Pokemon Story/Chapter 2/Subchapter 3: PCG ~ Pokemon Card Game

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3 PCG~ポケモンカードゲーム

期待されなかったカードゲー厶

幻のポケモン「ミュウ」の出現とプレゼント、それに続く青バージョンの発売。偶発的な出来事も含んだ一連の企画展開とともに、『ポケットモンスター』の累計販売本数は160万本を超えるところまできました。田尻と石原が夢想した200万本も目前です。そこに、ポケットモンスターカードゲームが登場しました。1996年10月のことです。
ポケットモンスタ—カードゲームは、略してポケモンカードゲームとも、そのイ二シアルから単にPCGと呼ばれることもありますが、これはゲームソフト『ポケットモンスター』のプロモーション用ツールでも、単なるライセンス商品でもありません。ゲームのポケモンと並立するポケモン商品です。つまりそれ自体が原作品であるということです。原作品というのは、このあとで詳しくお話ししますが、それ自体からライセンスの権利が発生する、著作権の源であるということです。ポケモンカードゲームは、ポケモンカードを使ってプレイするカードゲームですか

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ポケモンカード(表)
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ポケモンカード(裏)
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第2章  ブレイク

ら、販売される商品はポケモンカードです。そのポケモンカード2種類、『ポケモンカード第1弾スター夕ーパック』1300円と、『ポケモンカード第1弾拡張パツク』300円が発売されたのは96年10月20日でした。ということは、小学館の雑誌8誌による『ポケットモンスタ—』青バージョンの誌上通販に注文が殺到し、久保が敷いたオペレーションがまさにパンク寸」刖になっていたときでした。ミュウ・プレゼントを上回る、ポケモンにとって最初の人気の絶頂期です。
ポケモン関連商品であることは、その名もポケモンカードゲームですから一目りようぜんです。当然、玩具店から注文が殺到し、メディアも喜んで話題にしてくれただろうと、誰もが考えるでしょう。
ところが、今考えると実に不思議なことに、このポケモンカードゲームも、ゲームの『ポケットモンスタ—』同様、発売時に積極的に取り上げようというメディアはまったくありませんでした。
メディアだけではありません。ポケモンカードは、そもそも扱ってくれる問屋さえなかなか見つからなかったのです。探し回ってなんとか問屋を見つけ、その問屋のル—卜に乗せていざ売ろうとすると、今度は商品を置いてくれる店がありません。というわけで、営業的にはたいへん厳しい状況下での発売開始だったのです。ゲームのポケモンもまったく期待されない中で、田尻の言葉を借りれば「アウトかセーフ

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ポケモンカード第1弾拡張パツク
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ポケモンカード第1弾スター夕ーパック
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©1995, 1996, 1998 Nintendo/Creatures inc./GAMEFREAK inc.
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かわからない状態」での発売でしたが、ポケモンカードは、バッターボツクスに立つ前にもうアウトと宣告されていたようなものでした。そこを無理矢理バッターボツクスに立つわけですが、その間もアウト、アウトの大合唱がアンパイアからも球場の観客席からもわき起こっている、そういう状態でした。
業界からそこまで冷遇されていたゲームだけに、メディアも鼻も引つ掛けなかったのです。この一件からも、キャラクタ—ビジネスが、人気キャラクターを使えば誰もが飛びついてくれるような安易なビジネスではないことがはっきりわかります。ポケモンカードゲームが、ゲーム業界の冷たい視線を浴びたのは、日本人になじみのないゲームだったために、非常に消極的な予測しかでてこなかったからでしょう。任天堂が発売元にならなかったのも、それが理由と考えられます。そうです。ポケモンカードの製造は、創始者房治郎以来、カードゲームの伝統を誇る任天堂製で、紙製のカードとしては最上質のカードの一つなのですが、任天堂は製造しているだけで発売はしていないのです。もっとも、任天堂が発売元になろうとも、発売前の評判はさして変わらなかったことでしょう。
ここで、多くの方にとってほとんどなじみがないであろうポケモンカードゲームの概略をご紹介しておきましょう。ポケモンカードゲームには、二つの側面があります。

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内山雅子さん
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子供達には「ポケモンカードのウッチー」として有名。所属はメディアファクトリーポケモンプロダクツ事業部。1998年〜ポケモンカード拡張パック第4弾「ロケツト団」からポケモンカードのプロモーションを担当しおはスタなどに登場。現在はポケモン音楽の商品企画および宣伝を担当。GBソフト「ポケモンカードGB」に登場するアクアクラブマスタ—•「ウッチー」のモデル。
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第2章  ブレイク

