Pokemon Story/Chapter 2/Subchapter 1: Release

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1 リリース

期待されなかったソフト

ゲームボーイ用ゲームソフト『ポケットモンスター』は、閏年でオリンピックイヤ—だった1996年2月27日火曜日、任天堂から税抜き価格3900円で発売されました。静かな発売初日でした。全国どこにも徹夜組の姿はなく、混乱した売り場があったという報道もありませんでした。
発売日にあわせて、任天堂はTVCFを制作して流しています。かなり異色でした。ゲームソフトのCFといえば、通常は映像メディアの特性を生かしてアニメやCGをフルに活用し、ゲームの世界をいかに魅力的なイメージで視聴者に伝えるかに焦点を絞って制作されます。ところがポケモンのそれはまったく逆でした。ゲームソフトのCFというよりも、通信ケーブルのCFと呼んだ方がふさわしい内容でした。女の子が公園らしき場所で、通信ケーブルをぐるぐる振り回して対戦相手(交換相手)を探しているという実写映像で、ゲームの中身はといえば、杉森がデザインした数多の魅力的なポケモンたちのごく一部が紹介されているだけでした。

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ポケモン赤
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ポケモン緑
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欲がないといえばまことに欲のない作り方でしたが、逆にテーマ性の点では、それが視聴者に伝わったかどうかは別にして、これ以上正直にテーマを打ち出した作り方もありません。制作者がこのCFによって、つまり実写映像と通信ケーブルを強調するCFによって、ゲーム世界のイメージではなく現実世界のコミュニケーションが可能なゲームだということを伝えようとしていたのは言うまでもありません。このTVCFを見るだけでも、田尻と石原が完成までの6年間、どれほど通信ケーブルというものにこだわりつづけてきたかが容易に想像できますし、自分たちがポケモンに封じ込めたそのテーマこそが、ポケモンを200万本の大ヒットゲームソフトにするカギなのだという、彼らの自信と期待と意気込みのほどが伝わってきます。このTVCFの効果があったのかなかったのかわかりませんが、話題になるほどの評価を受けることもなく、短期間のオンエアで打ち切りになりました。田尻や石原の思いとは裏腹に、『ポケットモンスタ—』は発売開始当初、商品としては、任天堂からも問屋筋からも、実はほとんど期待されていませんでした。それは、任天堂や問屋筋の期待度を如実に示す、初回出荷本数からも明らかでした。初回の出荷本数が決まったときのことを、石原は昨日のことのように覚えています。さまざまな変更が加えられ、そのデバッグが終わり、ようやくポケモンが工場に入っ

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任天堂のTVCM
山内社長のTVCMコンセプトは、「ゲー厶問屋の親父にも商品がわかるようにCMは作る」ということだとぽくは思っています。どんなジャンルで何が面白いのか、そんな新製品情報は流通で働く人にもわかりやすく伝えなくてはならないという明確な考えです。それゆえTVCM内容は少し言葉が多く、ビジュアル先行型にはなっていません。おとなしい傾向と言えるかもしれません。ポケモン赤•緑のTVCMも同様です。とにかくキャッチーなものをというSCE ("二—コンピュータエンタテインメン卜) のCM手法とは一線を画しているように思います。ー概にどちらがいいとは言えませんが……。
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た1月のことでした。任天堂は、ポケモンの初回出荷本数を決め、川口を通して石原に伝えました。川口は京都から石原に電話しました。
「石原さん、ポケモンの出荷数が決まりましたよ」
「何本ですか?」
「赤が12万本、緑が11万5000本です」
石原は、頭の中でその合計を計算しました。すぐに答えは出ました。初回出荷本数は23万5000本だと、川口は言っているのです。石原は、思わず悲鳴を上げました。その数字が、予想していた数字からかけ離れていたからです。
「え一!なんなんですか、その数字は!ぼくたちをバカにしてるんですか!」石原がこんなことを言うのは珍しいことでした。電話の向こうの川口も、温厚さでは石原に引けを取らない人物ですが、このときは、思わず言い返しました。「そんなん、俺に言われたって、困りますよ。どういうことかは、石原さんだってわかってるはずやないですか。俺に八つ当たりしてどうするんですか」石原も、川口の言葉に重ねてさらに切り返しました。
「俺たちのこれまでの年月は、一体なんだったんですか。それ、川口さんも、知ってるじゃないですか」
「わかってますよ。けど、そんなん関係ないでしょう。出荷本数は俺に言われたって

