A Man Who Created Pokemon/Chapter 4/Satoshi Tajiri's Creation

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第4章
田尻智の作り方

前回までのインタビューで、彼のヒストリカルな歩みはほとんど聞くことができた。インベーダーとの出会い、同時代のサブカルチャーから受けた衝撃、自身の原点にまで立ち戻った『ポケットモンスター』。この最後のインタビューでは、そうした彼の〃原風景〃について徹底的に聞いてみようと思う。70年代の町田で彼が見た都市生活者の風景、理系オタクだった少年時代、そしてそこで培われた知恵と思想。ひとりのテレビゲー厶オタクがどのように成長し、今の彼へとどう形づくられていったのか。ここに残された言葉は、彼自身の口から語られる38年間の総決算であると同時に、私たちの20世紀末を総括する〃何か〃でもあるはずだ。

(2003年12月19日ゲー厶フリーク会議室にて収録)

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宅地開発で街の風景が変わっていく

——毎回、尻尾を残しながら終わってるんですが(笑)、最後にまとめ的なものとして田尻さんのバックグラウンドにある文化背景みたいなものをうかがえればなと思ってます。
田尻: はい。
——以前、田尻さんが少年時代を過ごした町田のことを〃東京の盲腸〃って話されていて、それがすごく記憶に残ってるんですね。もう一度ご自分で振り返ってみて、町田っていう場所をどうとらえられているのかな、と。
田尻: 僕がジョン・ウォータ—ズに影響を受けたのも——彼も結局〃サバービア〃、郊外生活者として育ったということに視点を置いた作品をずっとつくってるけど、自分のことを振り返ると、そういう郊外生活がずっと自分のベースにあったんだって意識するようになったんだよ。辺境っていう意味での〃サバービア〃。たぶん、普通、東京における郊外っていうと〃ベッドタウン〃みたいな感じでザクっとテーマを切り取りやすいんだろうけど、僕自身は首都に住んでいながらそうじやないというか、東京のようで東京じやないところだと思ってた。あくまでも辺境で、都心の生活を営んでいるという感じがしない。僕が引つ越した頃だと、町田あたりは家もろくに建ってなくて、昭和40年代くらいに建ち始めた都営住宅にたまたま親が当選したんだよ。で、住宅自体は人工物なんだけど、その周辺はまったく手つかずだから、草原とか沼とか、ほとんど手が加えられていないような自然があった。そこに、僕が成長するのと同時にものすごいエネルギーで開発が進んで、周辺を見回すと、ある年はブルドーザーでデコボコをならして、次の年はそれをマス目で区切って分譲されて。で次の年に家が建ち始めて、さらに次の年に全部建ち終わるっていう。そこにあった自然が、どんどん住宅に代わってくんだよね。だから、小学校時代に体験した町田の郊外生活で、居住環境の変化っていうのが一番インパクトのあることだった。
——見る見るうちに街並みが変わっていく感じだったんですか?

田尻: そう。だから、一番最初に生き物に興味を持った頃って、沼地に草が生えていて、下がベチャべチャで、そこに穴を掘るとザリガニが住んでるから手をつっこんで捕ったりできた。そういう湿気のある場所があったんだよね、3年間くらいだけど。
——小学校低学年くらい?
田尻: せいぜい4年生くらいじやないかな。
——でも、都営住宅が建つこと自体、すでにそういう資本投下が始まっているわけですよね。
田尻: そうだね。開発自体は、町田市のあちこちで同時並行的に行われてたみたい。ちよつと離れると玉川学園になるんだけど、あそこは学園都市を作ろうっていう構想で一戸建てを中心に宅地開発が進んでいたし、あそこらへんはちよっと小さい丘になってるから、水が出ないってことが長くあった。生活インフラが完全に引かれていないような。そういう時期が小学校の3、4年のときにあって、僕が住んでた町田と玉川学園の間あたりは一番谷だったんだよ。だから環境自体は悪くなくて、一戸建てだけじやなく都営住宅とか、団地もできる。そうすると僕自身、自然がいっぱいある体験、ある意味、昭和30年代生まれくらいの人が過ごすような、近所に同年代の子が多くて、メンコで遊んだり、ロウセキで書いたりとかするような遊びを、ある時期まではできた。生活者の間できちんとコミユニティが形成されてて、健全に廻っていくような環境っていうのかな。それで、子供たちの遊びの感覚を促進したっていう。
——それが人口増加に伴って壊されていく?
田尻: というよりは、世代交代による崩壊だろうね。僕が育った頃は同じ年代の子が近所にいっぱいいて、喧嘩も多かったけど、仲のいい友達も自動的に増えていくような感じだった。だけど、10年も経っと、そういう子供たちが青年になるわけだよね。結局、そういう都営住宅とか団地に住んでいる人は、その場所で親の後を継いだりしない。大抵の人は、大人になると出て行くわけ。そうすると、世帯全体が老齢化して、ちやんと運営できていたコミュニティも立ち行かなくなるんだよね。それは時の流れという側面もあるんだけど、もうひとつ、東京都なり町田市政のフォローとか、中長期的なビジョ

ンに基づいた政策があれば避けられたような気 もする。ただこれは町田市だけじやなくて、調 ベてみるとあらゆる公営住宅で、そういうこと が起きてるみたいなんだよね。かつては「理想 的な団地に当選して嬉しい」 って言っていたの が、10年くらい経っと、子供の世代が住むには ちよつと場所が足りないとい、つかさ。出て行か ざるをえないんだよね。それで、彼らが出て行 ったあとに、空いた場所に入る世帯っていうの は、どうやら優先順位があるらしくて、片親だ ったり、老齢者の単身だったりが多かった。そ 、っすると結局、コミュニティを健全に廻すため のパワーがどんどん少なくなっていく。ありと あらゆる意味で、僕が子供の頃に「芳醇な体験 をしたなあ」と思ったものは、10年くらいで完 全に失われてしまったんですよ。だから僕が今、 町田に戻っても、全然別物になっていて、感慨 にふけるような要素はない。
——ニューファミリー化が進んだ結果、現実の 場所として変わってしまった。
田尻: そういう場所にいて、それが自分のアイ デンティティの確立に寄与していたはずなんだ
けど、自分なりに整理すると、それはあの時代 だからこそあったことなんだなと。で、まった く別の形式を成している家庭が、うちの父方の 家なんだよね。実家が福島で、そこは田尻村っ ていうんだけど。
——あはは(笑)、それホントですか?
田尻: うん、そこが本家なんだよね。隣の家ま で何百メートルとか1キロとかある(笑)。
——地方の豪農かなにかなんですか?
田尻: 農家としては大きいんじやないかな。周 りは全部自分の田圃で、車もあまり通ってない ようなところなんだけど、そこでは、誰が跡を 継ぐかというのが非常にシビアな話で、いつも もめているわけ。子供が大人になって出て行く という意味では、ニューファミリーもそういう かつての古い家もたいして変わらないんだけ ど、長男が家を継ぐっていうことが一番優先さ れるんだよね。で、相続するときに財産分与を 兄弟でやるんだけど、日本の法律に基づいて素 直に分与すると、そういう農家は立ち行かなく なるんだよ、分割されちやって。だから、家長 が死ぬたびに家族が集まって「長男に全部譲る」

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みたいなことをやらなきやならない。逆にいえば、それくらい家を継ぐのが大事なことで、そこは実家だから、当然毎年親に連れられて帰ってたわけ。だから、そういう価値観が日本にかって存在していたっていうリアルもわかる。
——でも、いざ町田にいる自分の周りを見ると、そうじやないぞと。
田尻: そういう意味では、自分では客観視しているつもりではあるんだけども。まあ、そういうニューファミリー的なものとか、僕が育ってきた場所を振り返って、これは日本の特殊な例なのかと思ってたんだけど、ヴィンセント・ギヤ口の『バッファロー'66』って映画があったじやない。(※135) これなんか、非常によく似た話だと思うんだよ。元にあるのは、都市生活者の世代感格差とか、価値の違いの問題だよね。郊外生活を長い期間観察すると、ああいう問題は当然出てくるというか。僕なんか、痛いほどよくわかる。主人公の親子は一軒家に一緒に住んでるんだけど、主人公があそこで親と同居している限りは新しい家族を構成することができない。そ、っいうフラストレーションが溜まって、チンピラめいた犯罪をするエネルギーになってるというか、そのエネルギーを持っていく方向が見えないんだよね。親は親で、親の役割以外に何か固有の価値を見つけたり、生活のうえで自らを高めるような活動ができているかとい、っと、それも非常に問題をはらんでる。で、結局、さまざまなメディアから与えられる情報を見てるだけ、とかさ。特にあの母親はそうだよね。彼女にとって、自分の子供が一番リアルだったのが、バッファローが優勝した年に生まれたことだつたり。そういうことは、今や日本でもアメリカでも、同じなのかなと思う。区画整理をして街をつくって、人工的なコミュニティを形成しても、それは人間が生まれて育って死んでいくのと同じで、街自体にも活動的な時代と、その後の時代っていうのがあるのかなっていうね。

