Pokemon Story/Chapter 1/Subchapter 4: Production

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ームフリークの取締役アートディレクタ—の杉森建にかなり早い段階で見せたスケッチは、オタマジャクシのモンスタ—でした。田尻は名前も付けていました。二ヨロモです。そして、二ヨロモのイメージがどこから出てきたかということを、みんなに話して伝えました。それは、田尻が子どもの頃の体験から生まれたモンスタ—でした。「町田が住宅開発の波に洗われる前、近くの池とかに、ヒキガエルの卵がいっぱいあったんです。図鑑を見るといつもトノサマガエルが出てくるんだけど、ヒキガエルもいっぱいいたんですよ。その卵からこれくらいの (と、田尻は指で体長を示しました。1センチ以下です) オタマジャクシが生まれるんですよ。ヒキガエルのオタマジャクシはちつちやいんです。ちっちゃいままカエルの姿になって、そこから何年も生きて、ああいう大きなカエルに育っていくんですよ。で、そのヒキガエルのオタマジャクシは、小さくて黒くて、おなかが透けてるんです。ですから、捕まえて見てみると、ぐるぐるって渦巻状になった腸がよく見えるわけ。大きなオタマジャクシだと、おなかの皮も厚いから、あんまり透けて見えないわけですよ。ヒキガエルのオタマジャクシはちつちやくて薄いから見えるんです。ニョロモのお腹に描かれた渦巻きはそれなんですよ」
他のスタッフたちは、田尻のそんな話を聞いて、それぞれの記憶や知識を呼び覚まし、イメージが湧くとそれを杉森に伝えました。杉森はそのイメージをキャラクター

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二ヨロモ
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第1章  誕生

に仕上げてゆきます。このとき、田尻は杉森に注文を出しています。
「田尻から、子どもの頃のことを思い出してデザインするようにということと、モンスタ—たちは交換するのだから、相手が欲しくなるようなキャラクターにするようにということを言われていました」
こうして、やがてポケモンと呼ばれる個性豊かなモンスタ—たちが、1体ずつ生み出されてゆきました。後に追加されたものもありますが、この時期に杉森が描き出したポケモンたちは、いまもそのまま生きています。
杉森がキャラクタ—のデザイン画を仕上げると、増田がそこに鳴き声をつけました。「1体1体のキャラクターについて、できるだけ懐かしさを感じられる鳴き声になるよう意識しました。ほかの音楽も、昔遊んでいた頃を思い出しながら作りました」ポケモンのキャラクターデザインの滑り出しは滑らかで、次第に数も揃ってきました。しかし、そこから先へ進めなくなってしまいました。すでにポケモンをRPGとすることは決まっていました。RPGなら、主人公の少年が冒険の旅に出て、ポケモンを捕まえたり戦わせたりしながら経験を積み、成長してゆくという一つの基本的なストーリーが自然に出てきます。そのストーリーによって、プレーヤーはゲームの主人公に感情移入し、ゲームの世界に旅立てるのです。
しかしそのストーリーが、なかなか組み立てられないのです。キャラクタ—が揃つ

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GF(ゲームフリーク)・太田健程さんからみた田尻智像
基本的に好奇心旺盛で広い視野を持つ人だと思います。いくつも見習わないといけない点があります。各々の事象に対してそれらを非常にうまく結びつけて考えることや自分たちが「区切り」とする段階でも思考を終わりとしない所なんかがそうですね。
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ても、ストーリーが定まらなければ、開発の進めようがありません。田尻も杉森も増田も、ここに至ってようやく、このゲームの開発が容易でないことを悟りました。

田尻のアイデアがゲームとしてなかなかまとまらなかった理由を、川口は次のように分析しています。
「田尻君のアイデアは素晴らしかった。しかしそれをゲームに落とし込んでゆくだけのクリエイティビティが、当時のゲームフリークに不足していたんだと思います」それまでゲームフリークには、会社設立のきっかけとなった『クインティ』のほかには、ゲームソフト開発の経験がありませんでした。『クインティ』はアクションゲ—ムで、ゲームフリークに集まったスタッフも、田尻や杉森といった創立メンバーを筆頭に、インベーダーゲームや『ゼビウス』といったアクションゲームの達人たちばかりでした。
しかし作ろうとしていたのはRPGです。RPGを制作するノウハウがなかったのが、開発に時間がかかった大きな理由の一つだったと、杉森は話しています。「RPGというのは、かなりノウハウが必要なゲームなんです。でもうちはアクションゲーム専門だったので、ノウハウがなかったんです。何とかなると思っていたのですが、やっているうちに、これはなかなか手強いぞというのがわかってきたんですね。

