Game Freak/Part 1/Chapter 1: On the Eve of Birth

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1誕生前夜

ポケモンの爆発的ヒットがゲー厶フリークという制作集団にもたらしたもの

■三色のゲー厶

ー九八九年の発足以来、家庭用ゲー厶ソフトの企画・制作をおもな業務として活動する株式会社ゲー厶フリーク。社員数およそ三十名ほどの少数精鋭による制作集団が作りあげたのが、いまや社会現象にまでなった『ポケットモンスター』である。
ゲー厶ボーイで遊ぶことのできるこのゲー厶ソフトは、”ポケモン“と呼ばれるモンスタ—が生息する世界を舞台に、冒険が繰りひろげられる。主人公は、見習いポケモン・トレーナーの少年だ。トレーナーとは、いわゆる”猛獣つかい“のようなものだが、決定的に違っているのは、猛獣が暴力によって従わされているのに対して、ポケモンたちは基本的に人間との共存が成立している点だろう。そんな少年が、優秀なポケモン・トレーナーを目指して、世界中のポケモンを集めながらライバルのトレーナーたちと戦って物語を進めていく口ールプレイングゲー厶(以下、RPG)。それが『ポケットモン

第1部  ポケットモンスター  10

スター』である。
……と、これだけの説明では、いままで無数にあったRPGとどこが違っていて、どこが新しいのか、わからないかもしれない。
じつは、この『ポケットモンスタ—』、最大の特色はゲー厶ボーイ用の周辺機器として本体とは別に販売されている”通信ケーブル“にあるのだった。
ゲー厶ボーイというゲー厶機は、通信ケーブルを利用すれば自分のマシンと他人のマシンとの接続が可能になる。そうすることで、キャラクターのデータなどゲー厶中の様々な情報をやりとりできるのだ。『ポケットモンスタ—』では、その情報のやりとりを”ポケモンの交換“に用いている。つまり、自分の力ではみつけられなかったポケモンを友達との交換で揃えたり、あるいは戦わせたりする、という遊び方ができるのだ。しかし、このソフトを買った誰もが同じ内容のゲー厶をしていたのでは、交換をしたいという欲求は生まれにくい。
そこで『ポケットモンスタ—』には、テレビゲー厶史上まれにみる戦略が仕掛けられることになった。一九九六年、二月二十七日。
『ポケットモンスタ—』は、ゲー厶内容は基本的に同じでありながら、ポケモンの出現率がそれぞれのパッケージの色によって微妙に異なる〈赤と緑の2バージョン〉というスタイルで、同時発売されたのだ。発売を担当したのは、ゲー厶ボーイという携帯用ゲー厶機の発売元でもある任天堂だが、それでも、こうしたソフトの販売戦略は異例のことだった。
過去、小説など架空の物語のなかでは、複数種類のバージョンを持つゲー厶ソフトという例は存在し

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たが、現実の世界でバージョンの異なるパツケージソフトが販売されたのは、ゲ—厶史上希有な例である。それほどまでに、ゲー厶フリークはもちろんのこと、任天堂でも、このソフトが秘めている”交換“という要素に大きな価値を見い出していた。そして、その狙いは見事に的中したのだ。とはいえ、じつはこのソフト、発売直後はさほど話題にのぼるようなものではなかった。むしろプレイステーションやセガサタ—ンのような、映像的に美しく迫力のあるソフト群の陰に隠れてしまったのか、販売本数は伸び悩んでいたのだ。
また、いくら安定したおもしろさを提供する任天堂製品といえども、マリオやヨッシ—、あるいはカービイといった、すでに実績のある人気キャラクターが登場しない、まったくのオリジナルソフトでは、話題を集めるにはあまりに不利な状況でもあつた。
しかし、このゲー厶が本質的に持っている「ポケモンの捕獲、そこから生じる育成、その先にある交換」という図式は、あらゆる不利な条件を吹き飛ばして、あまりあるおもしろさを実現してみせた。実際、発売直後こそ本数は伸び悩んでいたものの、日を重ねるごとに着実に売れ続け、気がついてみれば100万本。その後も売れ行きは落ちることなく、いつの間にか三00万本、さらには五00万本すらも、軽々と突破してしまっていたのだ。
ことのはじまりは、子供たちによるクチコミだった。
「ポケモンつてのがおもしろいらしいよ」
「好きなモンスターを育てられるんだ」

第1部  ポケットモンスター  12

「なかなか捕まえられないやつがいる」
「捕まえたモンスターが交換できるんだって!」
まず最初はクラスの一人が買ってくる。それを覗き込む仲間たち。つられて何人かが買いはじめる。廊下で話されている『ポケットモンスター』の噂を、隣のクラスの誰かが聞きつける。友達から友達へ。クラスからクラスへ。こうして『ポケットモンスタI』は、おもしろさに敏感な子供たちの間で、じわじわと人気を拡大していった。
急激にブー厶が訪れたわけではなかったので、ソフトを買うための行列や窃盗、恐喝といつた大ヒットソフトにありがちな事件こそ起きはしなかった。しかし、一時的にはゲー厶ショップの店頭で品薄の状態が続いたこともあった。
そんな最中の一九九六年、秋。
この『ポケットモンスター』に、〈赤〉や〈緑〉とはまたポケモンの出現率が異なる〈青バージョン〉の発売が、雑誌上で発表された。これによって『ポケットモンスタ—』は、〈赤・緑・青〉という三種類のバージョンが並び揃うことになったのだ。
このゲー厶は、主人公が三体のポケモンから任意の一体を選ぶ場面で、冒険の幕を開ける。主人公が、どのポケモンを選んだかによってゲー厶序盤の流れが若干の変化を見せるわけだが、その三体というのが「ヒトカゲ、フシギダネ、ゼニガメ」だ。
このうちヒトカゲの進化型であるリザードン(炎の属性を持つ)が赤箱のパッケージに、フシギダネの進化型であるフシギバナ(草の属性を持つ)が緑箱のパッケージに、それぞれ描かれている。

