Pokemon Story/Chapter 2/Subchapter 2: CoroCoro Comic

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2 『コロコロコミック』

メディアが次世代ゲーム機に注目している中で、ただ1誌だけ、『ポケットモンスター』に注目し、企画展開した雑誌がありました。
小学館発行の子ども向けコミック誌『コロコロコミック』です。『別冊コロコロコミック』4月号が、ゲーム『ポケットモンスタ—』を紹介するとともに、150匹のポケモンの中からようせいポケモンのピッピをフィーチャーしたマンガ『ポケットモンスタ—ふしぎポケモンピッピ』を掲載したのです。発売日もポケモンの発売日の翌日、1996年2月28日というタイミングのよさでした。任天堂のお膝元の関西地区では、輸送の関係から発売日が1日早まり、ゲームと同じ2月27日に発売されました。『別冊コロコロコミック』は、月刊『コロコロコミツク』から生まれた隔月刊の姉妹誌です。その月刊『コロコロコミック』について、ポケモン発売当時同誌副編集長で、ポケモン担当編集者でもあった久保雅一が、『文藝春秋』2000年6月臨時増刊号に寄せた記事の中で、次のように述べています。
「『コロコロコミツク』といっても、文藝春秋の読者にはあまりなじみがないかもしれません。しかし月刊誌としては、『文藝春秋』の3倍以上、月刊誌として日本一の

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「コロコロコミック」
写真は2000年11月号
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[[IMAGE CAPTION 2|©小学館]]

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「月刊コロコロコミック」は小学館の小学生、中学生低学年男の子向けコミック雑誌。定価480円、A5版で800ページちかいボリュー厶を誇る分厚い雑誌です。毎月15日発売の月刊誌。で、小学生の子どもにはバイブルのような存在ですが、大人から見るとあまりにごちゃごちやしていて読みづらく、昼寝のための枕にしかならないかもしれません。
「別冊コロコロコミック」と上記にはありますが、正式名
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第2章  ブレイク

発行部数200万部を記録(現在は150万部)しているほどです。ゲームやキャラクターグッズの情報、イベント情報、新しい遊びの提案、そしてポケットモンスターなどのホビーと連動した画が連載される、いわば小学生たちの「遊び」のための総合雑誌。子どもたちの『文藝春秋』というと言い過ぎかもしれませんが……」(同誌「世界を徘徊する和製モンスタ—〃ピカチュウ〃」より引用)
この久保の言葉は決して誇張ではありません。月刊『コロコロコミック』は、藤子不二雄の『ドラえもん』を掲載するためのマンガ誌として1977年に創刊されたコミック誌です。以来四半世紀にわたって、小学生男子を核とする子どもたちから、圧倒的な支持を受けてきました。

ポケモン、マンガになる

ポケモン発売当時も、月刊『コロコロコミック』が120万部、別冊もその半分の60万部という部数を誇っていました。その『コロコロコミツク』がポケモンを取り上げることになったのは、まさにポケモンがゲームボーイ用ソフトだったからでした。『コロコロコミック』の編集手法は、当時も今も徹底した子どもたちへのマーケティングにあります。ですから、子どもたちの小遣いの額が月にいくらで、お年玉をどの

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称は「別冊コロコロスペシャル」です。ただ編集部でも正式名称で呼ぶ人間はほとんどなく、「別冊コロコロコミック」で十分通用します。ぼくは、現時点でもこの雑誌を見守る立場ですから、あしかけ13年関わっていることになります。人生のかなりの部分をこの雑誌に捧げたことになりますね。
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くらいもらっているか、といったアンケートを毎号のようにとって集計していました。それによれば、1996年当時、小学生のお年玉の平均は約2万6200円でした。『コロコロコミック』編集部では、そのお年玉で子どもたちは何を買うだろうかと考えました。ここではポケモンに関係のあるゲーム関連の消費傾向についてだけお話ししますが、2万6200円という額では、定価3万9800円のソニープレイステーションは、そもそも買えません。定価2万2400円だった任天堂N64なら本体は買うことができますが、5800円、6800円という値段のN64用ソフトは1本も買えません。セガ・サタ—ンにしても同様です。
しかし、値下げされて当時8000円だったゲームボーイなら、ソフトも2000円台から3000円台までと安かったので、本体とゲームソフトを数本買った上に、友達と映画を見に行き、その残りを貯金に回すこともできました。もちろん、親や祖父母に高額なゲーム機を買ってもらうケースもあるでしょうが、多くの子どもたちは、自分のお年玉は予算を組んで計画的に使っているというのが、『コロコロコミック』のアンケートから浮かび上がってくる小学生像でした。また、アンケートの集計から、子どもたちのゲームボーイ保有率が約65%、スーパ—ファミコンにいたっては約95%という実態もわかっていました。世の中がどれほど新鋭ゲーム機に浮かれても、現実には大半の子どもがゲームボーイとスーパーファミ子どものはやり、ブー厶は大人のそれ以上にうつろいやすくもろいものです。特に小学生の子どもは成長過程ということもありその傾向が顕著です。

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「コロコロコミック」
が創ったブー厶
そんな子供をタ——ゲットに、25年前、「ドラえもん」がたくさん読めるコミック雑誌としてコロコロコミックは誕生しました。ですので創刊号をひもとくと現在のようなカラーグラフページはほとんどありません。純粋なまんが雑誌だったのです。
創刊後、編集母体が学年別学習雑誌の経験者が大多数を占めたため、自然と子ども周りのはやり•ホビーをネタにするようになってきました。その顕著な例が「ゲームセン
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コンで遊んでいたのです。それを知っているのが、『コロコロコミック』の強さでした。
『コロコロコミック』は自信を持ってゲームボーイとスーパーファミコンを子どもたちの基本ゲーム機と位置づけ、次世代ゲーム機をメインにした紙面作りをする他誌とは明確に一線を画していました。「世の中がどんなに騒いでいても、俺たちは違うぞ」(久保)という編集部だったのです。
そんな雑誌でしたから、ゲームボーイやスーパーファミコン用ゲームソフトの特集やコミツク化に、タイアップなどの特別な動機は必要ありませんでした。ポケモンを『コロコロコミック』に引き合わせたのは、任天堂の川口でした。川口はそれ以前から、任天堂のゲームの攻略本を何冊か小学館で出していることもあって、『小学一年生』をはじめとする学年誌がメインの小学館第8編集部や、『コロコロコミック』に代表される子ども向けコミックをメインとする第9編集部に、知人が大勢いました。その中に『コロコロコミック』副編集長の久保がいたのです。ポケモンが発売された当時、『コロコロコミック』副編集長だった久保雅一は、1959年、北海道札幌市で銀行マンの家庭に長男として生まれました。久保は、石原や田尻とは違い、秀才の誉れなど縁遠い少年時代を過ごしました。マンガ好きで生傷

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夕ーあらし」というまんがです。若い頃の田尻さんがそのまま登場しそうなアーケードゲー厶を題材とし、大人気となりました。コロコロコミックは部数をのばし、「裏技」というはやり言葉まで誕生させました。
その後、コロコロコミックはさまざまなブー厶をゼロから創り上げてきました。そうです! この仕事はまさしく「創造」という言葉が表現にはふさわしく、なにもないところから様々なホビーをブー厶にしていったのです。チョロQ、ビックリマンシール、おぼっちやまくん、人面犬、Mrマリック、スーパ—ドッジ、ビーダマン、ミニ四駆、ハイパーヨーヨーなどなどです。すべてはここに書ききれません。
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の絶えないガキ大将だったのです。
後にあだ名付けの天才の一面を持つ任天堂の山内溥は、久保を評して「サル山のボスザル」と言い、また「あんまりあいつを怒らせるな」と周辺にもらしたと伝えられていますが、それは少年時代に久保の友人たちが話していたコメントとまったく同じものでした。
10代を迎える頃、父親の転勤のために上京し、王貞治の母校早稲田実業高校から早稲田大学教育学部に推薦入学します。教育学部を選んだのは、久保が教職をめざしていたからでした。「総理大臣でも先生と呼ぶのは、学校の先生しかいない!」というのが動機です。そんなジョークのような動機とは裏腹に、教育学部在学中に目覚めた児童社会学は、以来今日まで久保の大生のテーマとなっています。この早稲田での学生時代に、久保は「ゴア」というニックネームを付けられています。これは『マグマ大使』という怪獣テレビ番組の悪役宇宙大に風貌が似ていたためでした。久保とキャラクタ—ビジネスとの最初のかかわりロいでした。そんな久保が大学1年生のとき、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に海外研修遊学をするチャンスを得ました。久保家は父親の単身赴任などは夢にも考えず、父親に従って家族4大が1年間、ロサンゼルスで過ごしました。久保はこのとき、UCLAで英語の研修を受けました。

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コロコロコミックのブー厶を創る手法はきわめて明解です。子どもたちのデータを集めたり玩具メーカーの開発マンとの打ち合わせを経て、はやりそうな遊びを選定します。いったんこの遊びをプッシュすると編集部が決めるとその遊びがテーマのコミックを掲載し、同時にカラーグラフぺージでノウハウを教えるという両面作戦で子どもたちにアプローチします。平面の印刷媒体で表現しづらい遊びに関しては、独自のイベントやテレビ番組で認知度をあげる努力をしていきます。それで子どもたちの支持があがればその遊びはブー厶になっていくし、ダメならそれで終わりというものです。
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第2章  ブレイク

