Pokemon Story/Chapter 1/Subchapter 3: Producers

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第1章  誕生

3 プロデューサー

2人のプロデューサー

田尻が小田急線と中央線快速を乗り継いで、神田駅徒歩5分の任天堂東京事務所のビルにやってきたときのことを、現在任天堂広報室企画部長で当時任天堂総務部総務課長だった川口孝司は今も覚えています。そこには石原恒和というゲームプロデューサーもいて、川口と一緒にプレゼンテーションを聞きました。「田尻君がやってきたとき、ぼくもちょうど東京事務所にいたので、話を聞くことになったんです。ゲームボーイの通信ケーブルは、対戦のために作られたケーブルだつたんですけど、田尻君はそれを交換ケーブルに使いませんかと言ってきた。彼はそのときイメージのスケッチを持ってきていたんですが、そこにはゲームボーイの絵が描いてあって、ケーブルの中を通って自分が持っているアイテムが、トトトトツて、相手のゲームボーイに移っていくというイメージが伝わってきたんです。こういう風に、ケーブルを通っていろんなものが行ったり来たりできたら楽しいですよね、とね。そのときはカプセルモンスタ—と彼は呼んでいて、ガチャガチャで売ってるカプセルの

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プロデューサーという仕事
ぼくは97年の夏、ミニ四駆のアニメで初めて映画プロデューサー業を体験しました。その際、誰かの許可や公の免許が必要だったわけではありません。映画を製作するお金を集め、製作を指揮することができれば誰でも立派にプロデューサーになれるのです。儲けや質感という点を度外視すれば、プロデューサーになるということになんの八ードルも存在しません。おそらくゲー厶も同様でしょう。
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中に人形が入っているあれ、あれがまさに、彼が持っていたイメージで、それがケーブルを通って相手のゲームボーイにガチャンと落ちるっていうね。それがすごく面白くてね。プレゼンを聞いて石原さんと面白いねって言い合ったんです。それでぼくが会社に戻って話をして、こういうアイデアのゲームを作りたいんでお金出して下さいと言って、開発がはじまったんです」
川口の言う「会社に戻って話をして」の〃会社〃とは、もちろん山内のことですが、このとき川口が持ち帰った田尻のアイデアは、「カプセルに入ったモンスターの交換をするゲーム」ということが決まっていただけで、その他の具体的なディテールはまだほとんどありませんでした。むき出しの裸のアイデアだったのです。にもかかわらず、任天堂は開発費の支出を決定しました。まだ全体のラフデザインも見えない企画にお金を出すことにしたのです。金額は公表されていませんが、当時は数千万円という単位です。任天堂はそんなに簡単にお金を出す会社なのか…… そう思われるかもしれませんが、あとでご紹介するように、自社製ゲーム機用に採用するゲームソフトに業界でもっとも厳しいハードルを設けている会社が任天堂です。それを考えると、一見、らしくない不思議な行動でした。しかし逆に、このときの評価と判断こそ、もっとも任天堂らしい行動だったと言えるかもしれません。それまで対戦にしか使われていなかったゲームボーイの通信機能を、データ交換に

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ところがいったん、社会に出してきちんとした評価を得られるものを作ろうとすると、プロデュース業は誰でもできる仕事から一変します。さらにそれで大ヒットさせて大儲けしょうなどと考えるとその難易度は飛躍的に上昇します。プロデュースする仕事は、いきなり日本で数人しかできない仕事へ変わってしまうのです。これも映画とゲー厶は全く同じ状況と言えると思います。
では具体的にプロデュース業とはなんでしょうか?思いっくままに列挙してみます。
① 製作チー厶の管理
この管理業務は資金面と人的要素の両面を意味します。大切なのは、製作チー厶を絶えず正しい方向へ導いていくことです。広い視野とフラッ
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第1章  誕生

利用してみようという田尻のアイデアには、任天堂のそれまでのヒット商品と共通するものがあります。単に新しいゲームソフトのアイデアというだけでなくマジックハンドとか、光線銃とか、あるいはハンドヘルドのゲーム&ウォッチやゲームボーイの着想と同じ、アイデアとか閃きというもののエッセンスを感じさせる新鮮な発想です。際立って高度な先端技術でも複雑さでもありません。長い説明や解説が必要なデバイスではなくて、言われてみるとなるほどと膝を打ちたくなるような思いつきです。しかし、言われるまでは誰も決して思いつかないという種類の発想です。それが任天堂の、というより山内の製品開発のスタイルであり、好みでした。通信ケーブルの先入観を打ち破る田尻の新しいアイデアは、まさにそうした種類のアイデアでした。山内率いる任天堂は、そうした香ばしいアイデアに目がないだけに、敏感に反応したのです。
しかし、田尻と田尻のアイデアに無限の価値を見出してくれた人々の出会いは、決して偶然ではありませんでした。田尻が任天堂東京事務所のビルにやってきたのも、そこに石原と川口という二人の人物が待ち受けていたのも、同じビルの中にエイプという聞きなれない名前の会社が入っていたのも、日本のビデオゲームの歴史をたどってゆくと、他に選択肢はなかっただろうと考えざるを得ないほどの、避けがたい必然的な流れの中の出来事だったように感じられるのです。

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卜な考え、数年先の状況を予測できるなどの資質が必要になります。さらに製作者へのメンタルケアなど多岐にわたる仕事も降りかかってきます。我慢強い性格でないとつとまりません。
② 外部との交渉
製作者が製作に没頭できるようによけいな雑音をシャツトアウトするのもプロデューサーの仕事です。契約交渉、宣伝企画などは日常業務。製作遅延などのお詫びももちろん仕事の範囲です。時には、出資者に対して製品(映像やゲー厶)の完成を保証することを迫られることもあります。要するに製作現場の手作業以外は全てプロデューサーの仕事と言っても過言ではありません。疲れる仕事が多いのーです。しかもそれでいて、し
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大げさな表現だと思われるかもしれませんが、この1990年という年に、日本のビデオゲーム界から照射された数本の光のビームが、夜空の一点でクロスしたように思われてなりません。まばゆい光線の交錯が目に見えるような気がします。そのクロスしたビームの中に浮かび上がったのが、眩しさに目をぱちくりさせている、生まれたばかりのポケモンの赤ちゃんでした。
ポケモンの赤ちゃんを照らし出したビームは3本ありました。言うまでもなく、そのうちの2本は田尻智と任天堂です。そして残る1本は、石原恒和というゲームプロデューサーのビームでした。これからお話しするのは、この3本のビームのお話です。