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そして、新しく発売された青箱のパッケージ・イラストは、予想にたがわず、残された一体のポケモン、ゼニガメの進化型であるカメックス(水の属性を持つ)が採用されていた。
つまり、この〈青バージョン〉というソフトは、あらかじめ販売が予定されていた商品でこそなかったが、ゲー厶の冒頭で主人公が「ヒトカゲ、フシギダネ、ゼニガメ」これら三体のポケモンの選択に頭を悩ます、という展開ができあがった瞬間から、いずれは作られる運命にあったのだといえるだろう。もともと〈青バージョン〉は、一般に市販することを目的として制作されたものではなかった。〈赤〉と〈緑〉が発売されたあとも、残されていたバグを取り除く作業や、新人の育成などの意味も含めて、制作を担当したゲー厶フリークの社内で試験的に作られていたものだったのだ。しかし、グラフィック担当者からの要望で、ポケモンたちの絵を新しく描き起こすなどしているうちに、〈青バージョン〉はかなり完成度の高いものになってきた。
そこで、雑誌での読者プレゼントに使えないだろうか、ということで、試しに少数の関係者にだけ配ってみたところ予想以上の好評を得たため、正式な発売が検討されることになったのである。そんな〈青バージョン〉にもっとも関心を示したのが、雑誌『コロコロコミック』(小学館)の編集部であった。小学生に絶大な人気を誇る『コロコロコミック』では、早くからポケモンの漫画を連載するなどして、制作スタッフとは親密な関係にあった。そのため編集部では、この〈青バージョン〉を読者プレゼントだけではなく、正式な商品として発売するよう強く要請した。
ところが、任天堂サイドではそのことに対して若干の躊躇があったという。
なぜなら、すでに〈赤〉と〈緑〉の2バージョンが出ているのに、ここでいきなり〈青バージョン〉まで発売

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[[IMAGE CAPTION 1|
▸主人公が最初に冒険の供として選ぶべきポケモン三体の、それぞれの進化型であるリザードン、フシギバナ、カメックスが、パッケージに描かれている。
]]
[[IMAGE CAPTION 2|
©1995,1996 Nintendo / Creatures inc. / GAME FREAK inc.
]]

したら市場が混乱する可能性がある。そのうえ、新たにパツケージや取扱説明書を制作したり、ソフ卜の流通のための手間やコストがかかることも考えると、任天堂としては積極的に取り組むほどのメリットを感じられなかったのだ。
その結果全冃バージョン〉は、通常のゲー厶ショップを通じて販売されるのではなく、『コロコロコミック』誌上でのみの通信販売、という変則的な形態が採られることになった。同年の十月から十ー-月にかけて、『コロコロコミック』を含む小学館の学年誌など八誌に申込用紙が添付されており、これに必要事項を書き込んで注文するというものである。通信販売に関する業務は、小学館の関連会社である「小学館プロダクション」の通販部門の協力によって遂行された。
”限定版“という販売手法は、ある種のプレミア感を煽ることで、人気を加速させる役割を果たす。その一方で、雑誌上での通信販売といった手続き

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の煩雑さは、ユーザーの購買意欲を削ぐことにもなりかねない。
そうした、プラスとマイナスの両面を併せ持つた形で発売された〈青バージョン〉だったが、その結果は関係者の予想を大きく上回るものとなった。
『コロコロコミック』十ー月号(十月十五日発売)で通信販売の告知が掲載された途端、通販部には注文の申し込みが殺到しはじめた。関係者の予想では、注文数はせいぜいが三〇万本程度だろうと思っていたが、実際には六〇万本を越える予約が殺到してしまったのである。
通販部で申込者の住所を管理していたコンピュータは、データが処理しきれなくなり、発送作業が遅れていく。問い合わせに対応するため電話回線を増やしたが、それでもすぐにパンクする。編集部にも催促の電話が続々とかかってくる。
ー〇〇万本、あるいは二〇〇万本といった数字に慣れているゲー厶業界の人間であれば、六〇万本という数字は驚きに値しないかもしれない。
けれど、この『ポケットモンスター』は〈青バージョン〉発売以前の時点で、すでに〈赤〉と〈緑〉を併せてー〇〇万本以上を売り切っていたのだ。しかもその中身は、ポケモンの出現率以外は基本的にほぼ同じ内容の商品であるにもかかわらず、だ。
繰り返すが、テレビゲー厶の歴史のなかで、こうした”バージョン違い“という商品は、過去には目立った前例がない。あるソフトが、数年後にその内容を一部変更して”改訂版“のような体裁で発売されたことはあった。けれど、バージョンの違いそのものが遊びの根幹に関わるようなものは、ひとつとして作られなかった。いや、より正確には「誰も発想できなかった」というべきだろう。

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ゲー厶ボーイはー九八九年四月の発売以来、およそ十年が経った現在でも、着実に売れ続けている商品だ。しかし、売れ続けているといっても、やはりそのソフトが他のCD-ROMゲ—ム機用のものと比較して見劣りするのも事実で、ソフトの売れ行きは、それほど芳しいものではなかった。かっては、ゲー厶ボーイ用ソフトを制作していたメーカーは数え切れないほどあった。しかし、CD-ROMゲ—厶機が普及するにつれて、その大半はそうした新しいゲ—厶機のためのソフト制作に開発ラインを移行させていった。
そんな状況であったから、『ポケットモンスター』が発売された当時のゲー厶市場では、新作のゲー厶ボーイ用ソフトなどに対しては、誰も注目などしていなかったのだ。
ー九九六年の初頭。ゲー厶業界のほとんどすべての人間は、今後、ゲー厶ボーイのソフトからミリオンセラーが現れるなどとは、考えもしなかった。そんなことは奇跡に等しいことだと思われていた。ところが、奇跡は起こった。
『ポケットモンスター』はその発売から三年後、〈赤・緑・青〉の三つのバリエーションを総合して、全世界での販売本数がついに一〇〇〇万本を突破した。テレビアニメーションのヒットを受けて制作された『ピカチュウバージョン』も併せれば、その累計は一五〇〇万本にも到達する。この数字は、単一ソフトウェアの販売本数としては世界記録である。おそらく、この記録は今後も破られることはないだろう。そして、先頃発売されたばかりの続編『ポケットモンスター金・銀』(前作と接続することができる!)との相乗効果で、またさらに記録を伸ばすことは疑うべくもない。

