Pokemon Story/Chapter 2/Subchapter 6: Breakthrough

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第2章  ブレイク

6 ブレイク

行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたはかつ消えかつ結びて、久しく止まる事なし。世の中にある人と住家と、またかくの如し。

(『方丈記』鴨長明〈校註日本文學大系〉3國民圖書株式會社1925年)

子どもたちにとっては、衝撃的な出来事でした。それまでゲームボーイのモノクロ液晶の小さな画面の中にいて、しかも動かなかったサトシやポケモンたちがいまやフルカラーでテレビ画面に映し出され、笑ったり、泣いたり、走ったり、バトルしたりしているのです。それはゲームでポケモンたちと遊んできた子どもたちが、夢に描いていた世界でした。サトシはこんなやつだったのか。けっこう、いいとこあるじやん。モンスタ—ボールはこんなふうに投げるのか。やっぱりニャースは弱いんだ。卜キワの森って、入って見たいな。ポケモンセンタ—は、ちよつと派手になっちやったけど……。子どもたちはアニメのポケモンに夢中になりました。ポケットモンスタ—がアニメーションになったことによって、ポケモンは新たに、

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より低年齢層の子どもたちと女の子のファンを獲得しました。もともとアニメ化の際にピカチュウをサトシの相手役に選んだのも、ファン層を広げようという狙いがあったのですが、それが見事にあたったのです。
1997年4月1日放送の初回視聴率は10・2%でした。4月中は10%台にとどまりましたが、5月に入ると12%台、6月には14%台と漸増傾向を示し、夏休みを挟んだ9月は14〜15%台、10月には15〜17%台、そして11月に入ると毎回17%台を記録し、11月11日放送の第33話「ほのおのポケモンだいレース」では、最高視聴率18・6%を記録しました。この日のお話は、セキチクシティ郊外にあるサファリランドとポケモン保護区が舞台で、ポケモン放牧民のララミー族と出会うというストーリーでした。その翌週こそ16%台とわずかに下がったものの、その翌週にはまた17・7%に回復しました。17%台は12月に入っても続き、ポケモンのアニメは超大型アニメ番組として、めでたい正月を迎えられるものと、誰もが思っていました。そして12月16日を迎えたのです。
ポケモンは、この日を抜きにしては語れません。

第2章  ブレイク

子どもたちが倒れるー事故発生

1997年12月16日、テレビアニメ番組『ポケットモンスタ—』第38話「でんのうせんしポリゴン」の放送中に大勢の子どもたちが倒れる事故が発生しました。その事故についてこれからお話ししますが、ここで資料として使用するのは、テレビ東京が事故から1年後の98年12月にまとめ、社外も含む関係者に配布した「アニメ『ポケットモンスタ—』問題に関する記録」というA4版165ページの簡易製本された文献です。テレビ東京の公式記録と理解していいでしょう。テレビ東京の社内調査チームの調査報告書、新たに策定したガイドライン、局内研修会の記録とともに、日本民間放送連盟のガイドライン解説資料、郵政省の報告書の抄録、厚生省の臨床研究の概要と解説、事故原因究明のためにアドバイザーとして協力した東京女子医科大学小児科のレポートまでも収録した、詳細な記録集です。表紙の標題にもかかわらず、目次ページに「アニメ『ポケットモンスタ—』問題に関する全記録」というタイトルが付けられているので、以下この記録集を『全記録』と略称します。この日放送されたアニメの内容は、マツチャシティという町のポケモンセンターを訪れたサトシたち一行が、ロケット団が起こしている事件を解決するために、コンピューターの中に入り込むというものでした。ポケモンをデジタル化してモンスターボ

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「アニメ『ポケットモ ンスター』に関する 記録」
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表紙
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[[IMAGE CAPTION 3|
内容
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ールに格納できるポケモンの世界ですから、この設定はごく自然なものだったと言えるでしょう。視聴率は、関東地区で16・5%でした。
電子回路の中に入ってロケット団と戦うというという設定のせいか、この日の放送では、業界でパカパカと呼ばれる背景色の切り替えや、ストロボ、フラッシング、急激なカットチェンジなどの映像が連続して1秒以上使われている個所が、『全記録』の局内調査チーム報告書によれば、全部で25カ所ありました。これは、第1話から第37話までの平均7・6カ所に比較して極端に多かったと、同調査チームは分析しています。パカパカとは、あるシーンを目立たせるために使われる演出方法の一つです。また、画面全体にわたって赤青パカパカが続く映像は、第37話までは一度も作られたことがなく、第38話で初めて使用された手法でした。後にこの赤青パカパカが今回の事故の主要な症状である、光過敏性発作を誘発したと指摘されることになります。『全記録』掲載の技術的な分析表を見ると、報告書が「赤青パカパカ」と呼んでいる色の切り替えが連続する個所は、番組後半の午後6時46分台から同52分台までの約7分間に集中しています。ロケット団のミサイルをピカチュウが電撃で迎撃するまでの戦いのシーンでした。このシーンが終わった直後に、全国各地で119番通報が始まったのです。
倒れたのは見ていた子どもたちでした。厚生省の「光感受性発作に関する臨床研

第2章  ブレイク

究・概要と解説」という報告書によれば、医療機関を訪れたり搬送された子どもたちが訴えた症状は、発作様症状、眼・視覚系症状、不定愁訴、不快気分、頭痛、吐き気など。最終的にテレビ東京に把握できた被害者数は、病院に搬送された子ども約750人で、うち135人が入院しました。日本のテレビ史上最悪の放送による事故でした。
この事故の第一報を伝えたのはNHKで、テレビ、ラジオとも、午後8時台の定時ニュースから報道し始めました。民放ではテレビ朝日系のニュースステーションが取り上げ、共同通信社も午後10時過ぎに第一報を配信しました。テレビ東京自身は、午後11時からのニュース番組『ワールドビジネスサテライト』のなかで、「ポケットモンスターを見た子どもたちが、気分が悪くなり、全体で約200人近くが病院に運ばれています。事実関係を調べています」というコメントを放送しました。この間、マスコミ数社から放送素材(放送した番組や問題となった個所の映像)の提供を求められましたが、テレビ東京は断っています。当然の対応でした。事故当初、取材に訪れたマスコミがまず驚いたのは、ポケモンのアニメを見ていた子どもたちの多さでした。ポケモンの人気は当然知っていたでしょうし、高い視聴率を維持していることも知っていたでしょう。しかしその視聴率から具体的に人数を推定してみて、あらためてその数に驚いたのです。いまご紹介した厚生省の研究班は、

[[IMAGE CAPTION 1|
事故翌日の新聞報道 日本経済新聞
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[[NEWS PAPER HEADING 1|
「ポケモン」TV見て
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[[IMAGE CAPTION 2|
「スポーツニッポン」
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[[NEWS PAPER HEADING 2|
お茶の間パニック
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[[NEWS PAPER HEADING 3|
テレ東まさか
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年齢6歳から18歳までの、小・中・高校生を対象にした「実態調査票」に基づく調査を行っていますが、それによると、回答者9209人のうち、その43・7%にあたる4026人が、この日『ポケットモンスタ—』の第38話を見ていました。報告書にも、研究班がポケモン人気に驚いていることがうかがえる記述があります。ですから、この時間帯に同時放送したテレビ東京系列局のエリア、北海道、東京、愛知、大阪、岡山、香川、福岡、佐賀では、子どもたちの約半数近くがポケモンを見ていたと推定できるでしょう。また、テレビ東京企画調査部の調査によれば、年齢が小学生までに限られていますが、関東地区では4歳から12歳までの子ども165万人が見ており、全国では同じく345万人が見ていたと推定されています。翌日の各紙朝刊、各テレビ局ワイドショーは、一斉にこの事故について報じました。しかし新聞の締め切り時には、まだ実態さえよくわかっていなかったため、各紙とも「ポケモンを見ていた子どもたち多数が、痙攣や吐き気などを訴え、医療機関に運ばれた」という事実関係を報じるにとどまりました。しかしそれが夕刊になると、番組内で使用したアニメ制作上の手法が原因との見方が強まり、ポケモンが子どもたちを襲ったという批判的ないしは攻撃的論調に変わり始めました。人気番組にもかかわらず、子どもたちへの安全対策を十分に講じていなかったということです。しかしその論調も、その日の夜、午後7時からのNHKニュースを境に影を潜めてゆきました。

