Magic of Pokemon/p12

From Poké Sources
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しまう、あるいは、何となくみんなと気分が同調してしまって「気持ちが悪かった」ことになってしまう、そういうことは子どもなら、いつの時代にもあることだ。地下鉄サリン事件の「被害者」が事件の後にどんどん増えてゆき、やはりこのー万人前後の規模に達して何となく安定したことなどを考えあわせれば、今の情報環境において、ある〃できごと〃が二次的三次的に増幅し、媒介されてゆく広がりのなかで、「ー万人」という規模の人間たちにもっとも濃厚な「当事者」感覚を宿らせてゆくようなメカニズムがあるのかもしれない、と思ったりもした。

|▶ テレビ報道の行き詰まり

テレビの報道関係では、こちらが捕捉できた範囲では、NHKの「クローズアップ・現代」が、事件発生後数日で、ひとまずバランスよい目配りをした特集をやっていたのが目立った。機動力を生かした構成で、その時点で最低限わかっていることだけを箇条書きのようにまとめていたのが、テレビ報道の利点を活かしたものになっていた。一方、いわゆるショウ仕立て系のニュース番組での「コメント」は、一部で苦笑された木村太郎の「サブリミナル」発言など、どれもかなりあやしげなものが多かった。確かに、テレビでの発言というのは検証される機会が保証されていないといっていい。自らフォローして訂正できることも少ないし、やったところでその効果も薄い。
テレビやラジオが活字メディアに比べて、参照・引用・検索のシステムがあまりに考慮されていないメディアであることは今さらいうまでもないことだが、しかし、少なくともニュース報道系の番組だけは、ビデオ・アーカイブ化して必要な時に参照できるようにしておくことが必要だろう。でないと、すでに当たり前になってしまったニュース番組のショウ化は、ただ商業論理にのっとった、情報のー方的な垂れ流ししか招かないだろう。たとえば、放送局が互いに出資してそのような施設をつくって運営してゆくことはできないのだろうか。反射的に何かものを言うことだけで食える商売というのは、やはりどこか間違っている。「芸」としての「コメント」というのは確かにあるが、ー次報道の乾いた言葉の次に、信頼できる身の丈の言葉の確かな足場がメディアの舞台に存在していない以上、「素人」の感想以上のものでしかない「コメント」ではなく、言葉本来の意味での「専門家」としての視点や知見をうまく「観客」の前に提示してゆけるだけの度量があるのかどうか、テレビの報道にはとくにそれが問われはじめている。
さて、次のページからの「ニュースファイル」を見て、あなたはどのような感想や意見をもたれるだろうか。

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