第2章  ブレイク

困るて、そう言うてるやないですか」
もちろん、本数を決めたのが川口だと石原が思って怒鳴っているのではないことはお互いわかっていましたし、思い入れに比例して出荷本数が増える甘い商売でないこともわかっていました。川口にしても、90年のプレゼン以来ずっと見守ってきたポケモンの門出を喜んでいないわけがありません。でも、それとこれとは話が別です。石原にしてみれば、出来上がりのよさには自信がありましたし、なんといっても構想以来6年かけた超大作です。任天堂も同じように意気込んで売り出してくれるものと考えていたのでした。それを数字で裏切られた思いがして、自分たちが完成までに注ぎ込んだ精魂を思うと、誰かになにかをぶつけざるを得なかつたのです。「……田尻君には、言えないよ、これ」石原は、最後にそう言って電話を切りました。
「結局、田尻君にもちやんと言いましたけどね。そのときはすごいショックでしたから。作るときも、200万本いくようなゲームを作ろうって話をしてましたし、出来上がったときも、田尻君、これ、200万本いくよって言ってましたからね」(石原)川口はこう言っています。
「確かにね、クリーチャーズやゲームフリークとしては小さい数字なんです。当時でも、アルバイトも入れると合せて40人くらいの社員が働いていましたからね。その人

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任天堂の営業力
ここでいう営業力は、いかに発売するゲー厶の本数を流通に多く流せるかというカを指します。
任天堂の営業部隊は、TVCM同様、明確なコンセプトを持っています。ポケモンが発売前後のころは、任天堂は「初心会」と呼ばれた任天堂独自の問屋グループを持っていたのです。初心会は、任天堂がカルタなどだけを販売していた頃の問屋が中心となって構成されおり、全会員問屋は、任天堂に顔を向けて仕事をしていたといってもおかしくありません。言い換えると任天堂はカルタを売っていた頃の仲間の流通をゲー厶が主体となったからと言ってバッサリ切り捨てることはしなかったのです。その後、プレイ
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件費やランニングコストを考えると、あの数字の印税では、彼らの会社はこの先どれくらいもつんだろうっていう感じだったですからね。ポケモンがヒットしないと困るっていう状況でした。だけどねえ、それで出荷本数を決めるわけにはいきませんからね」
任天堂が決めた初回出荷本数は、予約本数とほぼ同数でした。
「12月に出来上がったとき、これは200万本いくよって言ってたのに、任天堂の営業に、注文取ったら23万本もありました、すごいですよこれは!とか言われて、がくっとなったんです」(石原) このあたりからも、石原の期待がいかに大きかったかがうかがわれますが、23万本の予約に対して同数の本数を初回出荷するのは、実はゲーム業界では珍しいことでした。これがたとえば書籍などの場合、23万部の予約が書店からあれば、それを上回る30万部を印刷しても不思議はありません。しかし、ゲームソフトの場合、そうはならないのです。そのことは石原自身がよく知っていました。
「注文数と出荷数の関係で言うと、20万の予約があれば15万、30万の予約があれば25万というように、出荷本数は予約本数を下回るようにするのが常識なんです。品物がだぶつけば、あっという間にディスカウントショップに行ってしまいますからね」(石原)

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ステーションとの戦いが激化し、時代にフィットしなくなって初心会は解散することになりますが、それまで任天堂はその独自の流通をかたくなに守ってきました。そして今も任天堂の流通はその色を残しています。
96年当時の任天堂の営業力はダントツでゲー厶業界最大でした。ポケモン赤・緑合計初回出荷数23万5000本は、任天堂だから出てきた数字だと言える思います。
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第2章  ブレイク