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冨永兼司さん
ゲー厶フリーク取締役。
前職のリクルートやマリーガルマネージメント(リクルー卜と任天堂の合弁企業)時代にゲー厶フリークと知り合う。陰ながら、ゲー厶フリークの経営を支えてきた。99年リクルー卜を退社独立。株式会社キャリアプランを設立し代表取締役に就任している。
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これはかなり時間がかかりそうだぞって」
なぜ、アクションゲームに比べてRPGの製作は時間がかかるのでしょうか?ゲームフリークのプログラマー森本茂樹はこう話しています。
「RPGはアクションゲームに比べて、設定しなければならない要素がたくさんあるんです。たとえばテトリスにはシナリオはありませんし、フィールドマップもありません。それがRPGになると、シナリオもフィールドマップもあって、シナリオにしても書くとなったらかなりのストーリーを考えて分岐をつくらねばならない。フィールドマップも、その絵を描くのにかなり時間がかかります。戦闘は戦闘で、それだけでアクションゲーム一つ分くらいの規模のプログラムが必要になるんです」杉森もこう言っています。
「ゲームは数字を足したり引いたりする世界です。だから、攻撃を加えると相手の体カが80減るとか、経験値を積むと自分の防御力が40増えるとか、数字が足されたり引かれたりして成り立っているんです。そうなると、どの数字をどれくらい引いたり足したりすればいい具合にゲームになるのかとか、それらをどんな計算式に当てはめていけば戦闘が成り立つのかというのが、けっこうノウハウなんです。それがうちにはまったくなかったんです。ですから、たとえ1回でも、RPGのジャンルのゲームを作れば、どこが大変かとか、どうすれば作りやすいかということがわかるので、全然

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RPGと日本人
〔RPG〕は文字通り、ロール・プレイング・ゲー厶です。ゲ——厶プレイヤーがゲー厶に登場する誰かに (この場合、主人公のケースがほとんどですが……) なりきってゲー厶のストーリーを進めていきます。
ゲー厶のジャンルとしては、作る上で非常に高度なテクニックと時間とお金 (製作費) を要求される難しい物です。ではいったい何が制作する上で難しいのでしょ一つか?
(1) プレイヤーが主人公になり切れるかどうかが難しい。プレイヤーはいろいろな性格の人がいます。攻撃が大好きな人、宝探しが好きな人などなどです。この様々な人たちのほとんどが大好きといってくれる主人公でなければな
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違ってくるんですよ」
ゲームフリークは、RPGのノウハウをゼロから模索してゆくほかありませんでした。初めはそれは悪戦苦闘の連続……にすら至らない、手のつけようがそもそもないといった状態でした。さらに田尻はノウハウだけではない、田尻のアイデア自体が内包している難しさについても気づきました。
「企画書に書いたのは、人が欲しくなるようなモンスタ—をお互いに持っていて、それを交換し合ってお互いが得をしたら、プレーヤー同士仲良くなれるわけだし、ゲームボーイがあってよかったと思えるっていうことです。でも、じやあ、人が欲しがる魅力的なモンスタ—って、いったいなんなんだと考え始めると、難しい。お互いに魅カあるものを持っているけれども、交換したくなるようなものって、一体なんだろうと思うわけです。素晴らしいものをお互いそれぞれ持っているなら、交換しなくたって素晴らしい世界であるわけですからね。つまり、提案としてはいいんだけど、具体的に詰めていくと、果てしのない泥沼になっていく罠のようなものですね。それに気づいたとき、これは厄介だなあ、作り上げるには時間がかかりそうだなあって思いました。それで石原さんに相談したわけです。これはてこずりそうだって」つまりポケモンのゲームは、魅力的なポケモンたちをデザインするのももちろんとても重要ですが、その先にあるポケモンたちを使って何をしてゆくのか、というとこ

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りません。だいたいは、①やんちやで ②「冒険好き」な ③選ばれた子供という設定なりがちです。そうするとRPGに出てくる主人公はどれもが似てきます。RPGの創生期は、どのゲー厶をやっても「冒険」「冒険」でした。それゆえ、昨今のRPGはパーテイ・プレイと称して、プレイヤーの好みに少しでも主人公たちを近づけようとい一つ努力がおこなわれています。(2) ゲー厶を進める上で約束事が多い。プレイヤーは覚えなければならないことが多いので難しい。
通常、ゲー厶センターで100円を使って遊ぶゲー厶には、遊ぶ前に覚えなくてはならない約束事は殆どありません。他人がプレイするのを2、3回見ればだいたいのゲー厶
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第1章  誕生

ろにエッセンスがあったのです。杉森や森本の言うRPGのノウハウは、実はやがては蓄積できるものです。大きな問題であるにしても、本質的な問題ではありません。本当の問題はそこにあるのではなく、戦闘をした結果、何がどうなるのか。通信機能を使って交換した後、何がどうなるのか。そこにありました。田尻は、通信機能を使ってポケモンたちを交換するという行為に、それまでのゲームになかったなにか新しいものを取り込める可能性を感じながら、しかしそれが何であるのか、まだ見定められずにいたのです。川口が、ゲームフリークに不足していたものを「ノウハウ」と言わずに「クリエイティビティ」と言ったのも、そういう意味でしょう。戦闘や通信による交換のプログラムがむずかしくても、時間と労力を惜しまずパラメータ—の数値をひと目盛りずつ変えながら試してゆけば、いっかは必要なノウハウが蓄積できるでしょう。少なくとも、開発がストップしていた3年間もあれば十分可能だったはずです。でも、ゲームの方向が定まっていなければ、それが何のための戦闘であり、何のための交換なのか、解釈も定義もできません。数字一つで性格がまったく変わってしまう戦闘をどんなバランスでプログラムすればよいのか、ポケモンの交換にどんな効果を生じさせたらいいのか決めようもありません。田尻にはもちろんイメージがあったのでしょうが、それをどう表現すればよいかわからなかったのです。いずれにしても、田尻も杉森たち同様、かなり時間がかかりそうだと思うようにな