石原恒和

任天堂東京事務所のビルに、石原恒和というゲームプロデューサーがいたのは、このビルに置かれていたエイプという会社に、石原が出入りしていたからでした。エイプは、任天堂とコピーライタ—の糸井重里が始めたソフトハウスです。ベンチャー企業と言ってもいいでしょう。石原はその糸井と付き合いがあり、それまでの数年間にいくつかの仕事をいっしよにしてきていました。
その付き合いの中で、石原は糸井にとってもエイプにとっても欠かせない人物にな

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あがった作品の出来が悪ければ、その責任を一身に背負うわけですから、まさしく好きでないとやれない割の合わない仕事なのです。
なんか愚痴っぽくなってしまいますが、プロデュース業は、それほど大変なのです。その大変さは映画もゲー厶も変わらないのです。ゆえに映画でもゲー厶でも成功したプ口デューサーをぼくは無条件で尊敬します。その中でも石原恒和さんの仕事は最大級の讃辞を贈るのに値するでしょう。紛れもない世界を相手にしたトップクラスのプロデューサーであることは誰の目から見ても明白だと思います。
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第1章  誕生

ってゆきました。それはつまり、エイプを糸井と共同で設立した任天堂にとっても、石原の存在が大きくなっていったということでもあります。石原がそのようなポジションにつくことになった理由は、石原のビデオゲームへの深いこだわりにありました。石原恒和は、1957年に三重県で生まれました。抜群の成績で高校卒業後、政治でも官僚でもなく総合芸術を目指し、茨城県の学園都市筑波大学で、芸術専門学群総合造形科から同大学院芸術研究に進みました。在学中は銀板写真から最新のCGに至るまでの映像表現の仕組みを学びましたが、次第にビデオアートやコンピュータアー卜を目指すようになりました。
そしてそこから、やがてテレビゲーム(ビデオゲーム)をインタラクティブ・アー卜の究極の形として捉えてゆくことになります。石原が6年間を過ごした筑波の山麓を離れたのは1981年。ときあたかも日本はアーケードゲーム時代の絶頂期にあり、巷のゲームセンタ—では業務用ビデオゲーム『ドンキーコング』が大暴れしていました。しかしまだ、石原にとってはCGとゲームは別のものでした。CGの仕事に就きたいと思つた石原は、日本のCGプロダクションの草分け的存在であるセディックという会社を訪ねました。セディックは西武セゾングループが作った実験的コンピュータグラフィックス・ラボで、六本木ウェーブの五階にありました。しかし、当時セディツクがスタッフの採用を見合わせていたため、石原は同じグルー

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石原恒和さん
久保が知っている2000年10月現在の石原さんの肩書きを書いてみます。全ポケモンゲー厶のプロデューサポケモンカードゲー厶のクリエーターゲー厶製作会社・クリーチャーズ代表取締役社長。ポケモン専門ショップ・ポケモンセンター代表取締役社長などなど。1人でこれだけの業務をこなしているとはとても信じられません。その上昨今は経営学の造詣も深めている様子。頭が下がります。
ぼくにとって石原さんはなかなか一言では言い表せない存在です。初対面の印象は「へ一、この人がMOTHER (マザー。エイプ製作のス一パーファミコンのゲー厶) を作っていた人なんだ!」と
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プ内のSPNという広告代理店に就職することにしました。
石原は、希望とは違う広告業界に身を置いてセディックに入社できる日を待つことになり、SPNとその後SPNがグループ内の別会社と合併してできたI&Sという会社で、都合2年間仕事をしました。この広告代理店の新入社員として過ごした期間は、筑波山麓からいきなりやってきた六本木という異質な環境へなじむための格好のオリエンテーリングになったという意味でも、広告業界の仕組みを身をもって理解できたという意味でも、石原にとって貴重な2年間になりました。この1980年代前半のCGによる映像表現の状況は、可能性は感じさせながらも、可能性を実現できるハードがまだ登場せず、実験的制作の域を出ていませんでした。マーケツトもまだ形成されておらず、実用化されて商業ベースで制作がおこなわれるようになるには、まだ長い時間が必要でした。ちょうど映像表現の主導権をめぐるCG
とフィルムのせめぎあいが始まったころでもあり、実写映像の圧倒的なリアリティを見せつけた『コヤニスカツティ』のような作品が登場しているのも、CGの映像表現に脅威を感じたフィルム映像の表現者側からの反撃だったといえるでしょう。CGがそういう状況にあったために、1983年に石原が念願のセディックに入社したときには、同社はもうCGプロダクションではなくなっていました。CGのビジネスは成り立たず、事業は崩壊寸前でした。当時セディックでは、バックスイレブン

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いうもので、柔らかい語り口が記憶に残っています。それからポケモンの仕事が始まるわけですが、その初期は、石原さんの歳がぼくの二つ上ということもあり、ぼくには兄がいなかったこともありで、今まで見たこともない面白い遊びを教えてくれる兄貴みたいに思っていました。ぼく自身、仕事柄、知識量はほどほどにあると思っていましたが、石原さんのそれは比較にならないほどずば抜けていたように記憶しています。
ポケモンを語る場合、「クリエーターの田尻」「プロデューサーの石原」と二人のポジションが明確になりますが、実際の仕事は非常に近いものと僕は感じています。今のぽくがあるのもこの二人のおかげです。ぼくにとってこの二
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750という米国製の最新鋭のコンピュータを導入していましたが、その性能で描けるCGのレベルは、到底ビジネスになるようなものではありませんでした。石原はまた待たねばならなくなりました。今度待つのは、CGがビジネスとして成り立つだけの性能を持ったコンピュータの出現です。そしてそれを待つ時間を、石原はコンピュータゲームにつぎ込むことにしました。当時を振り返って、石原はこう話しています。
「ぼくにとっては、コンピュータゲームというのは、一番亠咼度なアートだと思えたんですね。当時ぼくはキネティックアート、要するに動くアートに興味を持っていたんです。動くものがアートといえる現代美術の領域があって、それが少しずつ進化して、触ると動くものとか、環境情報彫刻といわれる環境の情報を取り込んで表情を変えるものとかが出てきましたが、そういったものにずっと興味を持っていたんです。最初は、ボタンを押したら電気がつくとか、音が出るといった水準だったのが、コンピュ—タによって、60分の1秒レベルのすごい精度の制御ができるようになりますよね。そういう精度の中で絵や音をコントロールして、その結果を表現するというのは、とんでもない仕事だなと思ったんです。コンピュータゲームとはそういうものだとわかると興味が湧いてきて、その高度なプログラムを実際に見て、ぜひやりたいと思うようになったんです」

