「ノー」というのが普通の反応です。断られる可能性が非常に高い場合、普通、断られた後の事を先に考えます。断られた
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たちに受けとめられましたが、それと企画内容を受け入れることとは別問題でした。ポケモンをアニメにしたいという久保の企画はそう簡単には実現しなかったのです。

アニメ化への抵抗

久保がポケモンのアニメ化を考え始めたのは、ミュウの2回目の誌上プレゼントを終え、『コロコロコミック』編集部が、別冊で連載していた『ふしぎポケモンピッピ』を『ポケットモンスタ—』というタイトルで月刊の本誌へ格上げすることを決めた96年8月でした。ゲームソフトの本数自体は、まだ80万本程度でしたが、久保は連載コミックの人気と誌上プレゼントへの子どもたちの反応の強さを見て、ポケモンが持つ高いポテンシャルを確信しました。漫画雑誌編集者としての勘です。そしてその勘の裏付けを取ろうと売れ行き状況を仔細に眺めてみると、発売から半年が過ぎた8月の時点でも、ポケモンは専門店ルートだけで毎週2万本以上の売れ行きを維持していることがわかったのです。たしかに爆発的なヒットではありません。しかし久保は、ポケモンが水面下で静かにパワーを蓄えているような気がしました。波というよりうねりです。なにか適切なきっかけを与えれば、蓄えられている膨大なエネルギーが、一気に噴き出すかもしれません。

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ことに腹を立ててけんかしたり、出入り禁止になったのでは、結局OKされるまでにもっと時間がかかってしまうことは明白です。その上僕じやない人間がこの企画を持っていってしまう可能性すら生まれてしまうのです。ポケモンには昔も今も、ものすごい愛着があります。それだけは避けたいと思いました。ですので、創案時には、正面からぶつかって無理やり説得するタイプの企画書はやめようと思いました。任天堂は義理堅い会社ですが頑固な面もあります。正論を振りかざし追い込んでしまってはOKになるものもなりません。反対に、極力断りづらくなるような、後に引くような企画書を目指すことにしました。結局できあがった書類は、
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第2章ブ  レイク

「定石通りといえば定石通りですが、そのきっかけになるものとしては、アニメをおいて考えられませんでした。漫画編集者としては、人気の漫画ならそのキャラクターを動かして見たいと思うじゃないですか。動かしたら、なにか変わるんじゃないかと思ったんです。だって、『コロコロコミック』が100万部を超えるといっても、テレビの視聴率でいうと1%ちよつとにしかならないわけです。1パーセントはいま80万人くらいの計算ですから。もし視聴率が2ケタということにでもなれば、800万人が見るということになります。そんな世界を作ってみたいって思ったんです」久保はまず上司の第9編集部部長の河合常吉に話して内諾を得ました。ここでいう内諾は、河井の承認というだけでなく、アニメ化の企画を小学館としてオーソライズしたということです。この手続きは重要でした。本当にテレビアニメを作ることになれば、小学館だけでなくグループ会社である小学館プロダクション(以下小プロ)の協力など、小学館グループ全体によるバックアップが必要になるからです。その上で、久保はポケモンの関係者に順次それとなくあたり始めました。
「ええ、久保さんから、96年8月頃かな、ポケモンをアニメにしたいんだけどって話がありました。そのとき、なるほどそういうステツプでいくのか、と思って感心しましたよ。神田の任天堂東京事務所の廊下での立ち話だったかな。それに対してぼくは、ああ、それは面白いんじやないですか、と答えました。でも、それは立ち話であって、

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その時点までの自分の正直なポケモンに対する想いを文体にしたものでした。この企画の可否に関わらず嫌われないことを指向したものと言えるでしょう。この企画書の目的は、もし将来的にアニメ化にすることがあれば、「あの時あんなにやりたいと言っていたのだから、久保にやらせてみよう」と言ってもらえるようにすることでした。
アニメ化することには本当に自信があったしやってみたかったわけですが、石原さんや川口さんに嫌われてまでやろうとは考えていませんでした。
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会社として本当にアニメ化を考えるとなると、対応はまた違ってきますよね」(川口)
実際、任天堂は態度を保留しました。それは社内に賛否両論があったからですが、どちらかといえば、否定的な意見が優勢でした。
「任天堂内には賛成論もありましたが、当然慎重論もあったわけです。慎重論の代表的な意見は、失敗したらどうするんや、ということですね。失敗した場合の影響を心配していたわけです。もしアニメで失敗したら、ゲームの人気にも大きく影響して、せっかく伸びてきているゲームの売り上げがストップしてしまうかもしれませんよね。せっかく発売以来、順調に伸びてきているんだから、そんなリスクを犯してまでアニメ化する必要はないだろうっていうことですよ。ビジネスをしていく上では、当然の発想です。アニメが失敗する原因はいっぱいありますよね。視聴率が悪いという場合もあるでしょうし、アニメの質が悪いということもあるかもしれないし、内容に不適切な個所があってクレームが付くかもしれないし、久保さんが以前経験されたように、テレビ局や広告代理店の都合で突然放送が中止になるかもしれない。なにが起きても不思議はないですよね。そしてそういう問題はわれわれにはタッチできません。でも理由がなんであれ、失敗は失敗です。アニメをやるということは、そういうリスクを背負い込むということになるわけですよ」(川口)
しかし、任天堂は感触は悪かったにせよ、はっきりとノーと言ったわけではありま

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小学館プロダクション
小学館の100%子会社。映像製作、ライセンス、出版販売、イベントプロモートをおこなっているメディア事業部と子供向け幼児教育や英語教室、老人向けパソコン教室などを企画運営しているスクール事業部がある。社長は元小学館取締役•高石哲夫。
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第2章  ブレイク

せんでした。真つ先に、それもはっきりとノーと言ったのは、石原のクリーチャーズでした。クリーチャーズの取締役でイラストレータ—の伊藤あしゆら紅丸は、このときのことを次のように話しています。
「キャラクター寿命の消費を加速するのが、すごく気がかりだったんです。アニメ化のお話をいただいた時点では、ポケモンにはまだそこまでの体力がないだろうと判断したんです。これから長く売っていこうねって話していたときでしたから。アニメ化して、一時的にそこそこスマッシュヒツトになったとしても、終わった時点で人気が断たれちやうのが、他のアニメの例からわかっていました。だから反対したんです」ポケモンの「体力」と伊藤が言っているのは、久保がアニメ化の企画を立てた96年8月の時点では、ポケモンはまだ100万本に到達しておらず、マーチャンダイジングの話も、バンダイのガシャポンなど数件に過ぎなかったことから、安定的な人気とは言えないと判断していたということです。
「具体的にいうと、あの頃すでに、やがてポケモン金銀となるポケモンの続編やポケモン64の開発を計画していたのですが、まだその完成も発売時期も見えない状態でした。ですから、もし、それらの発売前にアニメが終了してしまうようなことになってしまったら、アニメ化の意味がまつたく逆になってしまいます。そういうリスクを負うことには反対だ!ということだったんです」

