A Man Who Created Pokemon/Chapter 3/Satoshi Tajiri's 90s

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第3章
田尻智の年代

『クインティ』の成功を受け、自身の会社「ゲー厶フリーク」を設立。90年代の田尻智は、ひたすらに〃大人〃としての成長を自らに課した。学生時代からの仲間たちの大量離脱、外部プロダクションとの軋轢、経営の危機……。そうした〃大人〃なトラブルの数々に悩まされながら、彼はひとつの作品に着手する。『ポケットモンスター』。5年以上の年月をかけ、のちに世界中で大ヒットとなるこの作品を制作しながら、彼は何を考え、何を作品に定着させようとしたのか。そして『ポケモン』のヒットは彼にいったい何をもたらしたのか。モラトリアムのまどろみから脱しながら、自らの原点を再確認するにいたった暗中模索の90年代を振り返る。

(2003年3月19日和泉多摩川にて収録)

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次の一手は
はなはだボンヤリしてた

——前回はようやく『クインティ』の完成まで、お話をうかがえたんですが、今回はそのあと'90年代の活動についてうかがいたいと思います。とりあえず、ゲームフリークを会社にした時点で、メンバーは何人くらいいらっしやつたんですか?
田尻: 最初は6人くらいだったかな。当時、株式会社にするためには7人くらい必要だったんですよ。で、『クインティ』を作った後、関係してたメンバーの半分くらいはフリーでやってたんだな。スタッフのひとりひとりは、あまり会社に勤めてどうこうっていうパーソナリティじやなかったんだけど、会社のシステムに登録しなおさないと、プロとして継続するのは難しかったんだよね。だから、社員として給料を払、つから継続して一緒にやろうとい、つ人と、フリー的な立場でアイディアを提供してもらって、企画ごとに一緒にやる人が半々くらいにわかれてて。社員になったのは3人くらいで、ほかの人は出入りしててもフリー扱い。それは前回も少し言いましたけど、インディペンデントでゲームをつくったのはいいが、継続して作るというよりは、そのときの情熱でつくったとい、つイメージが強い。じやあ、継続していくにはどうすればいいのかとい、っと、結果は見えているんだよね。株式会社みたいなシステムにして、メンバーが社員になるのがいいんだけど……、まあ、若いから、そうい、っことがまだ見えてないんだよね、僕も。杉森なんかも会社に入ったのは、それなりに経ってからだし、昔からいるんだけど、社員ではなかった(笑)。でも、杉森に限らず、そういう人がまわりにいっぱいいたんですよ。
——あはは(笑)。
田尻: ただ、その頃でもわかってたのは、プログラマーはずっといないと話にならない。だから、優先的に社員にしたのはプログラマーだよね。ゲーム制作には、グラフィックとかゲームデザインとかいろんな要素があるけども、たとえば会社が小さいときにゲームを1個つくるとすると、音楽は最後の方に必要になる。そうい

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う制作上のリアリティもあって、株式会社としてのスタートラインは、まずゲームを1個作るためのスタッフのうち、スター卜から完成までずっと必要な人が社員(笑)。で、中間とか終わりの方で必要になる人はフリーのスタッフってい、つ。それで、トータルで10人くらいはいたんですよ。
——じやあ、『クインティ』のプログラマーがそのまま社員になったわけですね。
田尻: そう。『クインティ』を作っている終わり頃に、そういうことを考え始めて。で、実際に完成して世の中に出したら、評価もそこそこよかった。そこで、次を作るには、会社にする必要があるっていう意識が強くなってきたっていう。いろんな会社に企画書を持って行ったりもしたんだけど、そのためには説得力が必要になってくるというかね。フリーだったり個人だったりということが、非常に大きな壁になってきたんだな。最初はゲームを作るための人数さえいればいいと思ってたんだけども、実際に苦労して登記をして、本格的に「株式会社ゲームフリーク」という見てくれができてしま、っと、今度は成長する可能性を第三者に説明する必要が出てくるわけだ(笑)。当時のイチオシの企画は『ポケットモンスター』だったんだけど、それだけじゃ食っていけない。それで、設立当初に考えていたイメージが変わってきて、複数のゲームを同時につくるやり方が必要だとか、スタッフが必要だとかそういうことを考えるようになる。結果的に『ポケモン』は社内でつくるけども、『ジェリーボーイ』だったり、ほかのものもほぼ同時に始めて。(※89) 同時に複数を作らないと、プロとして継続するのが難しいという思いが、そういう同時進行的なやり方を要請したつてい、つことだよね。
——一番最初に話をしに行ったのが、糸井さんの事務所(エイプ)だというお話は、この間聞かせていただいたんですけど、あとはセガとソニー・ミュージック。(※90) (※91) ほかにもいくつかあったんて力?
田尻: うん。いろんな方向に細切れに「ゲームをつくりましょう」ってアイディアを投げているうちに、ソニー・ミュージツクとエイプに絞られてきたってことだよね。当然、ナムコで次

