A Man Who Created Pokemon/Chapter 1/Encounter with Satoshi Tajiri

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第1章
田尻智との邂逅

同人誌『ゲー厶フリーク』でゲー厶雑誌の基本フォーマットをつくり上げ、自 主制作ソフト『クインティ』で開発者としてのキャリアをスタート。そして、 あの怪物ソフト『ポケットモンスター(ポケモン)』を生み出した田尻智。その 半生を振り返る最初のインタビューは、息詰まるほどの緊張感とわけのわから ない興奮がないまぜになったものとなった。その理由は明快だ。『ポケモン』の ブレイク以降、田尻智はほとんど人前に姿を現さなくなったからである。自伝 的要素の濃い『ポケモン』という作品を残して、彼はずいぶんと遠いところへ と行ってしまったように見えた。果たして彼はどこから来て、そして、どこへ 行こうとしているのか。そのことを本人のロからぜひ聞きたかった。

(2002年10月28日ゲー厶フリーク会議室にて収録)

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ゲー厶ひとつひとつが光り輝いていた時代

——田尻さんの著書である「パックランドでつかまえて」を興味深く読ませていただいたんですが、どういう経緯で新装版を出されることになったんですか? (※1)
田尻: この本は10年ほど前に出たものなんだけど、僕の友達の編集者から「今、テレビゲームの魅力について再認識するのに、こういう本を復刊した方がいいんじやないか」というような話をいただいたんですよね。(※2) 中沢新一さんが『ポケットモンスタ— (ポケモン)』に関して書いた「ポケットの中の野生」だったり、あと彼が、ゲームフリークのミニコミである「一千万点への解法」にインスパイアされて書いた『ゼビウス』の論文とか、そういう当時の中沢さんの原稿と合わせて、あの時代をもう少し別の視点からもわかるようなものをやりたい、と。(※3)(※4)(※5) 軽くも読めるし、少し深読みもできるようなもの。文章カとかボキャブラリーは別にして自分としては、当時のリアリティを新鮮なまま書けるギリギリのタイミングが (この連載をやっていた) 90年くらいで。今読むと、ちよつと恥ずかしいような、甘酸っぱいような感じがするんだけど (笑)、まあ、そこにあえて手を入れない方が、ゲームセンタ—っていう場がオ—ラを持っていたこととか、ゲームひとつひとつが光り輝いていたことがわかるんじやないか。だから、あえて今の自分の文章の書き方は加えないでおこう、と。
——今、田尻さんが〃当時のリアリティ〃っておつしやったんですけど、実はそういうリアリティが、今の中高生くらいになると、もうわからなくなりつつあるのかなあ、と思っているんです。これは個人的な話にもなるんですけど「パックランドでつかまえて」で描かれてたような、それこそ〃ゲームひとつひとつが光り輝いていた〃っていう感触は、今年30歳で田舎出身の僕ですら、ギリギリわかるくらいなんじやないか。それは書かれてる内容にしても、書き方ひとつ見ても、そう思えてしまう。
田尻: 当時、僕はあくまでも同世代に向けて書いたってところがあるんですよね。(※6) 「ファミコ

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※1: '90年4月、JICC出版局(現宝島社)から発売。'88年から翌年にかけて「ファミコン必勝本」に連載されたものをまとめた工ツセー集。内容は、'78年から'89年まで、ビデオゲー厶が熱かった時代をさまざまなゲー厶タイトルを通しながら振り返る、というもの。タイトルはもちろん、J・D•サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて(キヤツチャー・イン・ザ・ライ)」のもじり。エンターブレインより新装版が発売され、このインタビューはその新装版刊行からしばらく後に行われた。
※2: '50年、山梨県生まれ。宗教学者。'83年に発表した著書「チベットのモーツァルト」で、チベット密教と構造主義を大胆に結びつけ、一躍'80年代ニューアカブームの立て役者となる。ゲー厶フリーク発行の同人誌「ゼビウス——ー千万点への解法」にインスパイアされた論文「ゲー厶フリークはバグと戯れる」は「雪片曲線論」(青土社、のちに中公文庫) に所収。

