A Man Who Created Pokemon/Chapter 1/Column 1: Television Games of the 80's

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30匹へばりついているクヌギの木があったくらいで、全然困らなかったんだけども、宅地造成で虫の絶対数が減り始めると、だんだん捕りにくくなってくるわけじゃない。だから、ちょうど漬物石くらいの大きさの石を木の根っこに置いておく。図鑑に「虫は夜行性で、昼間は土の中で寝てる」って書いてあるからさ、昼になりや、この下に入って寝るかも知れない、と。それで学校が終わる頃に寄って、石をのけるといるんだよね。蜜を塗るより、はるかに手軽で確かだし、理由もはっきりしてる。そうい、つテクニックを自分で考え出したとい、つか、あまりに夜行性だって書いてあるから……(笑)。
——必要にせまられて(笑)。
田尻: そうそう。昼間動かないんだったら、自分がわかりやすい場所で待っててもらおうって、そういう罠を仕掛けたわけなんだけど。あと、虫を長生きさせるのにもコツがいるんだよね。今はそういうマニア向けの昆虫ショップなんかがあるけど、当時は体験的に見たり、いろんな本を調べた結果でやるしかない。要するに、普通に虫カゴなんかで飼ったら、2、3週間で死んじゃうわけ。でも、水槽くらいの入れものに腐葉土を入れて、昆虫が寝たいときに寝られるようにしておくとか、腹が減ってしょうがないときには食べものがあるって環境にしておけばいい。あるいは、クワガタなんかは、冬になると寒くて死んでしまう。じやあ暖かいところに持っていけば死なないのかというと、これが死ぬんだな。四六時中元気な生きものはいないというか(笑)。だから、冬は冬眠に近い形にしておくべきなんだよね。たとえば洗面台の下みたいな、いつも日陰になっているよ、つなところ、直射日光が当たらないようなところに置いて、エサはリンゴですね。これも、汁気タップリだと痛みやすいんで、ほどほどの汁気で。そういうふうにすると、冬も越えますね(笑)。
——あはは(笑)。
田尻: ゲームをやるようになってからは、そういう知識を使う必要がほとんどなくなっちやつたんだけど、そういうことは非常に覚えていたわけ。今の町田にはそういう生きものはいないし、全部家になっちやって、すべて忘却の彼方だけども。……でも、『ポケモン』をつくる可

能性が出てくるのは、その辺に気がついたときですよね。「俺、ゲームを始める前に夢中になったことがあったよな」って。ザリガニは穴を掘って住んでいるんだっていうこととか。
——そういう体験をもう一度やってみたいって気持ちが『ポケモン』のきっかけになってる?
田尻: いや、やっぱり初めは無意識だよね。モンスターボールの中にポケモンっていう怪物がいて、自分がコントロール可能な状態になっていれば、必要に応じて出して戦ったり、自分を乗せて飛んだり、泳いだり、人生のパートナーになることもある。自分の志としては、個々のポケモンについて繊細な設定をキチンとした上で、ポケモンが動くといいなと思ってたんですよ。でも、ゲームボーイ自体にそういう表現ができるほどのスペックがなくて、結局、「ポケモン図鑑」と称する設定のところに、このポケモンは実際はこういう性質で——たとえば、母親が死んでて孤独で、母親の思い出に浸ってるとかね(笑)。(※18) そういうことを書き込んで。実際にそれをプログラムで表現しようとすると異様に大変なんだけど、「図鑑」でポケモンをリアルに追求したおかげで、あたかも人間とポケモンと他の生きもの達が共存しているかのような世界をつくれたんじやないかと思うんですよ。
——う一ん、こうしてお話を聞いてると、それこそ昆虫の話だとか、インベーダーゲームの種類をリストアップしたりとか『ポケモン』の図鑑だったりとか、田尻さんはマニア的な欲求が高いんだと思うんですけども。そういう性癖というか習性は治らないものなんですかね。
田尻: う一ん、治らないわけじやないとは思うんだけど。たとえば『ヨッシーのたまご』なんかは、そういう部分とは違う。(※19) 任天堂に横井軍平さんという人がいて——も、つ亡くなられましたけど、あの方に半年でゲームボーイとファミコンで動く、シンプルで面白いゲームを作れるかっていう課題を出されたんですよ。(※20) (※21) で「やります」と(笑)。最初にモデルを3つくらい持っていったんだけども、そのなかに、エサが2つ落ちてくるっていうアイディアがあって。それを見た横井さんに「落ちた後でも、天秤みたいなもので入れ代えられればゲームとしては

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※18: '89年、任天堂から発売された携帯用ゲー厶機。フアミコンと同じ、十字キーにABボタンというインターフエイス、モノクロの液晶パネルを採用。大ヒットパズルゲー厶『テトリス』などをリリースし、話題を呼んだ。一時期、売り上げが伸び悩んだが、『ポケットモンスタI』のヒットにより復活。より小型化した「ポケット」やバックライト機能のついた「ライト」、液晶パネルをカラーに対応させた「カラー」などがある。
※19: '91年、任天堂より発売されたファミリーコンピュー夕/ゲー厶ボーイ用ソフ卜。いわゆる『テトリス』風の〃落ちもの〃アクションパズルのひとつだが、ユニークなアイディアがいくつも盛り込まれている。画面下のマリォが持つている天秤を回転させ、上から落ちてくるキャラクターをチェンジ。上下に割れた〃たまご"の欠片でうまくキャラクターを挟めば、ボーナス点が狙える。