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※89: '91年9月にエピック・ソ二ーより発売されたスーパーファミコン用ソフト。株式会社となったゲー厶フリークの制作、第1作目。基本は、シンプルな横スクロール(サイドビュー)タイプのアクションゲー厶だが、十字キーを押すことで主人公のジエリーの身体を自在に伸ばせ、このアクションをつかって敵を倒したり、壁や天井にくっっくことができる。ユニークなゲー厶性とポップなキャラクターが魅力。
※90: 糸井重里が、テレビゲー厶制作のために立ち上げた制作スタジオ。『マザー2』およびゲー厶攻略本の制作をメインに活動していた。
※91: 正しくは「ソニー•ミュージックエンタテインメント(SME)」。米CBSとの提携によってできたCBSソニーを母体とし、CBSとの契約終了後にSMEへと改称。ゲー厶制作にも、「エピック・ソニー」レーベルを通

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の作品をやろうとも思ってたんだけど、『クインティ』を持ち込んだ当時の営業の課長だったり営業部の人が独立して、話をしに行く相手がいなくなってしまった。今井さんって人がいて、彼が独立してつくった会社が、アイマックスだったりするんだけども、まあ、そういう流れで、ナムコとやろうと思ってた企画が立ち消えになったんだよね。(※92)
——さっきの話に戻りますけど、そういう同時進行的なやり方っていうのは、要するに全員が同じプロジェクトをやるのではなくて、プランナーは企画を、プログラマーはプログラムを、グラフィッカーはグラフィックを、それぞれバラ売りできるようにするということですよね?
田尻: そう。会社に登記した後で「会社である」というのはどういうことかとか、逆算で考えているうちに、そういう必要にせまられてきた、と。毎日、ゲームフリークのスタッフと一緒にいるわけだけど、立ち上げた当時は、今みたいにプロとしてやることが明確にわかっているというよりは……『クインティ』を仕上げたという実感はありながら、次の一手をどっちへ打つのか、はなはだボンヤリしてて。
——それじゃいけないのに(笑)。
田尻: 会社にした後になって、それを守るにはどうしたらいいのかっていう。いわば自己防衛カというか。そうやって考えると、ひとつのゲームをつくるのにゲームフリーク全体が動くよりも、複数のものを同時にこなした方がリスクヘッジになる、とかね。

外部プログラマーとの抗争『ジェリーボーイ』

——当時の作品リストを見ると、一番最初に発売されたのは『ジェリーボーイ』で、『ヨッシーのたまご』がほぼ同時期。そして翌年の4月には『タルるート』と立て続けにリリースが続きますよね。(※93)
田尻: だから、『ジェリーボーイ』と『タルるー卜』あたりまではほぼ同時ですね。『タルるー卜』は、杉森がグラフィックマタ—でディレクションをやるとい、つ感じで、完全に任せたプロジェクト。逆に『ジェリーボーイ』は、僕が

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して積極的に参画し、それがのちの「ソ二ー•コンピュータエンタテインメント」のソフトウェア部門へとつながつていく。
※92: '90年代序盤に設立されたゲー厶制作会社。『ファミコン将棋竜王戦』を初めとする将棋、囲碁ソフトを中心に、ファミコン、スーパーファミコンでソフトを発売していた。
※93: 正しくは『まじかる☆タルるー卜くん』。'92年4月にセガより発売されたメガドライブ用ソフト。江川達也の人気漫画(「週刊少年ジャンプ」連載)を原作にした、横スクロールタイプのアクシヨンゲー厶。主人公のタルるー卜が持っている、モノに顔を描くことで生命を与える〃魔法のペン"に着目し、システムの中核に据えている点が特徴。
※94: '81年、有限会社シス

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企画とゲームデザインを中心に手掛けて、プログラムを別の会社がやる。『ジェリーボーイ』のプログラムは、システムサコムの伝説のプログラマーっていう人がやることになるんだけど、現実には、それも結構大変だったんだよね。(※94) 彼は、なるべく現実のシミュレータのようなものをつくりたいと思ってたんだけど、僕はもう少しゲームデザインの歴史みたいなものが反映されたアイディア、ゲームとしてのデリカシーを気にしながらアイディアを出す。そこに、齟齬があったんだな。なかなかうまくいかなくて、結構時間がかかった。
——実際、2年かかってますからね。
田尻: 今こうして振り返ってみると、同時にやっても順番につくっても同じような気もするんだけど、当時のゲームフリークのメンバーの習熟度とか、業界全体の趨勢を考えると、いたしかたないというかね。『ジェリーボーイ』は、最初はもう少し早く仕上げようと思ってたんだよ。当時、ソニーは任天堂と共同で次世代機を研究してたんだけども、そこを踏まえたうえで、キャラクタ—の動きのユニークさを売りにしたものを育てたい、と。(※95) ソニー・ミュージックがこれからゲーム業界に入っていくときに、セン夕ーポジションに影響する、そういうものとして、『ジェリーボーイ』を考えてた。でも実際には、制作が長引いて、しかも『2』をスーパーファミコンでつくっている、つちに、ソニーと任天堂の共同プロジェクト自体が流れてしまつた。(※96) それで、ソニーがプレイステーションを独自に作ることになるわけだけど、その方向転換と一緒に『ジェリーボーイ』シリーズもプレイステーションに移行することになったんだよ。(※97) でも、その方向転換があまりに唐突だったために、プロジェクト自体が途中で終わってしまつて、結局、世の中に出たのは最初の『ジェリーボーイ』だけっていう。
——じゃあ、『ジェリーボーイ』のシリーズ自体は、田尻さんからすれば、長く続けるつもりだったわけですね?
田尻: そう。当時、セガとソニーと任天堂が、ゲーム業界の三本の柱というふうに見えてたんだよね。その3つに、等しくソフトを供給しようっていう発想。同時進行でつくろうとしたと

