Pokemon Story/Chapter 1/Subchapter 1: Game Creator

From Poké Sources
Warning: this chapter has not yet been proofread!
The text of this chapter was created through OCR. This process was not entirely accurate. If all pages of this chapter have been proofread, please change the tag to {{Chapter proofread|yes}}.
This chapter has not received a translation yet.
If all pages of this chapter have been translated, please change the tag to {{Chapter translated|yes}}.

14

1 ゲームクリエー夕ー

最初の出会い

1990年秋、中央線神田駅近くにある任天堂東京事務所を、長身瘦軀の1人の青年が1本のゲームの企画書を携えて訪れました。通された会議室で、担当者を相手に、青年は自ら思いついた新しいゲームのプレゼンテーションをしました。前年の89年春に発売された任天堂の携帯用ゲーム機ゲームボーイ用のゲームソフトの企画でした。ゲームのタイトルは『カプセルモンスター(仮)』。ゲームのプレーヤー同士が、ゲームボーイに搭載されている通信機能を使って、自分のゲームボーイの中にいるモンスターをカプセルに入れ、他のプレーヤーのモンスタ—と交換するというゲームでした。
モンスタ—を「交換する」というアイデアは、ゲームボーイの通信機能の新しい利用法です。そして同時に、このアイデアは、それまでのゲームの成り立ちそのものをひっくり返してしまう可能性を秘めていました。
青年にとって幸運だったのは、プレゼンテーションを聞いた担当者の中に、彼のア

第1章  誕生

イデアのすばらしさを理解できる人々がいたことです。石原恒和と川口孝司です。石原は、任天堂がゲームの開発を委託していた会社のゲーム・プロデューサーでした。川口は任天堂社員で、そのころ総務部に所属して法務を担当していました。石原と川口は、青年のプレゼンテーションを聞いてすぐ、そのアイデアに秘められた大きな可能性に気づきました。
どうやら有望なゲームになりそうだぞ一一。すぐに川口は京都の任天堂本社に戻り、社長山内溥に、この青年の企画を採用したいと進言しました。通信機能を使った「交換」というアイデアはじつに面白い、と。話を聞いた山内も、同じ意見でした。さっそく、任天堂では『カプセルモンスター(仮)』の開発を正式に委託することを決め、開発予算が組まれました。プロジェクトの名称は青年がつけたタイトルがそのまま使用されました。
『カプセルモンスタ—(仮)』。これが開発が始まったときの『ポケットモンスタ—』のタイトルです。しかしこのときはまだ、このプロジェクトがやがて日本のみならず世界中を巻き込んだビッグビジネスになろうとは、誰も予想していませんでした。このとき、企画を持ち込んだ青年も、その企画を受け入れた任天堂も、そしてその両者のあいだに立って企画をプロデュースしようとしていた石原の会社も、それぞれが悩みを抱えていました。新しく何かを始めなければならない、でも何を始めたらい

15

16

いのかわからない——。そんな状態だったのです。みんながこの青年のアイデアに淡い期待を持ちましたが、決して多くを望んではいませんでした。20世紀最後のビツグゲームは、こうして始まりました。

町田の昆虫少年

企画を持ち込んだのは、田尻智という25歳の青年でした。180センチの長身に体重60キロのやせた体。服装はたいがい淡色のシャツかTシャツで、出かけるときはグレーのジャケツトを着ましたが、やせているためにそのジャケットはいつも大きめにかたかみ——ひようじょう見えました。硬いストレートの髪は短く刈り込んでいました。少しはにかんだ表情とひかえめな態度から、彼に会った人は礼儀正しくおとなしい青年という印象を受けました。
けれども、いったんゲームのことを話し始めると、血色のよい厚ぼったい唇が生き生きと動き始めました。しばらく話を聞けば、彼がただのゲームオタクでないことがわかります。知性とユーモアとドラマ性にあふれた独特の話術は、聞くものを飽きさせません。知らず知らずのうちに、彼のゲームの世界へ、田尻ワールドへと導かれてゆくことになるのです。しかし、話がどれほど深くゲームの世界に入り込んでも、彼

[[BOTTOM TEXT|
川口孝司さん広報室企画部長。
1949年3月26日生まれ。71年3月任天堂株式会社入社。84年9月総務部総務課長。98年7月より現職。長い間法務関係を担当していたために経営面にも明るい。ゆえにクリーチャーズ、ポケモンセンターなどポケモン関連会社の経営に関わる仕事も多く、任天堂内のポケモン担当プロデューサー的存在。
]]

第1章  誕生

はつねに現実の世界との接点を忘れません。どんなゲームが誰にどのように評価されるのか、ゲーム界の状況とその中での各ゲームの位置づけ、ゲーム・プレーヤーの心理やプレー中の姿勢、あるいはゲームをする環境までも、田尻は考えていました。それは、自分の経験から得た、いわば田尻式マーケティング理論でした。いつも現実の生活にゲームはあるものととらえ、ゲームを自分の作品であるだけでなく「売り物」である商品だ、と考えていました。いわゆるマニアやオタクの多いゲームの世界から少し距離を置いたゲームクリエータ—として、彼は頭角をあらわしてきたのです。田尻智は、1965年8月28日、東京都世田谷区に生まれ、町田市に育ちました。干支は巳年で乙女座です。1965年といえば昭和40年、高度経済成長期のまっただなかでした。東京の人口は増えっづけ、開発の波が、多摩地区を中心に押しよせてきたころでした。
田尻が育った町田市もその例外ではありませんでしたが、それでもまだ周囲には自然が残っていました。そこで育った田尻はいわゆる昆虫少年でした。好奇心旺盛な小学生だった田尻。その好奇心の大半は、家の近くの自然へと向かいました。雑木林や小川の土手で、田尻は腹ばいになって昆虫やカエル、ザリガニ、トカゲなど小動物の世界をのぞき込みました。
身近な自然に関心を持った少年はもちろん田尻だけではありませんでしたが、田尻

