A Man Who Created Pokemon/Chapter 3/Column 3: Television Games of the 1990s

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COLUMN 03 - 90年代のテレビゲー厶

テレビゲームの'80年代が、その誕生と拡張の時代だったとすれば、、'90年代前半は爛熟の時代だった。'88年にセガから初の16ビットマシン「メガドライブ」がリリースされていることからも想像ができるように、この頃の〃テレビゲー厶〃は、すでにファミコンの性能では追いつかない発展を見せていた。そうした状況を受けて、任天堂は'90年、ファミコンの後継機にあたる「スーパーファミコン」を市場に投入。八ード性能は飛躍的に向上したものの、基本的にファミコンの流れを受け継いで登場したこの製品は、制作者たちに新たなイノベーションを促すにはいたらなかった。もちろん、注目を集めた意欲作も多かったが、大まかにいってそれらはフアミコンで培われた技法の、さらなる洗練以上のものではなかった。その意味で、'90年代前半は停滞期だったといっていい。では、何がその停滞を打ち破ったのか。前ぶれはいくつかあった。'93年末にアーケードに登場した『バーチャファイター』と、同じく'93年2月に発売された『スターフォックス』。この2作品は〃ポリゴン〃という新たな手法を用いて、モニター画面上に3D空間を描き出した。どこまでいっても所詮、1枚の絵でしかない2Dとは違って、本当に物(オブジェクト)を配置して空間を作り上げていく3Dという技法。〃ポリゴン〃による圧倒的な表現手法の広がりは、翌'94年に発売された2台のマシン——セガ「セガサターン」と、ソ二! コンピュー夕エンタテインメントの「プレイステーション」によって、テレビゲー厶の世界を揺り動かした。そして、もうひとつの方向。それは、任天堂が'89年に発売した携帯ゲー厶機「ゲームボーイ」にあった。決して市場的に成功したとはいえなかったゲー厶ボーイは、たった1本のソフトにより、驚くべき大逆転を収めることになる。そう、田尻智とその仲間たちによる『ポケットモンスター』。〃通信〃によるポケモンの交換をアイデアの核に据え、5年以上の歳月を費やして制作されたこの作品は、当初の予想に反して、大ヒットに。小・中学生を中心に巻き起こった〃ポケモンブー厶〃は、ソフト本体だけにとどまらず、メディアミックス的な盛り上がりを見せた。さらには『ポケモン』の成功を受けて、その後継機「ゲー厶ボーイアドバンス」が発売され、携帯ゲー厶機は、据え置き型の家庭用ゲーム機とはまた別の市場へと成長した。
'90年代中盤の大きな地殻変化からもう10年。ゲームがつまらなくなった、と言われるようになって久しい。さらなるグラフイツクの向上とDVD再生機能を搭載した「プレイステーション2」やマイクロソフトの「Xbox」など、ネツトワーク展開を視野に入れた新たなマシンが登場したが、果たして本当にテレビゲー厶の世界は広がったのか。こうして振り返ると、今の閉塞状況は、驚くほど90年代前半の状況と似ているようにも思える。ビジュアルの進化による成熟、コストの増大に伴う制作現場の疲弊。果たしてこの状況を打破するのは、どんなイノベーションなのか。あるいは八ードの進化とはまた別のところから、それはやって来るのか。2010年、私たちはどんなテレビゲー厶で遊んでいるのだろうか?

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制作にエンジンがかかる、と。
——じやあ、『マリオとワリオ』以降の仕事——『ノンタンといっしよ』とか『パルスマン』あたりは、ちよつと体制とい、つか気分が変わった感じなんですか? (※114) (※115)
田尻: 実は『ノンタンといっしよ』のスター卜自体は『マリオとワリオ』よりも早かったんだよね。『ジェリーボーイ』のあとに田尻が企画をやるっていうスタイルのライン。プログラムは別の会社でやって、企画は僕がやるっていう。
——ああ、そうか。『ジェリーボーイ』は『ノンタンといっしよ』にリンクしてるし、杉森さんがメインだった『タルるート』は『パルスマン』にリンクしてるわけか。
田尻: そう。『パルスマン』は、セガの社内的にも『タルるート』の評価がよくて、要望があって、杉森がやるという。そこに途中から僕が加勢してつくったんだよね。
——田尻さんは『タルるート』にはどれくらい関わってるんですか?
田尻:『タルるート』は、ほとんど杉森がやりましたね。僕の仕事は、窓口をきちんとつないで、セガに一緒に行って、企画を一緒に考えたくらい。僕自身、ディレクションから離れたし、杉森自身、自分で仕上げたっていう思いが一番強いタイトルだろうね。
——『パルスマン』は、『タルるート』よりはもうちよつと参加した感じ?
田尻:『パルスマン』は、オリジナルキャラク夕ーだったから、苦労したんですよ。『タルるー卜』のときは、杉森が非常にマンガに精通してたおかげもあって、それでよかった。マンガを題材にしたゲームソフトに、当時、ロクなものがなかったし、そういうものでも、きちんとしたクリエイティブで完成させたいっていう動機があった。セガ的にも、『おそ松くんはちやめちゃ劇場』みたいのをつくっているイメージで(笑)。(※116) キャラクターものであれば企画は通るし、それがキチンとゲーム性のある仕上がりになったんで、オリジナルをやってもいいんじやないかっていう評価につながった。ただ、メガドライブ自体はそのあと、杉森好みの〃フ□ンティア精神はあるが、なかなかビジネスとして成功しにくい〃っていう方向になっていくわ (※117)