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テムサコ厶として設立。「石油メジャー系列の商社に勤務」という触れ込みの天才プログラマー、マーク・フリン卜を擁し、PC-9801の傑作ピンボール『厶丨ン•ボール』やアクションRPG『メルへンヴェール』、重厚なシナリオが話題を呼んだ『ドー厶』などのアドベンチャーゲー厶を発表。'90年代に入ってからも、メガCD用ソフト『夢見館の物語』の制作などに携わっていた。
※95: '90年1月、スーパーファミコンへの音源IC供給などを通して距離が縮まっていたソニーと任天堂は、「CD-ROM採用の次世代ファミコン」の共同開発を発表(このときの名称が「プレイステーション•プロジェク卜」)。翌'91年にソ二ーはスーパーファミコン互換の「CD-ROM機」を発表するが、その翌日、任天堂はフィリップス社とのシステム共同開発を発表。任天堂のこの方針転換は業界に大きな衝撃を与え、約1年の交渉期間を経た

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きに、どれかひとつの勢力に傾くというよりは、等しくアプローチして、どんどんシェアを広げていこうと思ってたんだよね。ゲーム制作のプ口集団として続けていくんなら、どこかの勢力に傾くよりは、センタ—にいた方がいい、と。……なんだけど、結果的には『ポケモン』が著しく遅れて。
——そうか、『ポケモン』は任天堂プロジェク卜だったんですね(笑)。
田尻: そう。糸井さんがエイプを立ち上げて、じやあ任天堂へは糸井さんが窓口でっていう。自分としては、『ポケモン』のプロジェクトと同時に、ソニーもセガもやって、バランスのいいやり方だと思ってたんだよ。でも結果的には、全体に負担がかかるようになってくるし、最後はゲームフリークが全体でつくるというふうになる。なかでも、一番遅れたのが『ポケモン』だよね。当時は、1メガでもわりと容量が大きいと思われていた時代だったし、ゲームボーイでRPGをつくるっていうリアリティと、自分がつくろうと思ってたものの間で、全然バランスが取れてなかった。
——それじゃー番うまくいったのは『タルる一卜』?
田尻: そうだね。『タルるート』が出たことで、やっとプロジェクトを立ち上げてから完成までできたっていう。ラインが、ある程度リズムをもってきちんとまわったとい、つかね。で、全体のスケジュールがおされて、苦しい思いをしていくのと同時に、『ポケモン』にはまだまだ時間がかかる。なかなか形にならなくって、当時エイプにいた石原さんに相談をしに行くわけだ。 (※98)「苦しいんです」と(笑)。苦しいっていうのは、金銭的に苦しいと、「苦しい」って思うわけだよね。ゲームの出来がどうこうっていうことに関しては、つくっているときはあまり不安にならないんだけど、さっき言ったように、社員にしたんだからお金を払わなきゃいけない。責任上、月単位に支払う給料があって、それが目に見えて苦しくなるのが、'91年くらい。『ジェリーボーイ』ができるかできないかくらいだね。
——社会的な責任が大きくなってくる。
田尻: で、『ジェリーボーイ』も最初は『ジェ

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'92年、ソ二ーは経営会議でゲー厶ビジネスにおける独自路線を決定、'94年のプレイステーション発売へとつながっていくことになる。
※96: '90年に任天堂より発売されたゲー厶専用機。ファミリーコンピュータの後継機として開発された16ビットマシンで、画面回転機能といつた特徴を持つ。
※97: '94年、ソ二ー•コンピュータエンタテインメントより発売。3DCG処理システム「ジオメトリ・エンジン」を搭載し、メディアにはCD-ROM採用を採用。ポリゴンを初めとする流麗な3D映像とその革新性は、大きな注目を集めた。また、プリントメディアの特性を活かして、ソフト価格を低く抑えることに成功し、追加注文にも素早く対応するビジネスモデルを確立。セガの次世代機「セガサターン」と競い合い、いわゆる〃次世代機戦争"を巻き起こすこととなる。