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伊藤は、前にお話したように、エイプ時代に石原と知り合ったイラストレーター兼漫画家で、クリーチャーズの設立メンバーの1人です。職業柄、テレビアニメの仕事にも携わったことがあり、当時のクリーチャーズでは、アニメ業界にもっともくわしい人物でした。
「ぼくもアニメ産業にいたことがあるのですが、そこではみんなアニメ化する材料を鵜の目鷹の目で探してるわけです。で、ちよつと目につくものがあるとすぐにアニメ化するんですが、うまくいかなかったら、ハイさよならってワンクール、ツークールで終わったりしてました。そんな制作体制では、ちよつとなあっていうのがあったんです。そういう道筋をたどってアニメ化して失敗した例をいやっていうほど見てきていたものですから、そのラインにポケモンを乗せるのは忍びないと思ったんです。80年代末のミニ四駆ブームが終わったのも、アニメの失敗からじゃないですか」残るゲームフリークの反応は、少し違っていました。もしかすると、アニメ化の話を聞いて一番悩んだのはゲームフリークの田尻だったかもしれません。田尻には、自身クリエーターとして生きる者として、それがアニメであれ音楽であれ、クリエイテイブと名の付くものに対して、質の問題はともかくその存在自体を否定することはできませんでした。しかし、アニメの失敗がポケモンの致ム叩傷にもなりかねないことはわかっていました。そして悩んだ末に、田尻は一つの条件を出しました。

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ワンクール、ツークー儿
テレビ業界は一年を4つに分けて番組を考えます。その1/4年の単位をークールと呼んでいます。ー(ワン)クールは3ヶ月間でアニメだと通常ー3話放送が可能です。2(ツー)クールは半年間、26話ということになります。放送開始後半年で終わってしまうアニメ番組は、当初からその目的であれば別ですが、失敗と言われてしまうでしょう。
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第2章  ブレイク

「もし、アニメを作るというのなら、ゲームをやってほしいというのが、田尻の答えでした。それだけはどうしても必要だと、田尻が言い出したんです」ゲームフリークで渉外を一手に引き受け、いわばクリエイティブ部門のスタッフを守る仕事を任されてきた商品管理部長の川上直子は、当時を振り返って話しています。「それにアニメになれば、キャラクターデザインもいじることになるかもしれません。そう考えると、デザインした杉森も他のキャラクタ—デザイナーも、不安はあったと思います。自分たちが作ったゲームが漫画になったり商品になったりすることは素直に感激しました。しかし、現実にいざアニメ化となると、ゲームの世界を大事に考えるゲームフリークとしては、アニメ制作スタッフがどこまでポケモンを、自分たちと同じ気持ちで描けるか?と考えてしまうのです。アニメの影響力は大きいですからね」
こうしてポケモンの原作権を持つ3者の態度が出揃いましたが、わかったことは、原作者は全員アニメ化に批判的ないしは消極的だということでした。冒険することへのためらいと言ってもいいでしょう。これを久保はどう考えたのでしょうか。
「アニメ化することに、そういうネガティブな偏見を持たれたままにしておきたくなかった、というのが一番大きいですね。たしかにリスクはゼロではありませんよ。でも、なんでもそうじやないですか。だからアニメにしたら失敗するんだと決めつけら

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アニメ化に対する説得
企画書では柔らかい文体でおとなしく提案したアニメ化ですが、関係者への直接のプレゼンテーションの場では—転して、きっちりとリスクへッジを説明し、信頼感を得たいと思いました。
プレゼンテーションに向けては、ありとあらゆる質問を想定し、きちんとした準備をしました。ぼくは考え事はだいたいお風呂の中でするのですが、あまりの長風呂で心配した女房に何回も声をかけられた記憶があります。任天堂を始めとする原著作者に対しては、ゆっくり時間をかけて、わかりやすい裏のない言葉で説明していく以外にはありえないと思っていました。
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れてしまうと、おいおい、ちよつと待てよって言いたくなったんです」
そこには、久保の言葉からもうかがえる、漫画やアニメにかかわってきた者の誇りや意地といった感情もあったでしょう。しかし、そういった感情的な理由だけで動いたわけではもちろんありません。成算があったのです。久保には、もう二度と第1次ミニ四駆ブームのときと同じような失敗は繰り返さない、という自信がありました。しかもそれは、企画書の③に「ミニ四駆と同じTVアニメのシステムを『ポケモンTVアニメ』に流用しては?」とうたわれているようにすでに実験済みでした。
「第1次ミニ四駆ブームのとき、番組が突然打ち切られた理由はもうとやかく言いませんが、なぜ打ち切られるのを黙って見ていなければならなかったか、という理由はわかったんです。ですから第2次ミニ四駆ブームのときには、番組をこちら側でコントロールできる段取りを組んでからスター卜したんです。それが『爆走兄弟レッツ&ゴー』です。ポケモンに出会う前、95年春頃から準備を始めて、ちょうど96年1月から放送が始まっていました。そこでは新しい仕組みがうまく機能していました」
久保のいう新しい仕組みの最大のポイントは、番組内容のコントロールを広告代理店から制作者側に移すということにありました。それを具体的にお話しましょう。

第2章  ブレイク

新しいアニメ制作のシステム

テレビアニメ番組の制作は、第1次ミニ四駆ブーム時の『コロコロコミツク』の挫折からもわかるように、広告代理店主導型が大半です。広告代理店主導型というのは、初めに放送枠ありき、という番組制作です。平日の午後5時台から7時台、そして日曜日の午前中の時間帯は、視聴者層のコアは子どもです。特にテレビ東京系列は他のキーステーションと違い、平日の午後6時から7時までは毎日、ほとんどが子ども向けバラエティとアニメ番組で占められています。
これらの子ども向け番組は、子ども向け商品以外のCMはまったく効果がないため、車メーカーやIT関連のテレビCMが番組提供に入りません。そのためテレビ局側としては、金額保証付きで放送枠を買い切ることを広告代理店に求めることになります。広告代理店は、その買い切り金額をペイできるスポンサーグループを編成したうえで、その放送枠で放送するアニメ番組を探すことになります。
しかし、そうするとアニメが放送される枠を持つ広告代理店も放送局も番組の成否にはこだわりがありません。だめなら次、それもだめなら次と取り替えていけばよいのです。さらに代理店と放送局は番組に関連したグッズや玩具の売り上げに対して、利益の配分を要求するのが通例です。その意味でも権利主張ができる玩具は多いほど