一つはいうまでもなくカードゲームとしての遊びであり、もう一つはポケモンカードが持つコレクションの対象としての価値です。
では、そのゲームの中身ですが、ポケモンカードゲームの公式ルールに沿ってゲームを説明すると、ポケモンカードゲームをプレイするには、まず対戦用のデッキを作ります。デッキは対戦用のカードのセツトのことです。ポケモンカードはすでに800種類以上ありますが、その中から自分で好きなカードを選んでデッキにします。デッキの枚数は60枚です。デッキは相手のデッキとシャツフルしたりすることはありません。花札のように自分の出したカードを取られて相手の得点になったり、メンコのように裏返されると相手に取られたりすることもありません。こうした点で、ポケモンカードゲームは、1組のカードを使うトランプや花札とは根本的に違います。ポケモンカードには、ポケモンのイラストが付いたポケモンカード、ポケモンが技を使ったり逃げたりするときに必要になるエネルギーカード、ポケモンの対戦をサポー卜するためにトレーナーが、つまりプレーヤーが使うトレーナーカードがあります。ポケモンカードにはベイビイポケモンカード、たねポケモンカード、進化カードの3種類があり、エネルギーカードには基本エネルギーカードと特殊エネルギーカードの2種類があります。トレーナーカードは、例えばポケモンのダメージを回復する「きずぐすり」や、自分の手札をすべて入れ替えられる「オーキドはかせ」といった戦略

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トレーナーカード
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Iネルギーカード
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ポケモソカード
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©1995, 1996, 1998 Nintendo/Creatures inc./GAMEFREAK inc.
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上重要なカードがあって、プレーヤーの腕の見せどころとなるカードです。これらのカードを60枚セツトしたデッキで対戦することになりますが、対戦にはポケモンカードゲーム用のプレイマツトを使います。マット上には、対戦させるポケモンカードを置くバトル場と呼ばれるスペース、控えのポケモンカードを置いておくべンチと呼ばれるスペースがあって、バトル場に1枚、ベンチに5枚まで、併せて同時に最大6枚までのポケモンカードを出すことができます。この数は、ゲームソフトで旅に連れて行けるポケモンの数と同じです。
プレーヤーはバトル場に出したポケモンカードで対戦しますが、対戦中、自分のターンのたびに、技を使う以外に、エネルギーカードをつけたり進化カードを乗せたりしてより強いポケモンに育てることができます。対戦の基本となるのは、数値化されたポケモンの体力や持っている技の強さです。その数字を見ながら戦略をねり、エネルギーカードを使って技を繰り出し、対戦相手のポケモンのヒットポイント(HP゠体力値)をゼロにして倒すことになります。
そこにさらにポケモンを七つのタイプに分類し、それぞれのタイプ間にじゃんけんのグー、チョキ、パーのような関係を持たせることでゲームを複雑化させ、戦略性を増しています。また、山札のカードをめくることで偶発的な出来事が起こる余地を残し、コイントスを取り入れてスリルの演出をしています。戦いはバトル場にポケモン

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ポケモンカードの 種類
ベイビイポケモンカード
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たねポケモンカード
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進化カード
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©1995, 1996, 1998 Nintendo/Creatures inc./GAMEFREAK inc.
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第2章  ブレイク

を1匹ずつ出していって戦わせ、どちらか先に戦わせるポケモンがいなくなったり、自分のポケモンを6回「きぜつ」させられたり、自分の山札が無くなったりした方が負けです。「きぜつ」というのは、ゲームソフトのポケモンでいう「ひんし」と同じ状態を指す言葉で、自分のヒツトポイント以上のダメージを受けて倒れることです。ポケモンはバトルで傷ついても倒れる゠気絶するだけで決して死にません。休息を取れば元気になるというポケモン世界のルールはカードゲームにも援用されています。簡単にご紹介すれば、ポケモンカードゲームはそんなゲームだということになるのですが、そのデッキの構成に、実はポケモンカードのもう一つの重要な要素、カードコレクションへの入り口があります。
デッキは、自分が持っているカードの中から自由に60枚を選んで構成できますから、プレーヤーは一つの戦略に合わせてカードを揃えていくことになります。そのとき、あの技を持ったあのポケモンカードがあったらいいのにとか、あのタイプに強いタイプのポケモンカードがもう1枚欲しい、となることがあります。そうなると欲しいカ—ドを探すことになりますが、これがなかなか難しい。
ポケモンカードは、販売されているパツクごとに、中に入っているカードの構成が少しずつ違っているのです。しかも、ゲームソフトのポケモンと同じように、カードの出現頻度には差があります。「すごく珍しいカード」、「ちよつと珍しいカード」、

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エネルギーカード の種類
基本エネルギーカード
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[[IMAGE CAPTION 2|
特殊エネルギー力ード
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「よく出るカード」の3段階です。ですから何パック買ってもお目当てのカードが入っていないということもあります。
この点が、後に子どもの購買欲を過度にあおっているとアメリカなどで批判されることにもなるのですが、子どもにとってはドキドキする刺激的な買い物です。かって田尻が「赤と緑のどちらかを選んだときからゲームは始まる」と言ったのと同じように、ポケモンカードも買い物自体がすでにゲームのー部になっているのです。ですから、子どもたちが持っているポケモンカードのデッキは、1人1人少しずつ違っているということになります。これをカードゲームとの関係でいえば、子どもごとに持っているカードが違うということは、子どもたちが作るデッキの構成も違ってくるということになります。
つまり、持っているカードによって、デッキの強さや傾向が変わってくるのです。ですから、カードをできるだけ数多く集めることが、作ることができるデッキの幅を広げることになります。そして、やがてはポケモンカード全種類を集めたいと考えるようになるのもごく自然な成り行きです。全種類集めることができたら、どんな種類のデッキでも作ることができるようになるのですから。その過程で、子どもたちは誰に教えられるでもなく、お互いに欲しいカード同士を交換し合うという、トレーディングカードゲーム本来の遊び方も理解していったのです。コレクションとゲームが見