久保は1983年に卒業しますが、希望していた教職には就けず、仕方なくマスコ ミを志望することになります。当時のマスコミ就職戦線は採用試験が遅く、久保のよ うな学生が多数押しかけました。久保は新潮社、集英社、世界文化社、小学館といっ た出版社を受験しました。就職活動の中で、久保は「どうしてもコミックや雑誌の編 集がしたい!」と考えるようになったからです。久保は幸運にも第一志望の小学館に 合格しました。
1983年、久保は小学館に入社しました。〃マンガ好きの子ども〃から抜け出ら れなかった久保は、入社後さらに子ども向けコミツク誌の編集者になりたいと思うよ うになります。が、その希望はかなわず、久保が最初に配属されたのは資材部でした。 子ども向けコミツク誌の編集者になろうと意気揚々と入社してきたわけですが、実際 彼にあてがわれた業務は印刷用紙などの資材購入だったのです。久保は、「ふてくさ れて」退社まで考えました。しかしそのとき、当時の上司に当たる元小学館専務取締 役上野外喜男は、「石の上にも3年だ」と久保に説きました。
「3年と期日を切られると、それが嘘かもしれないと思っても、なんとなくホッとし たんですね。実際は3年でなく2年半で異動できたんですけど、今考えてみると資材 部にいた経験は大きかったですよ。印刷物や学年誌の付録についているような素材の 製品原価がなんとなく頭に浮かぶようになったからです」(久保)

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●ビックリマンシール
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[[IMAGE 1, CAPTION 2|
©ロツテ/ビックリマンプロジェクト
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●ミニ四駆
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[[IMAGE 2, CAPTION 2|
©タミヤ ©こしたてっひろ•小学館
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資材部を出た久保は、『てれびくん』という子ども向けテレビ情報誌を経て、1986年念願の第9編集部『コロコロコミック』編集部配属になりました。『コロコロコミック』編集部に配属された久保は、自らカメラを片手に取材に飛び出してゆくこともしばしばで、カメラマン編集者として活躍していました。『コロコロコミツク』にはデスク、副編集長を経て、1999年暮れに創刊された月刊コミック誌『GOTTA(ガツタ)』編集長に異動するまで、足掛け13年間所属しましたが、これは小学館内でも異例の長さでした。
この『コロコロコミック』編集部時代に、久保は目覚しい業績を上げました。2度目のミニ四駆ブームの仕掛けとプロデュースです。

ミニ四駆ブームの仕掛け人

自動車レースのF1で、マクラーレンホンダが破竹の開幕8連勝など、連戦連勝を飾っていた80年代末、子どもたちの間で田宮模型のミニ四駆が流行り始めました。久保がコロコロコミックへ異動してきて間もない頃です。当時のミニ四駆担当編集者は黒川和彦(現•小学一年生編集長)で、黒川は『コロコロコミック』誌上でミニ四駆マンガの連載を始めました。これが第1次ミニ四駆ブームになるのですが、このとき

第2章  ブレイク

の久保は、どちらかというとお手伝いのポジションでブームを見ていました。「最初のブームのときは、自然発生的に生まれてきたものに、ああした方がいい、こうした方がいいという形で、その遊び方を提案していったわけです。どちらかというと、自然な流れに乗っていったという感じで、人為的に何かを起こしていったというふうじゃなかったと記憶しています」(久保)
F1ブームの影響で、模型もマンガもフォーミュラカーが主流でした。自動車レース、バイクレースは久保の趣味でもあったので、この時期には、カメラを抱えた久保の姿が鈴鹿や富士のサーキツトのコース脇でしばしば目撃されています。F1パイロツトだった中嶋悟が引退した89年には、中嶋にとって最後の鈴鹿のレースでのクラッシュシーンを見事に撮影しています。そのシーンを正面から撮影したカメラマンは他になく、翌日のスポーツ紙には『中嶋クラッシュ! 引退!』の文字がおどりましたが、その脇には、中嶋の白いマシンとともにその様子を必死にカメラに収めている久保の姿がうつった写真が載りました。
そんな体を張っての取材が功を奏したのかどうか、『コロコロコミック』が推す連載マンガ『ダッシュ!四駆郎』(徳田ザウルス作)の人気も上々で、ミニ四駆の商品も売れました。それを見た東急エージェンシーから、テレビ東京でのテレビアニメ化の企画提案があり、『コロコロコミック』と田宮模型は、これを受け入れました。

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久保撮影のレース写真
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©小学館
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[[IMAGE 2, CAPTION 1|
「ダツシュ!四駆郎」
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[[IMAGE 2, CAPTION 2|
©徳田ザウルス•小学館
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「それでアニメになった。なったんですけど、半年で終わっちゃった。理由は、広告代理店の利害に左右されたと判断しています。田宮模型さんやぼくらの希望とかではなく、テレビ局と代理店の都合でテレビアニメ番組は終わっちゃったんです」久保はこのとき、テレビというメディアの影響力の大きさを思い知らされました。「アニメが終わると、玩具や模型の問屋筋がみんな、ああミニ四駆はもう人気がないんだと判断して、どんどん発注量をシュリンクしていったんです。発注がなくなれば、お店の商品をおく棚も小さくなる。ほしいものが手に入りづらくなるといった連鎖反応がどんどん起こってシュリンクの輪が広がっていったんですね。それと、このときちょうどバンダイが出したSDガンダムっていう、ガンダムをぎゅつとデフォルメした感じのロボットプラモデルが発売されて、子どもの目がみんなそっちにいっちやつ.たんですよ。お店の棚も空いているから、飛躍的にSDガンダム商品が広がっていく。そうなるとお店に来る子どもたちは直感的に『ああ、次はこれが人気なんだ……』って思いますよね。そんな流れで最初のミニ四駆ブームは、終わってしまいました。だからまあ、自然発生的に立ち上がって、アニメにまでなったけど、自分たちの都合とは関係ないところでミニ四駆ブームは終わっちゃったんですね」アニメ終了後、マンガの人気も引きずられて低迷するようになり、連載はやがて打ち切られました。ただ、田宮模型といっしょに開催していた『ジャパンカップ』とい

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アニメ「ダツシュ!四駆郎」
1989年10月3日から 毎週火曜日夜6時30分よりテ レビ東京系で放送した。代理 店は東急エージェンシー。放 送後半年で終了。
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[[IMAGE CAPTION 2|
©徳田ザウルス•小学館•テレビ東京
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第2章  ブレイク

うイベントだけは人気あるなしに関わらず継続していました。マンガの連載もなく、アニメもないという状況の中で、なぜ続けていたのかと、久保に聞いてみました。「う一ん。今考えてもミニ四駆ブームの中心だった編集者の黒川さんと漫画家の徳田先生が生み出すマンガパワー、田宮模型と小学館の共同作業はすばらしかったと思います。だからミニ四駆の遊びや考え方が悪かったんじやなくて、ブームが終わってしまった原因は違うところにある。勉強し直してやり方さえ進歩させれば、必ずブームはもう一度くるという意識は、成功をともに体験した関係者には残っていたはずです。だからこそブームをいち早く察知できるイベントは、やりつづけるしかなかった」自分たちの意思とは関係ないところで、やりかけたことがまっとうできなかったという思いが、久保の中でくすぶっていました。そのくすぶりを解消するのは、5年後の94年のことでした。
「ミニ四駆は、1回目のブームが終わって3年ほど経っと、お店のPOS (point of sales)データではそれなりの売り上げ数字が表れるようになりました。それでこれは大きく仕掛ければチャンスがあるかもしれないと思った。そろそろ時期的にはいい頃かも、とね」
捲土重来を期した久保の仕掛けが始まりました。
「ミニ四駆というのは、競争がテーマじゃないですか。ということは、マシンを2台
田宮模型の催事部という専門部署が運営•開催していたミニ四駆イベント。コロコロコミックが告知•集客に関して全面協力をしていました。ジャパンカップは毎年夏休みに専用のカーゴトラックを用い全国キャラバンの形で開催された。開催と同時に新型ミ二四駆を先行発売するため、イベント会場は販売に適した大型デパートの屋上がほとんどでした。
ミニ四駆イベント・ジャパンカップ

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買ってもらわないとテーマが成立しない。じやあどうしたら2台同時に買ってもらっ て、競争を楽しんでもらえるんだろうと考えました。結果 最初に兄弟マシンとして 2台のマシンを主人公に据えたマンガストーリーを考えるように、コロコロコミック の新しい担当者の佐上さん(佐上靖之・現『コロコロコミック』編集部副編集長)と 新しく招へいされた漫画家こしたてつひろ先生に頼みました。1台はテクニックより も度胸で直線をかつ飛ぶような俗に弟的なマシンで、もう1台は頭脳派のテクニカル なマシンでコーナリングが抜群に速い兄貴的な性格のものといつたリクエストをつけ て。で、マシンのデザイン、カラーリングも漫画家のこした先生を中心に佐上さん、 田宮模型の田宮督夫さん(現グラフィックデザイナー)、土屋さん(現企画室長)に 作ってもらいました。できあがったマシンは兄弟マシンという性格をもっているので フォルムはよく似ていました。それは2台ほとんど同じ金型で製造できることを意味 し、ブーム再興のための初期投資を抑えるというメリツトも生みました。このあたり が1回目のブームからぼくらが学んだことかもしれません。メーカーから縁遠いと思 われる雑誌編集者が成型金型のコストまで考えて企画を推進したのです」 また久保はこうした市場動向のとらえ方の背景をこう述べています。 「1回目のブームのときは、玩具・プラモデルメーカー各社から2匹目のドジョウ狙 いの類似商品が次々と発売されました。プラモデル業界は工場が静岡県に集中してい