第2章  ブレイク

NHKがこのニュースのなかで、同じ97年3月にNHK教育テレビで放送されたアニメ番組『YAT安心!宇宙旅行』を見た子ども4人が、今回のテレビ東京と同じように具合が悪くなり、そのうち1人が入院するという事故があったと報じたのです。テレビ東京の事故の波紋が広がっていくのを見て、NHKとしても公表せざるを得なくなったのでしょう。このNHKの告白をきっかけにマスコミの論調が変わったのは、「冷静に情報を分析してみれば、どうやらポケモンで使用された手法は特に珍しいものではなくて、自局や自社の系列局で放送されているアニメ番組にも、多かれ少なかれ同じような手法が使用されているらしい」ということがわかったからでした。他のテレビマスコミ各社にとっても、よそ事ではなかったのです。さらに翌12月18日午後、NHKは「アニメーション問題等検討プロジェクト」の設置を発表しましたが、その発表の席上、97年3月に放送したアニメ番組『YAT安心!宇宙旅行』を見て4人の子どもが気分を悪くしたことについて、「その時点で原因をきちんと検討しておけば、新しい問題は起こらなかったかもしれない。その時点では軽率だった」と釈明し、陳謝しました。
この陳謝はマスコミに好感を持って受け入れられ、その後のNHKと民放連共同の調査をスムーズにスタ—卜させるきっかけとなりました。そしてここに至ってマスコミは、ポケモンの事故が光過敏性発作の集団発生であり、それまでテレビに起因する

[[BOTTOM TEXT, pt 1|
ポケモンアニメ製作責任者として
まずは、この光点滅の放送事故でご迷惑をおかけした方々に改めて深くお詫びを申し上げます。
アニメの通称パカパカと呼ばれる手法は、特に珍しい技術ではなかったという経緯はありますが、700人を越える多数のお子さまを病院に行かなければならない状況を作り出したことについては、心からのお見舞いとお詫びの言葉を申し上げます。
放送休止が決まり、一時は放送打ち切りも覚悟いたしましたが、ファンの方々の「もう一度ピカチュウに逢いたい一」という声援、この気持ちだけに支えられて、翌年4月ー6日に再開することができました。再開を認めた国会
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発症例の報告が日本にはなく、科学的解明も臨床学的研究調査もほとんど行われていなかったに等しいのだと、ようやく事態を正確に把握するようになりました。それは実はテレビというメディアを使用している放送各局の不行き届きでもあったわけで、それを反省し、自戒するメディアも出てくるようになりました。同じ18日には、厚生省が「光感受性発作に関する臨床研究班」を発足させることを決定し、民放連も調査チーム設置を決定しました。19日には、NHKと民放連は共同でガイドラインを策定することで合意。郵政省も「放送と視聴覚機能に関する検討会」の設置を発表しました。
テレビ東京は、今回の事故の当事者として、特に厚い調査体制を敷き、今後のアニメ制作指針策定のため、海外の同種のガイドラインのなかから罰則にまで踏み込んで策定されている、イギリスの独立テレビジョン協会(ITC)のガイドラインに的を絞り、年明け草々にも調査団を派遣するとして準備にとりかかりました。また、イギリスをはじめとするヨーロッパのテレビが、50分の1秒間に1回の光の点滅の繰り返し(50HZ)で映像を送るPAL方式を採用しているのに対して、日本はアメリカと同じ60分の1秒間に1回(60HZ)のNTSC方式なので、アメリカにも同時に調査団を派遣することにしました。
この問題は国会でも取り上げられ、12月24日午前10時から開かれた衆議院逓信委員

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を動かしたのもファンの子供たちとそのお母さんからの電話、FAX'手紙でした。その声援の中には、実際救急車で病院へ行かれた方のもあり、本当に今も感謝の気持ちでいっぱいです。
「ポケットモンスタ—」のア二メ製作チー厶は、二度とこのような事態を引き起こさないよう、絶えず初心に返り、細心の注意を払い映像製作を邁進する所存でございます。今後ともピカチュウを始めとするポケモンたちにあたたかい応援をよろしくお願いします。
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第2章  ブレイク

会に、テレビ東京社長一木豊と専務取締役岡哲男が参考人として出席し、事故の経過と今後の再発防止策について意見を述べました。
2人は翌25日にも参議院逓信委員会で意見を述べています。
この国会での意見陳述の模様はマスコミ各社が大きく取り上げ、ポケモンの知名度と認知度はピークに達しました。この日を境に、もはや日本には、ポケモンを知らない国民はいなくなったといっても過言ではないでしょう。
事故当事者であるテレビ東京は、すべての責任を負いました。『全記録』を読んでいくと、その謙虚な姿勢が際立ちます。ポケモンのアニメの事故は、大きな事故ではありましたし、海外でもトップニュースレベルで取り上げられたりもしましたが、いま再検証してみると、事故後の24時間を除けば、マスコミも世論もヒステリツクにはなりませんでした。
それには、この事故の原因が、ーアニメ番組の問題にとどまらず、テレビ放送というメディア自体が内包する危険性といった、非常に深刻な問題を抱えていたことも、大きな理由だったでしょう。そして同時に、この事故を機に、これが実はテレビ受像機に依存するしかないメディアにとって、その存続にもかかわる問題であるということを率直に受け止めたテレビ東京の姿勢に、マスコミや世論への鎮静効果があったのではないかという気がしてなりません。

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私事ですが、筆者は20年近く前に、当時テレビ東京が設置していた番組内容向上懇 談会のメンバーを1年間務めたことがあります。そのときメンバー間でしばしば話題 になっていたのが、同局の謙虚さでした。その同じ姿勢が、『全記録』を読んでいく とうかがえるのです。被害者へのお見舞いに始まり、ポケモンの放送休止、ポケモン 関係番組・コーナーの放送自粛、当時31局あった全国の系列外テレビ局への放送中止 要請、ビデオレンタル店へのレンタル中止要請、局内調査、外部調査チームの受け入 れ、内部ガイドラインの策定、調査団の派遣、報告、検証番組の制作と放送、アニメ チェッカーの開発と導入。その時点でとれる再発防止策はすべてとったと言えるでし よう。
テレビ東京が模範としたイギリスITCのガイドラインは、当時光過敏性発作の世 界的権威とされたグラハム・F・A・ハーディング教授の30年余にわたる臨床研究の データをもとに作成されたものでした。ハーディング教授は、バーミンガム市にある 国立アストン大学教授で、専門は神経生理学です。テレビ東京イギリス調査チームは、 ITCのほか、BBC、チャンネル4なども調査に訪れていますが、ハーディング教 授の元も訪れて、ポケモンの第38話の分析も依頼しています。 ここで調査団は初めて、イギリスではパトカーに使用されている回転灯までもが、 光過敏性発作を誘発しないような回り方と光り方をするよう作られているのだと知る

第2章  ブレイク

ことになります。イギリスは、光過敏症の分野においては、世界一の先進国だったのです。そしてこれは、年が明けてからの98年3月末のことになりますが、テレビ東京は、事故の検証番組用インタビューの収録も兼ねてハーディング教授を招聘し、局内研修会も実施しました。さらに98年8月には、アニメチエツカーと呼ばれるフリッカ—解析装置を導入し、運用を開始しました。これは映像の光の明滅頻度が危険なレベルにあるかどうかを機械的に分析する装置です。運用開始以後、疑わしい番組についてはすべてこのチエッカーにかけることになっています。
ところで、この事故に関連して、マスコミはテレビ受像機というハードについては何も言及していません。しかし、公平に見れば、この事故について、テレビ受像機のメーカーが少なくとも公式には、テレビ局と共同の調査チームを発足させなかったのは、バランスを失していたという気がしてなりません。これだけの大事故ですから、絶好の機会だったといえるでしょう。
たとえばハード側で安全性を担保するために、室内の明るさや視聴者と受像機の距離を測るセンサーを受像機に内蔵させることは、技術的にそう難しいことではないでしょうし、その室内の明るさとのバランスで、画面の明るさに一定の上限を設定しておくことも可能でしょう。これは、ペースメーカーなどの医療機器への影響を、ユーザーの使用法まかせにしている携帯電話メーカーにも同じことが言えますが、テレビ