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トレーナーカートの種類
きずぐすり
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オーキド博士
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©1995, 1996, 1998 Nintendo/Creatures inc./GAMEFREAK inc.
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第2章  ブレイク

事に、そして密接に結びついたシステムになっているのです。
こうして見てくると、ポケモンカードゲームのゲームの構造は、ゲームソフトのポケモンとほとんど重なり合っていることがわかります。ゲームの目的はバトルに勝つことですが、そのバトルに勝つには強いポケモンを揃えて育てなければなりません。ポケモンには相性があるので、より多くのポケモンを揃えた方が有利です。そこからコレクションの楽しみも生まれてきて、ゲームならポケモン図鑑の完成を、カードなら全種類のピンナップやファイリングを目指すことになるのです。石原は言います。「ゲームソフトが完成するあたりから、ぼくには派生商品という位置づけ以上のボジションで、ポケモンカードを作るつもりがあったんです。で、ポケモンカードっていうのを作るから、出来上がったら見てねっていう話を、田尻君にもしていました。それでポケモンカードプロジェクトというのをクリーチャーズ社内で始めて、ゲーム設計をしていったんですよ」
田尻には石原が考えていることが、即座に理解できたはずです。
これは石原とクリーチャーズにとって、まったく新しい一歩でした。それまで石原とクリーチャーズが手がけてきた仕事は、多くはゲームソフトでしたが、完成後商品化されるというレールが初めから敷かれているものばかりでした。その環境の中では、石原は商品化に価するクオリティのゲームを開発しさえすればよかったのです。それ

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ポケモンカードイベントの様子
(次世代ワールドホビーフェア•メデイアファクトリーブース)
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はプロデューサーとしての、またプロダクションとしての仕事でした。しかし石原にも、オリジナルのソフト゠ゲームを、自分の手で生み出したいという夢がありました。その夢を託したのが、ポケモンカードゲームだったのです。田尻は言っていました。「(他のゲームでは)動機は外側にある。そのキャラクターを生かすために、うちにできることはなにかということでゲームの提案をするわけですから。で、ポケモンの場合は、最初から通信というものに対しての解釈の仕方からゲームのあり方から、全部ぼくらが、そもそもこういうことがやりたいんですっていうものを出したものなんです」
ここで田尻は「ぼくら」という言葉の中に石原も含めて言っているわけですが、それでも「カプセルモンスタ—」から生まれたポケモンは田尻のものでした。石原はプロデューサーなのです。そして石原がポケモンに関わった動機は、実際、石原の外側にあったのです。
しかしポケモンカードゲームは、石原が生み出したまだ無垢の状態のゲームでした。動機は石原の内側にありました。解釈の仕方、ゲームのあり方、なにもかもすべてを自分で決めて、そもそもこういうことがやりたいんだ、と宣言できるゲームなのです。しかもゲームの面白さは疑う余地がありませんでした。対話と、対戦と、コレクション。その上カードにはポケモンのキャラクタ—が印刷されているのです。知的刺激に

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満ちたゲームの構造は子どもたちに必ず受け入れられると、石原は信じていました。

販路の開拓

さて、ポケモンカードゲームのゲーム設計は進み、ミュウの最初のプレゼントの頃、1996年5月には、いつでも商品化できるというところまでこぎ着けました。後は製造と販売の体制を整えるだけです。しかし、まだ設立から日の浅い小さな会社にとって、どの玩具メーカーにもレールがつながっていない新しいゲームを、この世に誕生させるのは、簡単なことではありませんでした。
「それまでのいきさっから考えても、任天堂がトランプやカルタの会社なので、一緒にやりますかって話をしていたんですけど、当時はまだトレーディングカードゲームというものになじみがなくて、任天堂はあまり乗らなかったんですよ」石原がここで言う「一緒にやりますか」という言葉の意味は、任天堂の他のゲームと同じように、ポケモンカードを任天堂ブランドにしませんかと打診したということです。しかし当てにしていた任天堂は、それを断ったのでした。それでも任天堂は、うちのゲームにはできないけれどもと、任天堂最大の卸問屋を石原に紹介してくれました。任天堂と年間600億円程度の取引がある大きな問屋でした。

