A Man Who Created Pokemon/p3

From Poké Sources
A Man Who Created Pokemon p3.jpg
 
Warning: the text below has not yet been proofread!
The text below has not yet been translated.
Page 3, scan, edit, history
ガへ郵送した。半年たっても結果がわからなかったので、応募したことすら忘れそうになった頃、セガより連絡が入った。なんと優秀賞を戴いた、との知らせだった。この受賞は若者だった私にテレビゲームを作り続ける原点を指し示してくれたといえる。後日、東京羽田のセガ本社で表彰式が催された。そこで役員の方に「良いビデオゲームは、売り上げのアタック(勢い)とサスティン(持続)2つの要素が高いのです」とさりげなく業界を営業部の視点で説明され、私はますますテレビゲームに対する情熱が刺激されたのだった。この本では、こんな田尻智の個人を投影して、ゲームフリークの変遷が透けて見える仕組みになっている。ミニコミ「ゲームフリーク」は、アマチュアとして攻略法を追求していたが、いくつかのゲーム雑誌の企画編集に参加、職業モデルに育った。私は1986年頃、テレビゲームの研究開発を始めた。以前からアイディアをメーカーに持ち込んでいたがなかなか完成に至らない。なぜか。ゲームの開発現場にいたほうがプロジェクトは進むのかもしれない。アイディアもプログラム開発も大切だと思うなら独立系(インディペンデント)でいいから自分たちでやったほうが納得出来ていいじゃないか。こうした動機で最初のファミコンソフトの開発がスタ—卜した。実際は紆余曲折しまくりで大変なことに挑んでいるプレッシャーと向き合ってこっこつと作り続ける日々であった。完成にこぎっけるまで3年以上かかり「クインティ」は1989年(株)ナムコからリリースされた。ここでロイヤリティを精算するかどうかで、運命の分かれ道。背算したらアマチュア止まりで、資金にして作り続けるならプロフェッショナルへのチャンスがある。私がどちらの選択をしたか。この本を開きリアリティのかけらを見つけ感じられるなら、ゲームフリークがゲームを作り続ける今も見えてくるはずだ。

2004年2月3日 (株) ゲームフリーク 代表取締役 田尻智

003

← Page 2 – Page 4 →

Note: to add furigana, use {{Ruby-ja}}.