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『ポケットモンスター』は、ゲー厶の市場に奇跡を巻き起こした。しかし、ならばこのソフトがこれほどまでに売れた理由とはなんなのか?
それは、ただの”奇跡“ではない。
自分が子供の頃は、どんなことに楽しさを感じ、どんなことに心をときめかせ、どんなことに遊びへの興味を見い出していたのか——。
そうした子供時代の”記憶“を忘れずに持ち続けてきたゲー厶の作り手が、この作品を成功に導いたのである。

■カプセルモンスター

――いまを遡ること九年前。
当時、ゲー厶ボーイはその本体の発売から一年が経過しており、日本全国にはおよそ二〇〇万台が普及していた。
株式会社ゲー厶フリークの若き社長である田尻智は、東京の下北沢に借りていた自宅アパー卜のソフアの上で、ゲー厶ボーイを手にしていた。多忙な業務の合い間を縫って、その日発売されたばかりの新作ゲー厶ソフトを遊んでみていたのだ。
しかし、田尻が手にしたそのソフトは、彼に十分な満足を与えてはくれなかった。いや、彼がたまたま

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選んだそのソフトだけがつまらなかったのではない。どのソフトをみても、田尻には、なにかが欠けているような気がしてならなかった。彼が、ゲー厶ボーイに期待していたなにかが足りなかったのだ。任天堂から携帯用ゲー厶機——ゲー厶ボーイが発売されることを知ったとき、田尻には心に想い描く光景があった。それは、個々のゲー厶ボーイを”通信ケーブル“で接続することができるというシステムから連想したことだった。
「ゲームボーイの宣伝向け資料で”通信“という単語を見たときに、なにか僕のなかで充実したゴージャスな印象を受けました。このケーブルを通してテレビやラジオのように、色々な情報が流れていくような感覚です。それは、家のテレビに接続して使う従来のゲー厶機にはないものです」携帯用ゲー厶機だから、家の外に持ち出すことができる。アウトドアに持ち出せるからこそ、他者のゲー厶機と接続することもできる。他者と接続するということは、情報のやりとりができるということだ。田尻はそこに、ゲームボーイが潜在的に持っている無限のひろがりを見たのだった。しかし、ゲー厶ボーイのいちユーザーとして、その行く先を見ていた田尻の希望に応えてくれるようなソフトは、いつまで経っても現れてはくれなかった。次から次へと発売されるのは、通信ケーブルをただ単に対戦ゲー厶のためのデー夕交換ラインとして使つているものばかりだった。たしかに『テトリス』で通信対戦をすることには、新しいおもしろさがある。けれど、そうじやないなにかがある。自分が初めて通信ケーブルを見たときに感じた、ゲー厶の世界を大きくひろげてくれるようななにかが、きっとあるはず。
スタートしたばかりの自分の会社を運営していくため、目の前にあるゲー厶制作の仕事をこなしなが

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らも、田尻は常にその”なにか“を模索し続けていた。

そのヒントは、ある日突然、記憶の奧からやってきた。
田尻は、長年の友人であり、仕事上の良き相棒でもある杉森建とのエピソードを思い出した。それは、人気のRPG『ドラゴンクエストⅡ』に熱中していたときのことだった。
そのゲー厶には〈ふしぎなぼうし〉というアイテムが登場する。これを装備して魔法を唱えると、魔力の消費量が通常時よりも少なくて済むのである。
しかし、それほど便利なアイテムであるだけに、〈ふしぎなぼうし〉は道具屋などで簡単に買えるというものではない。ある特定のモンスターを倒したときにだけ、非常に低い確率で出現する”宝物“として手に入れることができるのだ。
もちろん、田尻も他の多くのプレイヤーたちと同様に、この帽子を手に入れるためだけに何日間もゲームをプレイし続けた。しかし、いくらプレイを続けても〈ふしぎなぼうし〉は手に入らなかった。ところが、同じ頃に杉森は、なんとこの帽子をふたつも入手していたのである。「あれほど悔しいことってないですよね。〈ふしぎなぼうし〉を持っているはずのモンスターをいくら倒しても、まったく手に入らないわけでしょう。それなのに、杉森は一一個も持ってるんですから」ひとつも持っていない者と、ふたつも持っている者。偶然の神は、ときにこうした悪戯をする。そのとき、田尻は杉森の持つ〈ふしぎなぼうし〉を、ひとつでいいから切実に欲しいと思ったとい一つ。ただでもらえないのなら、いくらかのゴールド(ドラゴンクエストのゲーム内で流通する通貨単位)をあげて

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もいい。それとも自分の持っているアイテムのどれかを放出しょうか……。しかし、田尻は〈ふしぎなぼうし〉を手に入れることはできなかった。もちろん、杉森がそれを手放すのを渋ったためではない。もとからゲー厶にそのようなシステムが組み込まれていなかったからだ。田尻がゲー厶に対して悔しさを憶えたそのときこそ、彼の心のなかに”交換“という行為への欲求が、強く植えつけられた瞬間だった。
通信ケーブルで、ゲームボーイをつなぐ。自分のゲームボーイと、クラスの友達のゲームボーイがつながる。つなげられたゲームボーイの間を、なんらかの情報が行き来する。その友達は、また別の友達とゲームボーイをつなぐ。
友達から友達へ。そのまた友達へ。
ゲームボーイによるネットワークは、学校という枠を飛び越え、町から町へ。都市から都市へ。そして日本全国へとひろがっていく。自分を出発点とする情報が、いくつものゲームボーイを通じて、世界へ旅していくのだ。
ならば、そこに流れる情報とはどんなものを用意してやればいいのだろうか?
―交換だ!アイテムを、プレイヤーどうしが交換できるようにすればいいんだ! 基本となる発想を得てから、それをゲームの骨子として組み立てるまでは早かった。交換するなら、道具よりも生き物の方が楽しいに違いない。自分が子供の頃に体験した、昆虫採集の楽しさを採り入れよう。昆虫だけでなく、恐竜のような怪物にしてもいい。昆虫や怪物をモデルにした、広い意味での”モンスター“を交換させるのだ。