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上手くいくんじやないか」みたいなことを言ってもらえたんですよ。それで方向性が決まって、半年でゲームボーイ版とファミコン版を商品化することができた。そこは、今まで話したような、幼少期からの僕の体験とかゲームセンタ—野郎だった時代の自分とは、少し違うスタンスだと思うんだけども。課題を与えられて、自分はクリアできるのかっていう。プロとしての仕事の仕方を、横井さんに教えてもらったというかね。
——ああ、マニアの延長としてじやなく。
田尻: まあ、『ポケモン』みたいなゲームは、本来、仕事としてやっていたら、作れない。もちろん最初に任天堂に企画書を出していますけど、当時は『テトリス』が流行ってた頃で、それこそ128キロバイトとかそういう小さい容量のカセットがメインだったわけ。(※22) ロールプレイングゲームで通信ケーブルを使うって話をすると、「作るのはいいけど、本当にできるの?」と。まあ、「できます」って答えたんだけども(笑)。だいたい3、4人で作って1年で仕上がるから、予算も1500万円で充分だろうみたいな感じでいたから。
——今から考えると、とんでもない(笑)。
田尻: とんでもない(笑)。実際には、いろんな変テコなポケモンがいっぱいいた方が面白い、でもその面白いことをいっぱい考えるのはいったい誰なんだ、と(笑)。そういう巨大な壁にぶち当たって。そうなるともう、仕事としては取り組めないレベルですよね。本当に趣味として割り切っていたから、結果的にでき上がったっていうかね。
——じやあ、さっき話したアマチュアとしての田尻智の部分が、『ポケモン』には濃厚に残ってる?
田尻: そうそう。で、そういうものって、自分じや捨て切れないじゃない。だから周りの人は『ポケモン』を見て、「これ、完成しないんだから、やめよう」って言うわけ。ほかのゲームなら作れるし、完成するんだからほかのことやろ、つ、みたいなことを言われたりもしたんですよ。で、その頃は考え方が非常に若かったから、プライドが傷ついたんだけども、まあ、できない自分が悪いわけで(笑)。だけど、『ヨッシーの

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※20: '41年、京都府生まれ。任天堂第一開発部•部長として「ゲー厶&ウォッチ」シリーズやゲー厶ボーイの開発にあたる。'96年に任天堂を退社、株式会社コトを設立。アクションパズルの秀作『GUNPEY』(ワンダースワン)を制作する。'97年、交通事故で他界。
※21: 正しくは「ファミリーコンピュータ」。アタリ社の「VCS(ビデオ・コンピュー夕・システ厶)」のヒツ卜(普及台数は2500万台ともいわれる)の影響を受け、'70年代末から'80年代初頭にかけて、同様の商品がいくつも試みられた。'83年に任天堂が発売した家庭用ゲ——厶機「フアミコン」もまた、そのひとつ。ソフトカセツトを入れ替えるだけで新たなゲー厶が遊ベる、家庭のモニターを使った安価なシステム……といった特徴だけ見れば他機種とそれほど差はないが、自社開発ソフトのクオリティの高さにより大きな評価を得た。

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たまご』で、「半年でこれこれこういうものを作れますか」って作り方——企画から完パケまで半年で全部終わらせるっていうのは、今まであまりやってこなかったことで、そこでプロとしての意識が芽生えたというのはある。実際には全部、同時並行で起こっていたことなんだけど、貴重な体験だったんですよ。しかも『ヨッシーのたまご』は、非常に売れたしね。
——当時で考えても、けっこうなヒットでしたよね。
田尻: それで、任天堂サイドも僕を信用してくれたし、ほかのゲームを作りながら、『ポケモン』の話題は当分しないでおきましょうみたいな(笑)。「田尻君がやめるとい、つなら、やめて新しい仕事をしましょう」と。
——なんか大人な対応を受けて(笑)。
田尻: もう、自分としてはプライドだけですよ、こうなるとね。社内ではみんなに「絶対にやるんだ」「これは出来上がったら絶対に売れるんだから」とか言って。「ゲームの世界を変えるんだ」とかって大袈裟なことを言って、社内を鼓舞してた(笑)。

インべーダーをグラフ用紙で再現

——あはは(笑)。もともとゲームフリークって、田尻さんの同人誌からスタ—卜してるわけですよね。それこそ、単純に「ゲームが好きだ」っていうところが一番最初の出発点。そういう田尻さんが作り手の立場にまわるときに、ゲーム会社に入るという選択はなかったんですか?
田尻: う一ん。『インベーダー』のブームのときに、妄想がすごい膨らんだんだよね。『インベーダー』なのに、こんなに種類があると。だったら、作ってるヤツもたくさんいるだろうし、俺もできるもんなら作りたいと思うわけ。それで秋葉原に行くと、その当時だとTK-80とか、いわゆる最初のパソコン……。(※23) (※24)
——ああ、「パツクランドでつかまえて」にもその話が出てきますよね(笑)。(※25)
田尻: そうそう(笑)。あとはMZ-80Kとか、当時、20万円前後のパソコンで『インベーダーゲーム』が、形だけだけど再現できたわけ。もちろん、プロの目から見ればいろいろとツツコ

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※22: ロシアの数学者アレクセイ・パジトノフが開発した……という触れ込みの大ヒツトパズルゲー厶。上から落ちてくるブロックをうまく配置し、列を揃えていく。シンプルながら中毒性の高い内容は、大きな反響を呼び、〃落ちものパズル〃と呼ばれるージャンルをつくりあげるに至る。ゲー厶ボーイ版は'89年に発売。
※23: 今やオタクと美少女ゲー厶の街で知られる〃秋葉原〃は、山手線や総武線などが交差するターミナル駅とその周辺の一帯を指す。もともと家電の街として発展したこの街には、大小の電器専門店がひしめきあっていた(「ラジオ会館」の、電子部品取り扱い店が並ぶ様子は、その象徴といえる。しかし、郊外に大型電器店が増える'90年代中盤を境に、その町並みはー変。美少女ゲー厶やアニメ、コミック、ガレージキットなど、いわゆるオタク向けショップの数が急増した。