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人はやっぱり天才なんです。石原さんは、田尻さんとは別種の才能、秀才とも違う天賦のオを感じます。そしてそれは、ポケモンがヒットしてからだんだんと大きくなっているのです。そう感じるのはぼくだけでしょうか?
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CGビジネスから撤退しても、セディックは映像プロダクションとしての仕事を続けており、コンピュータソフトの開発やテレビ番組プロデュースを手がけていました。石原はコンピュータゲームへの関心を深めながら、テレビ番組のプロデューサーとして、フジテレビの深夜番組枠で、「浅田彰電視進化論」や「TV'sTV」、「糸井重里の電視遊戯大展覧会」などを手がけました。電視とは中国語でテレビを指す言葉で、電視遊戯とはテレビゲームのことです。このテレビプロデューサー時代に、石原は石原の将来に関わる重要な出会いをいくつも得ることになりました。「テレビゲームの番組を作るときに、糸井重里さんとか、すぎやまこういちさんとか、田尻智君とかにインタビューしたり、手伝ってもらったりして、一緒に番組を作ったんです。その中で一度、ゲームの歴史を全部サマライズしようと思ったときに、田尻君の持っている知識とコレクションを知ったんですが、すごかったんですよ。ずば抜けていましたね。技能的にもずば抜けていました。もう、ものすごかったですね」このとき石原は田尻の家を訪れているのですが、田尻の体系的に整理されたビデオゲーム基盤の膨大なコレクションに圧倒され、田尻がそれらのゲームをプレイして見せるときの神がかり的なテクニックに呆然としました。
「そのとき、これはもうかなわないなっていうか、こっち方面は田尻君がいるからいいやっていう気になりました。それくらい田尻君のビデオゲームへののめり込み方は

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10歳の頃の
石原恒和さん
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2000年現在の
石原さん
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第1章  誕生

すごかったんです」
これ以来、石原と田尻は、さまざまな事柄について議論したり相談し合ったりする ようになりました。石原は田尻より8歳年長だったので、石原が兄のような役割を務 めることもあったようです。
また、糸井重里とは、この後すぐ、田尻より早く具体的な共同作業を始めることに なります。ちなみに、ここに名前が挙げられているもう1人の人物すぎやまこういち は、ポップスや映画音楽で有名な作曲家で、『ドラゴンクエスト』シリーズの音楽を 手がけたことでさらに有名になりました。「『ドラゴンクエスト』はすぎやまの音楽 抜きでは語れない」とまで言われています。
しかし、セディック時代の石原の最大の業績は、1988年に出版された単行本 『電視遊戯大全〜テレビゲーム』 (UPU刊) に尽きるでしょう。これは空前絶後のテ レビゲーム全書でした。石原は、この壮大なスケールのプロジェクトの総監督として、 企画から完成まで指揮をとりました。
石原の『電視遊戯大全』という書物は、類書を探すとなれば稲垣足穂の『宇宙全 書』(工作舎)くらいしか見当たらないような、1987年の時点でのパーフェクト に近いビデオゲーム・エンサイクロペディアでした。
その制作のために石原は、日本国内はもちろんアメリカ、ソ連 (当時) を実際に訪

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れ、著名ゲームクリエータ—たちを網羅的にインタビューしました。ビデオゲームの世界にエポツクメーキングな業績を残した人物ばかりです。
日本では『スペース・インベーダー』の西角友宏、『パックマン』の岩谷徹、『ゼビウス』の遠藤雅伸、『ギャラクシアン』の沢野和則、『ドンキーコング』や『スーパ—マリオブラザーズ』、『ゼルダの伝説』の宮本茂、『ドラゴンクエスト』の堀井雄二、作曲家のすぎやまこういち、海外ではアタリのノーラン・ブッシュネルを始め、カルト・スタ—的なゲームクリエータ—のビル・ウィリアムズ、『テトリス』の作者アレクセイ・パジトノフ、アクティビジョン社長のジェフリー・マリガンとゲームデザイナーのスティーブ・カートライト、ルーカスフィルムのプログラマーのデビッド・フォックス、アタリ・ゲームズ社長の中島英行らがいます。これらの人々のリストだけでも、世界ビデオゲーム人物事典として活用できるレベルです。石原の親しい友人ペヨトル工房の今野裕一も、この本の編集と執筆に手弁当で参加しています。石原がこの本を企画した動機は、石原がコンピュータゲームに関心を持つあまり、コンピュータゲームの歴史を記録しておきたいと思うようになったことと、この本を企画した87年当時が、体系的にコンピュータゲームを記録できる最後のチャンスだと思ったことでした。ビデオゲームを淵源からたどり、その系統樹を作って分類することができる最後のチャンスという意味です。

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『電視遊戯大全』
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第1章  誕生

石原は編集時までにこの世に生まれていたゲームのほぼすべてを、この本で取り上げています。他のゲームの亜流と言われるゲームも系統立てて紹介されています。その結果、プレイ・インプレッション付きで解説されているゲームタイトルだけでも200に及んでいます。しかもそのすべてのゲームにプレイ画面の写真が付いています。驚異的というよりは驚愕を覚えるほどです。
「あれが限界だったでしょうね。あの頃はまだ、正確にはわかりませんが、テレビゲームは全部合わせても世の中に数百本くらいしかなかったんじゃないでしょうか。それなら少なくとも主だったゲームを全部網羅できるし、ひとつひとつがどういうゲームなのかということを突き止めることができるし、全部プレイしてみることもできると思ったんです。実際その通り、翌年あたりからタイトル数は爆発的に増えていきましたね。その意味では、当時がゲームソフトの黎明期だったんです。そう感じましたね。そして、黎明期ならまとめられると思ったのです」
90年代に入るとゲームソフトのタイトル数はさらにとめどなく増加してゆきます。石原以後、ビデオゲームのリストを作ろうとするものさえ現れていません。この世に生まれたゲームソフトの大半は、間もなく人の記憶にも残らず、記録にも残されないまま、永遠に消えてゆくことになるでしょう。
タイトルだけではありません。ゲームセンター隆盛期に、田尻やその他のゲーマー

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たちが生み出した、例えば「名古屋打ち」のような風俗・スタイルも、もし石原がこの本を編まなかったら、やがて忘れ去られたに違いありません。石原はそうしたゲーマーたちの風俗や時代の匂いまで、フィールドワークを重ねて丹念に拾い集めています。その意味で、『電視遊戯大全』を、最後のチャンスをとらえてこの世に生まれた、ビデオゲームのフォークロア(民俗学)全書と呼ぶこともできるでしょう。この本のもう一つの特色は、その階層構造と項目と項目のリンクにあります。クリアケースに入ったB5版の本は丈夫な表紙を持ち、内部はビデオゲームの系統樹マップとその他の六つのパートに分かれています。それぞれのパートは、ページの紙そのものを三つ、もしくは二つに切り離すことで物理的に区分され、分かれているページがめくりやすいようにバインダー綴じになっています。
それぞれのパートで関連項目が片ページか見開き単位で扱われていますが、そこには必ず他の関連項目へのジャンプサインが付いています。サインをたどってゆくと、あるゲームタイトルのページから作者の紹介。ヘージへ、作者のページから彼が影響を受けた他のゲームタイトルのページへ、さらにそのゲームを発売した企業のページへ、企業のページから創業者のインタビュー・ページへと、どこまでもリンクは続いていて、読み終わるということがありません。
石原はこれを、「閉じられていない構造の本」と呼んでいますが、項目から項目へ、

