A Man Who Created Pokemon/Chapter 2/Satoshi Tajiri's 80's

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第2章
田尻智の80年代

田尻智が青春時代を過ごした1980年代は、一種のベルエポックでもあった。 インベーダーブー厶を受けて、テレビゲー厶文化が花開くと同時に、多彩なサ ブカルチャーが繁栄を極めた'80年代という時代。その空気を胸いっぱいに吸い 込みながら、田尻智はテレビゲー厶の同人誌「ゲー厶フリーク」を、そしてま ったくのインディペンデントでファミコンソフト『クインティ』の制作を始め ることになる。モラトリアムな雰囲気のなか、彼の内側で育っていったビデオ ゲー厶への〃パンキッシュな〃想い。「親が倒れてもゲー厶センターに行く」と 彼自身が語るほどの情熱が生み出した、幸福な瞬間。それは同時に、大人への 階段の第1歩でもあった。

(2003年1月14日ゲー厶フリーク会議室にて収録)

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フリーライターとしてのデビュー

田尻: 今日は昔の話が多くなりそうなんで、資料になるかなと思って、当時のものをちよつと持ってきたんですよ。役に立つかどうかはわからないんだけど(笑)。
——いやいや(笑)。これ「宝島」ですよね。あ、田尻さん、若い!(笑) (※46)
田尻: 89年とか90年ころですね。ティモシー・リアリーが来日したときの記事。(※47) 彼はLSDなんかを使って精神を解放しようみたいなことを言って、教祖的存在になった人なんだけど。(※48) 死ぬ前の数年、ビデオゲームが精神の解放に何か関連するんじゃないかって、結構、好意的に見てくれていたんだよね。といってもまあ、年が年なんで、気のいいおじいちやんみたいな感じだったんだけども(笑)。
——好々爺みたいな(笑)。
田尻: アップルⅡで『マインドミラー』っていう対話型の精神分析プログラムみたいなものをっくったこともあったしね。(※49) (※50) 当時の「宝島」には桝山さんとか、僕の師匠の野々村文宏さんが関わってて、その繋がりで、ゲームとかその周辺の興味ある人たちに取材して、記事にしてたんだよね。この記事は、その象徴的なものなんだけども。(※51) (※52)
——桝山さんたちとは、そのころからお知り合いだったんですか?
田尻: 僕らが『クインティ』をインディーズというか、自主製作みたいな形でつくって、それをナムコで製品化したってことで、当時かなりいろいろとアドバイスしてくれたんだよね。(※53) 海外で売るために一緒にサンフランシスコに行って、車でブローダーバンド社とかをまわって営業してもらったり。(※54) それもお金とか関係なく、興味があるからって協力してくれて。
——それは『クインティ』をリリースしてからの話ですよね。
田尻: そう。契約書上は国内はナムコが売るってことになったんだけど、海外は——もうすでにNESが出てたんだけど、どうしょうかと。そうしたら、一緒に探してやるよって言ってくれて(笑)。(※55) 当時はブローダーバンドだったり、

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※46: '72年、晶文社より創刊されたサブカルチャー誌(当時の誌名は「ワンダーランド」)。責任編集に植草甚一を迎え、高平哲郎や片岡義男ら、そうそうたる面子が編集に関わったが、6号で休刊。その版権を譲り受けたJICC出版局(現宝島社)は、誌名を「宝島」と変更。当初は当時のアンダーグラウンドカルチャーを引きずった特集が多かったが、'80年代以降、何度も編集方針を変えながら、現在に至る。
※47: '20年生まれ。もともとは米・ハーバード大学の教官だったが、幻覚剤(LSD)の臨床実験に着手。大学を解雇されたのちも、LSDや幻覚キノコによる意識の構造研究を進め、'60年代ヒツピ一゠サイケデリツク文化のなかで、一躍脚光を浴びる。また'80年代以降は、当時勃興していたコンピュータカルチャーにも興味を向け、カルト雑誌「モンド2000」や「ワイアード」などにも寄稿。'96年没。

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西海岸にソフトハウスやブランドがいっぱいあった時期で、それを「ログイン」で記事にもしたんだよね。 (※56)
——当時、野々村さんは「ログイン」の編集者だったんですよね。
田尻: 彼が「ビデオゲーム通信」っていうゲーセンのゲームを中心にしたページを担当してたんだよね。それで、創刊2号あたりかな。僕のところに電話があって「ビデオゲームのミニコミをつくっているそうだけど、編集部で話を聞きたい」と。
——ただ「ゲームフリーク」の編集後記を読むと、なかなか会えなかったみたいで(笑)。
田尻: そうそう。その悪癖は、そのうち僕にも移るんだけども、野々村さんってすごく時間にアバウトな人なわけ。2時に表参道の駅前っていっても、まあ、来ない(笑)。一番最初は新宿のキャロットっていう、ナムコの直営店で待ち合わせしてたんだけど、そのときほかの誰かともついでに会おうと思ってたらしいんだよね、野々村さんは。で、ゲーセンでボーッと待ってたら、その人が話しかけてきて。「あの人はこういう人なんですよ」みたいな話をして、その人は帰っちやって。で、俺もこのまま待つてても会えないだろうなって思ったんで帰ったんだよね(笑)。
——あはは(笑)。
田尻: そういう電話すれども会えずみたいな状態が1カ月くらい続いて、結局、編集部の場所を聞いて、ようやく会えて。で、「ゲームフリーク」を見せると、いきなり「こんなんじやダメだよ」って言うわけよ、初対面なのに(笑)。「もっと表紙はさあ」とか「今さら手書きじやさあ」とか(笑)。野々村さんも悪気があって言ってるわけじやないんだけども、言われた方は、まあ、ショツクだから覚えてる(笑)。客観的に見れば当たり前なんだけど、こっちもど、つやつてつくったらいいかわからないわけで、「とりあえずこういう風にしてるんです。でも、反響もあったから、これでも一生懸命やっているんです」って。で、「アドバイスは聞きますけど」みたいな(笑)。でもそこから、少しずつ「ゲームフリーク」のつくりも変わっていくし、ゲームをつくりたいっていう志も少し洗練

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※48: lysergic acid diethylamide(リゼルギン酸ジェチルアミド)の略。向精神薬の一種で、服用すると強力な幻覚作用を引き起こすといわれる。'60年代のヒッピー文化に大きな影響を与えた。
※49: '77年にアップル社より発売された8ビットパーソナルコンピュータ。組み立て済みのこのマシンは当時まだ珍しく、また美しいビジュアルとバリエーション豊かなソフト群は大きな反響を呼んだ。
※50: 86年、エレクトロ二ック・アーツより発売されたIBM-PC、アップルⅡ用ソフト。一種の自己分析ソフトで、まず、プレイヤーは対話形式で自分の性格を入力。それによって〃自分の考える自己像〃と〃他者から見える自己像〃を検証する。またアドベンチャー的なライフシミュレーションを行うこともできる。

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されるというか、上向きになっていくんだよね。それを考えると、結果よかったわけなんだけども。
——で、田尻さん自身も編集部に出入りするようになる、と。
田尻: そう。野々村さんは、当時は「ホットドッグプレス」なんかにも露出して、新人類ブームのひとりだったんだよね。(※57) (※58) それで、詳しくは知らないんだけど、編集部で揉めて、続けられなくなるような事情があったみたい。そういうわけで野々村さんはフリーの編集者になったんだけど、俺は彼がいなくなったあとも引き続き「ビデオゲーム通信」をやって、「ファミコン通信」の創刊から1年くらいまで、続けることになるんだな。
——こうして見ると、僕は当時「ログイン」読者だったんで、すごく懐かしい感じがする。
田尻: だから『クインティ』をつくっている時期も長いんだけど、それと並行して、「ログイン」でゲームについて書くっていう仕事も、自分の活動のボリュームの中では結構大きかった。それで、こっちがかなり仕事つぼくなってきたから、下北沢に本格的にオフィスを構えて、移ってくることにしたんだよね。
——「ゲームフリーク」との区別っていうのは、ど、つい、つふ、つにつけてたんですか?
田尻: そこは難しいんだけど、「ゲームフリーク」は同人誌だから、ゼロから全部、自分たちでつくる。で、こつちはそこまではやらずに担当の編集者にひとりついてもらって、その人がデザインのラフなんかはやるんだけども、テーマを決めて実際に原稿を書くのは僕自身っていう。
——ある種、ライタ—として参加するっていう。
田尻: そうそう。だから、当時はフリーライターとも言えたわけだな。