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ン必勝本」から〃なんか書いてくれ〃ってオファーがあって、普通なら攻略情報みたいなものになりがちなんだけども、そうじやなくて、自由に書かせてもらえた。……でもそうすると、今の10歳下の人たちとか、当時の猥雑な雰囲気だとか、そういうリアリティのない.人がこれを読むと、どういう風に当時のゲームセンタ—を想像するんだろうね。
——実際問題、今『ポケモン』をやっている小学生がゲームセンタ—に行くのかというと、そうでもないんじやないかな……。というか、僕らが行っていた頃より、そういうことを感じる人の数は減ってるように思いますけど。
田尻: ひとつは風営法が施行されて、ゲームセンターが12時で閉店するようになったよね。(※7) そういう大人の事情で、ゲームセンターの質が変わるっていうことが、最初のステップとしてあった。ちよつと胡散臭いけど魅力があって、親に隠れても行ってみたいっていう場所が、急速にアミューズメントセンター化していく。照明が明るくなって、女の子でも抵抗なく入れるような——そういうマーチャンダイジングというか、一般化が行われたわけだ。しかも、そのときちょうど家庭用ゲーム機の大きなブームが来て、ゲームセンタ—だったり、そこにあるゲ—ムのアイデンティティが危うくなった。それでもファミコンの頃は、ゲームセンタ—のゲームの方が、プログラム的にも画像でも(レベルが)上で、お金を払ってまで遊ぶ価値があったし、ゲームセンターに行く意味もあると思っていたけど、だんだんそういう必要も感じなくなってきたんだよね。で、それくらいスペック上の差が縮まってしまったとなると、ゲームセン夕ーに行く理由は、UFOキャツチャーとかいろんな対戦物——『ストⅡ』のブームなんかは、そういうゲームセンターのアイデンティティーのリトライのいい例だと思うんだけども……。(※8)
——まあ、その辺はおいおいお話をうかがうとして(笑)。僕がこの本を読んで感じたのは、すごく80年代的な知性の在り方の本だなということなんです。たとえば、一番最後の「ゲームフリークはバグと戯れる」の章。『ゼビウス』のバグの話が民俗学の都市伝説の話に繋がっていったりだとか、ある種ポストモダン風な知的

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※3: '96年2月、任天堂より発売されたゲー厶ボーイ用ゲームソフト。通信機能を使ったモンスターの交換をシステ厶の軸に据えたロールプレイングゲー厶。モンスターの出現率などが違う『赤』と『緑』の2つのパツケージでリリースされ、TVアニメの放映が開始するや否や、空前のヒツ卜となる。その後も劇場版ア二メやカードゲー厶、グッズなど多様な展開を見せ、2003年11月に発売されたシリーズ続編、『ポケットモンス夕ールビー・サファイア』は2本の合計で500万本(2003年12月末現在)を越す記録的なヒツトとなった。

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遊戯に見える。それは今、あまり見られないものだなとは思うし、そこが当時の田尻さん自身の、青い感じとすごくマツチしてるっていう(笑)。こ、ついう読み方はよくないのかも知れないですけど、それはある意味、今の僕らではできないなっていう感じがあるんですよね。やつてもどこか照れがあるというか。
田尻: 今、僕が同じことをするのも難しいだろうね。やつぱり、時代とうまく合った非常に好例というか、焦点がピシャリと合ったということだと思、つんだけども。あと、当時の僕がゲームについて書こ、っと思ったときにこ、つい、つ文章になったとい、つのは、あまり時代背景やなんかに興味が向かなくて、本当にゲームとゲームの周辺にしか興味がなかった。それこそ、親が倒れようが、先生が追っかけてこようが、俺はゲームセンターに行くんだ!みたいな(笑)、そのくらいの情熱があった時代の話だから。やっぱりゲームセンタ—の出現自体、自分の人生にとってあまりにインパクトが大きすぎたってことなんだよね。