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「かつて任天堂の初心会流通の最大の会社でした。そこに任天堂が、うちが製造するから扱わないかって提案してくれたんですけど、こんな難しいゲーム、売れるわけがないって言って、キャンセルされちやったんですよ」(石原)
ここで任天堂が提案した「扱い」とは、単に卸問屋としての扱いのことではありません。任天堂で製造するから発売元にならないかという提案だったのです。それは当然より大きなリスクを伴うビジネスになりますし、ゲーム業界の王様である任天堂が自社のゲームとして受け入れなかったゲームを、その問屋が売れないと判断するのは致し方のない話でした。石原は静かな口調で当時を振り返っています。
「その後も、3回くらいプレゼンしたんですけど、いらんって言われて。それでメデイアファクトリーという会社を紹介してくれる人があったので、行ってみた。そこで、ぼくたちはこんなものを作ってるんだけど買わない? って言ったら、自分たちはそんなものはやったこともないし、どんなゲームかもよくはわからないけれども、なにか面白そうだからやってみたいなあってノッてきてくれたんです」(石原)
メディアファクトリーは、エンターテインメントと出版事業を担当するリクルートグループの100%子会社ですが、当時は社員十数名のまだ若い会社でした。日本初の本格的カードゲームを扱うには、経験もないが偏見もなかったのです。メディアファクトリーとの出会いによって、販売会社は見つかりました。ポケモン

[[BOTTOM TEXT|
株式会社メディアファク卜リー

東京・銀座に本社のあるリクルートグループ100%子会社。昭和61年、リクルートの出版部の書籍部門を分離・独立した。平成3年にリクルー卜出版からメディアファクトリーへ社名変更。社長はリクルート取締役常務(2000年10月現在)でもある坂本健氏(写真)。社員には「健さん」の愛称で慕われている。
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第2章  ブレイク

カードは、メディアファクトリーのブランドで販売されることになったのです。次は商品を流通に乗せてくれる問屋でした。メディアファクトリーは数多くの玩具問屋にあたりましたが、興味を示したのはただ1社しかありませんでした。大阪のスタ—コーポレーションです。この会社は玩具問屋というよりも、スポーツレジャー用品の卸問屋でした。偶然イトーヨー力堂との間に太いパイプを持っている問屋だったのですが、これが後になって有効に働くことになります。
ポケモンカードは、こうしてようやく発士冗の日を迎えられることになったのですが、石原はこの経験から、任天堂の存在の大きさをあらためて痛感すると同時に、小さな会社が何かをしようとするときの難しさも知りました。もし任天堂が、ポケモンカードゲームを任天堂のゲームとして発売することになっていたら、石原もクリーチャーズもなんの苦労もいらなかったはずです。
でも、石原は、それは仕方のないことだと考えていました。それと、石原が任天堂のゲームをプロデュースしていることや、そのゲームがヒットしていることとは、話が別なのです。
ある意味で、任天堂は石原の教師役だったと言えるかもしれません。任天堂が版元になるのを断ってくれたからこそ、メディアファクトリーという新しいビジネスパートナーとの出会いもあり、新参者の石原たちが、ゲーム業界の中に独自の商品流通の

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スターコーポレーション
大阪・中央区に本社がある玩具問屋。クリーチャーズ、メディアファクトリーの申し出を受けカードゲ——厶の卸元となる。現在、メディアファクトリー販売の全ポケモン商品(カードゲー厶、バッチ、ビデオ)は、メディアファクトリーとスターコーポレーションの合弁会社・㈱クロス・エンタテインメント・ディストリビューションが流通部門を受け持っている。
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ルートを切り開くという経験もできたのです。川口はこう話しています。「クリーチャーズの設立には、任天堂としてもかかわりがありますから、ぼくの次の関心は、クリーチャーズが将来に向かって存続し得る会社になるかどうかということだったんです。おこがましい言い方ですけど、どうすればクリーチャーズを将来的に発展してゆける会社として自立させられるかということですね」川口の言う任天堂とクリーチャーズのかかわりとは、クリーチャーズに任天堂が10%程度資本参加していることを指しているのですが、わずかな資本参加をしているからといって、任天堂がクリーチャーズを助けてくれるわけではありません。それはポケモンの初回出荷本数を任天堂が冷静に読んでいたことを考えても明らかでした。ですから石原はクリーチャーズの経営者として、なんとしても自分の力で会社経営を軌道に乗せなければならなかったのです。もちろんクリーチャーズの収益源の柱は、当時はポケモンでした。川口は言っています。
「ポケモンがクリーチャーズの将来を占う商品になったわけです。クリーチャーズが最初にプロデュースする商品であるポケモンの印税の一部が、クリーチャーズの収益源になるわけですからね。それが伸びていかなければ、新たな収益源を探していかなければならないわけですよ。当時石原さんは、いくつかの会社と他の仕事もしておられましたけど、会社を動かしていくには、もっともっと大きな収益が必要なわけです

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「ミニ四駆GB」
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[[IMAGE CAPTION 2|
アスキーから発売されたミ二四駆のゲー厶ボーイ用ソフ卜。開発はクリーチャーズが担当。このゲー厶を開発していた当時のクリーチャーズにはミニ四駆コースが常設されていました。
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第2章  ブレイク

