Game Freak/Part 2/Chapter 2: The Game Writer Era

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2 ゲー厶ライター時代

ゲームからのインスピレーションをひたすら原稿用紙の上に書きしるし続けた日々

■ミニコミからの飛躍

ミニコミ『ゲー厶フリーク』が人気を集めるにしたがって、田尻の名は日本中のゲー厶ファンの間で知られるようになっていった。
本来、田尻とゲー厶との関わり方は、分析や研究、批評という方向性を持つていたが、発行している『ゲー厶フリーク』が攻略本の形を採っていたために、田尻は”ゲー厶のうまい男”として、人々から認識されるようになった。
実際、彼が優れたゲームテクニックを持っていたのはたしかだ。そのため、新宿や渋谷などの有名ゲ—厶センターに出かけて行けば、見知らぬ少年から「田尻さんですか?」と声をかけられることもしばしばあった。
当時、全国には一〇〇以上ものゲームファンのサークルがあり、各サークルではそれぞれが会報誌を

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発行していた。なかでもゲー厶フリークと並んで人気を集めていたのが、東京の巣鴨を拠点とするサークル、VG2だった。
『ゲー厶フリーク』誌が攻略法を中心に編集していたのとは対照的に、『VG2』誌ではゲー厶攻略よりもゲー厶に対する批評を展開させたり、また、サークルどうしの交流を求めることに熱心だった。このように、VG2という集団はかなり早い時期からゲー厶ファンたちの親睦を深めることを考え、いくつものサークルを連結させて〈VG2連合〉という組織を結成していた。それに対しゲー厶フリークは”会員制“という方式で読者数の拡大を図りながらも、編集部自体は、田尻を中心とする気心の知れた仲間だけによる、独立したスタイルを維持していたのだ。
そうやって、様々なゲー厶・ミニコミ誌がしのぎを削り合っていた頃、ゲー厶フリークを大きく飛躍させる出来事が起こった。それは、抜群のゲー厶テクニックでその名を全国に轟かせたゲー厶プレイヤー、大堀康祐氏との出会いだった。
大堀氏は友人の中金直彦氏と二人で、当時、爆発的な人気を誇っていたシューティングゲー厶『ゼビウス』を分析し、その攻略法を簡単な小冊子にまとめていた。しかし彼らは、それをメディアとして広く流通させる方法を持てずにいた。そこで、ゲー厶・ミニコミの世界ですでに実績を積んでいた田尻のところに持ち込み、『ゲー厶フリーク』として発行してくれるよう持ちかけたのである。大堀氏の名は、誰よりも早く『ゼビウス』でー〇〇〇万点を突破した男として、田尻自身もよく見知っていた。であるから、田尻はこの話を即座に受け入れ、大堀氏らの『ゼビウス』攻略情報を再編集し、『ゲー厶フリーク』の臨時増刊号として『ゼビウス 1000万点への解法』を世に送り出したのだった。

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▶ゲ——厶を語るうえで、絶対に欠かすことのできない一冊。攻略本の歴史はここからはじまったといっても過言ではない。
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この本はものすごい勢いで売れていった。一冊五〇〇円というのは、当時のミニコミとしては割高感のある価格設定だったが、
「この本を買えばゲー厶を五回やるよりもうまくなるんだから、絶対に売れると思った」という田尻の思惑通り、最初に同人誌書店に並べた分はあっという間になくなり、大急ぎで増刷がおこなわれた。この頃はまだ田尻の自宅を編集部にしていたので、家には問い合わせの手紙が殺到した。ときには、どうやって番号を調べたのか直接電話で問い合わせしてくる者もおり、電話に出た母を困らせることもあった。『ゲー厶フリーク』は、これまでにもミニコミとしてはかなりの部数を誇っており、毎号数百部を印刷していたが、『1000万点への解法』に至っては初版を二〇〇〇部刷り、以後、三度の増刷を繰り返して、最終的には合計でー万部以上も発行されたという。(ちなみに、大堀氏も現在はゲー厶制作者の道に入り、自身の会

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社を興して活躍している)。
『1000万点への解法』を手にしたのは、一般のゲー厶ファンだけではなかった。読者のなかには、自分がゲー厶ファンであることを公言する著名人たちも多く含まれていた。
八〇年代にYMO(イエロー・マジック・才ーケストラ)を結成して一世を風靡し、世界中にその名を知られたミュージシャン細野晴臣氏なども『1000万点への解法』を手にとった読者の一人だった。彼はゲー厶を愛するあまり、『ゼビウス』などのゲー厶音源をサンプリングして、独自のテクノ・ミュージックとして構成した『ビデオゲー厶・ミュージック』『スーパーゼビウス』といったアルバムを発表している。中沢新一氏(前出)もまた、『1000万点への解法』を手にしたー人だ。『現代思想』ー九八四年六月号に寄せた《ゲー厶フリークはバグと戯れる》と題する文章で、中沢氏はビデオゲー厶の歴史を踏まえつつ、『ゼビウス』がどれだけゲー厶の可能性の領域をひろげたか、そしてゲー厶フリーク(ここでのゲー厶フリークとは、いわゆるゲー厶ファンたちの総称である)が、いかにしてビデオゲー厶と対話しているのかを、神話学的視点を交えつつ論じている。のちに、この文章は中沢氏の著書『雪片曲線論』(青土社)にも収録された。もちろん文末には『ゼビウス1000万点への解法』が、参考文献として挙げられているのはいうまでもない。
こうした出来事もあって、ミニコミ『ゲー厶フリーク』と、それを作っているゲー厶フリークの存在は広く世間に名前を知られるようになった。マスコミからの取材も受け、新聞、雑誌に紹介される機会も増えていった。