そんな事情はわかっていても、完成までの不眠不休でゲームに向かった半年間を思うと、いつしか夢は確信へと変化して、任天堂を含めた関係者全員が、200万本を達成しようと動いてくれるものと信じるようになっていたのでした。そうであれば、初回出荷本数は50万本、60万本という数字がでてくるのではないか……。現に、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーといった人気シリーズでは、予約90万本、初回出荷100万本というのも珍しくなかったのですから。でも、生まれたばかりのポケモンを、そうしたメガヒット作品と同列に扱えというのは、無理な相談でした。任天堂は、石原たちとは正反対の見方をしていたのです。「出荷本数は、さまざまな要素を勘案して決めるわけですよ。営業が取ってくる予約本数とか、当時のゲームボーイの実力、マーケツトへの影響力などから総合してね。そうすると、他のメーカーだと5万本とか6万本というところだったでしょうね。あの数字が上限だったと思いますよ。ですから、初回出荷本数が合計で23万5000本というのは、任天堂だからできた数字でもあったんです」川口は、さらにはっきり、こうも言っています。
「まあ、いわゆるゲームボーイのソフトという意味で、はじめは期待はされていませんでした」っまり、『ポケットモンスタ—』がゲームボーイ用ソフトであったことが、初回出

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荷本数が抑えられた大きな原因だったのです。

よみがえるゲームボーイ

たしかに時代の関心は、次世代ゲーム機に完全に移っていました。ちょうど任天堂のNINTENDO64、ソニーコンピュータエンタテインメントのプレイステーション、セガ•エンタ—プライゼスのドリームキャストが相次いで発表されてゆく時期にあたっていました。任天堂や問屋筋が、ゲームボーイ用ソフトに大きな期待をかけるという状況ではなくなっていたのです。
ゲームボーイは消えゆくべき陳腐なハードウェアだというのが、任天堂を含めた業界全体の共通認識でした。そしてそれは、ポケモンの開発も終盤にさしかかった頃から、石原にとっても大きな気がかりになっていました。ゲームボーイ用ソフトであるということが、いつの間にかポケモンのアキレス腱になってしまったのではないかという不安です。石原は言っています。
「当時のゲームボーイは、〃ポケット〃が出る前の大きいお弁当箱の方ですね。すでに10年選手に近い活躍をしてきたハードで、われわれにとっては、もうゲームボーイも終わったねって言ってもいい時期だったんですよ。だから、終わりつつあるプラッ

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任天堂スペースワールド
任天堂商品の見本市イベン卜。通常週末にかけて3〜4日間開催されています。以前は業務色が濃く「初心会イベント」と呼ばれていました。初日、2日目の平日は業者向けとされており、新製品の発表や山内社長の講演会が目玉でした。ぼくも山内社長の一時間程度の講演を聴くために講演時間に合わせ訪問した経験があります。ウィークエンドの休日はー般ユーザー向けに再構成されており、ゲー厶ファンへのサービスの場とされています。2000年度は「ときわたりポケモン・セレビイ」が来場者にプレゼントされ、10万人を越えるポケモンファンが集結しました。ポケモンの発売前、95年11
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第2章  ブレイク

トフォームに向けてソフトを作ることの怖さのようなものはあったんです」田尻にしても同じ思いでした。
「任天堂のイベントに行っても、ゲームボーイはもう地味でしたね。現場ではいろいろ大変なんだけど、業界全体の雰囲気でいくと、ゲームボーイはもう終わりだな、という暗黙の了解があって、ああ、終わったか、という感じが強かったですね」田尻がポケモンの着想を得た頃、無限の可能性を秘めているように見えたゲーム機ゲームボーイでしたが、ポケモンの開発に時間をかけている間に、時代遅れのハードという位置づけがなされようとしていたのでした。時限爆弾を抱えていたようなものですが、無理もありません。ポケモンの開発が佳境を迎えた1994年暮れからリリースされる96年初頭にかけては、パソコンとインタ—ネツトが日本で急速に普及し始めた時期に当たりますが、そのパソコンのスペックは、毎月のように高速化され大容量化して書き替えられていました。コンピュータ関連のハードの技術革新はますます加速していたのです。そんな状況下で、1980年代に作られたゲームボーイだけが、ゲーム機の不死鳥でいられるでしょうか。あり得ないはずです。しかし、石原がそんな時代の流れと逆行するかのようにポケモンに大きな期待を寄せていたのは、もしかするとゲームボーイは不死鳥かもしれないと、考え始めていたからでした。