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ミどころがあるんだけども、まあ夢が実現するようなね。
——妄想が現実に直結するわけですね。
田尻: だから秋葉原にも毎週行って、自分でゲームを作るためには、やっぱりキーボードでプログラムができるようにならないといかんな、みたいなことを考えたり。あと、さっきも言ったように、世の中に無数にある『インベーダーゲーム』でも、それぞれインベーダーの形が微妙に違う。(※26) コナミの『スペースキング』には耳みたいなモノがついてて(笑)、ユニバーサルの『コスミックモンスタ—』は足が4本あって、斜めにピッピッピッっと、ホウキを掃くみたいな感じで揃えて歩く(笑)。(※27) メーカーによって、すごく面白い動きをするわけ。で、ちょうど中学生だから数学でグラフ用紙を使うようになるじゃない。そうすると勉強の間、そのグラフ用紙にインベーダーのドットの再現をしてるわけだ(笑)。
——あはは(笑)。
田尻: 30点インベーダーはこうとか、ミサイルの形はこうだよなとか(笑)。それでそのうち自分で考えたドット絵を描き始めるんだよね。そうやって、グラフ用紙でドット絵描きの概念を脳内鍛練しつつ、でも手元にコンピュータがないから、アイディアを考え始める。そうしたら、わりと早い時期にユニバーサル——今じやアルゼになってるパチスロメーカーですけど、そこがゲームアイディアコンテストをやつたんですよ。79年くらいじやないかな、はっきり覚えてないんだけど、その告知が「ぴあ」に載ってて、「これだ」と。(※28) 俺が世の中にうって出るには、これしかない。ゲーム作りのチャンスがまわってきたぞ、と。俺のアイディアを披露して、いったいどうなのか評価をいただこうって、2つくらい出すんだよね。でもそのときは「ユニバーサル」って書いてあるキーホルダーが2つ送られてきただけで(笑)。
——箸にも棒にもかからない(笑)。
田尻: 参加賞(笑)。「どうもありがとうございました」とか書いてあって(笑)。だけど、どんなアイディアを送ったのかは、今でも覚えてるんだよね。ひとつは、降ってくる雨を避けるっていうゲームで、大粒の雨がゆっくり降って

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※24: '76年にNECから発売されたワンボード・マイクロ•コンピュータ。もともと開発者向けのトレーニングキットとして発売されたものだが、マニアを中心に爆発的な売れ行きとなった。CPUにはIntel 8080互換のμPD8080Aを使用、メモリは512バイトと今から見れば、簡素極まりないが、基本的な動作がすべて理解できることもヒットの要因だった。また、本機で使用された基本的なアーキテクチャは、名機PC-8001など、NECから発売されたー連のパーソナルコンピュータへと引き継がれていく。
※25: '78年にシャープから発売されたマイクロ•コンピュータ。10型モノクロCRTにキーボード、記憶装置としてカセットデッキ(!)付属というオールインワンタイプのマシンで、そのコンセプトの新しさは、大きな注目を集める。CPUにはZ80を使用、ROM4KバイトとRAM20Kバイト(最大で48Kバイト)。

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くるのを、こう傘を開いたり閉じたりしながら、避ける。で、面をクリアすると虹がかかって、よかったよかったっていう。これはもう、イメージだけなんだよね。で、もうひとつは『闇夜のカラス』っていうゲームで、これは真つ暗なところにカラスが木に止まってて、何も見えない。でも目を開けるとそこだけが光るんで、場所がわかって、撃つっていうような。
——『インベーダー』の発展みたいな。
田尻: そうそう。だから、当時のインベーダー少年のイメージギリギリで考えたっていうレベル。自分からすれば、何か引つ掛かるんじやないかと思ってたんだけど、引つ掛かりもせずに。
——あはは(笑)。
田尻: だけど実を言うと、キーホルダーはそこそこ嬉しかったんだよ、メーカーのノベルティグッズをもらったっていう(笑)。まだゲーム少年だったからね。で、それから1年くらい経って、今度はセガが「ゲーム大賞」っていうアイディアコンテストを始めるんだよね。セガはユニバーサルより会社がデカイと思っていたし、特賞なら100万円。ユニバーサルのときは50万だったから、たぶんスケールがデカいんだと(笑)。1個でいいからもう少し真面目に考えて出そうって思ったんだよ。もちろん考えている時間よりゲーセンに行く時間の方が多かったんだけども、締め切り日のギリギリになつて、どうにか3、4枚の企画書みたいなアイデイアを出して、送ったんだよね。でも、半年以上、1年近くなしのつぶて。ダメだったのかよかったかもわからないくらい時間がかかって。ユニバーサルのときは、けっこうすぐ返事が来たんだけど、セガのときは出したことを忘れかけてた頃に電話が掛かってきて、「優秀賞になりました」と。
—— へえ一。
田尻: 結局、特賞は出なかったんだけど、優秀賞は2人いて、僕ともう1人、蕨市にいた少年が授賞したんだよね。それでセガに授賞式に行ったのが、初めてゲームメーカーの敷居を跨いだ瞬間。それが高校1年くらい。このとき応募したアイディアっていうのが『スプリングストレンジャー』っていうタイトルなんだけど、(プレイヤーキャラが)可愛いカマドウマみた

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当時のマシンのほとんどは、BASICをROMに内蔵しているのが当たり前だったが、本機ではその容量をすべてRAMとして使用することが可能。こうした拡張性の高さ(BASIC以外の言語が利用できる)も魅力のひとつだつた。
※26: '73年創業(社名は、コナミ工業株式会社)。アミューズメント機器の製造・販売を行っていたが、'78年からアーケードゲー厶業界に参入。『グラディウス』や『ツインビー』など、高い技術力をバツクにした作品をリリースする。またオールドファンにとっては、アスキーの西和彦氏が提唱した統一規格パソコン「MSX」向けに高品質のソフトを供給していたことで印象深いメー力ーだろう。現在ではカードゲー厶やCD、書籍の制作、フィットネスクラブの運営など、ゲー厶メーカーの枠におさまらない幅広い展開を見せている。