パソコンでゲームを作ってもゲームにならない

——『クインティ』をつくり始める最初の動機っていうのは、片方でライタ—をやり、ゲームをいろいろと触る中で、「自分でもつくりたい」

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※51: '58年、東京都生まれ。メディア・プロデューサー。フリーのディレクターとして、テレビゲー厶関連の番組や美術展などを手掛け、ゲー厶ソフト『巨人のドシン』のプロデュースなどを担当。また最近では、お金や経済の知識を楽しく学べるメディア•ミツクス•プロジェクト『マネースマート』の企画などを手掛けている。
※52: '61年生まれ。美術・建築評論家。雑誌「ログイン」の編集スタッフとして活躍(当時の筆名は雷門ビデ坊)。同誌を辞めた後は、マルチメディアやヴァーチャル・リアリティを題材に、フリーの評論活動を続ける。
※53: '55年、中村製作所として東京・池上で創業。当初はアミューズメント機器の製作・販売を行っていたが、'74年、アタリ•ジャパンを買収したのち、ビデオゲー厶業界に進出。世界的な大ブー厶を巻き起こした『パツクマン』

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っていう欲求がたまってきたから?
田尻: とい、つか最初は、この間も話したと思うんだけども「グラフ用紙に点を塗っているとビデオゲームの絵が描けるなあ」という実感から始まってるんだよね。それで、「ゲームコンテストにアイディアを考えて出せば、自分の考えてたゲームができるかも知れない」と思って、セガのゲーム大賞に応募して、賞をもらう。にもかかわらず、セガでつくっているはずのゲームがちっとも上がらない(笑)。聞くと、なんか進んでないみたいな(笑)。だから結局、自分でつくらなきやダメなんだなってことを、コンテストから1、2年経って実感するようになったわけ。要するに、人任せにしてたんじや、いつまで経ってもゲームはできない。じやあ、自分達でつくろう、と。そのとき、選択肢はいくつかあったんだけど、当時はまだそこにパソコンもあったんだよね。僕にとって、マイナーかどうかということはあまり問題じやなかったから、アルバイトしてPC-8001を買って。
——それはどんなアルバイトを? (※59)
田尻: 餅の配達っていう、これまたちよつとレアなアルバイトなんだけど(笑)。
——餅の配達?(笑)
田尻: ウチの父親が上京してきたとき、世田谷区の瀬田にあるお米屋さんに丁稚みたいな形で入ってたんだよね。それで、そのお店が毎年年末になると、お得意さんのところにお餅を配達するんだけど、それがすごい量なわけ。で、餅をひっくり返して、袋に入れて、量産したものを届けるっていうちよつと体育会系のバイト(笑)。そんなバイトをやってたら、けつこういいお金になったんだよね。で、とりあえず、自分でつくることが重要なんだって思い込んだわけよ。アイディアだけ人に渡してもできなかつたわけだから、プログラムを独学で勉強してできるようになればいい、と。ところが、それでつくったものがなんだったかというと『インベーダー』。結局、当時のパソコンでオリジナルのゲームをつくるほど、発想がまだ洗練されてなかったというかね。自分の力でゲームを形にしたいっていう欲求があって、それを満たすので精一杯ってことなんだけども。
——とにかく、ゲームをつくりたいって気持ち

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('80) などのヒット作を生み出す。またアミューズメント施設やレストラン運営など、幅広く事業を展開。最近では、日本映画の最古参である「日活」をグループ傘下におさめた。
※54: '82年に設立されたアメリカのソフトウェアハウス。アップルⅡやアタリVCs'コモドール64といつたプラットフォー厶で秀作を連発。'80年代を通して、目を離せないメー力ーのひとつであった。『チョツプリフター』や『ロードランナー』『カラテカ』『プリンス•オブ•ペルシャ』など、日本向けに移植された名作も多い。
※55: 任天堂が海外市場向けに発売したファミリーコンピュータの名前、「Nintendo Entertainment System」の略。アタリショツクのダメージが大きかったアメリカ市場で展開、『スーパーマリオブラザーズ』などのヒット作を全面に押し出し、成功を収めた。

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が先に行ってるっていう。
田尻: それで『スペースインベーダー』やら、セガの『ディープスキャン』——深海を右往左往する潜水艦を爆雷で沈めるっていうゲームなんだけど、それをつくったりしつつ、いわゆるゲームがプログラムとしてどういうふうに成り立ってて、どうすればできるかっていうリアリティは掴めた。でも、オリジナルのゲームをつくるところまでは至らなかった。
——それが高専時代?
田尻: そうですね。つまり、パソコンでゲームをつくっても、これ以上ゲームにならないっていうことだよね。そういう『インベーダー』なんかをつくっても。(※60) だけど、実際には「I/O」みたいな雑誌もあったし、いろんなゲームのプログラムが発表されて、それを通信販売で売るってい、つ商士冗——エニックスなんかは、そのころの代表的なメーカーだけども、そういう商売が成り立っていた。(※61) ただ自分としては、そのままではちよつとダメだなと。
——それこそ堀井(雄二)さんや中村(光一)さんが、エニックスのコンテストでデビューするようなころですよね。(※62) (※63)
田尻: そうそう。中村光一さんが「I/O」にユニバーサルの『スペースパニック』をほぼ同じような形で——今の言葉でいうと移植なんだけど、そういうプログラムを発表して、そのゲーム性がかなり高かったことで、大きい反響を呼んだんだよね。(※64) そのあとも、コナミの『スクランブル』をほぼ完全な形で移植したりして、パソコンのゲームソフトの世界も小さい世界ながら、盛り上がってた。(※65) でもまあ、自分としてはちよつと……。やっぱり『スクランブル』をそのままPC-8001で再現するのは確かにすごいんだけども、元のコナミのヤツをつくった人の方がすごい(笑)。だから、できればゲーセンのヤツがっくりたいなとは思った。
——ああ(笑)。とはいえ、アイディアだけじやどうにもならないわけで、プログラムも自分でやろう、と。
田尻: だから最初は「俺がプログラムもやるか」っていうレベルで話をしてたんだよね。で、『インベーダー』をつくったり、ほかの人がつくった『スクランブル』を見たりして、なんか

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※56: アスキーより月刊「ASCII」別冊として'82年創刊されたパーソナルコンピュータ情報誌。翌'83年から月刊化され、他のパソコン誌と比べてカルチャー方面に重心を置いた記事展開が特徴だった。'86年に創刊された「ファミコン通信」は、この雑誌のコーナーのひとつとして始まつた。
※57: '79年、講談社より創刊された若者向け情報誌。フアッションとカルチャーを中心とした誌面構成が特徴。
※58: 今ではすっかり「NEWS23」で好々爺ぶりを発揮している筑紫哲也が編集長を務めていた雑誌『朝日ジャーナル』の連載「新人類の旗手たち」('84)から生まれた流行語。当初はシニカル、自分勝手などマイナスイメージの強かったこの言葉だが、浅田彰、中沢新一らニューアカブー厶の担い手たち、糸井重里、いとうせいこう、田中康夫といったスターの登場によ