第1章  誕生

ページからページへとたどってゆく仕組みは、インタ—ネツト上のウェブサイトと同じです。当時すでにインタ—ネツトは存在していましたが、日本ではまだほとんど知られていませんでした。それを印刷物という媒体で表現してしまうところに、石原の人に抜きん出て優れた構成力や啓蒙的な素質、また世界の事物は互いに関係しあっていて、その尽きることのない関係性の集積が情報であるといった石原の世界観までもうかがうことができます。石原のこうした能力や素質やものの見方は、後に石原がプロデューサーとして関わることになったゲームソフトの性格や方向性に大きな影響を与えることになりました。
この本を石原が作ったとき、田尻にはビデオゲームの作品はまだ1本もありませんでしたが、石原は本への寄稿を依頼しました。田尻の原稿は、本のインタビュー・パ—卜の後半部分に2ページに渡って掲載されています。タイトルは「テレビゲームで贅沢」。アーケードゲームの商品サイクルがどんどん短くなってきて、ゲームセンタ—においてあるテーブル型ゲーム機が手軽に買えるようになったことを紹介する内容の原稿で、「あの伝説的なSFシューティング・ゲーム『ゼビウス』でさえ」コンピュータ・ボードとゲーム機のセットで2万から5万円という値段で買えるようになったのだから、ゲームフリークたるものこのチャンスを逃してはならないと、スピルバーグも買って自宅で遊んでいるというエピソードを紹

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「閉じられていない」
石原さんはポケモンを語るとき「閉じられていない」という表現を使います。この言い方には石原さん自身こだわりを感じているようです。外国人に説明する際も「open ended (広く開いているの意)」ではなく「none closed (閉じていない)」ということを通訳に強調していました。石原さんにとってこの2語は同意語ではないのです。
ゲー厶を買ってプレイしたらそれで終わりというのは「閉じた商品」。プレイし終わった後でもどんどん楽しさを足していけるのが「閉じられていない商品」。「閉じられていない」とい一つ言葉の定義をそう位置づけると、この言葉が「オープン」に取って代わ
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介しながら、業務用ゲーム機の購入をすすめています。そして、「やはり自宅で本物のテレビゲーム機で遊ぶということは、ゲームフリークにとって最高の贅沢であり、楽しみなのではないだろうか」と結んでいます。
このときの田尻の肩書きは、「ミニコミ誌『ゲームフリーク』主宰。フリーランスのライタ—」でした。
糸井重里も、「そっち側で考えはじめているワタシ」と題する原稿を寄せています。その前半部分のテーマは、奇しくも田尻と同じ業務用テーブル型ビデオゲーム機を買おうか買うまいか迷ったという話でした。そして原稿の後半で、糸井は「いちばん強く興味を持っているのは、ゲームをすることそのものではなく、ゲームの世界(ゲームを生み出す、あるいはゲームの生み出す状況)らしいということが、この頃わかつてきたのである」と書き、ゲームソフトの開発に対する強い興味を表明しています。この興味、好奇心が、糸井を任天堂と結びつけ、両者のジョイントベンチャー、エイプというソフトハウスの設立につながります。
エイプは、糸井のゲームソフト制作への意欲と、任天堂のゲームソフト産業の現状に対する危機感とがタイミングよく出会って生まれたベンチャー企業ですが、その設立に至るまでの経緯は、少し説明が必要でしょう。

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れない理由も頷けます。ポケモンはまさしく閉じられていない商品として存在しているのです。
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第1章  誕生

ポケモンを生んだ人脈

1980年代後半、日本ではバブル経済の時代を迎えますが、一足早く83年にファ ミコンが発売されて以来、ビデオゲーム産業は「バブル時代」に突入しました。ファ ミコン用ゲームソフトが、作る端から何十万本も売れたのです。もちろん何でも売れ たということではありません。しかし、ある一定のレベルに達してさえいれば、面白 いように売れたとは言えるでしょう。音楽CDでも単行本でも、10万部単位で売れた らベストセラーの仲間入りですが、ゲームソフトでは珍しいことではなく、話題にも なりません。というより、10万本しか売れないゲームソフトは失敗作と呼ばれること もしばしばでした。それほどファミコン用ゲームソフトの需要は大きく、ファミコン 所有者のゲームソフト購買意欲は強かったのです。
しかし、たとえ10万本しか売れず失敗作と呼ばれるものだったとしても、市民的な 感覚で言うと、製品化されたらそれだけでもう成功です。10万本分の印税収入が得ら れるからです。通常ゲームソフトの作者には印税もしくはその他の名目で、全冗上本 数×メーカー希望小売価格×印税率〉という計算式ではじき出される金額が支払われ ますが、ゲームソフトは売上本数が大きく、価格も比較的高額なので、作者へのリタ ーンも当然大きくなります。

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これは公表されていない数字なのであくまでも推定ですが、任天堂の場合、印税率はメーカー希望小売価格の5〜7パーセントと言われています。もし作者がグループなら、それをグループ内で分配します。これは音楽CDやテープの印税をバンドのメンバーで分け合うのと変わりません。捕らぬ狸の皮算用をしてみると、あなたの素晴らしいアイデアから作られたゲームソフトが定価4000円、あなたの印税率5パーセントという約束で発売されたとします。残念ながらそのゲームは半年で10万本しか売れず、失敗作の烙印を押されて製造打ち切りになりました。しかしそれでもあなたの口座には、税込みで2000万円という金額が振り込まれるのです。そんな「失敗作」なら、誰でも作ってみたいと思うでしょう。
しかも、ゲーム作家になるにはプログラマーである必要はないのです。ハードやプログラム言語の知識は、あるに越したことはないという程度の問題なのです。プログラマーと相談しながらゲームをまとめていくうちに、いやでもある程度の知識が身につくことになりますが、それで十分でした。80年代までの有名なゲームクリエータ—やゲーム作家には、プログラマーやエンジニアももちろん大勢いましたが、グラフィックデザイナーやイラストレータ—、無職の競馬ファンにコピーライタ—と、コンピュータの専門家ではない人たちもたくさんいました。音楽教育は受けていないけれど才能豊かなシンガーソングライターが、思いついたメロディーを専門の