第2章  ブレイク

るため、とても家族主義的な一面があり、田宮模型はそのリーダー格だったため、利益を独り占めするのかという団体内からのクレームには寛容にならざるを得ませんでしたね。結果、編集部も田宮模型も市場をコントロールできなくなり、参入全社とも倒れ的に売れなくなったと分析しています」
そこで2回目のブームが立ち上がりかけた時、メーカー他社は同じてつを踏むまいとミニ四駆市場参入には非常に消極的になりました。これも幸運のひとつでした。その分、じっくりと戦略を練る時間が稼げたからです。その戦略とは、ミニ四駆の本質ともいうべきカスタマイズという遊びです。少しでも速く走りたいという願望を実現するため、子どもたちが各々のアイディアをもりこみマシンを改造するというカスタマイズという概念を、ミニ四駆のキーワードにしたのです。
「ブームを少しでも長くするためには、その速くなる階段を少しずつ上がらなくてはなりません。いきなり最速に到達すると飽きるのも早いし、これから参加しようとするニューカマーがしりごみする。たとえばテニスをこれから始めようとしたとき、周りの人がみんなプロ級だったらいやですよね。勝てるかも、と思われないと遊びの輪は広がっていかないと思います。ライバル他社が参入してくると、どうしてもマシンが速いことをうたい、限界にぶつかるまでが早い。だからこそ、みながしりごみしたのはラッキーでした。学習要素のある、親が応援し参加もしやすいカスタマイズとい

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うテーマは、誰にもじやまされたくはありませんでしたからね」商品ジャンルはまったく違いますが、久保のこの考えには、ひとつの商品にちよつとだけ違うもうひとつのバージョンを設定し交換やバトルを促すという点で、ポケモンの赤・緑と共通の発想を感じます。
そして、月刊『コロコロコミック』で『爆走兄弟レッツ&ゴー』の連載がスタ—卜したわずか3カ月後の7月には、兄弟ミニ四駆マシンを先行販売したイベント『ジャパンカップ』を開催することになりました。
「告知期間が3カ月しかなかったけれど、会場はすごく混みました。アンケートを取ってみたら、来場購入者の86%が2台同時に買ってたんですよ。それが2度目のミニ四駆ブームの立ち上げなんですよね」
2度目のブームは立ち上がりましたが、久保には前回の経験から、ブームのもろさもわかっていました。ブームを維持するには、前述したようにさまざまな市場コントロールはもちろん、全国テレビアニメ放送も必要です。久保は注意深く時間をかけてテレビ東京、広告代理店の読売広告社と交渉を重ねて、95年1月、2度目のミニ四駆アニメ『爆走兄弟レッツ&ゴー』の放送開始にこぎ着けました。さらに翌年には映画化も実現し、久保は企画責任・スーパーバイザーとして初めて映画製作の全般を体験することになりました。

[[IMAGE 1, CAPTION 1|
「爆走兄弟レッツ&ゴー」
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©こしたてっひろ
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[[IMAGE 2, CAPTION 1|
兄の星場烈のマシン「ソニックセイバー」
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[[IMAGE 2, CAPTION 2|
©タミヤ ©こしたてっひろ•小学館
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第2章  ブレイク

ー方、ミニ四駆の商品も、アニメ、映画のヒットと、『コロコロコミック』誌上でのさまざまな企画展開から右肩上がりの売上曲線を描き、国内での単一模型としては初めて、累計販売台数1億台を記録しました。当然、雑誌との連動企画で発売された商品からは、小学館サイドにもロイヤルティ、手数料、著作権など名目はさまざまですが、何らかのりタ—ンが生じるシステムができており、第2次ミニ四駆ブームは、雑誌の販売や広告収入といった従来型の雑誌の事業収入以外の大きな収入を、小学館グループにもたらしたのでした。
こうした手法は一般にキャラクターマーチャンダイズと呼ばれますが、それはなにも久保が生み出した専売特許ではありません。『コロコロコミック』編集部内には、他にいくつもキャラクターマーチャン企画は走つていましたし『ビックリマンシール』のような成功例も持っていました。
「それは、日常的にありますよ。それをやれば、情報が独占できる可能性があるじやないですか。雑誌にとって情報は命です。情報が流出し、企画として誰にでもできちやったら、それはつまんないでしょうからねえ」『コロコロコミック』は、というよりも小学館は、ドラえもんという長寿キャラクタ—をその誕生から今日まで30年以上も大事に育ててきています。その意味では、キャラクタ—マーチャンのノウハウの蓄積量は、質量ともに日本の出版社随一と言ってい

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弟の星場豪のマシン
「マグナムセイバー」
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[[IMAGE CAPTION 2|
©タミヤ ©こしたてっひろ•小学館
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いでしょう。
しかし、同じキャラクターマーチャンのひとつでも、短期間で雑誌連動企画商品の開発から開始し、ブームを立ち上げ、そのブームを実際にその商品が単品換算で1億台も売れてしまうようなムーブメントに仕立て上げるのは、ドラえもんのキャラクタービジネスと同じ次元では語れない、よりダイナミックなビジネス展開です。それは簡単にいえば、意識的にヒツト商品を作り出したということです。しかも、そのコストは、巨大メーカーが広告代理店を使って自社製品をヒット商品にする場合を考えれば、お話にならないほどの小額ですむのです。ミニ四駆ブームで久保が果たした役割は、おそらく雑誌編集者史上前例がないことでした。それはもはや編集者の枠を超えているというべきでしょう。久保の行動と業績は、久保自身も気づかないうちに、従来型の書籍雑誌出版に専念していた編集者や出版社というものへの社会的理解と認識に対する、ある種の揺さぶりになりました。そしてそれが、ポケモンビジネスに久保が関わっていくことになる伏線になつたのです。久保がポケモンに出会ったのは、そんな第2次ミニ四駆ブームの只中のことでした。

[[IMAGE CAPTION 1|
アニメ「爆走兄弟レッツ&ゴー」
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[[IMAGE CAPTION 2|
©こしたてつひろ•小学館•テレビ東京
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[[BOTTOM TEXT|
アニメ『爆走兄弟レッツ&ゴー』
1996年ー月よりテレビ東京系にて放送。代理店は読売広告社。アニメ製作・版権窓口はは小学館プロダクション。1998年まで3年間放送。
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第2章  ブレイク

幻のポケモン「ミュウ』

川口からポケモンの話を聞いた久保はさっそく、神田駅にほど近い任天堂東京事務所を訪ねました。95年11月、ポケモンの開発が最終段階を迎えた頃のことです。東京事務所では、任天堂の総務部広報担当者とクリーチャーズの石原が待っていました。久保は2階の任天堂ロビーに案内され、そこで初めてポケモンに会いました。「石原さんからは、このゲームはいろんなモンスタ—を捕まえることができるRPGで、捕まえたモンスタ—を交換することができるんですっていう説明を受けました。そして杉森さんのイラスト画を見せてもらったんです。『コロコロコミック』は読者の95%が男の子だったので、その編集者として見たわけですが、第一印象としては、男向きとしてはおとなしい、かわいらしい中性的なイラストだなと思いました。ちょっとおとなし過ぎるかなと。でも、これだけ数があるならば、どれか好きなものが出てくるんじやないかとも思いました」
次に石原がデモプレーを見せた後、久保も10分間ほど自分でプレーしてみました。「正直に言えば、それだけではどんなゲームなのか、まったくわかりませんでした。でも、捕まえたモンスタ—が交換できるってところだけは、すごく気になったんですよ。へえ、そんなことができるんだって思って。それと、石原さんが『マザー』とい

[[BOTTOM TEXT|
ポケモンのゲー厶イラスト
ポケモンゲー厶のビジュアル(世界観)はゲー厶フリーク・杉森建さんの水彩画作品がおおもととなっています。水彩画ならではの優しさがそのイラストからは感じられます。
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う傑作ゲームに関わった人だと聞いていたので、ああいう質の高いゲームを作った人たちが作ったゲームなら、ハズレってことにもならないだろうと思いました。仕事柄、製作途中のゲームをよく見せてもらうんですが、途中の段階で評価するのは難しい。絵画だって製作途中のものを評価するのは不可能でしょ。それと同じことです」久保は、その場では返事をせず、検討すると言って編集部に帰りました。しかし、すでに内心、ポケモンをマンガにしてみようという気持ちは固まっていました。自分が持っている珍しいモンスタ—を、友達に見せたり交換したりできるゲーム。なんだ、それって、子どもが一番好きなことじやないか。久保はそう思いました。それに石原は、と久保は思い出しました。石原は、ポケモンが自分のぺツトでもあるかのような優しい対応でゲームを説明してくれました。当時、激しい殴り合いを売り物にするゲームが氾濫する世の中で、『ポケットモンスタ—』は人肌の感じられるいいゲームのような気がする……それが久保の直感でした。
久保がポケモンに初めて出会った95年11月は、任天堂の問屋グループ「初心会」を中心に毎年開かれる任天堂関連商品イベント「任天堂スペースワールド」の開催月でした。久保も誘われて、週末の一般公開に先立つH月24日金曜日、幕張メッセの会場に行ってみました。
「任天堂ブースは、会場全体がもうNINTENDO64が当然メインでした。会場左