[[BOTTOM TEXT|
田尻智さん
ポケモンの関係者では、まず真つ先に名前の挙がる人。ポケモンの大元をクリエイトした人物です。その言葉を選びながら話す訥々とした田尻さんの表現方法は、久保が尊敬するドラえもんの作者『藤子・F・不二雄』先生に通じる印象を感じさせます。はつきり言って天才の域の人。TVアニメの『サトシ』は彼の名前から来ています。
]]

17

18

が他の子どもたちと少し違っていたのは、ただやみくもに昆虫を探して駆け回る少年 ではなかったことです。田尻少年は、昆虫の習性を知れば、より多くの珍しい昆虫を より効率よく採集できることに気づき、それを実験して確かめました。 たとえば、夜、クヌギの樹液を吸いに木に登ってくる虫は、昼間はどうしているの だろう。そう考えて、夕方、クヌギの木の根元に石を置いてみました。朝、その石を 持ち上げてみると、予想どおりクワガタが隠れていました。捕まえたクワガタが秋に なると死んでしまうのを見て、翌年は越冬させようと工夫してみました。そして、あ たたかい室内よりも温度の低い戸外で冬越しさせた方が長生きすることを発見しまし た。
田尻はそうやって、周囲の自然を一つずつ丹念に理解しながら少年時代をすごした のです。彼は、東京近郊で自然の世界に自分から好奇心を向けることのできた最後の 世代の一人だったかもしれません。つけ加えておけば、田尻少年は虫取りと同じよう に勉強にも意欲的でした。学校で漢字の書き取り量をグラフにして張り出すときは、 一番になるため、自分のグラフが表を突き抜けるまで書き取りをするような子どもで した。昆虫採集のときと同じです。だれよりも自分が一番、ものを知っていなければ 気がすまない子どもでした。ですから、当然、成績も悪くありませんでした。 しかし、やがて雑木林も小川も裏山も消える日が来ました。小学生時代に始まった

[[BOTTOM TEXT, pt 1|
父・田尻義雄さんから みた息子・智像
「田尻智評? あははは。難 しいですね。智は、とても、 気のやさしい子供でしたね。 母親思いの。彼の母親が病気 で入院したことがあったんで す。そのとき、ぼくが大きく なったらお医者さんになって、 病気をいっぱい治してあげる よって言った事、あるんです よ。それが、いつの間にか、 ゲ——厶作家になってしまった んですけどね。成績も良かつ たんですけど、いつも三つく らいの事を、同時進行でやつ ていましたね、小さい頃から。 勉強しながらテレビ見て、音 楽も聴いてとかですね。本読 みながらテレビ見て、それで もの書いてるとかね。 ある日、ポケットモンスタ ーのこういうゲー厶を考えて
]]

第1章 誕生

開発のスピードは、田尻が中学生になると加速しました。カブトムシやクワガタがい た雑木林も、ごはんつぶで魚を釣り、カエルの足でザリガニを釣った近くの小川も、 次々と消えてゆきました。先週まで遊んでいた小川が、今週行ってみたら埋め立てら れて宅地になっていたとか、きのう釣りをした釣り堀が今日は閉鎖されて、次の週に はゲームセンタ—に変わっていた、といった話は日常茶飯事でした。

虫とりから〃ゲームセンタ—あらし〃 へ

実は、このころまで、田尻はゲームにまったく興味のない子どもでした。100円 玉があれば駄菓子屋に直行していました。ゲームのように形のないものにお金を使う のはもったいないと思っていたのです。しかし、付近の釣り堀がひとつ残らずゲーム センターになってしまったとき、田尻は初めてゲームセンターに入りました。 田尻が13歳のときのことでした。
田尻を誘ったのは中学校の友だちでした。友だちはゲーム機に100円玉を入れる と、「1回、やっていいよ」と、田尻にやらせてくれました。ゲームは当時大流行し たアーケードゲームの不滅のベストセラー、タイトーの『スペースインベーダー』で す。そのインベーダーゲームの3機ある宇宙船の最初の1機が田尻に与えられたので

[[BOTTOM TEXT, pt 2
いるんですよって、ポケット からカプセルに入ったモンス 夕ーを出して見せてくれまし たね。わたしはね、それを見 て、こんなの、果たしてヒッ 卜するのかなって、サトシと. 話をしたのをおぼえています よ。でも彼、自信満々でね、 絶対いけるんだよって言って ましたね」
]]

[[IMAGE CAPTION|
●小学四年生の田尻智さん
]]

20

す。
そしてこれが運命の1機になりました。田尻はこの1機でいきなり450点のスコアを叩き出しました。それはゲーム初体験の少年としては破格のスコアでした。その日は友だちからもらった1機で遊んだだけで家に帰りました。しかしその日、少年田尻の中で何かが目覚めました。翌日から、田尻のゲームセンター通いが始まつたのです。
昨日まで昆虫採集に夢中だった田尻少年は、今度はゲームに夢中になりました。毎日ゲームセンタ—に通い、時間の許すかぎりプレイしました。そのころ田尻の通っていた学習塾の近くにもゲームセンターがありました。田尻は塾の授業と授業のあいだの10分間の休憩時間にも、ゲームセンターまで走っていき、プレイしました。学校も塾もない休日は、もちろん朝から晩までゲームセンターに入りびたっていました。その熱中ぶりは、田尻自身があとから「たとえ親が死んでも通いつづけただろう」と振り返っているほどです。
そして間もなく、田尻は、町田かいわいではゲームの「うまいやつ」として有名になりました。ゲームセンターのスタ—になったのです。田尻が『ミサイルコマンド』というテクニックの冴えが際立つゲームをプレーしたりするときなど、田尻の背後には文字どおり黒山の人だかりができました。

[[BOTTOM TEXT|
『スペースインベーダー』
1978年頃に大ヒット
したアーケードゲ——厶。このゲー厶が楽しめるモニタ—付きガラステーブルを知らない人は少ないはず。喫茶店は「ピューン、ピューン。」というサウンドが鳴りやまず、日本中の中〜大学生が夢中になりました。ゲー厶内容は、上から列をなしゆっくりと降りてくる火星人のような標的を次々打って消していくという-見シンプルなもの。しかし実際は「名古屋撃ち」といわれる戦略性のある攻略方法も現れるほど奥が深かった。そのバランスの妙が受け、達人たちは一日中プレイしても飽きませんでした。
]]