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受像機が危険性を内包したハードである、ということがこの事故の当日まで一般的な認識になっていなかったのは、電波の発信側の不行き届きであると同時に、その受信機のハードメーカーの不行き届きでもありました。しかしそれは、家電メーカーから莫大なスポンサー料の支払いを受けているテレビ局側からは、言い出し難いことかもしれません。であれば、家電メーカー側から誘えばすむことです。そこに、受信映像に受像機メーカーが変更を加えることが許されるのかといった、電波の発信側との間の問題が生じるのであれば、共同で研究し、一定の約束を取り交わすこともできます。現在のところ、たとえば1秒間に何回までの色の切り替えやフラッシュなら安全か、あるいは白黒の模様の場合なら何本以下の模様までは、発作が起きる確率が少ないのか、といったガイドラインは、電波の発信側で作成されており、いわば電波の発信側の自主規制で再発が防止されているに過ぎません。
しかしそれでも、テレビ東京の『全記録』によれば、ハーディング氏が提案したすベての基準を守ったとしても、300万人に1人の確率で発作を起こす人がいる可能性は残っているのです。
その意味でも、この事故がポケモンのアニメ番組で起こったことは、こうしたテレビの危険性についての認識を喚起する上では、非常に重要な意味をもっていました。

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NHKの例からもわかるように、こうした事故が発生しても、見ている子どもが少なくて病院に搬送された子どもが4人しかいなかったら、テレビ東京もNHKと同じように、ロをつむいでいたかもしれません。それは他の局にも言えることです。病院に運ばれた約750人の子どもの被害が、この事故のソフトとハード両当事者のうち、ようやく片方のソフト側であるテレビ局を動かしたのだとも言うことができるでしょう。

放送休止

97年12月20日、テレビ東京は、民放連の調査結果が出るまで、という期限付きで、ポケモンの放送を休止すると、正式に発表しました。久保が企画したテレビ東京の朝のキッズ情報ワイドショー『おはスタ』は、すでに10月からスター卜し、番組内「ポケモンコーナー」の人気もあって、子どもたちの登校前の定番番組として定着していましたが、その「ポケモンコーナー」も放送自粛となりました。その他の特別番組、関連番組もすべて放送休止、延期、自粛となり、各紙テレビ欄のテレビ東京およびその系列局のテレビ番組表から、一時期、ポケモンという言葉がすべて消えました。小プロは、ここで再び大きな選択を迫られました。撤退か、賭けに出るか、です。

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12月18日
日刊スポーツ紙
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[[IMAGE CAPTION 2|
「学級王ヤマザキ」
コロコロコミックで人気の学園ギャグまんが。作家は 樫本学ヴさん。
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テレビ東京が再開の手順を内々に検討し始めるのは、98年2月に入ってからのことで、それまではまったく予断を許さない状況が続いていました。もし放送が再開されるのであれば、小プロとしては、現在まで好調に作業を進めてきた制作体制をそのまま維持したいと考えました。
しかしそのためには、休止期間中、テレビ東京からの制作費の支払いがないまま、実制作にかかる費用を支払ってゆかねばなりません。その場合、テレビ東京が放送を打ち切れば、制作した映像はもちろん他に販売できませんし、ビデオ化することもできません。丸々損失になるのです。そして再び、小プロはポケモンに賭けました。放送を休止していた1月から3月末までの3カ月間も、小プロは制作費を支払い続け、OLMなどアニメチームは、ポケモンのアニメを作り続けたのです。この間に小プロが支出した制作費は、1億2000万円以上にのぼりました。97年4月の放送開始前の支出と合わせ、約3億円を小プロはポケモンに先行投資したことになりました。JR企画にとっても、放送枠の維持という意味では同様の事情でしたが、これにはスポンサーの協力が必要でした。ポケモンの再開を望む気持ちはスポンサーグループも同じでしたが、休止期間中もスポンサーであり続けるかどうかは微妙でした。テレビ東京が放送再開を決定しないとスポンサー料は無駄になる可能性があります。JR企画と小プロは放送枠維持のために、スポンサーを説得し続けました。ポケモ

[[BOTTOM TEXT|
「学級王ヤマザキ」のテレビアニメは「おはスタ」の中で月曜から金曜の帯企画として毎日5分放送していました。ポケモンの代替番組として成立させるため、ー週間5本分、約25分の映像をつないで再編集し30分番組として放送できるように対応しました。もちろんポケモンとヤマザキではスポンサーが違うため、玩具会社のバンダイさんを始めとしてヤマザキのスポンサーの方々には無理をお願いしました。改めてここに感謝を申し上げたいと思います。
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[[IMAGE CAPTION|
©樫本学ヴ・小学館・SHO-PRO ・テレビ東京
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第2章  ブレイク

ンの番組が放送休止となれば、まずは代替番組を企画しなければなりません。代替番組があって初めて放送枠は維持できるのです。放送枠が維持できてこそ、ポケモンがいつ帰ってきてもよい状態が準備できるのです。
久保は『おはスタ』内のアニメコーナーで月曜日から金曜日まで毎日放送されていた5分間アニメ『学級王ヤマザキ』を代替番組として考えました。週5回放送しているものを再編集して30分番組として1本にまとめポケモンの枠を埋めるもので、放送業界的にはかなり難易度の高いオペレーションでした。しかし、スポンサー協力を取り付け、放送枠は維持されることになりました。
アニメのポケモンのサトシにその名前を与えた田尻智は、その日、午後8時過ぎまでゲームフリークにいました。会社を出たのがいつだったのか、正確には覚えていません。車で自宅に向かっていました。たまたまラジオのスイツチを入れると、NHK第一放送のニュースが流れていました。
「その場から会社に戻りました。そしたらまだ、会社にいた連中は知りませんでした」
田尻は、この事件を次のように振り返りました。
「非常にショックでした。ショツクでしたし、事故に遭われた方には本当にお気の毒

[[BOTTOM TEXT, pt 1|
12月16日という日
僕の人生にとって、最も重い意味のある日です。この41年の人生が一気に凝縮したような複雑な思いがあります。先ほどファンの方々にはお詫びと感謝を述べましたが、ポケモン関係者の方々にも同じ意味合いの言葉を伝えたいと思います。今僕たちがアニメ映像を製作できるのもこの12月16日があり、4ヶ月後の再開された日があるからで、支えていただいた関係者の方々には今でも感謝しております。

原著作社の方々
放送事故直後、石原さんからもらった電話は今でも忘れてはいません。「ゲー厶フリークさんとも話し合いましたが、今回の件での対応は全て
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と思います。その上で、テレビというメディアの持っている危うさというのかしら、 そういうことも思いますね。ぼくらの世代までは、テレビに近づくなとか言われて育 ったわけですよ。でも今は、テレビのサイズはずっと大きくなったにもかかわらず、 そういうことがほとんどなくなっているんですよ。偶発的なものもあると思うけど、 潜在的にテレビが持っていた問題だし、大人が考えている以上に、テレビが子どもに 影響を与えているんだというようなことを、あまりにも大人が考えなさ過ぎるって思 いますね」
その同じNHKのニュースを、京都で聞いたのが川口でした。川口も午後8時過ぎ に任天堂を出て、車で自宅に向かっていました。
「もう自宅の方が近かったので、とりあえず自宅に帰りました。そして情報を集めよ うとしたんですけど、どこにもまだ情報がないという状態でした」 任天堂は、事故のあった翌日、テレビアニメとゲームとは全然関係がないので、ゲ ームは安全であるし、テレビアニメの事故については、任天堂としては責任を負わな い、という趣旨のコメントを発表しました。
「わたしは当時、広報にはいませんでしたが、任天堂としては、ああいうコメントを 出さざるを得なかったでしょうね。事故に遭われた方に、番組にプロデューサーを出 している会社として申し訳ないと思う気持ちとは別の部分ですね。ただ、ポケモンの