[[BOTTOM TEXT|
「MOTHER (マザー)」
エイプが作成したスーパー ファミコンのゲー厶。糸井重 里さんがプロデュース。秀作 です。
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[[IMAGE CAPTION|
©1989  Shigesato ITOI, Nintendo
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第2章  ブレイク

手奥にゲームボーイも展示されてましたが、いかにも末席といった端っこにあって、人だかりもなかった。ほとんど忘れ去られている。地味だなあって思いましたね」このとき、石原も久保と一緒にゲームボーイのコーナーにいました。「まだ通信バグが残っていましたが、展示はしたんです。当時としては初めての大型液晶モニターをポケモンの展示に使ったんですけどね。10台くらいゲームボーイを置いて、対戦できるようにしてあったんですけど、本当に地味でしたね。当時は、ゲームボーイのソフトの展示があること自体珍しいくらいでした。誰も見向きもしなかったんですよ。やはり、流通的にも営業的にも、そんなにでかいタマじゃなかったんです。ゲームとしては評価は高いし、それなりにいけるんじやないかというところはあるんだけれども、まあ、ゲームボーイのソフトが50万本、100万本売れる時代じやないよっていうことだったんです。マリオのピクロスは100万本売れましたが、それは気軽に遊べるパズルゲームでした。RPGのポケモンは、そんなわけにはいかんだろう、あれは別物という評価だったのです」(石原)ゲームボーイが時代遅れのゲーム機になりつつあるということが、会場からもひしひしと伝わってきたというわけです。一般のマスコミであれば、そこまで時代から外れかけた商品であれば、企画替えということになったかもしれません。それでもポケモンのコンセプトに何か輝きのようなものを感じていた久保は、マンガ化の方針を変

[[BOTTOM TEXT|
「任天堂スペースワールド」
任天堂関連商品を紹介する見本市。2000年度は8月に開催され、次期マシン「二ンテンドーゲームキューブ」と「ゲー厶ボーイ•アドバンス」が発表されました。同時に幻のポケモン「セレビイ」が10万人にプレゼントされました。
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(写真は、一般公開前の新製 品発表会のステージ)
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えませんでしたが、まったく不安がなかったわけではありません。
「ポケモンの発売日が延びて、ほとんど同じころに『別冊コロコロコミック』があったので、こちらにしたんです。「本誌」と呼ばれる月刊の方でやるには何か連載マンガを終わらせないと掲載ページがでてこない状況だったので、早急に調整してもゲーム発売に間に合わないのはわかっていました。それと初心会の寂しい状況を考えると、いきなり本誌の月刊でやるのに他の編集部員を説得する自信もなかったんです」このように、業界内では注目もされず期待もされていなかったポケモンですが、とにかくコミツク化され、メディアにデビューすることになりました。コミック化は、コロコロコミックでのポケモン担当になった福本(現テレパル編集部)と漫画を執筆することになった穴久保幸作、穴久保の担当編集者野村(現コミックGOTTAデスク)を中心として作業を進め、『ポケットモンスタ—ふしぎポケモンピッピ』というタイトルでスタ—卜することになりました。
ようせいポケモンのピッピをフィーチャーすることになったのは、まだどのポケモンが人気者になるのかデータがなかったので、編集部で勝手に決めざるを得なかったからです。ピッピは、ポケモンたちの中でも指折りのかわいいポケモンの1匹です。男の子が好みそうな強そうだったりかっこよかったりというポケモンを選ばなかったのは、これをコロコロコミックが得意とするギャグマンガとしてとらえていたからで

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『別冊コロコロコミック』
実際ポケモンのマンガが掲載されたのは96年「別冊コロコロスペシャル4月号」
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[[IMAGE 1, CAPTION 2|
©小学館
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掲載されたマンガ「ふしぎポケモンピッピ」の表紙
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[[IMAGE 2, CAPTION 2|
©穴久保幸作•小学館
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第2章  ブレイク

した。掲載ページ数の関係から、ゲームストーリー全体をフォローできないのはわかっていたので、毎号20ページ前後で楽しめる道を模索した結果としては、自然な選択だったといえるでしょう。
96年2月28日の『別冊コロコロコミック』の発売後、編集部には少しずつ読者アンケートのハガキが返ってきはじめました。その中で初登場の『ふしぎポケモンピッピ』は、かなりの健闘を見せていました。
「まあ、そこそこよかったんですよ、アンケートも。それで、次も続けようということになりました」(久保)
一方、ポケモンのゲームの売れ行きはゆっくりしたペースでした。石原は言います。「それでも意外に早く、増産するという話があったんですよ。発売から1週間くらいで、初回出荷分がなくなったんですね。じゃあ今度は、20万本くらい増産してくれるのかと思ったら、5万本増産して翌月投入します、いいペースですよって言われるんです。でも月に5万本というペースでは、年間で60万本に過ぎませんよね。それで田尻君に、200万本構想が、もろくも崩れ去ったなあって話したんです」売上推移を週単位で追ってみると、発売からの1週間で12万本近い売り上げがあったものの、2週目は3万本を切るところまで落ちました。しかしそのまま下降線をたどるのかと思えばそうでもなく、多少増減はあるもののそれ以降はコンスタントに毎

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週2万本台を売り上げるという状態に入りました。ポケモンに期待していなかった任天堂としては、意外なほどいい数字でした。それどころか付録までついていました。「3月になると、通信ケーブルがめちやくちやに売れ出して足りなくなっちやったんですよ。まあ、それはそうなんですけどね、通信ケーブルがいるゲームですから。でもねえ、ほんとにめちゃくちゃ売れたんですよ」(川口) それでもポケモンに期待をかけていた石原には、なんとももどかしい数字でした。そこに飛び込んできたのが、誰も予期していなかった151匹目のポケモン、ミュウの話でした。
「3月半ば頃、いつものようにクリーチャーズにポケモン情報をもらいにいくと、石原さんが、こんなもんが実は入っとるんですって言うから、どうしたんですかって聞いて、初めて事情がわかったんです」(久保) ここでいうポケモン情報とは、『コロコロコミック』編集部が、優先的に得ていた情報のことです。独占とか優先ということが、任天堂サイドと『コロコロコミツク』の間で確約されていたわけではありませんが、いわばポケモンのコミック化によって築かれた友好関係の一環でした。その担当責任者が久保だったので、久保は定期的に神田の任天堂東京事務所を訪れ、石原に取材しては編集部にポケモンの情報を出していたのです。石原が久保に話してくれた『ミュウ』の話は、まさに特ダネでした。

[[GRAPHIC CAPTION 1|
ポケモンの売り上げ折れ線グラフ
数字は入っていませんが売り上げの様子はわかります。
]]
[[GRAPHIC CAPTION 2|
GBポケット発売
]]
[[GRAPHIC CAPTION 3|
3	4	5	6	7	8	9
月	月	月	月	月	月	月
]]
[[GRAPHIC CAPTION 4|
累計出荷数 —— 推定実売数
]]

第2章  ブレイク

それは、こんな話でした。
ー子どもたちの間で、ミュウという幻のポケモンがいるという噂が飛び交っている。『ポケットモンスター』には150匹のポケモンしかいないはずなのに、ゲームで遊んでいると、突然ポケモン図鑑にも出ていないポケモンが現れることがあるらしい。それがミュウなのだと。しかもそれは、ある子には現れるのに、別の子には現れないなど、説明がつかないことばかり。子どもたちはいま、そのミュウを捕まえようとゲームの中を夢中で歩き回っている。さらにまた、どうしても捕まえられない子は、任天堂に問い合わせ始めているらしい。そして子どもたちの口コミだけでなく、イン夕—ネツトにもミュウの存在を紹介するサイトがあるーー。種明かしをすると仕組みはこうです。ポケモンというゲームでは、ゲームのセーブデータのメモリー上にたくさんの小さなデータのかたまりが置かれていて、その一つひとつがポケモン1匹ずつのデータです。原作者の田尻は、子どもたちの夢を壊さないように、ポケモンをデータと呼ぶのを注意深く避けていますので、ここでもそのデータのかたまりを、箱に見立ててお話してみましょう。ポケモンが入っている箱です。ゲームの中で、プレーヤーは町から町へ移動しながらホケモンをゲツトしてゆくわけですが、ゲツトするとそのポケモンの箱に、捕まえたよという印(フラグ)がつけられます。捕まえたポケモンだよというサインが、このフラグです。通信ケーブルで

[[BOTTOM TEXT|
「ミュウ」
151匹目のポケモン。幻のポケモンといわれている。「ミュウツー」は'ゲー厶上に普通に存在していたので、なんで  「ツー (2)」 はあって 「ワン (1)」 がいないのだろうと思った人はぼくだけではないはずです。
]]

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ポケモンを交換し合ったときは、相手に送ったポケモンの箱のフラグは下がり(OFFになり)、受け取ったポケモンの箱にフラグが立ちます(ONになる)。こうした交換によって生じる変化は、実際にはある信号のやり取りによって起きるのですが、視覚的にポケモンが本当に通信ケーブルの中を通って交換されているように見えるようにプログラムされています。この通信プログラムがとても複雑なのです。石原が言うように、最後まで通信に関係するバグが出ていたのもその複雑さのせいでした。一応デバッグは終えて製品化したわけですが、プレーヤーの子どもたちの中には、デバッグのときにも想定していない、通信中にカセツトを抜くなどというような操作をする子どももいて、開発者が予期しなかったことが起きてしまうことがしばしばあるのです。
ポケモンの場合、それがミュウの箱にフラグが立つという特殊操作によるバグでした。
ミュウは、公式には発表されていない151個目の箱に入った、任天堂も石原も知らないポケモンでした。ミュウが入っていた箱は、デバッグ用プログラムのためのメモリー上のスペースに置かれていました。デバッグ用プログラムというのは、ゲームが正常に動くかどうかをチェックするテストプログラムのことで、チェツクが終われば通常は消去して納品します。そのプログラムを消去した後のスペースに、プログラ