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いな、足がバッタ状になってるヤツなんだ。今の人にもわかるように説明すると、横から見た『Qバート』みたいなもんだな。(※29) 最初に『Qバー卜』見たとき、「あ、俺のアイディアによく似てるわ」と思ったもん(笑)。ただ僕のアイディアだと、ああいうグロいキャラクタ—じやなくて、目ん玉がデカくて足が大きくて。で、障害物があって日本風に剣山が置いてあるの(笑)。剣山を踏まないように、ボタンを押してハイジャンプすると、1段飛ばしで階段を降りれる、みたいな。それで賞金をもらって、「ゲームセンタ—に行くなんて、非行に走っちやつた」っていう親の誤解がようやくこう……(笑)。
——解けたっていう。
田尻: 親孝行だって言って、賞金の半分を親に渡して。不良と呼ばないでくれ、みたいな(笑)。
——ちなみに賞金はいくらだったんですか?
田尻: 10万円でしたね。
——けっこう安く済ませましたね、セガも(笑)。
田尻: そうそう。でも個人的には、けっこう使い手のあるリアルな金額だったからね。100万円はリアルじゃないけど、たとえば、親に5万渡して、残り5万なら、ちよっといいウォークマンが買えるなとか、いろいろ具体的な買物ができた時代だったから。だけど、僕のアイデイアのゲームは途中まで開発していたんだけど、結局、商品にはならなかったんだよね。もうひとりの蕨市の子のアイディアは鉄道の路線を上から見た図と横から見た図で描いてあって、たくさんの列車が走っているのを切り替える。で、横から見たパースでも追っかけてくるのが見えて、それを煙で撒くってい、つゲームなんだけど、それは『スーパーロコモーティブ』っていうタイトルで商品化されたんだよね。(※30) ゲームセンターに出ましたよ。(※31) BGMがYMOの「ライディーン」だったのかな。

ゲー厶フリークの誕生

——「ゲームフリーク」をつくるようになるのが、だいたいその翌年ですよね。
田尻: そうですね。ゲーム好きの友達はいたけど、僕ほど好きだという友達はあまりいなかつた。もうちよつとうまく遊べば面白さが倍増す

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※27: '69年、ジュークボックスのレンタル会社として設立。'75年から各種ゲー厶マシンの製造•販売をスター卜させる。アーケードゲー厶への参入は非常に早く、『ギャラクシーウォーズ』や『ミスターDo!』など、オリジナリティには欠けるものの傑作も多い。その後、販売部門であるユニバーサル販売株式会社、開発部門であるユニバーサルテクノス株式会社と枝分かれし、'93年に再統合。現在も、株式会社アルゼとして存続している。
※28: '72年、中央大学の学生たちとTBSのバイト仲間によって創刊された総合情報誌。東京都内にある映画館の番組表をくまなく掲載するという「使える情報誌」としてスタート。ほかでは見られなかったその斬新なコンセプトは、若い世代を中心に急速に支持された。情報発信者のバイアスがかからない、生の情報をできるだけ早く提供するというその姿勢は、現在まで続く〃カタログ文化"のもつ

る方法があるのに、そういう情報を交換するのが、知り合いに会って、興味を持っていれば話すっていう、そういう方法しかないのが一番……。
——フラストレーションだった。
田尻: 欲求不満というか、もったいないっていう。(※32) たとえばアーケード版の『ドンキーコング』だと、1面でハシゴを登って、ちよつと左の端から飛び下りるとクリアになるって技があったんだよね。で、その技は、今なら知っている人は知っている技なんだけど、当時は本当に『ドンキーコング』が好きなヤツに言わないと、「おお、すげえ」っていう反応が返ってこないわけだよ。
——ああ、通用しない。
田尻: うん。で、これは一体どうしたらいいんだろうと(笑)。
——多くの人に伝えるにはどうしたらよいか、と。
田尻: そうそう。麻雀だって、『ジャンピュータ』を遊ぶために勉強してルール覚えて、やるようになったわけだし(笑)。(※33) フリテンのときにも、チーの後だと上がれるバグがあるぞ、とかね(笑)。
——研究して。
田尻: うん。今なら本当に小さなミニ情報みたいなもんなんだけど、知っているのと知っていないのでは、ゲームのやり甲斐が全然違う。そういう価値があると当時は思ってて。文章を書くのも好きだけど、ゲームを作っているテクノロジーはコンピュータだし、自分の興味とか姿勢は理系に向かっているな、と思ったわけ。(※34) それで、国立東京高専——今だと「ロボコン」なんかで知られてるとこだけど、もともとはエンジニアを育てることを目的に作られた学校で、ここならわりと早くから理系の勉強ができる。そういうわけで、そこの電気工学科に入るんだな。しかも、その学校自体、すごく自由な校風だったんだよね。別に制服を着ていかなくてもいいし、ある日数だけ授業に出て、成績をちやんと出して、卒業研究すればいい、みたいな。そういうところにいたせいで、余計、ゲームの情報のやり取りをどうするのかつてことについて、考えるヒマができてしまった(笑)。