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久保さんに一任します……」 というものだと記憶していま す。いろいろおつしやりたい こともあったでしょうが信頼 していただいたことに本当に 感謝しております。
任天堂さんは翌日、「ゲー 厶とアニメは関係ない」とい う記者会見があり、新聞の文 字しか情報のない僕らには任 天堂さんの真意が分からない 場面がありました。後日、今 西役員や川口さんに丁寧なご 説明を受けたときは本当に有 り難かったです。

 スポンサーの方々とJR企画さんへ
トミーさん、永谷園さん、 明治製菓さん、メディアファ クトリーさん、バンプレスト さんのスポンサー企業の方々 には放送休止期間中多岐に渡
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第2章  ブレイク

ソフトを出している企業として、会社のスタンスとして、アニメの事故というものとソフトであるポケモンを、つまり事故とゲームを同一視してもらっては困るっていう思いはありましたね。あの一事をもって、ポケモンっていう世界が、すべてなし崩し的に崩壊することを一番恐れたわけですよ。そうなったら、ポケモンをこれまで愛してきてくれた子どもたちにも不幸なことではないかと思いましたしね」しかし、これで終わりだと思っていたこともありました。
「特に事故が起きてから1週間とか10日間というのは、もしかしたらポケモンは、これをもって終わりかもしれないと思っていましたね。非常に気分的には、暗い、つらい時期でした」
久保は、事故当夜、『コロコロコミック』編集部にいました。そこに小プロの担当プロデューサー盛から電話がありました。午後8時半頃でした。「テレビ東京の視聴者センタ—に医師から問い合わせの電話が入ってる。ひきつけを起こした子どもが5人運ばれてきて、みんなポケモンを見たって言ってるから、どんな番組だったのか医師が知りたいと言っているという内容でした。そのとき、まだ何が起きたのかはわからなかったんですが、とても大事のような気がしました」久保たちが事態を把握できたのは、各放送局がニュースを配信し始めた午後10時頃になってからのことでした。久保はそれまでに関係者全員に小学館に集まるよう指示

[[BOTTOM TEXT, pt 3|
るお願いをいたしました。快く引き受けていただいた事に心より感謝いたします。特にメディアファクトリーさんにはビデオ対応などで大変なご協力を頂きました。代理店のJR東日本企画さんには番組継続のためのあらゆる努力をしていただきました。ありがとうございました。テレビ東京さんへ様々な事態に対し、非常に真摯に対応していただいたことに感謝しています。特に岩田さんを始めとした映画部の方々には規制づくりなどで大変なご苦労をおかけしました。営業の三澤さん、井澤さんにも様々なバックアップを頂きました。一木社長を代表とする経営陣のかたがたの応援は本当に心強い物がありました。
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し、対応を協議しました。協議の最中にもニュース番組が次々と事故の内容を放送していきます。病院に運ばれた人数も最初は放送される度に多くなっていきました。「ニュースを聞きながら、病院に運ばれた子どもたちとその父兄の方々には本当に申し訳ないと思いました。アニメ放送を楽しみに待っている子どもたちが被害にあったわけですから、制作者としてはまさしく最悪の事態です」久保も、川口と同じように、もしかするとポケモンはこれでこの世から消えてゆくことになるのかもしれないと思いました。
その夜の協議の結果、全対応が久保に一任されました。本来会社は階層社会ですから、このような非常事態時には、往々にして事情に詳しくない上層部が出てくるのですが、小学館と小プロはその意味では賢明な危機管理をしたと言えるでしょう。まず久保が目指したのは、正確な情報の集約化と指示系統の徹底でした。「各放送局はあらゆる関係各所に中継車を出し取材を始めました。そうなると関係者は取材の対応に追われ肝心の対策がおろそかになる可能性が出てきます。さらにいろんな関係者がいろんなことを話すと間違った情報が流れてしまう可能性も否定できません。ぼくらがまずしなければいけなかったことは、病院に運ばれた子どもたちの対応と、ビデオに番組を録画した子どもたちに絶対に見ないで、というメッセージを伝えることでした」

[[BOTTOM TEXT, pt 4|
ここに深謝の意を表したいと存じます。
この文章スペースで全ての方にお礼を述べるのは無理がありそうです。最後に、いろいろな形でお世話になりこの場で書ききれなかった方々と対応を若輩者の僕に一任してくれた小学館と小プロの先輩・後輩に感謝したいと思います。
]]

第2章  ブレイク

久保は、全情報を久保に集約させることとし、制作者としてのプレス対応は小プロメディア事業部テレビ企画部次長だった紀伊高明を唯一の窓口に設定しました。「深夜、おはスタを一緒にやっていた小プロの中沢と一緒にタクシーでテレビ東京へ向かいました。制作局には早刷りと呼ばれる各紙朝刊が届いていましたが、どれをみても1面はポケモンの放送事故でした。ぼくはテレビ東京・森専務の了解を電話で得て、ニュース原稿を自分で手直ししました。ビデオを見てはいけないというメッセージだけは何としても家庭に伝えたかったんです」紀伊は現在、2000年に新設された小プロ・メディア事業部ポケモンルーム部長代理を務めています。
石原は都内で食事をしていました。そこに久保から電話が入りました。
「わけのわかんない事態でたくさん電話がかかってきてますって言われて、ぼくもわけわかんないんですけど、えらいこっちやっていうんで、会社に戻りました」しかし、会社に戻っても、なにかがわかったわけではありませんでした。「被害に遭われた子どもたちに、心からすみませんっていう気持ちでいっぱいになつたのと同時に、どうしてこんなことになったのか、と思いました。テレビの持つ機能的な危険性とか、危険回避の技術の不足を痛感しました。これまで映像にこだわってきたわけで、決してその可能性を知らなかったわけではないんですが、認識が不足し

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ていました。あれだけの事故ですから、ポケモンの放送が続くとは考え難い状態でした」
テレビ東京の井澤は、事故の後、久保から問い合わせの電話を受けました。「帰宅する電車の中で、久保さんから、なにか起きたらしいんですけどっていう電話をもらったんです。でも、ぼくもなにも知らないんですよ。すぐに自宅に電話をして、子どもに聞いたんです、どうだったって。毎回見てますからね。そうしたら、なにが? とか言ってるんですよ。それで、ビデオをとってるのを確認して、帰って見たんです。ええ、子どもは毎回録画して、繰り返し見ているんですよ」井澤は、こうした事故に際して、マスコミが取材対象とする部署にはいませんでした。その代わり、営業担当者として、番組のスポンサーとの関係を調整する役割がありました。井澤は小プロ、JR企画と一緒にスポンサーを1社1社歩いて回りました。「お詫びと事情説明ですね。事情を説明すると、スポンサーの皆さんにはご理解いただけました。そして、再開はいつになるのか、ということを聞かれました。ええ、スポンサーはみんな、放送再開を望んでいました」アニメのポケモンのテレビ東京側の担当プロデューサー岩田も、電車で自宅に向かっているときに、電話を受けました。下車駅が近づいた午後8時頃でした。「局の視聴者センターから電話があったんですよ。ある病院から問い合わせがあった