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やがて、一九八五年頃より巻き起こったファミコン・ブー厶に呼応して、いくつもの出版社からはゲー厶専門誌が続々と創刊されるようになっていった。そして田尻は『ゲー厶フリーク』誌での実績を買われ、プロのゲー厶ライターとして活躍するようになるのだった。

■伝えたいことを伝える方法

ー九八二年、田尻は二人目の師と出会う。その師とは、当時アスキー社『ログイン』編集部に在籍していた野々村文宏である。野々村はパソコン雑誌編集者としての本業のかたわら、八〇年代初期の頃より各誌に文化批評的な文章を精力的に発表し、新進ライターとしても注目を集めていた。そんな二人が、まだお互いの存在を知らなかった頃。
町田市にあるショッピングセンターのゲームコーナーで、中学生の田尻が『スペースインベーダー』に夢中になっていたとき、大学生の野々村は都内の深夜喫茶で『スペースインベーダー』のテーブル筐体に百円玉を積みあげていた。もちろん、この時点では二人がお互いの存在を知ることはなかったが、二人とも同じようにビデオゲー厶の魅力にとりつかれていた。
やがて、田尻は高校に進学してミニコミ作りをはじめ、一方、大学を卒業した野々村はパソコン雑誌の編集者になった。そうした過程のなかで野々村は『ゲー厶フリーク』の存在を知り、その出来映えから、凡百のゲームマニアとは明らかに一線を画す、田尻の才能のきらめきを感じとっていた。

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野々村は、自身の担当する〈ビデオゲー厶通信〉という記事に『ゲー厶フリーク』誌を採りあげるため、田尻に取材を申し込んだ。待ち合わせの場所は、ナムコ社が直営するゲー厶センターとしてマニアにも人気のある、新宿〈プレイシティ・キャロット〉。そこではじめて二人は顔を合わせたのだった。『ゲー厶フリーク』を紹介する記事が『ログイン』に掲載されたあとも、二人はお互いに触発し合い、その関係は途絶えることなく続いていった。田尻は野々村によってプロの思考と技術を学び、野々村は田尻から若さゆえの情熱を呼び起こされたのだ。以来、二人の間にできた師弟関係は、のちに二人がほぼ同時期にそれぞれの会社を設立するまで、目に見えない絆として続いていった。田尻のライターとしての力量の何パーセントかは、野々村のアシスタントとして『ログイン』誌の記者をしていた時代に培われたものだ。もちろん、小学生時代の研究発表や、独学で編集した『ゲー厶フリ—ク』を見れば、田尻が生まれながらにして、たしかな視点と分析力を持っていた人物であることはわかる。けれど、そこからもう一歩先にある”プロのカ“は、厳しい師匠であった野々村から叩き込まれたもののようだ。
取材をするだけでなく、たまに野々村から「原稿を書いてみろ」と命じられることがあると、田尻は徹夜で原稿を書いた。野々村は提出された原稿を一瞥すると、原稿用紙が真つ赤になるほど添削を加え「こんなものでは全然だめだ」と冷たく言い放ち、原稿を田尻に突き返した。翌日、田尻が必死になって書き直しをしてきても、また原稿用紙は真つ赤に塗りつぶされる。何度書いても、その繰り返しだった。そうして、もうなにも書くことが出なくなった頃、ようやく原稿にOKが出る。しかし、本ができあがってページを開いてみると、田尻の書いた原稿は野々村の手によって大幅に書き直されていた。

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このようなことは一度や二度ではなかった。
それでも、こうした前時代的ジャーナリストのようなスパルタ教育を経て、田尻は着実に書き手としての実力を身につけていった。
「僕が、野々村さんから受けた影響は非常に大きいです。仕事の技術的な部分や業界のコネクションなどに関してもそうですが、それ以前にやはり仕事に接する態度とか、物事の思考形態のような部分について学んだところが大きいですね」
田尻はそう回想する。後年、田尻が自分の会社を興し、一国の主として多くの部下を率いるようになってからも、野々村からは様々な面においてアドバイスを得た。そのもっとも重要なものが、『ポケットモンスター』企画書の作成時における、ひとつの提案だった。
当初、田尻が書いた企画書は、ゲー厶の核である”交換“を主眼に据え、それに付随するシステムを明解な文章と多くの図解で説明したものだった。この企画書は筆者も当時目にしているが、これはこれで非常に優れた企画書であったといえる。
一般的には、RPGを企画書にした場合、その背景にひろがる物語世界を伝えようとするあまりに、〈ストーリー概要〉や〈登場人物紹介〉といった、あまりゲー厶性そのものには関わらない要素ばかりにペ—ジ数を割いてしまう傾向がある。
しかし、ゲー厶フリークではそうしたやり方を嫌い、企画書の巻頭では必ず〈キャラクターの操作方法〉を説明し、その次に〈ゲー厶のルール〉を説明するようにしていた。ストーリーなどはあえて書かないか、たとえ書いたとしても、最後の一頁で簡潔に済ませるのがいつものやり方だった。