こう……こんなんでいいんだろうかっていうふうに思ってたんだよね。それで、「ログイン」に出入りするようになってしばらくしてから、ファミコンが発売になるんだな。

ファミコンを見て「これで作ればいいんだ」と思った

——やっぱり、ファミコンの登場っていうのはショツクでした?
田尻: 「あ、これだ」と、これでゲームをつくればいいんだって直感的に思った(笑)。つまり、そこで『ドンキーコング』が動いてるわけじゃない?ゲーセンのゲームがこういうふうに動くマシンなら、ビジネスというか自分の夢が果たせる。
——たとえば、田尻さんはアーケード野郎なわけじゃないですか。アーケードのゲームをつくろうとは思わなかったんですか?
田尻: はっきり言えば、思ったよ。でも、ちょっとリアリティが薄かったのかな。セガのアイディアコンテストで賞をもらってから、「また遊びに来なさいよ」って言われて、遊びに行くようになるじやない。それで、たまに新しいアイディアを持っていって、「面白いと思ったら買ってください」「見てください」って、いわゆるプレゼンみたいなことも3回くらいやるんだけども、やっぱり向こうも社内の企画としてちやんと出てきたものじやないからね。そんなことを繰り返してても、完成品にはならない。いい加減、アイディアを考えてメーカーに渡すって方法じやダメなんだなっていうのに気がついて、ほかの手を考えてたんだよね。じやあ、一体どうしたらいいんだと。
——あまりリアリティがなかったというか。
田尻: それがファミコンが出てきたときに「これでつくればいいんだ」と。それで、ゲームフリークのメンバーにもファミコンでつくろ、つよって話をしたんだけど、どこまでできるかっていうリアリティは掴めないまま、しばらく悶々とした状態が続くんだよ。で、当時は「ゲームフリーク」をつくっていたから、いろんな人からゲームの情報を手紙とか電話でもらってたん

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り、〃これまでの文化人とは違う新たな感性の持ち主たち〃という意味合いを帯びるようになる。
※59: 79年にNECから発売された8ビットパーソナルコンピュータ。起動すると最初にBASICが立ち上がり、自作のプログラムが比較的簡単に組めたこと、また数多くの専用ゲー厶がリリースされたこと、比較的安価だったことなどから、富士通のFM-8とともに'80年代初頭のパソコンブー厶を牽引していくことになる。
※60: '76年に創刊された、日本初のマイクロコンピュータ専門誌。初めの頃はハードウェアの工作記事がメインだったが、'80年頃から始まるパソコンブー厶に乗って、多彩なプログラムを掲載。硬軟とりまぜた内容は、当時の専門誌のなかでも一目置かれる存在だった。現在も工学社より刊行中。

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だよね。その中に、愛媛県から『ディグダグ』とか『ギャラクシアン』のドット絵をしこたま描いて、ものすごい分厚い封筒に入れて送ってきたヤツがいてさ。(※66) 中を読むと「私たちはハードウェアとして、コンピュータの基板に興味があって、調べている者です」「基板さえあればいくらでもわかります、興味があれば返事を下さい」とか、書いてある。それでまあ、驚いて返事を出すんだけど、愛媛県の宇和島にプログラムも含めてハードがわかるレベルのマニアっていうのが、4人くらいのチームでいたわけ。
——彼らのチーム名っていうのは……。
田尻: あったなあ。MISTERYにTIXで、ミスティックス。距離は離れてたんだけど、こいつらはこいつらでちよっと、俺とは違う意味ですげえなと思って、手紙を書いて送ると、また向こうがもう少しゲームのハードウェアの専門的な知識に近いところを書いて送ってくれたり、そういうちよつと刺激的なやりとりがあった。で、そのころになると、雑誌で記事を書くようになったりしてたせいで、ゲームマニアの中でちよつと名前が知れるようになってたんだけど、ちょうどそのころって、『ゼビウス』とか『ドルアーガの塔』で、都市伝説の原形——いろいろと噂が噂をよんで、ちよつとブームになってた時期なわけ。(※67)
——ナムコ黄金期ですね。
田尻: 『ゼビウス』だと、ギャラクシアンが100万分の1の確率で飛んでくることがあるとか、ファントム飛行機が100万分の1で出るとか。中には、にわかには信じられない噂もあって、犬が横切るとか、最初の森である部分を撃って、ボザログラブをある順番で撃つと、その後小さなアンドアジェネシスが現れて、それをやっつけると、最後に究極のゼビウス星に行けるとか、そういう妄想に近いようなものもあった(笑)。しかも、その噂を広げたのが、どういうわけか俺だって話になっててさ(笑)。
——なるほど。
田尻: その話を、当時まだナムコに勤めていた遠藤(雅伸)さんが聞きつけて、「ベーシックマガジン」に「ゲームフリークのT君はあることないこと噂で流して、ちよつと困った存在だ」みたいなことを書いたわけ。(※68) (※69) 小さい世界のこと

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※61: '75年、営団社募集サービスセンターとして設立。当初はパソコンソフトの発売を中心に据え、自社内に開発スタッフを抱えない、いわゆる〃パブリッシャー"的な側面が強かった(プロデューサ丨のみ、エニックスの社員という作品が多い。2004年4月、スクウェアと合併。
※62: '54年、兵庫県生まれ。大学在学中からライターとして活躍(有名なものに、アニメ誌『アウト』の読者コーナーがある)。'82年、エニックス主催の第1回ゲー厶・ホビープログラムコンテストに応募し、『ラブマッチ•テニス』で入賞。翌年、『ポートピア連続殺人事件』を発表、『軽井沢誘拐案内』('84)、『オホ丨ックに消ゆ』('85)と初期アドベンチャーゲー厶の傑作を手掛けたのち、『ドラゴンクエスト』シリーズ('86〜)に携わることになる。その徹底した言葉へのこだわりと、ときに「調整の鬼」ともいわれる綿密な難易度調整が『ドラクエ』を生み出した原動力

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なんだけど、当時のゲーム少年くらいのプライドからすれば、非常にショックで。
——あはは(笑)。
田尻: それで、愛媛県のヤッらに『ゼビウス』の基板を買って送って、調べてもらったんだよね。「東京を中心にちまたではいろいろ噂があるのだが、ちよつとどういうことか確かめておきたいから、調べてくれ」と。そしたら、向こうはすごい喜んで、「おいしいネタが来た」みたいな(笑)。
——当然、そうなりますよね(笑)。
田尻: それで『ゼビウス』を全部逆アセンブルして、調べてくれたんだよね。(※70) ゼビウス星は、プログラム上に何もないから起こるわけはないとか、ギャラクシアンとファントムはキャラク夕ーだけは存在してるんだけど、プログラムはないとか。あと、ドット絵はあるんだからあとはプログラムがあれば出るっていうから、そのギャラクシアンのドット絵を移してきて、『ゼビウス』の中でギャラクシアンが飛んでいるようなプログラムをつくって、写真にして撮って「裏ゼビ本」っていうのをつくったり。当時の「ゲームフリーク」は会員制で売ってたんで、興味のある人にはそれを売ったりしつつ、ゲームをつくるのに必要なプログラム技術の下地づくりと、ゲーム少年の世界のいろんないざこざに対する自分なりのプライドのバランスを取ったんだよね。調べた内容を本にして、形に残すことで、俺があることないこと言つているわけじゃない——というか、そういう噂を流したわけじやないんだけども、本当のことも知ろうと思えば知ることができる。いろいろ言われたけど、それは誤解なんですよっていう。それが「一千万点への解法」のあとにつくった本。
——マニアとしてのプライドみたいな。
田尻:『ゼビウス』については、もちろんナムコに聞くのが一番いいんだけど、当時は業務上の秘密として、滅多にそういうことを言わなかったんだよね。だからどうしても、マニアの中で情報交換をすることになりがちだったから。で、『ゼビウス』のプログラムを調べていたら、次に遠藤さんが出したのが『ドルアーガの塔』。これもまた、マニアを刺激するような謎だらけのゲームで(笑)。似たような都市伝説がたく

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であることは間違いない。アーマープロジェクト代表。
※63: '64年、香川県生まれ。'82年に開催されたエニックス・ゲー厶・ホビープログラムコンテストにおいて『ドアドア』で優秀賞を授賞。ファミコン版『ポートピア連続殺人事件』の移植などを手掛けたのち、『ドラゴンクエスト』のメインプログラマーとして活躍。'84年には自身の会社「チュンソフト」を設立、『ドラクエ』の開発を離れたのちも、『弟切草』('92)『かまいたちの夜』('94)などのサウンドノベルシリーズや、自動生成型RPG『トルネコの大冒険〜不思議のダンジョン〜』('93)を手掛ける。
※64: '80年に発表されたアクションゲー厶。画面を徘徊するエイリアンにつかまらないように、床に穴を掘って落とせばOK。エイリアンの種類によつて、落とさなければならない回数が変わる点がユ二ーク。