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月のイベントでは、田尻さんの発言通り、ゲー厶ボーイッフトは会場の左端に追いやられ地味な印象は否めません。
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(写真は、大盛況の2000年8月のスペースワールド会場)
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「ポケモンの前年、1995年に、『マリオのピクロス』っていうゲームボーイ用ソフトを、ぼくは出しているんですが、5万本とか10万本も売れたら、それで満足しておきなさいよっていうマーケツト状況だったんです」ところが、これが異常に売れました。
「100万本も売れたんですよ。それで田尻君と、ゲームボーイというハードは死んでないよって話をした。みんな、引出しから引つ張り出して、電池を入れ替えて遊んでくれるよ、大丈夫だよって。そんな確信を持てたのが、『マリオのピクロス』でしたね。そのあとでポケモンを出したとき、ぼくの頭の中では、あのピクロスで100万いったんだから、こいつは200万いくかもしれないっていうのがあったんです」任天堂が『マリオのピクロス』をゲームボーイ用ソフトとして出したのは、石原と川口の独自の市場分析があったからでした。
「ぼくらにとっては、ハンドヘルド、携帯機であるということで遊びの形態が違っているという認識なんですよ。たとえば電車の中で力バンの中から取り出して電源を入れて遊んで、あ、次の駅だと思ったらセーブして終わるとか、10分あったらけりがつくとか、寝る前にちよつと1回やろうとか。一方、当時、ナンバーとかナンクロとかいわれていたパズル本が月刊20万部とか言われていたんです。だから、ゲームボーイはたしかに衰退しつつあるハードでしたけれども、われわれが作ったピクロスはよく

第2章  ブレイク

できていたので、このゲームならやってくれるんじやないかっていう気はしました。だって、雑誌っていうメディアは新しい古いは関係ないわけですからね。紙に印刷して置.いてあるわけですから。ブームじやなくて、ある種の定番商品として置かれていて、いつの間にかばらばらと売れて、1年たって計算してみたら100万本売れてましたっていうことになるんじやないかなって思ったんです。そしたらそれがまんまと当たって、なんだ、ゲームボーイ、ちやんと生きてるじゃないかと思ったわけです」任天堂も、『マリオのピクロス』の売れ行きを見て、不死鳥とまで考えたかどうかはわかりませんが、ソフトさえあれば、ゲームボーイはまだひと働きできそうだということに気づきました。ゲームボーイの生産自体は、次の川口の言葉からもわかるように、依然コンスタントに続けられていました。
「ゲームボーイのラインを絞ろうとしていたことはないです。あれは世界中で売れる商品ですから。非常にコンスタントにね。だから、ラインは確保していたんです」その一方で、ゲームボーイの世代交代は既定路線として、すでに次世代ゲームボーイの開発が始まっていました。
当時、計画されていた次世代ゲームボーイは、95年に発売されたアームシャフト型の卓上3Dゲーム機『バーチャルボーイ』に似た携帯用ゲーム機だったようですが、はっきりしません。ただ、ゲームボーイが世代交代の予定にあったことは事実です。