よ」
ここに川口が挙げている石原の仕事はどれも、ポケモン発売後、『コロコロコミック』の久保と一緒に作ったゲームのことです。久保はこう語っています。「当時はミニ四駆が人気だったですよ。それでポケモンの打ち合わせをしていくとき、石原さんがミニ四駆って面白いですねえっていう話になったから、だったら、どうですかって言って、アスキーさんでミニ四駆のゲームボーイ用ソフトを作ってもらったりしました。石原さんも、ポケモンの次に何やるかなっていうときだったので、快く引き受けてもらったんです。ほかにも、トミーさんで売ったバーコードのようなものが書かれたメンコバトルや、バンダイさんのカスタマイズできるサイコロのゲームシステムも作ってもらいました。これらは『コロコロコミック』の編集部で、何とかなりませんかってメーカーから言われて預かつていたものなんですけど、それを石原さんに何とかなりませんかって頼んで、面白いですねって言ってもらったものを次々と商品にしてもらったんですよ。ですから、96年10月の青バージョンの通販の頃までは、そんな風にポケモンと別の話もずいぶんやってました。その中にもちろんポケモンカ—ドゲームもあったんですけどね」
石原のこうした動きは、まさにクリーチャーズの経営者として、新たな仕事を作ろうとする努力だったのですが、もちろんその間、ポケモンの勢いが止まらぬよう、任

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メンコバトル (バトメン)
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トミーから発売された対戦用コンピュータゲー厶。牛乳蓋大の大きさの円形メンコにバーコードが刷られており、そのバーコートを専用八ードにデータとして入力することで対戦可能にしたゲー厶。
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天堂も応援していたのだと、川口は話しています。
「ゲームボーイの実力から、初回出荷は小さい数字になったわけですが、そういう厳しい状況の中からスター卜したことが、ぼくや宮本君など、任天堂もなんとかクリーチャーズを守り立てていこうとすることになって、結果的にはよかったと思いますね。このままじや、石原さんにつらい思いをさせただけじやないの、というような友情というか、信頼関係もありましたからね。だから会社の仕事とはまた別のこととしてぼくも宮本君も、他の任天堂の社員もいますが、なんとかポケモンを世に出していこうという思いがありましたね。自分たちがやれる役割をそれぞれがやったと思うんですよ。小学館さんとの関係も、そこでクローズアップされてくるんですけどね」クリーチャーズは、ポケモンカードゲームを製造・販売する権利を、メディアファクトリーに供与しました。そのライセンスの範囲は、日本国内だけでなく、世界全域に向けてのライセンスでした。ゲームのポケモンの海外での広がりはまだ未知数でしたが、ポケモンカードについては、トレーディングカードの本場である欧米をもすでに視野に入れていたのです。そしてポケモンカードゲームは、石原をプロデューサーに、制作協力•監修クリーチャーズ、発売元メディアファクトリーとして、発売されたのでした。

[[BOTTOM TEXT|
ポケコロ
バンダイから発売されたサイコロ型ゲー厶。サイコロの6面のうち4面を自分の好きなタイプ(攻撃・防御・アイテ厶)にカスタマイズできる戦略性の高いゲー厶。複数のサイコロを一気に投げそのポイントで対戦相手とバトルできる。販売価格は500〜1000円。
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第2章  ブレイク

発売に合わせて、ポケモンカードゲームを企画展開したメディアは、またもや『コロコ口コミック』ただ1誌。ゲーム業界が売れるはずないと無視しているのですから、マスコミが取り上げるはずがありません。その結果、『コロコロコミック』を中心とする小学館の雑誌は、ポケモンカードゲームに関する情報も独占できることになったのです。
ポケモンカードと連動した企画展開は、発売の2カ月前、ミュウを手渡しで700人にプレゼントした96年8月の第4回次世代ワールドホビーフェアからスタ—卜しました。ここで初めてポケモンカードゲームの展示とデモが行われたのです。次いで10月15日発売の月刊『コロコロコミック』n月号で、初めてカードゲームの全容を誌上公開しました。そうです。青バージョンの誌上通販を開始したのと同じ号です。ですからこの号は、表紙から巻頭グラビアまでポケモン一色という状態になりました。この号には併せて2枚のプレミアムカードも特別とじこみ付録としてついていました。巻頭カラーグラビアページの最初のページに縦12センチ、横8センチほどの封筒がとじこまれ、中にふうせんポケモンのプリンと、ねずみポケモンのピカチュウのカラーイラストをコーティング印刷したカードが1枚ずつ入っていました。プリンとピカチュウは、コロコロアンケートで人気トツプ2のポケモンでした。『コロコロコミック』12月号の付録以外では手に入らない限定カードでした。

[[IMAGE CAPTION 1|
コロコロコミツク11月号に掲載されたポケモンカード付録
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©1995, 1996, 1998 Nintendo/Creatures inc./GAMEFREAK inc.
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このときの『コロコロコミック』の部数は、ポケモン連動企画を開始して以来右肩上がりに伸びてきて180万部ほどになっていましたから、日本の180万人の子どもたちが合計360万枚のポケモンカードを手にしたことになります。この時点ではもちろん、8月のイベント会場でカードゲームのデモを見た子どもたちを除けば、まだ誰もカードゲームのことを知りませんでした。
しかし、子どもたちが遊んでいたゲームボーイのモニター画面はモノクロでした。モニタ—画面に出てくるポケモンたちにも色はついていません。そこに鮮やかに発色するカラーイラストのポケモンカードがプレゼントされたのです。プリンとピカチュウの2枚のポケモンカードは、ポケモンで遊んでいる子どもたちにとってはもちろん、それまでゲームのポケモンで遊んでいなかった子どもたちにとっても、文字通り特別なプレミアムカードになりました。
「付録のカードは、カードゲームで使う本物のカードと一緒に使ってシャツフルしても絶対にわからないカードにしようと思ったので、かなり苦労しました」(久保)久保は、ポケモンカードと同じ紙を共同印刷に手配させ、印刷データも任天堂から取り寄せました。「紙も色も同じだし、印刷も同じデータ、同じインクを使ったのですから、もうほんとにシャツフルしてもわかりません。これをギブアウェイの付録にしてつけたらカードも売れるんじやないかってことでつけたんですけど。そしたら案