ゲー厶代を手に入れるための無限の言い訳
(※9)

——やっぱり最初は、『スペースインベーダー』ですか?
田尻: そうだね、インベーダーブーム。そのころ、僕は町田に住んでて——町田は東京なんだけど、ほとんど郊外。英語でいうと「サバービア」みたいな団地とか新興住宅がガンガンっくられていく時代。ザリガニとかクワガタが捕れてた山が、半年とか一年の間に発破でボカーンと崩されて崖のようになって。で、その崖に貝の化石みたいなものがボロボロ転がっていて、面白くて毎週採りに行ってたりとかね。近くの湿地帯にザリガニを捕りに行くんだけども、釣るんじやなくて——グチョグチョにぬかるんでいる場所にザリガニの巣があって、穴が開いてるのが見えるんだよ。その周りに土が盛ってあるんだけど、こう手を突つ込むと結構、どこまでも入っていって、奥まで手を入れるとザリガニがいるわけ。で、挟まれないようにし

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※4: 正しくは「ゼビウス——一千万点への解法」。'83年、ゲー厶フリークより発行された『ゼビウス』の徹底解析本(著者は、うる星あんずと中金直彦)。基盤を逆アセンブルして分析したというその内容は詳細を極め、ある意味、その後の〃ゲー厶攻略〃のフォーマツトを形作ったといえる。また、著者に挙げられている「うる星あんず」というネーミングセンスは、当時のオタク文化のつながりを端的にあらわしているように思う。

※5: '83年、ナムコより発売されたアーケードゲー厶。当時ナムコの社員だった遠藤雅伸氏が制作した縦スクロールのシューティング。その先鋭的なグラフィックと謎に満ちた背景世界、そして秀逸なゲー厶デザインによって、大きな支持を集めた。ユーザーか

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て、ズポっと捕ると。
——あはは(笑)。
田尻: うん(笑)。そういうザリガニを手づかみで捕るような場所もあったんだけど、それが1978年を境に、ほとんど新興住宅の宅地造成が完了する。田んぼも雑木林もみんな住宅地になって、近所の釣り堀がゲームセンタ—になるっていう。そうすると、虫を捕ったりザリガ二を捕ったりって体験が、ある日突然、『インベーダー』を撃つ生活に180度切り替わってしまうわけだ。当時は全然、不思議にも思わなかったんだけど、「テレビゲームって面白い!」って興奮で夜も寝られなくなるような感じになって、小遣いを全部ゲームに使うとか、「参考書買う」って言いながらゲームにつぎ込むとか(笑)。塾に行くためのバス代をケチって、わざわざ歩いてゲームやったりとか(笑)。
——そういう細かいごまかしをやりつつ(笑)。
田尻: ゲーム代を手に入れるための言い訳を無限に考えてた(笑)。
——ちょうど中学1年生くらいですか?
田尻: そうだね。でも、ブームと完全にリンクしてたわけじゃなくて、ひとつくらい季節が遅れてくるような感じ。ゲームセンタ—の『インベーダー』の機種は、圧倒的にコピー品が多かつたしね。
——それは、突然ガラツと変わったって感じなんですか? 夏を越えたら、突然風景が変わったみたいな。
田尻: そう。その頃の町田駅の駅前というと、釣り堀があることが一種の風物詩というか、わかりやすさだったんだけども……。
——ああ、駅のシンボルみたいな。
田尻: そうそう、駅前のわかりやすい風景。小田急線の改札口から出ると釣り堀があったんだけど、そこがゲームセンタ—になった。僕はそこに毎日通うようになるんだけど、もうひとつ、自分が住んでいた都営住宅の前にも釣り堀があって、そこも駅前と同じ家が経営していたんですよ。そこはへラ鮒釣りとか金魚釣りのかたわらで、製氷業みたいなこともやってたんだな。ドリンクサービスっていって、氷だらけのコップに、ちょびっとだけペプシコーラを入れて出す——だから、見かけより実際は少ないんだけ