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は遊ぶことが可能です。RPGのゲー厶はアーケードゲー厶としては不適です。ゲー厶をプレイする前に、またはゲー厶ストーリーの初期の段階で、プレイヤーが覚えなければならないことが多いのです。例えば、宝物の取り方とか村人との話し方とか武器の選択方法など細かく見れば大量にあります。言い換えると、「このゲー厶面白いな!」とプレイヤーが思うまで時間がかかるということです。誰もがストーリーの最初に、だらだらとして説明ばかりではつまりません。昨今のRPGでは厶—ビーを多用したりしてこの導入の段階の傷害をなるべく取り除こうとしていいます。
アメリカ人は、このような面倒くさい設定が多いゲー厶
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りました。時間がかかるということは、開発費が底をつくということです。田尻が石原に相談することにしたのは、ゲームフリークの運営が心配になってきたからでした。「会社にした以上、ぼくは食べるものを食べないでガマンできても、他人はそうはいかない。会社を作るっていうことは、他人に責任を持つことを誓ったようなものですからね。でも、ポケモンは開発費が続く期間内に作り上げることは無理だとわかった。それで石原さんに相談したのは、ポケモンの開発を続けるために、とりあえず〃明日のためのその1〃のような形でね、何かする仕事はないだろうかと相談したんですよ」石原は、田尻の考えに同意しました。実は石原も、川口と同じように、このゲームのいのちは、交換というアイデアをゲーム化するときのクリエイティビティにあると考えていたからです。そのために時間がかかるのなら、仕方がありません。

初めての大ヒツト

田尻の言う「明日のためのその1」として、石原が出してきたのは、ファミコン用ソフトの開発案でした。テーマはヨツシーという、スーパーファミコン用ソフト『スーパーマリオワールド』に初めて登場した緑色の恐竜キャラクタ—でした。家庭用ゲ

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を好みません。せっかちな人種なんです。ポケモンはご存じのように北米で大ヒツトしたわけですが、それまでは「アメリカではRPGは当たらない一」というのは定説のように語られていました。面白いことに、ドイツ人はRPG
が好きのようです。きちんとした約束事を一つ一つクリアにしていく様は、ドイツ人向きなのかもしれません。えつ? 日本人ですか? それは答えるまでもないでしよう。RPGは日本人のためにあるといっても過言ではありません。主人公意識が強く、面白くなるまで辛抱強く待てて、役割を与えられると生き生きと動く……。日本人の国民性そのものがRPGだと言えるみたいです。だからこそ日本で大ヒットするのです。
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第1章  誕生

ーム機はファミコンからスーパーファミコンの時代へと移ろうとしていましたが、フアミコン時代の末期に登場したこのキャラクターが、かなりの人気を得ていたのです。そこで石原は川口と相談して、人気のあるこのヨッシーを使って、何か一つゲームを作ってみたらと、田尻に提案しました。渡りに船と、田尻は二つ返事でこの話を受けました。
「ポケモンは、ものを作りたいっていう非常に原始的な衝動から始まったんだけれども、ヨツシーの方は宿題のようなものなので、クリエータ—としてのスタンスがちょっと違うんですよね。その違いがあるので、自分にとっては助かったんです。ヨッシーを使って、期間半年で何か作ってみろっていう課題ですね。それでできるだけいい点をとろうと思って作るわけです。そのアプローチがまったく違っているので、ポケモンと並行して作れたんだと思いますね」(田尻)
田尻はこの話を受けると、企画書も書かないまま制作に入り、たちまち三つのパターンでゲームの原型を作って任天堂に提案するという早業を見せました。「もともとゲームをたくさんやって育ってきている人間ですから、こんなふうにゲームが作れますっていう企画書を書くよりも先に走り始めちゃったわけです。ヨッシーというキャラクターのどこがいいのかという基礎的な分析はできているわけですから、舌を伸ばして食べるとか、卵から生まれてきてあっという間に現れるとか、そういう

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ゲー厶が一つの国の同世代にヒットすることはハ国民があるーつの方法で楽しみ会話できることを意味します。大げさに言えば、日本人の共通アイデンティティを保つ上で役に立っているのです。アメリカへ行くと話す相手との共通項を探すことが大変です。アメリカで契約交渉などをする時に、とりあえず交渉相手と親しくなっておこうと思うわけですが、なかなか「つかみ」が見つかりません。なので「スターウォーズが流行ってたとき何してました?」なんて聞いてみたりします。だいたいのアメリカ人はスターウォーズを好きだろうという発想が原点です。ー見稚拙な作戦のように思えますが、実は結構効果ありです。これを話すと彼らの反応は好
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ところを手がかりにして、とにかく、自分の体験したゲームの歴史とか仕組みとかをバツクボーンにして、さっさと原型を作って見せるということをやったわけです」田尻にしてみれば、得意のアクション系ゲームである上にテーマまで与えられているゲーム作りなど、朝飯前だったのかも知れません。田尻とゲームフリークのスタッフは、約束通り半年できっちり仕上げてきました。
このゲームは『ヨッシーのたまご』というタイトルで、1991年12月24日のクリスマスイブの日に任天堂から発売されました。発売されると同時に火がつき、多くの関係者の予想を覆して国内累計販売本数100万本という大ヒットになりました。翌92年にはNOAからアメリカ版として『Yoshi』が、NOE(欧州任天堂)からもヨーロッパ版として『Mario&Yoshi』が発売され、どちらもそれぞれ100万本の売り上げを記録しました。
「このゲームには、会社の経営の面で、とても助けられましたね。これでゲームフリークは存続できたわけです」(田尻)
『クインティ』は自主制作ソフトの金字塔ですが、田尻はこの『ヨッシーのたまご』で、キャラクターの扱いにも巧みなことを実証して見せ、たちまちアクション系ソフ卜のヒツトメーカーの評価を得ました。また、『ヨッシーのたまご』で、ゲームフリークは初めて、通信ケーブルによる対戦モードのプログラムも経験しました。この経