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リービーン』って名前——もう少しアメリカのマーケツトをイメージしたタイトルを考えてたんだけど、あとで商標を調べたら使えなかったり。そういう制作上の困難なんかを、石原さんにひとつひとつ説明したんだよね。状況を整理すると『ジェリーボーイ』はまだできてなくて、『タルるート』は完成が見えてきた。で、『ポケモン』は相変わらず見えない、と。
田尻: そう。『ジェリーボーイ』は、本当にどうしょうもなかったわけだよ。プログラマーと話をしても、納得して制作に取り組めない。横浜線の菊名っていう駅に彼がいて、遠い所まで打ち合わせに行くんだけど、プログラム上のポリシーが違う。僕としては、ゲームをつくるんだから、ゲームにしたい。ゲームづくりのやり方はちよつと違、つから、そこを直したいって言うんだけど、「いや、これは物理法則に反している」と(笑)。たとえば、ジャンプにしても、飛ぶと地面に張りつくようなジャンプをするわけだよ。でも『スーパーマリオブラザーズ』を見てもらえばわかるけれども、ゲームの場合、穴を飛び越えたら、つま先で引つ掛かってギリギリで飛べたっていうようなジャンプが気持ちいいわけ。そこにプログラマーは気づいて、『スーパーマリオ』はああいうジャンプになつてる。そこをシビアにつくってしま、っと、気持ちとしては飛んでるのにミスになってしまう。プログラムとしては正しくても、ゲームとしては納得いかない。だから、あまり物理法則に忠実につくってもらってちや困る……とか、そういうことがあって。だいたい、現実的な現象をリアルに取り込むっていうと、そもそもスライム状のものが飛んで壁にピタッとくっつくみたいな話自体、成り立たないわけじゃない(笑)。でも、こっちはそういうものをやりたい。いろんなところにくっつきたいと思って、飛び上がつたらくっついた、そういう現象をプログラムとしてつくりたいと。でも、プログラマーの考え方と違うから難しいわけだよね。それで俺も、うまくいかないんなら完成しなくてもいいやって思うほど揉めて。しかも『タルるート』もまだ出来上がらないし、『ポケモン』なんて全然完成が見えない。どうするんだよ、と。

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※98: '57年、三重県生まれ。筑波大学大学院を修了後、西武グループの映像制作会社であったセディツクへ入社。その後、エイプに移り『マザー2』のプロデューサーを経て、'95年にクリーチャーズを設立。現在は、株式会社ポケモン代表取締役社長。

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プロとしての力量を問われた『ヨッシーのたまご』

——ちよつと細かい話になりますけど、制作費というのは毎月お金が支払われるんですか?
田尻: 当時のウチのやり方をざっくりと言うと、開発費の半分が最初に出て、残りは完成時に出る。それが基本で、契約によってはもう少し細かく——アルファ版でおおむね完成したところで3分の1づつ、真ん中でも支払うこともあった。 (※99)
——単純に言うと、開発期間が長引けば長引くほど、資金がなくなるっていうことですよね。
田尻: そう。だから、プロジェクトを立ち上げるときにはお金がある。でも、最後まで責任をもって作らないと、あとあと自分の首を絞めることになるんだな。だから、『ヨッシーのたまご』をつくることになったのは——俺は食わなくても、情熱があるからいいんだけど、他のスタッフは違う。それで、石原さんと話をした結果、じやあ任天堂に相談してみよう、と。で、横井軍平さんを紹介してもらって、「半年でワンアイディアで、ゲームボーイとファミコンで両方同時にリリースできるものをつくれるか」って言われたんだよね。で「やります」と。
——結局、その時点で『ポケモン』の開発はストップしたんですよね。
田尻: そう。だから、『ヨッシーのたまご』をつくるときは一番、ゲームフリークとして全力を投入したってことだよね。一時的とはい、え、ほかのプロジェクトをすべてストップして、半年間全部フルでつくる。そのときに、当初の方針をちよつと変えたんだよね。
——それくらい危機感が強かった?
田尻: 強かった。『ヨッシーのたまご』は、その危機感が強かったからできたとも言える。ほかのものは、わりと「自分がっくりたいものは何か」っていう、非常に基本的なゲームアイディアの考え方に沿って打ち出してたんだけど、『ヨッシーのたまご』の場合は完全に〃宿題〃だよね。任天堂から、強力にスケジュールを言ってもらって、それに従ってちやんとできるのか。そういう課題に取り組むことで、精神的に

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※99: ソフトウェアやハードウェアの開発初期バージョンのこと。テレビゲー厶開発においては、基本的な仕様をすべて入れ込んだ状態のものを指す。このアルファ版で、基本的なゲー厶の概要を把握し、それをもとに完成一歩手前のべータ版を制作、さらにバグフィックスをおこなって完成となる。

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全然別の方向に行ったっていう。
——それで社員やまわりのスタッフは納得したんですか?
田尻: うん、まあ、納得はしたよ。その頃は、ゲームがなかなかうまく仕上がらなくて、いろいろ手掛けてはいるんだけど、まだ世の中には1本も出てない。悶々としてたとい、つかね。だけど『ヨッシーのたまご』は、やれば確実に商品になることがわかって、それでつくり込む。そこはメンバー自身も、わかってくれたんだと思うけども。
——ここから先はパパパっとリリースが続きますよね。しかも、そうやって制作した『ヨッシーのたまご』が一番売り上げ実績がいい、みたいな(笑)。
田尻: そうだね。当時の任天堂の考え方としては、『Dr.マリオ』が出て、ゲームボーイもファミコンも、同じシステムとクオリティのソフトがリリースできる。(※100) そのこと自体に、かなりお得感があったということだよね。「ほかに同じような商品があれば、販売したい」と営業も言ってきて、横井さんも「アイディアがあるんだったらやりたい」と。で、石原さんに「田尻ならできるから」って強く推してもらつたんだよね。その期待にも応える必要もあったし、そういう意味で、本当のプロになれるかどうかの大きい橋は、『ヨッシーのたまご』だった。
——ちよつと話は戻るんですけど、『ポケモン』の企画を持っていった当時のエイプは、どういう雰囲気だったんですか?
田尻: 最初は、制作会社というか、糸井さんの事務所の延長みたいな感じだったんだよね。なんか作家が文章を書くだけでアドベンチャーゲームができるシステムを出すとか言ってて。それはすごい、と。まあ、それは結局、出なかつたわけだけども(笑)。
——ちょうど『マザー』を出した直後くらいの時期ですよね。 (※101)
田尻: そうそう。エイプ社内で、唯一動いていたのが『マザー2』だよ。(※102) それを仕切っていたのが石原さんで。今『ポケモン』で一緒にやってるけども、石原さんとはエイプに行く前から知り合いだったんだよね。当時、石原さんはセディツクっていう会社にいて、西武系の広告制 (※103) (※104)