モノを書く習慣は小学校の授業で身についた

——それで思い出したんですけど、町田の繁華

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※135: '99年に公開され、ミニシアターを中心に話題を呼んだヒット作。監督•脚本のギャロ自らが刑務所を出たばかりの冴えないチンピラ、ビリーを好演。ざらついた色彩設計やどんよりと曇り空が続く郊外の風景など、その独特のビジュアルセンスが印象深い。

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街って結構賑やかですよね。
田尻: そうだね。駅前に小田急もあって。
——新宿まで30分で出られる場所で、ああいう比較的大型の店舗が並んでるのは、東京特有の現象かなと思うんですよね。僕が育った地方都市とは全然違う。
田尻: そうだね。僕が小さい頃は横浜線の原町田駅と小田急線の新原町田駅が2キロくらい離れてたんだよ。だから乗り換え駅なんだけど、現実的には非常に離れてて〃マラソン道路〃って言われてた。サラリーマンが乗り換えのために走るっていう(笑)。で、彼らを相手に商売するための繁華街があって、そこが結構ひらけてたんだよ。駅の前に立ち食い蕎麦屋なんかがあって、結構繁盛してた。サラリーマンが走って、腹が減るのにちようどいい腹ごしらえができるような店(笑)。なんだけど、僕が小学5年生くらいのときに駅が統一されて、数百メートルずつなんだけど駅が近づいたんだよね。
——ああ、その店が駅の外になっちやった。
田尻: そう。で、廃れちゃった。結構、街の発展にそういうことがシビアに影響を与えているんだなっていう。
——たとえば、本屋の品揃えは新宿と町田で違ったりしました?
田尻: 今、考えれば、新宿とあまり変わらない。小田急の上とか、ワンフロア丸ごと本屋だったからね。
——今、僕は小金井に住んでるんですけど、新宿まで出て買い物しようと思わなくなつちやつたんですよね。なぜだか吉祥寺で下りてしまう(笑)。すごい閉塞してるんですけど。
田尻: あはは(笑)。僕も吉祥寺に住んでたことがあるからわかるけど、あれくらい店舗が充実していると、ほかの街に買い物に出かける必要がなくなるよね。町田の場合は特にそう。町田に住んでいる人はあまりほかに出歩かないというか、町田で済んでしまう機能が大きいって言ってたね。
——特殊なものでなければ地元で済んでしまう。秋葉原まで行かないと手に入らない、とかじやなければ。
田尻: うん。中学2年のときにインベーダーブームがあったんだけど、コンピュータでゲーム

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を再現することに興味を持ち出した頃から、秋葉原に通うようになった。当時は角田無線とか、あの辺の店でパソコンのインベーダーを見て、すごく魅力的に感じたな。もちろん買えるような値段じやないんだけど、ゲームセンタ—のゲーム自体がどうやってできてるのか、よくわかってなかった時代だから、それと同じものを再現する別のコンピュータっていうのが非常にインパクトがあって、しよつちゅう行ってたね。
——MZ-80Kとかですか?
田尻: そうそう。MZ-80Kのインベーダーは見た目が違うんだよ。顔がスタンプみたいな感じで構成されてて。あれはあれで魅力的だったんだけどねえ。
——あはは(笑)。で、なぜ買い物の話を持ち出したかというと、以前「突然変異」を地元で買ったって話をされていたじゃないですか。そういう知識欲みたいなものはどういう爆発ぶりを見せたのかなと。
田尻: ああ。それに関しては、小学校のときに担任の先生に受けた教育が結構、影響してる。その先生は小学5、6年の担任だったんだけど、教科書を使わない教育っていうのを受けたんですよ。たとえば、次の時間が社会科で「豊臣秀吉についてやる」っていうと、豊臣秀吉について調べてきたいヤツが調べてきて、その生徒がガリ版で書いて生徒の数だけ刷って、前に出て発表をする、と。(※136) そのあとで先生が足りない部分とか補足をするんだけど、その授業のおかげで、自主的に資料を調べて、テーマに沿った原稿をガリ版で書いて発表するっていう習慣がついたんだよね。人に伝えるために原稿を書くっていう。
——その授業が面白かった?
田尻: 面白かったね。その資料はまだ残っていますよ。僕のところに(笑)。
——それは当番制ってわけでもなく?
田尻: うん。やりたいヤツだけやれって感じだったから。もう、鬼のようにやってたんですよ。毎日11時くらいまでガリ版切って。
——自宅で(笑)。
田尻: 文房具屋で鉄筆を買って、自分でガリを切って、朝学校に行ったら職員室の前の印刷室で印刷して用意をして(笑)。あともうひとつ、

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※136: 表面にロウを塗った特殊な和紙(原紙という)に、鉄筆で文字を書き、それにインクを乗せたローターで印刷する、もっとも初期のDTP手法のひとつ。正式には「謄写版」というが、鉄筆で「ガリガリ」と文字を書き込むことから「ガリ版」の愛称で親しまれた。

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社会科の授業で、社会的なニュースに興味を持とうっていって、新聞で気になった記事を切り抜いて、その要約をまとめて感想を書く「ニュ1スカード」をつくろうというのがあった。それも好きなだけやってこいみたいな話だったから、毎朝、新聞を読んで、片つ端から切り刻んで、興味のありそうなものをまとめていって。それがたとえば「類人猿の骨が見つかった」みたいな記事だと、授業での意味もあるし、大変というよりは楽しいからやってるっていうね。新聞を読むのも楽しくなったし。それも毎日2、3枚づつは提出してたよね。そういう、なにがしかの資料を調べて書いて提出するっていう習慣が、小学校の5、6年でできた。
——でも、クラスのなかには当然やらない子もいますよね。
田尻: だから、やりたい子はいくらやってもいいんだけど、1年で最低ひとり1回は前に出て授業をやれ、と。控えめな子は1回どうにかやるくらいなんだけど、それプラス僕のように「やりたいだけやるか」ってしやかりきになつてガリ版刷ってたのが4、5人いたんだよ。

理系オタクまっしぐらの少年時代

——じやあ、その頃からそういう欲求があったというわけですね。
田尻: それと平行して、最初に趣味的なものを原稿にしようと思ったのは、その頃は「BCL」って言ったんだけど、海外放送を聴くのが流行ったんだよね。 (※137)
——ああ、短波ラジオ。
田尻: 最初は親の持ってた真空管ラジオで聞いていたんだけど、そのうち松下電器のプロシードを買って。
——海外放送って受信すると、カードをもらえるんですよね。
田尻: そうそう。レポートを出すと、「べリカード」って受信確認カードを送ってもらえる。でも送るのに当然お金がかかるし、当時は小遣いも少ないからどうするかというと、共産圏の国ばっかり送ってましたね(笑)。
——あはは(笑)。
田尻: イギリスとかオーストラリアとかアメリ

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※137: '70年代中盤から'80年頃にかけて、BCL(Broadcasting Listener)と呼ばれる海外短波ラジオ放送を聴くブー厶が巻き起こった(当時発売されたソ二ーの短波ラジオ、ICF5800は100万台以上を売り上げたという)。世界の海外向け短波放送を網羅したガイドブックなども発売されていた。