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積極的に交換をしたくなる気持ちは、手に入りにくい貴重なモンスターがいてこそ生まれる。また、戦闘の経験やアイテムを与えることで、モンスターを成長させられるようにもしょう。成長させたお互いのモンスター同士を対戦させたらどうなるだろう……?
ひとたびきっかけが得られると、あとは泉のようにアイデアが湧き出てきた。田尻はもどかしさを感じながらも、自分を虜にしたこの素晴らしいアイデアを、ひたすら紙の上に書き写した。学生時代から体験していることだが、新しいゲー厶のアイデアを思いついたとき、田尻は眠気など少しも感じずに、企画書作りの作業に没頭することができた。そしてまさにそのとき、これまでにないほどの大きな興奮が、彼を取り巻いていた。
アメリカ映画の名作に『Big』(一九八八年ペニー・マーシャル監督)という作品がある。小学生の少年が、遊園地にある魔法のゲー厶機の力で、一夜にして大人に変身してしまうという物語だ。頭のなかは小学生のままでありながら、姿だけが大人になってしまったジョッシュ(トム・ハンクス)は、学校にも行けず、家にも住めず、たった独りで生きていくことになる。しかし、自活するためには仕事をしなければならない。そんな彼が選んだ職業は、大手玩具会社の事務職だった。そこでジョッシュは、大人の計算高さではなく、まさに少年の心で新しいおもちやのアイデアを連発し、やがて事務職から企画部門へ抜擢され、そこからさらに副社長へと、出世の階段をのぼりつめてゆく―。おもちやと戯れながらも、それをストレートにヒット商品へ結びつけてゆくジョッシュと、少年時代の記憶を下敷きにして大ヒットを生み出す田尻智の姿は、そのまま重ね合わせて見ることができる。そ

第1部ポケットモンスター 22

こには、すれっからしのクリエイターにありがちな計算高さが入り込む余地はない。
「子供はこういうもので喜ぶのだ」といった打算ではなく、「自分が子供の頃はこういうことに喜びを感じていた」という”記憶“。「自分が楽しいと思えるものを作るのだ」という”確信“。ゲー厶デザイナー田尻智は、かつての子供が成長して大人になった自分と、いまも子供であり続ける自分の、ふたつの心を併せ持っていた。
公園の遊具など、子供の遊び環境に詳しい工学博士の仙田満氏は、その著書『あそび環境のデザイン』(ー九八七年鹿島出版会)のなかで、次のように述べている。
「だれもが、かつてこどもであったから、こどものあそびやあそび場について専門家になる資格を持っている。しかし不幸なことに、だれも他人のこども時代の経験を学ぶことはできない」他人がどんな子供時代を過ごしてきたのか、それは誰にもわからない。けれど、本当の遊びを経験してきた者ならば、自分のなかに遊びの記憶は残されている。時代、地域、環境、それらが変化したとしても、子供の遊びの本質はいつになっても変わらないはずだ。
田尻は遊びの専門家としての資格を持っていた。そして、自分のなかにある遊びの専門家としての記憶の奥底から、新しいゲー厶のアイデアを引き出していったのだ。
やがて夜が明け、朝の日差しが室内を満たしはじめた頃。目の前のテーブルの上には、数枚の企画書が完成していた。その表紙には、こう書かれていた。

23  第1章  誕生前夜

[[IMAGE CAPTION|
▶この企画書が作られていたとぎには、まさかポケモンがこれ ほど多くの人々に受け入れられるとは、ゲー厶フリークの誰ー 人として予想もできなかったろう。
]]

企画書
Capsule
Monsters

しかし、この企画書が『ポケットモンスター』と名を変え、ゲー厶ソフトとして完成するまでには、それから六年間という長い年月が必要だった——。

■ふたつの顔

株式会社ゲー厶フリークの創業は、代表取締役社長を務める田尻智の他に、正社員としては、たった二人のプログラマーが在籍するだけの、ほんのささやかなスター卜だった。
創業時の資本金は、わずかー〇〇万円。一九九

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一年に商法が改正される以前では、株式会社を設立するために必要最小限の金額だった。創業後も、しばらくの間はヒット作が出ず、資金繰りに困ることも多かった。社員が+名を越えるようになっても、年間の売上げは数千万円単位。任天堂との取り引きをするようになったー九九〇年頃からは、少しずつ業績が上を向きはじめたが、それでも不安定であることには変わりがない。そんな零細企業であったゲー厶フリークだが、『ポケットモンスター』を発売した途端に状況は一変した。なにしろ、ー九九六年度の年商が一気に一億二〇〇〇万円まで到達したのだから。ここで注目しておきたいのは、これが”ー九九六年度分“の年商だということだ。ー九九七年三月までの時点では、まだ『ポケットモンスター』のテレビアニメーションは放映されていない。つまり、この数字の大半は『ポケットモンスター』の売り上げによって達成されたものなのである。そして、同年の四月にテレビアニメーションの放映(全国テレビ東京系)が開始され、キャラクターグツズの発売が本格化してからは、商品化権によってもたらされる金額も膨大なものになっていった。その収益は年を追うごとに増加してゆき、現在の年商はおよそ一五億円にものぼっているという。たったー〇〇万円の資本金からスター卜したゲー厶フリークは、創業後わずか八年間にして年間一五億円もの高収益を生み出す、優良企業へと成長したのである。
ゲー厶フリークにとって、多くの利益を得たことは、単に会社の運営が安定するだけではなく、もっと大きな意味を持つ。
それは、潤沢な資金によって”余裕ある創作の場“が保証されるようになつた、ということだ。