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「マリオのピクロス」
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©1995 Nintendo/APE inc./JUPITER Co., Ltd.
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何度も言うようですが、常識的には、もう次世代機の準備が始まっていてもおかしくない時期でした。初代ゲームボーイは、発売から6年後の95年3月時点で、全世界での累計販売台数4350万台に達し、十二分にその役割を果たしたと考えられていたからです。かつてファミコンがスーパーファミコンに、さらにはNINTENDO 64へと切り替えられていったように、ゲームボーイも、より時代とニーズに最適化した次世代機に世代交代するのが自然な流れに見えました。
その流れを『マリオのピクロス』の売れ行きが変えました。任天堂は次世代機の開発を少し先送りし、初代ゲームボーイをチューンナップしてもうひと働きしてもらうことにしました。『マリオのピクロス』が時限爆弾の時計を止め、ゲームボーイは延命したのです。
そこで開発されたのが『ゲームボーイポケット』です。
ゲームボーイポケツトは、現在販売されているゲームボーイカラーとほぼ同サイズの、文字通りポケットサイズのゲーム機です。ゲームボーイに比べふた周りくらい小さくなった印象で、もう「お弁当箱」というニックネームでは呼べなくなりました。重さも電池なしの状態で125グラムとほぼ2分の1になった上、小型化のために電池も単3形2本から単4形2本に変更されたため、電池を入れた状態では重さの印象はさらに違いました(98年のゲームボーイライトおよびゲームボーイカラーでは再

第2章  ブレイク

び単3形2本に変更。
ゲームソフトの互換性はもちろん確保されていました。通信ケーブルのソケットの形状が小さくなったので、通信ケーブルの互換性は失われていましたが、800円の変換コネクタを使えば問題なく通信できました。
ゲームボーイポケツトは、発売がポケモン発売後の1996年7月だったため、あたかもポケモンのために開発されたゲームボーイという印象がありますが、開発のきっかけは、石原の『マリオのピクロス』だったのです。
石原が『マリオのピクロス』を作ったのは、もちろんポケモンのマーケティングのためではありませんでしたが、結果としてゲームボーイポケツトというハードの登場を促し、ポケモンというソフトのヒツトを後押しすることになりました。ちなみに、名称に付けられた「ポケツト」という言葉は、箜冗時にブレイクし始めていた『ポケットモンスタ—』からもらったものでした。もうひとつ付け加えると、『マリオのピクロス』をきっかけに延期されていた次世代ゲームボーイ開発計画は、ポケモンのヒットによって跡形もなく吹き飛びました。
「新しくて面白いゲームソフトを作ってゆけば、ハードはいつまでも古うはならん」ファミコンにカートリッジ方式を採用するときの山内の言葉ですが、それをファミコンに次いでゲームボーイが再び証明したのです。

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ゲー厶ボーイポケット
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初代ゲー厶ボーイ
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話をポケモンの初回出荷本数に戻しましょう。つまるところこの数字は、一般的には悪い数字ではないが、田尻と石原にとってはあまりに少なく、任天堂にとっては、期待はできないが質の良さを考慮して、予測の幅の中では上限に近い数字だった、ということになるでしょう。

メディアも無関心だったポケモン

ゲームボーイ用ソフトであることは、ポケモンのアイデンティティに関わる重大な属性ですが、その属性のゆえに、発売元の任天堂ですら、ビジネス上の大きな成功は期待していませんでした。
任天堂が力を入れていたのは、もちろん64ビツト次世代ゲーム機NINTENDO 64(以下N64)でした。1996年6月23日に発売されたN64は、CPUに業界初の64ビットRISCチップを使用しており、プレイ中のプレーヤーの視線は高精細3D CGの世界を自由に移動できるという、高速描画性能が売り物でした。N64は、スーパーファミコンの牙城を崩そうとセガ・エンタープライゼスが94年市場に投入したセガサタ—ンの対抗機種として開発されたものです。スーパーファミコンの後継機種に位置づけられるゲーム機でしたから、また任天堂がなにかやってくれ