第2章  ブレイク

っていう。それで電車降りるとすぐ、駅のホームから小プロのプロデューサーの盛さ んに電話を入れて、その日のポケモンでなんか気になったことない?て聞いたんで す。ぼくには全然思いあたらなかったんですよ。それにそのときはまだ、子どもが倒 れたこととポケモンの因果関係もわかりませんでした。盛さんもまだなにも知りませ んでしたね。自宅に帰ってから、すぐに視聴者センタ—に問い合わせてきた医師に電 話をかけて、どんな症状なのか、おうかがいしました。子どもでポケモンをみていな い子はいないというような状態でしたから、運ばれてきた5人の子ども全員が、たま たまポケモンを見ていたとしても、だからポケモンが原因だとは、まだ言い切れない んじやないかって思っていました」
岩田はこの後、午前1時頃に再び局に出勤し、局の担当プロデューサーとして原因 究明に当たりました。岩田は子どもたちを診察した医師と直接話をしていたので、局 内では比較的早く事態を理解した1人でした。その後岩田は、局内調査チームに加わ ることになります。
アニメ総監督の湯山は、その日、編集スタジオで編集作業をしていました。知った のは午後9時頃、帰宅してからでした。
「火曜日の放送時間は、毎週編集の時間だったんです。編集してる間は、まったくな にも知りませんでした。帰ってからOLMのスタッフから電話が入って、なんか起き

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てるって教えられたんです。でも、NHKのニュースで、ポケモン見てて倒れた子どもがいるようだって言ってたということの他には、なにも情報はないんですよ。それで、とにかくテレビを見ようっていうことになって、ニュースステーションを見たんです」
マスコミへの対応は、小プロの紀伊がすべて受けたので、湯山のところに取材が入るということはありませんでした。しかし原因がわかるまで、湯山も不安な時間を過ごしました。
「ショツクでしたね。茫然自失みたいな状態で。原因がわからないわけですからね。映像表現に問題があるとしても、それがどの映像に問題があったのかわからないんですよ。特に最初の頃は、報道が、『ピカチュウ、子どもたちを襲う!』的な扱いでしたからね。そういう記事を読むと、読んだ子どももまた傷つくじゃないですか」そして湯山もまた、アニメのポケモンの行方には不安を抱いていました。
「ええ、中止になる可能性も大きいと思っていました。というより、再開の可能性について、まったくわかりませんでしたね」
OLMのアニメプロデューサー神田は、地下鉄を降りて地上に上がったとたんに入ってきた電話で知りました。やはり午後9時頃でした。
「奥野からだったかな。それからは電話を切ると次の電話が入るって状態で、そこに

第2章  ブレイク

30分以上釘付け状態でした。それで家に帰ってニュースステーションを見たんです」神田は、OLMの共同経営者の1人として、責任を痛感していました。「原因はやっぱりはじめはわからなかったんですが、一番ショツクだったことは、子どもにそういうことが起きてしまったということですね。子どもに喜んでもらおうとか楽しんでもらおうと思って作っていたのに、そういう症状が出てしまったっていうことは、責任問題以前にとてもショックでした。みんなそうだったと思います」
独立プロデューサー吉川は、その日、自宅で仕事をしていました。
「たまたまあの日は、自宅で本編の放送そのものを見たんですよ。見ましたが、何も気づかないで、仕事してたんです。そうしたら、小プロの盛さんから電話が入って、テレビを見てくれって言われたのでテレビをつけたら、大事になっていたんです。わたしは、アフレコから何度も見てきているわけだし、その日は本編も見ているんです。だから余計にわけがわかんないんですよ。テレビ見てると、注射だとか、アレルギー反応だとか、わけのわかんないことがどんどん出てくるんですよ。でもその原因が、まったくわからないんです。だから、非常に不安な時間を過ごしました」
しかし、詳しい事情はわからないまでも、重大な事態だということは理解できます。そして、いよいよ自分の役目を果たすときがきたと考え、久保に電話を入れました。「久保さんに電話を入れて、覚悟はできてますって言いました。本当になにか事故が

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12月19日
「日刊スポーツ」
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起きたときの責任者だって、自分では思っていましたから。だからかみさんにもそのとき、すまん仕事がちよつとなくなるって言いました。電話したら久保さんが、半年間楽しかったね、なんて言うんです。やっぱりそうかあって思ってたんですけどね」久保も、吉川からの電話を覚えていました。
「ニュースが流れるたびに事態は単に番組とかというレベルの話じやないことがわかってきました。テレビ局とか、厚生省とか、国会というレベルでないと解決できないことは理解できました。もしアニメ番組が低調ならば、吉川さんには責任はとってもらうかもと話はしましたが、事態はもう、ープロデューサーが責任をとるとかという問題じやあなくなりました」

事故の決着

テレビ東京は、事故当日から翌98年1月30日までの間に、テレビ東京視聴者センターに寄せられた視聴者の意見を集計しています。それによると、寄せられた意見3076件のうち、「ポケモンの放送を続けて欲しい」というものが2223件、今後の放送予定についての問い合わせが220件、「ポケモンの放送をやめて欲しい」というものが47件、その他が586件でした。

第2章  ブレイク

98年2月26日、定例記者会見で、テレビ東京社長一木豊は、「ポケモンの放送再開は、民放連のガイドラインが策定されるのを待って行う」と発言し、初めてポケモンの放送再開に言及しました。また同席した専務岡は、「すでに民放連に対し、イギリスITCの基準よりもさらに厳しい独自のガイドラインを策定し、提出した」と発表しました。これは、2月13日に民放連アニメ特別部会に提出した「アニメ製作暫定ガイドライン」を指しています。
さらに3月30日の定例記者会見では、間もなく民放連のガイドラインが発表される見込みになったことを受けて、「ポケモン再開は早ければ4月16日から」になること、再開に先だって、検証番組を放送することを発表しました。このころの任天堂の考え方について、川口はこう話しています。「放送を再開するために必要な条件はなにかって考えたとき、やっぱり、われわれ制作者サイドだけで、もう大丈夫ですよ、みたいなことでやるわけにはいかないですよね。きちんとした形式を整えて社会的なコンセンサスを得られるまでは、再開しないという方針でした」
4月3日には、厚生省研究班が、ポケモンのアニメによる子どもたちの体調異常は、赤、青色の光刺激が原因という報告書をまとめました。ようやく国としての調査結果が出されたのです。川口の言う「きちんとした形式と社会的コンセンサス」が整い、

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98年1月18日
「スポーツ報知」
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ポケモン放送再開は仕上げの段階に入りました。
4月8日に、民放連とNHKは、映像や光の点滅、特に鮮やかな赤の点滅などを制限した放送界共通のガイドラインを発表しました。その翌日、テレビ東京の社長一木と専務岡は再び衆議院逓信委員会に参考人として出席し、事件発生後の対応や、テレビ東京独自のガイドラインの内容について、公式に表明しました。その日の午後、テレビ東京は、最終的な「アニメ番組制作ガイドライン」をマスコミに公表しました。翌4月10日はテレビ東京開局34周年記念式典でした。式典の冒頭、社長一木は、「ポケモン再会に向けて、全社一丸となって難局を乗り越えることができた」と挨拶し、ここにポケモンのアニメ番組に起因した事故は、一応の決着を見たのでした。「アニメ『ポケットモンスタ—』問題検証報告」と題された検証番組は、4月11日土曜日、午後1時から55分間放送されました。
アニメ番組『ポケットモンスタ—』はちょうど4カ月の休止期間を挟んで、4月16日木曜日、午後7時から1時間スペシャルとして放送されました。視聴率は、16・2%でした。
アニメの休止によっても、『ポケットモンスタ—』の人気は一向に衰えていませんでした。いえ、逆に高まったといってもいいでしょう。4カ月間のアニメの休止が、

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98年3月31日
「日刊スポーツ」
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[[NEWSPAPER HEADINGS|
ピカチュウ
テレ東ポケモン4月16日再開
ただいま。
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第2章  ブレイク