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※100: '90年、任天堂より発売された傑作パズルゲー厶。内容はいわゆる〃落ちもの"系のアクションパズルで、プレイヤーは次々と落ちてくるカプセルをうまく配置して、同じ色のカプセルとウィルスをそろえ、消していく。シンプルだが奥の深い内容。
※101: '89年、任天堂より発売されたファミコン用ソフ卜。当時コピーライターとして一世を風靡していた糸井重里が制作し、いわゆる西洋フアンタジーとはひと味もふた味も違う、少年と少女たちの成長物語は多くの人々の心に強い印象を残した。クオー夕ービューを採用したグラフィック、糸井自らが手掛けたシナリオなど、そのクオリティの高さは折り紙つき。続編『2』とのカップリング版がゲー厶ボーイアドバンスでリリースされている。
※102: 正しくは『マザー2ギーグの逆襲』。'94年、任天堂より発売されたスーパー

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作会社っていうのかな。今はないけど、六本木にあったWAVEのビルの上の方の階に入ってた。 (※105)
——ああ、ありましたね。
田尻: それで、セディックにいた頃、石原さんがゲームの本をつくりたいと思ってて、僕に連絡をくれたんだよね。
——それが「電子遊戯大全」になるんですね。 (※106)
田尻: そう。で、セディックで「電子遊戯大全」なんかをつくった人たちが、のちのエイプを立ち上げて『マザー2』をつくるときの母体になるわけ。僕はセディックのメンバーが移ったことも知っていたから、エイプにも制作する母体があるもんだと思ってた。でもまあ、『マザー2』も『ポケモン』と似たような制作体制とりズムだったんだな(笑)。で、ほかに渡辺さんって人がいて、彼が書籍の仕事、エイプの攻略本をやってるという。結果的に世の中に出るのは出版物が多かったし、エイプは出版をやってた会社のように見えるけど、エネルギーとしては『マザー2』にかなり注ぎ込んでたんだよ。(※107) で、現場に行くと、やっぱり糸井さんの事務所っていうイメージというか、打ち出しが強かった。同じビルの別の階に糸井重里事務所と工イプがあったんだけど、どっちも似たような感じがしたね。で、『ポケモン』の企画が通って、取り組むことになるんだけど、やっぱり難しいんだよね。結局、エイプから強いスケジュール管理とか、要求が出てこない。だから、エイプとやるというよりは、自分でどうにかしないと、いつまでたっても仕上がらないっていう。結局、『ポケモン』のプロジェクトも、スター卜の時点では、『クインティ』と同じようなことになってたんだよね。
——今、聞いて、なるほどと思ったんですけど、エイプって、西武文化の流れというか、最終終着地だったんですね。
田尻: そうだね。あとは、セディツクが制作した「TV's TV」ってテレビ番組があった。(※108) 海外のテレビ番組とか映像とか、ゲームの画面を集めた番組なんだけど、それは石原さんが興味を持ったことが、きっかけだったんだよね。
——なるほど。90年代前半にこうポンポンとりリースしていくなかで、比較的うまくいった作

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ファミコン用ソフト。前作の成功を受け、制作された続編だが、その完成までにはかなりの紆余曲折があり、結果的には開発に5年近くかかることとなった。たびかさなる発売延期にも関わらず、その内容は前作にひけをとらない。
※103: '83に設立されたセゾングループ系列会社のひとつ。「TV's TV」を初めとするテレビ番組制作や映画製作を行っていた。2000年に倒産。
※104: '40年に創業された大手百貨店グループのひとつ。オーナーである堤清二の指導のもと、'70年代から文化戦略ともいえる方針をスター卜。「ただモノを売る百貨店」から「情報発信基地としてのデパー卜」へとその姿を変えていく。
※105: 現在ではちょうど六本木ヒルズのあたりにあった黒いビルが、西武系列のレ