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※114: '94年、ビクターより発売されたスーパーファミコン/ゲー厶ボーイ用ソフ卜。『ヨッシーのたまご』で試みられた、対戦相手との駆け引きを軸にした〃落ちもの〃系をさらに発展させた作品。
※115: '94年、セガより発売されたメガドライブ用ソフ卜。基本は典型的な横スクロールタイプのアクションだが、キャラクターの直線的な動き、人工生命といった未来的イメージの採用など、随所に仕掛けられたアイデアが光る。
※116: '88年、セガより発売されたメガドライブ用ソフ卜。おそ松くんや二ヤロメなど、赤塚不二夫の人気キャラが総登場する横スクロールアクションだが、迷路のようなステージ構成と難易度の高さで悪評高い。
※117: '88年、セガから発売されたゲー厶専用機。任天

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けだけども(笑)。
——あはは(笑)。
田尻: ちょうどその頃、『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』が出たばっかりだったんだよね。そのおかげで、メガドライブ自体にちよつとこれまでと違うイメージが出てきて、それが『パルスマン』のような企画が通る土壌にはなってたんだと思う。(※118) それで、『ソニック』が青なら、こっちは赤だとか、音よりも早いのは電気だみたいな(笑)、対になるようなイメージで『パルスマン』の企画を考え始めたわけ。あと当時、ヨーロッパのクラブで、スーファミでつくった簡単なデモプログラムをプロジェクタ—に写すっていう……。
——「メガデモ」ですね。 (※119)
田尻: そうそう。ああいうものが出てきてて、映像の処理がユニークなものができないかな、と。電気の線があって、ワイヤーに触れると光の弾が発射するとか、そういうサイケデリックな映像には、ある程度ニーズがあると思ってたし。
——じやあ、アイディア的には、かなり田尻さんが参加してる?
田尻: まあ、杉森と僕が半々だね。あと、これはオリジナルキャラクタ—だから、キャラクターの魅力があれば、第三者も注目してくれるだろうと思って、マンガ雑誌に『パルスマン』のキャラクタ—でマンガをやりませんかってプレゼンにも行ったんですよ。
——ああ、のちの『ポケットモンスター』と同じ手法を、この時点でやってたんだ(笑)。
田尻: その当時は、うまくいかなくて、企画書は預かってくれるけど、イエスって言ってもらえなかったんだけども。結局、できあがったときには、マンガのプレゼンもうまくいかなかったし、メガドライブの市場も決してうまくいっているとは言えないし、『パルスマン』自体も100点満点の出来とはいえなかった。非常にクリエイティブとしては苦しんだんだな。
——しかも、世間的にはセガサタ—ン、プレイステーションに完全に興味が移行している時期ですよね。 (※120)
田尻: そう、もうサ夕—ンとかに興味がいっているんですよ、セガとしても。

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堂のファミコン、スーパーフアミコンに対抗すべく設計されたこのマシンは、黒いボデイに「16bit」の金文字があしらわれ、独特の発色のよさとソフトラインナップで、コアゲーマーから支持を得た。
※118: '91年、セガより発売されたメガドライブ用ソフ卜。現ソニックチー厶代表取締役社長の中裕司氏が開発を手掛けた『ソニック』シリーズの記念すべき第1作。スピード感を強調したキャラクター(青いハリネズミ)とステージ構成は、特に海外で高い評価を得た。
※119: '80年代後半から'90年代前半にかけて、ヨーロツパを中心に盛り上がったデジタルアー卜の厶ーブメント。フロッピー1枚に収められるデータ量で、どれだけ斬新な映像をつくれるか、プログラミング技術を競い合う。BBSからフリーでダウンロードできたあたりも、ハッカー文化の面目躍如。

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——というか、『バーチャファイタ—』ブームに完全にのまれている状況ですよね。 (※121)
田尻: そうそう。だから、打ち合わせしてても、サターンをどうやって売るかつていうことで盛り上がってて。メガドライブももう終わりだ、みたいな。とはいえ、やってよかったと思いますけど。
——僕が仕事を始めたのがこの頃からなんで、すごい印象に残ってるんですよね。あの混沌とした状況というのは。
田尻:『パルスマン』は、杉森の「アニメーションキャラクターをオリジナルでつくる」っていう側面と、僕の「クラブでかけても恥ずかしくない映像をつくりたい」っていう側面の、両方をやりたかったんだよね。それで、渋谷のクラブに持って行って「ゲーマーズナイト」っていうイベントもやって。自分のフェイバリットな業務用ゲームとか、『ヨッシーのたまご』なんかをプロジェクタ—で投影して、現場でも遊んでもらって。ゲームマニアの手近な遊びっていうところ以外で、ちよつと可能性を追求したいっていう、そういう想いはあったんだよね。
——ああ、ゲームフリークは「東京ゲーマーズナイトグルーヴ」に参加してるんですよね。
田尻: 前期から中期にかけて。
——佐藤大さんとかが中心になつて。 (※122)
田尻: そうそう。彼が人を集めたり、イベントの運営をやって、ゲームの材料なんかは、うちのクリエイタ1がやる。あとは、新谷(プン)君っていうデザイナーがいたんだけど、彼が『マリオペイント』でその場で描いて、現場を盛り上げてて。ウチもゲームのセレクションとか現場のセットをやったしね。 (※123)