結果として子どもたちの間にある種の飢餓感を形成していたのかもしれません。放送休止中も、事故直後の97年クリスマス商戦におけるポケモングッズの売り上げは、玩具の中ではトップでしたが、年が明けても人気は持続していました。ポケモンファンは離れなかったのです。そして放送事故という大きな問題は、放送業界の大きな教訓となりました。そして、ポケモンは再び走り始めました。「国会の審議を通過して放送再開が確固たるものとなったとき、ものすごい脱力感におそわれました。ホツとしたと同時に結局みんな、ピカチュウに会いたかったんだって思いました。ピカチュウがとっても頼もしく見えましたね。再開第1話は、ピカチユウたちがいっぱい出てくる『ピカチュウの森』というお話なんですが、それを見ていて本当に感動しましたね」(久保)
再開されたテレビアニメの主題歌は、新たにレコーディングされた『めざせポケモンマスター98』になりました。97年に使用された主題歌『めざせポケモンマスター』は、97年6月にCDシングルで発売され、180万枚超の大ヒットになっていました。新しいバージョンの『めざせポケモンマスタ—98』は、アルバム『ポケットモンスターサウンドピクチャーボックス・ミュウツーの誕生』と『みんなで選んだポケモンソング・ポケモンベストコレクション』に収録されています。

[[IMAGE CAPTION 1|
シングルCD
「めざせ! ポケモンマスター」
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「スーパーマリオブラザーズ」
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[[IMAGE CAPTION 3|
©1990 Nintendo
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ゲームソフト『ポケットモンスタ—』の売り上げも、実は持続していました。97年のアニメ放送開始後半年間のゲームソフト『ポケットモンスタ—』の販売本数は、ア二メ放送が始まるまでの1年あまりの間に販売された350万本を超える378万本を記録し、8月にはゲームソフトのポケモンの累計販売本数はついに、あの『スーパーマリオブラザーズ』の累計販売本数を追い越してしまいました。ポケモンはゲームソフトとして、田尻が「ゲーム界の兄」として畏敬する宮本のマリオと肩を並べたのです。その後もクリスマス商戦を勝ちあがり、放送再開直前の98年3月までに、累計1000万本を突破しました。
ポケモンがあまりにも劇的にブレイクしたために、当時はあまり注目されなかったようですが、ポケモンのゲームをプレイするハードであるゲームボーイの販売台数も伸びました。96年7月に発売されていたゲームボーイポケツトおよびアニメ放送開始後の97年4月に発売されたゲームボーイライトの売れ行きは事故後も衰えず、ゲームボーイ全体では、97年度の年間販売台数は対前年比55%増の1102万台に達し、年間販売台数が発売以来初めて1000万台の大台に乗りました。 (数字は全世界)
96年度もポケモン効果から対前年比70%増の709万台のゲームボーイが売れていますが、2年目に入ってもその勢いは続いたのです。発売後8年も経過したゲーム機が、その8年目にして過去最大の販売台数を記録したのです。業績好調を反映して、

第2章  ブレイク

任天堂は同年11月13日、上半期の売上高は前年同期比56%増の2030億円、同じく経常利益も64%増の491億円となったと発表し、同時に97年度売上高・経常利益ともに、6月に発表した見込みを大きく上方修正することになりました。ゲームボーイの売れ行きは、これ以後止まっていません。いないどころか、年々年間販売台数記録を更新しつづけました。翌98年度の年間販売台数はさらに伸びて1356万台。99年度にはポケモンが海外進出を果たしたこともあって、なんと2067万台にも及んでいます。そして2000年6月に、全世界での累計販売台数1億台というレコードを打ち立てるのです。しかし、その累計の数字の巨大さは巨大さとして、それよりもその累計販売台数の2分の1以上にあたる5200万台が、ポケモンが登場した96年以降の販売台数だということの方がむしろ驚きです。
そしてそのうちの4500万台が、ポケモンのアニメーション以降に売れているのです。ハードとソフトとメディアの絶妙の連携プレーとも言えますし、現代風に言うなら、これこそコンテンツビジネスの一つの理想形と言うこともできるでしょう。売れただけではありません。ポケモンは社会的にも評価されました。ゲームソフトのポケモンは、97年のゲームソフトを対象とした主要な賞を総なめにしました。第5回日本ソフトウェア大賞を皮切りに、CESA大賞、朝日デジタルエンタ—ティンメント大賞、それに小学館のトレンドマガジン『DIME』が出しているダイムトレン

[[IMAGE CAPTION 1|
富山幹太郎さん
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[[IMAGE CAPTION 2|
株式会社トミー代表取締役兼最高経営責任者。1954年1月22日生まれ。82年英国八ル大学卒業後、トミー工業株式会社(現・株式会社トミー)に入社。86年より現職。2000年、社名ロゴを赤字の丸いタイプから青字のシャープなものにCーを変更した。新キヤッチは「DreamEnergy」。
]]

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ド商品大賞と続きました。98年には、日経優秀製品最優秀賞と、日経流通新聞賞も受賞しています。日本ソフトウェア大賞は、原作者のうち田尻と石原にとっては初の、任天堂にとっては96年の『スーパーマリオ64』に続く2年連続の大賞受賞でした。ポケモンカードゲームの売れ行きも飛躍的に伸びました。アニメ放送が開始されるまで1カ月あたり1631万枚(年間平均)だった製造枚数が、アニメ放送開始後、一気に4158万枚(年間平均)に跳ね上がったのです。97年度のトータルは4億9900万枚です。
朝のキッズ情報ワイドショー『おはスタ』は、番組内に設けた「ポケモンコーナー」の人気とともに、たちまち子どもたちの登校前の定番番組に定着しました。ポケモングッズのライセンス申請も急激に増加しました。その件数は1週あたり平均して150件に上り、年間ではおよそ7500件に達しました。もっとも、そのうちライセンスが与えられたのは、20分の1ほどに過ぎないのですが。ポケモングッズでは、97年度は玩具のトミーの年でした。トミーの代表取締役社長富山幹大郎は年頭に「ポケモン100億円構想」を発表し、ポケモングッズを年内に100億円売り上げると宣言しました。業界には「トミーの大風呂敷」という見方もあったようですが、その目標は10月までにあっけなく達成されてしまいました。てのひらサイズのフィギュア「てのひらピカチュウ」(1280円/税抜き)が220万

[[IMAGE CAPTION 1|
「てのひらピカチュウ」
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[[IMAGE CAPTION 2|
「ピカチュウ1/1」
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第2章  ブレイク

個、ぬいぐるみのピカチュウ1/1(6800円/税抜き)が40万体という大ヒットとなり、この二つだけで目標額の6割を稼ぎ出してしまいました。トミーの98年3月期の売上高は、対前期比70%超の伸びを示し、574億円にもなりました。トミーのポケモン商品の人気はそれ以後もいまに至るまで続いており、2000年3月期には連結決算でともに過去最高となる売上高968億円、経常利益78億6000万円と発表しました。「トミーの増収増益はファービーとポケモンのおかげ」と報じる新聞もありましたが、ファービーの売り上げ80億円に対して、ポケモンは4年目のこの年も、ポケモン商品全体で前年より45億円多い289億円を売り上げています。食品では永谷園がポケモンブームに乗りました。ビーフ&コーンとソーセージ&コーンの2種類のポケモンカレー(レトルト)、オカカとサケの同じく2種類のポケモンふりかけは、発売後半年間の売り上げがそれぞれ10億円を突破し、永谷園は中間決算で同年度の売り上げと利益の見込みを上方修正しました。ポケモンふりかけは同年の食品ヒット大賞を受賞しています。
イベントでもポケモンはその動員力を見せつけました。8月9日から17日までの9日間にわたって、『コロコロコミック』の企画提案で、ポケモンスタンプラリーというイベントが、JR東日本の主催開催されました。首都圏に30駅を設定し、規定数以上の駅のスタンプを集めてゴールのへ行くと、ポケモンカードがもらえるイベントで