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らの情報発信がさかん(ゲー厶フリークの「一千万点への解法」はその最たるもの)で、熱狂的な厶ーブメントを生み出すに至る。
※6: '86年、JICC出版社(現宝島社)より創刊されたファミリーコンピュータ専門誌。徳間書店の「ファミコンマガジン」(略称は「ファミマガ」)と並んで、ファミコンブー厶初期に創刊された雑誌のひとつ。ベ二ー松山の『ウィザードリイ』小説や特定のタイトルに特化したファンページなど、他誌とは違う濃い内容がユニークだった。のちに「HIPPON SUPER!」と改称。
※7: '48年「風俗営業取締法」として制定。キャバレーなどの接待飲食業や性風俗業の営業時間、区域を規制し、営業の適正化を図ることを目的とする。'84年の大幅改定によつて、当時社会問題化しつつあったゲー厶センターにも同法が適用されるようになり、24

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ども、そういうので客の入りがよくてね(笑。僕もゲーム代がなければ出たり入ったりして、コーラを飲んでゲームをやっている奴らを見てた(笑)。
——そのゲームセンタ—が中学生の頃の中心? (※10)
田尻: そうですね。タイトーの直営店もあったけども、そこはタイトーらしく——今で言うと三枚基板っていうけど、オリジナルだけがズラーっとあって。それで、その釣り堀のゲームセンターは、タイトーのオリジナルの商品を入荷するほどの金がないんで、今なら『ミュージツクインベーダー』と言うとわかりやすいのかな。弾に当たると「私バカよね〜♪」みたいな音楽が流れてボカーンとなる(笑)。
——いわゆるコピー品。
田尻: そうそう、コピー品なんだけど、どこかで面白がってもらおうっていう味つけがされてて。そのゲーセンに機材を納入してたのが偶然なんだけど、サンリツってメーカーだった。サンリツは、のちにセガと関係が深くなって、『バンクパニツク』とか『アッポー』をつくるようになるんですけど、そこが『ミュージックインベーダー』みたいなものをつくってたんだよね。(※11)(※12) 今はもう会社名が変わってしまいましたけど、非常にマイナーな『ドリームショッパー』とか『ルージュアン』とか、マニアの中のマニアにしかわからないような(笑)。
——はい、わからないです(笑)。
田尻: そこのゲームセンタ—が、サンリツの開発したものをロケーションテストして、つくり直しては世の中に出すってことをやっていて、自分にとって非常に貴重な体験でしたね。そこで、ゲームメーカーが直営店を持ってて、ロケーションテストでゲームの出来を調べるってことを初めて知ったんですよ。
1日の3/4は
ゲー厶のことを考えてた
——当時、まわりの友達もみんな『インベーダー』に夢中だったんですか? 中学生くらいだと、野球が好きなヤツもクラスには必ずいるわけじゃないですか。
田尻: 「あえてやる」って言うんならやりには

時間営業のゲームセンターが消滅。結果、ビデオゲー厶の質そのものに大きな変化を与えたのは、田尻氏が述べている通りである。また'98年の改正からは、インターネットプロバイダーにも適用されることとなり、話題になった。
※8: 正しくは『ストリー卜ファイターⅡ』。'91年、カプコンより発売されたアーケードゲー厶。リュウ、ケンら8人の〃ストリートファイター〃たちが世界を舞台に戦う。その斬新なコンセプトと、対人対戦を核に据えたシステムは大きな評判を呼び〃対戦格闘〃ブー厶の火付け役となる。その後も『Ⅱ'』『Ⅱ'夕ーボ』『ハイパー』とシリーズを重ね、今でも熱狂的なファンが多い。
※9: '78年、タイトIより発売された初期アーケードゲー厶の傑作。画面上部から押し寄せてくる宇宙からの侵略者(インベーダー)を砲台で撃ち、すべてのインベーダーを