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転することが多いのです。時には「わかってるねえ一」と言われたりします。
日本人同士だとそんな心配は無用ですが、会話の中に「ちよつとホイミ!」と言っても意味は相手に通じる可能性大です。変なやつだとは思われるでしょうが……。国民的に共通項があると言うことは、パソコンで言えばプロトコルが同じと言うことです。何らか会話をするきっかけを持っているのと同じです。悪いことではありません。ポケモンはほぼ同時期に世界中で大ヒットしました。いつの日か、国連総会の会議場で「ポケモン出たとき何してました?」などという会話が聞けたら、この仕事冥利に尽きますね。
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第1章  誕生

験は重要だったと、石原は話しています。
「通信のプログラムというのは結構厄介なんですが、このとき、通信で送るべき情報とか中身、そのやり方というものが固まっていったという気が、すごくしますね」田尻が「明日のためのその1」として作った『ヨッシーのたまご』は、やがて孵るポケモンのための貴重な体験を、田尻とゲームフリークにもたらしてくれたのです。

しかしちょうどこの頃、田尻は社内問題で頭を悩ませなければならなくなりました。ゲームフリークは、同人誌『ゲームフリーク』の読者が集まってできた会社でした。仲間うちの会社です。仲間だったからこそ、『クインティ』を自主制作することもできたのでした。しかし、自然発生的に生まれた仲間の輪も、それが会社という組織になると、仲間同士だったのにというか、仲間同士だったからというか、ご多分にもれず、仲間割れということになってしまいました。具体的には、『クインティ』を一緒に作ったプログラマーたちが揃ってゲームフリークを去ったのです。ただ、それが社長である田尻の統率力に問題があったためだとは言えないでしょう。統率力については、むしろ逆に、自主制作ソフト『クインティ』を完成させたことで高く評価する人の方が、ゲーム業界には多いくらいです。拘束力の弱い仲間関係のまま、しかも報酬の確約もないままという状況下で、何人ものスタッフを一つの目的、

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ヨッシーのたまご
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©1991 Nintendo
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それもゲームソフトの開発という共同作業に向かってまとめてゆくことがいかに困難なことか、業界にいる者には容易に想像できるのでしょう。
それに前にもご紹介しましたが、同人誌時代から「社長」というアダ名で呼ばれるほど、田尻は知るひとぞ知る面倒見のいい男でした。彼のもとに集まってきていたのは、彼を慕ってやってきた仲間ばかりだったのです。ただし、田尻自身はゲームフリ—クを会社組織にしたとき、一つの道を選んだのですが、『クインティ』の印税を「山分けしよう」と言った仲間がいたように、全員がゲームフリークの人生を選んだわけではなかったのです。田尻には田尻の理想とするゲームの姿と、ゲームで表現したい価値観がありました。それ故に訣別しなければならない仲間が出てきたのなら、それは致し方のないことでした。それは誰にもある青春の1ページだったのでしょう。この仲間たちとの別れで、ゲームフリークは第二の創業と言っていいほどメンバーが変わりました。現在のゲームフリークのスタッフ総勢29人の中に『クインティ』の制作メンバーは、もはや田尻と杉森それに増田順一の3人しか残っていません。増田は『クインティ』開発中の1988年3月に専門学校を卒業し、人材派遣会社に就職しましたが、1989年6月、退職して成立間もないゲームフリークに入社しました。ですから、増田も創業時以来のメンバーと言っていいでしょう。この3人に次いで社歴が長いのが、1992年に入社した川上直子や森本茂樹らで

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川上直子さん
92年6月ゲー厶フリーク入社。商品管理部部長、エグゼクティブスタッフ。広報・人事・総務•社長秘書など開発以外の事務系を束ねている。ポケモンセンタ—の仕事も兼務している。好きなポケモンはフシギダネ。
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第1章  誕生

す。川上直子は、エンタテインメントの世界に興味を持って、広告代理店から転職してゲームフリークに入りました。入社後、総務、社長秘書を務め、現在は商品管理部長です。また、いまゲームフリークのプログラマー、プランナーとして活躍している森本の前職は、田尻の友人が経営する編集プロダクションのライターでした。そのプロダクションの経営が思わしくなくなったのが、ちょうど創業メンバーだったプログラマーが全員退職したためゲームフリークが人手不足になったときでした。そこで田尻は、この編集プロダクションを吸収する形で引き取り、ゲームフリーク社内に出版部を作りました。森本は、そのとき移ってきたメンバーの1人でした。田尻、杉森、増田の3人とともに、川上や森本他の92年頃に相次いで入社して来たスタッフたちが、ポケモン開発期の、言い換えればゲームフリークのもっとも困難な時期からゲームフリークを支えてきたメンバーです。ですから、彼らを第二次創業メンバーと呼んでもいいかもしれません。