第1章  誕生

そのころになると、田尻は、その気になればテクニックを駆使して100円玉一つでいつまでも遊び続けられるプレーヤー゠ゲーマーに成長しました。ゲームを中断しないでトイレにいく方法さえ見つけていました。ステージをクリアしていくと、やがてボーナス・ステージになるのですが、そのときは画面が変わるインターバルが少し長いのです。長いといっても数十秒ですが、その間にトイレまで走って用を足し、また走って帰ってきてゲームを続けるのです。
そのころのことを振り返って、田尻はこう話しています。
「いくらでも遊べる、というところまでいくと、道をきわめて頂点まで来たようなものです。そうなると、あとはもう自分がいつまで真面目につき合えるのかどうかという禅問答のような世界に入るわけですよ。たとえば10時間20時間続けて遊べるようになったといっても、じやあ本当に10時間遊ぶのか、という問題が残るんです。普通は途中で飽きてどっかに行っちゃいますよね。でも、ぼくはそういうことに真面目に取り組んでみた時期があって、そのときは12時間やってみました。それで、それがたぶん1人でゲームを続けられる限界じやないか、ということがわかったんです」当時、ゲーム業界では、「1ゲーム100円で2分間」というのが、ゲームセンターの採算基準といわれていました。そのため、70年代前半のゲームセンターにあった

21

22

アーケード型ゲーム機には120秒のタイマーがセットされていました。プレーヤーがうまかろうがうまくなかろうが、2分経っとゲームは終わっていたのです。けれども、ゲームに習熟したプレーヤーのあいだから不満の声が上がるようになったため、70年代後半のインベーダーゲームの頃から、プレーヤーのテクニックがゲームに反映されるようになり、プレーヤーがうまければ長時間遊べるようになったのです。そうなると100円で1台のマシンを1日中占領してしまう田尻のような少年は、ゲームセンタ—にとっては「ゲームセンタ—荒らし」以外のなにものでもないのですが、その分、彼のようなプレーヤーを目標とする少年たちがよりたくさん集まってきます。田尻のような〃スタ—プレーヤー〃がいるほうが売り上げがあがるということに、ゲームセンターも気づいたわけです。1979年に少年少女向け月刊コミック誌『コロコロコミック』(小学館)で連載が始まり、大ヒットした漫画に、すがやみつるの『ゲームセンタ—あらし』があります。天才ゲーム少年あらしが次々と新型ゲームを撃破するゲーム戦士物語でした。そこに描かれたゲームセンターの世界は、まさに田尻が過ごしてきた世界でした。漫画より1年も早く、田尻は文字どおり本物の〃ゲームセンター荒らし〃になっていたのです。
100円玉一つで一日中ゲームセンターで遊べるようになったとはいえ、それまで

[[BOTTOM TEXT|
『コロコロコミック』
小学生男子に絶大なる影
響がある小学館発行の月刊漫画雑誌。25年前、『ドラえもん』がまとめて読めることをセールスポイントに創刊されました。
その後、チョロQ、ミニ四駆、ゾイド、ビックリマンシールなどのブー厶を生み出しました。ポケモンとはゲー厶発売直後から姉妹誌の『別冊コロコロスペシャル』で漫画連載するなど重要なポジションをこなしてきています。左は創刊号の表紙。
]]
[[IMAGE CAPTION|
©小学館
]]

23

に田尻も他のプレーヤー同様、かなりのお金をゲームにつぎこんでいました。小遣いではすぐに足りなくなり、学習参考書を買うと言って親からもらった金で、参考書を古本屋で安く買い、定価との差額をゲーム代にあてました。
それでも足りなくなった田尻は、ついに親の財布に手を伸ばすようになりました。学校をサボり、親の財布から盗み出したお金を使い、ゲームセンターで遊ぶ日々。親がそれに気づかぬはずはありません。けれども、当時、田尻の親は彼に何も言いませんでした。何も言われなかったためにかえって、田尻は親の気持ちを想像しました。一一きっと、ぼくが不良になったと思っているだろうな。
田尻はしかし、そう思いながらもゲームセンター通いを止められませんでした。

少年ゲームクリエーター

もし、このとき田尻がゲームセンターに入りびたっているだけのために親の財布に手を伸ばしていたなら、ただの不良少年で終わっていたかもしれません。けれども、そこから先が田尻の非凡なところでした。
そもそも、彼のゲームセンタ—通いは、何でも一番にならなければ気がすまない性格から始まったわけですが、その目標はあっという間に達成されてしまいました。す

[[BOTTOM TEXT|
『ゲー厶センターあらし』
『コロコロコミック』(以下コロコロ)の中でドラえもん以外のまんがとして初めて大ヒットした作品。
作者のすがやみつる氏は、二フィティサーブの草創期から深く関わっている作家としても有名ですが、最近では第2次世界大戦の架空戦記小説の作家としても活躍中。作品内容は、アーケードゲー厶の高得点を競い合う対決友情漫画。主人公「あらし」が「裏技」(通常のプレイ方法と違うやり方)で問題を解決する様が人気になりました。
]]
[[IMAGE CAPTION|
©すがやみつる•小学館
]]

24

ると今度は、昆虫少年時代と同じ飽くことなき好奇心から、ゲーム機の画面に表示されるゲームの中身が一体なんなのか、田尻はそれを探し求めはじめたのです。たとえば、『スペースインベーダー』で、どのUFOをどんなタイミングで撃墜すると300点得点できるのか。なぜ「名古屋打ち」と呼ばれるテクニックが可能なのか。タイトー製のインベーダーゲームのプログラムを解析して自社ソフトとして発売した他社製のインベーダーゲームはオリジナルと比べるとどこが違うのか……。田尻はこうした疑問を次々と解いていきました。
そして田尻は、ついにゲーム機のモニター画面上に表示されているものがなんなのか、その正体を見抜いたのです。
画面に映っているもの、それは「情報」です。ゲームの作り手がプレーヤーに伝えたい情報なのです。その情報を集積したもの、それがゲームなのだ——。田尻はその真理にたどりついたのです。それを知ったとき、田尻はゲームを遊ぶ側から作り手の側に、大きな一歩を踏み出したのでした。
このころから田尻はまずゲームを通してプレーヤーに伝えたい情報、すなわちゲームのアイデアを考え始めました。
そして、中学三年生のとき、早くも最初のゲームのアイデアをまとめました。暗闇の中にいて、目を開けたときにしか居場所がわからないカラスを猟師が撃つというア