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行くんですけど。僕だけが基本的には四六時中ゲームのことを考えてた。一日のうち、3/4くらいは考えてたんで(笑)。
——起きてる時間は全部(笑)。
田尻: そうそう(笑)。
——ゲームセンタ—に最初に行ったのは、ひとりだったんですか?それとも友達みんなで?
田尻: 一番最初は、友達がきっかけなんですよ。その友達の両親が共働きだったんで、小遣いがちよつと多かった。で、まあゲームを始める前は「何の儲けにもならないのに、あんなにお金を使う気持ちが知れない」と思ってたんだけども、友達と商店街を歩いてて……ほら、ゲームセンター以外にもゲームがいっぱい置いてあったから。
——ああ、おもちや屋とか。
田尻: あと喫茶店とか、スーパーやデパートのちよつとしたコーナー。隙間があれば置いてあるっていうね。それで、流行りのゲームをやつてみようって話になって。俺はそのとき「金がもったいない」と思ったから、見てたんだよね。当時のゲームはテーブル型で、ふたりだと向かい合うわけじゃないですか。で、ちよっと面白いなと思ってたら、最後の1機をやらせてくれたわけ。そのときに「意外と遊びとして面白い」というか、具体的に何が面白いかはわからなかったんだけども、お金を払うだけの面白さはあるなあという漠然とした印象を持って。それで、今度は自分でやってみようと思ったんだよね。
——1回目で「来た一、もうこれしかない!」って方が衝撃の出会いって感じですけど(笑)、全然そうではない。
田尻: そうですね。だから、3機あるうちの1機をやって--ほんのちよっと、テレビゲームの縁に触れたときのその感触がよかったっていう。そのことが、自分がのちのち、のめり込んでいくきっかけになったというかね。3機のうちの1機っていうと、合理的に考えればたいしたことはできない(笑)。しかも初めてなんだから攻略法も知らない。だから「なんだこれは」と。たとえば、「UFOキャツチャーで、カスリもしないでただ虚空を掴んで戻ってきて100円が消えて終わり」みたいなことだったら、次をやろうとはほとんど思わない。だけど、

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消すとステージクリアとなる。数が少なくなるにつれスピードを上げるインベーダー、一定の規則によって出現するボーナスキャラのUFOなど、いまだ有効な手法が見事にまとめられており、大ブー厶を引き起こした。
※10: '53年設立。当初は、輸入雑貨の販売やジュークボックスの輸入販売などを行っていたが、'73年に日本初の業務用アーケードゲー厶『エレポン』を発売。'78年に発売した『スペースインペーダー』が大ヒットを記録し、初期ビデォゲー厶主要メーカーのひとっとなる。その後も業務用カラオケシステムの開発や『電車でGO!』シリーズなど、日本のアミューズメントの歴史において、果たした役割は大きい。
※11: 正しくは「サンリッ電気」。アーケードゲー厶初期に参入した開発メーカーのひとつ。セガブランドから、銀行員となつて強盗を倒すシ