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とも早く、かつ究極的な例といえる。
※29: '82年、米国アタリ社から発売された、ジャンピングアクションパズルの名作。プレイヤーは、主人公の「Qバー卜」を移動させ、ピラミッド状に配置された画面内の箱をすべて目的の色に変化させる。立体的なグラフィックと、キャラクターのユニークな動きが印象深い。
※30: '82年、セガより発売されたアーケードゲー厶。
※31: 「YMO(イエロ!マジツク・才ーケストラ)」は、細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一の3人によるテクノユニット。'78年、アルバム『イエロー•マジツク・才ーケストラ』を発表、大きな注目を集める。アナログシンセの響きを全面に押し出した独特なメロディーラインを持つ「ライディーン」は、彼らの初期の名曲のひとつ。

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——妄想を炸裂させる時間がいっぱいできたっていう(笑)。
田尻: それで、80年代の初め、ポスト『インベーダー』を狙って、一番積極的に新しいゲームを出していたのはタイトーなんだよね。当たつたか当たらないかは別にして、種類は出していたんだよ。で、そのリストをつくって、内容をキャプションにして、自分がやった面白さをABCDEでランクをつけて。
——5段階評価をして(笑)。
田尻: そう(笑)。そうやって実際に資料をつくり始めるわけ。全部手書きなんだけど。あとは、さっき言ったようなゲーム好きなら面白がりそうなゲーム情報とかテクニックを書いて。当時は雑誌のフォーマツトをどうやれば具体的につくれるのか全然わかんなかったから、手書きでここまで書いたんだし、あとは表紙をつけて売るかっていう(笑)。
——アバウトですねー(笑)。それが「ゲームフリーク」の創刊号。
田尻: それで八王子にある10円コピーの安いところに行って多量にコピーして。それで日曜の
朝には二つ折りにして、表紙までつけたら、ホッチキスで留めて、一冊出来上がりっていう。40冊から50冊くらいできたら、新宿にフリースペースっていう同人誌も扱ってる書店があったんですよ。そこに行って、「これを置いてくれ」と。
——そこは委託なんですか?
田尻: そうです。売れたら、何%かを手数料として引いて、残りの売り上げを毎月精算するっていう。だから、置いてある分にはあまりお金はかからないシステムで。
——ちなみに創刊号って、おいくらだったんでか?
田尻: 250円とかかな。
——反応って返ってきました?
田尻: いやあ、すぐに返ってきましたね。そのフリースペースの中で隆盛を誇っていたのは、マンガの同人誌で、次がアニメの同人誌。あとは自作小説を本にしたみたいなもの(笑)。
——あはは(笑)。じやあ、ゲームの同人誌つていうのは……。
田尻: なかったんですよ。で、自分はアニメみ

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※32: 任天堂の顔ともいえる人気キャラクター「マリオ」が、初めて登場した記念すべき作品。'81年に発売され、アクションゲー厶としての完成度の高さ、抜群のグラフィックセンスなどにより大ヒットとなる(コピー品も多かつた)。コングが落としてくる樽をジャンプで飛び越え、頂上に捕らえられているレディを救い出すのが目的。
※33: '81年、サンリッ/アルファ電子より発売された、アーケード用麻雀ゲー厶。
※34: 正式名称は「NHKロボットコンテスト」。'88年より全国各地の高等専門学校を集めて実施されている、ロボット競技会のこと。'90年以降は大学やアジア•太平洋地域の学生を対象にした部門も開設。その模様は、主催者であるNHKでも放映され、根強い人気を誇る。

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たいな絵は書けないけど、とりあえずドットのようなものだったら描けると(笑)。あまり自慢にはならないんだけど、『ディグダグ』の主人公なんかなら、どういうドット構成でできてるのかわかる(笑)。(※35) それで、ドット絵を描いて、表紙にしたんですよね。
——で、『ポケモン』までは、そういうアマチユアリズムとい、つか、インディペンデントな作り方をずっとやられてたと思うんですよね。
田尻: そうですね、『ポケモン』まで。まあ、最初の『ポケモン』までだろうね。それ以降はアマチュアではいられない、ワールドワイドに市場が広がったことによる非常に複雑で多層化した責任とか、法体系の学習とか。やっぱりそういう面で大人にならないと、これだけ爆発的に売れた後の責任が取れない。そこをキチンと取るのがプロフェッショナルであるっていうことだとも思うし。
——そこで思うのは、もともと『ポケモン』っていうプロダクション自体、多くの人の手に渡らなければ成立しない要素をはらんでいたと思うつんです。
田尻: うん。
——要するに、いろんな人が自由に交換できないと成立しないっていうコンセプトが、最初にある。そのためには、それこそ100万人、200万人っていう人の手にソフトが行き渡ることが理想だと思うんです。
田尻: そうですね。
——で、その結果、『ポケモン』はヒットになった。そこで出てきた責任というのは、自分の想像していたよりも大きかったのかどうか。そこをうかがいたいんですけども。
田尻: 大きかったねえ。自分の夢としては国内で100万本行けば、この話はうまく行くと思っていたんですけど、あまり期待されていなくて、初回出荷は20万本くらいかな。それはまあ、数日ですぐにはけて、増産が割とすぐにいいテンポで繰り替えされるようになったんだけども。……つまり僕は、ゲームボーイに通信ケーブルがつくって聞いたときに、〃通信〃っていうもののイメージをいろいろ考えちやったんだよね。情報が行ったり来たりするのか、みたいな。ところが実際のソフトを見ると——『テ

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※35: '82年、ナムコより発売されたアクションゲー厶。主人公を操作して地下を掘り進め、岩やポンプを使って地面深くに住む敵をすべて倒すと、ステージクリア。攻略性も高く、またポップなキャラクターデザインが人気を集めた。