カの放送局だと、カードを送つてもらおうと思ったら返信用の切手を何枚送れとかあるんだよ。
——あれ、けっこうするんですよね。
田尻: ところが共産圏はプロパガンダで放送してるから、異様にサービスがいいわけ。当時はサービス精神があるんだと思い込んでいたけど(笑)。僕ね、読まれたことあるんですよ。モスクワ放送に(笑)。
——送ったハガキが(笑)。それはスゴい。
田尻: あと当時、朝鮮中央放送にレポートを送ったらすげえサービスがよくて、気味が悪いくらい(笑)。「あなたを受信番号1024番に登録しました」とかいって、絵葉書とかペナントとかいろいろ送ってくるわけ。登録したって言われると、なんか怖くなってきちやって(笑)。
——あはは(笑)。
田尻: これはさらわれるかも知れないとか(笑)。そういうブームが一般的には、はやってて、クラスでも結構聞いてるヤツがいたんだよね。で、友達5、6人と一緒に何回か会誌をつくったりしたんだよ。だから、ゲーム以前はそういう趣味もあった。
——でも、短波ラジオにテレビゲームって、理系オタクまっしぐらじやないですか。
田尻: そうそう。あとは、電子ブロツクもやった。(※138) 僕の時代だと、電子ブロツクも一番新しい「EXシリーズ」が出たくらいなんだけど、僕は電子ブロツク自体の時代性とか歴史に非常に興味があったんだな。あの、みんながよく知っている電子ブロツクがあるけど……。
——今、再販されているやつですね。
田尻: そう。あの前にもうー世代前のシリーズがあって、さらにもう1個前の世代のヤツを持ってたんだよ。それは最初16回路から始まって、パーツをFまで買い足していくと、150回路になるんだけど、そのラジオの回路設計の説明テキストの周波数単位がキロサイクルなんだよ。もう断然こっちの方が燃えるというか(笑)。
——なんだかな一(笑)。
田尻: それで、電子ブロツクなんかをやるようになると、当然のように自分でラジオを作りたくなる。まあ、漠然と考えていたことは科学力が身近になって、自分の手のように動かせるよ

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※138: トランジスタなどが組み込まれたブロックを組み合わせて、さまざまな電気実験(ダイオ—ド検波ラジオ、うそ発見器、モールス練習機など)が楽しめる学習キット。手軽に電子回路の基礎を学ぶことができた。'02年に再販され話題を呼んだ「EX-150」は、'76年に学研から発売されたもの。

うになれば、世の中はもっと便利になる。そういう思いが育ってたんだよね。今や世界中の放送を聞くことができるし、雑誌を買ってきて部品の構成図を見て、秋葉原に部品を買いに行って、自分で組み立てれば、ラジオを作ることもできる、と。『ポケモン』の背景になってる世界が、科学力を非常にいい形でコントロールをしているっていうことの裏には小学校時代のそういう趣味とか経験が活きているんだろうなと思うよ。理想郷を目指すときに、科学力を手のように動かすことが必要だっていう考え方というか。たぶん、僕より年上の人は万博をリアルタイムに体験することで、そういう意識ができたんだと思うけど、僕はそのとき5歳くらい。(※139) 行きたくても行けるわけもなくて、イベントの意味さえもわからない。でも、自分の身の周りには、科学力は夢を与えるもんだとか、生活を便利にするものだっていう、そういう具体例に満ちていたと思、つんだよね。
——ただちよつと話は変わりますけど、最近『キャシャーン』とか『デビルマン』とか、必要があって見直したり読み直したりしているんですけど、'70年代って、かたや科学力で実現できる理想郷があり、かたや公害問題が酷くなっていくわけじゃないですか。(※140) (※141) それで、いったいどこに正義があるのかって、主人公が思い悩むっていう作品が多い気がするんですよね。
田尻: そういえば、小学校のときに『デビルマン』はマンガの方を読んで、恐怖を覚えた。ちびりそうになった(笑)。
——あれは人類を断罪するマンガですからね(笑)。
田尻: アニメの方は見たという記憶しか残ってないけど、マンガ版の終末戦争のような物語性とそこにおける怪物としてのデビルマンっていうイメージが強くインプツトされてる。でも、そういう科学の理想みたいなものを素直に信じていたのかっていうと……。まあ、問題があることは話題になるからわかってるんだけど、それは知恵が足らないからだと思ってた。
——いわゆるオタク第一世代って呼ばれてる人たちって、万博ですごい〃未来の夢〃みたいなものを味わった直後に、不況と公害問題に直面するわけじゃないですか。そのギヤツプは大き

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※139:「人類の進歩と調和」をテーマに、79カ国34の企業が参加、約3000万人を動員した一大イベントとなった。高度成長時代の集大成でもあると同時に、その後に続く暗い不況時代の幕開けを告げたともいえる。
※140: 正しくは『新造人間キヤシャーン』。'73〜'74年にかけてフジテレビ系列で放映されたテレビアニメシリーズ(製作はタツノコプロ)。公害処理用ロボットが人間に対して反乱を起こすという重いテーマを中核に据えたストーリーと、タツノコらしいケレンのあふれたキャラクターデザイン(ロボット犬•フレンダーは秀逸!)が魅力。
※141: 鬼才マンガ家・永井豪の最高傑作にして問題作。田尻氏が話しているよう

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かったんだろうなと思うんですけど、もう少し年代が下がる田尻さんたちくらいになると、ちよっと感じ方が違ったんですかね。わかってはいるんだけど、純粋に憧れられるというか。
田尻: 確かに、万博を体験したあとで、公害問題をリアルな問題として突きつけられるっていうのは、両方とも大きすぎるよね。ショツクじやないかな。問題に体当たりで立ち向かうスタミナのある人はいいけど、それがないとどうなるんだろうね。そういえば、僕自身も結構、公害の問題は先生に言われて調べたりしましたよ。そういう映画を見ろとか、あと授業で足尾鉱毒事件についてすごく時間を費やして説明したり。だから、俺の小学校の卒業文集って「尊敬する人」が田中正造なんだよね。
——そのまんま影響受けてる(笑)。
田尻: だから、公害問題と無縁だったわけじやない。ただ、知恵と科学のバランスが失われているから、そういう問題が起こるんだってい、つ。具体的な解決策を提案するべきだと思ってたんだよね。僕の子供の頃は、そういう運動している人たちって異議申し立てをするだけに留まつてて、結局どうするんだっていう解決案がまだなかったんだよ。町田で生活しててもそういうことがリアルにあって、家がたくさん建っと、ゴミ問題が大きくなってたし。
——ああ、処理場が追いつかないとか?
田尻: それもあるし、だいたいゴミに関するルールがまだできてない。ルールはきっとあったと思、つんだけど、ルールがあればマナーも育つかとい、っと、そ、っとは限らない。たとえば、かっての小川をコンクリートで整備して、その上に小さい工場が建ったりするじやない。すると、引つ越したときはちよつと綺麗な小川だったのが、汚いドブになってるわけだよ。住んでるのは糸ミミズくらいなんだけど、団地や住宅に新しく入った人は、そうい、っことに最初に気づかないから「あ、川だ」とかいって、鍋を洗ったりしているわけ。
——ああ。
田尻: で「おばちゃん、そのドブ汚いよ」っていうことがあったりとか。小川とドブの境界線っていうか、変貌の瞬間を見たんだよね。だから、そ、つい、つことには、もっと知恵を使うべき

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に、'72年テレビアニメの放映開始と同時に「週刊少年マガジン」にて連載がスタート。このコミック版は、アニメ版の勧善懲悪的な枠組みを遙かに越え、悪魔との抗争の果てに見えてくる人間のエゴイズ厶を徹底的に描破。ついにはハルマゲドンへと到達する展開は、いまだ衝撃的。