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広告代理店、放送局とアニメ番組
通常アニメ番組の場合、番組に関連したグッズの販売から上がる収益に対し、広告代理店と放送局は収益の配分 (ロイヤルティ) を要求します。簡単に説明できることではないので、具体的にミニ四駆のアニメ「レッツ&ゴー」を例に説明しましょう。()内はレッツ&ゴーの場合を示しています。
アニメ番組関連グッズ (ミ二四駆のキット・玩具) をフアンが購入したとすると、そのグッズの定価の約3〜4%がロイヤルティとして版権窓口会社 (小学館プロダクション、以下小プロ) に徴収されます。
版権窓口会社 (小プロ) は入ってきたロイヤルティを管理
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よいので、番組がコロコロ変わることには放送局も代理店も抵抗はないといえるでしよう。これについては、詳しい解説が下段にあります。
要するにスポンサーの商品やサービスの対象購買層の子どもたちが見てくれる番組であればいいのです。第1次ミニ四駆ブームの際の『ダッシュ!四駆郎』が半年で突然打ち切られることになったのも、スポンサーと広告代理店にとっては、このアニメ番組も代替可能な消費番組の一つに過ぎなかったからでした。
さらにこうした形態が一般的になったもうひとつの理由に、日本のアニメ番組が非常に過酷な条件下で制作されているという事情があります。
テレビ局は、スポンサーから広告料金を取って、その広告料金の中で番組を制作もしくは購入して放送します。広告料金と番組制作費の差額がテレビ局の収入になります。ですから、番組提供スポンサー料や番組と番組の間に入るスポットCMの料金が上がれば上がるほどテレビ局の儲けは増えるという仕組みです。
しかし先ほどもご紹介したように、アニメ番組では子ども向き商品以外のCMは効果がないとされていますから、高価な提供料を払うメーカーのスポンサードやスポッ卜CMはほとんど入りません。彼らはアニメ枠を敬遠するのです。そのため、どうしても放送枠の値段には上限があります。
その結果、ほとんどの場合、テレビ局はアニメを制作する会社に十分な制作費を支

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し権利者へ配分する仕事をします。ミニ四駆の場合権利者は原作者グループ(まんが家ほか)、映像製作会社(小プ口ほか)、放送局(テレビ東京)、広告代理店(読売広告社)の4つです。
4つのグループはそれなりに主張があって成功報酬とも言うべきロイヤルティを取得しています。原作者グループは、アニメ映像の根本を創り上げ、アニメ使用にも耐える物を育ててきたという主張です。映像製作者は、放送局からもらう製作費ではアニメ製作費全てをまかなえないため、ロイヤルティ収入を製作費へ振り替えないと製作継続ができません。放送局は放送枠を提供している見返りに利益を要求してきます。広告代理店はスポンサーからお金を集め
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第2章  ブレイク

払えないことになるのです。そしてそのしわ寄せは、制作会社が受けることになります。となると、その不足した制作費を補填しているのは誰かということになりますが、通常はそんな補塡は誰もしてくれません。
そこで、制作会社はそのアニメの2次利用権を取得して不足分を補うことになります。2次利用権とは、ローカルテレビ局や海外への番組販売権やアニメ番組の中に登場するキャラクタ—グッズのロイヤルティ収入を得る権利のことです。あるいはスポンサーが制作費不足部分を補うために、相場より高いスポンサー料を支払うという場合もあります。それは、そのスポンサーがそのキャラクタ—関連商品のメーカーの場合、アニメが放送されることによって商品の売上増が見込めるからです。ですから、一般的に番組とスポンサーのつながりはもろく、アニメ放送が売上増に結びついていないと判断されると、スポンサーが降りてしまったり、代理店、テレビ局がさらに好条件の番組を入れるために、その番組の放送を打ち切ったりするのです。これを反省材料として、第2次ミニ四駆ブーム時の『爆走兄弟レッツ&ゴー』のア二メ化では、久保はまったく新しい制作体制を敷こうとしました。どうしたら広告代理店のコントロールから逃れられるのか、その方法を探ったのです。そのために、久保はテレビ番組の放送の仕組みを勉強しました。
「ある人の紹介で、95年頃に久保さんにお会いしました。ミニ四駆のアニメ番組を作

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放送を継続できるお金を用意する仕事をしています。かれらはそのリスクに対する見返りを求めてくるのです。その配分比率は一般的には、原作者グループが1/3、映像製作会社が1/3、広告代理店と放送局をあわせて1/3と言われています。正確な数字は、番組によって大きく違います。
版権窓口会社 (小プロ) はこの4つのグループにグッズ販売利益を分配していきます。ですから番組関連グッズが多いほど、販売収益が高いほど広告代理店と放送局には利益配分が増えることになります。問題は、この契約はアニメ番組が終了しても3年間ほど継続されることが多いのです。そうすると番組が終わっても、グッズが売れれば広告代理店
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る前ですね。テレビ番組の制作過程に広告代理店がどういう形で関係しているのか、その仕組みを教えてほしいということでした」
そう話すのは、現在テレビ東京営業本部営業局タイム営業部長で、当時業務推進部長だった井澤昌平です。
「雑誌に連載しているマンガが当たっているので、それをアニメ化したいということだったんですね。しかしそのときはまだ具体的な企画の持ち込みということではなくて、テレビのことを知りたいというお話だった。で、一般的な話をしたんです。テレビ番組の制作の仕組みとか、広告代理店がどう絡んでいて、どのくらいのお金がどのように流れるのか、そんなことを説明したんです。彼も勉強家ですから、すぐにテレビのことを理解しましたね。いまはもうすっかりっかんで、上手にその仕組みを利用している感じですね」
井澤が久保にレクチャーしたことは、テレビ番組制作および営業上のノウハウということになりますが、しかしそれは、必ずしもテレビ局側の手の内ということではなく、どちらかといえば、広告代理店の手の内ということになるでしょう。テレビ局にとっては、質のいい番組を安定したスポンサーの提供で放送できれば不満は何もないのです。それを自ら実現しようとすると手間暇かかるために、広告代理店に任せることになっているというに過ぎません。番組が放送できて利益も得られる