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トリス』を見ても、棒が落ちたとか、地面が盛り上がったとか、あまり情報が行ったり来たりしてる感じがしない(笑)。そこで、ちよつとズレを感じたんですよね。言葉の提案と実際の商品とのズレ。で、それをわりと覚えていて、じゃあ通信ケーブルで本当に行ったり来たりするモノを考えようっていうのが、『ポケモン』の最初のきっかけだったんだよね。
——う一ん。僕が『ポケモン』の話を聞いたのは、「ED」っていうゲーム雑誌で働き初めてた頃なんですけど。
田尻: ああ、はい。
——その節は、お世話になりました(笑)。で、そのとき僕はゲームフリークのプロダクトとい、つのは、すごく好きで遊んでいたんですよ。それは、僕らみたいな「ゲームずれ」している人が喜ぶプロダクションを作る会社っていうイメージが大きくて。
田尻: ああ、なるほどね。
——なんですけど、『ポケモン』は、たとえば「コロコロ」とがっちり組んでプロモーションをしていたり、低年齢層向けの展開がすごく目立つように見えたんですね、本当のところを言うと。(※36) 「うわ、そう来るんだ」って。それはやっぱり遊び手の幅を広げるためというか、そこにチャレンジしようっていう意図だったんですか?
田尻: このゲームの本当の面白さは、通信ケーブルを繋いだときに、「ああ、こういうゲームの仕組みもあったのか」と、ちよつとゲームの世界観が変わるところにある。それは、地道に口コミで知らせていくしかないんだけども、同時に『ポケモン』の面白さをプッシュするようなタイアップをやりましょうっていうプレゼンテーションを、いろんな雑誌に、かなり複数やったんです。それはほとんど断られてしまったんだけども、当時「コロコロ」の副編集長だった久保さんが「じやあ、うちでやりますか」って言ってくれて。(※37) そういうわりと一期一会的な偶然もあった。ただ、小学館側が考えていたタイアップのイメージってい、つのは、『ポケモン』の漫画を連載するとか、そういう露出で「『ポケモン』の世界は面白いぞ」ってアピールをする感じだったんだけども、僕の狙いはちよつと

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※36: '78年、小学館より創刊された子供向けコミツク誌(正式名称は「コロコロコミック」。「ドラえモン」「パーマン」といった人気コミックを連載すると同時に、ホビー情報も充実。小学生への影響カは大きく、ミニ四駆ブー厶、ポケモンブー厶の火付け役となった。
※37: 現•小学館キャラク夕ー事業センターセンター長の久保雅一氏のこと。小学館に入社後、雑誌「てれびくん」の編集部などを経て、コロコ口コミック編集部に在籍。『ポケットモンスター』の頃は、副編集長を務めていた。『ポケモン』のメディアミツクス展開を推し進めた中心人物のひとり。

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違ってたんだな。
——それはどんなふうに?
田尻: たとえば、A君とB君がいて通信でモンスターを交換すると、A君の持っていたものがB君のところに来る。で、そのB君がC君と会って交換すると、A君の持ってたものが今度はC君のところに行く。つまり、A君の知らないところで、自分が関わったポケモンが生きている——パラレルワールドのどこかで生きている可能性がある。そういうことが面白いんだ、と。で、それが一番はっきりわかるには、普通にゲームをしていては絶対に出てこないポケモンをひとつ設定しておいて、それをゲームフリークの開発部で生まれさせる。で、それを交換して出すと、さっき言ったように一度手を離れてしまえば、そのポケモンは勝手に育っていくし、相手の人の図鑑も新しく開いてくから……。
——痕跡が残っていくっていう感じですね。
田尻: それで新しい価値観に目覚める、と。そのアイディアが、ミュウっていうポケモンに繋がるわけだけども。自分としては、ゲームフリークで常にミュウを生産し続けて、みんなが集まる交換会のようなところでミュウを提供する。そのことで、「あ、交換してよかった」っていう楽しみを提供するってイメージだったんだよね。もう少しゲリラ的とい、つか、こぢんまりした感じで。
——下北沢発のミュウみたいな(笑)。
田尻: そうそう(笑)。キャラバンみたいにいろんなところをまわって、交換して……。それが都市伝説みたいな感じで、実は151匹目のポケモンがいるらしいよ、と。しかも、どんどん話に尾ヒレがついて、ゲームのどこかで〇X〇Xすると出てくるとか、コイキングを何十匹釣るとどうこうみたいな話になって(笑)。
——デマが流れる。ちょうど『ゼビウス』みたいな感じで。
田尻: そういう話で盛り上がると、それはそれで面白いなと思って。どっちに行くかなと思ってたんですけど、最終的にはイベントでミュウをもらうっていう感じに落ち着いたんですね。
——じやあ、僕の見方——小学生を狙ってるんだって印象は、かなりうがってたんですかね。
田尻: そうねえ……。当時の僕は、アクション

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ゲームに限界を感じてたんですよ。僕はゲームセンター野郎の固まりみたいなヤツで、その膨大な知識をテコにゲームを作っていくんだと思っていたし、遊んでいくんだと思ってた。でも同時に、ゲームはあまり市民権を得ていないとも思ってたんですよ。(※38) 『スーパーマリオブラザーズ』なんかはすでに出てたし、面白いとも言われてたんだけども——なんていうかな、っまり、ごく一般のゲームに全然詳しくない人に「ゲームに興味を持ってますか?」って聞いても、「動きが速くて」とか「難しくて」とか、「アクションゲームはすぐに終わっちやうから」とか、そういう紋切り型の反応が多い。これを越えるのは非常に困難だなと思ってたんだよね。だから僕としては、子供向けのゲームを作るとい、つよりは、そこを突破する——それこそ、その辺を歩いているおばちやんに「ちよっとちよつと。これ、なんだけどさあ」って(笑)。
——あはは(笑)。
田尻: 出し抜けに『ポケモン』を見せて、「ここに人が歩いているんだけど、草むらからこんなモノが」って話をして(笑)、そのおばちやんが「どれどれ」って興味を持つんだったらいけるんじやないか。
——逆にいうと、そこまでいかないと、どうにもならないだろうっていう。
田尻: アクションゲームとか、中世の騎士団が出てくるようなロールプレイングゲームしかないような当時の状況で、ゲームセンタ—野郎が、このまま鬼のように難しいゲームを作ってもねっていう。「鬼のようだなあ」とは言われても(笑)、ちよつと……。
——満足しない。
田尻: そうだね。もう少しゲームの世界をよくしたいってい、つふ、つに思ってましたから。