第2章  ブレイク

るんじゃないかと、ユーザーの大きな期待を背に誕生しました。ところが同時期にソニーが投入したプレイステーションが、かつてのファミコンをほうふっとさせる勢いで爆発的に普及したため、N64は厳しい状況におかれました。この時点でセガは、2年後の98年に128ビットRISCチップ搭載機ドリームキャストでリ夕—ンマツチを挑むまでの間、戦線離脱を余儀なくされました。残るN64も、北米市場で一時的に優位に立っただけで、世界中でプレステに圧倒されました。そのため任天堂は、不本意ながら定価を切り下げる対抗措置に出ざるを得なくなりますが、それでもプレステの勢いを止めることはできませんでした。発売以来のプレステの1人勝ちはその後も現在に至るまで続いており、発売2年後の98年には全世界の累計販売台数が2000万台を突破し、2000年7月には、ドリキャスと同じ128ビツトRISCチップ搭載機のプレステ2(同3月発売)を含めたプレイステーション全体の累計販売台数は、推計7500万台に達しています。
N64は、ファミコンと同様、山内の「他社が数年は真似できない先進性を持ったゲーム機」という目標で開発されたはずですが、結果的にその実現に失敗したのです。しかし、これらの3社4機種はいずれもスペック競争に明け暮れているだけで、フアミコンやゲームボーイのような、次世代ゲーム機の名にふさわしい、時代を画するまでのブームは引き起こすことができていないようです。

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「NINTENDO (ニンテンドウ) 64」
任天堂のスーパーファミコンの後継機種。プレイステーション、セガ•サターンがCD-ROMを記憶媒体としていたのに対し、スーファミ同様ROMチップを記憶媒体としている。2000年8月、松下電器産業との共同プロジェクトの次世代マシン「ニンテンドーゲー厶キューブ」が発表された。
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いま振り返ってみると、ファミコンやゲームボーイは、それまでわたしたちが知らなかった時間の過ごし方を提案してきたゲーム機でした。この二つと比較すれば、いわゆる次世代ゲーム機と呼ばれるハードが、市民レベルの社会生活に与えた影響はほとんどありません。それ以前の、ということはファミコンとスーパーファミコンの時代になりますが、その頃と比較して変化したのは、ビジュアルやサウンドのクオリテイだけのように思われます。家庭用及び個人用ゲーム機とゲームソフトの世界は、1983年にファミコンが切り拓いた地平の中を、まだぐるぐる回っているだけなのかもしれません。
というわけで、セガサターンに加えて、N64とプレイステーションという次世代ゲーム機3機種が出揃うことになる1996年がリリースの年となったのは、ポケモンにとっては、不運というほかありませんでした。
メディアがまったく注目しなかったのです。それがメーカー側の意向でもあったのは明白ですが、メディアというメディアが3社3機種のスペックを振りかざし、「っいに次世代ゲーム機の時代がやって来た」と盛んに消費者をあおりました。ゲームボーイという古めかしいハードのゲームソフトであるポケモンは見向きもされませんでした。ポケモンを取り上げてくれたのは、ゲーム専門誌の新作ソフト紹介欄くらいの

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任天堂対SCEの今後?
SCEはプレステ2を2000年春発売し順調に機種変更を進めているようにみえますがその道のりは決してやさしい物ではないようです。プレステ2は、プレステーとコンパチマシンという位置づけです。そうなるとプレステー用のソフトはいつまでも現役ですから店頭から無くなりません。それは言い換えると、プレステ2用のソフトがなかなかお店の棚を取れないことを意味します。また、DVDも見ることができるという新機能が付属していることから、ユーザーは本来のSCEの収益源であるゲー厶ソフ卜よりも安価な映画DVDソフトを楽しみがちです。この2点はSCEにとって
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第2章  ブレイク

ものだったのです。

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大きな思惑違いだったでしょう。
ー方任天堂はというと、ゲー厶キューブ、ゲー厶ボーイアドバンスと立て続けに新製品を発表しましたが、そのハード能力は未知数の部分が多いと言わざるを得ません。特に通信に可能性を持つアドバンスは通信スピード、サーバーなどの通信環境に左右されやすく、発売時に当初想定したことが実際できるのかどうかは神のみぞ知るところかもしれません。
ゲー厶ハード戦争は200ー年、マイクロソフト「エックス・ボツクス」の参戦でいっそう激化します。どこが生き残れるかはまったく予想ができないでしょう。
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