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だと思ってた。
——'70年代後半から'80年代前半にかけて、いわゆる名作といわれているものを今、見直すと全体的に暗いんですよね。
田尻: 世間的にも不況だし。オイルショツクがあって、トイレットペーパーを買いに走ったりとか。(※142) そうそう、その頃僕が夢中になってたのは『レインボーマン』だった。 (※143)
——うわあ、暗いなあ(笑)。
田尻: あれ、すごい好きでねえ(笑)。初めの放送から見てたんだよね。
——やばい(笑)。実はこのあと'90年代に起こったいくつかの社会的な事件——「オウム真理教」と「宮崎勤事件」と「ポケモン」についてうかがおうと思ってたんですけど、「オウム真理教」のバックグラウンドがまさに『レインボーマン』的な背景だと思うんですよ。科学が才カルトと直結する回路っていうか。
田尻: ああ、そうかもねえ。
——『レインボーマン』だと、修行で力を手に入れるじゃないですか。それはまさに「オウム真理教」と同じベクトルで、社会を変えようっていう外向きの力じやなくて、自分を変えるという逆向きのベクトルを持った作品。今、見直しても面白い作品ですけど、それは間違いなくオカルトなわけで。
田尻: そうだね。お金を配って日本の経済を破壊しようとする宗教とかね。とにかく『レインボーマン』はインパクトがあったんだよ。どこらへんが一番印象に残ってます?
田尻: う一ん、当時の自分の素直な感想でいうと、自分が7種類のバリエーションを持ってるところ(笑)。場面によって、能力の長短を変えるっていう。あと、普段は非常に活動的なんだけど、一番大事なところで眠くなってくる(笑)。
——デタラメっちやデタラメですよね(笑)。
田尻: まあ、主人公のタケシは最初プロレスラーとして一人前の金を稼ぐって感じだったのが、途中から日本をよくしょうっていうふうに愛国者に変わってく。全部を見ると精神的な成長も見えるし、いい話だと思うけどねえ。
——ああ、なんか今、ヤバイところに触れてる感じがする(笑)。

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※142: '73年10月に勃発した第4次中東戦争をきっかけに、アラブ産油国は石油の減産と原油価格の引き上げを通知。これにより引き起こされた経済的混乱を〃オイルショック〃と呼ぶ。全世界的な不況局面ともあいまつて、オイルショツクは先進各国の経済を直撃した。
※143: '72年から1年間放映された特撮テレビシリーズ。インドの山奥でヨガ行者•ダイバダツタから秘術を継承した青年、ヤマトタケシが愛の戦士・レインボーマンに変身。日本人の皆殺しを企む〃死ね死ね団〃と苛烈な戦いを繰り広げる。全体に漂うサイケデリツクティストと異様な世界観は、まさにカルトの名にふさわしい。原作は『月光仮面』でも有名な川内康範。

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田尻: あはは(笑)。あれ再放送しないもんねえ。

オウム真理教と終末思想あのとき何が問題になっていたのか

——『レインボーマン』は'60年代サイケデリックとサブカルチャーがうまく結実してる例だと思うし、そこに田尻さんが反応していたってのは、非常に興味深いんですが。さっきちらっと触れた「オウム真理教」なんですけど、彼らがオタクだってわかったのはずいぶんあとの話ではあるんですけども……。
田尻: まあ、性根がオタクだっていうのは、同じオタクならわかると思うけど。実は彼らは、このあたり(下北沢)でも活動していたんだよね。今は潰れちゃったけど、オウムの書籍を扱った書店もあったし、道場もあった。あと代沢に最初の部屋を借りてゲームフリークを始めたとき、'85年くらいかな、「オウムのお弁当屋さん」っていうホカ弁屋があったんだよ。チラシが入ってて、24時間配達しますって(笑)。ちようど、徹夜でゲームについて話したりやり込んだりしてたから、ちょうどいいっていうんで……。
——頼んでた(笑)。
田尻: 最初はオウムだってわからなかったしね。麻原のニコニコした顔のマークがついてたけど(笑)。メインは普通のホカ弁屋にあるよ、つな海苔弁とか鮭弁とかなんだけど、飲み物のところがちよつとおかしくて、インドのお茶「パールバティ」とか(笑)。で、頼むと自転車かバイクで届けてくれて。
——信者が(笑)。
田尻: そう、今思えば、信者の人だったのかなって思うんだけど(笑)。当時はちよつとうさん臭くて、一体、本当のホカ弁なのかどうだかわからないような。それは、オウムが話題になる何年も前だけど。
——問題になったのは、結構あとだったですもんね。
田尻: そうそう。その後、バブルの時期に、オウム以外の新興宗教もだいぶ盛り上がってき

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て、自己啓発セミナーも増えてたし。下北沢にも勧誘がいっぱいいたんだよ、有象無象が。歩いているとすぐに声がかかってくる。だから、マスコミで語られるよりも、普段の生活でしょっちゅう目にしてるから、そっちの記憶の方が強いくらい。オウムの活動がおかしくなったって言われてるのは、その後、選挙活動をやった後くらいなんじやないかな。
——ええ。
田尻: 僕自身は、ああいう活動をしてるちよっと変わった人たちっていう、好奇の目で見る程度で、それ以下でもそれ以上でもないんだけど。
——でも、オウムの幹部に理系のエリートが多かったりとか、そういう意味ではテクノロジーとオカルトが直結してたわけですよね。
田尻: 彼らが言っていることっていうのは、ある意味、よくわかるんだよ。なにが言いたいのかってい、つのは。突飛なことを言ってる、まるっきりおかしい人たちだとは思わない。今の日本の社会で置き去りにされていること——それはたぶん、さっき言ったような万博で謳われた「人類の進歩と調和」っていう理想の一方で、公害とか社会でつらい目にあっている人がいる。その矛盾が解決できない無力さがあって、なんとか具体的な解決を訴えたいんだっていうのはわかるわけだよね。だからこそ、そのあと真理党って言って、政治に参加しようとしたんだと思うし。
——田尻さん個人としては、別にそれほどインパクトを受けることではなかった?
田尻: 僕自身が一番感じたのは、オウム自身が、ああいう風に事件を起こして瓦解することの背景に、なにかまだあまり語られていない問題があると思うわけ。さっきの『デビルマン』もそ、つだし、あとは『ノストラダムスの大予言』とかさ。(※144) 世紀末史観っていうか、〃世界が終わる〃って不安を煽って、それをビジネスにして儲けていた人たちがいるわけじゃない。そういう社会不安のひとつが、オウム真理教のような形になったんだと思うわけ。でも、その前に1999年に世界が終わるって言ってたやつは誰なんだ、と。五島勉以外にもいっぱいいる。そいつらが悪いんじやないか、と。
——あはは(笑)。

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※144: '73年に発売された五島勉の大ベストセラー。16世紀フランスの医師、ミッシエル・ド・ノートルダ厶が残したとされる『レ•センチュリ』を元に、「1999年、7の月」に起こるとされる世界滅亡を予言。翌'74年には舛田利雄監督の手によって映画化もされた。

田尻: 世の中が悪くなる、悪くなると不安を煽っていた人たち、全員出てこいと。解決案を示さずに「終わる終わる」って言ってた人たちが犯人なわけで。それを非常に表層的に受け止めてしまった——不安を煽られて踊った人たちが「新興宗教で世直し」みたいな、団塊より下の世代の人たちだと思うんだよね。
——まあ、実際、僕も27で人生が終わると思ってましたからね(笑)。
田尻: でしょ。つまり、皆思ってたわけだよ。でもさ、ノストラダムスの予言が当たるっていうけど、なんか根拠があって言ってるのかなっていう。映画を作って、儲けてみたりとかさ。
——露骨に批判だ(笑)。
田尻: だから、そういう終末思想を植えつけていた——世代なのか職種なのかわからないけども、表には出てこない人たち、確信犯的にやった人たちがいて、それとオウムの一連の事件とは如実に関係していると思うんだよね。オウムだけじやなく、実は日本人全体をナーバスにさせたつていうかさ。

オウム、宮崎勤、ポケモン'90年代のオタク文化を直撃したもの

——たとえば、'80年代の文化って、実はその前のアンダーグラウンド・カルチャーみたいなものを濃厚に引き継いでますよね。以前、取材されたっておつしやってたティモシー•リアリーなんかもそうだし。彼の言ってたことなんて、まあ、オカルトそのものですけど。
田尻: 彼は、そういう社会変革の具体的な例を示そうとしたということなんだと思うけど。今までの価値観でうまくいかないものを、こう変革するんだっていう、その人なりの答えを探し出して、提案したということだと思う。さっき話をした終末思想のいけないところは、「終わりそうだから、それを回避するためにこうする」っていう具体的なメッセージがないところなんだよ。あるいは「残りの人生はこう生きよう」とかね。そういう具体性に満ちていれば、不安に煽られる必要もない。生きるときの選択肢のひとつになるわけだし、そこでどういう選択を