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ゲー厶フリークは、アマチュア集団から一転して会社組織にこそなったものの、もともとが金銭的に恵まれた出発ではなかった。そのため、常に資金繰りに苦しむ、いわば自転車操業のような状態だつた。たとえば、あるゲームメー力ーから〈A〉というゲー厶制作の仕事を請け負ったとしょう。その際に、制作費のうち何割かの金額を”前渡し金“として受け取る。このお金で制作期間中の会社の維持費や、スタッフの人件費などをまかなうのだ。
ところが、たいていのゲー厶制作業務というものは、予定のスケジュール通りには終わらない。半年の予定が一年、一年の予定が二年と、なし崩し的に延びていってしまう。すると、はじめに受け取った前渡し金だけでは資金が足りなくなるという事態が発生する。
そこで、こうした場合にどういう手段をとるかというと、他に取り引きのあるゲームメーカーから〈B〉という別の仕事を新たに請け負うのである。つまり〈A〉の制作を続行するために〈B〉の開発資金を充て、〈B〉を制作するための資金には、同様にして確保した次なるプロジェクト〈C〉の資金を充てる。以後、これを果てしなく繰り返していくのである。
こうした会社の運営方法は、ゲー厶フリークだけに限ったものではない。同様のソフト制作会社なら、どこでも当然のようにやっていることなのだ。そして、この無限の自転車操業から脱出する方法は、ただひとつ。
大ヒット商品を作ること、である。
すべての悪循環を断ち切り、作りたいものを作ることができる会社にする。この、一見当たり前のように思えることを実現するためのハードルは、限りなく高い。なぜなら、いいゲー厶を作るための環境は、

第1部  ポケットモンスター  26

いいゲ—厶を作ることでしか得られないからだ。
そしてゲー厶フリークは、そのハードルを『ポケットモンスター』によって乗り越えたのだった。ゲー厶フリークが『ポケットモンスター』を制作するために費やした時間は、およそ六年間という異例なほどの長期間だった。
もちろん、会社はそのためだけに時間と労力のすべてを注いできたわけではない。六年という長い間には、会社を継続させるためにいくつものゲー厶ソフトを制作してきたし、何度もの危機に見舞われたこともある。それなりに長い時間をかけて制作してきたゲー厶ソフトが、販売メーカーの都合で一方的に発売中止に追い込まれたこともあった。頼りにしてきたプログラマーが集団で退職してしまうということもあった。
そうした事態が起こったとき、ゲー厶フリークが単なる営利追求を目的とするだけの企業であったなら、とうの昔に倒産の憂き目に合っていたことだろう。
しかし、ゲー厶フリークの目指すところは、そうではなかった。
「新しくておもしろいゲー厶を作ること……」
ただ、それだけだった。だからこそ、どんな危機的状況がきても堪えることができたのだし、それを乗り越えることもできたのだ。
ゲー厶フリークがそうした企業理念を持つことになった背景には、やはり創業者としての田尻の資質が大きく影響していることは間違いない。彼は、ゲー厶フリークが企業としてスタートしたそのときか

27  第1章  誕生前夜

ら、経営者としての顔と、クリエイターとしての顔との両面を持っていた。それは、意図して決めたことではなかったかもしれない。
たまたま、ゲー厶制作の能力に長けた人間がいた。その人間が作ったゲー厶が売れ、まとまったお金が入ってくることになった。そのお金を管理、運営していくために、その人間が法人を設立した。出発点は、たったそれだけのことだった。
しかし、商品の納期に対しての責任を持つ”経営者“と、商品のクオリティに対しての責任を持つ”制作者“が同一人物であるということは、多くのディレンマをはらんでいる反面、その何倍もの可能性も秘めていることになる。
起業家向け雑誌のインタビューで、田尻はこう答えている。
「ポケモンはゲー厶フリーク以外では絶対に生まれなかったゲー厶なんです。普通のゲームメー力ーだったら、6年もお前何やってんだってクビを切られるんですよ。でもうちでそれができたのは、俺が責任を持つからとにかくやるんだっていう、僕の経営者としての判断があったからなんですね。だとすれば、経営者かクリエイターかという二者択一で迷うんではなくて、2つを同時にこなせるように、僕がもっと高いレベルに変化すればいいんじやないかつて考えるようになったんです」
(『アントレ/未完成の自叙伝』一九九七年九月号リクルー卜)業界の一部で”天才ゲー厶クリエイター“と評されることの多い田尻は、あるいは経営者としても、天賦の才能を備えていたのかもしれない。
それは、銀行からの融資によって人員と機材を拡大し、怒涛のように自社の製品を量産し、莫大な利

第1部  ポケットモンスター  28

益をあげると同時に莫大な負債も抱えていくゲー厶企業が多いなか、ゲー厶フリークが創業以来どんな経営難に陥ろうとも、無借金経営を貫いてきたことからもうかがい知ることができる。そう、ゲー厶フリークはー九八九年に創業してから、ただの一度も銀行からの融資を受けたことはないのだ。もしも、経営者が商品開発に高い理想を抱いており、それを実現することに確信を持っているなら、銀行などから融資を受け、その資金をもとに理想実現のための環境を一気に構築してしまおうとするのが普通だ。
頭に描いたビジョンを早急に実体化させるために、借り入れた資金で人材を増やし、機材を増設し、開発スペースを確保する。どれほど借金をしても、どれほど資金を投入しても、ヒットを飛ばしさえすれば、多少の負債などはあっという間に返済することができ、むしろ大きな収益となって返ってくる。それが、普通の経営者の考えることだ。
だが、田尻は『ポケットモンスター』の開発に携わってきた六年間、決してそれをしなかった。その六年を支えたのは、銀行からの融資ではない。たとえ何年かかろうとも、絶対に風化することがないという『ポケットモンスター』のアイデアに対する自信と、その制作に携わったスタッフ全員の努力だったのだ。
絶対のアイデアと、それを信じて突き進むカ。このどちらかが欠けていても、六年間を耐えることはできなかっただろう。
そして、もうひとつ忘れてはならないのが、ゲー厶フリークという制作集団の才能を信じて支援し続けてくれた、二人の人間の存在であった。