第1章  誕生

イデアです。田尻は「闇夜のカラス」とタイトルをつけて、ユニバーサル社主催のゲームアイデアコンテストに応募しました。
しかし結果は選外。自信があっただけに、参加賞のキーホルダーが送られてきたことさえ屈辱的でした。
翌年の81年、国立東京工業高等専門学校に進学した田尻は、満を持してセガ主催の「ゲームアイデア大賞」というコンテストに作品を応募しました。そして今度は、みごと一等賞を取ったのです。
「最初のコンテストで失敗してから、ゲームにとって新しさとはなんだろうと考えました。そのころ、学校の英語の授業で動詞の活用を習っていたこともあって、もしかすると新しいゲームというのは、他にない新しい〃動詞〃の使い方を探すことじやないかと思ったんです。それで、セガのコンテストには、「跳ねる」という動詞のコンセプトでゲームをつくって応募しました。それが一等賞になったわけです。ですから、ぼくの考え方が正しかったんだと思ってうれしかったですよね」田尻の「跳ねる」ゲームは、スプリングが階段状の迷路を跳ねながら移動するゲームでした。優勝賞金10万円。ゲームセンターにお金を注ぎ込んできた田尻が、ゲームで初めて公式に稼いだお金です。田尻は、賞金の半額5万円を母親に渡しました。「まあ、心配はかけたけど、ゲームに夢中になっていたのは不良になるためじやなか

[[BOTTOM TEXT|
ゲームアイデア大賞セガ•エンタープライゼス(現在のセガ)主催のゲー厶アイディアコンテスト。田尻さんが参加したのは1981年。
]]

25

26

ったんですよっていうメッセージですね。ぼくがゲームをするのは悪いことじやないんですよっていうね」
ゲームセンターが繁盛していた頃、小学生の入場が禁止された時期がありました。ゲームをすることはもちろんゲームセンタ—の存在自体が、教育上からも風紀上からも好ましくないと、一般に考えられたからです。だれよりうまくゲームをプレイできるようになっても、だれも誉めてくれない時代でした。
田尻自身、こんなに努力しているのに、だれにも評価してもらえないという思いがずっとありました。漢字の書き取りを何時間もすれば「お疲れさま」とねぎらってもらえるのに、100円玉1枚で連続12時間プレーという限界に挑戦して達成できようとも、不良と呼ばれるのが関の山です。
本当に漢字の書き取りの方が、ゲームの仕組みを知ることよりも大切なのだろうか。少年の田尻は、ただ不満を持つだけで終わらずに、そうではないことをだれもがわかるように実証しようと考えました。そして彼は成功しました。自分が考えたゲームのアイデアが、10万円という少年にとっては大金の賞金というかたちで客観的評価を受けたのです。
高校1年生の田尻は自信を持ちました。自分がそれまでに培ってきたゲームに対する知識と理解は、人に伝えるだけの価値があったのです。

第1章  誕生

ここで誤解のないように言っておきますが、中学生でゲーム少年になってからの田尻の学校成績は決して悪くありませんでした。難関校である国立東京高専電気工学科にも軽々合格したくらいです。東京高専は授業内容のレベルが高く、成績次第では東京大学への編入が可能でした。田尻が東京高専を志望校にしたのも、この東大への編入システムがあったからでした。

『ゲームフリーク』高校生編集長

高校生になった田尻は、やがてミニコミ誌『ゲームフリーク』を一大で創刊しました。内容は、ゲームの攻略法の紹介です。インベーダーゲームで高得点をあげるにはどうすればいいのか。むずかしい面をクリアする秘訣はなにか。『ゼビウス』でミサイルを打つと竹が生えてくるのはどこか。あるいは、『パツクマン』のパックマンはモンスタ—よりカーブを曲がるスピードが速いので、角をいっぱい曲がれば逃げきれるぞ……、というような情報です。
田尻はゲームから得た経験と知恵のありったけを『ゲームフリーク』に盛り込みました。これは当時のゲームマニアとしては常識やぶりの行動でした。彼らにとってゲームのノウハウは、親の目を盗んでゲームセンターに費やした大量の100円玉と膨

[[BOTTOM TEXT|
『ゲー厶フリーク』誌創刊号
昨今ではゲー厶の攻略本がベストセラーにランクされることが珍しくありませんが、八〇年代初頭の当時では、どの出版社もゲー厶攻略で本が売れるとは思っていませんでした。田尻さんはその分野でも草分け的な存在といえるでしよう。
]]

27

28

大な時間、それに指先に血のにじむような努力と引き換えにやっと手に入れた〝宝物〞です。それを公開することなどまず考えられません。それゆえに、『ゲームフリーク』は、まさに画期的な情報誌となったのです。田尻のこうした行動からは、いわゆるゲームオタクと一線を画す彼の性向が見えてきます。ゲームオタクとかゲームマニアと呼ばれる少年たちの関心は、ゲームの中に出てくるキャラクターを撃破する自分のテクニックを磨くことのみに向けられていました。その中にあって田尻は、同じようにテクニックを磨いたのですが、自分の世界に没頭するだけではなく、そのテクニックを媒介に他者と対話をしようとしたのです。自分が夢中になっている世界のすばらしさを、外部に伝えようとしたのです。田尻のこの行動が、ゲームの世界に新風を吹き込むことになりました。いまでこそ、ゲーム攻略本は書籍のージャン.ルとして確立し、人気ゲームの攻略本ともなると1O0万部単位で売れるミリオンセラーも珍しくありません。そのジャンルの確立に、田尻の『ゲームフリーク』誌が大きな影響を与えたのです。数年後に創刊ラッシュが始まるゲーム雑誌のゲーム解説記事、またいくつも登場するようになるゲーム攻略本——、その多くがこの『ゲームフリーク』を雛型にしたのです。のちに新しいジャンルの草分けとなるこの雑誌を、田尻はガリ版とコピーで20部作り、知り合いのミニコミ誌や同人誌を扱う店に置かせてもらいました。すると意外に