『ポケットモンスター』が描き出した風景

——『パルスマン』から『ポケモン』まで、約1年半ありますよね。この間は潜伏中な感じというか。『マリオとワリオ』で方針が見えて	。
田尻: そうだねえ。
——ここらへんの作品は、田尻さんの中では全部並列になってる?
田尻: 僕自身から見ると、全部のゲームが玉す

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※120: '94年、セガより発売された32ビツトゲー厶専用機。3DCGを使用した高速な画像処理を可能にし、メデイアにCD-ROMを採用するなど、SCEのプレイステーションと競合する旗手ともくされた。
※121: '93年末にセガより発売された、3D格闘ゲー厶の噫矢。3Dポリゴンを利用してリアリティあふれる人間の動きを再現。2D格闘全盛だったアーケードに衝撃を与え、徐々に支持を広げていつた。
※122: '69年、埼玉県生まれ。高校卒業後、秋元康に師事し、放送作家や作詞、ライター業をスタート。その後、田尻氏と出会い、「東京ゲーマーズナイトグルーヴ」や「ポリゴンジャンキー」といったイベントを企画。現在では「フロッグネーション」を主宰し、アニメ『カウボーイ•ビバップ』や『攻殻機動隊STAND ALONE COM-

だれのように、ちよつとずつずれながら平行してる感じがあるんだけど、でもこのへんはやつぱり、同時平行で進んでいるという思い出になるんだな。
——プロになった以降の仕事として、ずっと続くみたいな。
田尻: うん。だけど、プロになったという意識は、やっぱり『ポケモン』の作業に投影されてるんだよね。この間の仕事のボリュームは、かなり『ポケモン』にシフトしてますよ。制作のエネルギーも、ほとんど費やしたといえるし。リストを見ると、ここで発売になっているけど、実際には1度、発売が延期になってるからね。本当は12月に発売だったんだけど、鬼のようにバグが出て——製品になってなかったから、ギリギリ3カ月延長してもらって、本来ならクオリティを上げる期間で仕上げたっていう感じで。
——そうして完成した『ポケモン』ですけど、結果的に大ヒットになった。それは田尻さんにとって、意外だったですか?
田尻: 意外ではないなあ。
——驚き?
田尻: 驚きもあまりない。驚いたのは、やっぱり1000万本とか超えたときだよねえ。
——あはは(笑)。
田尻: あとは、北米で発売されてうまくいったことだよね。海外では売れるかど、つかについては、はっきり手応えを感じられなかったから。やっぱり僕自身は、『ドラゴンクエスト』のように騎士英雄伝を題材にしたゲームがあって、それに対して異議を申し立てた『マザー』があって——『マザー』は、現代の少年を主人公にしたロールプレイングゲームだったけど、その『マザー』ですら、舞台はアメリカ郊外の田舎町。そこが舞台で、主人公は私自身であるということに、まだ違和感があったんだよね。(※124) それで僕が、プレイヤー自身が主人公であるゲームをつくろうと決意したときに、『ポケモン』のポッポみたいな、ああいう普通の動物を思わせるようなキャラクターまで許容して、みんなそれぞれが個性を持っているっていう世界を考え出したわけなんだけども。
——そこのところをもう少し突つ込んでうかが

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PLEX』の脚本も手掛ける。
※123: '92年、任天堂より発売されたスーパーファミコン用ソフト。同梱のマウスを使ってお絵描きができる、いわゆる「ペイントソフト」だが、そのユーザーアビリティの高いインターフェイスはむしろ「お絵描きオモチャ」といった印象。簡単な音楽(シーケンス)製作もできた。
※124: '86年、エニックスより発売されたファミコン用ソフトにして国産RPGの金字塔。『ドラゴンボール』の鳥山明によるキャラクターデザイン、シンプルながら深みのあるテキストといったクオリティ面はもちろん、なにより日本人に"RPG"の面白さを認識させた功績は非常に大きい。

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いたいんですけど、『ポケモン』の風景のあり方自体、すごく日本的ですよね。
田尻: そこはかなり意識しました。つまり、僕くらいの年齢の人間にとって「自分の投影だ」と思っていたものの多くが、アメリカの文化の象徴であったり、そういうものに置き換わってる気がするんだよね。良い悪いは別にして、そういう勘違いをするようなものがあって、たとえば『マザー』がそのいい例。あれを日本人がつくるとい、っことに、その辺のアイデンティテイの曖昧さがあるように思うんだな。だから、糸井さんがロールプレイングゲームの狭量なテーマの持ち方に異議を唱えたのと同じように、僕は『マザー』とそれ以前のゲームに対して、異議を唱えてみようと思ったんだよね。
——それが、あの風景のあり方に通じてる。
田尻: ただそれは、あからさまな日本の伝統文化の投影のようなものではない。そこは、現代の日本人がつくるものじやなきやいけないとも思うし。
——ついこの間、あるゲーム雑誌で〃ファンタジー〃の特集をやるというんで、テキストを書いたんですよ。で、そのとき痛感したのが、いかに僕らの想像力がアメリカのものに頼ってるのか。『ドラゴンクエスト』だって、アメリカ流に解釈された〃剣と魔法の世界〃だし、『マザー2』だって(スティーブン•)スピルバーグやティム•バートンが描いてる世界なわけで、決して僕ら自身のリアリティではない。(※125) (※126) そこには結構、ギヨツとするところがあって。
田尻: それは、ゲームだけではなく日本の音楽だったり(笑)、さまざまなメディアで同じことが言える。非常に根源的な問題だと思うんですよ。問題は、そういうアイデンティティに関して、ちやんと考えるっていうかさ。明解に答えを見い出さなくても、問題提起があればいいと思う。でも往々にして、非常に乱暴かつ断定的に、「アニメやゲームやマンガは日本の文化だ」みたいなことを言うわけじやない(笑)。
——あはは(笑)。そうですね。
田尻: その背景になっている体験とかイマジネーションの源泉がどこから来てるのか、そこには認識の勘違いみたいなものがあるんじゃないかっていうのは、もう少し口に出していう必要