29  第1章  誕生前夜

■二人の応援者

『ポケットモンスター』の基本構想が生まれてから、実際にそれが商品化されるまでに重要な役割を負った人物として、二人の名前が挙げられる。その一人が、株式会社クリーチャーズ代表取締役社長の、石原恒和である。
石原は『ポケットモンスター』が世に出るまでの長い間、陰となり日向となり、ゲー厶フリークと任天堂とのパイプ役を務めた。
そもそもクリーチャーズという会社は、コピーライターの糸井重里が、任天堂との共同出資で設立したゲー厶制作会社エイプ(APE)を母体としてスタートしている。
エイプはゲー厶作家としての糸井のデビュー作『マザー』を作るために設立された会社であるが、それと同時に”若いゲー厶クリエイターを支援する“という目的も持っていた。それらの業務をサポートするために、かねてより糸井とつき合いのあった石原も、エイプの設立時から参加していた。田尻は当初、『ポケットモンスタ—』の企画書をエイプへ持ち込んでいる。これまでに田尻は、糸井や石原が企画してきたテレビ番組などの制作に力を貸しており、彼らとは少なからぬ縁があったからだ。また、それだけではなく、田尻は糸井を一人のクリエイターとして敬愛しており、同様に任天堂という企業に対しても、常日頃からそのゲー厶に対する哲学に深い関心を寄せていた。そんな糸井と任天堂とが手を組んだのだから、『ポケットモンスタ—』の企画を思いついたときに、田尻がそれをエイプへ持

第1部ポケットモンスター 30

ち込もうと判断したのは、当然のなりゆきだったに違いない。
当時、石原はエイプでは副社長の任に就いており、『マザー』をはじめとして、その後も『モノポリー』『マリオのピクロス』『マザー2』など、多数のゲーム制作をプロデュースしてきている。だが、エイプは次第に糸井個人の会社としての側面を強くしてゆき、通常のゲー厶制作からは手を引くようになっていつた。その際に、石原がエイプ社内に残っていたゲー厶開発スタッフをとりまとめ、クリーチャーズを設立、代表取締役社長に就任したのだった。
と同時に、エイプに持ち込まれていた『ポケットモンスタ—』の企画もクリーチャーズが預かることになり、石原が自らプロデュースを担当することになった。その後、任天堂との数度にわたる交渉を経て、一九九〇年に『ポケットモンスタ—』は正式なプロジェクトとして契約を取り交わすことになるのだった。当時のことを、石原は次のように回想する。
「田尻くんから最初の企画をもらったのは、ー九八九年だったと思います。じつは、そのとき工イプ社内でも『ポケットモンスタ—』に似てるというか、非常に近い発想のアイデアはあったんです。それは『トト』というタイトルで、ゲー厶ボーイを虫カゴに見立てて、そのなかで生き物を飼うというものです。そういう話が出てきていたときに、少年がモンスターを次々と捕まえて通信ケーブルで交換するんだという『ポケットモンスタ—』のアイデアが、同時発生的に生まれてきたのです。どちらが先だということではないんですが、まあ、田尻くんにしてみれば、なんで俺が考えたのにそんなことやられるんだということもあったと思うんですけど。でも、田尻くんが先に考えたそういうアイデアと、もうー個別の、ゲー厶ボーイを虫カゴにして生き物を飼おうよ、というアイデアが並行

31  第1章  誕生前夜

して両方あったことは事実です。もちろん、その通信ケーブルを通じて交換するというアイデアの原型は田尻くんのものであり、結局、それこそが『ポケットモンスター』の核となるシステムを支えていたわけですけれど」
いまにして思えば、それは絶妙なタイミングだったのだといえる。ゲー厶フリークとエイプが、それぞれ近い方向性のアイデアを持っていたということは、ゲー厶に対する取り組み方が似ているということでもある。また、似たアイデアを持っていたからこそ、エイプのスタッフたちは『ポケットモンスター』が秘めているおもしろさの核心を、即座に理解することができたのだから。
ゲー厶デザイナーとしての田尻の企画は、常に高度な独創性の上に成り立っている。それは田尻がゲ—厶を考えるとき、世の中に数多くあるゲー厶の”バリエーションのひとつ“としてではなく、新しい遊びの提案を模索するところから、思考を出発させているからだ。
ともかく、このようにして『ポケットモンスター』の企画は受け入れられた。石原は、ゲー厶フリークと任天堂との間で、正式な契約書を交わす手配を進めていった。その頃の”商品としてのスケール“について、石原は当時を振り返る。
「最初は非常にコンパクトなゲー厶になる予定だったんです。たしか口ムの容量は256か512キロビットで、S-RAMが64キロビットくらいだったんじやないかな。それで、とにかく”交換“というのを中心にしたゲー厶を半年くらいかけて作って、たしかー九九〇年の十月に納品するという契約になっていたはずです。通常のプロジェクトから見れば非常に少ないバジエット(予算)を用意して、まあ、ダメモトでやってみましょうか、という感じもあったし、そのぐらいだったらテストで作

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ってみるのもいいんじやない?というようなことでした」
一九九〇年の頭に契約を交わしているのだから、実質的な制作期間は十カ月にも満たない。『ポケットモンスター』は、いまでこそゲー厶ボーイ屈指の大作RPGという印象があるが、その出発の時点では、核となる”交換“のアイデアだけを活かして、低予算、短期間で作られるべき小さなプロジェクトだったのだ。
ところが”交換“のおもしろさを活かそうとすればするほど、プロジェクトサイズは肥大していくことになる。その結果、以後六年間にわたって、石原は田尻と苦労を共にすることになるのだった。さて、もう一人『ポケットモンスター』を世に出すための功労者となったのが、任天堂情報開発部部長の宮本茂だ。ゲー厶ファンには”マリオの生みの親“としての顔の方が、馴染み深いだろう。『ドンキーコング』をはじめとして『スーパーマリオ・シリーズ』『ゼルダの伝説』など、数々の名作、大ヒット作を世に送り出し、テレビゲー厶の普及に大きく貢献した人物だ。
田尻は、かなり早い時期から任天堂のゲー厶に、高度なクオリティと高い志を感じ取っていたが、それこそまさに宮本の持っている資質が作品へ表れていたものだった。
『ポケットモンスター』が世に出る以前から、ゲー厶フリークは任天堂との仕事を続けてきていたが、これもすべてそうした田尻の任天堂―宮本茂への信頼が背景にあったことは、疑うべくもない。では、宮本自身は、いつ頃から田尻の存在を意識しはじめたのだろうか。
「最初に『クインティ』(ゲー厶フリークのデビュー作)を見たときに、あ、こいつすごいな、と思いまし