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「ポケモンカレー」
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「ポケモンふりかけ」
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した。架空の「カントー」地方を、町から町へと旅しながらポケモンを集めてゆくゲ—ムの設定を、現実の関東地方に引き写したのです。参加費用は、ガイドブックに切符がセットされて大人2000円、子ども1100円。終わってみれば、参加者は
JR東日本の予想を大きく上回り10万人を超えていました。日本最大のスタンプラリーです。
このイベントの特徴は、短期間にこれだけの動員がありながら、まったく誰の邪魔にもならないイベントだったことでしょう。期間中、山手線や中央線の電車には、キヤップにリユツクにピカチュウTシャツという姿の親子連れが大量に出現しましたが、微笑ましい光景でしかありません。長蛇の列で通行の妨げになるのでもなく、騒音もなく、親が子どもを参加させる上での死角もないイベントでした。かえって、自分たちの住むエリアの再発見につながったとか、親子の対話のきっかけになった、あるいは安価な費用でミニ旅行が楽しめたというサンキューレタ—がJR東日本に寄せられたのです。子どもたちの大気を底支えする親からの支持は、ゲームやアニメの内容からだけでなく、こうしたところからも形成されていったのです。ポケモンスタンプラリーは、以来毎年開催され、アニメ再開後の98年夏には、参加方法をより簡易にし実施しました。2000年度は山手線の一編成がまるまるポケモン映画の宣伝という『アドトレイン』も登場し、JR東日本、JR西日本とポケモン

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「ポケモンスタンプラリー97」
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[[IMAGE CAPTION 2|
ポケモンスタンプラリー99」
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[[IMAGE CAPTION 3|
山手線のアドトレイン
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第2章  ブレイク

の関係はより強固なものになっていきました。ポケモンを卒業してゆく子どもたちもいれば、新たにポケモン世代に上がってきた子どもたちもいるわけで、これらのイベントは、キャラクター制作側からすれば、そういう子どもたちのオリエンテーリング・イベントとして大きな意味がありました。
98年のアニメ再開後は他にもさまざまな企画が展開されました。4月25日には、ポケモンユーザーの子どもたちの親をタ—ゲットにしたポケモングッズ専門店ポケモンセンタートウキョーが、東京都日本橋に開店しました。7月には、機体にピカチュウをメインにポケモンをペイントしたANAのポケモンジエツトが就航し、ANAオリジナルポケモングッズの機内販売が始まりました。
しかし、98年の目玉は、なんと言ってもポケモンの映画化でした。企画はすでに96年にあり、97年のアニメスタート直後から、具体的な制作に向けての動きが始まっていました。映画化の企画を提案したのは、これも小学館『コロコロコミック』編集部の久保でした。97年4月15日付で任天堂宛に提出された「ポケットモンスター97・4〜98・7企画展開のご提案」と題された企画書は、ポケモンのコミックが『コロコロコミツク』だけでなく、学年別学習誌にも拡大連載されるようになったのを反映して、『コロコロコミック』、学年誌、少女向けコミック誌『ちやお』の連名となっています。学年誌へのポケモンの連載は各誌に好影響を与え、発行部数を軒並み1・5倍から2

[[IMAGE CAPTION 1|
ポケモンセンター卜ーキョー
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[[IMAGE CAPTION 2|
ANA
ポケモンジエツト
]]

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倍近くに伸ばしていました。
この企画書も、やはり「まずは、日本ソフトウェア大賞受賞おめでとうございます」という書き出しで始まっています。いまではもう、この一文を眼にするだけで企画書の執筆者が誰なのか、関係者なら誰にでもわかるようになっていました。この企画書は、①ポケモンスタンプラリー、②次世代ワールドホビーフェア・ドームスペシャル、そして③98年公開映画『ポケットモンスタ—』の三つの企画を提案するものでした。このうち①は97年の第1回目のスタンプラリーの企画で、②のドームスペシャルは、97年12月から98年2月にかけて、福岡ドーム、札幌ドーム、幕張メツセ、大阪ドーム、名古屋ドームと、幕張を除いて全国のドーム球場で次々に次世代ワールドホビーフェアを開催したいという企画でした。これは、ミニ四駆、ポケモンの成功によって、それ以前は東京、大阪、福岡の3カ所開催だった『コロコロコミック』のイベントを全国に拡大展開することになったもので、任天堂にも出展を求めていました。目玉企画として98年中に発売が予定されていた『ポケモン2』(仮称)、幻のポケモン『ミュウ』のプレゼントや、ポケモングッズを集めたポケモンワールド、ミニ四駆ドームスペシャル大会、ビーダマン新春ビーダー選手権、フットサルドラゴンカップ大会などが挙げられています。このイベントは、テレビ事故とは直接的な関係がなかったので予定通り開催されました。

[[IMAGE CAPTION|
次世代ワールドホビーフェア・卜ームツアー
]]

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第2章  ブレイク

そして映画ですが、この企画書の中で、久保は次のように書いています。「この6月から製作に着手できれば、テレビシリーズでは不可能なレベルの高い作品が作れます。作品的には『ポケモン2』(現在の金銀バージョンのこと)を基本に考えます」
制作は、『ドラえもん』や『爆走兄弟レッツ&ゴー』と同じ、出資会社による委員会方式とすること、出資総額3億円、全国100館以上のブッキング、興行収入8億円に採算分岐点を置くこと、対象は小中学生男女を核とするファミリーとすることなどを提案しています。
この映画が、国内の興行収入86億円、海外の興行収入194億円(現在も増加中)を記録し、国内と海外を合わせて日本映画歴代興行収入第1位に輝く『ポケットモンスタ—ミューツーの逆襲』『ピカチュウのなつやすみ』(同時上映)なのですが、実は映画の成立は事故によるアニメ休止と深い関係がありました。アニメの事故が発生したとき、すでに映画制作は絵コンテの段階まで進んでいました。映画の話とテレビシリーズの話は絶妙にリンクするように作られていましたから、テレビシリーズが休止となると映画はストーリーの根底から見直しが必要となります。12月16日の事故後、間もなく年末年始の休みに入り、すべての制作作業は一時中断しました。しかし、事故原因がほぼ特定できた段階で、まず映画、ついで1月半ばに

[[IMAGE CAPTION|
劇場版ポケットモン スター第1弾記者会 見用パンフレット
]]

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はテレビアニメについても制作再開することになりました。
「透過光効果を使わないシーンを中心に制作を再開させました。実質、制作は止まらなかったと言えると思います。いったん制作を止めてスタッフを解散させるとせっかく集めた優秀なスタッフが帰ってくるかどうかわかりません。映画を作ることが決定していたこともあり、制作継続は必至でしたが、国会審議がどう出るかわからない状態でしたから、これははっきり言って賭けでしたね」(久保)制作再開後のポケモンの制作進行は余裕を持って慎重に進められました。その結果、本来であれば、別にスタッフを集めなければならなかった劇場用アニメーションの制作に、テレビアニメの主力スタッフを回す余裕も生まれたのです。国会審議が通過するまで制作作業をストップしていたのでは、通過したとたんに制作が本格化し、短期間にいわゆるバタバタで制作しなければならなくなるかもしれませんでした。もちろん、いつ再開されるかわからない状態で、しかもお蔵入りになる可能性まであるという、先行きの不透明な、不安な状況ではあったのですが、アニメ制作という点では、放送事故によって生まれた時間の中で、スタッフ1人1人を初心に戻し、ていねいな制作が可能になるという副次的な効果があったのです。
ポケモンがゲームといわず、カードといわず、アニメといわずヒットしている状況

[[IMAGE CAPTION 1|
「ミュウツーの逆襲」の1シーン
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[[IMAGE CAPTION 2|
©Nintendo・CREATURES・GAMEFREAK・TV TOKYO・SHO-PRO・JR KIKAKU
©ピカチュウプロジェクト98
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第2章  ブレイク

から、アニメ再開後は、映画のヒットはある程度予想されていました。それでも配給収入42億円とは、配給した東宝を含めて、誰にも予想できませんでした。出資額から単純に換算すると、出資金が短期間に14倍になって戻ってきた計算になります。98年夏の劇場版『ポケットモンスタ—ミュウツーの逆襲』のヒット以後、ようやく社会は、ポケモンが実はただの流行りものなどではなく、かって日本には存在しなかった種類のキャラクタ—ビジネスの展開であることに気づき始めるのです。