[[IMAGE CAPTION|
「ミュウ」の現れている交換の画面
]]

[[BOTTOM TEXT|
バグ
プログラム上の不都合。
製作者が予期せぬ事態を引き起こすもの。プログラムを虫食いにするものとして「BUG」と呼ばれています。ゲー厶ソフト、特にRPGにはバグがつきもので、100%バグのないものはあり得ないとまで言われています。
]]

マーの1人が、自分がデザインしたポケモンを1匹、内緒で入れていたのでした。もちろんそれはどこにもアナウンスしていないポケモンですから、箱にフラグが立ったりしないように、厳重に封印されてあった……はずなのです。しかしその封印が、プレーヤーの子どもたちの開発者の想像を超えたキー操作によって偶然破られ、たとえば戦っているポケモンが突然ミュウに変わったりするという形で、ミュウが入っている151個目の箱にフラグが立ったのです。
先ほど出てきたポケモン図鑑ですが、これは、この150個、ミュウを含めると151個のポケモンが入った箱と連動している図鑑です。ポケモンを捕まえると、そのポケモンの箱にフラグが立つのと同時に、ポケモン図鑑のそのポケモンのページをいっでも開くことができるようになります。
ポケモン図鑑のページには、たとえばそれがピッピのページなら、ピッピの姿とともに、体重7・5kg、体高0・6mの妖精ポケモンで、「あいくるしいすがたから、ペツトようににんきがある。ただしなかなかみつけられない」(緑バージョン)と特徴が表示されています。フラグが上がったり下がったりする箱と違って、図鑑の方は、一度捕まえたポケモンのページはずっと表示できるようになったままで、ポケモンを交換したり逃がしたりしても、フラッグは下がりません。
ですからミュウの場合だと、ミュウの箱にフラグが立てば、ポケモン図鑑にも、体

[[IMAGE CAPTION|
たとえば「ピッピ」…
左は金バージョンの画面。ポケモンの解説は、バージョンごとに違います。
]]

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重4・0kg、体高0・4mで、「みなみアメリカにせいそくする、ぜつめつしたはずのポケモン。ちのうがたかく、なんでもおぼえる」(緑バージョン)というミュウの特徴を記した151ページ目が表示されるようになるのです。付け加えると、まだ捕まえてはいないポケモンでも、見かけたり対戦したりすると、図鑑のそのポケモンのページが表示されるようになります。しかし、その場合には姿を見たり種類を確認したりすることはできますが、体重や身長、特徴の部分は、捕まえるまで表示されません。さて、自分のゲームソフトにミュウが突然出現した子どもは喜んだかもしれませんが、任天堂にとっては、これはあくまでも修正しなければならないバグでした。ミュウが出現するという報告を受けると、すぐにデバッグプログラムを起こし、修正できるタイミングの出荷分から、ミュウの箱をさらに厳重に封印しました。その結果、市場にはミュウが出現するカートリッジと出現しないカートリッジが存在することになりました。
「裏技」ともいうべきある特定の順序でキー操作をするとミュウが出る初期ロットのものと、どうやってももうミュウは出てこないデバッグ済みのロツトのものとが共存するという状態です。通常こうしたコンシューマー向けゲームソフトには、パソコン用ソフトのようなバージョン表示をしないため、自分のカートリッジがミュウが出て来る裏技が可能なバージョンなのかそうでないのかは、子どもたちにはわかりません。

[[IMAGE CAPTION|
たとえば「ミュウ」…
左は金バージョンの画面
]]

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そうなると子どもたちは、「あの子のには出るのに、ぼくのには出ない。どうして? なぜ?」とますます不思議に思うようになります。その結果、ミュウはミステリアスなべールに包まれた、幻のポケモンということになったのでした。ミュウのプログラムを内緒で入れたのは、ゲームフリークのプログラマー森本茂樹でした。ミュウのキャラクターデザインから能力設定まで、すべて森本の設定でした。「いま思えば、ちよつと大胆なことをやってしまったという気がします。プログラマーとしては、それやったらまずいでしょう、というような問題ですね。まあ、入れた動機は、いっかなんかに使えたらいいよねっていうようなことだったんですけど、使えなければ使えないで、自分らで楽しんでいればいいかなと思ってました」(森本)
石原が知らなかったのはともかく、田尻も知らなかったのでしょうか?「前からやりたかったことなので、田尻に相談しました。そうしたら、やったらいいじゃんって言われて、やってみたんです。でも、忙しくてなかなか入れられないまま締め切りがだんだん近づいてきて、いざ入れようと思ったときには、もう入れるところがないんですよ。それで一度はあきらめてたんですね。そしたら、テストで走らせるプログラムを入れるところがあって、そこは製品版では空くわけです。じやあ、そこに入れようかということになって、ぎりぎりになって入れました」(森本)
封印してあったとはいえ、任天堂も知らないポケモンを入れておくというのは、お

[[BOTTOM TEXT|
森本茂樹さんからみた田尻智像
「ぼくが田尻に初めて会ったのは、自分がまだ雑誌ライターだった頃です。もちろんその時は、この人のところで働くことになるとは夢にも思っていませんでしたが、その印象は、なんだかパワーのある人だなという感じがしました。ぼくが見た田尻とは、とにかくまっすぐで、純粋な気持ちを大切にする人だと思います。ゲー厶に関してもそうで、面白くすることに関しては努力を惜しまない。問題に対して、正面からぶつかっていく感じですね」
]]

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きて破りではないのでしょうか?
「ミュウはね、都市伝説の名残なんですよ」
田尻はそう言いました。田尻のこの言葉を聞いただけで、田尻が何を言わんとしているかおわかりの方は、もしかすると『ゼビウス』フリークでもあった方かもしれません。『ゼビウス』には、ファントム戦闘機が現れるとか、犬が画面を横切るとか、ギャラクシアンが飛んでくるといった数々の伝説がありました。それを田尻は都市伝説と呼んでいるのです。田尻の都市伝説論は、本書第4章のロングインタビュー「田尻智ワールド」の中に詳しく出てきますので、ここでは取り上げずに先に進みます。田尻が、いわば隠しキャラとしてミュウの存在を容認したのは、田尻の子ども時代を忠実に再現したいという思いの表れでした。田尻は話しています。「ゲームに対する神話の現れ方とか、このゲームはこんなことが起こるらしいとか、環境に対しての想像力というか、そんなものを含め、わかってやったことですね、ミユウは。キャラクターはあるけど出ない。ファントム飛行機と同じです。だけど、何らかの原因でいるっていうフラッグが立つといるということになって、ケーブルで交換すると、ちやんと人々の間で生き続けることができるんです」制作サイドでそんな思いを込めてのミュウでしたが、任天堂としては、まさに寝耳に水の話です。でも、入っていたものを入っていないと言うわけにはいきません。

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ヒットの仕掛け

突如として出現したミュウをどうするべきかーー関係者は考えました。幻の『ポケットモンスタ—』がいるという噂は、話題作りにはうってつけですが、放っておけばどのような方向に進んでゆくかわかりません。任天堂サイドとしても、どのような形でミュウという存在をユーザーに伝えたらいいのか、悩ましいところだったのです。
ただ、何らかの手を打たない限り、可能性としてはオカルト系の話から、デバッグのミス、任天堂のプログラム管理の不備にいたるまで、さまざまな憶測を呼ぶ可能性があったのです。
そのとき、田尻がひとつの提案をしました。ミュウを、子どもたちにプレゼントしてみたい、と言ったのです。ミュウというポケモンを子どもたちにプレゼントして、それがどんなふうに子どもたちに広がっていくのか、それを見てみたいーー。「交換する」をキーワードにポケモンというゲームを作り上げた原作者ならではの提案でした。田尻には、プレゼントしたミュウが子どもたちの間を波紋のように広がってゆく様が想像できていたのかもしれません。

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田尻のアイデアは妙案に思われました。確かに、せっかく子どもたちが見つけ出し た幻のポケモン物語です。子どもたちが望んでいるとおりに物語を進めるのをやめて しまう理由はありません。それに、原作者側が公式にミュウの存在を宣言し、プレゼ ントというイベントにすることができたら、特別なポケモンがいる特別なゲームとい う、分かりやすいイメージが定着するかもしれません。
もっとも、このとき田尻や石原や久保が考えていたのは、もっとわかりやすいこと でした。子どもたちが欲しがるならば、プレゼントしてやるのが一番だと思った、と いうことです。それが結果として、ユーザーの子どもたちにも、任天堂サイドにも、 『コロコロコミック』編集部にも、そしてポケモンという商品にも、最良の解決法と なったのです。
そうなると、どのような方法でミュウを子どもたちにプレゼントしたらいいか、と いうことになりますが、それには『コロコロコミツク』がうってつけでした。久保は ミュウの誌上プレゼントの企画を編集会議に諮りました。編集部の方針も誌上プレゼ ントでまとまり、早速任天堂、クリーチャーズ、ゲームフリークという原作者側に、 誌上プレゼントの企画を提案しました。
任天堂サイドの了解を得た久保は、4月15日発売の月刊『コロコロコミック』5月 号の誌上で、応募者の中から抽選で20人に幻のポケモン「ミュウ」をプレゼントする