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音楽CDとゲーム
あなたがもし、ジャンボ宝くじで3億円当たったとして、TVCMどおり一億円使ったのに2億円あまっていたとしましょう。
あなたは人間関係のしがらみからその2億円でビジネスの投資をしなければならなくなりました。選択肢は2つです。音楽CDを作る仕事に投資するか、ゲー厶を作る仕事に大金をかけるかのどちらかです。音楽CDはシングルで20種類だすチャンスがあります。ゲー厶は、ゲー厶ボーインフトを4種類です。CD20枚VSゲー厶ボーイ4本。あなたはどちらが成功するチャンスがあるとお思いですか? 音楽CDの製作費は、ミュージシャン大勢で海外レコーディングをしなければ100
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第1章  誕生

編曲者にきちんとした楽譜に仕上げてもらうのと同じように、アイデアやストーリーがまとまれば、後は専門のデザイナーやプログラマーやシナリオライタ—がゲーム機でプレイできるように作り上げてくれるのです。もちろん関わるスタッフが多ければ多いほど、自分の印税率は下がってきますが、それは致し方ありません。こうした実入りのよさと間口の広さもあって、ゲームクリエータ—になることは成功への近道だと思われた一時期がありました。斬新なゲームのアイデアを思いついたゲーム好きの学生が、コンピュータの知識のある友人と一緒に企画書をまとめてソフトハウスやソフトメーカーに売り込みにやってくるのは珍しくありませんでした。ファミコン用ソフトの開発には、新規参入企業も多かったので、売り込みを聞いてくれる窓口も多かったのです。たしかにどこも新しいゲームソフトのアイデアを欲しがっていました。そして、一時期、駄作・愚作と評価されるゲームが作られた時期がありました。それでももちろん、膨大な数のゲームソフトの企画書が書かれたので、簡単にゲーム作家になれたわけではないにせよ、採用されやすくなっていた時期があったのです。それをみて、ゲームソフト産業の将来に不安を抱いたのが、任天堂でした。
任天堂が不安を抱いたのは、前に記したようにアメリカの家庭用ゲーム機業界がゲームソフトの粗製濫造を放任した結果、一夜にして崩壊するのを目の当たりにしたか

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0万円くらいでシングルー枚分です。ということは、2億あれば20枚はできる計算になります。現在のレコード業界は冷え切っており、売れるア——ティストは飛ぶように売れますが、新人・中堅には非常に厳しい市場になっています。ドラマの主題歌に採用されても、2万枚売れないケースも現れてきています。
ただ、一般的に考えてみると、20回CDを発売するチャンスがあるわけですから、もしかするとその中の一枚がミリオンセラーになる可能性も否定できません。リスクはありますがチャレンジし甲斐がある仕事のように見えます。一方、ハ—ドがゲー厶を作る方はというと、ゲー厶ボーイなら開発費は5000万円前後で作ることが可能です。
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らです。任天堂は、ファミコン用ゲームソフトが飛ぶように売れる様を見ながら、自社製ゲーム機用ゲームソフトの内容と年間リリース数に厳しい採用基準を設けました。本数制限は、「1年間に1人のプレーヤーが100本も200本もゲームを買えるはずがない。優れたソフトが10本程度あれば十分ではないか」という山内の考え方に基づいています。
それは逆に言えば、1本1本のソフトが、長い間プレーヤーを飽きさせないだけの魅力を持っていなければならないということでもあります。その要求に応えるために、ゲームの開発には知恵を絞り、考え抜かねばなりません。そうして生まれたゲームだけが、ファミコンやゲームボーイのカートリッジになって発売されるのです。また、このコントロールをより有効にするため、任天堂は、ゲームカートリッジの製造を自社内で行うことにしました。ファミコンやゲームボーイには、強力な暗号によるロックがかけられていますが、任天堂は自社工場で生産されたカートリッジにだけこのロツク解除のカギを組み込むことにしました。ですから、任天堂のゲーム機用ゲームソフトを作りたい会社は、任天堂にカートリッジを注文せざるを得ないのです。いわば、ゲーム・カートリッジのOEM生産です。
任天堂のゲーム機用カートリッジは注文生産で、任天堂へのロイヤルティ・フィーを含むカートリッジ代金は前払いしなければなりません。これは、資金力の弱いソフ

[[BOTTOM TEXT, pt 3|
プレイステーションや二ンテンドウ64の大作ソフトだと2億円ではとても足りません。しかしここでは、2億円でゲー厶ボーイ用ソフト4本を製作するとしてみましょう。ソフトはだいたい一本3500円前後で売られることが多く、10万本は売らないと利益は出ないと思います。
実はこのクイズは、ぼくがゲー厶関係者とよくやる遊びです。人によって意見が異なり、CD派の方が6対4ぐらいで多いかもしれません。僕も実をいうとCD派です。こんな遊びでゲー厶を作って売るビジネスのリスクを理解して頂ければ幸いです。
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第1章  誕生

トハウスにとっては厳しい条件です。売れるという確信があっても、カートリッジの代金を用意できなければゲームソフトを作れないのです。
このシステムは日本国内だけでなく、NOA (アメリカ任天堂) でも採用されています。こうした任天堂方式を、厳し過ぎるとか、独占的支配力を背景にした強圧的商法だと批判する人もいました。しかし、任天堂の採用基準をクリアするだけのソフトが、実際にプレーヤーから大きな支持を得てゆくのを見て、そうした批判はやがて消えてゆきました。任天堂の川口孝司は、こう言っています。「確かに、うちは要求も採点も厳しいんです。ですから、ゲームクリエータ—の方々だけでなく、取引先はどこも苦労されます。でも、そういうときいつも申し上げるんです。うちは苦労も大きいですけど、それに耐えていただければ、苦労した何倍もの見返りを期待していただけますって」
任天堂がゲームソフトの開発と製造を厳しくコントロールしようとしたのは、新たに開拓した家庭用ゲーム機とそのゲームソフトのマーケットを大事に育ててゆきたいと考えていたからでした。そのマーケツトは、手をかけるだけの価値のある巨大なマ—ケットなのです。そして、そうしたコントロールが可能だったのは、任天堂のファミコンが日本の家庭用ゲーム機のマーケットで85パーセントのシェアを抑えていたからでした。日本では、家庭用ゲーム機業界という場合、業界とは名ばかりで実質的に