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であるから、田尻が最初に作成した『ポケットモンスタ—』の企画書も、同様の方式をもって構成されていた。そのこと自体は野々村も賛成していたのだが、彼は『ポケットモンスター』という新しいゲー厶をさらに強くアピールするためには、ひとつだけ欠けているものがあるというのだ。それが「遊びの環境を提示せよ」ということだった。
ゲ—厶フリ—クがこれから作るのは、前例のない新しいゲ—厶だ。これまでのゲー厶のように、RPGというジャンルの器に物語のバリエーションを盛っただけのゲー厶ではない。なぜなら『ポケットモンスタ—』は、自分と他人のモンスターを通信ケーブルで交換する--つまり、新しい遊びの環境をプレイヤーに提案していることになる。そこに最大の価値がある。ならば、その部分をより理解しやすい方法でアピールしておかなければ、『ポケットモンスタ—』の企画書としては正しく機能しないだろう。野々村は、そういうのだった。
そこで、企画書には新たな-頁が書き加えられることになった。そこには、こんなタイトルがっけられていた。
〈近未来ストーリー〉
ショートエッセイ風のスタイルで書かれたそれは、やがて発売されるであろうこのゲー厶で遊ぶ子供たちの姿を想定して描写されたものだった。
ゲー厶のなかで表現される物語を書くのではなく、そのゲー厶に接するプレイヤーたちの物語を書く。ゲー厶の”中身“ではなく、ゲー厶の”外側“に生まれる物語を提示してみせる。これこそが、『ポケットモンスタ—』という作品のアイデンティティを端的に表現する最良の方法だった。

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雑誌で修業を積んでいた時代から、田尻は「伝えたいことを文章で正しく伝える方法」を野々村に学んできた。その野々村が最後に教えてくれたのもまた「伝えたいことを正しく伝える方法」だったのだ(ところで、当時ゲー厶フリークに在籍していた谷口了介というスタッフが、初期のシナリオ構成において重要な役割を果たしこともここに記しておきたい。谷口が野々村と共に練り上げたシナリオは、ポケモンをとりまく世界観の形成に大きく反映され、いくつかの部分はそのままの形で残されてもいるようだ)。

■ライターとしての誇り

ー九八八年、アスキーは『ログイン』編集部を母体として、ソフトの紹介と攻略法を中心とするゲー厶専門誌『ファミコン通信』を創刊させる。
『ログイン』を足場にしてようやく一人前のライターになりつつあった田尻は、創刊当時から『ファミコン通信』にも参加し、第一線のゲー厶ライターとして活躍するようになった。得意の攻略記事を書くこともあれば、ゲー厶批評家として新作ソフト・レビューの署名原稿を書くこともあった。また、田尻が編集責任者として構成する読者欄〈ビデオゲー厶道場〉の連載を持つようにもなった。田尻の書く文章は、ゲー厶以外の多くの文化的知識に裏打ちされており、ゲー厶のことしか知らないライターが書くものとは、明らかに一線を画していた。そのうえで、鋭い切り口と独特のユーモアに彩

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られた文体は、いま読んでも十分におもしろい。
あの頃のゲー厶雑誌といえば、人気ソフトの攻略法さえ載っていれば、それだけで軽く数十万部は売れてしまうという異常な時代だった。そのため編集部でも、ライターの人材には質の高さなど求めていなかった。
若くて(ギャラが安くて済む)、無名で(言うことを素直に聞く)、いつも編集部にいる(その方が便利)。そんなタイプのライターがもてはやされた。文筆家として最低限の社会常識などは必要ない。ゲー厶さえ上手であればそれでよかった。
しかし、田尻は違っていた。
誰よりもゲー厶を愛するがゆえに、その魅力を伝えるための勉強をした。百万の言葉を費やしても伝わらないのならば、さらに何倍もの言葉を探した。ゲー厶センターに行くのと同じように、映画の自主上映会やコンサー卜、アートイベントに足繁く通い、常に自分を磨くことを忘れなかった。そうやって得られた成果は、すべて仕事に反映させた。
便利屋的ゲー厶ライターが馬車馬のように働いて日々の糧を得ていたとき、田尻は仕事を選びながらも、その質を高めることで自分の評価をあげ、それに付随する形で収入を増やしていった。結果として売れつ子ライターになった田尻は、自分の所属する編集部内で周囲の反感--それは妬みによるものでしかないのだが--を買ったりもしながら、その一方で読者の支持を集め、また、信頼してくれる編集者の数も増やしていったのだ。