進まない開発

こうしてみると、ポケモンの開発が遅れたのも無理はありません。当時のゲームフリークには、田尻のアイデアをゲームに落とし込んでゆくだけのノウハウも社内態勢

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も資金も無かったのです。それだけ、田尻のアイデアのスケールが大きく、実現が困難だったとも言えますが、いずれにしても、ポケモンの開発を続けるために作った『ヨッシーのたまご』以降、ポケモンはほぼ3年間にわたって、開発が実質的にストップしました。その間のことを、杉森はこう回想しています。
「ポケモンは、ノウハウがないと大変だということがわかってから、難航しそうな予感があったので、のんびり作っていたということもありますね。忘れ去られていたと言いますか、手の空いたスタッフがたまにいじくっていたという感じで、何年か経っちやったんです。ぼくらも、ヨッシーとかマリオとワリオとかを作っていた頃はポケモンのことは忘れていたかもしれませんね。当時は、任天堂にとってもポケモンはあまり重要なプロジェクトじゃなかったので、何カ月後までに完成させろっていうようなことが、あまりきつくなかったんですよ」
少なくともゲームフリーク側はプレツシャーを感じてはいなかったようです。92年に入ってきた森本にとっては、ポケモンはもっと遠い存在でした。「入社してしばらくはポケモンだけが特別という感じでは決してなかったですね」ただし、森本によれば、彼の入社した頃は、音楽はだいたいもう入っていたということなので、ゲームフリークがそれまでの2年間、何もしていなかつたということではないということがわかります。

それにしても、開発を委託した任天堂は、この遅延をどう見ていたのでしょうか?川口はこう話しています。
「毎年決算の時期になると、経理が『この費用はいつまで前渡し費用にしておくんですか?もう損金にした方がいいんじゃないですか?』と言ってきてました。支払ったままでその対価が入ってきていないので、経理上、引っかかったままになるじやないですか。そのたびに、すみません、もうできると思いますからって言って、引き延ばしていたんです。損金としてと閉じてもよかったんですけどね、経理上はね。でも、ぼくのイメージの中で、続けておきたいというのがあったので。でも、休止していた2、3年の間には、ポケモンはぼくの意識の中ではかなり薄くなっていましたね」これは破格の対応でした。もちろん任天堂にこのときの開発費を宙に浮かせておけるだけの余裕があったからできたことではありますが、それに加えて、石原と田尻に対して全幅の信頼を置く川口だったがゆえにできたことでもありました。その信頼とは、人情のしがらみとか人柄といったウエツトな信頼関係を指しているのではありません。才能です。石原と田尻が持つ、それぞれ人に抜きん出て優れた才能です。その石原と田尻が作りたいと言っているのであれば、作りたいものを作ってもらえばいいのではないか。それが任天堂の社員である川口のポケモンへの参加の仕方でした。「本質的にぼくはクリエータ—ではありませんが、彼らとは全然違う発想で、彼らの

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川口孝司さん
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左から川口、石原、久保(コロンビア大 学前で記念撮影)
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[[BOTTOM TEXT, pt 1|
任天堂の川口さんは、とても変わったサラリーマンです。僕が最初にお会いしたのは、今から約10年近く前になりますが、第一印象は「こんな仕事をしていて、総務部の人なんだ……。」というものです。当時の任天堂の総務部は、普通の会社でいう総務部 (「シヨ厶二」と言った方がわかりやすいかも) とは内容が違いました。それこそ、宣伝、広報、法務、株主対応など製
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やりたいことを取りまとめていくというのが、ぼくのクリエイティブだと思っています。マクロ的なクリエイティブですね。任天堂の中で法務の仕事だけしていれば、法律に縛られ、ロジツクで論理的に物事を整理し、規制していくということになりますが、石原さんや田尻君、それに糸井さんや多くのゲーム業界のクリエータ—の人たちと交流するうちに、自分ももっとクリエイティブな仕事に関わっていきたいと思うようになったわけです。これだけの優秀な人たちですから、学ぶことがたくさんあるわけで、それをリーガルというフィールドにフィードバツクしていったわけです。論理的に説明するのは難しいのですが、ぼくは任天堂の社員として、彼らとは全然違う発想で、彼らのやりたいことを取りまとめてゆこうと思ったんです」『ポケットモンスタ—』は、ふしぎな気がしてくるほど数多くの幸運に恵まれていますが、会社員でありながら自分のクリエイティブにここまでこだわっている人物が任天堂サイドの担当者だったことも、大きな幸運でした。そして川口も、ポケモンがこの世に誕生するのに欠くことのできない人物の1人になったのです。「開発が途中でストップしているということは知っていました。でも、任天堂的にはまあいいかと思っていました。まあこれには、エイプという会社を通じてコントロールしていたので、ある程度ルーズにできたという面もあると思います。もし任天堂が直接コントロールしている会社だったら、おい、もう1年半経ったけど、できてない