[[IMAGE CAPTION 1|
月刊『コロコロ コミック』5月号
96年4月15日発売
]]
[[IMAGE CAPTION 2|
©小学館
]]

第2章  ブレイク

と告知しました。まずハガキで応募して、当選したらキミの使っているポケモンのゲームカートリッジを送ってくれ。抽選で20人に、ミュウを入れて返すよーー。そんな告知内容でした。
このとき、田尻から、告知内容について石原を通じてあるリクエストがありました。それは、子どもたちに「データをプレゼントする」という言い方は決してしないでほしい、というものでした。ポケモンは生きものだから、というのがその理由です。それは久保にもよく理解できました。それまで石原との会話の中でも、石原の話すトーンから同じようなポケモンへのこだわりを感じていたからです。「ただ、子どもたちへの企画の説明方法としてぬいぐるみがもらえるような誤解があつちやいけないのでコロコ口コミック編集部としては、正式にもらえるものを表記する必要はあったんですが、田尻さんから指摘を受けてからは、たとえ説明する字数が増えてもデータという言葉は使わないよう気をつけていたつもりです。原作者のそうした思いは、きっと子どもたちにも伝わったでしょう」(久保)
子どもたちもポケモンを生き物だと思っているに違いない。もしかするとこのゲームは、本当に子どもたちに愛されるゲームになるかもしれないと、久保は思いました。どのくらいの応募があるんだろう、という話は、当然関係者の間で交わされました。1000人くらいは応募してくるかな?いや、100万部を超える雑誌だから、4

[[IMAGE CAPTION 1|
ミュウのプレゼントの告知が掲載されたページ
]]
[[IMAGE CAPTION 2|
©小学館
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000人とか5000人くらいはくるかもしれないよ。でも本当にそんなに応募があったら、抽選が大変だなあ。……そんな会話でした。『コロコロコミック』編集部を含めて、関係者が予想していた応募数はその程度だったのです。そして『コロコロコミック』5月号が発売されましたが、その翌日からでした。来るわ来るわ。ハガキの分厚い束が連日、ドサッドサッと担当者の机の上に積み上げられてゆきました。締め切りまでの総計7万8000通。それは予想を超えたという次元の出来事ではありませんでした。子どもの世界とはいえ、それはもう社会現象と呼ベました。当時小学生人口は800万人あまりですから、ほぼその1%に当たる子どもたちが応募してきたのです。
「これはどえらいことになるかもしれないと、そのとき思いました。募集したときのポケモンの累計出荷本数は、まだ35万本から40万本程度だったと思いますが、そこから来た7万8000通ですからね。こういうイベントに応募しない子もいることを考えると、ポケモンをやってる子は、全員とは言わないまでもその大半が『コロコロコミック』の読者だなということがはっきり見えてきたんです。それならば、いろいろキヤツチボールができるなと思いました。つまり、『コロコロコミック』でいろんな仕掛けをすれば、ポケモンのプレーヤーはみんな反応するだろうということです」
久保はこのときポケモンという素材の持つポテンシャルに確信を抱きました。7万

[[IMAGE CAPTION|
コロコロミツクへ送られてくるハガキ
いまも毎月10万通を超えるハガキが編集部に寄せられています。
]]

第2章  ブレイク

8000通のハガキに姿を変えた子どもたちの熱気は本物と、肌で感じ取ったのです。「アウト、セーフで言えば、当然セーフですよ」(久保)
ポケモンを完成させた田尻のホームベース上でのクロスプレーを、最初にセーフと判定したのが久保だったのです。
久保は、それを確かめる目的もあって、それから3カ月後、7月15日発売の同じく月刊『コロコロコミック』8月号で、もう一度ミュウの誌上プレゼントを実施しました。すると今度も、当選者100人に対して8万通の応募がありました。子どもたちは、ミュウを熱望していたのです。それを見て久保は、さらに3度目のミュウのプレゼントを実施することにしましたが、今度は『コロコロコミック』誌上から場所をイベント会場に移してみることにしました。
96年8月23日から東京ビッグサイトで開催された「イプサムカップ第4回次世代ワールドホビー展」です。これは、小学館と小学館プロダクションが管理運営しているキャラクターを販促に使用している企業や、小学館の雑誌に出広している企業の商品見本市です。玩具メーカーが多数出展し、発売前のゲーム機やゲームソフト等を展示するため、一般公開日には子どもたちが押し寄せることでも知られています。このときは、CESAの依頼で開催したものでした。久保はその会場で、ゲリラ的にミュウを配ることにしました。

[[IMAGE CAPTION|
イベント会場でのミュウプレゼント風景
このころは一人ー人に通信ケーブルを使いポケモン交換によってプレゼントしていました。
]]

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「誌上での告知は、イベント会場に、ゲームボーイのハードとポケモンカートリッジを持って来ると、何かいいことがあるよとだけ書いて、ミュウがもらえるとは書かなかったんです。そして、アルバイトを10人ほど雇って、全員にミュウをたくさん持たせて、会場に机を1個置いておいたんです。そしたら、やっぱり来てくれましたね。来た子どもたち1人1人と、ケーブルをつないで、交換だから子どもたちから1匹ポケモンをもらって、お返しにミュウをプレゼントするわけです。任天堂さんのようなベンダーマシンがあるわけじやありませんから、1人ずつ手渡しです。このときは、2日間で700人くらいに配ったかなあ」(久保)『コロコロコミック』では、このイベントと同じ8月から、ポケモンを隔月刊の別冊から月刊の本誌(9月号)へと格上げし、新連載を開始しています。別冊での人気がすこぶる高かったためでした。
ポケモン青バージョン偶然発見されたミュウをテーマに、久保は3度企画を組み、3度とも成功させました。ゲームソフトにとっては、これ以上ない形のプロモーション•イベントになりました。そしてこうしたイベントの成功とともに、ポケモンの売り上げも伸びてゆきま

[[IMAGE 1, CAPTION 1|
コロコロコミック掲載のプレゼント告知
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[[IMAGE 1, CAPTION 2|
©小学館
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[[IMAGE 2, CAPTION 1|
新連載マンガ『ポケットモンスター』のページ
]]
[[IMAGE 2, CAPTION 2|
©穴久保幸作•小学館
]]

した。
「初めのうちは、増産というと5万本くらいだったのが、次第に上がっていって、今回は10万本増産しましたっていう感じで増えていったんです。それで、おい、田尻君、これ、ひょっとすると100万本、いくかもしれないよって話したんです」(石原)その100万本を突破したのは、1996年9月でした。発売から7カ月後です。『コロコロコミツク』にとっても、この一連のミュウ・プレゼントにはメリットがありました。ポケモンが特別なゲームソフトだというイメージが定着するのと同時に、『コロコロコミツク』がポケモンにとって特別な存在というイメージも定着し、ポケモンのことなら『コロコロコミック』と子どもたちが考えるようになったのです。ポケモンに関する独占情報掲載と、ポケモン・コミックの展開によって、『コロコ口コミツク』の部数も、イベントを重ねるごとに伸びてゆきました。その流れの中で、久保は、この流れをもう一押ししたいと考えました。きっかけは、ミュウのときと同じように、やはり石原から聞いた、ポケモンに赤と緑の他にもうひとつのバージョンが完成しているという話でした。それは、田尻が私家版として作っていたものでした。「ポケモンがある程度出た頃に、まだこの世界をもっと広く広げたいなあって素朴に思っていて、サービスのつもりで、最初にできなかった色違いっていうのをって思って、青を作ったわけです」(田尻)

[[IMAGE CAPTION|
「ポケモン青(ブルー バージョン)」
]]

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青バージョンは、赤・緑バージョンとストーリーは同じでしたが、ポケモンのポーズなどグラフィックが一新され、マップも一部変更されていました。青バージョンを作ってどうするという予定があったわけではありませんでしたが、田尻はできたらそれを手作りで何本か作って、ユーザーにプレゼントしたいと考えていました。「ハンダ付けで手作りのROMでもいいじゃんって思ってたんです」(田尻)
「そう。20人から100人くらいにレアアイテムとして、青をプレゼントしたかったんですよ、ぼくたちとしては」(石原)「ありがとうっていうかね、そういう気持ちでね」(田尻)
久保にとっては、ポケモンの新バージョンの話は、ミュウが出現したときほどの驚きではありませんでした。
「まあ、3匹の中から1匹選ぶんですから、それぞれに対応した色があってもいいわけです。ですから、あるんですよ、これがって言って青バージョンを見せられたとき、ああ、やっぱりっていうのは強かったですね」
久保が言う3匹の中から1匹を選ぶというのは、赤・緑バージョンのゲームを始めるとき、プレーヤーが最初に連れていくポケモンとして、ヒトカゲ、ゼニガメ、フシギダネの中から1匹を選ぶことを指しています。この3匹がそれぞれ、ほのおタイプ、みずタイプ、くさタイプのポケモンなので、赤、緑がそれぞれほのおタイプ、くさタ

[[IMAGE CAPTION|
最初のポケモン
ゲームをスター卜するとオオキド博士より冒険に連れ て行くポケモンを3匹の中か ら選べと言われます。
]]

[[TEXT IN THE SCREENSHOT|
わ゙まズに 1びき やろろ!
…… さあ ズちベ!
]]