[[BOTTOM TEXT, pt 1|
任天堂システムの評価
川口さんの言うロイヤルテイベースの任天堂方式は、任天堂にとっては正しい方法だと思います。
ではゲー厶製作者からはというと、笞えは複雑です。まず、「任天堂は売れないと言っているが俺は絶対売れると思っている!」というゲー厶製作者(A)の場合、任天堂の採用基準を越えないと発売できないので、彼にはチヤンスが無くなってしまうことになります。また彼は10口万本売れると思っても、任天堂が3万本だと言えば、製作費をリクープする可能性が低くなります。ポケモンは幸いにして大成功しましたが、ある意味このタイプ(A)に属します。くわしくは主文で
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はファミコン業界でした。家庭用ビデオゲームのマーケツトにしても同様です。それはファミコン用ゲームソフトのマーケットに他なりません。業界もマーケツトも、日本中の家庭に入り込んだ1100万台のファミコンの上に成り立っていたのです。任天堂には、このマーケットを自らの手で切り拓いたという自負があります。いわば自前のマーケットです。それを守るために、ファミコン用ゲームソフトのリリース間隔、年間リリース本数などをコントロールすることにためらいはありませんでした。アメリカでは、ファミコンが発売されるほんの数年前まで、アタリが任天堂と同じように家庭用ゲーム機という独占的市場を切り拓きましたが、作るのも売るのも自由という競争原理のジャングルが繁茂するに任せた結果、当時もっとも現代的なアメリカンドリームだった数千億円という巨大なマーケツトが、一夜にして跡形もなく消え去ってしまいました。アメリカの失敗の原因がどのようなものだったのか、詳しい研究はまだありませんが、同じような条件下にあった両社の行動を比べてみると、あまりにも対照的です。
日本の家庭用ビデオゲーム機業界は、90年代に入って有力な他社の参入が相次ぎ、今日まで隆盛を保っています。しかしこうして日本にこの業界が生まれてからの経緯を振り返ってみると、まさしく任天堂のセルフコントロールがあったからこそ、アメリカの二の舞を踏まずにすんだといっても過言ではありません。任天堂が開発本数を

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後述されます。
本来、製作者が100万本売れると思い是非売りたいと考えるのなら、すべて製作者がリスクを背負い100万本作ればよいと思うのです。もちろん製作者の希望通り問屋が弓き取るかという問題はありますが、任天堂のシステムはそれを許してません。任天堂が創り上げたゲー厶マーケットを守るため、製作者主体の行動を制限しているのです。製作者側の不満は日々たまつていきますが、任天堂ー社独占の時代はそれでも良かったかもしれません。川口さんの言うとおりゲー厶制作者はまちがいなく利益にありつけたからです。
プレイステーション(SCE)は、この製作者の不満を巧みに突いていったと思いま
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第1章  誕生

制限したことで、タイトルの供給過剰にもならずにすんだし、1本1本のゲーム開発にかけられる時間が結果的に増えたため、ゲームの作りも丁寧になりました。もし任天堂が売れるに任せてゲームソフトの粗製濫造を放置していたら、ポケモンがこの世に誕生する前に日本の家庭用ゲーム機業界もそのマーケツトも、アメリカ同様に消滅しなかったと誰が言えるでしょうか。
任天堂の業績は、ファミコンが独走した1980年代を通じて伸び続けましたが、山内はさらに新しいアイデアを求め続けていました。コンピュータ・テクノロジーの進歩から、他社の追随を許さなかった先進のファミコンといえども、いずれ時代遅れになることは明らかでした。そのために山内はスーパーファミコンの開発を急がせるのですが、同時に、ゲームソフトにおいても、それまでに類を見ない、画期的なアイデアが欲しいと思っていました。
山内は、ファミコン開発後、「ビデオゲーム業界は天才に頼る業界だ」と考えるようになっていました。社内でも、横井軍平や宮本茂を見ていれば、天才的アイデアから生まれた商品がいかに強力なパワーを秘めているか分かります。ビデオゲームがブームになるまでの任天堂を支えたのは横井のアイデアですが、その発想のユニークさは真似ようとして真似られるものではありません。また宮本は、まさにビデオゲームのために生まれてきたような天才的クリエータ—でした。宮本からは新しい発想がこ

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す。任天堂がゲー厶ビジネスを始めた創生期とは違い、マーケットの方もどれが良いゲー厶であるかということがわがってきました。ノウハウがマーケットにも蓄積していたのです。言い換えると、任天堂がマーケットを育てて、その育てたマーケツトが独自の判断をし始めたのです。マーケットに判断基準があれば、SCEは製作者(ソフトハウス)に対し、「可能なら、あなたの好きなだけ作って売っても良い。希望があるなら自社で流通を持っても良い」と言えるでしょう。製作者は喜んだはずです。しかし実際は、流通問屋(マーケット)が引き取らなければ、100万本作っても在庫を抱えることは変わりありません。結果は任天堂独占の時と同じなのです。
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んこんと湧きでていました。宮本の『ドンキーコング』は、それまでのビデオゲームのイメージを一変させるほど新しい発想で作られていました。天才が作る新しく刺激的なゲームソフトが、ビデオゲームの裾野を広げ、マーケツ卜を育てていく。それが山内の考えでした。
しかし天才は一一、山内は考えました。訓練や教育によって作ることができるものではない。だから、天才をこの業界に招かねばならない。招いてアイデアを頂戴しなければならない。となれば、ダイヤの原石のような天才たちのアイデアを磨き上げるために、知恵と技術と資金を出す受け皿が必要になる一一。ここで任天堂と糸井重里が結びつきます。山内は、業界外の新鮮なアイデアの受け皿になる会社を設立することにしたのです。それが株式会社エイプでした。山内は以前から付き合いのあったコピーライタ—の糸井重里をパートナーに選びました。エイプ設立の狙いは、糸井の広汎な人脈から小説家、漫画家、アニメクリエーター、糸井をはじめとするコピーライターなど、さまざまなクリエイティブの現場から才能を招いて、それを任天堂のゲーム作りに生かすというところにありました。そして設立準備以来エイプに関わってきたのが、当時総務部総務課長だった川口孝司でした。川口は設立後、エイプのマネジャーも兼務することになり、エイプのプロジェクトのすべてに参加しています。そのエイプに、糸井人脈の石原恒和が出入りす

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ただ、製作者は、判断の主体が自分にあるということを素直に喜んだと思います。SCEはさらに「今、プレイステーションのゲー厶を作ってくれるのなら、製作者により有利な営業契約を結んでも良い」と甘言しました。不満のたまっていた製作者は、次々とプレイステーション側へつきました。こうして、独占の時代は崩れていったのです。
もちろん、プレイステーションが勝利した理由はこれだけではありません。ゲー厶の作りやすい環境、記憶メディアとしてのCD-ROMの採用。SONYのブランドイメージなど複合的です。しかしながら、プレステーからプレステ2へ移行した2000年、再び製作者側の不
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るようになり、さらに石原人脈の田尻がやつてくることになったのです。山内がエイ プを設立したことで、山内と石原と田尻を結ぶ線がつながったのでした。 糸井との関係でエイプに出入りするようになっていた石原は、やがてエイプの運営 にも関わるようになりました。エイプのマネジャーだった川口によれば、90年ごろに は実質的にエイプを切り盛りしていたのは石原になっていたということです。 そのエイプに飛び込んできたのが、ゲームボーイの通信機能を「交換」に使うゲー ムという、誰も思いつかなかったアイデアを持った田尻だったのです。実は田尻が 『カプセルモンスタ—(仮)』のプレゼンテーションを行ったのは、任天堂東京事務所 のビルにあったこのエイプでした。任天堂にとっては、田尻がやってきたことも工イ プ設立の大きな成果でした。山内の言う「天才の受け皿会社エイプ」は立派に機能し たのです。
山内は常々、「ポケモンにはぼくは関係ないからな」と言い、感想を洩らすことも ないようです。しかし、川口が東京から持ち帰った『カプセルモンスタ—(仮)』の 話を聞いたとき、「これや、これ。これがぼくが待っとったアイデアや」と思ったよ うな気がしてなりません。川口から報告を受けた山内が、開発開始の指示を出し、予 算を決裁したことは言うまでもありません。
ところで、任天堂は石原との出会いも、エイプの大きな収穫だと考えていました。