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ゲー厶フリークは当初、杉森が町田市に自宅として借りていたアパー卜を溜まり場にしていたが、田尻がゲー厶ライターとしてそれなりの収入を得るようになってからは、前述したように、ゲー厶フリーク編集部と田尻の事務所を兼ねる場所として、下北沢にアパー卜を借りるようになつた。下北沢という街は古くからロックバンド、あるいは小劇団という七〇年代的若者文化が根付いている土地で、いっかはその世界で成功することを夢見る若者たちでにぎわっている。そのためか、下北沢に住むということが、ある種の若者の間ではスティタスとなっており、その人気にともない、賃貸アパー卜といえども決して家賃は安くないのが、特徴でもある。
下北沢でもっともにぎやかな南口の駅前を出ると、パチンコ屋、ゲー厶センター、安く飲める居酒屋、小劇場、ライブハウスといった、いかにも下北沢らしい店の建ち並ぶ商店街がある。そこを抜けて五分ほど歩けば、いつの間にか駅前の喧噪とはうって変わって、比較的静かな住宅街にたどり着く。そこからさらに丨〇分ほど進み、住宅街を抜けると、道幅が狭い割には交通量の多い交差点にぶっかる。交差点の一角にはバイク屋があり、その二階の一室が、ゲー厶フリーク発祥の地となった場所である。町田市の実家を出て一人暮らしをする、というほど明確な自立ではなかったが、事実上、この事務所に泊まり込むようになった田尻にとっては、このアパートが初の一人暮らしの出発点ともいえるだろう。+畳ほどの広さのワンルー厶ではあるが、そのうち台所部分だけでも四畳ほどを占めるという間取りは、男の一人暮らしはもちろん、事務所のために借りる物件としても、かなり珍しい選択だ。けれど、この“台所が広い”という点は、じつはゲー厶フリークの歴史を語るうえで注目すべきポイントでもある。

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後述するが、ゲームフリークは下北沢で本格的なスター卜をしてから、現在まで四カ所に事業所を移している。そして、三番目の事業所もまた、六畳ほどの広さを持つ台所に、システムキッチンの完備という、かなり会社らしからぬ物件を選んでいるのだ。
一般に、開業当初のフリーライターは、たいていは仕事も少なく、ギャラも安く、いわゆる極貧時代というものを経験することが多い。
ところが、田尻はアマチュア時代に顔を売っていたためか、ライターをはじめた当初でもそれなりに仕事の依頼があり、あまりひどい生活はしていなかった。少なくとも、食うに困るというようなことはなかっただろう。それどころか、彼には人並み以上に食い道楽な面もあったので、かなり頻繁に外食をしに行ってもいた。そんな彼に、なぜ広い台所が必要だったのだろうか?
「下北沢に事務所を持った頃は、もうゲー厶フリークは僕と杉森の二人だけじやなくて、他にもたくさんのスタッフが出入りするようになっていました。そうしたときに、僕はライターでそれなりの収入を得ていたけれど、他のみんなはそうじやないんですね。学生だったりフリーターだったりするから、そうそう外食に行けるほどのお金なんて持ってないわけです。もちろん、僕だっていつも外食ばかりしているわけにもいかないから、たまには、みんなで簡単な料理を作ることもある。そのためには、ある程度の広さの台所が必要だったんです」これは、ゲー厶フリークが会社組織になった当初も変わっていない。いくら株式会社だといっても、大ヒット作が出ないうちは大きな利益も得られないのだから、社員たちにそうたくさんの給料は払えない。すると当然、食費を節約するために、安いカップ麺などで食事を済ませたりすることも多くなる。しか

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し、そんな食生活を続けていたのでは、頻繁に徹夜作業をおこなう職種なだけに、いずれは健康を害する者が出てくるだろう。そうした事態を避けるためにも、ゲー厶フリークの事業所には自炊するに十分な広さの台所が必要だったのだ。
人間は水と同じで、低い方へ楽な方へと流されていきやすい。けれど、田尻は常に自分を律することを忘れなかった。一人暮らしの時代でも、コーヒーを飲むときには必ずカップに注ぎ、コースターを使っていた。飲み終わった食器はすぐに洗つた。
お金の無駄遣いを嫌った。借金を嫌つた。お金がないときには、それ相応の生活を心がけた。規則正しい生活をするからこそ、健康でいられる。健康であるからこそ、いい仕事もできる。クリエイティブの現場は、どうしたって乱雑になりがちだ。ともすれば、混沌こそが創造の源であると思われかねない業界で、田尻のような考えを持った人間がどれだけいることだろうか。現在でも、ゲー厶フリークでは来客にコーヒーを出すとき、カップを乗せる皿の上に小さなチョコレー卜をひとつ添えて出す。こうした細やかな気遣いは、田尻の精神性が社員のひとりひとりにまで受け継がれている証だろう。

話をもとに戻そう。
いまから十数年前、田尻がゲー厶ライターとして精力的に仕事をしていた頃。彼は同業のライターとして知り合ったばかりの筆者に向かって、こんな疑問をぶつけてきたことがある。「出版社って、僕らライターに対して仕事を依頼するとき、最初に原稿料がいくらなのかを教えてくれ