第1章  誕生

もすぐに売り切れになりました。
これに自信を得た田尻は、ほぼ隔月で『ゲームフリーク』を発行してゆきます。間もなく、口コミでゲームマニアにその存在が知られるようになり、定期購読してくれる読者もあらわれ、しかもその数は確実に増えてゆきました。熱心な読者からは、ゲームを指定して攻略法掲載のリクエストも入りました。そうしたリクエストに応えるために、田尻はゲームセンターに置かれているのと同じゲーム・テーブルを購入しました。ゲーム・テーブルは、ゲームがプログラミングされた基盤を交換しさえすれば、さまざまなゲームをプレーできます。基盤はゲーム基盤をコレクションしていた友人たちが持ち寄りました。それをゲーム・テーブルにセットして、攻略法を見つけ出していったのです。
田尻の『ゲームフリーク』は、当時の唯一のゲーム攻略本として、号を追うごとにゲームフリークたちの間に知られていきました。そして、ついにその名をゲーム界のメジャーとしたのが、友人と共に編集した「ゼビウス1000万点への解法」と題された特集号でした。この号は発行後、追加注文が続々と入って、最終発行部数が1万部を超えました。読者はゲーマーにとどまらず、ゲーム関係のマスコミやメーカーまでもが手に取りました。
この「ゼビウス1000万点への解法」の号を境に、田尻は、高校生でありながら

[[BOTTOM TEXT|
『ゲームフリーク』誌
「ゼビウス1000万点への解法」特集号
]]

29

30

プロのゲームライターとしての活動をも始めることになりました。田尻はゲームセン夕ーのゲーム(アーケードゲーム)の隆盛と、1983年のファミリーコンピュータ発売をきっかけに始まったゲーム業界の急速な成長を追い風にして、テレビ、ラジオ、コンピュータ専門誌、ファミコン専門誌、一般誌と活動の場を広げ、毎月締切に追われる売れつ子ライターになりました。
雑誌『ゲームフリーク』での活動が田尻にもたらしたものは、ゲーム界での名声だけではありません。もうひとつ、同じゲームフリークの仲間たちをももたらしました。今も田尻とともにいるデザイナー杉森建も、ゲームフリークを見て田尻にコンタクトを取ってきた読者の1人でした。
1966年1月、福岡で生まれた杉森は、中学生のころ引つ越して、東京の高校に入学しました。早生まれの杉森は1965年生まれの田尻と同学年です。杉森も田尻と同じようにゲームセンタ—に通うゲームマニアでしたが、やはり同じようにただプレイするだけの段階は通り過ぎ、自分が夢中になったビデオゲームとはなんだろうかと考えていました。
そして高校2年生だったある日、同人誌を扱う店で偶然、田尻の雑誌を手に取ったのです。それが『ゲームフリーク』誌の創刊号でした。1982年のことでした。田尻は記事の中でゲームというものを「ゲームの作り手からのメッセージ」ととらえて

[[BOTTOM TEXT|
杉森建さん
ポケモンのキャラクター
デザインの中心人物。ゲー厶のパツケージのイラストや水彩画風のキャラクターイラス卜は全て杉森さんの手によるもの。
250以上のポケモンたちが持つとてもやさしい中性的なイメージは杉森さんの性格と物腰から容易に想像できます。ポケモンが女の子にも大人気となったことは彼の功績によるところが大きいと思われます。
]]

第1章  誕生

いましたが、それはまさに杉森自身の考えとぴったり同じでした。自分以外にも同じようなことを考えているゲームマニアがいる!そう思った杉森は、感激のあまり田尻に手紙を書きました。杉森の狙いはひとつ、田尻の『ゲームフリーク』に参加することでした。
「あなたの雑誌はすばらしいと思いますが、ビジュアルが少し弱いと思います。ぼくは絵が得意なので、ここにぼくの絵を加えたらもっといい雑誌になると思います」手紙を読み、同封されたイラストを見て、田尻は深くうなずきました。杉森くんに雑誌づくりに参加してもらおう——。かくして、田尻が1人で作っていた雑誌が杉森という同人を得て、同人誌になったのです。
2人は、これ以後の数年間を〃同人誌時代〃と呼んでいます。この杉森との出会いについて、田尻の父・田尻義雄は、次のように話しています。「智にとって、杉森さんとの出会いはすばらしいものでしたねえ。この出会いから、いまのすべてが始まったようなものですよ。当時、わたしどもは町田に住んでおりましたが、杉森さんはねえ、その町田に引つ越してこられたんですよ」田尻は、すでに高専1年生のころから、自身のオリジナリティを盛り込んだインベーダーゲームをつくりたいと考え始めていました。田尻が『俺インベーダー』と名付けていたゲームです。具体的なプランがあったわけではありません。いっかは自分の

[[IMAGE CAPTION 1|
杉森さん参加前の
『ゲームフリーク』誌
]]

[[IMAGE CAPTION 2|
参加後の
『ゲー厶フリーク」誌
]]

31

32

道を変えたあのインベーダーゲームを超えるゲームを作りたいという決意表明でした。そのために、田尻はプログラミングに必要なC言語などコンピュータについての専門知識を勉強し始め、当時はまだ高価だったパソコンの購入資金を作ろうとアルバイトもしました。そして、実際にプログラムを組んでみたこともあったのです。当時の田尻は、「自分のアイデアでゲームをつくりたい!」という強い意思を持つていました。そこで、田尻は、自分のゲームアイデアをコンテストで評価してくれたセガに、分厚い企画書をつくって、持ち込んでみました。企画書には、いくつものゲ1ムのアイデアが記されていました。
しかし、物事はそう簡単には進みません。セガの担当者の中には、田尻の企画書のアイデアから実際にゲーム制作まで考えてくれた人もいましたが、実際に商品化されることはありませんでした。
そんなことが何度か続くうちに、田尻は、セガの担当者の熱意不足ではないかと考えるようになりました。自分のような子どものアイデアを商品化するなんてばかばかしい——セガの人たちは、そう思っているんじやないだろうか。田尻は決心しました。大人が相手にしてくれないなら、自分の力でゲームを作ってやろう。
実際、田尻は学生時代に『オリウス』と名付けた自作ソフトを作っています。これ

