A Man Who Created Pokemon/p6

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田尻智年表

1965年
8月28日、世田谷区に生まれる。後に新興住宅地であった町田市に引つ越し、そこで多感な少年時代を過ごす。

1978年
『インベーダーゲー厶』に出会い、ゲー厶センター通いを始める。
これ以降、ゲー厶をやり続ける人生となる。

1980年
ユニバーサル主催のゲームアイディアコンテストに応募する。が、選外となり、参加賞が送られてきたにとどまる。

1981年
国立東京工業高等専門学校に進学。セガ主催の「TVゲームアイデア大賞」に応募。見事に優秀賞となり、賞金10万円を手にいれる。ナムコ黄金期の作品群から「ゲー厶はすべて、動詞がキーになる」という着想を得る。

1983年
同人誌「ゲー厶フリーク」を創刊(3月20日)。創刊号は、田尻自身が書いた手書きの文章をコピーし、ホッチキスで留めただけという、ごく簡単なものだった。この同人誌は、新宿にあった同人誌専門店「フリースペース」に委託という形で置かれ、さまざまな反響を呼ぶ。(以降の「ゲー厶フリーク」の歩みについては、別項「ゲー厶フリーク全バックナンバーリスト」を参照)。また「ゲー厶フリーク」を通して、盟友•杉森建と出会い、アスキーより発行されていたコンピュータ専門誌『ログイン』を中心にライター活動を開始。任天堂より家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」が発売。

1984年
「ゲー厶フリーク」が日本中にコアなファンを持つようになり、会員も増加。同人誌制作を手伝うメンバーが続々と集結する。また、「ゲー厶フリーク」増刊として、前年末に発売され話題を呼んだ『ゼビウス』の完全解析本「一千万点への解法」を発売。
この頃から、「自主制作のゲームソフト」を模索しはじめる。

1987年
ライター活動や「ゲー厶フリーク」の制作と並行しながら、『クインティ』の作業が本格化。完成に向けて動き出す。
NECホームエレクトロ二クスより〃ポスト•ファミコン〃をねらった家庭用ゲー厶機「PCエンジン」が発売に。

1989年
ファミコン用ソフト『クインティ』が完成し、ナムコへと持ち込む。とんとん拍子に話が進み、同年の6月27日に発売。20万本のヒツトとなる。12月には、『クインティ』の海外版『Mendel Palace』を発売。4月26日に「株式会社ゲー厶フリーク」を設立。代表取締役に就任。
セガから家庭用ゲーム機「メガドライブ」が、また任天堂からは携帯ゲーム機「ゲー厶ボーイ」が発売される。

1990年
『ポケットモンスター』の企画をエイプに提出。承認されるも作業は難航。同時進行で『ジェリーボーイ』なども手がける。
4月、初めての著書「パックランドでつかまえて」をJICC出版(現宝島社)より発売。

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