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と放送局には配分があります。番組が終われば、原作者グループや映像製作会社はダメージが大きいのですが広告代理店と放送局にはダメージはほとんどありません。
結果として広告代理店と放送局は、次々と番組を取り替えていこうとします。権利主張ができるグッズやアイテムが多いほど彼らの利益は増えますから、上記の6から7ぺージ前の文で伊藤あしゆらさんがおつしやっていた通り、広告代理店と放送局はークールや2クールで番組を取り替えようとするのです。
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広告収入が確保できるのであれば、広告代理店はいなくても構わないのです。井澤のレクチャーを受けた久保は、学んだことをさっそく実践してゆきました。『爆走兄弟レッツ&ゴー』のアニメ化です。開始にあたって、久保は明確な制作指針を設けました。まず、番組スポンサーはすべて『コロコロコミック』編集部で決定することにしました。直接スポンサーと会話し交渉する過程で、スポンサーと編集部間の情報パイプを強化し、スポンサーのメリットを明確化していくためです。このスポンサーが何のためにスポンサードしているのかを編集部が理解することにより、スポンサーの不満を直接解消し、スポンサーの途中降板によって番組が成立しなくなるという事態を避けるためです。
次に、代理店やテレビ局に所属せず、そのアニメ番組のことだけを考える独立プロデューサーを編集部から出して、アニメの制作現場と『コロコロコミック』編集部、ミニ四駆のメーカーでスポンサーでもある田宮模型、それにミニ四駆のゲームボーイ用ゲームソフトを出すことになっていたアスキーの間の連絡・調整にあたらせることにしました。これで雑誌連載コミツク、アニメ番組、ミニ四駆のニューモデルの投入時期、アスキーのゲームの発売時期という全体の歩調をコントロールできます。アニメ制作会社は、グループ会社の小プロにチャレンジさせることにしました。小プロは番組制作を主な事業としている会社ではありませんが、91年の『炎の闘球児ド

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©こしたてつひろ•小学館•テレビ東京
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アニメ「爆走兄弟レッツ&ゴー」で調整したスポンサー
上記の田宮模型(現・タミヤ)、アスキーの他にもコロコ口コミック編集部と小プロが調整に当たったスポンサーがあります。
まずはトミー(ミニ四駆をモチーフにしたミニカーや玩具を担当)ショウワノー卜(文具類を担当)バンプレス卜(プライズゲー厶担当)小泉産業(学習机)などです。
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ッジ弾平』以来、6作のアニメ番組制作の実績を積んでいました。それでも複雑なアニメビジネスを行うための経験不足は否めません。が、「現場のスタッフはやる気があったので、グループ会社への配慮というよりは、このやる気にかけてみようと思って」(久保)、決断しました。こうした体制を整えてから、テレビ東京にミニ四駆のアニメの新番組の企画を提案したのです。
久保が実現しようとした仕組みは、テレビ界で初めてというわけではなかったでしようが、新鮮でした。子ども向け漫画雑誌主導のアニメ番組なのです。広告代理店抜きで番組制作をしようとしたのです。いえ、もちろん広告代理店はこのときもついています。アニメの放送枠はすべていずれかの広告代理店に押さえられていたからです。一般に、平日午後6時台は、在京の民放キー局がほとんどニュースを放送していることもあって、ニュースを見ない子どもたちはテレビ東京系列のアニメ関連番組のコアなお客さんとなります。その結果、この時間帯のアニメ番組は常時比較的高い視聴率をキープしていました。事実、テレビ東京のこの時間帯からは、『エヴァンゲリオン』というヒット作も生まれています。ですからドル箱とも言えるこのアニメ放送枠をつかんだ広告代理店は、その権利を手放そうとしないのです。もし新たに放送枠を持ちたいと思っても、キャンセル待ちリストに名前を載せておくしかありません。当時のテレビ東京ではアニメ番組の企画が順番待ちしている状態でした。それほどテレ

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第2章  ブレイク

ビ東京の午後6時台のアニメ枠は視聴率的に固かったのです。
『爆走兄弟レッツ&ゴー』の場合には、番組自体が当時のミニ四駆ブームに連動したものでしたから成功が見込めましたし、スポンサーも事前に決定した上での企画ですから、放送枠を持っている代理店に積極的に断る理由はありません。ということはこの場合、代理店の位置づけが、他のアニメ番組と比べると多少違ってきます。スポンサーグループは、代理店との結びつきよりも久保や小学館との結びつきの方が強い仕組みになっているのです。といえば代理店にとって都合が悪いようにも聞こえますが、そんなことはありません。この仕組みは、代理店にとってもっとも大切な「番組の経営」という仕事から、代理店自身が解放されることを意味しているからです。
久保の番組制作手法を採ることによって、編集部(原作)—小プロ (アニメ制作) ースポンサー (費用) というパイプが強固となり、スポンサーの意見は制作者にすぐ伝えられ、あたかも制作者の一員として番組制作に参加しているような効果が生まれました。
それ以前にはスポンサーグループは、提供するアニメ番組がなんとか彼らの営業上のスケジュールに合わせてストーリー構成されるよう、そして放送期間が延長されるよう、涙ぐましい努力をしていたのです。

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広告代理店と放送局の名誉のために……
広告代理店と放送局は、どのアニメ番組についても同様の反応をしているわけではありません。ゴールデンタイムと呼ばれる19から21時の時間帯では、ロイヤルティ収入よりも視聴率を意識する局が多いのです。それはテレビ局にとって大きな収益の柱であるテレビスポットCM (番組を提供しないCM) の価格が視聴率によって左右されていくからです。また番組を製作して放送する局が、在京キー局ではなく、ローカル局だと口イヤルティの意識と反応は局によってまちまちとなります。ここに書かれていることがアニメ番組の全てに当てはまる訳ではありません。
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久保の手法は、番組の制作者とスポンサーが一体となった番組作りです。このような仕組みの中では、スポンサーの番組に対するクレームは自然と減ります。広告代理店は、リスクが減り安定した番組経営を手に入れることができます。それまでの「初めに放送枠ありき」という言い方に対比させれば、「初めに番組ありき」ということになるでしょう。シンプルでわかりやすく、不透明な部分が生じにくい仕組みです。それは、テレビ局と広告代理店が主導権を握るテレビ業界に出版界の久保が開けたーつの風穴でした。
久保が構築したこの仕組みは、一見、テレビ番組について言われてきた古くて新しいテーマ、「テレビ番組は誰のものか?」へのひとつの解答として、番組を作り手の側に取り戻したというイメージでとらえられるかもしれません。しかし、民放は作り手側の論理だけで番組編成をして事業を継続できる仕組みにはなっていません。そのことは久保もよく理解しています。久保はこう冗談めかして言います。
「タダで動くのは地震だけですよ」
久保のこの言葉通り、テレビ番組の制作はまさしくビジネスです。その制約の中で可能な限り番組の質を上げていくには、少なくとも制作の主導権が代理店にあるより作り手により近い自分の側にあった方がよい。それが久保の発想でした。「良質である上に商品の売り上げにもつながる番組」と、「制作者もテレビ局もスポンサーも広