[[BOTTOM TEXT|
杉森建さんからみた
田尻智像
「ときどき、すごく特殊なことを言ったりするんですよ。すごく、分かりにくい人ですね。性格は、起伏が激しいですね。機嫌が悪いときはものすごく悪いし、明るいときはものすごく明るいし。ゲー厶を作っている時とかは、時々ものすごい突飛なことを言い出して、なんだよそれ、とか思いながらやってみるうちに、だんだん面白くなってきたねっていうことが多いですね。ちよつと、カリスマ的なところがありますね。だから、みんな、社長がそう言うならやるか、みたいな。体には気をつけて欲しいですね」
]]

第1章  誕生

は大ヒットしたアーケードゲームを改変したものでした。田尻の話では、「『ゼビウス』で1000万点を出せるレベルのマニアがあらゆるテクニックを駆使してようやくクリアできる難易度」のゲームでした。もちろん、個人的な改造ソフトですから発表するわけにはいきません。それでも田尻はこう振り返っています。
「自信作でしたよ。それで馴染みのゲームセンターに頼んで、夜中にちよつとだけ置かせてもらったりね」

それでも、そんなイタズラをしたくらいでは収まりません。田尻のフラストレーションはたまる一方でした。
80年代当時、ゲーム界は大きな転換期にさしかかっていました。急速に進化し始めたコンピュータ・テクノロジーがゲーム機に続々と取り入れられていったのです。それまで平面の線画でしかなかったパックマンが丸みを帯びた立体として描かれたり、より複雑な動きをするインベーダーゲームが登場したりしましたしかし、田尻はそんなゲームを見るたびに、がっかりしていました。ビジュアルがいくらリアルで複雑なものになろうと、ゲームそのものは「パツクマン」であり「インベーダーゲーム」であることに変わりはなかったからです。そうじやない、そうじやないんだ! 田尻は思いました。

33

34

それじやあ、コンピュータというハードのテクノロジーに頼っているだけじやないか!ゲームのおもしろさは、ビジュアルの立体化や複雑さにあるんじゃない。アイデアそのものにあるんだ。ゲームの仕組みにあるんだ。そのことにどうしてみんな気づかないんだろう—。
来るべきゲームクリエータ—になる日のために、田尻はそんな思いを大切に胸に刻みこんで、1985年、東京工業高専を卒業しました。
田尻は、高専卒業後も、売れつ子ゲームライタ—として活動しながら、『ゲームフリーク』の発行を続けていました。しかし80年代後半になると、ミリオンセラーとなった家庭用ゲーム攻略本『ドルアーガの塔のすべてが分かる本』(アスキー)に代表されるゲーム攻略本が次々に発行され、同時に商業的ゲーム誌の創刊も相次ぎました。1983年に発売された任天堂のファミリーコンピュータ(ファミコン)が火付け役となって、ゲームの主戦場はゲームセンターから家庭へと移ったのです。田尻と杉森は、ある日、うなずきあいました。
「役目はすんだね」
非商業誌である『ゲームフリーク』は、その役割を終えたのです。
2人は同人誌作りから、ゲーム作りへと舵を切りました。

[[BOTTOM TEXT|
『ゲー厶フリーク』24号
1999年、ゲー厶フリーク設立10周年を記念して配布された特別号。
]]

第1章  誕生

ナムコと組んでヒット第ー号

この時期の田尻を知っているのは、ポケモンのゲームのプロデューサーでポケモンカードゲームの考案者でもある石原恒和です。ファミコン全盛期の80年代半ば、フジテレビの深夜枠で、石原はテレビゲームをテーマにした番組を複数プロデュースしていました。この番組制作で、彼は田尻と知り合いになったのです。
石原は当時をこう振り返ります。
「田尻君のアダ名は社長でした。まだ会社もできていない頃、同人誌をやっていた頃から、彼は社長と呼ばれてたんですね。なぜそう呼ばれていたかっていうと、非常に面倒見がよかったんですよ。そのころ彼は、雑誌の『ログイン』誌とかいろんな場所で原稿を書いていたわけですが、ゲーム好きや漫画好きなどマニアックな連中が彼の周りに集まっていたわけです。そういう連中が、田尻さんのところに行けばメシ食わせてくれるとか、あいつのところに行けば仕事が回ってくるかもしれないっていうふうに、頼りにされていたんですね。そんなわけで、自然に人が彼のところに集まってくるようになっていたんです」
田尻のあだ名が「社長」だったというのは、ゲームクリエータ—として田尻を見ていた者にとっては、意外なエピソードです。それは、初めて田尻と知り合ったときの

35

36

石原にしても同じでした。
「本当に意外ですよねえ。でも田尻君はすごく面倒見がいいんです。感受性も豊かだし。そしてゲーム好き。早くから原稿を書いていたせいか、人当たりもいいし、こだわりも深いしね。彼が書く原稿は、本当に深いこだわりが感じられましたね」田尻が本格的なゲームソフトを作り始めたのは、卒業から2年後の1987年です。ゲームソフトの開発は、普通、どのようなゲームになるかを企画書に書いて、それをゲームメーカーにプレゼンテーションするところから始まります。それは、かって田尻がセガに対してやったことでした。けれどもそのとき提案したゲームのアイデアは、ことごとく理由も教えられずにボツになりました。その経験から、田尻はそれまでゲーム業界で誰も試みたことのない方法を採ることにしました。自主開発です。それまでゲームソフトが自主開発されなかった理由は、誰もが不可能だと考えていたからでした。ゲームソフトは、ふつうソフトやハードの企業から委託を受けるかたちで資金を受け取ってから実際の開発がはじまります。ゲームソフトの開発には、多くの機材とスタッフ、それに膨大な時間が必要だからです。それをあえて独力で開発しようと決意した田尻は、まずファミコンと同じCPUを搭載した中古パソコンを手に入れて、ファミコンというハードを解析することから作業を始めました。それだけでも大変な時間と労力が必要でした。その他の必要な機材