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さん生まれた。「何十何面のなんとかはどうやって出すんだ」みたいなさ。でもまあ、そのころはもう遠藤さんとは、距離をおこうと思ってたんで(笑)。
——そうなんですか(笑)。
田尻: 20歳くらいのときだからね。だから、『ドルアーガ』について、調べはしたけど、「ゲームフリーク」で特集をつくるときの資料のべースにした程度。でも、そういうことをしている間に、ファミコンでゲームをつくるっていうリアリティは確実に上がってきたわけ。愛媛県の連中と一緒にやればできるんじやないか、と。

そして仲間たちが集まり始める

——当時、ゲームフリークのスタッフっていうのは何人くらいだったんですか?•もう、杉森(建)さんはいらつしやるんですよね。 (※71)
田尻: うん。だから4、5人かな。
——週に1回くらい、田尻さん家に集合して?
田尻: いや、そうなればよかったんだけど、実は当時、杉森が進路のことで悩んでいて、進学するのか、どうするんだみたいな時期だったんだよね。杉森は「俺はマンガが描きたいんだ」って悩んでて。じゃあ、俺が住んでる町田に来れば、食えなくて死ぬってことはないだろう。俺が食いものを持って来てやるからって(笑)。
——あ、それで杉森さんは町田にアパートを借りるんだ。
田尻: そうそう。「ゲームフリーク」も一緒につくるんだし、ちょ、つどいいじやないかと。そうしたら、ほとんど杉森のアパートに俺が入り浸っているような状況になってしまった(笑)。加えてほかのメンバーも来るわけで、杉森にとっちやプライバシーも何もない。楽しいことは楽しいけどね。一日中、ゲームの話をしているわけだから。楽しいんだけど、杉森には悪いことをしたっていうか、ちよつと濃すぎた(笑)。
——部室みたいな感じだったんでしょうね。
田尻: そうそう。その杉森の部屋で、「ログイン」のページで何をやるかとか、「ゲームフリーク」の次の号はどうするかとか、ゲームをっくるんだけど、どうするんだとか、そういうい

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※65: '81年に発表。横スクロール型シューティングゲー厶の元祖といえる作品。空中の敵を攻撃する武器と地上爆撃用武器で使用するボタンが違う、いわゆる2ボタン方式を採用し、自機の燃料補給のために地上のタンクを爆撃しなければならないというアイディアが秀逸だった。
※66: '79年、ナムコより発売された固定1画面方式のシューティングゲー厶。『スペースインベーダー』をより高度に発展させたシステムは、20年以上経った今でも新鮮。来襲してくるエイリアンたちのなめらかな軌道やフォーメーション攻撃など、魅力的なフィーチャーが数多く詰め込まれていた。
※67: '84年、ナムコより発売。プレイヤーは主人公「ギル」を操作して、フロア内にある鍵を取り、次のフロアを目指す。全60階で構成された「ドルアーガの塔」の制覇が目的だが、この作品のキモは、

ろんな話を1日中して、2カ月に1回くらい「ゲームフリーク」が出ると。
——当時の田尻さんにとって、杉森さんはどういう人だったんですか?
田尻: 僕自身は絵が描けないじゃない。でも、彼は最初に手紙をくれたときから絵を描いて送ってきてくれていて、自分が言いたいことを絵にできる説得力はすごいと思ってたわけ。彼はすごく上手いし、早い。ラクガキのレベルでも、言いたいことがすごくよくわかるんだよね。あと送ってもらった手紙の中に、「『ナナハンライダー』は、『ジツピーレース』より完成度が低くて、これは売れないと思います」みたいなことが書いてあって、しかも『ナナハンライダー』の絵が描いてある。(※72) でも、『ナナハンライダー』って、俺は知らないんだよね(笑)。知らないゲームばっかり、出てくるわけ。俺もゲームについては相当詳しいつもりなんだけど、こんなに俺の知らないゲームをたくさん知ってて、しかも絵も上手い。一体なんなんだろうっていう。
——へえ一つ。
田尻: 実は、彼の行ってる巣鴨の高校の近くにタイトーの直営店があって、そこがロケーションテストの一大拠点だったんだよね。だから、タイトーの開発中のゲームは全部そこに置いてあって、どんどん入れ替わってたわけ。そこでインカムが悪ければボツになったり、プログラムを組み直すし、タイトルが変わるものもあるっていう。それを彼が全部チェツクしてたから、俺の知らないゲームも知ってたわけ。
——商品化される前のものを、たまたま遊べる環境があったっていうことですね。
田尻: そういうお店が都内にはいくつかあつて、今だと、そういう情報をオープンにしてイベントみたいに盛り上げることもあるけど、当時のビデオゲームの場合は、極秘でつくってる感じが強かったんだよね。非常にマイナーなお店なんだけど、何時間か何日か——それはゲームによって違うんだけれども、ロケーションテスト用のゲームが置いてある。たとえば『べんべろべえ』なんてゲームは、1台はレバーとボタンだけでやるようになってて、もう1台はレバーとロータリーボタン。(※73) で、操作系を変えてロケテに出して、どっちの売り上げがよ

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各フロアに隠された宝箱の存在。フロアごとに用意された宝箱は、特定の手順を踏まなければ出現せず、なかには入手しなければクリア不可能なアイテムもあった。
※68: '59年、東京都生まれ。『ギャラクシアン』や『ディグダグ』のヒットで絶頂期を迎えようとしていた'81年にナムコに入社。'83年、革命的ともいえるシューティングゲー厶『ゼビウス』を制作し、翌年には『ドルアーガの塔』を発表。その謎とスリルに満ちた作品群は、多くの熱狂的なファンを生み出した。'85年には7人のメンバーとともにナムコから独立し、「ゲー厶スタジオ」を設立。
※69: 正しくは「マイコンBASICマガジン」。'82年に電波新聞社の「ラジオの製作」から独立する形で創刊。名前の通り、BASICによる投稿プログラムの掲載と、最新ゲー厶情報の紹介記事がメイン。アドベンチャー・ブー厶

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かったかとか。そういうのも、その巣鴨の店でやってたんだよね。杉森が最初に送ってきた手紙を解釈するに、どうも発売前のものをプレイしてるらしい。それからは、自分でロケーションテストをやっている店を探してはチェツクするっていうのが、ゲーム生活のルーチンワークのひとつになったわけだ。
——じやあ「ゲームフリーク」のスタッフというよりは、知り合いのゲーム少年のひとり?
田尻: というか、創刊号を出したら「字はボールペンとか鉛筆で書かない方がいいですよ」とか「もう少し絵があった方がいい」って書いてきたんだよ。それは確かにそうだと思って、「じやあ、ゲームフリークを一緒にやらないか」って僕が誘ったんだよね。で、そのあとはゲームについて、絵で語るときには杉森が必ず必要だっていう状況——ゲームフリークのビジュアルに関わる部分は杉森に相談することになるし、彼の色が強く出るようにもなっていく。『クインティ』でもグラフィックは彼がやるって自然に決まったくらいだし、自分がゲームについて語るときにそれをビジュアル面でサポー卜するカは、杉森が一番達者だし、頼りになるってことなんだけど。
——でも、20年のつき合いになるわけじゃないですか。当然、ケンカもあるだろうし(笑)。
田尻: 同棲みたいにして、非常に近いところにずっといて——ずっとあの状態だとやっぱりキツいと思うんだけど、お互いがどういう人間かわかったうえで、一緒にゲームをつくれるっていうのは大きいだろうね。
——友達というよりは同志みたいな。
田尻: だから、杉森に関して言えば単純な友達じゃないよね。「ゲームフリーク」が、どうやれば売れるのかわからないような手探り状態のときに、多くの力をもらったというか。僕は小さい絵をドットで描くことぐらいはできるけど、普通の絵が描けない。でも彼の場合は、基本的な絵の力がすごく強い。打ち合わせとか雑談をしてても、言ったことをいちいち絵にするわけ、言っているそばから。そこはすごく面白くて、「ゲームフリーク」だけじやなくて、僕自身のクリエイティブの重要なパートナーなんだよね。