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ませんよね。どうしてなんでしょう?それどころか、原稿を書いたのに、ちやんと原稿料を払ってくれない出版社まであります。電話で問い合わせても『いま処理してるところだから、あとひと月待って欲しい』とかいって、そのくせ何カ月待っても口座に振り込まれないんですよ。そういうのって、絶対おかしいでしょう?」
このとき、筆者は答えに窮しながらも「その疑問はわかるが、それが出版界の通例というものだから……」といった、当たり障りのない返答をした記憶がある。
事実、当時の出版界の常識として(じつは、現在でもあまり改善されていないのだが)原稿の依頼主がライターに対して、原稿料がいくらなのかを事前に告知することは、ほとんどない。ライターはその仕事でいくらが自分の懐に入ってくるのかを知ることもなく、
「おそらくこの出版社だったらこれくらいだろう……」
という推測を頼りに仕事をしているのが現状だ。ましてや、原稿料未払いで倒産するような出版社があったとしても、一介のライターにとってはどうすることもできないのである。こうした筆者の返答に対して、田尻はどうにも納得がいかなく、不満気な表情で筆者を見つめ返した。
「そんなのって、理屈ではそうかもしれないけど、どう考えても間違ってるでしょう。仕事をするときに報酬がいくらかを話し合うのは当然のことだし、会社がつぶれようがどうしょうが、仕事を済ませたライターには原稿料を支払うべきです。たしかに僕は、出版の世界では、まだ駆け出しの若造かもしれない。未熟な原稿を書いているかもしれない。でも、企業から仕事の依頼があって、まがりなりにもお互

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いが納得のいく結果を出したのなら、それに見合つた報酬は約束通り支払うべきですよ。それをしてくれないのは、企業側が僕らのような個人営業というものをナメているとしか思えません」若き田尻のいうことは、なにも間違っていない。どこをどうとっても正論なのだ。ただ、当時すでに出版界の悪しき因習に身を委ね、そのなかで悪あがきをしながらも生きていた筆者にとって、それは理想論にしか聞こえなかった。
結局、筆者は田尻に対してそれ以上なにもいえることはなく、心の奥底で「それは、きみが若くして名前が売れているからいえることなのだ……」と思うしかなかった。
田尻は、理想主義者なのだろう。野原を駆けまわっていた少年時代から、自分の心のなかに理想としている場所があり、そこに向かって突き進んでいる。途中、なんら寄り道をすることもなく、ただひたすらに、自分が正しいと信じるルールにしたがって突き進む。
そして、たしかに彼は間違っていなかった。
下北沢のアパートの一室で、常識に嚙みついたあの頃から約十年。田尻は、自分が理想とするゲー厶を作るための場所を手に入れたのだから——。

ゲー厶ライター時代の田尻は、理想に燃えて仕事をしていた。それは、ここで例を出したような、金銭にまつわることだけではない。仕事の中身に対しても、同様の情熱を持って接していたのだ。かって、田尻から一冊のファイルを見せてもらったことがある。そこには、様々なゲー厶雑誌の記事が丁寧にスクラップされていた。彼は毎月無数に発売されるゲー厶雑誌をこまめに読み、鋭い論評が展開

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されている記事があると、その部分だけを切り抜いて保存していたのである。
何度も読み返したためかページの端は折れ、また、気になる記述の箇所には、たくさんのアンダーラインが赤ペンで引かれていた。それはまるで、受験生の参考書のようだつた。田尻のゲーム批評に対するそれほどまでの情熱に、筆者は頭の下がる思いをしたものである。
テレビゲー厶のおもしろさとはなにか? ゲー厶のおもしろさを正しく伝えるためにはどんな視点が必要なのか?ゲー厶の批評家はどういつた態度でゲー厶に接すればいいのか?ゲー厶雑誌とは誰のためにあるべきなのか? ゲー厶ライターは読者不在の記事を書いていたりはしないだろうか……? 田尻は、編集部に出入りする一介のライターでありながら、常々こうした疑問を編集部内で口にした。それはもちろん「いつも志を高く持っていたい」と信じる彼特有の問題意識がそうさせているのであって、なんら他意はなかった。
けれど、彼の考えに共感できる編集者ばかりがいるとは限らない。実際、ファミコンブー厶にともなって続々創刊された頃のゲー厶雑誌は、簡単に数十万部が売れてしまう状況だったため、なかにはプロ意識の低い編集者やライターがいたことも事実なのだ。
その結果、田尻は編集部内での居場所を自らの手で狭めてしまうという結果を引き起こした。フリーのライターにとって、編集者と懇意にするということは、重要な処世術だ。担当編集者の意見を素直に聞き、いわれた通りの原稿を書く。無理な注文にも笑顔で応える。そんな、文筆家としての誇りを失なったライターがいたとしても、それを否定することはできないだろう。しかし、彼にはそれはできなかった。自分の志を曲げることなど、考えもしなかった。

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やがて田尻は、古巣のゲー厶雑誌の編集部で、孤立するようになっていった。ところが、もしもそれだけならば、いまの田尻はなかっただろう。人々の反感を買いながらも、常に仕事の質をあげる努力をし、また、学生時代から鍛え続けてきた”ゲー厶の魅力を見抜く眼“と、それを表現する志の高さに共感し、彼のことを起用し続けてくれた編集者も数多く存在したのである。