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※125: '46年生まれ。世界を代表する映画監督のひとり。'74年『続・激突!』で劇場デビュー後、『ジョーズ』『未知との遭遇』といったヒツト作を連発。しかしここではむしろ、彼が製作を担当した『抱きしめたい』『グレ厶リン』『ポルターガイスト』といった作品群のバツクグラウンドについて言及している。
※126: '58年生まれ。映画監督。映画『バットマン』のヒットで一躍注目を集めた彼だが、その一方で『ピーウィー•ハーマンの大冒険』や『シザーハンズ』で、アメリカ郊外生活者の風景をシニカルかつユーモラスに描き出していた。その集大成ともいえるのが、火星人にアメリカが侵略されてしまう、グロテスクな『マーズ•アタツク』。

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があると思うんだよね。少なくとも、僕自身が『ポケモン』をつくっているときに持ってた問題意識は、そこにある。だからさっき言ったように、「自分自身のリアリティってなんだろう」って考えることが大事なんだよね。それがアメリカ文化に違いないって思っている人も多いし、それをあえて否定する必要はない。そういう現状はあるんだから。僕自身『ポケモン』をつくってるとき、「自分の認識の原点とは何か」っていうのを振り返ると、日本とか海外というのとは別の、何か外的な存在がある。いわゆる怪物じゃなくて、それが昆虫だったり、動物だったり、他人だったりする。幼少期から振り返って、もう一度そういうふうに認識を組み立て直してたことが、『ポケモン』の原点になるんだよね。そういう微分積分のようなことを繰り返した結果、ある種、どこの国でも置き換えが可能なものになったんだと思うんだけど。
——じやあ、『ポケモン』の世界は、田尻さんとしては抽象的な世界のつもりだった?
田尻: 抽象的というのとは、ちよつと違うな。自分のリアルというものが何かということを、繰り返し反復した結果、出来上がったものというか。
——僕は、『ポケモン』ってものすごく具体的な作品だと思うんですよ。たとえば、砂漠の真ん中で暮らしている人には、きっとわからないだろうと思う(笑)。
田尻: ああ、そうだね(笑)。
——ことばの選び方は難しいですけど、ヨーロッパの古い街並なんかよりは、はるかに東京郊外の殺伐とした感じが残ってる。で、そこは田尻さんが意識的にやってることではないんだろうなあ、とも思うんです。
田尻: うん。
——必然的にそうなってしまうものとして、デザインされているというか。それは、田尻さん自身の、個別的な物語なんだろうなという気も
る。
田尻: だから、個人のリアリティを追求した結果、北米でも欧州でもきちんと評価を受けたということだと思うんだよね。たとえば『ドラゴンクエスト』は日本で評価されているけど、海外ではそうではない。『マザー』だって、プレ

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イした人はいいゲームだと思うだろうけども、日本で出たほど北米やヨーロッパでは売れなかった。それはなぜか、と。そういう問題意識があったんだろうな。
——端的に言つちやうと『ドラクエ』にしろ『マザー』にしろ世界観は、借りものなわけですよね。……と、そこまで言い切ってしまっていいのかとは思いますけど。
田尻: うん。だから、『ポケモン』が海外のユ1ザーにどういう風に見えているのかは、もう少し詳しく知りたいよね。
——直接聞かないんですか?(笑)。
田尻: 聞かないとい、つか、注目された形跡がないから、聞きょうがないというか。でも、'80年代の終わりあたりだと、日本のゲームクリエイ夕ーのなかには、海外でどう見られているのかを意識して作っている人が多かったんだよね。テクモに『忍者龍剣伝』ってありましたよね? (※127) (※128)
——ああ、ありましたね。
田尻: あれなんかは、わりやすくいうと、海外は日本の文化をどう勘違いして見ているか。そこを日本人が察してつくる。そういうことができるんだったら、同じことをロールプレイングゲームのようなジャンルでも、できるんじやないかっていう。でもあの頃、手応えを感じたことを、まわりはあまりやつてないんだなっていうのが後になってわかって(笑)。
——でも、そこでエキソティシズムというか、日本的なケレンに走らないのは田尻さんらしいな、とも思うんですけど。
田尻: いや、でもさ、'80年代の終わり頃って、ファミコンのソフトが海外でキチンと売れた時代だからね。実を言うと、僕も『クインティ』でやってるんだよ。海外版のタイトル画面って「アメリカ人にわかりやすいものを」っていう、ある意味すごくアバウトな要求だったわけ。じやあ、このキャラクタ—がアメリカ人にはどう見えているか描けばいいんだろうって、アメコミ調のキャラクタ—を描いて張りつけたわけよ(笑)。こつちとしてはイヤミなんだけど、「これだ!」とか言われて(笑)。
——あはは(笑)。でも難しい問題ですよね。外国の人が、どう『ポケモン』を遊んでいるのかは、やっぱりよくわからない。