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た。その前から、田尻くんの名前はゲー厶雑誌かなにかで見ていた気はしますが、はっきりとは覚えていません。それよりも『クインティ』を見たときに、きちんとしたモノ作りをしているな、というのが伝わってきたんですね。その頃、ゲー厶を作るとい一っことをわかっているチー厶って、あまりいないのかな、というふうにタカをくくっていたんですが、『クインティ』を見てみたら、けっこう若いのによくわかってるやないか、と思ったわけです。だから、田尻くん一人のことではなしに、ゲームフリークというチー厶全体に対して、この人たちはちやんと支援したら、もっといい仕事ができるはずだと思いまして、彼らをうちの重役たちに紹介するような段取りをつけたりもしたんです」宮本が、若い田尻に対して、こうした感情を持つことになった背景には、前出の糸井と宮本との間で交わされた、ある日の対話が伏線になっている。
それは”後輩の育成“とでもいうべきことに関するものだった。
「糸井さんが若い頃に、開高健さんだったか嵐山光三郎さんだったか忘れましたが、そうした先輩に呼ばれて晚御飯をごちそうになって、『君はとてもいいよ』というよ一つなことをいわれたらしいんですね。糸井さんはそれがずうっと自分の糧になっていて、『自分もそろそろ、そういうことをする年齢になったのよね』というわけです。で、その話を聞いたときには、僕はまだそういう年齢にはなっていなかったんですけれど、その後、田尻くんという若い才能が現れたときに、僕も彼に対して『今後のために頑張ってほしい』というような声をかける立場にあるのかなと思つてね、機会をうかがっていたんです。結局、そういう形で声をかけることはなかったのですが、彼のような人材は任天堂として支援してあげた方がええよな、とは常に考えていました」

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以後、宮本と田尻は、機会あるごとに顔を合わせ、たくさんの会話をするようになっていく。挨拶を交わすだけのときも多かったが、ときには、ゲー厶のあり方に対してかなり突つ込んだ議論もした。「たしか『スーパーマリオワールド』を出した直後だったと思うんですが、そのときに僕が何気なく『できたらキー・コンフィグ(操作の任意設定)で、ジャンプをどのボタンに設定できるか選べたりして、操作性を自分で変えられてもよかったのよね』という話をしたんです。そうしたら、田尻くんが『それは絶対にやるべきじやない!』と、非常に強くいったのを覚えています。『ゲー厶デザイナーは、自分がこのように遊んでほしいと思ったものをそのままユーザーに与えるべきで、それをどのように遊ぶかユーザーにゆだねるとい一っのは、正しくないと思う』とかいわれて、ああー途だなあ、と。本当はどっちでもいいんでしょうけど、なにかそういう意志をはっきり持って物事を進めていくのは大事だなと思います。最近の若い人全体の傾向なんですけれど、民主主義がはびこっていて、独裁者が現れるとすごい嫌な顔をするんです。でも民主主義は結局、烏合の衆になってしまい、最後は収拾がつかなくなって、みんな『俺のせいじやない』っていうのが多いんですよ。なんにでも害はあるもので、独裁者にも害はあるし、民主主義にも害はあります。けれどモノ作りの現場では、民主主義の方が結果としてモノが残らないという意味で、害が大きいんです。独裁の持っている害の方が、僕は歓迎されるのだろうと思うんですね。たとえ誰かが悪者になっても、そういう意志を強く持った独裁者がいないと、あれもこれもやらなきやならないことになつて、結局、なにをしたいのかわからないということになる。そういう意味でも田尻くんはおもしろい存在です。モノを作る人としておもしろいと思うし、ちやんとやってると思います」

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田尻は、宮本からことさら薫陶を受けたわけではない。けれど、数々の対話のなかから、あるときは的確な言葉で示唆を与えられ、またあるときは辛辣な言葉による批評を受けながら、任天堂学派ともいうべきゲー厶作りの哲学を学び、やがて、そこから自分なりのゲー厶作りのノウハウを蓄積していった。そのひとつの結果が、『ポケットモンスター』という形で結実したのだった。宮本は、はじめて『ポケットモンスター』の企画書を見たときに、ゲー厶企画としての”動機の正しさ“を感じたという。それはどのような意味なのか。
「つまり、自分があるモンスターを持っている。友達もモンスターを持っている。みんながそれぞれ違うモンスターを持っていて、通信ケーブルで交換ができる。次々に交換を繰り返していくことで、最初のモンスターが北海道から沖縄まで移動していくのかもしれないというシステムは、ある意味でもっともゲー厶ボーイに適しています。通信という部分だけでなく、どこにでも持ち歩けるハンディ・マシンとしての特性も活かしているわけで、それは、ゲー厶ボーイの企画としては、少しも動機に不純なところがないんです。だからこそ、この企画はぜひ実現させるべきだと思ったんです」この宮本の意見を別の言葉に置き換えるならば、「正しいゲー厶のアイデアとは、そのゲー厶機でしか成立し得ないゲー厶性を持っているもの……」ということになるだろうか。
プレイステーションやセガサタ——ン、そしてスーパーファミコンなど、当時のゲー厶機がどれほどグラフイツク機能を強化し、生音の忠実な再現を可能にしていようとも、『ポケットモンスター』だけは作ることができなかった。『ポケットモンスタ—』は、ゲー厶ボーイだからこそ実現できるゲー厶だったのだ。