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品ってどれですか?
田尻: 『ヨッシー』はうまくいった作品かな。でも、『ヨッシー』のあとに『マリオとワリオ』をつくって、ちやんと続けて任天堂の商品を提供できたということが大きい。(※109) あと『ヨッシー』は、仕上げたあとに海外で発売するときに、NTSCとPALで走査線の数が違うからスピードが変わるとか、そういう現象があって。そういうゲームバランスの微妙な部分を、現場レベルで調整したこともあって、経験値が上がった仕事。
——世界中でゲームで売るには、何をやらなきやいけないかっていうのがリアリティとして掴めたとい、つか。
田尻: あとはその頃、会社を作ると通過儀礼のようにして起こる現象とい、つのがいくつかあつて。エピソードとして話すと、たとえば最初は、ゲームが好きな人間が集まるから、男ばっかりなわけだよね。で、会社として成長するためには、そこに女の子も入れようと(笑)。そうすると何が起こるかというと、まあわかりやすいんだけども、当時いた女の子が複数の男性社員と関係して、人間関係が壊れてしまった(笑)。その挙句にスタッフが辞めたりして、10人のうちの5人に辞められると痛いわけだよね。しかも、任天堂からは「次は北米向け、欧州向けにデータを書いてくれ」って依頼が来る。こっちじや、そのプログラマーが辞めるって言ってるのに(笑)。そういうレベルの話が、現実の問題として起こったわけ。今から考えれば、複数の人間を雇っているなかに女性を入れれば、当然そういうことはありえるってわかるし、あとでチュンソフトの中村君とそういう話をしたら、彼はもうとっくにそういう経験を済ませてて(笑)、「俺は面白がって見てるけど」って言われたりね。(※110) 経験者は、そこは違うのかなあと(笑)。まあ、そのあと、あまりジクジクと悩んだりしなくなったけどね。
——段々と人が増えていくと、避けられない卜ラブルですよね。
田尻: 「辞める、辞めない」って話にしろ何にしろ、最初はすごくリアルに悩んでたわけ。でも、そういう人間関係の問題は、解決しても次から次へと起こって、まったくラチがあかない。

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コード店「WAVE」六本木店。地下にはミニシアター「シネヴィヴァン」を、そして上のフロアには芸術書や現代音楽を扱う「アールヴィヴアン」を構えたこのビルは、池袋•渋谷と並ぶ、セゾングループのメセナ戦略の最前線基地だった。六本木再開発に伴い、このビルは取り壊された。
※106: '88年に発刊された、テレビゲー厶の卜ータルカタログ。総監督に石原恒和、そしてデザインに鈴木一誌という布陣で制作。この年までに発売されたソフトタイトルのうち主要なものをほぼ網羅しているほか、開発会社やクリエイターの詳細なデータやインタビュー、テレビゲー厶に関するコラムも掲載。田尻氏も一部執筆で関わった。
※107: 旅行ガイドを模した「マザー百科」の刊行からスター卜したエイプの攻略本は、その圧倒的なクオリティによって大きな話題を集め

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あまりそれに囚われてもダメなんだってことが経験してわかってきて、それだったら、僕は社長なんだから、リアルに喜怒哀楽を示すより、別に窓口を作って、総務的な仕事を専門でやる人を雇ったほうがいい。それに気づいたのが『ヨッシー』を作る間の出来事なんだよね。だからはっきり言って、当時は、ゲームをつくることとはまったく別のことで悩んでたんだよ。っくるのはいいが、現場はどうなのよっていう。

ゲー厶制作者として会社経営者として

——逆にいうと、今まであまりそういうことを考えなくてよかったわけですよね。
田尻: 当時はまったく予想してなかったから、ちよつと動揺して、メンバーと海に行ったりしましたよ(笑)。精神的に立ち直ろうとしてね。
——ああ。それはわかる気がします。
田尻: あるサイズのところまでは、そういう悩み事がストレートに社長のところにくる。それはもう、どんなゲームをつくるかというのとはまったく別の次元の話だけども。
——その時点で、人を雇い入れないと会社的に間に合わなくなってきてたんですか?
田尻: というかさっきも話したように、株式会社の宿命として、「将来、このように良いことがあります」っていうことを第三者に積極的に説明する必要があるんだよね。ゲームクリエイ夕ー的な考え方で行くと「次に出るゲームはこんなに面白い」と思ってはいても、出来上がるまでは言わないほうがいい。あまり具体的に説明しちやいけないんだよ。たとえば(任天堂の)宮本(茂)さんでも、発売前にはゲームの内容を言わない。(※111) あれはゲームクリエイター的なルールなんだけど、アイディアというものがゲームのオーラをつくる。それを出来上がる前に話してしまうと、その希少性とか斬新さが失われてしまうわけだ。その一方で、株式会社の社長のようにリーダーシップを取る立場になると、「今後、かようによくなります」っていうことをなるべく積極的に第三者に説明するべきなんだよね。つまり、事前に言わなきゃならないことと、事前に言っちやいけないことのジレンマ

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た。横長特殊版型の「スーパーマリオワールド」など、攻略する作品にあわせたデザインと内容は、今ある攻略本のお手本となった。また初めて"メー力ー公式"というポジションを明確に打ち出したことの功罪は大きい。
※108: '87年、フジテレビで放映された4時間にもわたる深夜番組。「100台のテレビに映っている映像を順番にザッピングしていく」という構成で、チャールズ•レイの「POWERS OF TEN」などの実験映像や三原山のドキュメント映像、環境ビデオ、アジアのニュース、『ブ□ックくずし』を始めとするゲー厶画面などが前後の脈略なしに次々と流された。