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あの最後の1機には「今度は自分で100円を出して最初からやってみたい」と思わせるものがあったんだよね。
——それがまさか、基板集めまで行くとは、全然想像もできなかったでしょうけど(笑)。
田尻: 小さな雑居ビルのワンフロアーがゲームセンタ—になったり——ゲームセンタ—というかインベーダーハウス化というのかな。いざインベーダーゲームで遊ぼうと思うと、いろんなところがあるわけ。で、今なら、オリジナルのタイトーのものが『スペースインベーダー』だって言えるんだけど、コピー品とか改良品、パクリの方が圧倒的に多かったんだよね。その後、新宿に行くようになっても、相変わらず『インベーダー』はそんな感じだったから、たぶん町田だけの話じゃないと思うんだけど。
——その頃のもので印象に残ってるものってあります?
田尻: たとえば豊栄って会社の『スペースストレンジャー』は、動きは丸っきりオリジナルのままなんだけど、ナゴヤ撃ちができなくて、バリケードを撃つとマイナス50点になる。だから必死になって戦ってて、ふと「今何点?」って見ると0点なんだよ(笑)。1ドット残ったのを、必死こいて撃ったのに減点になってる(笑)。まあ、ナゴヤ撃ち以外の方法で、純粋に難易度が上がってくる位置で戦う、そういう練習には適してるんだけどね。(※13) で、その続編の『スペースストレンジャー2』になると、バリケードを撃っとマイナス50点っていうのはさすがに文句が多かったみたいで(笑)、それがなくなってフルカラーになった。フルカラーというか、アトリビュートカラーなんだけど、やっぱりナゴヤ撃ちは相変わらずできなくて、一番下までインベーダーが来ると、モロにミサイルが当たる (笑)。(※14) あとは、データイーストの『トリプルアタック』かな。3つのインベーダーゲームから選ぶことができて、UFOからどんどんインベーダーが降りてくるのを撃つっていうヤッ。横が14列くらいあって、インベーダーのいる密度が高いんだよね。それで、ソーセージみたいな形をしたUFOを撃つと、ポシャっと崩れて、中身がザラザラと落ちてくるような演出がしてあったのが印象的だった。で、これもまたナゴ

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ューティングゲー厶『バンクパニック』やユニークなプロレスゲー厶『アッポー』、グ口テスクなキャラクターが強烈だった『ファットマン』などを発売。現在は「シムス」と社名を変更。
※12: '51年創業。国産ジユークボツクスや業務用アミューズメント機器の開発•販売を行っていたが、'83年に家庭用ゲー厶機「SG1000」を発売。以降、アーケードゲ丨厶と家庭用ゲー厶の両方で、『バーチャファイタI』『ソニック・ザ•ヘッジホッグ』など、数々の名作を送り出す。'01年には、家庭用ハード「ドリームキャスト」の生産を中止、実質的に家庭用ハード開発から手を引き、以降は有力ソフトメー力ーとして活動を続けている。
※13: 初期ビデオゲー厶のほとんどはモノクロ(黒の背景に一色)だったが、次に現れたのが「ラインカラー」と呼ばれる、画面内の一定の場

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ヤ撃ちができないんだけど。
——うわあ、全然わかんないですね。
田尻: 任天堂がつくっていた『スペースフィーバー』も3つのゲームタイプが選べて、横12列のインベーダー。(※15) だから、オリジナルより1列多いんだけど、インベーダー同士の隙間がオリジナルと同じ間隔。つまり、インベーダー自体の大きさが1ドット小さいんだよね。それで、UFOを撃つと「タララララ〜♪」とか、ちょっと音楽の旋律めいたものが流れる。たぶん、ゲームミュージツクの原点を探し求めていくと、この『スペースフィーバー』あたりが祖先のひとつになるんじやないかな。それで、単音でも旋律を鳴らした方が好評だってことに気づいて、そういう演出をもうちよつと徹底したのが『シェリフ』になるんだよね。(※16) これは、ガンマンに囲まれているのを、ロータリースイッチで鉄砲の位置をグルグル回して撃つっていうゲームなんだけど、『インベーダー』でい、つところのUFOの代わりに、コンドルが飛んでくるわけ。そのときに「テレレ〜♪」って、「コンドルは飛んで行く」に限りなく似たような旋律が流れるんだな(笑)。
——あはは(笑)。
田尻: まあ、似たようなゲームが鬼のように出るんだけど、どこかが違う。そのことが、自分の人生をすごく充実させてくれたんだよね。当時はなぜそんなものがあるのか、プレイヤーとしての自分の想像力を超えた現象だったから、全然わからなかったんだよね。いろんなゲームメーカーとか、あるいはゲームセンターでちょっと理系でハンダゴテが上手に使えるようなオツサンが改良してるってことを知らないからさ、「同じインベーダーかと思ったら、こんなに違う!」みたいなね。
——田尻さんのなかでそれを網羅したいっていう欲望がふつふっと沸いてきた?
田尻: そう。当時は〃ニセモノ〃っていうほど軽蔑した目で見ているわけじやなくて、もう少し知らない世界を知りたいって思ってたら、次々と刺激を与えてくれるものが現れたっていう。探検の時代の象徴というか。それで、普通の人は「インベーダー、インベーダー」って呼んでるんだけど、自分にとっては『インベーダ