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さて、企画書を一目見て気に入った宮本ではあるが、実際には自身が抱えている任天堂社内の仕事の都合もあり、最初から最後まで『ポケットモンスタI』に関わっていたわけではない。制作がスター卜した当初は、『ポケットモンスター』は宮本の所属する情報開発部の担当ではなく、横井軍平部長(当時)の率いる開発一部に預けられる形となっていた。
しかし、開発一部とゲーー厶フリークとの間で制作は進められていたものの、先に述べたように、任天堂としては『ポケットモンスター』を、全力かけて取り組むべきプロジェクトとしては扱っていなかった。それよりも、開発一部内にはもっと早急に仕上げなければならないプロジェクトが数多くあり、ゲー厶フリークもまた、並行して制作していたゲー厶ソフトの作業に追われ『ポケットモンスター』どころではなかったのだ。
いってみれば、大きな評価を得てスター卜したかに見えた『ポケットモンスター』ではあるが、実際には任天堂の社内でも宙ぶらりんで放り出されていた時期が、かなり長い期間あったのである。ちょうどその頃、偶然にも宮本もゲー厶ボーイ用のゲー厶を作りはじめていた。それは『マリオのピクロス』というパズルゲー厶で、前出の石原がディレクターを務め、宮本はスーパーバイザーとして関わっていたものだった。その関係で、宮本は宙に浮いた状態になっている『ポケットモンスター』も自分がプロデユースするべく、自ら名乗り出ることにした。
「石原さんの方から『そろそろポケモンを再開しましょうよ』なんていう話が出て、そのあたりから僕も動き出しました。その頃、開発一部は他の仕事がどんどん入っていて、僕もゲー厶ボーイのゲー厶を作りはじめた時期でしたから、『マリオのピクロス』の他に『ポケットモンスター』も(この

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まま放り出すのは)もったいないので、開発一部の横井に『プロデュースを僕の方にお預かりしていいですか?』と挨拶に行って、まあ、やってくれるなら頼むわといわれて、戻ったんです。でも、僕がプロデュースするといっても、なるべくこれ以上の費用がかからないようにコントロールすることと、あとは開発ツールを任天堂の管理で動かしていく、ということだけなんですけどね。そこから、実際にゲー厶を作っていく過程は、クリーチャーズさんとゲー厶フリークさんに任せていたので、僕自身はほとんど見ていないんです」
そういいながら、宮本は続ける。
「ポケモンの基本アイデアの段階では、それがどんなジャンルのゲー厶でもよかったんです。RPGの形にしないと製品として成り立たないと思うのは、田尻くんの判断ですよね。僕はどっちかというと、RPGにまでしたらいつ完成するのかわからんのと違う?という姿勢ですから、もっとエッセンスだけで作ったらどうか、とは思っていました。でも、プロデューサーとして僕がそれ以上の関与をしなかったから『ポケットモンスター』のいまの形があるわけで、結果的にはそれでよかったのかもわからないですけどね」
結果として、『ポケットモンスタ—』は〈ゲー厶フリーク〉が作り、〈クリーチャーズ〉と〈任天堂〉が支えた。この一っちのどれか一社が欠けていても、いまのような形にはならなかっただろう。そのことを裏付けるエピソードを、少し長くなるが、宮本へのインタビューから拾い出してみよう。「『ポケットモンスター』がひと通りできあがる頃になって、田尻くんからおもしろい話が出てきたんです。『なるべくたくさんの人にゲー厶を買ってもらうには、一人がー一個買えばいいんですよね』と。

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冗談半分ではあったんですが、年に一回か二回、そういう話が会議のたびに出てくるんです。で、ゲー厶が完成する半年前ぐらいに、いろんなことを含めて打ち合わせをしようということになって、久しぶりに田尻くんや石原さんや関係者のみんなとで顔を合わせたら、その席でも田尻くんは『やっぱり日本のマーケットで一人に一本売ったのでは、上限は三〇〇万本を越えないんですよね』っていう話をしてきたわけです。
かって、任天堂ではディスクシステムのゲー厶を作りましたね。あれって、製造ラインがディスクライター|台ごとに全部違うものにもできるわけです。普通、ロムカセットの場合は、同じ内容のロ厶をいくつもまとめて焼いて、それを一個ずつ切り取って製品にするんですが、磁気ディスクのライターは何十台かの機械が並んでいて、その一台ずつがデ—タを書き込んでいくんです。ということは、そのディスクライターが書き込むマスター・ロムのデ—タがそれぞれ違っていても、工場にとっては問題ないわけですよ。たとえば『新・鬼が島』の製造ラインが五〇台動いていたら、理論的には五〇バ—ジョンの違うゲームが作れるんです。で、僕の方でもそういうことを考えてた時期があって、謎の解き方が少しずつ違っていて、俺とあいつのではゲームの内容が少し違う、というようなことができんかな、って考えていたのをそのとき思い出したんです。もちろん、『ポケットモンスター』はディスクシステムではなくてロムカセットですから、五〇バージョンのゲームなどというのは不可能ですが、いまのようなふたつのバ—ジョンという形なら、パラメ—夕—操作とかそういう微妙な操作をするだけで作れるんじやないか、っていう話で具体化させていつたわけです。あまりたくさんのバージョンがあってはあかんけれども、二種類程度ならば許されるのではないか。お店でどちらのゲ

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—厶を買うか、というところからすでにゲ—厶がはじまっているというのは、キャッチフレ—ズとしてもおもしろいでしょう。それで、思い切って〈赤〉と〈緑〉というふたつのバ—ジョンを作ることが、その場で決まったんです。
『ポケットモンスター』の重要な会議っていうのはそれぐらいで、あとは石原さんと『もう少しバックアップ・ファイルが確保できれば、もっと遊べるんですけどね』なんていう話をしたり、プロデューサーとしてはメモリ(容量)の交渉をしたり、翌年のロムの製造原価の見通しを立てたり、そんなことだけでしたから。だから、僕は『ポケットモンスター』に関しては、あまりたいしたことはしていないですよ。黙って見守っていたら、それが信じていた通りになってくれたので、プロデューサ—としては非常にいい仕事に関わることができたなと思っています。もっとひどい尻拭いをさせられるケ—スもたくさんあるので。そういう意味では、いい仕事ほどプロデューサーはなにもしなくていい、ということですね」
こうして『ポケットモンスタ—』は、任天堂、クリーチャーズ、ゲー厶フリークとの間で幸福な三角関係を築きながら、テレビゲー厶史上初の”2バージョン同時発売“へ向けて、その制作が進められていった。しかし、このときはまだ宮本も、石原も、そして田尻本人すらも、このゲー厶が全世界で記録破りの大ヒットを打ち立てようとは、まったく予測もしていなかったのだ―。

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