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※127: '67年に設立。業務用アミューズメント機器の販売を行っていたが、'81年からは自社開発をスター卜。ファミコン初期には『マイティ・ボンジャック』や『ソロモンの鍵』といった秀作を発売、また最近では『モンスターフアー厶』や『デッド・オア・アライブ』シリーズなどをリリースしている。
※128: '88年に発売されたァーケードゲー厶(のちにフアミコンに移植)。横スクロ丨ルタイプのアクションゲー厶だが、現代アメリカを舞台に忍者が大活躍するという(当時のニンジャブー厶に発想を得たと思われる)荒唐無稽な設定と、スリリングでテンポのいい構成が特徴。

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田尻: でも、『ポケモン』の場合は、そういう勘違いの振れ幅は、ほかのゲームに較べれば少ないんじやないかな。たとえば、僕自身は関東地方だと思って描いたマップも、海外では、別に日本とも関東とも思われてない。あくまでも、自分の町の近くにある海岸線というかね。別にあれがフロリダ州の海岸線でも、メキシコ湾の一部であってもいい。そういう受け入れが可能だから、あまりズレることなく受け入れられたのかもしれない。

次世代機ブー厶の逆風のなかで

——さっきから何度も話が飛んでて申し訳ないんですけど、プレステーションやセガサタ—ンの登場というのは、田尻さんにとってショツクでしたか?
田尻: う一ん、プレイステーションがショツクだったとい、つか、さっき言ったように『ジェリーボーイ2』をその頃つくってたからね。世の中に出てないんだけど。スーパーファミコンではリリースしないが、プレイステーションでプログラムをし直して出すっていう話で。で、そのときはロイヤリティの契約だったんだけど、話がおかしな方向に傾いていったんだよ。完成したスーパーファミコン版には一銭も払わないで、もう1年かけてプログラムし直して、それが売れたらお金を払う、と。そうすると、俺は2回つくって、1年先に金をもらうつていうことになる。「それはおかしい」って話をしたんだけど、受け入れられなくてね。さんざん揉めた結果、世の中に出なくなってしまった。——そういえば『ジェリーボーイ2』って、広告もありましたよね。
田尻: だから、ソニー自体が大きな方向転換をしたとも言える。
——『パルスマン』とほぼ同時期に広告を見てる気がする。
田尻: そうですね。まあ、『ポケモン』の作業量が非常に多かった時期だな。『ポケモン』の制作が、一番佳境のときに世間からは「時代遅れ」って言われていた。「今、ゲームボーイのソフトをつくっている」って言うと、「なんで

今頃つくってるの?」と(笑)。「もう終わりでしよ」みたいな。それとほぼ同時期に『ジェリーボーイ2』が出ないって揉めてて、あの頃もストレスが多かったね。
——世の中的には、もうムービーでしょ、グラフィツク的に力を入れないとダメでしょっていう時期ですよね。
田尻: まあ、そういうこと言ってたね。
——いまだに主流だとも言えますけど。
田尻: うん。ただ、グラフィツクを鬼のように描いて、それが希望に応えているかというと、応えきれてない部分があると思う(笑)。いろんなところで、グラフィックよりゲーム性を追求しようとい、つニーズはあるんだけど、なかなかそこに応える商品をつくれない、とい、つかね。もう少し手法に光明が見えれば、そういうものをつくれると思、つんだけども。
——話の展開的に言、っと、『ポケモン』のどこが面白かったかとい、っと、描かれているグラフイツクの問題じゃなかったと思、つんですよ、個人的には。チープだとか豪華だとかいう問題じやなくて、もうちよつとキチンと、抽象的なんだけど、今僕たちを取り囲んでいる風景を掴んでたと思うんですね。売れる売れないは置いておいて、その意味で『ポケモン』はユニークな商品になっていたんだと思、つんですけども。
田尻: それは確かに言えるな。たとえば、戦闘シーンをつくるとき、僕にとっては、背景にあたる遠景が映ってることが大事だったわけ。ポケモンの後ろ姿が映ってて、向こうに相手のポケモンがいる。その大きさが違って、ゲームのシステムとリンクしつつ、ちやんと説得力を持って動く、ってい、つね。空間のイメージとしては手前に自分のポケモンがいて、向こうに相手のポケモンと、その後ろに人間がいる。4つのキャラクタ—が向かい合うイメージだよね。そ、つい、つイメージでできたゲームは、ほかに見当たらなかった。ただ、そういう発想に近いものは、過去にあったんだけどね。(と言いながら『ファンタシースター3』のゲーム画面を指して)(※129) これなんか、ちよつとかすってきたなという気がしたんだよね。後ろにいるけど、背景に立っている者と近景に立っている者がいる。これ自体は、ゲームとしてはあまり成立してない

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※129: '90年、セガより発売されたメガドライブ用ソフ卜。マークⅡで第1作が発売された人気RPGシリーズの3作目。ここで言及されているのは、戦闘画面の構成のこと。敵モンスターの後ろにさらにモンスターが配置されるという、『ポケモン』と非常によく似た構成をとつている。