■二人の編集者

田尻の才能に早くから注目していた一人として、当時『フアミコン必勝本』(宝島社当時の社名はJICC出版局)で編集長を務めていた、井上裕務氏(現在は同社出版一局長)の名が挙げられる。氏の編集する『ファミコン必勝本』は、多くのゲー厶雑誌のなかにあって、一風変わった個性を持つ雑誌として知られていた。
当時のゲー厶雑誌では”署名記事“が書かれることは少なかった。ゲー厶雑誌という媒体が”情報誌“としての性質を持っている以上、「誰が書いた記事なのか」よりも、「どのゲー厶の記事なのか」が優先されるのは仕方のないことだ。そのため、社内の編集者が書く記事はもちろんのこと、外注のライターが書く記事でさえも、著者の名前が記されるのは非常に珍しいことだったのだ。しかし、JICC出版局では「ライターの個性を尊重する」という方針を打ち出しており、それはゲー厶雑誌においても例外ではなかった。

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ー九八七年四月に創刊された『ファミコン必勝本』では、先行するライバル誌との差別化を図るために、署名記事に多くのページを割いていた。それらの記事は外部の編集プロダクションや、フリーのライ夕ーに発注しており、有名無名を問わず可能な限り著者の名前を記すようにしていた。それはライターの個性を尊重する意味もあったが、その他にも書き手の名前を明らかにすることで、ライターどうしがお互いに刺激を与え合い、よりおもしろい記事を書くために競い合うだろう、という井上氏の狙いもあったのだ。
井上氏は、他社のゲー厶雑誌で活躍する田尻の文章を読み、その力量に並はずれたものを感じていた。誰が書いたのかもわからない記事が並ぶなかで、田尻の署名記事には個性的なおもしろさがあり、十分に刺激的でもあった。いずれは、自分の雑誌にも原稿を書いてもらおうと考えていたという。そうした矢先に、井上氏は『ファミコン必勝本』の忘年会の席で、偶然に田尻と顔を合わせることになった。田尻と交流のあるライターの一人が、編集長に紹介するためにと連れてきたのだ。このことが縁となり、古巣の編集部を飛び出した田尻は、『ファミコン必勝本』を自分の次なる活躍の場として選ぶことになったのだった。
『ファミコン必勝本』には、田尻だけでなく杉森も本格的に関わるようになっていった。田尻が書く文章に杉森がイラストをつけたり、あるいは杉森自身がゲー厶評論を書くこともあった。ふらりと編集部に現れては、熱血漢的にゲー厶論を語る田尻と、シニカルな視線でゲー厶をおもしろがる杉森。そんな二人のゲー厶フリーク・コンビを、井上氏は「あたかも『本の雑誌』における椎名誠さんと沢野ひとしさんの関係のようだった」と語っている。

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ところで、田尻はこの『ファミコン必勝本』時代に、自身のキャリアにとって重要なもののひとつとなる仕事をこなしている。彼を単なる”ゲームライ夕ー“から、一人の”作家“として大きく飛躍させるきっかけにもなった、エッセイ集の出版である。それは井上氏が田尻を誘って、二人で酒を飲みに行ったときのことだ。麹町の牛タン料理の店で、今後はどういつたものを書いてみたいのか?との井上氏からの問いに、田尻は次のように答えた。「僕はゲー厶と出会って、毎日ゲー厶センターに通っていた学生の頃が、楽しくてたまらなかった。そういう、いちばん幸せな青春時代の体験を、自分よりも下の世代に伝えていきたいんです……」それを聞いた井上氏は「まるでサリンジャーのようだな」と思ったという。そこで、その想い出をゲー厶センターの青春物語として連載するよう、田尻に薦めた。タイトルはサリンジャーの著作『ライ麦畑でつかまえて』をもじって『パックランドでっか

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◀—九九〇年JICC出版局刊。巻頭の献辞には「テレビゲ—厶が大好きな人たちへ」とある。現在絶版のため、一日も早い復刻が待たれる。
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まえて』と、井上氏自らが命名した。
一九八八年十一月号より連載が開始されたそのエッセイは、一人の少年がゲー厶との触れ合いのなかで多くの仲間と出会い、そして成長してゆく、青春小説の形式を借りた連作物語だった。もちろん主人公は田尻自身がモデルであり、自分の体験が濃密に反映されていたのはいうまでもない。このエッセイは連載時から好評を集め、誌上でおよそ一年にわたって連載されたのちの一九九〇年四月、田尻にとって最初の著書として、同社より刊行された。
これは、単にゲー厶少年の日常を描いた青春小説として読むこともできる。だが、単行本としてまとめる際、田尻は大幅な加筆訂正をおこない、断片的に綴られていた物語に、主人公の少年がやがてゲー厶作りのプロになっていくという、大きな方向性を持たせることをした。その結果、『パックランドでっかまえて』は、田尻自身が普通のゲー厶少年からプロのゲー厶クリエイターへと足を踏み出すまでの期間の、貴重な記録にもなったのである。