第2章  ブレイク

告代理店も満足する制作体制」というテレビ番組の理想を追求するための、一つのビ ジネスモデルと呼んでもいいかもしれません。
しかしもちろん、楽をしてその仕組みを実現できるとは久保も考えてはいませんで した。企画提案した小学館側にも痛みとリスクを受ける用意が必要でした。それが、 これまで広告代理店が受け持ってきたスポンサー料の交渉やスポンサー間の調整、ア 二メ制作プロダクションへのディレクションや赤字補塡など、面倒で複雑で誰も評価 してくれない黒子的な仕事の数々でした。久保はそれを「めんどくさい仕事」と呼ん でいますが、そうしためんどくさい仕事は全部うちで引き受けるから、すっきりした 形で番組を作ろうよと、久保は呼びかけたのです。うちというのは小学館と小プロの ことですが、それが番組制作のコントロールと引き換えに支払う対価でした。 久保が新しい仕組みで態勢を整え、テレビ東京に企画を持ち込んだとき、その企画 を受け付けたのが、久保がレクチャーを受けたテレビ東京業務部長井澤昌平でした。 井澤は1952年生まれ。久保より7歳年長で、当時43歳でした。ミニ四駆のアニメ 企画は小学館からの持ち込み企画ということになりますが、持ち込み企画を審査する 窓口が井澤のポジションだったのです。この窓口を通過したものが編成総局に移され、 もう一度制作プロダクションなど制作過程の細部のチェックを受けて、最終的に番組

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化が決まることになります。井澤はインタビューの中で、久保のこのアニメ番組制作の仕組みに対して、是とも非とも評価はしませんでした。が、感想は述べています。「しっかりしたストラクチャーになってるなという気がしましたね。安定しているというか、営業的には安全だという判断ですね」
とはいえ、アニメ番組の企画が他になかったわけではないのですから、井澤のポジションから考えて、アニメ番組としては大胆な番組制作の仕組みを企図した久保の企画を、ふるいにかけることもできたでしょう。井澤としては通常の業務の一環として、『爆走兄弟レッツ&ゴー』の企画に客観的に正当な評価を与えただけなのかもしれませんが、客観的な評価を与えたということだけを考えても、井澤が、あるいはテレビ東京自体が、久保の新しい試みにエールを送ったように思われてなりません。テレビ東京は、プロ野球のジャイアンツ戦の実況放送が取れないことに象徴されるように、在京民放キー局の中ではひときわ小さな存在です。1999年度の申告所得でいうと、日テレ、フジ、TBS、テレ朝というトップ4から、さらに名古屋の中京テレビを挟んで業界6位です。が、だからこそ、新しい試みを受け入れられたのかもしれません。井澤と久保は、この仕事を通じてお互いの信頼関係を深めたようです。というのは、この後、井澤が久保に大型の新番組を1本持ちかけているからです。それが日本の小学生の起床時間を早めたと言われる朝の生放送キッズ情報ワイドショー『おはスタ』

第2章  ブレイク

です。この番組は、ミニ四駆ブームにのってぐんぐん伸びた『コロコロコミック』の部数が200万部に達した97年初頭、井澤が久保に持ちかけて始まった話でした。「わたしは、前々から朝の子ども番組を作ってみたいなあって思っていたんですよ。それで久保さんに、『コロコロコミック』をテレビにしませんかって話したんです。そうしたら1週間ほどして電話がありまして、ちよつと本気でやってみますって。それで『おはスタ』ができたんです。うちにとっては、かっての『おはようスタジオ』以来のモーニングワイドショーになりますね。スポンサーに関しては、久保さんが考えた仕組みでいこうということになりました。午前6時45分からのあの時間帯はフリーの時間帯で、代理店も決まっていませんでしたしね。それで2人でまずスポンサーを決めてしまったんです、先に。それから代理店を決めることになったんですが、まあ、いろいろなことを考えた結果、先々のことも考えて、ここは一度電通さんでいつてみようということになって、電通さんに声をかけたんです」(井澤)電通とは、広告取扱高世界一の最大手広告代理店電通のことです。その電通も、久保の番組制作の仕組みを受け入れました。
「電通さんにとってもいい話だったと思いますよ。それに大きな扱いにもなったと思います」
『おはスタ』は「おは!」を合い言葉に子どもたちの大気番組になりました。いまで

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「おはスタ」
テレビ東京系、月〜金朝6:45〜7:30放送の子供向け情報番組。97年10月より現在も放送中。6:45〜7:05までを「おはスター部」と呼び、VTR中心のバラエティ番組として位置づけている。7:05〜7:30までを「おはスタ2部•スーパーライブ」と呼び、生放送で最新の情報を発信している。
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おはスタ・メインたMCのやまちやんとおちゃめなナレー夕ーのカナ。
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©テレビ東京
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は、放送局間で競争の激しい朝の時間帯にもかかわらず、視聴率4〜5%前後を稼ぐこともあり、母親から「子ども向け優良番組」という強い支持を受けて定着しています。制作は小プロです。久保はスター卜から現在までずっと番組の企画責任者を務めています。
『おはスタ』の5%という視聴率が、仮に8割の確率で小学生の視聴者を意味しているのだとすると、約400万人の小学生が毎朝この番組を見ているということになります。全小学生人口の5割強です。『おはスタ』からのメッセージは日本中の全小学生に届く、と言えば言い過ぎでしょうが、特定のセグメントに特化して、しかも高い視聴率を獲得するという、テレビ界でも非常に特殊な情報番組になっていることは事実です。しかもインタラクティブな要素を数多く取り入れていて、まさに井澤が想い描いた、「テレビになったコロコロコミツク」になっているのです。もともと小学館は、『dime』や『サライ』、『ラピタ』、古くは『写楽』など、雑誌のセグメンテーションに長けた出版社で、『コロコロコミック』もその一っと言えますが、その特色がテレビでも効果的に発揮されたとみることもできるでしょう。そしてまた、「小学生に特化した情報番組」ということからすでに連想された方もおられるでしょうが、その通りです。『おはスタ』はテレビ版『コロコロコミツク』として、ポケモンとも強いつながりを持つことになるのです。

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メインのキャスターは、山寺宏一、通称「やまちゃん」。声優界では知らない人がいない程のトップスターですが、番組スター卜時でのテレビ業界内の認知度は殆どなかったかもしれません。番組のプレゼンテーションをテレビ東京やスポンサーでおこなった際「すいません、誰ですか?」と必ずと言っていいほど聞かれました。現在では、子供のいるタレントが一番会いたい人ナンバー1!各局のドラマに出演することも珍しくありません。声優界では七色の声も持つ男と呼ばれており、「アンパンマン」のチーズ役から、キアヌ•りーブスや卜厶・クルーズ、ロビン・ウィリアムズなどの俳優まで声を当てる仕事をしています。やまちやんの相棒は番組ス
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この『おはスタ』からは、続々と子どもたちのアイドルや人気キャラクターが生まれているのですが、それについては下段の解説欄で企画者本人が説明するでしょう。さて、久保が構築したこの仕組みは、読売広告社扱いのテレビ東京月曜午後6時から30分の放送枠を舞台に、実際に動き始めました。それがミニ四駆テレビアニメ番組『爆走兄弟レッツ&ゴー』です。放送開始は96年1月8日。第1次ミニ四駆ブームでの挫折から7年目のことでした。読売広告社を選択したのは、ナイターのない月曜日に枠を持っていたことと、この番組以前に一度久保は番組制作を頼んだ経験があり、「その時快く番組を作ってもらったという借りを返したかったから」(久保)でもありました。
『爆走兄弟レツツ&ゴー』は、番組として文句ない成功を収めました。初回の視聴率こそ1ケタだったものの、1月から2月、3月と春が近づくにつれて伸びてゆき、ピーク時には15%を記録しました。さらにマーチャンダイジングの面でも、それまでのアニメ番組とは比較にならないほど緻密で洗練された展開を可能にしました。たとえば、アスキーのゲームボーイ用ゲームソフト『ミニ四駆シャイニングスコーピオン』の発売日が96年12月6日に決まったとき、アスキー側から、このゲームソフ卜にだけ登場するマシンを作って欲しいという要望がありました。久保が選任した独