んだけど、ちょうど『ポケモン』をつくってたときだったから、俺の考えに接近してきた人がいると思ったんだよね。ゲームの世界観は全然違うんだけど。
——なるほど。
田尻: ゲームの制作をしてて、一番幸福な時代じやないかなと思ったのは、プレステとサタ—ンとスーファミの、3つのハードの勢力が拮抗してた時代なんだよね。短い間だったけど、それぞれのマーケットに特色があって、独自性もあって、つくる方からすれば選択肢があった。そのまま拮抗した状態で、市場が成熟していくのが望ましいなと思ってたんだよ。一方、ゲーム制作をしながら考えるのは、長い時間プレイヤーに、自分のゲームに興味をもってもらうということが、本当にゲームにとっていいことなのか。プレイヤーの時間の占有率つてことを考えると、ひとつのゲームをやっている間は、ほかのゲームを遊べないわけだよね。
——そうですね。
田尻: それで、さっき言ったように3つのマーケットが等しく成り立っているときに、どうい
うプレイ環境がイメージできるかというと、3種類のモデルがいて、それぞれの嗜好でゲームを選択して遊ぶってことが考えられる。3つとも買って、ゲームのタイプによってハードを選択するとかね。だから、もう少しゲーム業界の将来のことを考えると、さっき言った複数の八ードがマーケツトを形成してる状況というのは、ひとつのゲームのヒットが市場全体を牽引してるわけではない。ところが、今は3つの市場があるとは言い難いし、プレイステーションのマーケツトがある程度限られている理由には、そういう時間占有率みたいなものがあるんだろうなと。逆にいえば、『ポケモン』がこれだけ支持されるとい、っことは、他のゲームをやらないことの証明になる(笑)。それが良いことか悪いことかとい、つのは難しいんだけど、単純に自分がプレイヤーだったら、より多くのゲームをやってみたいって思うんだよね。気がっいたら『ポケモン』ばっかりやってるとい、つ人が、「こんなに面白いゲームがやれて幸せだ」と思、つか、「ほかのゲームがまったくわからない」と思うか。そのへんは、人間の解釈の指向

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性みたいな、非常に悩ましい事態だなとは思う(笑)。

現代のタコ壷的な環境にどう取り組めばいいのか

——個人的には、いろいろあることの方が楽しいのに、どんどんその「いろいろ」がなくなってくなあっていう不安があるんですよね。ゲームだけに限らず、アニメでもマンガでも、もちろんつまらないのもいっぱいあるけど、面白いのもある。それを知らないのは、もったいないっていうのは、絶対にある。みんなが同じものを等しく楽しめるのは、確かに幸福なことなんだけれど、多様性というものがいかに簡単になくなっていくかは、この10年間で痛感した気がするんです。
田尻: 確かに、そうだよね。だけど、「ファミ通」なんかはどんどん厚くなって、なんか毎週死にたくなるほど情報が書いてあるじやない(笑)。
——あはは(笑)。でも、この'90年代って、雑
誌がカタログ化した10年間だったと思うんですよ。
田尻: ああ、情報が増えたわけではない。羅列されるようにはなったけれども、多様化ではなくて、カタログ化したという。
田尻: ああ、なるほどね。
——羅列ってことで思い出したんですけど、この本(「キリング・フォー・カルチャー」)がすごく面白くて。中身は、スナッフフィルムの歴史を綴った悪趣味な本なんですけど(笑)、ただ羅列してあるだけじやなくて、クドいくらいにしっこく内容を描写したかと思ったら、「でもこれは偽物である」とか、バッサリ斬り捨ててて。単純なカタログになってないんですよね。
田尻: (パラパラとめくりながら)ああ、面白そうじやない。スナッフフィルムは「やらせ」であるっていう、今さらな話だけど。
——基本的には、やっぱりいまだにお好きなんですか。
田尻: まあ、そうですね(笑)。今もあまり変わらず集めてますというか、集めましたよというか(笑)。

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——そういえば、宮崎勤事件があったのは'89年かな? 田尻さんの部屋も似たような感じだつたんですか? (※130)
田尻: そうね。ただ、宮崎勤の事件とかオウムの事件を、マスコミは無視し続けているというか、全然検証してないよね。(※131) 本当は検証可能なはずなのに。それが日本の不健全さを増長していると言えると思うんだけど、宮崎勤の事件のとき——あの鬼のよ、つなビデオ・コレクションに対して、適当な対処、対応をする手法を見出せなかった。その結果、ああいう不幸な事件に変化したと感じてるんだよ。あの部屋って、非常に現代的な環境だと思うわけ。こんなに鬼のよ、つな量のビデオやコレクションをいつ見るんだよってことを言う人がいて、その意見はまったく真つ当なんだけど(笑)、それに対する対処法というか答えを、俺は見い出したんだよね。つまり、同時に見ればいい(笑)。
——あはは(笑)。
田尻: だから、俺はあれに対して、明確な答えが出ているわけ。自分がテレビ局になればいいんだ、と。メディアに対する個人のスタンスとして、モニタ—を同時に並べて、いっぺんに見ればいい。それと「2ちゃんねる」かなんかが同時に1個あって、どのチャンネルで何が起こってるかがわかれば、鬼のようにビデオに埋もれて事件が起こったことの、空しさとか問題の解決点は見えてくると思うんだよ。(※132) ファイルのアクセスの仕方っていうかね。もちろん、もう少しドロドロとした、ひとつひとつの事件は別だよ。少女に対して手を出すっていうのは別の問題で、決してやってはいけない犯罪だけど、その背景にあるもの——現代のタコ壷的な環境にどういう風に取り組んだらいいのかっていうのは、問題のひとつだと思う。ここで立ち往生している限り、人はあまり'80年代からメディアに対して進化していないんだろうし、答えが見えれば進化するんじやないかな。
——逆にあまり言われないことですけど、田尻さんって従来の定義でいえば、オタクなわけじやないですか。あまり、そういう指摘をする人はいない気がするんですけど(笑)。
田尻: あはは(笑)。
——放っておけば、タコ壷的に情報を摂取して