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満が爆発しました。プレステ 2に八ードが変わり、ゲー厶 製作費がコストアップしたに もかかわらず、ゲー厶は以前 より売れなくなったのです。 それは、プレステ2本体を買 った人が、ゲー厶ソフトを買 わずDVDッフトを買ったた めです。ゲー厶ソフトよりも 安価なDVDソフトにユーザ ーは魅力を感じたのです。も ちろん、パート2物しか作れ ない製作者側にも問題はある のですが、SCEと製作者側 のもくろみがはずれているの は事実です。さらにSCE側 は、プレステー時代に有利な 営業条件を出していた製作者 に対し、条件訂正を求めたよ うです。ゆえにここにきて製 作者の不満は急激に高まって いるのです。そのうち何社か は、二〇〇一年デビュー予定
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石原も糸井に劣らず幅広い人脈を持つ人物で、中でもビデオゲーム業界では、石原が面識のないゲームクリエータ—はほとんどいないほどでした。クリエータ—だけでなく、ゲームライターとして名を馳せていた田尻をはじめ、ビデオゲームの開発に関わるプログラマー、シナリオライタ—、作曲家にも大勢の知人がいました。当時の石原は、日本一の業界通だったかもしれません。ですから、川口が石原をエイプに引き抜きたいと考えるようになったのは、ごく自然な成り行きというものでした。川口は、石原の人柄とそのプロデュース能力を高く評価していたのです。川口は山内の了承を得て、石原獲得に動き出しました。川口が石原のヘッドハンテイングに成功するのは1991年です。川口は、石原のためにエイプの副社長の椅子を用意しました。エイプの初仕事は、糸井重里のファミコン用ソフト『マザー』の続編『マザー2』になるのですが、その『マザー2』のプロデュースを、石原は任されることになります。こうして石原は、石原が「いちばん高度なアート」だと考えていたゲームソフトの世界に飛び込むことになったのです。石原がセディックを辞めてエイプに移ると聞いたとき、田尻は「びっくりした」と話しています。「石原さんがエイプに移ったときは、本当にびっくりしました。そして、ああ、石原さんは本当にゲームが好きなんだなあって思いました。企画書をもってエイプに行ったのもね、そこに石原さんがいたからなんですよ」

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のマイクロッフトのゲームマシン「X-BOX(エックス•ボックス)」の陣営へ走ったと聞いています。いやはや, 時代は繰り返すとはよく言ったものです。
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第1章  誕生

田尻と任天堂と石原が、ようやく一 つの同じ土俵の上に立つことになったのがこの ときでした。その土俵とは、もちろんポケモンです。

「カプセル」から「ポケット」へ

ところで、『カプセルモンスタ—(仮)』というタイトルは、やがて『ポケットモ ンスター』というタイトルに変わります。それまで仮に『カプセルモンスタ—』と呼 ばれていたものに、『ポケットモンスタ—』という正式なタイトルがっけられたとい うことなのですが、それは開発がはじまって数年後のことでした。呼び方がいくつも あると紛らわしいので、本書ではここからタイトルを『ポケットモンスタ—』、略称 ポケモンに統一しておくことにします。
タイトルとしてカプセルモンスタ—という言葉を使わなかったのは、商標権の問題 があって、「カプセルー」という言葉が商品名に使えなかったからでした。ですから 致し方のないことだったのですが、田尻にはほろ苦い選択でした。「カプセル」とい う言葉には、少年時代へのノスタルジーがこめられていたからです。 タイムカプセル、カプセル宇宙船、冬眠カプセル、カプセル怪獣……。小学校時代 に、文集や絵を詰めたタイムカプセルを校庭の片隅に埋めたことのある人もいるでし

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よう。あるいは、駄菓子屋の隅っこに置かれた不思議な機械、ガシャガシャとかガシ ャポンとかガチャガチャなどと呼ばれていたあの機械に、100円玉を入れてレバー をガシャガシャ、ガチャガチャ動かし、球体のカプセルが出てくるのを固唾を飲んで 見守った経験は誰にもあります。
カプセルという言葉は、少なくとも田尻たちの世代までは、少年時代のSF的世界 への入り口でした。いわば万能の容器です。カプセルという言葉には、田尻のそうし た少年時代の記憶がいっぱい詰まっていたのです。
カプセルでなければ、ではどんな容器がふさわしいだろうか? 田尻は、モンスタ ーたちをしまっておくにふさわしい、カプセルに代わる容器を新たに考えなければな りませんでした。
「それならボールはどうだろう」と、誰かが言い出しました。「モンスターボール」 です。なるほど。田尻のイメージでは、格納するときはモンスタ—たちはデジタルデ ータ化されます。映画『トロン』でコンピュータの中に人間が入っていくのと同じよ うな仕組みです。ですから、モンスタ—の格納器は小さなハイテク装置になるのです が、そのイメージが損なわれないのであれば、ボールであっても問題はありません。 田尻は、モンスターの入れ物をボールに変更することにしました。 ただ、そうなると、ゲームのタイトルも『ボールモンスター』となってしまいます。

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モンス夕ーボール
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©1995 Ninetndo/creatures inc./ GAME FREAK inc.
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第1章  誕生

タイトルとしては少し重い響きです。するとこんな意見がでてきました。「モンスタ—ボールは子どもが片手で握れるくらいの大きさで、いつもポケットやカバンに入れて持ち歩けるんだよ。だから、『ポケットモンスタ—』はどうかな」
こうしてカプセルモンスタ—はポケットモンスタ—になりました。ただし、少年の冒険物語なので、カバンはリユックサックに変わりました。付け加えておけば、後に類似ゲームが発表されますが、モンスタ—をデジタル化してボールのような小さな容器に格納するというアイデアのオリジナルは、ポケットモンスタ—です。
ゲームの名称をこのとき、『ポケットモンスタ—』というタイトルに変更できたことは、大きな幸運でした。後に『ポケモン』という略称が生まれ、それが世界に通用する愛称になったからです。ものにしろ人にしろ、ヒットするには多くの条件が揃うことが必要ですが、名称や略称は大きな要素になります。言いやすい、聞きやすい、わかりやすい、独特であるなど評価するポイントはいくつかあるでしょうが、マーケティングの専門家も、ポケットモンスタ—というタイトルとポケモンという略称がヒット商品のタイトルとして申し分ないと口を揃えます。
やがてポケモンは海外に輸出されることになりますが、ポケモンという言葉の響きのよさが、その普及に寄与した度合いは実に大きいといえるでしょう。