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夕ー卜当初はレイモンド・ジヨンソンというアフリカ系アメリカ人。独特なリズム感とダンスを番組に持ち込みました。現在の相方は2代目となる「カナ」。的はずれな宇宙人を素で演じています。現在この番組からは、なぞなぞを連発する「怪人ゾナー」やモーニング娘のユニッ卜「ミニモ二」が登場。最近流行した「慎吾ママのOHAロック」の「おは」は「おはスタ」が本家。「おはスタ」からフジテレビに使用許可を出している。
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怪人ゾナー
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立専任プロデューサー吉川兆二は、早速調整役となって動き始め、まず田宮模型に行って、ゲームソフトに登場させるべきニューモデルマシンのデザインや工程など、生産計画を詰めました。
次にアニメのシナリオライターとも打ち合わせをして、ゲームソフトの発売に合わせて、テレビアニメのストーリー中にその新型マシンが違和感なく登場できるよう、シリーズ構成の細部を調整しました。そうした調整の結果を踏まえて、最後に『コロコ口コミック』編集部で打ち合わせをして、発売時期に合わせて連載中の漫画に新型マシンを登場させるタイミングを決め、併せてどんな情報をどのようなスケジュールで読者に告知していくかを決めていきます。
雑誌メディアである『コロコロコミック』には、こうしたミニ四駆に関する情報を独占掲載できる大きなメリットがあるのです。アニメと商品と雑誌メディアという3者の歩調は、この仕組みでは乱れようがありませんでした。久保はさらにイトーヨーカ堂のコロコロホビープラザを中心とする小売からのPOSデータの動向もそこに反映させていきました。
また、アニメ化を決めた時点で、久保はすでに映画化も考えていました。時期は、アニメ番組開始の翌年97年のゴールデンウィークの予定でした。その映画に登場するマシンを読者公募で選ぶことにしてその準備を進め、映画でお披露目となる新キャ

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吉川兆二さん
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「スタジオ旬」代表。昭和33年生まれ。前職の「レッドカンパニー」を退社後、久保の企画に参画し重要なポジションを占めている。「ミニ四駆アニメ」ではアドバイザー。「ポケモン映画」ではプロデューサー、「ビックリマン2000」ではスーパーバイザーを務めています。
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第2章  ブレイク

ラクターについても、映画公開日に合わせて、事前にアニメで活躍できるようなシリーズ構成を吉川に指示しました。
94年に始まつた第2次ミニ四駆ブームの盛衰を概観すると、アニメ番組が始まった96年から97年にかけての1年半がブームのピークでした。アニメ番組『爆走兄弟レッツ&ゴー』を放送するテレビ局は、放送開始3カ月後には早くも全国29局に拡大し、7月〜8月にかけて開催されたミニ四駆の全国イベント『スーパージャパンカップ96』には延べ20万人が参加しました。
この勢いは翌97年の映画公開後まで続きますが、夏休みを過ぎた頃からブームは急速に衰え始めます。そこで衰えかけたブームの終盤を支えたのが、前回とは逆にアニメでした。アニメの放送は98年まで続けられて終わりました。その間にコロコロは200万部という日本の月刊誌発行部数のレコードを記録し、前にもお話したように田宮模型のミニ四駆模型の累計販売台数は1億台に達するのです。小学館と小プロには、久保の言う「めんどくさい仕事」の苦労に報いるだけのロイヤルティ収入がありました。これを成功と言わずして何を成功と言えばいいでしょうか。しかし不思議なことに、久保が構築した小学館式もしくは久保式とも呼ぶべきこの新しいアニメ制作の仕組みは、小学館の同業である出版社だけでなくその他の業種の企業を含めて、真似ようというところはまだ現れていません。いまのところ小学館の

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専売特許のようになっているのです。本書ではこれから、この仕組みがより洗練され た形で実践されたモデルケースとして、ポケモンのアニメ化についてご紹介していく わけですが、もしかすると、本書の出版をきっかけにして、あるいはこの仕組みを参 考にする企業が現れるかもしれないということを、老婆心ながらと、久保を通して小 学館側にも伝えました。それに対して、もしそうなればテレビ番組の制作過程の透明 度が増すので、むしろ歓迎したいし、希望する企業があればそのノウハウはたとえラ イバル出版社に対してでも積極的に開示してゆくつもりだという返事が返ってきたこ とを、ここに付け加えておきます。

アニメ化決定

ここで、話をポケモンに戻しましょう。久保がポケモンのアニメ化を提案したのは、 まさにミニ四駆アニメ『爆走兄弟レツツ&ゴー』の視聴率とともに、ミニ四駆ブーム がピークを迎えた只中でのことだったのです。ですから、原作権を持つ3社の批判的 な反応は放置しておけませんでした。聞き捨てならん、というところだったでしょう。 その批判を受け入れることは、久保がいまミニ四駆で実践しつつあったブーム➝アニ メ化➝ブームの増幅というメソツドを自ら否定するに等しかったからです。

第2章  ブレイク

久保は、反撃に転じました。任天堂では川口、クリーチャーズでは石原や伊藤を相手に、あらためてアニメ化がもたらす効果と実際に制作することになった場合のアニメの質を担保する仕組みについて、繰り返し説得したのです。そして任天堂に対しては、8月のお盆休み開けに京都の本社を訪れ、第1回目のプレゼンテーションを行いました。このときは、任天堂にとってゲーム商品のアニメ化は初めてのことだったので、アニメ番組の制作過程を、具体的な金額も示しながら説明しました。このときが、原作者グループに対する最初の公式な企画提案ということになります。川口は、この第1回プレゼン後、比較的早い時期に賛成の手を挙げました。それは久保の説得があったからだけではありません。もともと川口は小学館との付き合いも長く、漫画やアニメとの距離は近かったのですが、川口の気持ちを固めさせたのは、ある人物の言葉でした。
「やっぱり悩んだんですよ、個人的にはね。会社としての意見は意見として、その前にぼく個人の気持ちを決めなくちやいけませんよね。それで、小田部さんのところに、どうしたらいいでしょうかって聞きにいったんですよ」川口が意見を聞きにいったのは、当時任天堂情報開発部にいた小田部羊一のことです。小田部は名作アニメ番組『アルプスの少女ハイジ』の作画監督として知られる日本アニメ界の大御所でした。任天堂では、キャラクタ—デザインの評価のエキスパー