---

※130: '88年から翌年にかけ、埼玉県と東京都で日本中を震撼させる幼女誘拐•殺害事件が発生した。まれにみる凶悪なこの事件は、別件の猥褻容疑で逮捕された宮崎勤の犯行であることが判明。事件の残酷性や精神鑑定による裁定など、大きな話題を呼んだ。マスコミによって公開された、ビデオテープや書籍で埋め尽くされた宮崎の自室は、「今田勇子」名で送りつけられた〃告白文〃の異常性ともあわせて、本人の精神のありようを示すものとして注目を集めた。
※131: '74年、麻原彰晃(本名•松本智津夫)を中心に「オウム神仙の会」として設立された仏教系の新興宗教。'89年には政治団体「真理党」を結成し、衆議院議員選挙に出馬(全員落選)。'84年に「松本サリン事件」、翌'95年3月には「地下鉄サリン事件」を引き起こす。幹部クラスの教団員に高学歴の、いわゆるエリー卜層が多く在籍していたことも話題を集めた。

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しまう人なわけで。
田尻: そうだね(笑)。
——いっぱいテレビを並べて、一気にみるんですか?
田尻: 見るよ(笑)。テレビ局ってそうなってるじゃん。
——いや、テレビ局はそうなってますけど(笑)。
田尻: だから、興味のあるのものだけ見ればいいんだよ。映っているのは、全部映ってる、基本的に。でも、全部を集中して見る必要はない。ゲームやりながら、テレビつけたりってい、つのを最大限に拡張していくわけだ。
——言われてみれば、やってるんですけどね(笑)。
田尻: でもまあ、メディアをベースに活動してる立場からすると、そういうことはあまりやつて欲しくないとは思うけど。でも、自分にとつて必要な情報かどうか、そういうことが判断叮能な環境に自分を置いておくのは大切だと思うけどね。
——判断の主体を依存しないということですよね。
田尻: うん。全部見てる方がいいっていうのは、全部見てて、たいして重要でなければ、そのままにしておけばいいし、重要だと思えば集中する。特に映像メディアは、そういう方法を採らないと、ビデオを見ているときは、テレビを見ないっていうだけになつちや、つじやない。ある瞬間に重要な情報が流れても、見逃したっていうようなことが多いんで、そういう隙を埋めていくというかね。
——見逃すと、「しまった」と思う?
田尻: うん。根がオタクだからだろうけど(笑)。
——でも、さっきの話とかぶる部分もあって、要するに多様性をいかに自分の中でキープするかなんですよね、問題は。なんだか、『ポケモン』の制作者を非難してるみたいで、かなり嫌な感じなんですけど(笑)。
田尻: あはは(笑)。でも、僕自身はそういう危険性を考えてるわけだよ。なにせ、ゲームマ二アが制作者になってるわけだから、そういう問題点はよくわかっているつもりなんだけども。

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人生のようにゲー厶をっくっていきたい

——実際のところ、'90年代後半はひたすら『ポケモン』に関わり続けていたという感じなんですか?
田尻: まあ、どちらかというと、ゲーム制作者として『ポケモン』の重要度が増してからは、『ポケモン』が多くなるんだろうな。ただ、今後はもちろんわからないし、『ポケモン』に注カするぶんだけ、それ以外の作品を作りたいっていう動機は強まるわけだから、ほかのタイトルをやるかもしれない。
——『ポケモン』の続編をつくろうという話は、どういうきっかけで出てきたんですか?
田尻: それは最初のときからあったといえば、あったんだよ。もともと最初の『ポケモン』に、バリエーションが65535種類あって、それぞれのプレイヤーの世界をコロニーのよ、つに育てて、それを通信でつなぐっていうアイディアがあって。それは結局、IDナンバーを発生させるプログラムになったんだけど、任天堂の宮本さんに話をしたときに「バリエーションが多いのはいいけれども、多すぎるとわかりづらい。2つか3つにした方がいいんじゃないか」って話になったんだよね。それでそのあと、僕は7色くらいのバリエーションで、それぞれに生態系が違うものっていう設定を考えてたんだけど、実際の制作の最後、ラストスパートをかけようとしたときにちよっと、それはリアルな発想ではない、と。で、異常にシンプルにした結果が7色のうちの『赤』と『緑』になったんだよね。それを市場に出して結果的に売れた。じやあ、そこからバリエーションを作ろうとい、つことで、『青』とか『黄色』になったつていう。
——『金』『銀』もその延長?
田尻: 『金』『銀』は、その延長なんだけれども、別に『ピンク』でも『ホワイト』でもよかったんだ。ただ、より洗練されたレベルを目指そうってことで、最初の7色にこだわらないバリエーション——『金』『銀』っていう方向に行つたんだよね。
——それは続編と考えていいんですか?
田尻: 続編とはちよつと違うんだけど、ある言