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ポケモンカード関係の掲載ページ
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©小学館
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第2章  ブレイク

の定、売れ出したわけです」
販売は、非常に限定的でした。ゲーム専門店以外では、スタ—コーポレーションがパイプを持っていた総合スーパーのイトーヨー力堂でしか売らなかったのです。ゲーム専門店以外での販売をイトーヨー力堂に限定することになったのは、トレーディングカードというなじみのない商品を積極的に置こうとする小売店がなかっただけでなく、イトーヨー力堂と『コロコロコミック』の間に特別な関係があったからです。

コロコロホビープラザ

イトーヨー力堂は、1996年7月末から、首都圏29店舗でコロコロホビープラザというコーナーのテスト展開を始めていました。これは業界初の単一雑誌掲載商品専門コーナーです。その名称からもわかるように、『コロコロコミック』誌上で扱われた商品を、ゲーム、プラモデル、シールなどのオモチャから文房具まで、何でも揃えたコーナーです。『コロコロコミック』に掲載された商品はコロコロホビープラザに行けば必ず買える、というのが目玉でした。
これはイトーヨー力堂のバイヤ—•橋本好美が企画提案してきた雑誌連動企画でした。業界初という話に『コロコロコミック』編集部も積極的に協力すると答えたので

[[BOTTOM TEXT, pt 1|
コロコロの付録カード
カードゲー厶のカードを付録にしようと思ったときからお店で売っているカードと何ら違いがないようにしたいと考えていました。それでカードの紙は結局任天堂から直接PCG用の用紙を購入しました。また印刷に関しては、これも任天堂から印刷データをもらい同じインキで刷るようにしました。さらにお店士冗っているカードにはシャツフルしやすいように滑りやすくなるような加工がカード片面に施されておりました。付録のカードももちろん同様な加工をおこなっています。違いは唯ー、カード表面の光沢です。付録のカードは台紙に真空圧着してから本に綴じ込まれるため、特殊なコー
]]

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す。それを受けて、橋本とその部下の新井浩且たちは『コロコロコミツク』が扱っている商品のメーカー、出広している企業全社を回って、コロコロホビープラザの運営システムを説明して回りました。
それはこういうものでした。まず、コロコロホビープラザには、コロコロ関連商品をもれなくディスプレイする。ここの商品の売れ行きはPOSシステムで逐次メーカーに伝えられ、メーカーは売れ行きを見ながら品切れにならないようにイトーヨーカ堂に出荷する。また、人気商品については、メーカー側もイトーヨーカ堂向けに納品数量を増やしたり、優先的に納品する。『コロコロコミック』編集部は、コロコロ関連商品の企画ページでコロコロホビープラザを絡めた企画展開をするーー。以上は、うまくいけば理想的な販売システムになります。この提案を拒否する企業はありませんでした。企画自体は、コンセプトとしては、書店で見かける週刊誌や新聞の書評欄で取り上げられた書籍を集めた「書評コーナー」と同じものです。消費者が見つけやすく、買いやすくするのが狙いです。ただ、スーパーマーケツトが雑誌1誌に限定したコーナーを設置するのは、業界初の試みでした。多くの商品情報を誌面展開している『コロコロコミツク』でなければ成立しない企画だったでしょう。コロコロホビープラザは、『コロコロコミック』誌上での告知効果もあって、好調な滑り出しでした。中でも人気の高まりとともに品薄感が出始めていたポケモン関連

[[BOTTOM TEXT, pt 2|
ティングが表面に加工されています。ただこの光沢は、ゲー厶を実プレイする上でなんの傷害にもなりません。PCGの発売日は10月20日。コロコロコミックの発売日は10月15日。マーケティング用語で言えば、ポケモンカードゲー厶の限定カードが2枚、発売5日前に全国180万セットギブアウェイ(無料配布)されたことになります。付録として配られたカードを見て気に入ってくれればさらにお店で買ってくださいというキャンペーンとも言えます。このキャンペーンはメディアファクトリー元常務取締役•香山哲さんと石原さん、久保の間で計画され進行しました。
]]

