Magic of Pokemon/The Role of the Media as Revealed by Incident Coverage

From Poké Sources
Warning: this chapter has not yet been proofread!
The text of this chapter was created through OCR. This process was not entirely accurate. If all pages of this chapter have been proofread, please change the tag to {{Chapter proofread|yes}}.
This chapter has not received a translation yet.
If all pages of this chapter have been translated, please change the tag to {{Chapter translated|yes}}.

事件報道でわかったメディアの役割
大月隆寛

ー九九七年十二月十六日、午後六時五十一分三十四秒、テレビの人気アニメ『ポケットモンスタ—』(テレビ東京系列)を見ていた子どもたちが一斉に倒れた。ある者は全身けいれんを起こし、ある者は目がかすむなどの症状を訴えた。この日、病院で手当てを受けた子どもたちは六百八十五人(十二月十八日「毎日新聞」より)、その被害者は全国各地に広がっている(ーーページ図参照)。そのきっかけとなった場面は、バーチャルリアリティ(仮想現実)の世界に引き込まれた主人公たちがコンピュータのなかで戦うところで、赤と青の光が交互にフラッシュした直後(約四秒間)、多くの子どもたちが「気分が悪い」と訴えたという。
この事件はまず、NHKの午後十一時のニュースで報道され、翌朝には新聞各紙がこの問題をとりあげ、メディアをあげての大報道合戦となった。それらの報道のうち、新聞を中心に記事を抽出、整理をし、紙面の許すかぎり掲載したのが一三ページからの「ニュースファイル」である。
この報道関係のファイルについては、事件が語られてゆく〃流れ〃を最低限示せるように、時系列に従って配列した。その他、二フティサーブの会議室や、インターネツトの掲示板などにアップされていたコメントもできるかぎり参照した。もちろん、ここに掲載した以外の記事がたくさんあったことはいうまでもない。いや、掲載できなかった記事のほうが膨大なのである。正直いって、それらを読んでゆくだけでものすごくおもしろくて、うっかり我を忘れかねないところさえあった。ここでは、それらの作業のなかで気がついたことを簡潔に述べておこう。

|▶  「地方」の現われ方

新聞に関していえば、いわゆる全国紙よりも、地方紙の紙面がいろいろな意味でおもしろかった。共同通信社配信

8

[[MAP|
病院への搬送者数
0人
1~20人
21~40人
41~60人
61人以上
合計       685 人

北海道 - 38 | 青森 - 1 | 福島 - 2 | 栃木 - 18 | 茨城 - 26 | 群馬 - 18 | 東京 - 74 | 埼玉 - 70 | 千葉 - 45 | 神奈川 - 76 | 長野 - 7 | 山梨 - 6 | 岐阜 - 10 | 静岡 - 12 | 愛知 - 60 | 京都 - 5 | 大阪 - 76 | 奈良 - 2 | 三重 - 7 | 兵庫 - 29 | 岡山 - 18 | 香川 - 10 | 徳島 - 1 | 愛媛 - 1 | 島根 - 1 | 山口 - 11 | 大分 - 1 | 福岡 - 45 | 佐賀 - 10 | 長崎 - 5

2月18日付「毎日新聞」より
]]

のファイルなども参照したのだが、それ以上に、それぞれの地方紙が独自に編集した部分に、今の日本の情報環境がどういう落差を生んでいるかが反映されていて興味深かった。
たとえば、今回の事件で、テレビ東京のネツトワークがカバーしている地域、つまりテレビアニメの『ポケモン』がリアルタイムで放映されている地域に被害者が出たことは当然わかる。けれども、それ以外の地域でも多くの被害者が出ていることが、これら地方紙の紙面を重ね合わせてゆくと見えてくる。電波漏れ(スピルオーバー)をしていたり、あるいはCATV(ケーブルテレビ)で放映されていたり、原因はさまざまだが、本来はその日その時間に『ポケモン』が放映されていないはずの地域で、『ポケモン』を見てい