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の牽引役となった山下章「チャレンジ!アドベンチャーゲー厶」といった連載記事も充実していた。2003年4月に惜しまれつつも休刊。
※70: コンピュータが動作する〃もと〃となるのは、いわゆる機械語と呼ばれる言葉。そのため、人間が理解できるC言語やBASICといったプログラム言語を、コンピュータが理解できる機械語に「翻訳」する必要がある。この変換作業のことを「コンパイル」といい、特にアセンブリ言語で書かれたものの翻訳を「アセンブル」と言う。「逆アセンブル」とは、その作業を逆から行う、という意味。つまり、機械語でできたコンピュータの実行プログラ厶を、人間が理解できるプログラム言語へと再度変換しなおす作業をさす。
※71: '66年、福岡県生まれ。キャラクター・デザイナー、イラストレー夕—。同人誌『ゲー厶フリーク』に参加し、

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本当の手作りから『クインティ』は始まった——で、いよいよ『クインティ』の話に入りたいんですけども、その制作体制っていうのはどこらへんから煮詰まってきたんですか?
田尻: かいつまんで言うと、さっきの愛媛にいた人たちが高校を卒業して、専門学校に行くために上京したいって話があったんだよ。「じゃあせっかくだから、ゲームをつくりたいんだけど相談に乗ってよ」と。ただ、ファミコンでっくろうっていうのは決めてたんだけども、任天堂と契約するとどうも何千万もかかるらしい。そんなお金はないから、どうすりやいいんだっていうんで、それで……。
——解析ですね(笑)。
田尻: そう(笑)。そうやって、ファミコンの中を調べるようなことから始めて。ファミコンのCPUは6502だから、コントロールするコンピュータはアップルⅡがいいのかなとかつて、秋葉原に買いに行って。(※74) (※75) ファミリーベーシックのキーボードを出してきて、モニタ—コマンドで番地を指定すると、そこの番地に何が書かれてるかがわかるとか、そういうレベルからのスター卜。だから最初は、非常にゆっくりとした立ち上がりというかね。
——「やるぞ!」っていう感じではなくて。
田尻: うん。だから、つくれる技術があっても、つくる順序のリアリティっていうのがわからなかったんだよね。そこを確かにするために、まずはファミコンの内部を全部調べよう、その間にこっちはアイディアを考えるからって言って。で、ある程度中身がわかったら、今度はコントロール基板みたいなものをつくって、簡単なアセンブルのプログラムが走る状態に持っていく。だけど、そんなことやってたら平気で1年経っちゃうわけ(笑)。
——あはは(笑)。
田尻: しかも、ファミコンのアーキテクチャーがわかって、「いよいよっくるぞ」っていうときに、ファミコンゲームにおけるメモリー容量の進化っていうのが始まるわけだ。CMで「1メガショック」とかって打ち出すような時期。『魔界村』 (※76) なんかが1メガだけども、ノロノロ

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後に『クインティ』のキャラクターデザインを担当。以降、ゲー厶フリーク作品のビジュアル面を担う重要な存在として活躍中。田尻氏との出会いについては、本書の「田尻智X杉森建対談」を参照。
※72: '83年、タイトーから発売されたアーケードゲー厶。いわゆるドライブゲー厶の流れを汲む作品だが、色鮮やかなキャラクターや、エリァゴールが近づくとトップビューから疑似3D画面に切り替わる演出など、さまざまな工夫が凝らされていた。バイクに乗って、ロスからニューヨークを目指すという設定は、どことなく『イージーライダー』風。
※73: '84年、タイトーから発売されたアーケード用アクションゲーム。プレイヤーは主人公「ダミちゃん」を操作し、炎に包まれた建物から「ナオちやん」を救い出す。ユニークなキャラクターとスリリングな展開は、今でも名

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つくっていたら、どんどん大きさのリアルが変わっていってしまった。しかも、そ、つこうしているうちに「ファミコン通信」の創刊があって、「できるんだったらいっぱい手伝ってよ」と。(※77) ライターの仕事を生業にしようと思えばできる状態も片方にはあって。インディペンデントで出版をやりたいのか、ゲームをつくりたいって気持ちを一体どうするのか、でも現実にはライ夕ーの仕事をやっていれば収入が確保できる、とか。そういうことで一杯一杯の状態が、ファミコン解析から1年くらい経ったあとに起こるんだよね。雑誌の仕事っていうのは始めると止められなくて、それで「誰か、アイディアがあればゲームをやってもいいよ」って言ったら…… TACOXって知ってる? (※78)
——はい。本名なんでしたつけ?
田尻: 二木(康夫)っていうんだけども。彼も「ゲームフリーク」を一緒につくってたスタッフなんだけど、彼がやってみたい、と。彼が出してきたアイディアっていうのは、コナミの『ガッタンゴットン』に近い感じ。(※79) 1画面を格子状に区切って、そこに十字とか線路がピースごとに描いてあって、その上を汽車が走る。で、ひとつだけピースが空いてる場所があるんで、レバーをピッと入れると、線路が描いてあるピースが動くっていうゲームなんだけど。
——ああ、15パズルみたいな感じで。
田尻: それで汽車が脱線しないように、線路を置いていくゲーム。それに近い感じの、片方から人が歩いてきて、反対側に行くまで通路が途切れないようにすると面クリア、みたいな感じのアイディアを二木は渡してたわけ。で、彼らはそれに従ってプログラムを組み始めてたんだよね。ところが、二木は「ファミコン通信」も一緒にやってもらってたんだけど、彼が雑誌の方が面白いんで、こっちを専門にやりたいという話をしてきた。当然、やりたいものがはっきりあるんだったらそっちをやった方がいいし、編集部的にも専門でやってくれる人が多ければ多いほどいいっていう状態。そういうことがあって、二木が「ファミコン通信」に入って、それでこっちの踏ん切りがついたんだよね。
——ようやく本腰が入れられる、と。
田尻: ところが、プログラムをやってくれてた

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作の誉れが高い。
※74: Central Processing Unit(中央処理装置)の略。演算と制御というもっとも重要なパー卜を担う、コンピュータの中枢部。単に「プロセツサ」と呼ばれることもある。
※75: 米•MOSテクノロジー社製の8ビットCPU。アップルⅡに搭載されたことで一躍名前を知られるようになり、その後はコモドール64など、コモドール社製品に採用されるようになった。比較的早い段階で情報が公開されたことで、本国のマニアたちの間ではよく知られたが、日本での普及はイマイチ。ファミリーコンピュータに採用されたのは、この6502にサウンド機能を付加したRP2A03と呼ばれる互換CPU。
※76: '85年、アーケード用ゲー厶として発売され、翌'86年にファミコンに移植された、カプコン初期の名作。典

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連中がやって来て「1画面がこういう四角いスクウェアで埋まってて、こうキャラクターが動くっていう基礎プログラムをつくっているんです。これをどうするんですか」と(笑)。「新しいゲームをつくるのもいいけど、ーからやり直すんですか」って聞かれたんで、「ああ〜!」っていう。もう今さら横スクロールにとか、宇宙に行こうとか言えないわけ(笑)。
——二木さんのアイディアがまずあって、それをさらにひねらなきやならない。
田尻: そう。今思えば、ある種の制限があった方が、ゲームデザインがしやすくなるっていうのはあるんだけど、でも当時は、ちよつと困ったことになったなと(笑)。
——正直言って、思った(笑)。
田尻: それで「わかった、ちよつと待ってくれ」と。とりあえず、その基礎プログラムが完成品に近付くように、俺がアイディアを出しましょう、と。で、『クインティ』のルールの部分——固定画面はOKとか、左から右へ行くと面クリアっていうのはナシにしようっていうのが決まって。あと、ナムコ黄金期の歴史をさかのぼると、『パツクマン』は〃食べる〃ゲームで、『デイグダグ』は〃掘る〃ゲームだった。つまり、自分がやってきたゲームは、中学校のときに散々覚えろって言われてた英語の動詞が鍵だったんだ、と。それで、〃めくる〃っていう動詞をキーワードに決めたりね。
——当時、プログラムのチームは、無償でやつてたんですか?
田尻: 結局、雑誌の仕事ができるのは実はいいことで、ゲームフリークがどんな状態でも、とりあえず維持はできる。「ログイン」とか「フアミコン通信」は二木に任せちゃうんだけど、当時の出版業界の状況って面白くて、「ファミコン通信」と「ファミマガ(ファミリーコンピュータマガジン)」が、二大ファミコンゲーム雑誌だったのね。(※80) それで、俺が「ファミコン通信」で書かなくなると、すぐに「ファミマガ」から「書きませんか」って電話がかかってくる(笑)。そんな感じで「ファミマガ」で定期的に2ページくらいやったり、あとは野々村さんが「週刊プレイボーイ」でファミコンの連載記事をやるんで手伝ったり。(※81) しかも「プレイボーイ」