第1章  誕生

も、仲間と一緒にただ同然の中古品を探し回って集めました。スタッフは、『ゲームフリーク』の読者がその頃には何人も田尻の周辺に集まっており、ファミコンの基盤の解析ができるものもいれば、コンピュータ言語を自在に使いこなせるマニアもいました。そのなかに、いまも田尻とタッグを組んで、ポケモンの音楽を担当している増田順一もいました。
増田は1968年、神奈川県横浜市の出身です。田尻と杉森たちがゲーム開発を始めた87年、増田はコンピュータ専門学校生としてCGを専攻していましたが、趣味で電子音楽の作曲もしていました。そして、この増田の音楽を聞いていた友人が、偶然、田尻のグループに出入りしていたのです。そのため、田尻がゲーム音楽の担当者を探し始めたとき、この友人が増田を紹介した一一これが2人の出会いです。増田の音楽を聞いた田尻はすぐ、増田に「ゲーム音楽を担当してほしい」と頼みました。増田は間もなく学校を卒業して就職しますが、昼間の会社の仕事を終えると下北沢のマンションに駆けつけ、趣味の音楽を作るようになりました。ゲームのキャラクタ—デザインはというと、こちらは杉森の担当です。杉森にしろ増田にしろ、彼らはいずれももともと田尻の雑誌を旗印に集まってきた若者たちで、ゲームをビジネスにしようなどとは考えたこともないマニア集団でした。当時はまだ、マニアやオタクと呼ばれた彼らの世界から巨大なビジネスが生まれるという認識は世

[[BOTTOM TEXT|
増田順一さん
ポケモンのゲー厶音楽を担当している増田さんは、プログラムの世界にも明るいマルチクリエイター。ポケモン金銀シリーズでは、サブディレクターも担当しています。2000年に映画の視察で欧州へ行った際には「ドイツへ行きたい」と漏らしていた。次の企画ではヨーロッパサウンドが奏でられる?
]]

37

38

間にありませんでした。
そんな中、ビジネスとしてのゲームの将来性に目覚めていたのが田尻です。田尻は本気で、少年時代に自分がゲームセンターに注ぎ込んだ膨大な数の100円玉を取り戻し、両親に返したいと思っていたのです。
田尻は、ライタ—仕事の原稿料を元に、東京の若者の町・世田谷区下北沢に、仕事場としてマンションを借りました。下北沢なら、実家のある町田とも小田急線一本でつながっています。このマンションで、田尻を中心とするゲームマニアたちは、彼らだけで彼らにとってのゲームというものを作り始めたのです。
それから3年後。「ぼくが言いたかったのはこういうことなんだ」と田尻たちが思いながらつくったゲームがついに完成しました。タイトルは『クインティ』。かって「跳ねる」という動詞から新しいゲームを作つたときと同じように、『クインティ』は「めくる」という動詞から生まれたゲームソフトでした。さて、田尻が『クインティ』の持ち込み先として選んだのは、ナムコでした。ナムコは、言うまでもなくアーケードの『ギャラクシアン』(79年)、『パツクマン』(80年)、『ポールポジション』(83年)、『ゼビウス』(83年)など、ファミコン用ソフトでは『ゼビウス』、『ドルアーガの塔』(84年)、『プロ野球ファミリースタジアム』

[[BOTTOM TEXT|
太田健程さん
田尻さんと同じ65年生まれで92年にゲー厶フリーク入社。現職は、チーフプログラマー、エグゼクティブスタッフ。ポケモン赤・緑・青・ピカチュウではメインイベントプログラムを担当。金銀ではツールプログラムを担当。
]]

第1章  誕生

(86年)などのヒットを飛ばしたソフトメーカーであり、玩具メーカーです。田尻は、ナムコ・フリークと呼ばれていた時期があるほどのナムコ党でした。ナムコならばわかってくれるーー。田尻は不安と期待の交錯する胸を押さえながら、ナムコを訪れました。
この日が、「ゲームクリエータ—田尻智」誕生の日となりました。ナムコは、田尻とその仲間たちが自主制作した『クインティ』の新しさに驚き、すぐにこのソフトの発売を決めました。ファミコン用ソフト『クインティ』は、1989年6月27日に発売され、20万本という中規模のヒットになりました。さらに年内には、アメリカでも、『MendelPalace』というタイトルでアメリカ版が発売されました。このころナムコはまだアメリカ進出を果たしていなかったので、ハドソンUSAからの発売でした。『クインティ』アメリカ版の売り上げは6万本程度でしたが、田尻にとっては、ゲームという商品の国際性を実感する出来事でした。『クインティ』の発売でまとまった額の印税が入ることが確実になったとき、田尻は考えました。
「自主制作でゲームをつくったら、ある程度の評価を得てお金がもらえることになつた。どうやらこの世界で生きていけそうだーーそう思ったんです。そうなると、自分たちの仕事を会社化するかどうかという問題が出てきます。入ってきたお金をみんな

[[BOTTOM TEXT|
『クインティ』
ゲー厶フリークが自主制作体制で製作したゲー厶第1弾。任天堂ファミリーコンピュータ向けのアクションゲー厶。ゲー厶製作大手メーカーのナムコ(本社東京都大田区)から発売された。容量は2MBit。血格は4900円。売り上げ実績約20万本。
]]
[[IMAGE CAPTION|
©1989 GAME FREAK/NAMCO LTD.
]]

39

で山分けしてさよなら、という手も一方でありますからね。実際、山分けしょうっていう仲間もいましたよ。でも、印税収入は5000万円ぐらいある。本気で会社を立ち上げるんだったら、今しかない。そんな状況でした」結局田尻は、このとき仲間を説得して、『クインティ』の利益を元に、ゲームフリークを会社組織にしました。株式会社「ゲームフリーク」。資本金は当時の下限の100万円、社員も2人の小さな会社です。田尻は代表取締役社長に就任しました。かってアダ名だった〃社長〃から本物の社長になったのです。父義雄には監査役に就いてもらいました。印税を会社の利益としてプールするために、法人登記は『クインテイ』発売よりも早い1989年4月でした。
作家タイプのゲームクリエーターのスタンスとして会社組織をつくるのは、田尻のケースが初めてだったわけではありませんが、これ以後、独立系のソフトハウスが続々と生まれることになりました。
ゲームフリークが『クインティ』から得た数千万円という利益は、大金といえば大金ですが、しかし、ゲームフリークという会社の運転資金としてはたいした額ではありません。すぐに底をついてしまうでしょう。田尻は今度は経営者として、すぐにも次のゲームの開発を始めなければなりませんでした。