9 PART-1▶「ポケモン事件」とメディア

た子どもたちが確実にいたことになる。いずれにせよ、地理的な距離だけではない、むしろメディアを介した情報格差こそが「地方」をつくっているという現実が改めてはつきり見えた。

|▶「投書」とその論調

投書も含めた〃普通の人々〃の意見というのも今回、各紙にかなり掲載されていたが、そのトーンは、ほぼふたつに分かれる。ひとつは、何が起こったのかはよくわからないけれども、これだけの影響を子どもに与えたのだから、アニメをつくって送り出す側の自重を求めたい、といったもの。もうひとつは、ポケモンは悪くない、ピカチュウに責任はない、アニメのことを何もわからないくせにわかったようなことを言ってポケモンを悪者にしてゆくメディア(゠「大人」)ってひどい、といったものだ。
だが、これはまったく違うふたつの立場というよりも、ひとりの人が「公」の立場に立った場合の発言と、「私」の感覚を盾にとつたもの言いを繰り出した場合との違いと考えた方がいいだろう。ピカチュウは悪くない、という人でも、だからといって子どもたちが泡を吹いて倒れてもかまわない、という人はまずいないはずだ。
その背景にあるのは、マンガやアニメのことを何も知らない「大人」がわかったようなふりをして、僕たちわたしたち(゠「女・子ども」)の感覚から遠い能書きを垂れ流して、わかったつもりにならないで、といった不満だ。いい換えれば、メディアが報道するような「公」の「情報」が、自分たちの〈いま・ここ〉の実感や印象からかけ離れたものになっていることに対する異議申立ての現われであるともいえる。

|▶「コメンテータ—」の終焉

これは今回の事件に限ったことではないのだが、こういう事件報道におけるいわゆる「コメンテーター」というシステムは、ほぼその役割を終えたことを改めて痛感した。
何か事件が起こった時に、それに対して「専門家」という肩書で「コメント」を出す。おそらく、三浦和義事件あたりから顕著になりはじめ、その後、ニュース番組のショウ化などと期を一にしながら肥大していったやり口だ。それがオウム以降、去年の「酒鬼薔薇」の事件でも、この「コメンテータ—」たちの発言がみるみる信頼に足らないものになり、失笑すら買うようになった。これはわがニッポンの世間のひとつの大きな変化だ。そういう風向きの変化は微妙に、メディアの現場でも感じ取られているのだろう、今回のポケモン事件では、「専門家」の「コメント」

の類いは一時期に比べてかなり少なくなっている。
それは、新聞やテレビに出てくる程度の「コメント」ならば、今の日本の大衆社会の「観客」たちはもう自前で準備できるようになっている、ということでもある。何かよくわからないけれども耳を傾けるだけの価値があるということになっている、そういう「権威」を無条件に認める態度はここまで希薄なものになった。まして、その「権威」をタテにした「コメント」が、どこかで聞いた風なもっともらしさしかないのだとしたら、誰がそんなものをありがたがるだろう。今どきの「観客」たちが欲しいのは他人の「解説」でしかない「コメント」などではなく、自分たちそれぞれの自前の感想をうまくとりまとめて引き出してくれるためのナマの素材なのだ。メディアの舞台のお仕着せの「コメント」は自分たちの気分を代弁してくれる可能性が少ないことを、もう誰もが気づきはじめている。
その構造がもっとも顕著に出たのが、ニフティの会議室など、コンピュータ・ネツトワーク上での「発言」だった。何か事件が起こった場合、ニフティにせよ、インターネツトにせよ、いわゆる電脳空間のネットワークに、その事件についての「コメント」が今では確実に、書き込まれてゆく。そのなかには参照するに足らないゴミも混じるし、妄想に等しいものも垂れ流される。しかしまた同時に、穏当で均衡のとれた「コメント」の類いも書き込まれてもゆく。新聞であれ雑誌であれ、はたまたテレビやラジォであれ、そこらの評論家や学者といったコメンテータ—たちがもっともらしく言う「コメント」程度ならば、まずどこかにすでに書き込まれているといっていい。「専門家」であることの信頼性などは、少なくともその発言やコメン卜の水準からは無条件に保証してもらえるものではなくなっているのだ。〃偉そうに何をわかりきったこと一言ってやがる〃的な気分が広まってゆくのも無理はない。