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型的な横スクロール型のアクションゲー厶だが、西洋風のモンスターが続々登場する独特の世界観、鎧を使ったライフ制の採用、そして何より、悶絶したくなるほど高い難易度が特徴。ファミコン版は、カプコン初のメガROM力ートリッジとして発売され、シリーズ最高の難易度とともに、大きな話題を呼んだ。
※77: ァスキーのパソコン誌「ログイン」の連載コーナ丨が独立する形で、'86年に創刊。当初は月2回刊だったが、週刊化にともない誌名を現在の「週刊ファミ通」へと変更('90)週刊ペースを活かした速報性を売りにし、テレビゲー厶業界の動向を知るのに最適。
※78: 同人誌「ゲー厶フリーク」初期からのメンバーのひとり。本名の二木康夫名義でいくつかのゲー厶制作にも携わっており、最近の作品には『ハーミイ•ホッパーへツド』や『ポポローグ』(いず

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は当時、一番調子がよかった時期で、ゲームのようなサブカルチャー系の情報がほとんどない状態。新鮮だったんだよね。それが週1回1ぺージあって、1年以上やったり。そういう普通のライターとしての活動をして、ゲームフリークの事務所維持っていう最低のインフラ整備に使うっていう。
——じやあ感覚としては、雑誌に原稿を書いて、稼いだお金を『クインティ』の制作に突つ込む?
田尻: そうだね。最後は非常にわかりやすい形でそうなった。〃めくる〃ゲームだっていって、チンタラやってたら、2年経つちやって。すると、愛媛から上京してた連中が専門学校を卒業するわけだ、当たり前の話なんだけど(笑)。「俺たち就職なんですよ」と(笑)。そのとき、一番年上のヤツからは散々相談されたんだけども、結局彼はナムコに入社したんだよね。彼はたぶん、まだナムコにいるんじやないかな。で、あとのメンバーもひとりは進学、ふたりは就職……つて具合にバラバラになっちやったわけ。
——プロジェクトの危機が訪れた、と。
田尻: '86年くらいかな。でも、このプロジェク卜は続けたいからっていって、昼間の仕事が終わったらゲームフリークに来て、プログラムをして終電になったら帰るみたいな、鬼のような生活が始まったんだよね(笑)。俺の方も、昼間は原稿を書いて、みんなが仕事を終わって帰ってくるとゲームをつくって、終電の時間が来たら「お疲れさまでした」という。
——その当時の拠点っていうのは?
田尻: 下北沢。最初は代沢の4丁目あたり、三軒茶屋寄りのマンション——といっても、アパートみたいなところだけど(笑)。で、そのときに、いい加減はっきりさせなきやいけない時期が来たなと思ったわけ。俺はいいけど、他のヤツが可哀相な状況になってきた。
——このまま、二足のわらじを続けるのかと。
田尻: そう。全員が二足のわらじ。そのとき、一番真剣に悩んだよ。だって、ゲームをつくるっていっても、当時は契約もしてないわけじやない。つくるのはいいんだけど、つくったものが本当に売れるのか、出来上がってみないとわからない(笑)。今の状態のままだと、非常に漠然とした夢というかね、はっきりしてない。

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れもソ二ー・コンピュータエンタテインメントより発売)などがある
※79: '82年、コナミより発売されたアーケードゲー厶。列車が脱線しないように線路の描かれたパネルをスライドさせ、チェックポイントを通過させるのが目的というアクションパズル。似たようなおもちやが存在するので、ご存知の方も多いだろう。
※80: '85年、徳間書店インターメディアから創刊された日本初のコンシューマゲー厶専門誌(発売は徳間書店)。攻略情報に力を入れた誌面構成が特徴で、「ウソ技」や「ゲー厶通信簿」といったゲーマーサイドから発信するコーナー企画もユニークだった。プレイステーションやセガサターンの発売で盛り上がった'96年には「ファミマガWeekly」として週刊化。「ファミ通」を意識させる総合誌的な色合いを強めたが、半年後に休刊。

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——そういえば「ログイン」の記事にも、〃モラトリアム田尻〃とか書かれてましたね(笑)。
田尻: そうそう(笑)。そのモラトリアムの中にいて、いったいどうするんだと。それで悩みに悩んだ結果、このプロジェクトはやり遂げたいから、今働いているところをやめて、プログラムを1日、ここでやって欲しい、と。俺が君を雇うという形で給料を払う。最低同じだけは払うから、1日ベタでプログラムを進めて欲しいって言ったわけ。そしたら、メインのプログラムをやってた人が「はい」って一言ってくれて。
——それで、プロジェクトがようやく存続した。
田尻: まだ'80年代の話だから、初任給が15万円とかだったけども。それで、だんだんゲームが形になっていって、その間、杉森はドット絵を描いて、俺が企画を書く。愛媛出身のヤツがプログラムをやって、あと数人出入りしてるスタッフがいるって状況。で、一番最後に「あ、音楽が必要だな」と(笑)。
——あ、そうか(笑)。
田尻: 最後の最後に「ガーン!」ってい、つ。それまでは、プログラマーが解析したゲームの効果音を切り張りしてたんだけど……。
——それじゃマズイわけで(笑)。
田尻:『マリオ』のジャンプ音とか『ポパイ』とかが流れてて(笑)。(※82) でも、俺の知ってるメンバーの中に、音楽のできるヤツがいなかったんだよね。そうしたら、プログラマーが行ってた専門学校に、音楽に興味があるっていう同級生がいて、できるかどうかは保証できないけど、声をかけてみようと。(※83) それで会ったのが増田。そのときに重要だったのは、プログラムができて、なおかつゲームに興味がある人、2つのフラグが一緒に立つってことだった。もちろん専門学校に行ってるくらいなんだから、プログラムにはもともと興味があるわけなんだけど、曲をつくるだけじやなくて、そのドライバもつくるんだよと(笑)。しかもファミコンで、音楽だけじやなくて効果音もつくる(笑)。「それでもやってみませんか」って声をかけたら、「やりましょう」って言ってくれて。彼は、いまでも『ポケモン』の音楽をやってくれてるパートナーなんだけど、このあたりの出会いはゲームオンリーの体験とい、つよりは、ちよつと偶然に

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※81: '66年、集英社より創刊された男性向け週刊総合誌の草分け。ヌードグラビアの掲載などセンセーショナルな誌面づくりは、やや先行して創刊された「平凡パンチ」とともに大きな話題を呼ぶ。'80年頃からは、ゲームを初めとするさまざまなサブカルチャー系記事を掲載するようになり、ユースカルチャーのオピニオンリーダー的な役割を果たした。
※82: ファミリーコンピュータ発売時の同発ソフトのひとつとして、任天堂より発売('83)。いわゆる〃キャラゲー〃の元祖ともいえる作品。実はもともと『ドンキーコング』のゲー厶&ウォッチ版は、ポパイの版権物として制作される予定であり、その流れで任天堂が『ポパイ』のゲー厶化権を所持していたのではないかと推測される。
※83: '68年、神奈川県生まれ。現•ゲー厶フリーク取締役開発部長。『クインティ』