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が発生する。たとえば『ヨッシーのたまご』っていうタイトルは事前に言ってもいいんだけど、それがどんなゲームなのかは完成まで言っちやいけない。だから、僕自身のやるべき役割がふたっあって、それをその都度、切り替える必要があるんだよね。その結果、仕事がオーバーフロウしていくのを、ほかの人が手伝うことで、効率的にゲームの仕事ができるようになる。それが具体的には、スタッフを増やしていくってい、っことになるんだけど。
——といっても、人を増やすと教育もしなきやいけないし、能力を見抜く必要も当然出てくるわけですよね。
田尻: だからそれは、非常に長い時間をかけてやっています。ゲームをつくる立場でものを考える人と、ゲームを解釈して、持続的に運営する人。それぞれの人を必要に応じて教育して、しかもゲームフリークに合うプロフェツショナルに育てていく必要がある。で、'90年代の中頃から、どういう教育をするのか、どういう評価をするのかをデータとして集積し始めたんだよね。それがわからなかった頃は、ほかのゲーム会社ではどういう新人教育をしているんだとか——単純に言えば、新しく採用した人が前に別のゲーム会社に勤めてたとするじゃない。そうしたら「前の会社に入ったとき、どうだった?」とか「最初に何をやった?」とか(笑)。ほかのゲーム会社でやってることを聞いて、それをゲームフリークに合う形でデータ化していくっていう。
——制作者としての田尻智もいれば、経営者としての田尻智もいる。そのふたつに分裂せざるをえない。
田尻: そうだね。チュンソフトの中村君なんかはわかりやすくて、ゲームクリエイタ—的な面を背負わない。それは僕自身とは少しポジションが違って、今の僕は切り替えてやっていこう、と。
中村さんは、完全に経営者として振る舞ってますからね。
田尻: それにはわかりやすい話があって、彼は背広を着てるじゃない。あれは「社長である」とい、つのを、わかりやすく象徴したスタイルとして選んでるんだよね。でも、たとえば糸井さ

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※109: '93年8月に発売された、スーパーファミコン用ソフト。バケツをかぶり、勝手に動きまわるマリオの行動を先読みし、画面内の特定の場所をマウスでクリツク、うまくゴールまで導くという内容。
※110: '84年、『ドアドア』を開発したばかりの中村光一氏により設立されたゲームソフト開発会社。『ポートピア連続殺人事件』や『ドラゴンクエスト』シリーズに参加したのち、『ドラクエ』の人気キャラクター、〃トルネコ〃を主人公にした、ダンジョン自動生成型のRPG『トルネコの大冒険』を発表。その後も『弟切草』を初めとするサウンドノベルシリーズなど、ヒット作を送り出している。
※111: '52年、京都府生まれ。金沢市立美術工芸大学を卒業後、任天堂に入社('770デザイナーとして『ドンキーコング』を初めとする作品群を制作し、その圧倒的なクオ

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んは、スーツを着ることはない。だからさっきも話したように、エイプは会社というよりも糸井重里事務所の延長だなと、僕は思ったわけ。僕自身の話をすれば、最初は、ゲームマニアが集まってできた会社なんだから、スーツを着ないっていう選択をしたの。で、僕はもちろん、みんな午後に起きてきて、夜の7時、8時になるとようやくエンジンかかってきて(笑)。で、明け方になるとエンジンが冷めて、寝る、と(笑)。そうすると、さっき言った通り『ジェリーボーイ』の打ち合わせが朝10時からあっても、行けるわけがない。「失礼だ」とか言われるんだけど、「朝、早く起きるのが僕の仕事じやないもん」とか(笑)。ゲームフリークのなかのシステムとしてはそれでもいいんだけど、新しく入ってきた人にそれをどう説明するのかとか、いろいろ考えると、そういう自由さも決していいとは言いがたい。それで、会社のルール作りを始めようと意識した時点で、自分でスーツを着るようになったんですよ。ほかのスタッフにスーツを着ろとは言わないけども、俺は社長だからスーツを着るよ、と。それが、やっぱり『マリオとワリオ』の頃かな。そうすると、ほかのスタッフに細かいルール——何時に起きて、何時に出ろってことを細かく言わなくても、それぞれのメンバーのなかにそういう意識が育ってきたんだよね。糸井さんには「なんでスーツなんか着るんだ」「中村と田尻はスーツを着てきておかしい」って言われたんだけど(笑)。
——それは、結構いろんな場面でブチ当たる問題だな、と僕は思うんですよね。クリエイティブな側面と、経営者的な側面をどう棲みわけるのかっていう。僕は、その両方をひとりでやるのは難しいと思ってるんですけど、田尻さんがどっちに振ってるのかは気になりますね。やっぱり今は、経営者的な側面が強いですか?
田尻: う一ん、どうかな。今はどちらかというと、経営的な側面が強いのかな。いろんな右往左往を経て、5年くらいかけて『ポケモン』を仕上げたときに、制作のプロ集団としてのゲームフリークは、ひとつ、大きなテーマを出した気がしてるんですよ。ゲームフリークはゲームをつくって、いろんな会社に良質なソフトを供