版権会議

ポケモンという言葉は、それまでも多義性をもっていましたが、98年の映画の成功後は、かえってビジネスという意味合いを強めてシンプルになりました。ゲーム、出版、テレビ、映画、そして多様な商品アイテムと、あまりにもメディアの種類が広がりすぎて、全体を包み込める概念がビジネスしかなくなつたのです。このビジネス展開を支えたのが、版権会議でした。小プロが任天堂からライセンスを受け、ポケモンに関する版権窓口リライセンス業務を引き受けるようになつた97年4月から、石原のクリーチャーズ大会議室で毎週火曜日に開かれてきた、ライセンス許諾会議です。

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宮川鑛一さん
]]
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テレビ東京常務取締役・事業局、ソフト契約局担当。1941年12月7日生まれ。
東京都出身。64年テレビ東京へ入社。入社後制作畑を歩いてきたため、芸能、演劇面のパイプが多い。
]]

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小プロからの話を聞いて『コロコロコミック』を読み、「これは面白いぞ」と、部下に企画受け入れを指示したのは、当時テレビ東京編成局長で、現在同常務取締役の宮川鑛一です。宮川がいま担当している中心業務は、局が持つ映像資産をビデオ化して販売するソフトライツで、もちろんポケモンも含まれていますが、その宮川は版権会議についてこう話しています。
「ポケモンの成功は、あの石原さんが主催している版権会議の賜物でしょう。毎週火曜日にやっている、あの会議。あの会議はとても賢明ですね。さまざまなものが、あの会議の恩恵を受けていますよ」
版権会議は、アニメの制作会議と同じ趣旨で設置されたものです。小プロが持っているライセンスの範囲における、最高意思決定機関です。ですから、カードゲーム携帯用液晶技術については、ここでは検討されません。
ポケモンのライセンスを使用して商品を作ろうとするものは、たとえばイベントや出版物なら企画書を、商品ならサンプルを作成して、小プロに送ります。小プロはそれを整理して版権会議に運び込み、検討を加えるという手順になります。その結論は、小プロを通じて企画書やサンプル提出者に伝えられます。結論には3種類あります。イエスとノーと修整サンプルの提出を求めるというものです。
会議のメンバーは、原作者グループの任天堂、クリーチャーズ、ゲームフリークに、

[[BOTTOM TEXT|
ネット上での会議
版権会議とは違い、ポケモンの関係者だけがログインできる(利用できる)ネット上の会議室がポケモンにはあります。
石原さんの発案で、関係者があまりにも忙しくなり、頻繁に会合できなくなってきたことの対策として、この会議室が作られました。
当初は原稿チェックの確認、素材の受け渡しなどを連絡しあう現場感覚の強いものでしたが、現在では海外も含め様々なポケモンマタ—が話し合われ連絡されています
]]

第2章  ブレイク

アニメ化によって権利者に加わることになった小プロ、テレビ東京、JR企画の3社を加えた6社です。各社複数で出席することが多いため、総勢十数人の会議になります。進行は小プロが務めます。
議題は、日本国内のイベント展開や基本方針の決定、小学館の出版企画の検討、国内の商品化申請の検討の3種類ですが、商品化企画はアイテム数が多く、その一つひとつのサンプルについて検討を加えるため、相当な時間がかかることになります。版権会議設置当初は、石原の他、川口や田尻も参加することがありました。田尻は、その頃のことをこう話しています。
「あれは、ポケモンに関してなにかやりたいっていう人に対して、やらせるかやらせないかを検討するわけです。でも、そうそう、これはポケモンにぴったりだというものばかりはないわけですから、やらせないって言わなくちやいけないことも多いんです。これがエネルギーを必要とする作業でした」
それも無理はありません。会議には、全国の各種メーカーから小プロに送られてきたサンプル商品が、一つずつ提出されるのです。当時検討していた件数は毎週150件前後でしたから、1件の検討に2分かければたちまち5時間、1分でも2時間半もかかるのです。しかも、件数は増える傾向にあり、その結果、会議は回を追うごとに時間が延びてゆきました。やがて田尻や川口は、その判断を石原に一任しましたから、

[[BOTTOM TEXT, pt 1|
版権会議
毎週火曜日、午後半日を費やしておこなわれる版権会議は、本当にしんどい仕事だと思います。
それは基本的に「NO!」といわなければならない仕事だからです。ポケモンライセンシーからするとせっかく獲得したポケモンの権利です。なんとか早く商品を出してスポンサー費などをリクープしたいと考えるのは当然です。作ろうとする商品は売れてほしい。でも、早く安くも作りたいというはやる気持ちがあることもあたり前です。そういう傾向に対し、きちんとライセンシーに正対して「その商品企画はNOです一」と言うのは、嫌われることはあっても報われることのない仕事です。「ポケモンを守っ
]]

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版権会議開始以来、日程を変更することはあっても、休まず申請商品サンプルを眺め つづけてきたのは、石原だけなのです。とは言っても、小プロは版権会議メンバーに は必ず誰かが会議に出席するよう求めていますから、権利者全社からスタッフが出席 しています。もちろん彼らも、自由に発言してよいのです。しかし、石原のディレク ションには定評があります。石原が「うん」といった商品で、それは実はだめだった ということはこれまでありません。これまで世に出たポケモン商品のすべてを、石原 は製品化の際、手にとって見ているのです。
会議を避けた田尻の判断は正しかったといえるでしょう。この版権会議は、いまも 毎週開かれていますが、世界がマーケットとなったいまは、検討議題は数倍、検討ア イテムは、なんと毎週400アイテムを超えることも珍しくないのです。午後1時に 会議は始まりますが、6時になっても7時になっても終わらないということが珍しく ありません。しかし石原は、最後まで残って、商品を一つずつ丁寧に検討し、一つず つ判断を加えているのです。世界のポケモン関連商品のクオリティは、この版権会議、 ひいては石原のディレクションで守られているといっても過言ではありません。 石原と久保への取材がぐっと増えるのも、この98年からのことでした。その見出し を幾つか拾ってみましょう。

[[BOTTOM TEXT, pt 2|
ていきたいーポケモン商品 のクオリティを高い次元をキ ープしたい一」というモチベ ーションだけが頼りの仕事な のです。その上、判断される ライセンシーからは年間を通 して公平で平均的な判断を求 められます。
はっきり言って、そんな仕 事は僕にできません。発足当 時はむしろ出席しちやいけな いのかなとも思っていました。 その理由は、僕自身の肩書き にあります。ぼくは、実際は ライセンシーである小学館の 社員です。ライセンシーがラ イセンサーの会議に出ること はやっぱりおかしい。 版権会議は石原さんを中心 とした方々の仕事です。喩え 僕の出した企画が、会議で 「N0!」と言われようとも、 ぼくがおこることはないでし
]]

第2章  ブレイク

「脚光浴びるキャラクター版権ビジネス」 (日経新聞)
「ポケモンの仕掛け人、世界を視野に、キャラクター発信」 (東京新聞)
「キャラクター、世界へ〜使用権おさえ多メディア展開」 (日経産業新聞)
「キャラクター大国への道」 (日経トレンディ)
「4000億円怪物市場『ポケモンビジネス』の秘密」 (週刊ポスト)
数え上げればきりがありません。
しかし、国内マスコミがこうした見方をし始めたとき、石原も久保も、もう次のー歩を踏み出していました。ポケモンは、なにかが始まったときには、必ずすでに次のなにかがどこかで始まっているのです。アメリカ進出もそうでした。ポケモンのアメリカ進出の準備は、実はテレビアニメの事故があったとき、すでに始まっていたのです。

[[BOTTOM TEXT, pt 3|
よう。石原さんたちに敬意を表していることは変わらないからです。
]]

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