[[BOTTOM TEXT, pt 2|
作•営業•経理以外の全ての仕事、まさしく総務をしている部署でした。
川口さんは、本文に書かれている通り、長らく法務を担当していて、法律面からゲ——厶に関わるというこの業界でも珍しいタイプの人間です。川口さんはそんな法務担当の身分でゲー厶製作の現場にどんどん関わってきます。それは川口さん自身が、「法律が関係していれば、何に関わっていても自分の仕事」と考えているとしか思えません。ゲー厶のプロデューサーとして何本も製作に携わっているし、いくつかの関係会社の役員も兼務しています。任天堂社内のゲー厶プロデューサーの雄は宮本茂さんですが、社外とのコラボレーションで言えば川口さんが代表格です。
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なら、これもう閉じて費用を返してもらえ、ということになったかもしれませんね」そんな状況の中で、川口はポケモンの開発を継続できるように、自分にできる最大限の努力をしたのです。さらに川口は、なにかのきっかけになればと、田尻を任天堂の開発担当者に引き合わせてもいます。当時任天堂開発部長だった横井軍平です。田尻が『ヨッシーのたまご』の原型を3タイプ作ったとき、そのどれを本線とすべきか検討する際、横井と直接意見を交わせるよう取りはからいました。田尻は、その出会いについて、こう話しています。
「横井さんに会ってもう、人生変わりましたね。任天堂に行ったら、自分のオヤジのような人が出てきたわけですよ。ゲームを作れる人か作れない人かっていうのは、会って少し話していればわかるんですよ。横井さんは、ゲームの作り手になり得るとぼくが考えていた人たちの外側にいる人でしたね。ゲームの内容について打ち合わせをやったわけですが、ゲームの根幹に関わる部分で提案をしてくるんですよ。ぼくと同じゲーム世代のやつだったら、ゲームの歴史を体で覚えていますから、そういう提案をしてくるっていうのも分かるんですけど、二世代くらい違う人がそういう提案をしてくるっていうのは、非常に衝撃的だったんです。その横井さんという人が、十字キ丨っていうものとか、ゲーム&ウオッチや光線銃を考えたっていうことを後で知って驚きました。そして、いまの任天堂の進むべき道筋を現場で考えて、模索しつつ進ん

[[BOTTOM TEXT, pt 3|
僕自身、映画のクレジットの中に川口さんをエグゼクテイブプロデュ——サ——として表記しています。実際は名誉職の意味合いが強いのですが、ポケモンアニメをスタ—卜した時から、僕と川口さんの立場はワンペアにしてあります。映画になったからといってもそれは同じです。ポケモンをアニメにすることを石原さん同様、早い段階で理解してくれたことに対する僕の気持ちです。そしてもし万が一、仮に失敗するようなことがあっても、一緒に泣ける人がいれば癒されるかも……という意味もあります。もちろんこんな仮定は喜んで考えるつもりはありませんが……。
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できたリーダーはこの人だったんじやないかと思ったわけです」この出会いには『ヨッシーのたまご』のプロデューサー、石原も同行しています。「最初に会ったときは、なんだこの人はっていう感じなんですが、ウルトラハンドに始まってゲームボーイに集大成されるアイデアを全部産み出してきた人なんです」田尻は後に宮本茂にも会うことになりますが、任天堂が世界に誇るクリエータ—2人の印象は、田尻にとってはまったく違ったものでした。
「やっぱり、宮本さんに誉めてもらうのが、クリエータ—としては一番光栄っていうかね。クリエータ—として横井さんに誉められるのは、親に誉められるのと同じなんです。ゲーム業界における父親的な役割でしたから。そうすると宮本さんはなんだろう。一番尊敬すべき兄貴、お兄さんということかな、と思うわけです。いや、ずっと宮本さんが父親的存在だなと思っていたんですが、会ってみると横井さんがあまりにもゲーム制作としての父親的な役割だなと思ったものですから、印象が変わった。だから宮本さんのゲームは、自分も同じ現場にいて作れそうな気もするんですよ」田尻も、他の多くのクリエータ—と同様、宮本から大きな影響を受けています。「言葉を使わないコミュニケーションというものをわりと早くから目指していたんですけど、『クインティ』のときに頂点を一つ極めたわけですよ。〃クインティ〃は言葉を使わないゲームなんです。言葉を使わないからゲームというものは世界のどこへ

第1章  誕生

いっても、面白いものは面白いとすぐわかる。だから、たとえばあれで床に星の絵が描いてあって、上を通ると星を取ったことになって、百個集めるとワンナップしたりするんだけど、その数字をどうするかで議論したりしてたんです。数字は言葉じやないのかとか、取っただけ星のマークが増えるとかね。それを数字で言ったら言葉じやないか、とかね。だけど、世界のどこへいったって数字くらい読めるだろう、みたいな話をして、ぼくとしてはぎりぎりの妥協をして数字を入れたんです。で、その話を宮本さんにしたことがあったんです。そしたら宮本さんが、田尻君はいい選択したねって言ってくれたんです。ぼくはものすごくそれが嬉しかったんです。生意気に言うとライバルかもしれませんが、でもやっぱり兄貴ですね。誉められたら素直に嬉しいから、誉められたいから作るっていうところがありますね。だからしばしば、宮本さんだったらなんて言うかなって考えます。『クインティ』で、信念を曲げて数字を入れたんですと言ったとき、いい選択をしたねって言ってもらつたという体験が今も大きいですね」
ポケモンの1日も早い誕生を願っていたのは、石原も同じでした。任天堂と開発委託契約を交わしている当事者がエイプでしたから、そのプレッシャーもあったでしょうが、それよりも『電視遊戯大全』を制作するときに、ゲームの歴

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史と体系を把握し、その変遷をつぶさに検証している石原には、ポケモンのアイデアの新しさが誰よりもリアルに理解できていたのです。素晴らしいゲームソフト、それも今まで誰も見たこともないようなゲームソフトになるかもしれない。——そう思っていました。アイデアだけでここまでポテンシャルを感じさせるのですから、素晴らしいゲームに結晶しないはずがありません。
しかし、この時点では、実際に開発作業にあたっていたゲームフリークのスタッフたちにさえも、田尻のアイデアから生まれるゲームが、どのような面白さを持ち得るのか、まだわかってはいなかったのです。杉森は言っています。「面白さは、もっと後ですね。交換とかというコンセプトはわかっていたのですが、ノウハウがなかったために、はたしてこれで面白いのかと思っていました。自信がまったくなかったですね」増田も言っています。
「作業をしているときも、面白さ、というものは感じませんでした」ポケモンにとって、このときが最大の危機だったかもしれません。『ヨッシーのたまご』が出た91年以後、ポケモンが完成するまでにゲームフリークが制作したソフトを数えてみると5本ほどあります。