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頼って探し求めた出会いだよね。

思い入れがあるメーカーはナムコしかない

——そして、いよいよ『クインティ』が完成するわけですね。
田尻: ただ『クインティ』に関しては、名前がなかなか決まらなかったんだよ。名前について語るヤツがいなかったってこともあるんだけども、自分としては、非常によくありそうなんだけど、実は造語みたいなものがいいな、とか。それも、あまり聞かない名前がいいよな、とかね。
——元ネタになったようなものはあるんですか。田尻数字にまつわる単語を辞書で逆引きしてて、見つけたのが「第5の」っていう意味の「quint」っていう言葉だったのね。で、それに「y」をつけるか「ie」にするかでもけっこう悩んだんだけど、数字を象徴する単語で名前をつければ、ストーリーに出てくる印象的なキャラクターを暗示できるかな、と。「『クインティ』っていうのを考えたんだけど」って言ったら、みんなも「いいと思う」って賛成してくれたんだよね。
——テレビや雑誌からインスピレイションを受けたというようなことではなく?
田尻: うん。反対に、当時「アルギンZ」とか、濁音があって力強い印象のものがいいみたいなことが言われてたんだよね。テレビとかで。ネーミングのノウハウのひとつだ、みたいなさ(笑)。でも、それはやりたくなかった。当時の流行りを嫌になるほど聞いたおかげで、ちよつと全然違う方向に向いて考えてみよう、と。そういうやり方は、実をいえばあまり保証されたやり方ではないんだけども、完成品に近いところまでつくって「これを売りたい」ってメーカーに持っていくんだっていう、そっちの気持ちが強かったんだよね。で、メーカーとしては、自分の思い入れはナムコしかない。
——ナムコしかない(笑)。
田尻: ほとんど、それしか考えてなくて。実際に『クインティ』に導入されている知識だった

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制作時にゲー厶フリークに合流、その後も田尻氏、杉森氏と共にゲー厶フリークの屋台骨を支えてきた中核メンバー。当初は音楽制作スタッフとして参加していたが、『クリックメディック』『ポケットモンスタールビー•サフアイア』などではディレクションも担当。

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りいろんなものは、僕個人の体験とか知識から出てきたものなんだけども、その中で一番大きかったのが、ナムコのヒット作がたくさんゲームセンターに並んでいたころの、ゲームセンター体験で得たものなんだよね。さっき言ったような、新しい動詞をキーワードにするとかいったことも含めて。ゲームセンタ—のゲームにさまざまなオマージュを捧げるつもりというか。
——持っていって、ナムコの反応はどうだったんですか?
田尻: よかったんだよね。今にして思うと、巡り合わせがよかったのかも知れないんだけども、当時のナムコは、自社で勝手にソフトを製造して、制限せずに売っていいって契約を任天堂としていたメーカーのひとつだったわけ。フアミコンの初期に契約したメーカーのいくつかはそういう契約内容だったんだけども、ほかのメーカーだと年に3本とかリリースできるソフ卜の本数に制限があったんだよ。でも俺はそんなこと知らなかったし、単純に、ゲームセンター時代の自分がいて思い入れがあったから、ナムコに持っていっただけ。まあ、自分の心情的には、ナムコの開発の人に見てもらいたいっていうのがあって。
——雑誌の仕事を通したりして、知り合いがいらっしやったりしたんですか?
田尻: うん、広報に顔見知りがいたんだよ。その人に「できれば売ってもらいたいんです」って話をしたら、営業の課長に見てもらった方がいいのかなって紹介してくれて。しかも、その課長がたまたま、当時のナムコの、ファミコンソフトの発売決定権をリニアに持っている人だった。それでまあ「固定画面です」と。「流行に流されるのではなく、ゲームの面白さとい、つのはこういうところにあると思うので、画面はスクロールしません」ってプレゼンをして(笑)。一番評判がよかったのは、バレリーナ。出てくるキャラクタ—はみんな、ちよつと変わった人間がモチーフで、男か女か定かじゃないんだけども、バレリーナがクルクル回って、だんだん早くなっていく。で、ものすごく早くなると、踊りながら舞、つんで、ちよつとイ力した動きをするんです、と。しかも倒れるときにナヨッとシナをつくる。なんかこいつは面白い、ゲーム

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として面白いんじやないのって言ってくれて。「いいじゃん、やるか」みたいな。
——即決?
田尻: うん。なんか非常に軽いんだよね(笑)。「こいつはいいねえ」みたいな感じで。持っていったのは夕方の5時くらいだったんだけど、残ってた社員を呼んで「どう思う?」って聞いてくれたりして。
——でも当然、断られる可能性もあったわけですよね。
田尻:自分としては、一番見て欲しい人に見てもらったんだから、断られたら断られたでしょうがない、来るところまで来たんだっていう境地だつたんだよね。だから、もうちよつと具体的なやりとりがあるのかなと思ってたんだけど、すぐに商品として行ける、行けないみたいな話になって。わりと営業畑の人がそうなのかもしれないとか、あとナムコの営業が行け行けムードだったこともあると思うんだけど、今じや、そういうことはあまりないよね。だいたい、つくって持ってくるヤツなんていないし(笑)。つくる前に言えよって(笑)。
——断られてたら、どうなってたと思います?
田尻: 断られていたら、まあ任天堂に持つていって、同じようにプレゼンする。
——あはは(笑)。
田尻: でもそれは、マンガの世界を知っていたからっていうのはあるかもしれない。
——ああ、持ち込みですね。
田尻: 編集部に持ち込んで、面白いなら載せようみたいなさ(笑)。当時、杉森はどちらかというとマンガ家になって連載を持ちたいって思ってたわけ。それで「少年サンデー」の新人賞を取って、増刊号に載ったりしてたんだけど、編集部にネームを描いて持っていくってのを繰り返してたんだよね。 (※84)
——それを横目で見てた。
田尻: うん。それをゲームでやるんだくらいに思ってた(笑)。

『クインティ』発売と

その余波
——でも、無謀ですよね(笑)。

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※84: 正しくは「週刊少年サンデー」。'59年、小学館より創刊された少年向け総合誌(表紙は長嶋茂雄)だったが、'60年代末からの漫画ブー厶に乗って、コミツク誌へと変貌。'80年代に入ってからは劇画村塾出身の高橋留美子による大ヒット作「うる星やつら」やあだち充の「タッチ」などで、黄金期を迎える。作家性の高い作品を掲載する傾向が強く、固定ファンも多い。

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田尻: 今、ゲーム業界にいる立場から振り返ると、相当無謀(笑)。でも俺としては、つくって持っていくのが一番説得力があると思ってたから。だからこそ、あんなにしっこく時間をかけてたわけで。ただ、完成品に持っていくまでには、やっぱり手直しもあったんだよね。結局、3、4カ月かかったのかなあ。当時のファミコンのゲームだと、背景はスクロールするけど、主人公は足が開いているのと閉じている2パ夕ーンがあって、それを交互に映すと歩いているように見えるとか、それが早いと走ってるように見えるよ、つな、アニメーションとしては非常にショボいものだったわけ。だけど、もう少し考えれば、もっといいアニメーションができるはずだと思ってたんだよ。たとえば、足が開いているときに、頭がちよつと沈めば——1ドツトか2ドット、沈んだように描けば、ちょっとアニメーションがよくなる。それをこう、本当に足が開いて、閉じるっていう風にやっちやうから、シャカシャカ、記号的になっちやうんだよね。そこをちやんとやって欲しいと思ってたことが、『クインティ』のグラフィツクの根底にあって。で、さっき話したように、ナムコに持ち込んだときに一番評判がよかったのがバレリーナだったんだけども、「面白いけど、もう少し大きくならんの?」って言われたわけ。それは非常に大変なんだけども(笑)。
——当然、そうですよね。
田尻: それを、大きくしたんだよ(笑)。つまり、8ドットX8ドットのキャラクターをちょっと大きくするっていうのは、すごく難しいわけ。ただ、小さく見える理由というのもちやんとあって、バレリーナはほかのキャラクターと違って、手足がきちんとあって、頭身が1個くらい多い。ほかのキャラクターが3頭身だとすれば、4頭身というか。かつ、倒れると、シナッとなるわけで、手足もしっかり描かなきやいけない。だから、同じセルの大きさで描くと小振りに見えるんだよね。でも、せっかく「これがキャツチーで面白い」って言われたのに、ここで手を入れないと後悔するじゃない。それで全体的に、顔もひとまわり大きくして、動きがはっきりわかるように変えて。だからあれは実は、見かけよりかなりデカいキャラクターなん