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するのかは受け手にゆだねられるわけだから。
——それとちよつと関連するかもしれないんですけど、宮崎勤事件もまた大きく社会を揺るがした事件ですよね。田尻さんは当時はもうメデイアの発信者側になってたわけですけど。
田尻: うん。僕が思うに、彼はメディアから受けた刺激と自分のリアルがどう関係しているのかを確かめたかったんだろうね。実際にその辺にいる少女に対して、自分がなにか手を触れるなりをしたときに反応があるだろうか、とか、その辺のリアリティを確かめたいっていう衝動が、ああいう形になってしまった。そういう、何かを確かめるっていう衝動だと思うんだよね。
——逆にいうと、自分が触れているメディア環境をリアルに感じ取れないつていうこと?
田尻: ようするに、あそこで集めた有象無象のコレクションっていうのは、さまざまなメディアの情報のかけらなわけだよね。そういうものが自分のものになる、自分の血となり肉となるっていう実感を得るのには、時間なり思考なりは必要なんだけども、実際の自分のなにがしかの活動によって確かめることもできる。そのときに間違えると、ああいうやってはいけない犯罪の穴に落ちる可能性があると言えるんじやないかな。たとえば宮崎勤が事件を起こした時代から比べれば、今の方が圧倒的に膨大な情報を個人個人が受けたり集めたりできる環境にあるわけだよね。そのとき、それを全身で受け止めるのか、なにがしかのフィルタ—をかけるのか、あるいは現実の生活に重ねるのか。今、盛んに言われているありきたりな言い方になってしま、つけども、メディアリテラシーとい、つことだと思う。そういうものがしっかりとしていれば、どんなゴミのような情報でもうまく立ち回れるんじゃないか。いずれにしろ、本にしても映画にしても、あるいはゲームでも、そこはメディアの区別なく、受けた刺激を自分の行動で確かめたいっていう直接的な衝動は抑えたほうがいい。そ、つい、つことはちやんと教えたり、言、っべきだよね。
——で、最後にアニメの『ポケモン』の事件なんですけど、これは田尻さんご自身が当事者でもあったわけで、どういうふうにとらえられてる

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のか、改めてうかがえたらと思うんですけども。
田尻: 光の明滅で発作が起きるということ自体は、アニメだけじやなく、生活のさまざまな環境で起こりうることなわけで、そういう認識ができていれば、危険性を回避して製作するなり、注意はできたと思う。実際、今やっていることは、そういうことだと思うしね。つまり、画面が短い時間にフラッシュするっていう、そういう刺激について、どういう反応が起こりうるかというのは、生体実験なり社会的な記録があったはずなんだよ。ああいうことが起こるとわかってたのに、やっぱり注意が足らなかった。
——ただ僕は最近、今話したような、'90年代のいくつかの大きな事件を通して、僕たちの生活環境とか趣味の環境と密接にリンクしてた表現、感受性みたいなものにどんどん規制がかけられてくるようになってきてるのかなと思うんですよね。たとえば『ポケモン』の事件にしても、あの手法に問題があるのは間違いない。で、あの手法はもう使わないっていう約束が実際できてるわけですよね。
田尻: はい。
——しかし、もしかしたら別の使い方があったかもしれない方法を、あらかじめ封じてしまう可能性もある。もちろんそれが倫理的に許されるかどうかは問題ですし、それは、たとえば最近再び話題になっている青少年保護条例なんかもそうですけど、今まで比較的野放図にしていたゆえに発展できたものが、今はひとつずつチエックされるようになってきたのかな、と。 (※145)
田尻: ああいう事件が起こると、そういう危険性を封じるために、そのほかの必要のない可能性をも封じる、趣向の自由とかルールを侵して封じるっていうのはあるかもしれないね。
——もし『ポケモン』が社会的な事件にならなければ、それ以前にも同じような事例はあったわけで。
田尻: だから、あの時代ってみんな、非常に『ポケモン』に注意力をかたむけていたし、作る方も見る方もエネルギーを投じていたというのはあるんだろうね。

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※145: '90年代に入ってから、各自治体を中心に〃青少年の健全な育成保護〃を謳った各種条例(その律令版といえるのが国の「青少年有害社会環境対策基本法案」)が施行されるようになり、いわゆる「有害図書」への規制や若者の外出の取り締まりが厳しくなる傾向にある。ただし、そうした闇雲にモラリスティックな規制がどれほど有効なのか(そもそも今の状況が本当に〃不健全"なのかも、判断が難しい)、またそうしたモラル遵守に〃国〃が関与することがいいことなのか、大きな疑問は残る。

田尻: 智をつくりあげたサブカルチャーとは?
——'60年代末のサブカルチャーの終焉を越えて、20年間その残余物で遊んできたんだけど、これ以上は広がっちやダメですよっていう領域が出てきたのかなと。なんか暗い話になってきたんですが(笑)、今日は田尻さんが影響を受けられたサブカルチャーの残余物を持ってきていただいたようなんですけども(笑)。
田尻: はい(笑)。
——映画はやっぱりそれ(『ピンク•フラミンゴ』)ですか(笑)。
田尻: そうだね。上映会でインパクトを受けたんだけど、やっぱりビデオが欲しくて、初めてアメリカに行ったときにショップをいろいろまわった挙句に買えたという。
——どこらへんが一番好きなんですか? 杉森建が拒否しても見続けた魅力は(笑)。
田尻: そうねえ(笑)。ジョン・ウォータ—ズを分析してみると、僕がさつき振り返ったように〃サバービア〃、郊外生活者であるってことがポイントなんだよね。で、そこに埋没していくと、限りなくヒマになる。長い目で観察すると確実に変化しているはずなんだけど、その場で生活している限りは日常に埋没していって、非常にヒマである、と。そういうヒマな空間をショツクなものに変えるというか、人間の見方だったり目線自体が変わればショツクになるという。女だと思ってたら男だったとか、価値観の転換を与えてくれたっていうことなんだけど。初めて見たときは精神的なショツクというよりも、見た目にくるものがあった。
——これ以降もジョン・ウォータ—ズは監督を続けているわけですけど、やっぱり『ピンク・フラミンゴ』が一番ですか?
田尻: まあ、インパクトとか、人生における影響カという意味でこれを挙げたけど、ジョン•ウォータ—ズの仕事自体に敬意を表してるし、好きで追っかけてるんだよね。だから、『マルチプル•マニアックス』とか『モンド•トラッシュ』とか、これより前の作品も個人的には好きなんだよね。(※146) (※147) 『ピンク•フラミンゴ』に結実する、マニアックな音楽とか編集のテクニック

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※146: ジョン・ウォー夕ーズ監督作品。怪優ディヴァインを主役に据えた2本目の作品(監督作としては4本目)。'70年製作。
※147:『マルチプル・マニアックス』と同様、'70年に製作された、ジョン・ウォーターズ監督5本目の作品。メアリ•ヴィヴィアン・ピアースとディヴァインという彼の映画を彩る二大女優を作品の中核に据えた構成は『ピンク•フラミンゴ』の原型とも言える。

が見えて、非常に興味深いし。
——インディペンデント映画だから、もっとダメなモノを多くの人は想像するかもしれないですけど、今見ると結構うまいですよね。
田尻: それで、この本(「Shock Value」)は、彼が映画を作って、今では誰でも知っているタイトルになったけど、作った当時はやっぱり、気持ち悪いっていう人も多かったし、上映するチャンスを探して全米を車で廻ったって話を書いてる。僕が興味のあるクリエイタ—というのは、総じて、そういうデビューする局面で長い時間、格闘してきた人たちなんだよね。ディヴイッド・リンチが『イレイザーヘツド』を5年間かけて作って、その間食えるか食えないかだったとか。(※148) とにかくそういう長い時間かけて作り込んだものがブレイクスルーになったっていうことで、僕がゲームを作るときの精神的な支えになってくれるものなんですよ(笑)。
——なるほど。他にもいろいろと持ってきていただいたみたいなんですけども、これ(『バトル•オブ•ブラジル/ハリウッドに戦いを挑む』)は……? (※149)
田尻: ネタとしてわかりやすいものも持ってきたんだけど(笑)。クリエイティブとマーケテイングがぶっかる瞬間にどういう現象が起こるかっていう、作品の背景にあたるものに興味があるわけ。『ブラジル』とい、つ完成した映画に対しての興味もさることながら、たとえば、北米とヨーロッパマーケットの慣習の違いがあって、テリー•ギリアム自身にもわかってたはずなんだけど、結果的に編集したものが140分くらいの尺になった、と。(※150) ヨーロッパのマーケツトはそれを許容して、そのまま公開されたんだけど、アメリカのユニバーサルは上映中止にしてしまつた。映画が2時間20分とかになると回転率が悪くなるし、ビジネスのスケールが変わるから上映できないと。しかも試写会をやつても、評判がよくなかった。そのとき彼が新聞に「なぜユニバーサルは『ブラジル』を公開しないんだ」っていう意見広告を載せるんだよね。それはこういうものを作るときに、万人に感謝されたり迎えられるわけはなくて、闘って、どれだけの支援を受けるのかが重要っていうことなんだけども。その人の根気と運だと。