[[IMAGE CAPTION 1|
『ジェリーボーイ』
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[[IMAGE CAPTION 2|
©1991 Sony Music Entertainment (Japan) Inc.
]]

第1章  誕生

91年  スーパーファミコンソフト『ジェリーボーイ』
(ソニーエンタ—テインメント5万本 *後にアメリカでも発売)

92年  メガドライブソフト『まじかる☆タルるートくん』
(セガ・エンタ—プライゼス6万本)

93年  スーパーファミコンソフト『マリオとワリオ』
(マウス専用ソフト、任天堂80万本)

94年  ゲームボーイソフト『ノンタンといっしょ くるくるぱずる』
(ビクタ—集計なし  *後にスーパーファミコン用も開発)
メガドライブソフト『パルスマン』  (セガ・エンタープライゼス集計なし)

いわば、田尻のいう「明日のためのその1」が、その2、その3、その4と続くだけで、一向に明日になる気配がないという状態が延々と続いていたのです。しかし、そんなふうに次々とゲームを作っていけるなら、なぜポケモンだけがいつまでも作れなかったのでしょうか。その点について、田尻はこう語ります。「たとえば、『ヨッシーのたまご』の後で作ったセガの『まじかる☆タルるートくん』でも同じですが、そのキャラクターを生かすために、うちにできることは何か、とゲ

[[IMAGE CAPTION 1|『まじかる☆タルるートくん』]]
[[IMAGE CAPTION 2|
©1992 SEGA
©江川達也/集英社•東映動画
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[[IMAGE CAPTION 1|『マリオとワリオ』]]
[[IMAGE CAPTION 2|©1993 Nintendo]]

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ームの提案をする。つまりゲームを作る動機は外部にあるわけです。ところがポケモンは、最初から通信に対しての解釈の仕方からゲームのあり方から、全部ぼくらが、そもそもこういうことがやりたいんですっていうものを出そうとしていたんです」そこにポケモンを作っていく楽しさも難しさもあったのです。

クリーチャーズの誕生

ポケモンの開発が転機を迎えたのは、1994年でした。この年、石原は糸井のエイプから独立し、株式会社クリーチャーズを設立しました。『マザー2』のプロデュ—サーを務めた石原はこのころの状況をこう説明しています。
「『マザー2』の完成まで4年もかかってしまったんですよ。それで出来上がったら、後はもうエイプは好きにしたらっていう状況になってしまったんですね。好きにしたらつていわれてもなあって言ったんですけど、結局、しようがないやっていうことになって、エイプのスタッフを連れて出て、クリーチャーズという会社を作ったんです」
石原がエイプでの活動を諦めたのは、エイプのクリエイティブ部門の活動が、『マザー2』完成後、ほとんど止まってしまったからでした。なかでもエイプがゲームフ

[[IMAGE 1, CAPTION 1|
『ノンタンといっしよくるくるぱずる』
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[[IMAGE 1, CAPTION 2|
©偕成社•牧童社•フジテレビ•スタジオぴえろ
©1994 VICTOR ENTERTAINMENT, INC.
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[[IMAGE 2, CAPTION 1|
『パルスマン』
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[[IMAGE 2, CAPTION 2|
©1994 SEGA/GAME FREAK INC.
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第1章  誕生

リークに委託していたポケモンに関しては、担当者の石原以外に関心を持つ者もいないという状態でした。
「田尻君には言わなかったんですが、途中で、『ポケットモンスタ—』はもうダメかもしれないと思ったこともありました。プロジェクトそのものを廃棄しなくちやならなくなるかもしれないという状況でしたね」
当然ながら、ゲームフリークにポケモンをゲーム化するのに必要なクリエイティビティが不足していれば、エイプのクリエイティブ部門がディレクションしていく必要があったでしょう。しかし、そうはなりませんでした。
「エイプの開発プロジェクトの主管部門が、ポケモンに関しては投げていたというか、これをどう完成すべきかということに関して、何もやらなかったんです」石原も、ポケモンから手を弓こうと思えば弓くこともできました。「でも、自分としては、これを何とか仕上げたいと思っていました。すごいゲームになるということは最初から認めていたわけですからね。それは変わっていませんでした。それに田尻君の思いもあります。本当に何とか完成させたかったんです」石原の完成させたいという思いは、ただケリをつけたいということではありませんでした。石原も田尻と同じように、ポケモンから「通信ケーブルによるゲームボーイ間の交換」というテーマを引いてしまったら何も残らなくなると考えていました。