商品の供給を優先的に受けられることは、大きな強みになりました。結果として売り上げは、イトーヨーカ堂自身の予想を上回る順調な伸びを示しました。そのためイトーヨーカ堂はコロコロホビープラザの拡大展開に踏み切り、1カ月後の8月末には、設置店舗を29店舗から2倍以上の75店舗に、さらに10月末には138店舗まで拡大しました。コロコロホビープラザはポケモンと連動した企画ではありませんでしたが、結果的に、これ以上ないというタイミングをつかむことになったのです。そのイトーヨー力堂に、スターコーポレーションもパイプがあったのです。ゲーム専門店に流れた少量を除いて、ポケモンカードの大半がイトーヨー力堂に卸されることになりました。このとき、イトーヨーカ堂に、ポケモンカードがヒットするという確かな読みがあったわけではありません。イトーヨー力堂が信じていたのは、『コロコ口コミック』という媒体の持つ力でした。ですからイトーヨーカ堂はその後、ポケモンカードを目玉にしたコロコロホビープラザだけのテレビCFを制作して流すほど力を入れたのですが、企画スタ—卜時に、ポケモンカードの誌面展開を今後も継続的にやっていく意思があるかどうか、久保に確かめています。イトーヨー力堂という流通がポケモンカードの発展過程にはなくてはならない存在で、販売のみならずプロモーションにつながる投資をもしたことは、関係者の記憶にいつまでも残りました。

[[IMAGE CAPTION 1|
橋本好美さん
]]
[[IMAGE CAPTION 2|
1949年5月29日生まれ。福島県出身。74年3月イトーヨーカ堂入社。現在、情報ソフト部シニアMD。実務内容は、玩具•TVゲー厶•音楽CD•DVD•ファンシー雑貨の部門と、パソコン機器•携帯電話•書籍•文具等の情報部門とのマーチャンダイジングを統括。
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ポケモンのパラレルヮ—ルド

ポケモンは、人々の予想をいつも覆します。
ポケモンカードもそうでした。『コロコロコミック』の綴じ込み付録のカードに刺激された子どもたちは、発売開始と同時にポケモンカードに殺到しました。難しいゲームだと言われ、任天堂をはじめとする玩具メーカー、卸問屋、小売店に敬遠されていたにもかかわらず、発売初日から子どもたちはポケモンカードゲームで遊び始めました。
子どもたちにとっては、ゲームソフトのポケモンの世界とカードゲームのポケモンの世界は、シームレスにつながっていました。一卵性双生児のような二つのゲームですから、当然と言えば当然でした。勝手知ったるポケモンの世界だったのです。ゲームソフトのポケモンで鍛えてきたポケモントレーナーの腕前も、無駄になることなくカードゲームでも発揮できました。そしてゲームボーイのモニター画面を覗き込んでいるときとはまた違った、よりリアルに自分が戦いの当事者であることを感じられたのです。
逆に、カードゲームからポケモンの世界に入ってきた子どももいました。親からゲームボーイで遊ぶことを禁じられていた子どもたちやゲームボーイを持っていなかつ

[[IMAGE CAPTION 1|
イトーヨーカドー・コロコロホビープラザ
]]
[[IMAGE CAPTION 2|
イトーヨーカドー橋本さんの発案スター卜したコロコロコミックで展開中の玩具を集めたショップ。1996年6月石巻あけぼの店オープンにて「コロコロコミックホビープラザ」第ー号店スター卜。2000年末までに167店舗展開。
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第2章  ブレイク

た子どもたち、それにテレビゲームが好きではなかった子どもたちです。ポケモンカ—ドの登場によって、ゲーム機を介さなくてもポケモンにアクセスできるようになったのです。そして入ってしまえば、ゲームソフトもカードゲームも区別のない、共通のポケモンの世界でした。
ポケモンカードゲームで、ルールを覚えてゲームをプレーできるようになること自体は、小学生以上の子どもたちにとって、それほど難しくありません。学校生活のル—ルを覚えるより簡単でしょう。難しいと感じたのは、カードを手にすることもなくプレーすることもない大人たちだけ。子どもたちはみんな、カードを手にしさえすれば、ポケモントレーナーになれました。ポケモンの世界の間口はより広くなり、ゲーム機にこだわらずに済むようになっただけ、子どもたちはポケモンとの間により自由な関係を結べるようになりました。
親の反応も好意的で、子どもたちがポケモンカードを手にしやすかった理由の一つでした。同じ遊びではあっても、ゲーム機を抱え込んで、小さなモニター画面に見入っている子どもの姿よりも、子ども同士が対面してカードゲームをしている姿の方が、親には健全に思われたのかもしれません。
それに、カードゲームはテレビゲームより頭を使うはずだという先入観もありました。もちろんカードゲームは知恵を絞るゲームですが、ゲームソフトのポケモンだっ

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ポケモンカード売揚 (ポケモンセンター卜ーキョー)
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て同じように頭を使って子どもたちは遊んでいたのです。でも親たちには、カードゲームとゲームソフト、ポケモンの二つのゲームが、たどって行けば同じルーツを持つことなどを知る由もありませんでした。
また、これはもう少し後の話ですが、カードゲームではポケモンのヒットポイントからダメージカウンタ—のポイントを引いたり、コイントスで表が出た回数と技のダメージポイントを掛けたりという計算が必要になるため、カードゲームで遊んでいると足し算引き算、掛け算割り算といった算数のイロハが身につくという教育上の効果が、欧米ではしばしば報道されています。
ポケモンカードは、発売から半年後の1997年3月末までに、8700万枚が出荷されました。年間ベースに換算すると約1億8000万枚になります。それを元にメディアファクトリーは、年間生産計画を立てましたが、すぐに修正せざるを得なくなりました。2年度目の97年4月から98年3月までの1年間の修正出荷枚数は、4億9900万枚に達したのです。
それでもまだ勢いは止まらず、3年度目の98年4月から99年3月の1年間では、実に7億6400万枚になりました。99年ごろからポケモンカードに競合するキャラク夕—カードが数多く市場に投入されたため、2000年3月までの1年間の出荷数は、5億300万枚にとどまりました。しかしそれまでの3年半の累計出荷数は、18億5