もう一人、『ファミリーコンピュータマガジン』(徳間書店インターメディア刊)の山森尚編集長(現・株式会社アンビット代表取締役)もまた、田尻という人間に強い興味を抱いていた。ー九八五年七月に創刊された『ファミリーコンピュータマガジン』--通称『ファミマガ』は、ファミコン・ブー厶にいち早く着目し、また低年齢の読者層にターゲットを絞ることで、業界最大の発行部数を誇っていた。通常時でも八〇万部、多いときには一〇〇万部近い部数を刷っていたという。そうした場所で田尻は、業務用ゲー厶の紹介記事をおよそ五年以上にわたって書き続けた。

209  第2章  ゲームライター時代

山森氏は、田尻との出会いを次のように語る。
「僕が『ファミマガ』を創刊した頃は、ゲー厶雑誌なんて他にはない状況でしたから、攻略記事の作り方ひとつにしても、すべて手探りでやっていきました。いわゆる”ゲーマー“と呼ばれる人たちもいなかったので、こちらから探しに行くしかなかったんですね。当時はゲー厶のミニコミを作る同人グループが続々と増えてきた時期ですから、そうしたミニコミを何冊も入手して、カのありそうな人たちに声をかけていきました。四国まで出かけていって、地元で有名な同人グループに会いに行ったこともあります。そうやって、たくさんのアマチュア・ゲーマーやミニコミを見ていったなかで、いちばん優れていたのが、田尻くんの作っていた『ゲー厶フリーク』だったんです。ゲー厶の攻略を非常に丁寧にやっていて、文章もうまかったし図解もたいへん緻密なものでした。ただ、創刊してしばらくの間は直接に原稿をお願いすることはありませんでしたけれどね」先にも述べたように、『ファミマガ』は低年齢の読者層にターゲットを絞っており、ファミコン・ソフトの新作情報と攻略記事を中心とした誌面作りがなされていた。活字の量も、ページ面積に対して三分のー以下にするという編集方針があったほどで、誌面の大半はゲー厶の画面写真とイラストによって埋められていた。となれば、ゲー厶を論じるような読み物が掲載されることは、ほとんどないといってもいい。そのため、いくら田尻に力があったとしても『ファミマガ』のカラーにはそぐわなかったのだ。それから二年が経ち、市場の状況が変化してゆくに連れ、『ファミマガ』も少しずつ変わりはじめた。様々なゲーム雑誌が創刊され、互いに競争を強いられるようになると、ゲー厶の情報だけでは部数を伸ばすことがむずかしくなってきたのだ。

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「創刊当時はメインの読者層を中学一年生あたりに想定していたのですが、この頃からもう少しそれを引きあげたいと思うようになったんです」
そう考えた山森氏は、高校生以上をターゲットにするための手段のひとつとして、一九八七年十月一一日号から業務用ゲー厶の新作紹介ページを連載することにした。その書き手として指名されたのが、ほかならぬ田尻智であった。
連載のタイトルは「僕達ゲーセン野郎」というものだった。その後、同社から創刊された『PCエンジンFAN』『メガドライブFAN』といった姉妹誌でも、田尻は同様の業務用ゲー厶記事の連載をまかされていく。
本来、田尻のように個性が強く、批評性の高い文章を書くライターは『ファミマガ』の編集方針にはそぐわないはずだ。そのことは山森氏も承知していたはずだが、なぜ田尻を起用し続けたのだろうか?「実際、田尻くんが書いていた記事は業務用ゲー厶の紹介記事でありながらも、ゲー厶論的なニュアンスが感じられるものでした。『ファミマガ』は実用性を重視した雑誌だから、原稿にももう少し実用性を盛り込んでくれ、なんて注文をつけた覚えもあります。けれど、それは些細な問題なんですね。たとえ読者アンケートの結果が悪くても、当時の『ファミマガ』にとって、ああいうページは必要だったんです。情報誌、という存在を否定するわけではないけれど、『ファミマガ』を単なる情報誌の枠にとどめないためにも、田尻くんの記事は貴重なものだったのです。それに、なんといっても彼の原稿はレベルが高かった。当時のゲー厶ライターは、自分の思い込みで原稿を書いてしまう人が多かったんですが、彼に関してはそういうことがありませんでした。どんな文章を書いていても、

211  第2章  ゲームライター時代

常に”自分で自分を疑う“ということを忘れていませんでした。いま、彼がゲー厶クリエイターとして成功しているのも、そうした部分が反映されているからではないでしょうか」

■二冊目は教科書

現在の本業はゲー厶クリエイターである田尻だが、もともとはライターとして出発した彼は、これまでに一一冊の本を出版している。最初の著書が、自分のアマチュア時代を追憶したものだとするならば、二冊目の著書は、自分がプロの制作者になってからの経験を記録したものだ。のちにゲー厶フリークを会社組織化し、仕事としていくつかのゲー厶を作った田尻は、あるときこれまでに蓄積してきたゲー厶制作のためのノウハウを、一冊の本としてまとめることを思いついた。小説にせよ漫画にせよ、世の中にあるほとんどの創作物には、いずれその職業に就くことを志す者たちのために懇切丁寧な作り方を紹介した、いわゆるHOW TO本の類いが数多く出版されている。ところが、田尻がそうした本の企画を思いついた当時には、ゲー厶の作り方を教えてくれるような、つまりゲー厶デザインの”教科書“というものは(ごく一部の例外を除いて)存在しなかったのである。では、なぜゲー厶デザインの教科書は存在しなかったのか?
その理由は簡単だ。ゲー厶を作るための”技術“は教えることができても、アイデアを生み出す”発想“は教えることができないからだ。