第2章  ブレイク

イプに対応すると考えると、みずタイプに対応する青バージョンがあっても不思議はないということを言つているのです。
田尻と石原から青バージョンの話を聞いた久保は、即座に言いました。「それは、間違いなく売れます。告知をしますから、売りましょう」ミュウのプレゼントに合計で15万8000人が応募したポケモンです。青バージョンにも最低でもその程度の需要は必ずあるはずだ、というのが久保の考えでした。都合よく、『ポケットモンスター』は100万本を突破していました。100万本突破記念企画にうってつけでした。久保の頭の中には、たちまち新企画と『コロコロコミック』の企画ページのタイトルが思い浮かびました。
「ポケットモンスター赤・緑100万本突破記念、青バージョン新発売!」
久保はさっそくポケモンの100万本突破記念として青バージョンを任天堂が発売するという企画書をまとめ、任天堂サイドに提案しました。久保にとっては、前例のないことではありません。ミニ四駆ではさんざんやった特別限定商品企画です。告知オペレーションには自信がありました。今回はポケモンの青バージョンがすでにあるのですから、商品の企画そのものを立ち上げた前回よりも関与の度合いは小さいといえます。ですから久保には、ポケモンの青バージョンについての情報を『コロコロコミック』で独占公開する以上の、たとえばその販売への積

[[IMAGE CAPTION|
「青バージョン発売の企画書」
]]

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極的な関与というような意図はありませんでした。久保はただ、ミュウのプレゼントという形で、ポケモンの発売以来ほぼ1カ月おきに行ってきた読者と編集部のインタラクティブな仕掛けを継続したいと考えただけだったのです。ところが、任天堂サイドからの回答はこうでした。
「小学館さんで、ポケモンの青バージョンを販売してみませんか?注文に応じて生産して、納品しますよ」
小学館にとってはまったく意外な展開ですが、その経緯はこうでした。任天堂では、川口と当時広報室企画部にいた山内克仁の2人が、青バージョンを販売したいと考えていました。
「それで2人で社長のところへ行って、青バージョンの発売を提案したんです。社長は反対でした。赤と緑バージョンの発売から半年が経過していましたから、ユーザーは新しいバージョンだと誤解するというのがその理由です。たしかにポケモンの絵が異なることを除けば、基本的なゲーム内容は同じですからね」そんな誤解を招きやすいものを任天堂の流通に乗せるのは、混乱のもとだというわけです。けれども、どうしても青バージョンを販売したかった川口は、とっさの思いっきを口にしました。
「事前に考えていたわけではまったくないんですが、そのとき、小学館から誌上通販

[[IMAGE CAPTION 1|
山内克仁さん
]]
[[IMAGE CAPTION 2|
広報室企画部部長代理。1959年9月27日生まれ。85年4月株式会社電通入社。95年12月任天堂株式会社入社。すぐに渡米。バンクーバー勤務を経て、99年10月企画部企画課長。2000年6月より現職。
]]

第2章  ブレイク

で青バージョンを売りたいと提案がきている、と思わず言ってしまったんです。『コロコ口コミツク』などの誌上通販ならば、申込書にこの青バージョンはキャラクターの絵は異なるけれどゲーム内容は赤・緑と同じですよって、はっきり告知できるじやないですか。それに小学館サイドから売らせて欲しいという要請があったから仕方ないんですといえば、任天堂の既存流通に対するエクスキューズにもなる。その点を社長に説明して、ですからご懸念は解消できると申し上げたんです」川口のこの話を聞いて、山内社長も考え直しました。
「それなら、ええかもわからんな。けど、絵がちごてるだけで、ゲームそのものは同じや、いうことは明記しとかないかんで」
山内社長はこう言って、青バージョンの販売を許可しました。そして先ほどの小学館への提案になるのです。
けれども、川口自身が「その場の思いつき」といっているように、実はこの話、小学館側はまったく知らない話でした。
「それでも、社長に話しながら、久保さんならこの話を必ず受けてくれる、という確信があったんです。それで、社長からのOKが出てすぐに久保さんに電話して、実は……とお話ししたんです」
川口の予想通り、久保はこの話を受けました。

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「ありがとうございます。こんなありがたい話はありません。ぜひやらせてください」
久保が川口に礼を言ったのは、これがまぎれもない良い話だったからでした。うがった見方をすれば、販売にかかわる手間とリスクを任天堂が避けるための手段ともいえなくないでしょうが、それまでの赤と緑の販売実績と人気の高まりを考えると、売れるのはまず間違いありません。事実、川口はこうも言っています。「久保さんになにかお返ししたかったんです。それまで大変お世話になっていましたからね」
発売前、業界でほとんど期待されていなかったポケモンを『コロコロコミック』で取り上げ続けたのが久保でした。その貢献ぶりに川口は報いたいと考えたのです。ただ、その川口にしても青バージョンの売り上げはせいぜい10万本程度だろうといった予測しか立てていませんでした。もちろん10万本といえば、売り上げ数億円を意味しますから、小さな商いではありません。でも、実際にはその何倍もの商売に大化けすることになつたのです。
このプロジェクトを聞かされた石原も、同じゲームの3バージョン目の売れ行きには懐疑的でした。
「ぼくらも、3万本か5万本かよう知らんけどって言っていたんですよ」

第2章  ブレイク

売れないと思っていたからこそ、石原も田尻も手作りROMでプレゼントと考えていたのです。
いま振り返ると、もし久保がいなかったら、小学館としては「いえいえ滅相もありません。そんなことに手を出すつもりはありません」となって、この話は立ち消えになったかもしれません。小学館にはこれまで、こういった大きなスケールの物販の経験がなかったからです。
事実、久保が川口から受けたゲームソフトの誌上独占販売という、出版社として前例のないこの企画は、小学館社内でもスムーズには決済されませんでした。同社が50誌を超える雑誌を発売していることを考えれば、久保もおおぜいいる副編集長の1人にすぎません。その一介の副編集長が目立つ動きをとれば、出る杭は……とばかりに立ちふさがる邪魔者も現れます。その中で、久保はなかば強引に稟議書を押し通しました。
決済された背景として、まず小学館が誌上通販の経験が豊富だったため、誌上通販そのものは大きな問題になりにくかったことが挙げられます。
さらに通販業務を一括して任せられる小学館プロダクションという受け皿もありました。あとは他の編集部の取りまとめですが、これには第9編集部部長の河井常吉の

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理解がありました。河井は、『コロコロコミック』に掲載する『ドラえもん』の第1回目の原稿を藤子不二雄から受け取ったマンガ編集者で、創刊以来の『コロコロコミック』の変遷を知っており、『コロコロコミツク』にとっても久保にとってもよき理解者でした。当時37歳だった久保には少し荷が重かった、編集部を横断する大型企画の社内調整などを一手に引き受けてくれたのです。
「いろいろな局面でね、やつぱりぼくはまだ若造ですから、あつれきが生じることもありますが、それなりの立場と経験を背景にして河井さんが言ってくれると、まとまっていくことが多かったと思います」(久保)
しかし、この青バージョンの誌上独占販売という企画は、後になって考えてみると、小学館にとってはいいことずくめの企画でした。参加する雑誌数は多いのですが、コスト的には問題のないプロジェクトでした。久保の試算によれば、採算分岐点は比較的低いので、ある程度の本数が出れば利益が出ます。売上本数のノルマもありません。しかも『コロコロコミック』のアンケートによれば、ポケモンの人気は確かに右肩上がりになっていましたから、逆にひと儲けできる可能性は高かったのです。その上、うまくゆけば長期凋落傾向にある学年誌の活性化につながります。現実にはさまざまな障害がいっぱいあり、それなりのコストと小学館の面子をかけることにはなりますが、話題性もあることであり、反対する理由を見つけるのが難しいくらいの企画でし

[[IMAGE CAPTION 1|
河井常吉さん
]]
[[IMAGE CAPTION 2|
右が河井さん(左は久保本人)
]]
[[IMAGE CAPTION 3|
小学館第9編集部部長、小学館プロダクション取締役兼小学館ミュージツク&デジタルエンターティメント取締役。1945年生まれ。98年入社後、学年別学習雑誌を編集。「ドラえもん」の原稿を最初に受け取った編集者になる。ビッグコミックスペリオール編集長後、現職に至る。
]]

第2章  ブレイク

た。

キャンペーン実施の環境が整うと、久保は遂行責任者として、具体的なスキームを組みました。小学館としてもゲームソフト業界としても、まったく前例のないプロジェクトです。月刊『コロコロコミック』に『別冊コロコロコミック』、ポケモンのコミックを掲載している第8編集部の学年別学習誌『小学一年生』から『小学六年生』までの6誌を合わせた計8誌7編集部合同による、独占誌上通信販売です。ポケモンの青バージョンは、この8誌の誌上通販に申し込まない限り、手に入らないのです。そんな販売方法をとったゲームソフトはかってありません。
「石原さんと、どれくらいの注文があるか賭けをしたんですよ。石原さんは25万本、ぼくは30万本と予想しました」
石原の予想は、先ほどの数字からはかなり増えていますが、これは多分に久保に対するリップサービスもあったのでしょう。久保の30万本という数字は、売れ行きの予測というよりも、受注態勢を整える上での目安でした。
「社内外の業界通に予測してもらったら、少ない人で5万本、一番多い人でも20万本だったんです。で、余裕を持たせて30万本販売できるオペレーションを引いたんですよ。30万本までなら、受付から宅配までスムースに対応できるようにね」