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リティによって任天堂の名を世間に轟かせる。現在でもプロデューサーとして、多くの任天堂作品に関わり続けている。

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給する。その外側には、さらに大きなビジネスのボリュームがあって、そこをウチが吸収して自分でやるようになるのか、それともゲームをつくることに特化するのかっていう。『ポケモン』のときでも、実際に売るエネルギーとして、任天堂サイドで膨大な人が動いている。それはキチンと認識しないといけないって、売れたときに思ったんだよね。任天堂の持ってる商品を売るエネルギーを無視してしまうと、どんなに面白いゲームつくっても、具体的に世界中で売れるとい、つリアリティがつかめない。かといって、ゲームフリークが営業や製造やマーケティングを全部やるのかというと……。そこはちょっと、結果が見えなくなった。しかも現実には、『ポケモン』自体のマーケットの拡大と周辺事業が見えてきて、それをウチらの外側に、オプションとしてつくる必要が出てきた。つまり、ゲーム以外の〃ポケモン〃っていう世界観を維持するための、システムとビジネスモデルをっくろう、と。
——今の話をうかがっていて気になるのは、田尻さん自身がどこに比重を置いてるかなんですよね。結局、なんだかんだと言ってもゲームフリークはゲームをつくる場所だと思ってるのか、その周辺のビジネスをやる場所だと考えているのか。
田尻: 本心としては、新しいゲームをつくるってい、つクリエイターの生き様を持続的にできることが目的なんだよ。でも、そういう個人的な思いと将来どうなるかとい、つのは、ちよつと別の問題なんだなとも思ってる。
——そう、うまくはいかない感じ?
田尻: うまくいかないとい、つか、できることが多いんだよね。さっき言ったように、『ポケモン』のよ、つな大きいヒットを手にしたときに、それを上手に育てていく——たとえばカードゲームの事業をつくろうっていって、ゲーム本編とは違う事業を立ち上げるにしても、ゲーム制作と同じくらいのエネルギーとやりがいがある。それがアニメだったり、出版だったりもする。で、そうしているうちにほかの可能性が見えるっていうことは、確かにあるわけだよ。今後、ゲーム制作の周辺とい、つのは、もっとボンヤリと外側に広がっていくんじやないかな。い

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いゲームを作れば、ゲーム以外のそういうメデイアの可能性が見えてきて、その可能性をひとっひとつ認識して手掛けていくと、ゲーム制作者ではない仕事の仕方になるんじゃないかとも思ってるんだよね。
——そこが『ポケモン』で見えたこと?
田尻: そうだね。『ポケモン』にしても、最初は「新しいゲームをつくった」とい、つ思いでっくってるんだけども、それがひとつの市場のように見えるところまで育てたのは、ちよつとゲーム制作と違う仕事をしたからだと思うんだよ。その後のプレゼンテーションも含めて。大きい市場があることはわかってるし、新しいビジネスの可能性も見える。たとえば、衛星放送の専門局をつくる、とかね。ディズニーがラジオ局をやっているのと比べればわかりやすいと思うんだけど、新しいゲームをつくったというよりは、新しい世界観をつくったということだと思うんですよ。(※112) そこに確かな手応えを感じられれば、いろいろとアイディアをプレゼンして大きくすることができる。それは、ゲーム制作を超えた仕事だと思うんだな。今後、別の新たなプロジェクトが同じようにヒットして、新しいメディアが立ち上がるというようなことはありえるし、そういう意味ではゲーム制作にこだわりきらないっていうね。

新しい映像表現とキャラクターの魅力『パルスマン』

——なるほど。どうしても『ポケモン』の話が中心になっちやうんですけど、ちょうど'92〜'93年頃かな、いわゆる次世代機ブームというのが業界に起こるわけですけど、ちょうど『ポケットモンスタ—』の制作自体は佳境な感じですよね。 (※113)
田尻: 佳境だね。『マリオとワリオ』が終わったあとに『ポケモン』完成までのモデルが見えたんだよね。『ヨッシー』と『マリオとワリオ』を手掛けて、会社として持続していける可能性が見えた。『ポケモン』に全力で取り組んでもいいし、ほかのものを選ぶ可能性もある。で、『マリオとワリオ』の直後から『ポケモン』の

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※112: もともとはアニメーション制作を行っていたデイズニーは、今ではテーマパーク運営から映画の配給、さらにはテレビ局の経営まで幅広く展開する多国籍企業である。その中心にいるのは、世界一有名なあの〃ミッキ! マウス〃。キャラクターを軸にした世界観のメディアミックス゠ビジネスモデルは、ある意味20世紀が生み出した最大の発明のひとつだろう。
※113: '90年代前半、ポス卜•スーパーファミコンを狙って、SCEのプレイステーション、セガのサターン、任天堂のニンテンドウ64といつた新機種が続々と市場に投入。ポリゴンをメインに据えた3D映像、これまでのゲー厶機では不可能だった演出を前面に押し出したこれらの新機種は激しいシェア争いを繰り広げた。

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