第2部  ゲームフリーク  212

ゲー厶を組むための〈プログラミング技術書〉なら存在する。グラフィックを描くための〈CG作成ッール解説書〉なら存在する。サウンドを鳴らすための〈楽器の教則本〉なら存在する。アイデアを提案するための〈企画書の書き方〉なら存在する。けれど〈おもしろいゲー厶を作るための本〉は、どこにもないのだ。
ー九九二年の九月から十一月にかけて、田尻はバンタンデザイン研究所・電脳学科の非常勤講師として、ゲー厶デザイン論の授業を受け持った。•
大勢の生徒相手に講義をするという仕事への不慣れさもあったが、そのときになによりも困ったのが「教科書がない」ことだった。一時限九〇分間の授業をしようにも、読むべきテキストが存在しない。そのため、多忙な本業の合間を縫つて、講義で述べる内容を徹夜でレポートにまとめ、即席の教科書を作らなければならなかったのだ。
もしも、あのときにゲー厶作りのための理想的な教科書があれば、どれほど楽だったことだろうか。現役のゲー厶デザイナーが、同業者を養成する機関で講師をしたり、そのテキストを書き表すというのは、ある意味で勇気のいることだ。
なぜなら、せっかく自分のノウハウを教え込んだ相手が、やがて卒業して他のソフトハウスなりゲー厶メーカーなりに就職するようになれば、自分のライバルになりかねないのだから。しかし、とも思う。自分が蓄積してきたノウハウを惜しげもなく公開するのは、ゲー厶の作り手の裾野をひろげること

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にもなる。それは長い目で見れば、ゲー厶業界全体の活性化にもつながるだろう。いや、もっと自分に身近な場所でもおおいに役に立つはずだ。なによりゲー厶作りの教科書があれば、ゲー厶フリークに今後入社してくるであろう新人たちの研修に役立てることができるのだ。
これまで、ゲー厶フリークにおける”ゲー厶づくりのノウハウ“は、田尻が独学で編み出し、また行動を共にした仲間たちとの間で練りあげてきたものだ。
町田のアパートでの杉森との多くの会話。下北沢のゲー厶フリーク編集部でのスタッフたちとの数え切れない議論。そうした無限の対話のなかから、田尻は”新しくておもしろいゲー厶のあり方“をみつけ出してきた。
しかし、これから先、会社が成長しスタッフの数が多くなるにつれ、いつまでも田尻がマンツーマンで新人の指導にあたるわけにはいかなくなってくる。そのためにこそ、自分が積みあげてきたゲー厶作りのノウハウを教科書の形で残しておくのは、有意義な仕事であるはずなのだ。
振り返ってみれば、田尻は”ゲー厶制作のための教材を作る“ということに関して、かなり積極的に取り組んできていた。ミニコミ誌を出発点とし、プロになってからの雑誌上での評論活動も、ある意味では教材の執筆であり、次代のクリエイターを間接的に育成するための活動だといえる。彼がそうした作業に熱心になった背景には、自分がなんの教材もなく、まったくの手探りでゲー厶理論を構築してきたことと深い関係がある。そして、今後入社してくるであろうゲー厶フリークの新人たちに、あるいはこれからゲー厶作りを目指す若者たちに、自分と同じ苦労をさせないためにも、自らのノウハウを公開することにしたのだ。

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▶ー九九六年、エニックス刊。『ポケットモンスタ—』の発売が目前だったためだろうか、表紙にはゲー厶ボーイの画像をイメージしたドット絵がデザインされている。
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彼にとってニ冊目の著書となる『新ゲー厶デザイン』(ー九九六年エニックス)は、このような経緯で出版された。
帯には早稲田大学人間工学部、野呂影勇教授が推薦文を寄せているが、そこには「ゲー厶デザインをひとつの学問として成立させようとする彼の意気込みが感じられ」とある。まさに田尻はこの本で、ゲー厶を作るという作業を理論的に分析し、体系的にまとめあげているのだ。
過去の名作をいくつも題材とし、その発想の原点に触れ、おもしろさの核心を解読してみせる。ときにはゲー厶が表現している物語性の背後にあるものを推察し、作者の意図を理解させる。あるいは自分の作品を例として採りあげ、その発想の秘密を公開し、アイデアをどのようにゲー厶として成立させていったのかを具体的に解説する。どれもが当たり前の言葉で、わかりやすく綴ら

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れながらも、そこに語られている内容は多くの示唆と発見に満ちている。
プロの制作者ならば誰もが無意識に体得し、自分の頭脳のなかに秘めているテクニック。そうしたものを、ここまで大胆に公開してみせたものは、過去に例がない。
これは、ゲー厶デザイナーとゲー厶ライターという、ふたつの顔を持つ田尻だからこそ書くことのできた、ひとつの到達点といえるだろう。

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