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卜として、主としてゲームソフトに登場するキャラクターの監修を担当していました。「そしたら小田部さんが、それは面白いからやってみたらいいんじやないのっておっしやったんですよ。小田部さんは、アニメに対する情熱は半端じゃない人ですからね。単にアニメにすれば面白いということでおつしやったんじやないと思うんですよ。ポケモンの世界観というものがありますよね。それをアニメの世界にうまく持って来れたら、いいアニメができるんじやないのっておつしやったんだと思ってね。その一言で、ぼくはアニメをやろうと思うようになったんです」久保にとっては、思わぬところから援軍が現れた格好ですが、任天堂の関係者がみんな小田部の意見を聞きに行ってくれたわけではありません。それでも、ポケモンの生みの親の1人である川口が賛成に回ったことは、賛成派が1人増えたというにとどまらない影響が期待できました。山内です。社長の山内は、ポケモンに関する報告のほとんどを川口から受けているのです。
クリーチャーズについては、伊藤の言葉からもわかるように、アニメ化に反対する理由がはっきりしていました。理由がはっきりしているだけ、対応しやすかったとも言えます。久保は、石原と伊藤が不安に思い不信感を抱いている点を、一つひとつ解消してゆきました。その際に大きな説得力をもったのは、もちろん『爆走兄弟レッツ&ゴー』でした。伊藤の「キャラクターが消費されやすいアニメ番組の制作体制」

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小田部羊一さん
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現•任天堂東京駐在。元東映動画作画監督。ポケモンアニメではテレビも映画も監修者となっていて、アニメ制作チー厶にとっては精神的な柱です。3DCGポケモンでもキャラクターとアニメーション監修を担当。スーパーマリォやドンキーコングのイラス卜製作や監修が任天堂での主な仕事です。
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という危惧を解消すべく、久保は説明しました。
「石原と2人でガシャポン見て、やっぱりモンスタ—ボールだよなあ、これって言ってたんですよね。このなかにポケモン入れられたらいいよなあって。あの頃のぼくたちの夢なんて、そのくらいだったんですよ。アニメなんて、それよりももっと遠いところにあったんです。それにアニメと言えばテレビですが、テレビ業界というものに対して、素人は魑魅魍魎が住む魔界みたいなものという、誤ったイメージを持っているじゃないですか。怖がっているんですよね。そういう不安を、久保さんが、み一んな自分が引き受けようと言ってくださったわけですね。関係者の誰にもわかりやすい仕組みで番組制作を運営します、というお約束もしてくださったわけです」(伊藤)かくしてクリーチャーズは、アニメ化に賛成する側に回ったのでした。「最終的には、大事に育てます、いいところでいいアニメを作らせますからっていう、久保さんの言葉で決まりましたね。粘り勝ちですかね」(伊藤)
伊藤がここで特に「いいところで」と言っているのは、アニメの制作プロダクションのことです。もしアニメ化が動き出せば、番組制作は小プロが担当することになりますが、映像を実際に作っていくのは小プロが発注する別のアニメ制作プロダクションです。久保は当初制作会社として2社を候補に挙げていましたが、それに伊藤はクレームをつけていたのです。

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「まあ、好き嫌いの問題もあるでしょうけれども、ぼくは久保さんが当初候補に挙げていた会社の作り方が、好きじやなかったんですよ。ある程度見て知っていましたから。でもそれは、アニメ化に反対した理由じやありません。アニメ作りを始めるときの問題ですからね。でも久保さんは、それも呑んで、いいところを見つけますからと言ってくださったんですよ」
ゲームフリークについては、久保は田尻の要望を全面的に受け入れるつもりでした。つまり、アニメ制作に関わる全員に、『ポケットモンスタ—』をプレイさせるのです。久保はそれを確約しました。さらに石原が賛成の側に回ったということも、ゲームフリークにとっては大きな判断材料になったでしょう。
こうしてクリーチャーズとゲームフリークは、条件付きですが、賛成ということになりましたが、やはり最大の難関は任天堂でした。任天堂からは8月のプレゼンから2週間が過ぎても公式な回答がありませんでした。
そこで久保は、だめ押しで冒頭の企画書をまとめ上げることになったのです。この企画書の内容については、すでにご紹介した項目タイトルの通りですが、企画書の主眼は、あくまでも任天堂の商品のプロモーションにありました。手紙を思わせるソフトな文体で書かれてはいましたが、この企画書は、当時98年夏に発売が予定されていたポケモンのゲームソフト第2弾となる仮称金・銀バージョンと、これも当時

第2章  ブレイク

仮に『ポケモン64』と呼ばれていたポケモンのN64用ゲームソフトをヒットさせるためのプロモーション戦略表でもあったのです。アニメはその展開のための手段として位置づけられていました。
久保のスケジュールでは、その年の秋にアニメ番組『ポケットモンスタ—』の制作に取りかかり、97年4月からテレビ東京系月曜午後7時〜7時30分という放送枠で放送開始という予定でした。また、同時放送となるテレビ東京系列局に、独自の放送枠で放送する系列外地方局を加えて、全国15テレビ局での放送をめざしていました。企画書のプレゼンテーションは、企画書の日付と同じ9月26日木曜日、京都の任天堂本社本館第一会議室で行われました。
任天堂側の出席者は、ポケモンを担当していた川口をはじめ、当時取締役総務部長で川口の直属上司だった今西紘史、当時から企画部にいて現在企画部部長代理の山内克仁、アニメ界の大御所小田部羊一、取締役業務部長の波多野信治ら十数名でした。対する小学館側は、3人のメンバーでプレゼンテーションに臨みました。久保と当時小プロメディア事業部部長代理で、現在は藤子プロ代表取締役社長を務める伊藤善章、それにアニメプロデューサーの吉川兆二でした。
午後1時にプレゼンは開始され、まず小プロの伊藤があいさつをした後、久保がプ