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※148: のちに『ツイン・ピークス』で高い評価を得るディヴィッド•リンチ、'77年のデビュー作。「消しゴム頭(イレイザーヘッド)」のあだ名を持つ印刷エヘンリーと、彼と関係を持ったことのある女性、メアリーX。そして彼女が生んだ奇形の子供。奇妙によじれた3人の関係を、次第に暴走するヘンリーの妄想を交えながら描く。悪夢のごとき1時間半。
※149: 
※150: 正しくは『未来世紀ブラジル』。イギリスのコントグループ「モンティ・パイソン」への参加や映画『バンディットQ』などで知られる映画監督、テリー・ギリア厶が’85年に製作した作品。レ

——あはは(笑)。でも、この騒動って、実はテリー•ギリアムの方に問題があると思うんですよね。
田尻: そうそう。厳密に取り組むっていう習慣を知っていながら、どこかで「まあ、いいか」っていう彼自身がいて、それが問題の発火点になってる。だけど、こ、ついう問題は、僕がなにかモノを作っていくうえで出てくる可能性はあると思ってるわけ。実際、かつてソニーで作った『ジェリーボーイ2』だって、作り終わったけど、出てないし。そういう戦いのプロセスをまとめたら、やっぱりこういう話になるんだよなと思って。
——しかも、ギリアムはこのあと『フィッシャーキング』を撮ってたりするわけですからね。 (※151)
田尻: そうそう。これが彼の映画監督としての結末かとい、っと、そうではない。1冊の本として、その変節が語られたけれども、まあ、彼が映画を作り続けるなにか、経験値をあげるような含蓄のある成果になったっていうことだと思う。というか、これだけに限らず、この手の本は結構読むってことなんですよ。
——映画のスリリングなところのひとつではありますよね。
田尻: 完成度の高いものとか刺激に満ちたものを見ると、それがどうやってできたのかっていうことに興味がいくんだよね。で、結果としてそういうもののコレクションも増えてくるっていう。
——作り手になったからではなく?
田尻: そういう部分もある。作っている人のことが気になるのは作り手だからだろうね。
——『ピンク・フラミン、コ』なり、ジョン・ウォー夕ーズの作品なりを見ていって、最初好きになったきっかけとは違った面白さになっていつたものってありますか?年齢なり成長を重ねていくことで違う見方になるというか。
田尻: それは確実にあるよね。自分自身が成長したことで解釈が変わったり、ジョン•ウォー夕ーズが生きた時代を調べた上で考えることもあるし。20代の頃は、分析するというよりも、ひたすらリスペクトするような感じだったけども。映画に関しては、なんらかの刺激を与えてくれると思うから、駄作とか名作とか関係なし

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トロフユーチャーな超管理社会、異様なガジェット群、イギリス人らしいブラックユーモアたっぷりのプロットなど、見どころ満載。ただし全体の卜丨ンは暗く、やや冗長。
※151: '91年製作の傑作コメディ。放送中に口にしたブラツク・ジョークが無差別殺人のきっかけをつくってしまった元売れつ子DJのジャツクと、妻をその無差別殺人により失った元大学教授のホー厶レス、パリー。ふたりの出会いと心の交流(?)を描く。パリー役にあのロビン・ウィリアムズを迎え、ギリアムの持ち味であるブラックな語り口はそのままに、ウェルメイドなコメディに仕上がっている。

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に、とにかく見たんだよね、かなりの量を。多いときは1日5本とか、なんらかの経験が自分に蓄積すればいいやっていう。で、こうやってフェイバリットで持ってくるものは、しやぶりつくすように見ているから、結果的には冷静に見られるというのはある(笑)。それこそ200回も300回も、あらゆる精神状態のときに見てみたり(笑)。
——自分を実験台にして(笑)。あと、パゾリ一二の本なんかもありますけど、彼も悪趣味の王様みたいなところがありますね。 (※152)
田尻: パゾリーニ、好きなんだよねえ。僕がいろいろ見るようになったのはだいぶあとのことで、彼が死んでからだったから、参考になる書籍とかないんだよね。あっても薄いし。で、彼は日本で言うと、寺山修司みたいな人なんじやないかと思うんだ。 (※153)
——ああ。
田尻: 詩や小説も書くし、ドキュメンタリーもやるし、突飛な映像を集めてみたりとか。一見すると、特殊な映像作家っていう風に見られがちだけど、実は膨大な量の詩も書いている。
——意外にベタな感受性に訴えるところとかも似ているかも知れない。
田尻: で、イタリアンレアリズモっていう、日本でいうと高度経済成長前夜みたいな、貧乏でスラムに住んでるような人たちが、いきいきと生をまつとうしているさまみたいなものに彼の初期の作品は視点を置いてて。それは、僕が育った環境より前時代的な刺激に満ちていて、発見があるっていうかね。
——でも、よりによって、パゾリーニに反応するのは田尻さんっぽいかも。
田尻: あ、そう(笑)。
——そこをチョイスするかみたいな(笑)。
田尻: パゾリーニの場合は、映画制作における手法とかには興味がないんだよね。『豚小屋』っていう映画なんか、ブルジョアの家庭で彼女と観念的な会話をしている局面と、まったく別の原始時代に火山のふもとをさまよっている男が同じようにさまよっている男を見つけて叩いて殺して食うみたいな、そういうまったく無関係なカットが同時進行で進む。
——まあ、見る人を暗くしますよね(笑)。

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※152: ピエル・パオロ・パゾリーニ。'22年生まれ。詩人•作家・映画監督。小説『生命ある若者』でコロンビイ゠クイドツティ賞を受賞し、フェリーニの映画『カビリアの夜』の脚本に参加したのち、'61年に『乞食』で監督デビュー。社会の底辺で生きる人々の姿を活写しながら、人間性の極限を描こうとするその作風は高く評価された。'77年、遺作となった『ピエル•パオロ•パゾリー二/ソドムの市』を撮影後、その映画に出演していた17歳の少年により撲殺された。
※153: '35年、青森県生まれ。詩人•歌人•劇作家•エッセイスト•映画監督。その経歴を見ればわかるように、ありとあらゆるジャンルに手を広げ、時代の前衛を走り抜けた才人。横尾忠則、東由多可

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田尻: あはは(笑)。そう言いたくなるのはわかるけど。生命と生命がはらんでいる危機意識っていうものが結構リアルで。ちよつと普通の単純な映画監督では、なかなか撮るのは難しいんじやないかなと思う。彼に代わる人が見当たらないくらいのインパクトがあるっていうか。
——でも、こうやって持ってきていただいたラインナップを見ると、見事なまでに〃八リウッド〃が欠落してますよね。
田尻: よく見てるんだけどね(笑)。
——なんか、普通の娯楽作品がない(笑)。
田尻: あはは(笑)。やっぱ、こういうところで知恵とかアイディアの源泉を練って、それをもう一度自分がなにか作るときのインスピレーションのもとにするってい、つかさ。その辺のおばちやんに「ちよつと面白い話があるんだけど」とか「面白いゲームがあるんだけど」って言って、振り向くようなものにできれば、自分としては一番いいんだよ。
——でも、おばちやん、パゾリーニじや振り向かないですよ(笑)。
田尻: 元ネタじや、振り返らないよね(笑)。
——じやあ、それを振り返ってもらえるように。
田尻: そうそう。僕の背景にはこういうものがあるんだけど、僕がなにか言うときに、ほかの人に伝わる消化の仕方ができていれば、意味のあることだと思う。で、非常にゲーム的な話をすると、あらゆる原点は『インベーダー』にある、と(笑)。