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所を同じ色で塗りつぶす手法。そして、この「アトリビュートカラー」の出現によつて、キャラクターごとにカラー(当時は8色)を乗せることができるようになった。当時のビデオゲー厶において、カラー画面の出現は驚異であり、鮮やかなその色あいは強い印象を残す。セガの『トランキライザーガン』などが有名。
※14: '80〜90年代にかけて、その独特の作風で多くのゲー厶マニアを熱狂させたソフトメー力ー。タイトルに現れる「DECO」のメー力ーロゴに涙を流した者も多い。代表作に『ヘラクレスの栄光』シリーズ、『ウルフファング』、『チェルノブ』など。2003年7月に破産。
※15: 1889年創業。卜ランプ•かるたなど遊興器具の販売をおこなっていたが、『インベーダー』ブー厶にのって、アーケードゲー厶業界に参入。そのノウハウを活か

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ー』は50種類くらいある(笑)。
——あはは(笑)。
田尻: タイトーのものには敬意を表するけれども、そのほかにもサービス精神の高いものはたくさんあって、そういうものをゲームの歴史から消してしまう、なかったことにしてしまうのは惜しいなあ、と。あと、当時は「口裂け女」が流行ってて(笑)、『口裂けインベーダー』ってのもあったんだ。(※17) オリジナルのプログラムを利用してるんだけど、トツトットツて歩くときの足が開いた瞬間に、30点インベーダー以外のインベーダーの顔が、ドット2つぶんくらい顔が裂けるんだよ。
——わかりにくいフィーチャーだなあ(笑)。
田尻: あはは(笑)。だから、裂けているときに真ん中を撃つと4匹をピューつと貫いて30点インベーダーに当たるわけ。そうすると、何故か知らねど、ナイアガラの滝っていって、UFOが通るべき道のあたりにバーっと効果線が出て、5000点ボーナスになる(笑)。
——なんかすごい(笑)。
田尻: だから必死こいて、口が開いてるときにパツと撃つっていうね(笑)。

自分で調べてわかったことが自分の知識になる

——もともと、そういう収集癖というか調べるクセみたいなものが田尻さんにはあったんですか?
田尻: ありましたね。ゲームと出会う前から、そういう性癖はあったんですよ。基本姿勢が、「自分で調べてわかつたことが自分の知識になる」っていう姿勢だから。虫捕りに凝っていた頃の話なんだけど、大抵の図鑑なんかには「木に蜜を塗って夜中に捕りに行く」って書いてあるんだよね、虫は夜行性だから。でも、子供が夜中に出歩くこと自体難しいし(笑)、あとそういう虫がいるようなところって、だいたいお墓があったりするからさ、恐いし真つ暗だし、蚊には刺されるし(笑)。だから、ちよつとありえないというか、俺には無理だなと思ったわけ。実際には、当時の町田の森は昼間でも、2、