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波多野信治さん
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取締役業務本部長。1942年4月14日生まれ。72年10月任天堂株式会社入社。卯年9月業務部長。96年6月より現職。版権管理やサードパーティへの対応など幅広い業務を担当しています。
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レゼンテーションを始めました。途中、久保の話を受けて、吉川もアニメ制作の実際を説明しました。最後の質疑応答を終えてプレゼンを完了したのは、開始から3時間後の午後4時でした。
「以上で、弊社のプレゼンテーションを終わります。どうか、ご検討ください。ご清聴、ありがとうございました」
久保は満座の出席者を見回しながらそう言って、着席しました。
「いや、詳細な、カのこもったプレゼンテーションでしたよ。迫力ありましたよ。これはもう結論を出さんといかん、という気がしました」(川口)
小学館が9月も末のこの日にプレゼンを設定したのは、時間的な制約があったからでした。第1回目のプレゼン後、この日まで任天堂は回答していなかったわけですが、それでは困る、と小学館側が言いに来たのがこのプレゼンだったのです。たとえ返事がイエスになるのであっても、これ以上返事が遅れることになれば、プレゼンをした意味がなくなるのです。久保が企図していたアニメ番組の4月スター卜に間に合わせるためには、10月には制作を開始する必要がありました。間に合わなくなるのです。放送のスタ—卜が来春4月の番組改編期に間に合わなくなってしまうと、次のチャンスは早くてもその半年後の秋の改編期ということになりますが、アニメの放送枠は限られていますし、1年単位で入れ替わるものも多いので、1年後まで待たなければ

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伊藤善章さん
元•小学館プロダクションメディア事業部勤務。現職は藤子プロ代表取締役社長。ミニ四駆アニメに企画者として参画。久保にアニメ番組を作っていくノウハウを実地で教え込んでいった人物。
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第2章  ブレイク

ならなくなる可能性も高かったのです。しかし、人気の変動の激しい子ども向けのア二メの場合、1年待っというのはアニメ化を諦めるに等しいことでもありました。それは、ポケモンの人気の先行きが水物だからというだけではありません。アニメ番組では、たとえばドラマ番組でいうと出演する女優や俳優と同じように、制作スタツフが重要なポイントになりますが、プレゼンをした時点で、久保には万全の制作体制を敷けるというめどがあったのです。伊藤から要望のあった制作会社の変更も、ちようどシリーズものを終えるというある会社に当たりをつけていました。しかしその会社も、タイミングを失すれば次の仕事を入れてしまうかもしれません。始めるならいましかない。それが久保の直感でした。つまり、9月中にイエスの返事をしてくれないのであれば、あとはどんな返事もノーと同じだったのです。
しかしこの日、2度目のプレゼンテーションが終わっても、任天堂はその場では返事をくれませんでした。伊藤は、もしこれから任天堂側が小学館側の企画提案について協議に入るというなら、結論が出るまで待っと言いました。しかし任天堂は、今日のところはいったんプレゼンテーションの内容を預かりたいと答えました。無理に押しても無駄だと悟った久保らは、「わかりました」と言って任天堂を辞したのですが、前回のプレゼンからこの日までに1カ月という時間があったのです。今日のプレゼンでも返事をくれるまでに時間がかかるようなら、十中八九ダメだろうと

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いうのが、小学館側の印象でした。ダメだろうというのは、今もお話したように、翌年春からの放送には間に合わないだろうということです。もちろん制作期間の問題から、タイムリミツトがあるのだということは任天堂にも伝えてありますから、面と向かってノーと返事をする気まずさを避けようとすれば、デッドラインを過ぎるまで結論を出さないでいるという手もあるのです。3人は任天堂から真つ直ぐ京都駅に向かい、午後5時過ぎの東海道新幹線のぞみで帰京の途につきました。吉川が缶ビールとつまみを買ってきましたが、誰も開けようとはしませんでした。3人はのぞみのグリーン車に座っていました。まあせめてもの気分転換にと、小プロの伊藤が奮発したのです。その座席を向かい合わせにして、暮れなずむ窓外の景色を黙って見ていました。
「まあ、できるだけのことはやりましたよね」
伊藤がそう言って久保を慰めましたが、久保は「ええ、まあ」と答えただけでした。3人は、吉川を除いて口数は少ない方ではありません。どちらかと言えばよくしやベります。しかしこのとき、しきりに話しかけていたのは吉川でした。3人はいったん話すと愚痴や弱音しかでてこないような気がしていました。愚痴と弱音しか出てこないという場面では、黙っているほかなかったのです。吉川はそんな状況を察知し、話題を探し続けていました。

第2章  ブレイク

この日、小学館側が引き上げていった後、任天堂では今西、波多野、川口らがプレゼンの内容について社長の山内に報告しました。任天堂としての最終的な決定はそこで下されました。小学館が引き上げてから2時間ほど経った午後6時頃でした。その頃、小学館側の3人を乗せたのぞみは、ちょうど静岡県の浜名湖にさしかかつていました。そこで久保の携帯電話が鳴りました。任天堂からでした。電話の主は、アニメ化が決まれば担当部署になる業務部の部長波多野でした。「久保さん、任天堂は、ポケモンのアニメ番組のスポンサーになることを決めました。いま決まりました。山内社長が、すぐに電話でお知らせするようにとのことでしたので、まだ移動中とは思いましたがお電話しました」波多野はそう言いました。久保はできるだけ淡々と答えました。「そうですか。それは、わざわざありがとうございます。それでは、今後の詳しいスケジュールをすぐに作成してお持ちします」伊藤と吉川が久保の顔を見ていました。電話を切った久保は、彼らの方を向いて口の端でニヒルに笑ったつもりだったようですが、伊藤らには、こわばっていた顔がクシャツと崩れたようにしか見えませんでした。聞くまでもなく2人には電話の内容がわかっていましたが、待っていました。久保が口を開きました。
「山内社長が、いまお決めになったそうです」

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伊藤が眼鏡を掛けた目をまん丸にして、嬉しそうに言いました。
「あつ、そう?ほ一んとう。そりやあすごい」
吉川はそれが癖の少しうつむいた姿勢から見上げるように久保を見て、やはり笑顔を見せました。伊藤は、缶ビールに手を伸ばしながら言いました。
「いやあ、すぐに電話をくれましたねえ」
「そういうところはさすがですね」
久保もそう言いながら、ビールに手を伸ばしました。プレゼンの結果も嬉しいものでしたが、決まったとなったら明日を待たず、すぐに電話をくれた任天堂の気持ちが嬉しかったのです。本当に山内がそう指示したのかもしれませんし、電話をかけてきた波多野や川口の気遣いだったのかもしれません「双方にそういう人がいるのであれば、なんらかうまくいくんじゃないかと思いましたね。厳しい交渉も多かったんですが、今日まで何とかやって来れているのも、そういう人がいたからだったんじやないでしょうか」(久保)ポケモンは、こうしてアニメになることになりました。ゲームソフトの発売後、『別冊コロコロコミック』でのコミツク化、さらにポケモンカードゲームとその世界を広げてきたポケモンの三つ目の、大きな大きなジャンプでした。
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