そしてすべての原点である『インベーダー』へ

——(差し出された本を見ながら)これはなんですか?
田尻: これは「インベーダー攻略法」っていう本で、古いものだから、ちよつとバラけてきてるんだけど、ゲーム雑誌が出る以前に出版社が出した、ゲーム関連本のもっとも初期のものなんですよ。(※154) 79年6月だから、インベーダーブームの真つ最中。レバーの握り方とか『インベーダー』の攻略法を写真で紹介してるんだよね。こっち側の端っこの3段目から始めるとか、敵

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らと結成した演劇実験室「天井桟敷」での活動や評論集『書を捨てよ町へ出よう』、映画『田園に死す』(元は彼の第三歌集)などが有名。

※154: [[IMAGE]]

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が落とすミサイルは3種類あるとか。
——よくこんなに文章を書くなあ。インベーダーでこんなに書くことがあるっていうのが驚愕だな。
田尻: この写真の解説が非常によくできているんだよね。この本は、ゲームにおける攻略法のあり方と、ゲームにおける書籍というものの可能性、その両方を見せてくれて、「ゲームフリーク」をつくる原点になってる。
——こういう形で、紙に定着できると。
田尻: そうそう、それが1冊になってるんだもん。すごいよね。あとは都市伝説っぽいものを紹介するコーナーがあって、「幻の自爆するUFO」とか、「幻の500ポイントUFO」とか。
——あはは(笑)。
田尻: でも、この「幻の2段下がりインベーダー」とか、実際にありえるバグなんだよね。UFOを画面ギリギリで撃つと、得点が表示されて、そのドットがちよつと広がる。で、画面の端にドットが來たっていう判定が起こると、インベーダー群が端に来たのと勘違いして、ガクツとドがるわけ。インベーダーが端っこに来た段階で1段下がるのに、そのタイミングでUFOを1番端っこで撃つと2段下がる。だから、ナゴヤ撃ちの状態でも画面ギリギリでUFO撃っと、そういうバグが起こる可能性があって、非常に危険な技なんだよ(笑)。
——なるほど(笑)。
田尻: 今のは画面の左端を基準にした話なんだけど、逆にUFOが右端に消える瞬間に撃つと、得点が出る直前で画面端に来たっていうプログラム判定が先に来て、消えちやうんだよね。で、次にUFOが出現した瞬間に得点が入るわけ。だから、UFOが出現した瞬間に「死んだ」っていう判定が来て、得点が入る。それが幻のUFOとかそういう話なんだけどね。
——本当に裏技なんですね。
田尻: あと、これが僕の大好きな「インベーダーカタログ」っていうコーナー。タイトー以外のインベーダーゲームの紹介があるんだよ。任天堂の『スペースフィーバー』とかセガの『スペースアタック』とか。『スペースアタツク』は、プログラムがかなり整備されてて、実はタイトーのよりいいんだよね(笑)。ただそのせ

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いで、インベーダーが2ドットづつずれて、全体が波打つように動くっていうのが、かなり早い。あと、ナゴヤ撃ちのような現象も起こらないし。ある種のユルさ——バグがテクニックのように変化していくことが『インベーダー』の醍醐味なんだけど、プログラムの完璧さを期すと、『スペースアタック』みたく無味乾燥としてしまう。要するに、ここにも出てないようなインベーダーのコピー品は、本当にいっぱいあって、僕が説明したようにあながちパチ物といえず、なかなかどうして頑張っているじやないか、・と。ゲームデザイン上でいうと、ー工夫あって、全体の世界観が変わったり、ゲーム性が上がる例があって、俺としては、タイトーがインベーダ—25周年で復刻版を売るんだったら、どうにかメーカーの壁を越えて、インベーダーのバリエーションを網羅してもらいたいものだと(笑)。
——いや、それは難しいでしょう(笑)。
田尻: それくらいやったら大したもんだと思っているんだけど、まあ、無理だよね(笑)。でも、100歩譲って『スペースフィーバー』くらいはいいかもしれない(笑)。そしたら任天堂の太つ腹さも出るだろうし、ちよつと新鮮なんだけどなあ(笑)。この本は、そういう今でも歴史の裏側に隠れて明らかになってない、インベーダーの1面を思い起こさせてくれるという意味で、とても刺激があるんだよ。

テレビゲー厶の未来、田尻智のこれから

——それじゃあ、いよいよ最後に、ゲームの未来、これからどういうふうになるのか、どうしていきたいかっていうのをおうかがいしたいんですけども。
田尻: 個人的には、ゲームはアイディアを積み重ねてつくっていくことが見えてるんだけども、本当はゲームの外側にもゲームデザインが必要だと思ってるんだよね。つまり、ゲームの魅力がインタラクティブ性にあるつてことは、10年くらい前から言われているんだけど、インタラクティブを成立させるためのデザインは、ゲームの本体だけじゃなく、ゲームの外側にも

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必要だっていう。たとえば、初代のファミコン本体にはコントローラをちょこんって置くへコみがあるじやない。そうすると、遊ばないときは折り目正しい姿をしていて、始めたいと思うときには、すぐに握って始められる。でも、たとえば今のほとんどの据え置きタイプのゲーム機は、ゲームで遊んでないときのコントローラって、ちよつとだらしがない風景をしていると、俺なんか思うわけよ。そういう、ファミコンの工業デザイン、心地よいと思った工業デザインが見せてくれたように、ゲームをする風景自体にも、もう少しアイディアを盛り込めるんじやないかな、と。すぐ遊べて、遊び終わったら心地よくたたずんでくれるようなゲーム環境っていうのかな。それがあって、はじめてゲームって楽しいと素直に思える。そういうゲーム機の周辺をどうするかっていうことも、やりたいんだよね。
——今日の取材のために、あらためて田尻さんが手掛けられてきた作品を触ってみたんですけど、意外に最先端なことをやっていないですよね。比較的、枯れたというか、前にあるアイデイアをリアレンジした作品が多い。
田尻: そういうことはありますね。
——たとえば『ファイナルファンタジー』シリーズは常にトレンドの先端、ビジュアルが新しければビジュアル、ネットワークであればネットワークっていう形を取り込んで新作を出しているわけですけど、ああいう方向性は意外にないのかなと。 (※155)
田尻: それは、任天堂の横井さんから学んだことというかね。まあ、考え方が似ていたのもあるし、非常に勉強になったんだけども、横井さんが言っていた有名な「枯れた技術の水平思考」って言葉があるじやない。それをしばしば思い出すくらい、そういう部分がたぶんにあるんだと思うけども。
——新しい技術に興味はない?
田尻: あるよ。そういう新しい技術で作品を作るってテーマで取り組むんだったらアリだと思う。でも、新しいっていうだけで価値があるとは、あまり信じてないんだろうね。
——たとえば『グランド・セフト・才ー卜Ⅲ』(※156) は、確実にゲームのあり方のフェイズを切り替

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※155: '87年に発売されたシリーズ第1作以来、毎年のように新作がリリースされるスクウェア(現スクウェア・エニックス)の看板RPGシリーズ。ファミコンからスーパーファミコン、プレイステーションへとプラットフォームを変えながら、そのときどきの最新技術を採用。『VII』以降は、オタク臭全開のストーリーとビジュアルで賛否両論を集める。
※156: '01年に欧米で発売された(プレイステーション2)、ロックスター社の傑作ゲー厶。刑務所へ移送中に脱走した凶悪犯を主人公に、'70年代のクライムアクション顔負けのストーリーが展開。〃箱庭"の極みともいえる世界設計、ランページ(ミニゲー厶)を主体とした自由度の高いシステムなど、その内容は(暴力描写の過激さも加わって)大きな話題を集めた。