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商品の詳細も決定しました。赤・緑バージョンがそれぞれ税抜き価格3900円だったのに対して、青は送料・消費税込みで3000円という通販特別価格を設定しました。さらに、対象が小学生を中心とした子どもであることから、告知はわかりやすく丁寧に繰り返し行い、保護者の同意の有無をチェックできるシステムを工夫するなど、子どもだけでなくその保護者に対しても不信感を抱かれないよう、安心して子どもに通販を利用させることができるよう、注文と受付の仕組みを考えました。『ポケットモンスタ—』青バージョンの独占誌上通信販売は、参加8誌一斉に10月発売号から始まりました。皮切りは10月15日発売の月刊『コロコロコミック』11月号でした。
「10月15日にスタ—卜したんですが、20日過ぎには30万本を突破しちやったんですよ。これはえらいことになったと思いました。結果的には60万本ちよつと売ったんですが、売上本数を喜んでるような状況ではなくて、受注発送のシステムが1週間でパンクしちゃったんです。注文がどんどん来て、発送が遅れ始めちゃったんです。そのうち、隣の家には送られてきたのに、なんでうちには送られてこないんだっていう最悪の事態が無数に発生して、うちの編集部の電話も発送している小プロの電話も、朝から晩まで鳴り続けました。クリスマスが近づいたということもあって、楽しみに待っていた子どもたちのことを考えるとすみません!っていう気持ちでいっぱいでした。身

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青バージョン独占通 信販売の掲載ページ
96年「月刊コロコロコミツク」
11月号 (10月15日発売)
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©小学館
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第2章  ブレイク

内的には僕の目の前に座っていたアルバイトの女の子たちにも申し訳ないことをしたと思います。毎日毎日仕事とはいえクレームの電話の嵐でしたから。なんであたしがこんなに怒られなきやいけないの! って思われてもしかたないですよね」嵐が去ったのは年を越えた97年の正月になってからでした。そして、ポケモン通販勘定の詳細が出ました。
「1本3000円のものを60万本売るっていうことは、ま、18億円くらいあるわけですよ。小学館が販売している雑誌はそんなに高いものはありませんから、空前の利益を上げたと思います」
ポケモン青バージョンの誌上通販は、大成功に終わったのです。ポケモンの累計販売本数は一気に160万本に達し、田尻と石原の悲願だった200万本構想実現も目前となりました。
さらにこの成功は、ポケモンの関係者全員に深い感銘を与え、さまざまな変化をうながすことになりました。任天堂は、この青バージョンの成功をきっかけに、商品の流通と販売の新しい形態について真剣に考え始めました。この青バージョンは、翌97年6月にもう一度小学館と誌上限定販売を行い、そこでも70万本を販売することになるのですが、このときは商品の受け渡しにコンビニのローソンを利用しました。それは安全で確実で低コストの新しい販売ルートでした。そしてそれ以後、ポケモンの販

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小学館の子ども向け企画
小学館は「マミー」「ベビーブック」「おひさま」「めばえ」「幼稚園」「学習幼稚園」までの幼児誌、小学ー〜六年生までの学年別学習雑誌。それに「てれびくん」「コロコロミック」「別冊コロコロスペシャル」「コミックGOTTA」「ちやお」の男子向け雑誌。これらの一五誌が〇歳から一五歳までの読者をきめ細かくフォローしています。小学館は子ども雑誌を中心として展開してきた歴史があるので、子ども企画には実に丁寧な対応を行っています。読者の子どもたちだけではなくその保護者に対しても企画はきちんと説明されるものでないと社内稟議も通らないのです。
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売には特別な、限定的な方式をとることが定着していくのです。こうした結果を見て、久保はこの市場通販について、また違った見方をするようになりました。「今考えてみると、もしかするとぼくは山内社長に試されていたのかもしれないですね。任天堂のブルーバージョンの小学館へのシフトは、既存流通を無視してもかまわないととることも可能で、当時のゲーム流通に関してさまざまなトライが行われつつあった時代背景を考えると、山内さんの手の中で踊らされていたのかなと、ちよつと思いました」また、通販を行った小学館と社員の久保にとっては、組織とその一員との新たな関係を模索する契機となりました。それは青バージョンの通販で生じた未収金の問題が発端です。通販の勘定を閉じる時点で、4000万円の未収金が発生していたのです。翌年の2度目の青バージョン誌上販売の際、商品の受け渡しをローソンに変更することになるのも、この未収金の発生を防ぐためだったのですが、小学館経理部はこれを問題にしました。
「4000万円も未回収だぞ、おまえ、みたいなことになって。ぼくは、キレそうになりました。アルバイトにも報奨金を出した小学館プロダクションとは別次元の対応でした」(久保)
売り上げ18億円のうちの未回収金4000万円は、率にして2%あまり。額は大き

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今回のブルーバ——ジョンの企画は子どもに物を買わせる通信販売企画であったため、準備は特に慎重に進められました。
ところが当初予定していた三〇万本を大きく越える受注を短期間にしたために、住所検索を行うパソコンシステムも、発注管理システムもオ—バーロードでダウンしてしまいました。
読者の方は、ほぼ同時期に申し込んだ近所の子どもの所にポケモン青が届くと、「自分のはまだか?」と問い合わせをしがちです。もちろんこちらは、申込書が到着した順番に発送しているのだが、読者はなかなか納得してくれません。「同じ日に出した近所の子の所に届いて家には来ないのはなぜだ?」と電話で応
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第2章  ブレイク

いのですが、通販の歩留まりとしては悪い数字ではありません。だからといって、儲かったんだから4000万くらいいいじやないか、ということではありませんが、たとえばもし仮にこれが商社の話であれば、会社の久保に対する対応はまた違ったものになっていたでしょう。
通販は出版社の編集など従来の業務ではなく、商取引というビジネスです。小学館は、そのラインに編集者である社員を立たせて、利益を得たのです。それなのにプロジェクトが終わった途端に出版社の顔に戻って、得た利益からすればわずかと言っていい売上金の焦げ付きを、久保1人に押しつけようとしたことになります。もしかするとこの時点では、久保も小学館も、彼らが踏み出した一歩がどれほど大きなー歩だったかに、気づいていなかったのかもしれませんが、その一歩は、出版社という業態を変えるほどインパクトの強い一歩だったのです。このポケモン通販を皮切りに、小学館にとって初めてという事態が次々におきることになったのも、無理はありません。久保には、この通販の成功を盾に、会社に揺さぶりをかけようというつもりはまったくありませんでした。なしとげた仕事を会社側が即時に正当に評価してくれたら、それでよかったのです。
「小学館という会社は、ものすごく家族意識が強く、社員を兄弟のように取り扱っています。ゆえに居心地は良いのですが、公平感が恐ろしく強いのです。多少学校の成

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対している係は毎日詰め寄られていました。
もう誠心誠意あやまるしか方法はありませんでした。ですが、いくら謝っても理解してくれないことが多かったように記憶しています。それほどポケモン青の訴求力が強かったという証明です。電話口で半べそで文句を言っている子どもたちが容易に想像できました。
小学館のこの企画に対する考えは、多数販売したことはもちろんプラス評価ですが、苦情が多かったため、手放しで喜べる雰囲気ではありませんでした。それほど小学館は親子からの信頼を重要視する文化を持っているのです。このあとアニメの放送事故が起きてポケモンは大きなピンチを迎えるわけですが、小
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績が良くたって、兄弟間でお小遣いの差はつけないじゃないですか、普通」(久保) 小学館経営陣は、この前例のない事態を招いた社員久保への対応と自社がポケモン 通販を実施した意味を、長時間かけて協議したようです。そして翌年の2度目の青バ ージョンの誌上販売終了後、会社創立記念日の祝典で、久保を社長賞とし、金一封を 授与しました。こうした表彰を受けた社員は、小学館創業以来、まだ数人しかいませ ん。
この久保の表彰が持つ意味は、小学館が編集者の枠を超えた行動を久保に是認し、 自らも従来の出版社の枠にとらわれず、新しいビジネスを取り入れる可能性があるこ とを、社内外に公式にアナウンスしたということでした。このときから久保は、その 行動がそのまま小学館初の前例となっていくという、小学館にとって良くも悪くも特 別な社員となりました。もちろんそれは、ポケモンがあったがゆえのことですが、同 時に、それは久保が担当していたがゆえに起こり得たことでもありました。 久保はポケモンの発売後、年を追うごとに肩書きが増えてきており、いま現在も増 えっづけています。ここで、これからのお話がわかりやすくなるように、2000年 11月現在での肩書きを整理しておきましょう。

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学館のこの体質は視聴者には 必ず伝わっていたと思います。 その文化が理解されていたか らこそ、放送再開に対して暖 かい応援がいくつもあったの だと思います。
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第2章  ブレイク

小学館第9編集部部次長
小学館キャラクター企画室室長
小学館ミュージック&デジタルエンタ—ティメント(SMDE)取締役統括プロデュ—サー
小学館プロダクション(小プロ)メディア事業部ゼネラルプロデューサーよしもとデジタル・エンタテインメントプロデューサー

以上の肩書きは、名誉職ではありません。すべて実務を伴っています。そして肩書きのほとんどが、実はポケモンビジネスの成長に対応するため小学館が新たに設置したものなのです。久保の存在と、久保が次々と呼び込んでくるポケモンビジネスは、大正11年(1922年)創業の日本有数の老舗出版社で最大手出版社のひとつでもある小学館に、大きな社内変革を余儀なくさせることになったのでした。

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