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だよね。
——で、ファミコンのカセツトが田尻さんの手元に来ますよね。そこで、感慨みたいなものや虚脱感はありましたか? それとももう次に行こうって感じだったのか。
田尻: 感慨はありましたね。つまり、『クインティ』を仕上げるまでに、社員として給料を払うっていう会社のようなシステム、それが仕組みとして始まったことが、自分にとっては非常に大きかった。『クインティ』が完成して、そこそこ行けるとなると——当時、ナムコで「そこそこ行ける」っていうのは、初期ロットで20万本くらい出すっていう意味なんだけども、そうすると、5000万円近く入ってくる。そこは非常に難しい問題だな、と。ゲームをっくってみたいっていう欲求に忠実に従ってつくってきて、出来上がって持ち込んで、それでここまで来たのはいいんだけれども……なんていうか、これで終わりだと山分けになっちゃうんだよね。本当にそれでいいのか。
——アニメの〃製作委員会〃方式なんかは、そういう発想ですよね。
田尻: で、俺はやっぱり、ほかの道を探しながらもゲームをつくっていきたいと思うってメンバーに言って。それで、ある程度の報酬はもらうけれども、ナムコから得たロイヤリティはゲ—ムフリークを会社にして、ゲームをつくり続けるための自己資金にしよう、と。その原型は『クインティ』が仕上がる直前、プログラマーにお金を払って最後までつき合ってもらおうっていうことにあったんだけども、つまり、こういうことを持続可能にするためには、会社というシステムが必要なんだ、と。発売が決まってから、そこに気づいたんだよね。
——その、ゲームフリークを会社にするってことに抵抗感はなかったですか?ある意味、仲間同士の寄り合い、部室みたいなところがスター卜地点なわけじゃないですか。それが、会社ってい、つ社会的なものになつてしまうことへの恐怖というか。
田尻: ただね、結局、モラトリアム状態を終えて、きちんと社会人として生きていく。そこでも、やっぱりゲームをつくるってことが大きかったんだよね。あと、若干、予定調和的な感じ

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はあったと思うよ。会社にする前からみんな、僕のことを〃社長〃って呼んでたとかさ(笑)。ミニコミのときから〃社長〃で。だから、さっきの「ログイン」に杉森が描いた漫画にも〃社長〃って呼ばれてるシーンがあるんだけども。
——あはは(笑)。僕は当時それを読者として読んでいたんで、田尻さんのことをゲームフリークって会社の社長なんだって思ってましたからね。
田尻: あはは(笑)。
——田尻さんはリーダーを取るタイプなんですかね。
田尻: そうねえ。リーダーを取るタイプだとも言えるし、まあ、人間が集まるときに、みんなが平等だということは、実はありえないよね。平等っていっても、権利とかそういう意味じやなくて——会社であるかどうかは別にして、僕が何か「ゲームをつくりたい」って言って、みんながそれに魅力を感じれば「じやあ、僕は何をやりたい」「これならできます」というようなコミュニケーションができる。最初は無意識だったけれども、そういう役割を演じてたから、『クインティ』のような無謀な自主制作ソフトも製品になったということだと思うしね。
——で、『ポケットモンスター』の開発ナンバーが002だったという話は結構有名な話ですけども、それは『クインティ』の開発と同時並行で進んでた企画だったんですか?それともゲームフリークを会社化して、そのー発目に立てた企画だったのか……。
田尻: 会社化してから、ですね。次のゲームはさすがに、ちやんと企画書を書いて(笑)、契約書を交わして取りかかることにしょう、と。『ポケモン』の企画書というのは、そのとき書かれたものだよね。その当時、糸井(重里)さんが「小説家がゲームをつくるシステムを発表する」とか、そういう話があって。(※85) 誰でもゲームがつくれるようになる時代になるとか、いろいろ言っていて。
——言ってましたね(笑)。
田尻: だから僕も、糸井重里事務所に行けば、任天堂の東京事務所みたいな形で話が進むのかなと思ってたんですよ。で、『ポケモン』の企画書を持っていったら「いいんじやない」って

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※85: '48年、群馬県生まれ。コピーライター。法政大学文学部を中退後、広告プロダクションに勤務。西武セゾングループの名コピー「不思議、大好き」「おいしい生活」などを生み出したのち、'89年にゲー厶制作スタジオ「エイプ」を設立。『マザー』シリーズを初めとする傑作を手掛ける。最近ではウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」の主宰として活躍。

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COLUMN 02 - ごく短いサブカルチャー論

田尻智へのインタビューを彼の著書「パツクランドでっかまえて」に対する感想から始めたのは、今思えば、そこで書かれていた風景に対して、どうしょうもない違和感を感じていたからだった。『スペースインベーダー』『ディグダグ』『ギャラクシアン』……。確かに〃ゲーセンのゲー厶が光り輝いていた時代〃が,80年代の前半にはあり、そしてそれはまた日本のサブカルチャーが一種のベルエポックを迎えた時代でもあった。田尻智の個人史を振り返るとき、〃あの時代〃が持ち得ていたインパクトと可能性を踏まえなきやいけない。その想いが、インタビュー冒頭の(ぎこちない)やり取りの背後にはあった。では〃あの時代〃とは、どんな時代だったのだろう。松田聖子が華々しくブラウン管に登場し、小泉今日子や中森明菜があとに続けとばかりにデビュー。田中康夫「なんとなくクリスタル」が賛否両論を巻き起こし、浅田彰「構造とカ」がニューアカブー厶の呼び水となり、ジョン・レノンが射殺、劇場版「機動戦士ガンダム」が公開され、イラン・イラク戦争が勃発した。たった30年前には焼け野原だった極東の小国が名実ともに経済大国へと成長し、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」な雰囲気に満ちた時代、ともいえる。この風景をどう分析するかは、人によって様々だろうが、その特徴としてひとつ挙げられるのは、以前の文化——団塊の世代からの切断と、奇妙なほどの〃政治性〃の薄さ(ノンポり!)だろう。「重厚長大から軽薄短小へ」。そして、それは時代の〃前衛〃としての諸文化゠〃サブカルチャー〃が、大きな資本とともに時代の前面にせり出し始めた時代でもあった。
ここでもう一度〃サブカルチヤー〃とは何か、を確認しておこう。サブカルチャーとは、その社会の主流文化から外れてしまった文化、下位にある文化を指す。だからそれはいつの時代も、辺境であり、見過ごされたモノたちへのどうしょうもない執着である。常に、大衆の興味の外からやって来て、その時代の文化エリート(!)たちを魅了し、彼らの手を通過して大衆化したのち、いっしか〃主流〃へと取り込まれていく。それは、かって文学や映画やロックがたどり、アニメやマンガ、テレビゲームが同様にたどろうとしている道だろう。
今や、アイドルが青年誌の表紙を飾るグラビアアイドルになり、田中康夫は長野県知事、『ガンダム』は〃種〃で、バグダッドは爆撃を受けた。この間、JIWAVEが「好きなビートルズの曲」を募集したとき、中間発表の1位はなんと「イマジン」だったという。
つまり、サブカルチャーなんぞとっくの昔に死滅し〃大衆文化゠ポップカルチャー〃だけが生き延びたということ。そこでは、「イマジン」がビートルズではなく、ジョン・レノンのソロ曲だと言い立てるのは、オタクの〃こだわり〃以上でも以下でもない(それはそれとして価値があるのだろうけれども)。「古き良き'80年代」を回想するのは醜悪なノスタルジーでしかないが、それがどう変質したのが、そしてそれがどのように今の私たちを規定しているのか。それを考えるのは決して無駄ではないように思う。

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