えたと思うんですよね。ああいう世界の描き方をする、その計算ができるだけのパワーを持つたマシンが出てきたことで、初めて可能になつた。単純に言って、ファミコンではできなかつたことをやっているわけで。そういう新しいテクノロジーが生み出す面白さもある、とも思うんですけども。
田尻: そういう意味ではあるよ。新しい技術かどうかは、認識の仕方だと思うけど。プログラムの仕組み、組み立て方の違いっていうか。それは必要であれば使うと思うし。たとえば、地球全体をシミュレートするようなシミュレーションゲームを作るとしたら、でかいマトリクスを同時並行的に処理するような仕組みが必要になる。だからそれに必要なハードウェアのレベルっていうのはあると思うし、そういうハードがあれば、それを使って作ると思う。ハードと、その考え方によって、仕上がるゲームの肌触りが変わるっていうことは、当然あると思うんだよね。たとえば、さつき話した『インベーダー』の場合でも、元は短冊形のグラフィック画面に絵を置いている。しかも移動は横だけなんで、1ドット単位のゲーム性っていうのが発揮されるわけ。でも、それを'80年代にリメイクするとき、バックグラウンド1枚にスプライトを複数置くっていうプログラムだったり、ハードウェア環境になるわけだよね。すると、そこではフアミコンの『インベーダー』のようなスクウェアな感じに、ゲーム性が微妙に変わってきちやう。与えられたハードウェアに応じてゲームの設計も変わってて、その結果ゲーム性も変わってしまうっていう、わかりやすい例だと思うんだけど。
——そういう意味で、常にゲーム制作者はハードウエアに縛られるわけですよね。すごいアイディアを持っていて、いいタイミングでハードウェアができたから「さあ、このアイディアを乗つけよう」という形では、つくられてない。常にハードウエアの制限ありきで、そこから逆算でソフトはつくられるんじゃないかと思うんです。
田尻: まあ、そうだね。だから、かなりプログラムがものを言う世界ではある。ハードの限界を知ることは、プログラムの限界を試すことで

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もあるし、それとアイディアの実現性は密接に関連はしている。でも、世の中のゲームの多くは、そういう重要な問題をプログラマーに投げちやって、プログラマーが格闘した結果、名作にも愚作にもなるっていう。僕自身、プログラムに多少興味があって、自分でも組んだことあるし、そういうプログラムからの要請っていうのはよく聞くしね。実際、限界を試すっていうシーンもよくあるし。
——横井さんがおっしゃっていた「枯れた技術の水平思考」って言葉は、むしろ、そういう観点から考えた方がいいのかなと思うんですよね。ハードウェアの性能をよく知っているがゆえに限界も探りやすいというか、ずらして見ることができるとい、つか。
田尻: うん。そうだねえ。だけど、そんなに今のゲームの多くが、プログラムの限界を感じながらつくっているのかな。ファミコンでは、そ、っいうことが露わになったときはあつたけど、今のゲームはそう見えなくなってきてるようにも思、つんだけどね。
——キャパシティのギリギリいっぱいまで使うってことは、さほどなくなってきてるのかもしれないですけども。特に海外ではミドルウェアでの開発が盛んになってきてて、マシンパワーのマックスまで行かずに、共通で開発できるところまでは進めて、あとはゲームキューブなりXboxなりプレイステーション2なりの特性に合わせていく、みたいな作り方が増えてきたとは思いますけど。(※157) (※158) (※159)
田尻: なるほどね。
——ちよつと質問の方向を変えると、ある意味、『ポケモン』は自分の幼少期まで掘り返してできた作品だったわけですよね。じやあ、これからあとはどうするんだろうっていうのは、単純に興味があるところなんですよ。
田尻: そうね。確かに自伝的な意味合いはあると思う。『ポケモン』の場合は、僕の体験をほかのスタッフとも共有して、「僕もあった、あった」っていう、スタッフひとりづつが自分にそういう体験を投影していく、そういう方向でアイディアを出して、深みを出したわけだしね。だから、僕の個人的な思いを形にしたといえるんだけど、厳密に言うと、そういう風に見える

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※157:「ミドルウェア」とは、OSとアプリケーションソフトの中間的な性格を持つソフトウェアのこと。各OSに共通する基本的な機能を提供するこの種のソフトは、OSやハードウェアの違いを吸収し、さまざまなプラットフオー厶での開発を容易にする。近年、特に欧米では多機種同時発売の作品が増える傾向にあるが、これは各機種間の格差を解消する優秀なミドルウェアの登場による部分が大きい。
※158: 失敗に終わったニンテンドウ64の後を受けて開発され、'01年に任天堂より発売された家庭用ゲー厶機。メディアには松下電器が独自に開発した8cm光ディスクを採用し、サイコロ状の本体もユ二ーク。開発しやすい環境設計など多くの特色を持ち、能カ的にも現行機のなかでは卜ップクラスだが、市場的に成功したとは言えないのがつらい。

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ように集団で作業したっていう。集団でクリエイティブなことをするときには、そういう幻想発想装置のキモみたいなものがあるんだよね。
——今はそこに次のネタを仕込んでいる感じなんですか?
田尻: とはいえ、僕の人生を総括して作るってことに縛られているというわけでもなし、ほかのスタッフのなにがしかの思いを形にするっていうことも考えられる。ただ、『ポケモン』は自伝的な要素を鑑に作ったといえるけど、そういうものに縛られずに、まったく別な見方のものを作りたいっていうふうに、今は考えているんだよね。『ポケモン』に関しては、今言ったような、僕の自伝的なものを大事にする必要があって、その価値をみんなが認めてくれているわけだから、責任をもって守るシステムを作っているし継続していくけども、新しく作るものに関してはもう少し自分の外部というか、外側の仕組みに興味があるつてことだな。自分の中から出すんじやなくて、外からの刺激を重要視したい。
田尻: うん。たとえば〃交渉〃とかもそう。
『ポケモン』でも交渉して交換するわけだけど、それをネットワークで繋いだだけで交渉できるようにするにはどうしたらいいのか、とかね。外部っていうのは、たとえばそういうことなんだけど。他人と言葉で交渉するのを、ゲーム上で表現するっていうのは、どういうことなのかとかさ。
——コミュニケーションの不可能性みたいな。
田尻: そうそう。個人史的なものはさて置いて、ゲームが外に開くときに必要なものっていうのは、そういうレトリックを獲得することだと思うし、そこは非常に今、気になってることなんだよね。そこでのブレイクスルーが見つかれば、ちよつと新しいものが提供できるんじやないかと思ってるんだよ。たとえば、携帯でもみんな喋っているじやない。喋らないときにはメールを交換したりとか。ああいうことをゲームの世界でやるとしたら、なにが基準になるのかな、とかね。どういうデータが必要になるのかっていう。そういうことが見えてくると、交渉全体がゲームの世界を作るってことがありえる。しかも、交渉が世界を変えるとなると、それを街

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※159: アメリカでは,01年、日本では翌'02年に発売されたマイクロソフトの家庭用ゲー厶機。CPUにペンティア厶Ⅲを搭載するなど、windowsマシンに近い設計となっており、ローコストで開発環境が整えられる点は大きく評価できる。また、いち早くネット環境への対応を打ち出し、「Xbox Live」をスター卜させるなど、ユニークな展開を見せたが、日本市場では苦戦を強いられている(アメリカでは大きなシエアを占めることに成功した)。

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の規模にするか世界の規模にするか、それとも宇宙の規模でやるのか。スケールの観点を変えるとゲームのテーマも変わるし、そこは思案中なんだけども。
——やっぱり『ポケモン』で出した〃交換〃っていうアイディアは大きかったんですね。
田尻: 大きかったね、あれは。実は一度『ポケモン』でも、お金も一緒に交換できるっていうバージョンを作ってみたんだけど、お金の交渉っていうのが、ゲームの外側ではうまくできないわけだよ。現実のお金のリアリティと違うから。ピカチュウに100円つけることがお得感になるのかっていう。で、そのときは問題ありで保留になったんだけど、そういう交渉の仕方がゲームの世界を変えるっていうときに、アイディアのインスピレーションになりそうだなと思う。あんまりバラすと、ちよつとマズイんだけど(笑)。
——そうですね(笑)。
田尻でもまあ、わかってくれるでしょ(笑)。

[[IMAGE CAPTION|
宿泊記念
]]
[[IMAGE CAPTION|
平成6年10月7日
]]

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