『クインティ』の底に流れるパンキッシュな気持ち

——とはいえ、実際のところ、今世界で何百万本とか売れちやっているわけですよね。田尻さん御自身は街を歩いてて声をかけられることはないでしょうけど、作ったプロダクトは、社会現象になっちやったわけじゃないですか。

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※38: '85年に任天堂から発売された、傑作アクションゲー厶。横にスクロールする画面構成に、気持ちのよいジャンプアクションという組み合わせは圧倒的に楽しく、かつ斬新だった。日本だけでなく世界中で支持されたこのゲー厶は、ファミコンブー厶を引き起こす。

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田尻: そうね。
——ここ(ゲームフリークの会議室)にも、『ポケモン』の関連グッズがズラっと並んでいますけど、たぶん、御本人も把握できないくらいの商品が流通してるんだろうし。
田尻: だから、個人で責任が取れる範疇を超えたってことだよね。そこは、非常に複雑ではある。たとえばデビュー作の『クインティ』なんかは、もう少しパンキッシュな気持ちでつくってたわけだし。 (※39)
——こう、ゲームの世界に殴り込みをかけるような。
田尻: そう、当時は画面がスクロールするゲームばっかりだったから、「画面が動かないと、お前ら気が済まんのか」とかさ(笑)。
——あはは(笑)。
田尻: 2メガ4メガって、スペック自慢するのはいいけど、キャラの足が開いたり閉じたり、2パターンでピコピコ動いているから、ゲームのことを親に〃ピコピコ〃とか言われるんだよ、みたいな(笑)。もっとしなやかに動かんのかとか、そういう憤り、パンクな感じがあった。
『クインティ』っていうのは、インディペンデントで、あれも3年くらいかかったソフトなんだよね。スクロールはしないけど、ゲームバランスはかなり緻密に計算してあって——1980年あたりの、たとえば『ミサイルコマンド』みたいに、上を目指そうと思えばどこまでも上へいける、頂点が見えない難しさっていうかな。(※40) そういう場を、いくらでも用意できるようなシステム。そこをつくりたかったんだよね。結局『クインティ』は、ゲームが好きな人には「あれはよかった」って褒めてもらえるものになったけども、当時それくらいの情熱でやろうとしてたのは、やっぱり、世界を変えるくらいのゲームを作ってやろう、と。それくらい生意気に思ってやってたわけで。
——憤りをパワーに変えるっていうか。
田尻: それが結果、20万本出て。20万本といえば僕は結構、ヒットだと思うんです。ビジネスとして、キチンとしたスケールの商売だと思うんだけど。
——そうですね。
田尻: ただ、『ポケモン』の完成前夜の頃、自

※39: '89年、ナムコより発売された、ゲー厶フリーク制作の第1作。この時期には珍しい固定1画面のアクションパズルゲー厶で、ステージ上にいる敵キャラクターをすべて倒せば、ステージクリアとなる。練り込まれたステージ構成に、アクションの面白さをミツクス。田尻自身の原点ともいえる作品。
※40: '80年、アタリより発売されたアーケードゲー厶。トラックボールを使用した珍しいゲー厶で、上空から画面下の都市に向かって降ってくるミサイルを次々と撃ち落としていく。単純だが、奥の深い内容。

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分がそういう生意気な思いで情熱をかけてやつたことが、どのくらい認められたかとい、っと、ちよつと怪しい。そのことが、『ポケモン』で自分の原体験、ゲーム以前の経験までさかのぼって、つくることになるきっかけになるんだよね。つまり、それまではやっぱり、俺はゲームの歴史を引き継いで作っていくし、変えていくんだと。ある意味、ゲームの系統樹を自分で作っていくんだと思ってた。でも、そこで落とし穴になりやすいのは、ゲームからゲームを作るということは、縮小再生産になる可能性がある。そこに無意識のうちに警戒心が働いて、アクシヨンゲームじゃない、その辺のおばさんに「ちよっとこれ見てくれよ、面白いからさ」って通用するよ、つなものにしなくちやならないだろう、と。今の世界が舞台で、自分だったり、自分の子供だったり家族とか、近所の人が出てくる。だけどやがて、視野が世界に広がっていくっていうゲームであれば、それは世の中を変える可能性があるんだよ。

今の自分にはゲーム以外の膨大な知識が必要だ

——う一ん。いや僕は、『ポケモン』が十分にゲームの世界を変えたと思うんですよ。同じ話の繰り返しになっているような気もしますが(笑)。
田尻: うん。だから、純粋な気持ちでつくるっていうことを卒業しないといけない時期になつてると思うんだな。
——アマチュアリズムの延長でゲームはつくれない?
田尻: それをやるんなら、『ポケモン』以外の物をつくるしかないよね。ものの考え方としては、自分が『ポケモン』をつくらなければ、どういう姿勢でゲーム作りに取り組んだであろうかとかさ。そういう別の可能性を探っていくのは、ありだから。
——実は今、やっている最中とか?
田尻: う一ん。何気に考えてはいるんだけども。かといって『ポケモン』をこれまで支持してき