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「われわれの中には、ゲームボーイ間の通信というテーマに最後までフォーカスして、それを絶対捨てないようにしようという思いがありました。任天堂の宮本さんも、なんかいい形でまとまっていけばいいですねって言ってくれてました」石原は、エイプを出るとき、ほとんどゲームソフトの開発活動を止めてしまいそうなこの会社との契約関係によってポケモンが世に出るチャンスを失ってしまうのではないか、と危惧しました。が、その頃、実質的にエイプにはポケモンの開発を続行する意思も体制もなかったので、ゲームフリークとエイプ間の開発契約は解除され清算されました。
そこで石原が、クリーチャーズ設立後、新たにポケモンをプロデュースすることになり、新しい開発契約がスター卜したのです。
「ぼくがエイプを離れる時点では、ポケモンの完成度はまだまだでした。それを完成させることは、いずれにしてももうエイプの枠組みの中では無理でした。それで、クリーチャーズを設立した後で、全く新しい体制で、いろいろな開発をやることにしたいと、田尻君に伝えたんです」
石原がクリーチャーズを設立したのは、1995年秋のことでした。エイプと同じ、ゲームソフト開発の会社でした。石原を代表取締役社長に、エイプに出入りしていたイラストレータ—伊藤あしゆら紅丸を取締役に迎えました。実はクリーチャーズ設立

第1章  誕生

前、エイプの活動がほとんどなくなってから、石原と田尻は共同で新しい会社を始める可能性について、話し合っていました。が、実現はしませんでした。その間の事情について、任天堂公式サイト内の『NOM (Nintendo Online Magazine)』(ニンテンドウ・オンライン・マガジンhttp://www.nintendo.co.jp/nom/) 2000年7月号に掲載された対談で、2人は次のように話しています。田尻僕が「将来ポケモンになるソフト」の企画書をAPE (エイプ) に持っていつたのは、石原さんがそこにいたからなんですよ。それで、後に石原さんが独立してクリーチャーズを設立するっていうときに、本当は二人でパートナーシップを組んでひとつの会社を作らないかっていう話もあつたんです。
Q (NOM編集部) えつ! それは『ポケットモンスター』の制作中の話ですか?
田尻 そろそろ『ポケットモンスター』の完成が見えてきたかな、というときですよ。
石原 でもー方でゲームフリーク内部での開発資金とか、開発環境がいちばん苦しかった時期ですね。その頃の田尻君は本当につらそうに見えた。
田尻 それで、僕がそれなりの数のスタッフを抱え込んでひとつひとつ指示をしながら、経営もやりながら、ゲームのディレクションもゲームデザインもやるという作業の限界に達していた時期ですね。結果的にいまは、石原さんはクリーチャーズで、僕

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伊藤あしゅら紅丸さん
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[[BOTTOM TEXT|
クリーチャーズ取締役。イラストレーター、漫画家、ゲー厶・アー卜・ディレクターポケモン・スタジアム等のポケモンの3D化ゲー厶のほとんどに、デイレクターとして関わる。現在はゲー厶•キューブ向けのゲー厶を制作中。アニメのエンディングにも使用された3D映像「ニャースのパーティー」のデイレクションもおこなった。漫画の方は現在、アメリカの新聞数十紙にポケモンの4コマ漫画有道載中。
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はゲームフリークで、お互いが別々の会社で仕事をしていますけど、言い換えれば部署の違いみたいなもんですから、実質は一体なんです。それで、じやあ「なぜ、あのとき一緒の会社にしなかったのか?」と言えば、あの頃のゲームフリークのやり方を一回分解して、あらたに石原さんと一緒に組み立て直すという方法に僕は危機感をおぼえていたんです。つまりそれはアイデンティティの問題なんですよ。僕がゲームフリークでなくなる、あるいはゲームフリークが僕ではなくなるということですから。
石原 田尻くんは学生時代から「ゲームフリーク」を名乗っていたからねえ。アダナが「社長」だったし(笑)。そういう意味では、田尻君はゲームフリークの全てだったし、ゲームフリークは田尻君そのものだったと思います。責任感強いですよね。
田尻 現実的には会社の経営が苦しくて、石原さんと一緒にやるっていうのを真剣に考えもしたんだけれど、ゲームが好きで会社にする以前からゲームフリークを名乗ってきたわけでしょ。10代の頃から築いてきたものを崩壊させることに、大きな迷いがあったんです。この話は他人にするのははじめてだと思いますが。
石原 僕自身、自分の会社をはじめるタイミングだったし、会社経営ということでは田尻社長の方がはるかに先輩なわけで、むしろ僕は社長の先輩としての田尻社長に「会社ってどういう風に作るんだろう?」って相談する意味もあったわけですよ。
田尻 結果として僕らが一緒の会社を設立することはなかったわけですが、とにかく

第1章  誕生

ずうっと課題になっている『ポケットモンスタ—』を完成させるために一緒に付き合っていきましょうというお互いの気持ちの確認を、そのとき得られたんですね。

石原がクリーチャーズを設立するちょうど同じ年に、ゲームフリークの杉森によれば、田尻はポケモンを完成させようとスタッフに檄を飛ばしました。「1994年の半ば過ぎでしたか、田尻が、そろそろポケモンを本気でやろうって、号令をかけたんですよ」(杉森)
ちょうど、セガ・エンタ—プライゼスのメガドライブ用ソフト『パルスマン』が発売された後の夏でした。田尻の言い方を借りれば、ゲームフリークが作った「明日のためのその5」にあたるゲームでした。入社後2年が過ぎていた森本も、このときのことを覚えています。
「あの1本が出た後、田尻の指示で、かなりの人間がポケモンにかかることになりました。それまでじっくりやってきていたことが、少しずつ形になってきた時期なんです。これは乗せればうまくいくんじやないかということになりました」増田も、「出来上がってくる感じはありましたね」と話しています。社長田尻の号令のもと、1994年秋から、ゲームフリークはポケモン一色に染まってゆきました。

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