500万枚です。これにアメリカの24億枚という、にわかには信じがたい数字を加えると42億5500万枚になりますが、それはもうたとえようもない前人未到の数字と言うほかありません。劇的な成功です。
このポケモンカードを、メディアファクトリーの注文を受けて製造したのは任天堂です。カードを作りながら、ポケモンカードを任天堂ブランドで、という石原の話を断ったことへの後悔はあったかもしれません。しかしそれがビジネスでした。参考までに、イトーヨー力堂のコロコロホビープラザのその後の経過を付け加えておきましょう。ポケモン人気は1997年になって本格的にブレイクし、ほぼすべてのポケモン関連商品が供給不足になるのですが、『コロコロコミック』がポケモン関連商品に関する情報をほぼ独占することになった結果、それに連動しているコロコロホビープラザは、ポケモン関連商品ほぼ全種目にわたって優先的供給を受けることができました。たとえば97年4月には、バンダイのガシャポンポケモンの単月売上200万個を記録し、プラザ全体の売り上げは、イトーヨー力堂全体のゲーム・玩具の売り上げの24パーセントを占めるまでになってゆきます。
それはポケモンカードについても同様でした。人気が出るにつれて多くの小売店がポケモンカードを扱うようになりましたが、あまりにも急速に人気が高まったため、

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新井浩且さん
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1960年3月2日生まれ。静岡県静岡市出身。82年3月入社。現在、住居事業部玩具ホビー部チーフバイヤー。玩具、TVゲー厶、音楽CD・DVD、ファンシー雑貨の部門の仕入を中心にマーチャンダイジングを統括担当。久保とは同じ中学の同卒。
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しばしば供給が追いつかなくなりました。ポケモンカードの問屋スタ—コーポレーションは、そんな状況下でも義理堅く、入荷したポケモンカードの25%をイトーヨーカ堂に入れ続けました。そのため、他のどの店に行ってもないというときでも、コロコ口ホビープラザにだけはいつもポケモンカードがありました。「イトーヨー力堂全体の売り上げのpOSをみると、何度かコロコロホビープラザで売れたポケモンカードがベストテンに入ってるんですよ。卵とか牛乳、キャベツ、ピーマン、キュウリと野菜やら何やらが続いているところに、いきなりポケモンカードが第9位とかで入ってきてるんです」(久保)
コロコロホビープラザの存在は、イトーヨー力堂の売上増に貢献したのはもちろんですが、安定した商品供給を続けたことによって、ポケモンブームの形成にも大きな役割を果たしたのでした。
「イトーヨー力堂が出店している地域は東日本に集中しており、京都に本社を置く任天堂には今ひとつピンとこなかったでしょう。ぼくらには西日本に対しアクションを起こす必要がでてくるわけで、ポケモン企画が関西に強いコンビニエンスチェーン『ローソン』に近づいていったのも自然な考えかもしれません。ただ、ポケモンを応援できる流通システムはどうしても構築したかったし、そのシステムは後からくるコンペティターよりも強力でなければならない。その意味で、当時、業界ナンバー1同

第2章  ブレイク

士のダイエーとセブン—イレブン・ジャパンの組み合わせはあり得ない。業界ナンバ12同士のイトーヨー力堂とローソンの組み合わせならグループを超えて仕事できるのではと考えました」(久保)
そして、この流通の再編は玩具専門店チェーンのトイザらスやビデオ業界の最大手TSUTAYAを巻き込み、現在では日本最大級の独自の流通チェーンとなっています。
「流通を限定すると、仕方なく加われなかった流通からはいじめられるかもしれません。しかし言い換えれば、イトーヨーカ堂グループとダイエーグループの両方に売り上げが成立していることは、彼らからは決して攻撃されないというメリットももっています。こうしていろんなチェーンと組んで仕事をしているうちに流通には詳しくなりました。すると、ますます自分が何屋だかわかんなくなってくるんですね」久保がここで「何屋だかわかんなくなってくる」と言っているのは、もともとの職業である編集者から、思えばはるばる来たもんだといったところでしょうが、それはともかく、イトーヨー力堂のコロコロホビープラザは間違いなく、その後東京と大阪に設置されるポケモンセンタ—に先がけて、子どもたちにとっては最初の身近な小さなポケモンセンターになっていたのです。

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独自の流通チェーンでの展開。
現在ではポケモンゲー厶の他にオリジナルビデオ、CDなども手がけている。参加流通は2000年10月現在でイ卜ーヨーカドー、ローソントイザらス、TSUTAYA、ダイエー、キティランドの6社。
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