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四文字に短縮できる物はハヤル/
一般的に、商標取得が難しくなってきています。文字数の短い商品ほど難しくなってきているのです。仕方なく、商品名は、造語が増えて文字数も多い物が当たり前になりました。車の名前がよい例ですが、いまや殆ど聞いたこともない造語が大多数です。そうなるとファンの人たちは、言いやすくするため短縮形を作ります。「キムタク(木村拓哉)」「モー厶ス(モー二ング娘)」「プレステ(プレイステーション)」「ロクヨン(ニンテンドウ64)」「ドリキャス(ドリームキャスト)」などなど。バカウケするものは、やっぱり四文字に短縮される傾向があります?
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ポケモン開発のスター卜

ポケモンのプロデュースは、任天堂の川口孝司とエイプの石原恒和が担当することになりました。川口は任天堂を代表して法務の面から開発の進行を見守り、石原は現場でプロダクション•マネジャーとして開発に関わるという役割分担です。原作者の田尻は、直接的には石原の下でディレクターとしてゲームをデザインしてゆきます。3社間の開発委託の契約は、これまでに見てきたような経緯から、任天堂はエイプと開発委託契約を結び、エイプが田尻のゲームフリークと開発委託契約を結ぶという形態になりました。
一般に、ゲームソフトの開発委託契約には、普通おおよその開発期間も定められています。開発期間はゲームの種類と開発スタッフによって変わりますが、ゲームクリエータ—(ゲームデザイナーともゲーム作家とも呼ばれます)、デザイナー、プログラマー、作曲家といったスタッフが揃っていて、かつ彼らに開発ノウハウもある場合は、ポケモンの開発がはじまった当時ならば、ゲームボーイ用ソフトなら通常は1年から1年半程度でした。
今は開発機材の性能も上がっているので、1年がめどになっているようです。開発期間は、アクション系のゲームよりRPG系のゲームの方が長い場合が多いようです

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第1章  誕生

が、開発スタッフの経験やゲームの内容によって違ってきます。また、この開発期間から開発費も算出されますが、これもスタッフの経験や実績、またゲームの規模などによっても大きく変わるので、一概には言えません。
しかし、こうして契約を結んでも、約束した期間内に完成しないことも少なくありません。そんな場合、いくつかのケースが考えられます。
ひとつは、契約違反だとして費用の返還を求められるケース。しかし、実際にはそういうことはあまりなくて、さらに数カ月とか半年とか、完成を待つ場合が多いようです。その際、追加資金まで出すかどうかは、場合によります。有力なソフトの完成が目前だとか、不慮の事態が起きたため遅延したという場合などです。また、期限が切れた時点で、それまでにできたものを全部引き上げて清算するケースもあります。完成すれば面白いゲームになりそうだが、たとえば委託先の主力プログラマーが移籍したとか、委託側と受託側の関係悪化など、何らかの事情で円滑な開発続行が困難になった場合などです。
最悪のケースでは、契約に反して開発費を受け取ったまま、何も仕事をしていなかったことがばれてしまったというケースもあります。こんな場合には、委託した側も厳しい対応をすることになって、詐欺罪での告発や、そこまで至らなくても損害賠償請求などの訴訟になることも少なくありません。

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ゲー厶の発売延期
ゲー厶ほど発売予定が平気で変更される業界も珍しいと思います。「ド〇クエVII」のように数回に渡り延期を発表するソフトも珍しくありません。
ぼくがコロコロコミックの編集時代は、いろいろなゲ——厶会社からゲー厶ソフトのプロモーション依頼を受けました。依頼を受けて編集部がOKならばゲー厶発売日に向けて様々な企画を立てていくことになるのですが、いきなり発売日が延びると仕事量は増大します。迷惑なことこの上ないのですが、この業界は平
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しかし、ゲームの開発委託を受けること自体、受託側にとっては折角のチャンスだという場合が多いので、そのチャンスを自ら潰すようなことをするソフトハウスはめつたにありません。
ポケモンの場合、開発期間は1年ということになっていました。1991年末が納期です。しかし、その最初の1年はあっという間に過ぎてしまいました。それどころか、その翌年になっても、翌々年になっても、一向に出来上がりそうにありませんでした。
そして92年からの数年間は、開発そのものがストップするという事態になってしまいました。その間に試作品をエイプと任天堂に見せたこともありますが、完成にはほど遠い状態でした。石原によれば、完成したゲームの定義は、「ゲームタイトルが出て、ゲームをクリアできて、エンディングのスタッフロールが流れて終わり、リセットボタンを押すとまたゲームの最初のゲームスタ—卜のシーンに戻るという状態になったゲーム」というものです。この言葉を借りれば、ポケモンは何年間も、ゲームのクリアができない状態が続くことになってしまったのです。

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気な人が多いのです。いっか仕返ししてやるぞ!と大人げなく思っていたら、先日自分のスタッフに会議の遅刻癖を指摘されてしまいました。アタタッ/ 人間解っていてできないことはあるものです。追記•この本も実は何回も発売延期してできあがりました。おかげでよいものになっていると思いますが、ご迷惑をおかけした方々にお詫びと感謝の言葉を述べさせていただきたいと思います。ありがとうございました。
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第1章  誕生

4 プロダクション

ポケモンの開発当初、父義雄によれば、田尻はこう報告したそうです。「お父さん、いまねえ、ぼくはこんなゲームを作っているんだよって言って、ポケッ卜から小さな怪獣の入った丸い透明なボールを出して見せてくれましてねえ。それをこう、ゲーム機同士で交換したり対戦させたりするゲームなんですよって話していました。でも、わたしはね、そんなものを面白がってくれる人がいるんだろうかと思って、心配になったんですよ。そうしましたら、智は、絶対に売れますよ、心配しないでくださいって、そう言いました。自信満々でしたねえ」

オタマジャクシが二ヨロモになる

ポケモンの開発は、当初は着々と進んでゆくように見えました。まず始まったのは、モンスタ—たち、つまりポケモンたちのキャラクターデザインでした。モンスタ—たちを、1匹ずつデザインし、大きさや性格を決めてゆく作業です。田尻には、ポケモンたちのイメージがすでにありました。たとえば、田尻が現在ゲ

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