|▶「被害者がー万人」にいたる道

確実な「被害者」といえるのは、まず六百人あまり。それ以上は、自治体や教育委員会などによる「調査」によつて増えていったものだ。もちろん、消防署に救急車の出動を要請するほどではなかった被害者もかなりの数でいただろうし、そのような被害者がこれらの「調査」によって改めて捕捉されていった事情もあるとは思う。
けれども、同時にまた、教育委員会が「学校」に依頼して行なった調査によって被害者がどんどんふくらんでいつたという傾向もある。「被害者は最終的にー万人に」という数字の根拠はこの「学校」がらみの調査によって出てきた数字だ。「そういえばボクも気持ち悪かった」と思って

11 PART-1▶「ポケモン事件」とメディア

しまう、あるいは、何となくみんなと気分が同調してしまって「気持ちが悪かった」ことになってしまう、そういうことは子どもなら、いつの時代にもあることだ。地下鉄サリン事件の「被害者」が事件の後にどんどん増えてゆき、やはりこのー万人前後の規模に達して何となく安定したことなどを考えあわせれば、今の情報環境において、ある〃できごと〃が二次的三次的に増幅し、媒介されてゆく広がりのなかで、「ー万人」という規模の人間たちにもっとも濃厚な「当事者」感覚を宿らせてゆくようなメカニズムがあるのかもしれない、と思ったりもした。

|▶ テレビ報道の行き詰まり

テレビの報道関係では、こちらが捕捉できた範囲では、NHKの「クローズアップ・現代」が、事件発生後数日で、ひとまずバランスよい目配りをした特集をやっていたのが目立った。機動力を生かした構成で、その時点で最低限わかっていることだけを箇条書きのようにまとめていたのが、テレビ報道の利点を活かしたものになっていた。一方、いわゆるショウ仕立て系のニュース番組での「コメント」は、一部で苦笑された木村太郎の「サブリミナル」発言など、どれもかなりあやしげなものが多かった。確かに、テレビでの発言というのは検証される機会が保証されていないといっていい。自らフォローして訂正できることも少ないし、やったところでその効果も薄い。
テレビやラジオが活字メディアに比べて、参照・引用・検索のシステムがあまりに考慮されていないメディアであることは今さらいうまでもないことだが、しかし、少なくともニュース報道系の番組だけは、ビデオ・アーカイブ化して必要な時に参照できるようにしておくことが必要だろう。でないと、すでに当たり前になってしまったニュース番組のショウ化は、ただ商業論理にのっとった、情報のー方的な垂れ流ししか招かないだろう。たとえば、放送局が互いに出資してそのような施設をつくって運営してゆくことはできないのだろうか。反射的に何かものを言うことだけで食える商売というのは、やはりどこか間違っている。「芸」としての「コメント」というのは確かにあるが、ー次報道の乾いた言葉の次に、信頼できる身の丈の言葉の確かな足場がメディアの舞台に存在していない以上、「素人」の感想以上のものでしかない「コメント」ではなく、言葉本来の意味での「専門家」としての視点や知見をうまく「観客」の前に提示してゆけるだけの度量があるのかどうか、テレビの報道にはとくにそれが問われはじめている。
さて、次のページからの「ニュースファイル」を見て、あなたはどのような感想や意見をもたれるだろうか。

12
Tip: you can directly link to pages by adding "#pXXX" after the chapter name. For example: /Chapter_name#p1