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てくれた人たちに対しても、責任を負うつもりでいるし。僕はそういう、ちよつと生意気な、大層な気持ちでつくっている男ではあるんだけども。ただ『ポケモン』以外のものをつくるのは、それはそれで時間が掛かることになるんだろうな。
——これまでの自分の経験を反映させてゲームをつくるって意味でいうと、たとえば、ジョン・ウォーターズが好きな田尻智なんかは、『ポケモン』には入っていないわけですよ。(※41)
田尻: そうねえ(笑)。
——オカマが主演の映画のような毒はない(笑)。(※42) でも、そういう部分は実は「パックランドでつかまえて」には入ってるんじやないかな、と思ったんですよね。たとえば、変名でやるとかって可能性はないんですか?
田尻: そういう可能性はあるかな(笑)。でも、ジョン・ウォータ—ズだってさ、「『ピンク・フラミンゴ』は素晴らしい」って今でもファンに言われるんだろうけど、またああいうのをつくってくれとは言えないよね。「また犬のクソを食うところを撮って、フィルム持って全米を回れっていうのか」っていう(笑)。
——あはは(笑)。『ピンク•フラミンゴ』は別としても、たとえば『クライ・ベイビー』だったり、『アイ•ラブ・ペッカー』だったり、いろんなやり方があるんじやないかなと思うんですよね。(※43) (※44) 大人になった田尻さんがアマチュアリズムに立ち戻って作品を出す——それこそ『ポケモン』でいろんな権利関係だったり、ゴチャゴチャしたものを経験した体でつくってもらえれば、それは楽しいだろうと思うんですよね。それは、とても見てみたい。
田尻: そうかあ。そういうのを期待してくれる人がいるなら、ちよつと嬉しいねえ(笑)。やる気になるねえ。
——やっぱり、会社の社長さんになられてしまっては、僕らとしてはつまらないんですよね、正直に言うと。
田尻: 自分のダークサイドは、あまり人に見られる場所では出さないように心掛けるようになったからねえ(笑)。それが大人になることなのかなあって思ってたし。とはいえ、隠してはいるが、別に悪趣味は消えたわけじやないから

※41: '46年、アメリカのボルティモア生まれ。映画監督。'72年に発表したカルト映画『ピンク•フラミンゴ』で-躍有名となり、そのあとも『ポリエステル』や『クライ・ベイビー』といった怪作を次々と発表。アメリカの中産階級を中心に据えた、悪意とユーモアに満ちたその作風は唯一無二。
※42: 映画『ピンク・フラミンゴ』のこと。主演を務めたディヴァインは、超肥満体のニューハーフ。その異貌と圧倒的な存在感は、この映画を観たすべての観客にトラウマを残す。
※43: ジョン・ウォーターズが'90年に発表した、ジョニー•デップ主演の青春映画。'50年代のボルチモアを舞台に、不良少年とお金持ちのお嬢様の恋愛模様を描く、ある

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ねえ(笑)。
あはは(笑)。そういうことを考えたことはないですか?
田尻: 考えたりするよ。あとはどっちにしろ、自分にとって、ゲーム以外の膨大な知識が必要だってことだよね。さっき言ったように、初期の作品に何がしかを感じてくれる人がいるのは嬉しいことだけど、ただやっぱり、僕自身がゲーム以外で楽しいと思ったこととか、怖いと思ったこと、死ぬと思ったようなこととか、そういういろんなものがゲームで表現できればゲームになるだろうし、本に書いてもいいっていうなら、書くチャンスもあるかもしれない。
——たとえば『ポケモン』以降、マスコミに全然出られなくなりましたよね。こ、つい、つふうにインタビューを受けていただくことも珍しいと思、つんですけど。
田尻: 非常に珍しいです(笑)。
——ありがとうございます(笑)。それはやつぱり自制したんですか? (※45)
田尻: そうだね。たとえば、アニメで起きた視覚過敏性の問題があったじゃないですか。ああいうときに、自分がそういう知識とか経過をきちんと知っていて、合理的に答えられなければ、あらぬ誤解を受ける可能性があった。取材したいっていう要請は当時もたくさん来たわけで。でも実際には、イギリスでも似たような事件があって、対応策のモデルケースを学習しに行ったりとか、結局、ああいう事件を相対化して客観的に話せるようになるまでには結構、時間がかかったんだよね。それに、『ポケモン』に関しては——これはもともとなんだけど、これだけ売れると、そういうことが多すぎるんだよ、本当に。海外で「俺の考えていたゲームに似ている」とか(笑)、言ってみるヤツがいたりとかさ。そういうことに感情的になったりとか、その場の雰囲気だけで答えると、自分自身が痛い目にあうっていうのはいい加減に学習したからね。だからまあ、さっき話したように、ゲームそのものよりも僕の趣味とか、つくってる背景になっていることについて、自分の責任の範囲でものを言うんなら構わないんじやないかな。
——だって、田尻さんはもともとは、ライタ—

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意味、ウオーターズ版『ロミオとジュリェット』。全編に使われる口カビリーの悲しい音色に、胸が痛む。
※44: '98年。ひよんなことから天才写真家に祭り上げられた青年と、彼をめぐる人々の騒動を描く。主人公のペッ力ーには、ジョン•ウォーターズ自身の想いが見事に映し出されており、舞台であるボルチモアの情景とあいまつて、彼の作品中、もっとも自伝的な色合いの濃い1本。
※45: '97年12月16日の夜、放送中のテレビアニメ『ポケットモンスター』を見ていて、気分が悪くなったり、けいれんを起こした600人以上の子供たちが病院に運ばれるという事件が起こった。原因は、番組中に約4秒間続いた赤と青の光の点滅と推定され、各メディアで取り上げられる騒ぎとなる。テレビ局を初め、各方面で対策が練られ、テレビアニメの演出のあり方にー石を投じることとなつた。

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ですからね。言いたいことがあって、世の中に出てきたわけだから(笑)。
田尻: そうそう。
——ぜひ、ここら辺で現場復帰を(笑)。
田尻: いや、本当、そう思うよ(笑)。

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