Magic of Pokemon/p102

From Poké Sources
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ば、ポケモンは、自分の中に息づいてい る、なまの、手つかずの「自然」に触れる ことができたような快感を子どもに与えた ということになるらしい。多様なモンスタ ーたちの背後には(十九世紀の社会学者コ ントの言う)「森の神」がいて、通信ケー ブルを使って行なわれる「交換」は、(人 類学で言う)「贈与の霊」ということだそ うだ。コジツケじやないかという気もしな いではないものの、このあたりのレトリッ クは中沢新一氏ならではのものであり、な かなかに「神秘的」である。ついでに言っ ておけば、それゆえにいかがわしい。
ゼビウス論の頃は、ゲームキッズはバグ とー戯れ」ていたはずだったが、今時の子 どもは「野生」と「戯れ」ているというこ とか。オウムの後はポケモン。時代は変わ れば、言説も変わるものだ。
しかし、とりあえず、そんなことはどう だっていい。問題は、中沢新一氏が、今回 の事件をどう捉えているのか、ということ に尽きる。これに関しては、中沢新一氏のコメントが何もないため、何とも言えない が、今回の事件はさしずめ、「野生」の逆 襲といったところだろうか。あるいは、評 論家の大塚英志氏の「『ポケモン』のカの 背景には、アニメの原作となったゲームの 作り手の力が作用しているはずである。だ から、敢えて記すが、『ポケモン』の作り 手たちは、今日の事故が起きたことは不幸 だったのかもしれないが、その上で、自ら の作ったものを『誇る』べきだ、と思う」 (『創』九八年三月号「『ポケモン』事件とTV 神話の崩壊」)というコメントと似たような 捉え方をしているのかもしれない。 子どもたちが倒れたことを「誇れ」と言 う大塚英志氏のもの言いも相当なものだと 思うが、中沢新一氏にトンデモ言説を期待 する向きにとっては、「パカパカに耐える のはチベット密教の修行の一種だ」とでも 言ってほしいところではある。とはいえい ざ中沢新一氏が今回の事件にコメントを発 表するとなれば、見事な「器用仕事」(ブ リコラージュ)ぶりを見せてくれるに違いない。
前述した苫米地英人氏は、インタビュー の中で、「中沢新一さんがポケモンの本を 去年あたり書いたでしょ、あの人はすごい なと思うわけ。社会では批判的に、オウム に近いからって言ってる人が多いけど、そ ういう意味じやなく。つまりオウムに目を 付けた人がポケモンに注目したというのは 鋭いなと思う。良い意味で」と言ってい る。たしかに、着眼点は鋭いとは思う。い や、何もポケモンとオウムを同列に扱いた いわけではない。しかし、中沢新一氏の注 目するものには「何か」が起きることが多 いようだ。まったくもって「鋭い」。ある 種の「嗅覚」があるとしか思えない。この 意味では、中沢新一氏は「野生の思考」を 持ち続けているモンスタ—と言ってもいい だろう。ちなみに、モンスタ—の語源は、 「注意する、警告する」という意味をもつ ラテン語の「モンストルム」だそうであ る。そう、苫米地英人氏の言う「ポケモン 教信者」はここにいたのだ。

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