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して、'83年に家庭用ゲー厶機「ファミリーコンピュータ」を発売、一大ブー厶となる。『マリオ』『ゼルダ』の2大人気シリーズを擁し、職人的とも評される丁寧なつくり込みが特徴。
※16: '79年に任天堂より発売されたアーケードゲー厶。プレイヤーは画面中央の主人公をチャンネルスイッチで動かし、画面外周に現れる敵を倒していく。続編の『シェリフ2』という作品もあった。
※17: '70年代末、子供たちの間を中心に大流行した都市伝説のひとつ。マスクで口を隠した女性に「私きれい?」と聞かれ、「ハイ」と応えると、彼女はマスクを外す。すると、ロが耳まで裂けており、これを見た者は死ぬまで追いかけられると言われた。江戸時代の絵巻物にも、その姿を見ることができるという。

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COLUMN 01 - 80年代のテレビゲー厶

このインタビュー中で何度も触れられているように、'78年に発売され、翌年には日本中で大ブー厶を巻き起こした『スペースインベーダー』は、内容はもちろんのこと、その後のテレビゲー厶の発展の基盤をつくりあげたという意味で、非常に意義深い作品でもある。『スペースインベーダー』は類似品やコピー品を大量に生み出した。セガ、任天堂など、多くのメーカーが〃インベーダーブー厶〃に乗る形でこの時期にテレビゲー厶業界(というものは当時は存在していなかったが)へ参入を始めている。それはつまり『インベーダー』の模倣と洗練のなかから、日本のテレビゲームが生まれてきたということを裏書きしてもいる。
そんなインべーダーブー厶と並行して、日本のテレビゲームの基礎をつくったといえるのが、70年代末から始まっていた〃マイコンブー厶〃だ。それまでは大学の研究室などでしか触ることのできなかった高価なコンピュータを、自宅で好きなだけいじることができる、という衝撃。'77年にはアップルⅡ、'79年には国産初の民生機(NECのPC-8001)、そして'81年にはIBM PCと8001の後継機であるPC-8801(NEC)が発売。BASICのプログラムを掲載した専門誌が書店に並び、多くのアマチュアプログラマーたちが腕を競う。コンピュータという新しい文化に対する技術とセンスは、そうした流れのなかで着実に育まれていった。
そして'83年。テレビゲー厶の世界に旋風を巻き起こす1台の家庭用ゲー厶機が発売される。任天堂の「ファミリーコンピュータ」。ロムカートリッジでソフト供給をする、リーズナブルなパソコンとでもいえる商品はいくつか存在していたが、徹底的にゲームに特化した設計、驚異的な低価格、それより何よりアーケードのゲー厶を〃そのまま〃再現する性能など、他を圧倒するだけの衝撃を持つていた「ファミコン」は、瞬く間に日本中の家庭へと広がっていく。もちろんその原動力となったのは、アーケードで試行錯誤を繰り返していた有力メーカー——任天堂やナムコ、コナミ、タイトーなどからリリースされたソフト群だった。『パツクマン』や『ギヤラクシアン』『ゼビウス』『スクランブル』『ドンキーコング』『エキサイトバイク』そして『スーパーマリオブラザーズ』……。おもちやでありながら、同時にコンピュータでもあり、そして何よりも〃テレビゲー厶"というものの存在。ちようどベビーブーマーたちが思春期に入る頃に巻き起こった〃ファミコンブー厶〃は、70年代末からの一連の流れを決算するに相応しい舞台を用意した。以降、テレビゲームはファミコンを中心にしながら、その表現技法やシステムをひたすらに洗練させていく。たとえば、堀井雄二、中村光一、鳥山明といった豪華メンバーが集結した国産初のRPG『ドラゴンクエス卜』。あるいは、任天堂/アイレムの『スパルタンX』を噫矢とするキャラクターゲー厶の系譜……。さまざまな試みがなされ、作品がリリースされるごとに〃テレビゲー厶"の世界は広がっていく。黎明期にふさわしい熱気に満ちた展開は、文化としてもビジネスとしても、大きな流れを作り出すに至ったのだ。

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