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い方をすれば続編だよね。
——『ルビー』『サファイア』は、も、っちよつと違うんですか?
田尻: そうだね。『ポケモン』の成功によってゲームボーイの後継ハードの規格が立ち上がって、その両方のプレゼンという意味合いも強い。ゲームボーイカラーとかアドバンスとか、明らかに『ポケモン』が出てから携帯ゲームの市場にボリュームがあるというふうに風向きが変わってきた。それに合わせてつくるということも必要になってきたんだよね。だから、より洗練された『ポケモン』っていう部分と、ハードウエアからの要求されたアーキテクチャー、たとえば2対2のバトルシステムとかなんだけど、それによって『ポケモン』のゲームシステムがより深みを増すことが出来たと思う。その両方だな。
——じやあ、『ポケモン』以降の5年間は、非常には大人な5年間っていうか。
田尻: そうだね。大人だね(笑)。まあ、そのあたりで一回、結婚して離婚したりもしたし、私生活でもやっぱり同じ様に変化があったからね。自分としては、ゲームをつくる上でさまざまな経験があった方がいい。だから別に構わないんだけど、離婚するような精神状態だと、ゲーム制作の現場で張り切るっていうわけにもいかないじゃない(笑)。
——まあ、そりやそうですよね(笑)。結婚は大きかったですか?
田尻: 振り返って思うと、離婚の方が結婚より大きいかな。
——大人感がより強くなるっていうか。
田尻: うん。離婚っていうのは、たとえば、結婚した時に引越ししたり、家を買ったりしたことを御破算にしょうっていうことなわけだから。まあ、それは精神的に圧迫が強くて、大変なことなんですよ(笑)。
——なるほど(笑)。
田尻: だからはっきり言うと、そういう人生とか経験が活かされたものが出てくる可能性はあると思うな。今もゲームをつくってるわけだし。『ポケモン』にはあまり投影はしないと思うけど。
——大人になってから、ゲームに対する見方っ

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てちよつと変わったりしました?
田尻: まあ、変わったとしたら、たとえば「ゲームがなくて死ぬか」ってことだよね。それは『ポケモン』の完成のときが一番のピークだったんだけど、自分の人生っていうのはゲームがなかったら死ぬような思いなわけ。それとくらべるのはちよつと難しいし、あまり適切でもないけど、ただ一方で、個人的な生活もあって、そこでも人は苦労したりとか生活を営んだり、トラブルがあって、別れたりする。その精神的な虚脱感とか、そういうものをゲームがつくれなくなったときと比べられるか。そこは難しいけど、でもそのくらい思えばクリエイタ—として長く続けられるとは思うんだよ。たとえば黒澤明だって途中自殺しかけたりしたわけだけど、最後まで映画を撮り続けたわけじゃない。(※133) あの人の人生もいろいろあったけど、結局映画を作り続けて最後までやった初めての日本人クリエイターだと思うんだよ。振り返って自分のことを考えると、とりあえずゲームを作ることについて一番、やりがいを感じられればなとは思う。それで、何十年か経ったときに「人生のようにゲームをつくっていったな、あいつは」と思われれば、いい人生になるんじやないかなと思うけどね(笑)。
——いい人生(笑)。たとえば、『新ゲームデザイン論』みたいな形でゲームについて話すことは、もうないんですかね。 (※134)
田尻: それは、今までの話にしばしば出てきたことだけど、ゲームの中につくる側の体験が影響している作品は、幸せだと思うんだよ。とすれば、いいゲームをつくるためには、いろんな経験をしていくべきだって解釈ができる。そういう意味で、鬼のようにゲームばかりやっててもラチがあかない。そこは、わりと早く気がついた(笑)。ゲーム以外の面白いことを発見して、その体験をベースにゲームをつくるってことが大事であって、今はもう、あまりひとつのゲームに対して想像を広げていくようなことはしないというかね。自分がつくるときでも、やっぱり微細な情報を活かす方にシフトして、鬼のような人生経験をなるべく忘れないようにしてたわけだし(笑)。まあ、つくるときにそれを活かせるような精神状態においておくというか。

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※133: '10年生まれ。映画監督•脚本家。'36年にPCL映画製作所(現東宝)に入社、'43年に『姿三四郎』で監督デビュー。『羅生門』でアカデミー賞特別賞を受賞したのちも、『七人の侍』や『椿三十郎』『影武者』といつた傑作群を生み出す。娯楽性と重厚なテーマをあわせ持ったその作風は、今なお大きな影響を与え続けている。
※134: '95年、エニックスより発売された、田尻氏の2冊目の著書。『スーパーマリオブラザーズ』やナムコ黄金期の傑作群、そして自身の作品をもとに、テレビゲー厶におけるデザインのあり方を詳説。テレビゲー厶批評が持つべきレトリックの豊かさを徹底して追究しようとする姿勢からは、いまだ見習-つべきところが多い。現在は残念ながら絶版。

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——う一ん、難しいですね。
田尻: だから、自分にとってゲームをつくるときに一番怖いのは、忘却だよね。忘れてしまうということは、経験を活かすことができないわけだから。何を覚えてたかも忘れたとなったら、活かしようもない。だけど今のメディア環境なら、忘れたってことだけでも覚えていればアクセスは可能じゃない。ゲーム制作をする上で、そういう膨大な知識をなるべく貯えていきたいなと思ってるんだよね。

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