[[BOTTOM TEXT|
森本茂樹さん
67年生まれ。太田さんと同じ92年9月に、編集プロダクションのライターより転向、ゲー厶フリーク入社。ライター時代に田尻さんのインタビユーをおこなったこともあるそうです。ポケモン赤・緑からプログラムと企画を担当。
]]
[[IMAGE CAPTION|
©1989 GAME FREAK/NAMCO LTD.
]]

40

第1章  誕生

ゲームボーイとの出会い

ゲームフリーク設立と同じ89年4月、任天堂から画期的なゲーム機が発売されました。携帯用ゲーム機ゲームボーイです。互換性はありませんが、ファミコンと同じようにカートリッジ式でした。現在売られている『ゲームボーイ・ポケット』シリーズは、その後継機です。いまより大きくて弁当箱というアダ名がつけられましたが、それでも子どもがランドセルに入れて持ち歩ける大きさでした。しかも通信用コネクタがついていて、通信ケーブルをつなぐとどこででも対戦が可能でした。発売から4力月後までに販売台数は100万台を突破するという売れ行きでした。『クインティ』の開発を終えたばかりの田尻が注目したのが、この初代ゲームボーイでした。
「ゲームボーイの発売の直前に、この商品はこんな特徴で通信機能がついていて2ムnがつながるんだ……といつた情報がたくさん入ってきたんです。そのため、イメージが先に勝手にふくらんじやったんですね。実際に手にとって遊んでみると、想像していたのとイメージがずいぶん違う。そのとき発売されたゲームは四つか五つくらいで、みんながやったのはほとんど『テトリス』でした。それで、通信ケーブルも使うんですが、利用法はおもに対戦データをやり取りするためでした」

[[BOTTOM TEXT|
ゲー厶ボーイ本体
1989年4月21日発売となった液晶画面を持つ携帯ゲー厶マシン。初代のものはその大きさから「弁当箱」の愛称で親しまれました。当初は「テトリス」(数種類のブロックが落ちてくるのをクリアしていくゲー厶)の爆発的ヒツトと共に売れました。単3電池4本を使用し、アルカリ電池を使えば35時間遊べる。現在の希望小売価格は800ロ円(税別)。
]]

41

42

田尻は、ゲームボーイに装備された通信用コネクタに注目しましたが、その使われ方に引っかかりました。通信ケーブルでできることは、対戦以外にもあるのではないかと思ったのです。それが、データの交換でした。2台のゲーム機をケーブルでつないだとき、ケーブルを通って行き来するのはデータです。が、何もそのデータは対戦データである必要はかならずしもないのです。
「自分なりにいうと、もう少しまとまりのある情報が行ったり来たりするというか、情報が封筒の中に入っていて、その封筒が行ったり来たりする——。そう、目に見える情報。そこのところがずっと引っかかっていたんです」また、同時に田尻は、この通信機能が、プレーヤーに自分だけのゲームの世界から顔を上げさせるきっかけにもなるのではないかと、すでに考え始めていました。「つまり、友達同士が向き合い、片方がゲームボーイをケーブルでつなげてみるかいって言ったら、相手もそうだねと言ったときに始まるコミュニケーション、そのツールとしてゲームボーイが働くとしたら、目に見える情報、価値の交換ということになると思ったんです」
通信ケーブルを使えば、こちらのゲーム機の中にある「データ」を相手のゲーム機の中に移すことも、その逆も可能だ一一。そう考えた田尻は、中学生のときにゲームアイデアコンテストに応募したときと同じようなことを思いつきました。それまで、

[[BOTTOM TEXT|
ゲー厶ボーイ用通信ケーブル
ゲー厶ボーイの本体同士をつなぐケーブル。本体脇にある台形の形をしたケーブルコネクターの大きさが初代とそれ以降とで違うため、ケーブルも2種類あります。どちらも希望小売価格1500円。
]]

第1章  誕生

ゲームソフトの世界にまったくなかったコンセプトとアイデア、「交換する」という動詞を思いついたのです。
そのアイデアが生まれたときの様子を、杉森は次のように話しています。「ゲームボーイというハードが出て、すぐに手に入れたぼくらは、携帯用ゲーム機というのは新しいジャンルだし、これ用のなんかいいゲームはできないだろうかって、アイデアを考えていたんです。考えながら、通信ケーブルをつないで、テトリスとかで対戦して遊んでいたんですけど、そのうち、通信機能を使って、対戦じゃなくて、なんかものを交換すると面白そうだねってことになりました。たとえばメンコ遊びのように、あるときは対戦し、あるときは交換する。そんなゲームが面白いんじやないか。そこで、それならアクションゲームじやなくてロールプレーングゲーム(RPG)だねと。それでポケモンはRPGになったんですよ」田尻は、この「交換」というアイデアを生かそうと、さっそくRPGに当てはまる企画書を書きあげました。田尻が考えた「目に見える価値ある情報のまとまり」、それが具体的なかたちで結実したのが〃モンスタ—〃でした。田尻はこのゲームに『カプセルモンスタ—』という仮のタイトルを付けて、任天堂東京事務所のビルを訪ねたのでした。

[[BOTTOM TEXT|
増田順一さんから 見た田尻智像
「根っからのゲー厶好きですね。そしてそのゲー厶などで、人が何を面白がるのかということを、ちやんと見てる人ですね。今は、一日中、会社にこもっている日が続いたりするんで、たまには一緒に遊びましょうっていう気がしますね。でも、何か彼が関心をもてる遊びはないかって考えるんですけど、それがまたゲー厶なんですよね(笑)」
]]

43
Tip: you can directly link to pages by adding "#pXXX" after the chapter name. For example: /Chapter_name#p1